前回、「刑法は何故必要なのか」の記事にて私は大雑把な刑法の必要性、意義についてあくまで私なりに説明しましたが、今回はその中で取り上げた「犯罪抑止力」が死刑にもあるのかどうかについて議論をしたいと思っております。結論から言えば、私は死刑にはあまり犯罪抑止力は期待できないと考えています。
まずはおさらいですが、犯罪抑止力というのはそもそもどういった概念なのかを説明します。これは簡単に言えば犯罪に対して刑法によってリスク意識を持たせる概念で、犯罪によって得られる利益に対して捕縛された場合に受ける刑罰を意識させる事で迂闊に犯罪に走らせないようにするという考え方です。死刑でこれを説明するのは非常に簡単で、いくら殺したいほど憎い人間がいたとしても実際に殺人を犯したら死刑になる可能性があり、命惜しさに実際に殺人には踏み切らない……という風に死刑には犯罪抑止力があると言われます。
確かに誰だって自分の命は惜しいですしわざわざ死刑にされる可能性がある行為なんて誰も率先して取らないだろうと思いますが、悲しい事にこれがまるきり通用しない人間は存在すると言わざるを得ません。それはどういった人間かというと単純に自暴自棄になった人間の事で、代表的な例はかつての池田小連続殺傷事件を引き起こした犯人の宅間守で、最近だと秋葉原連続殺傷事件を起こした加藤智大など、どうせ自分も死ぬつもりだからと割り切った人たちです。これらの事件に限らず近年の通り魔事件では犯人らが一様に、「自分が死刑になるためにやった」などと、本心かどうかまでは分かりませんが自分一人では死に切れないから死刑を自殺の手段として期待するかのような動機を語る人間が増えております。
こうした死刑を覚悟して自暴自棄に殺人を犯す人間らには、残念ながら「死刑になるかも」という犯罪抑止力が働く事はまず考えられません。
また現在の日本の死刑判決には永山則夫事件以降に作られた暗黙の条件があり、例外が全くないわけではありませんが二人以上の殺人にしか適用されないとされています。そのため下衆な言い方になってしまいますが、一人までなら死刑にならないとたかを括る人間が現れかねないのではと私はかねてから考えています。ただこの点については近年厳罰化の流があり、先ほどの永山条件はなくなって今後は一人の殺人容疑に対しても動機によっては死刑判決が下りるようになるのではないかと見ています。
そして最後、果たして殺人を犯す人間はその殺人行為の際、「もしかしたら死刑になるかも」と考えるのかという点が疑問です。よっぽど冷徹な殺人者でない限りは人間は殺人を行う際には頭がいっぱいになるとされ、まともな思考は殆んど働かないと聞きます。それこそ「罪と罰」のラスコーリニコフじゃないですがあらかじめ計画していた殺人を実行している際に誰かに目撃され、咄嗟に口封じとばかりにその目撃者も殺してしまうことも十分に考えられ、こうした点を考慮するにつけて死刑はそれほど犯罪抑止力にならないのではと私は考えるわけです。
では死刑はあまり犯罪抑止に効果がないのだから廃止すべきなのか。これだとあまりにも結論が早すぎると思うのですが、死刑存廃議論だと真面目にここまでで議論を終えて廃止すべきだという意見を言う人が数多く見受けられます。特に法家に。
そういうわけで次回は、死刑を一種の社会的報復としてみる観点からその必要性について私の意見を紹介しようと思います。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2010年9月3日金曜日
2010年9月2日木曜日
上野動物園で見た外人
ちょっと今日は時間がないので、この前行った上野動物園の話をします。
八月の夏休みの最中、私はかねてから行きたかった上野動物園に行ってきました。何故上野動物園に行きたかったかというと、単純にこのところでかい動物を見ていなかったので無性に見に行きたかったからです。一緒に行ったのはうちの親父で、いい年した大の大人二人で辺りを気にすることなく堂々と入園して行きました。
さて上野動物園というとこれまでの目玉動物となると中国最強の輸出兵器だったパンダなのですが、長らく上野動物園で活躍してきたパンダは数年前に死去しており、ある意味福田康夫政権の最大の功績ともいえる中国からのパンダレンタル(レンタル料年間一億円。けどそれに勝る経済効果があると私は信じている。)も現在着々と準備が進んではおりますがまだ上野にまではまだ届いていません。それでは空いたパンダの檻は今どうなっていたのかというと、なんとパンダはパンダでもレッサーパンダが入っておりました。レッサーパンダもかわいいけど、シャレで置くというのもなぁ……。ちなみにレッサーパンダは今のパンダが見つかるまではパンダと呼ばれていて、今のパンダが見つかってからレッサー(劣る)パンダと呼ばれるようになったと聞いた事があります。
今年の夏は統計上でも最も暑い夏となっただけあって親父といったその日もシャレにならないくらい暑く、動物達も見た目にも暑くて辛そうでした。猿山では子供の猿はまだ動き回っていたものの大人の猿は日陰でじっとしており、キリンもなんかだれた感じでした。まぁ見た目が元々だれた感じだけど。
その中でちょっと面白かった事が一つあり、上野公園でおなじみの蓮の葉でいっぱいに覆われた池を渡る橋の上を歩いていると、金髪の外人の姉さん二人組が向こうから歩いてきました。蓮の葉っぱを見ながら彼女等は英語で、
「まるで傘みたい(´∀`*)ウフフ」
「トトロだー!(゚∀゚)」
「キャー!(*´∀`*)」
ってな会話してました。多分、トトロが葉っぱを傘にするシーンを見ての発言だと思います。
なんていうか、見ていてこっちも和みました。
八月の夏休みの最中、私はかねてから行きたかった上野動物園に行ってきました。何故上野動物園に行きたかったかというと、単純にこのところでかい動物を見ていなかったので無性に見に行きたかったからです。一緒に行ったのはうちの親父で、いい年した大の大人二人で辺りを気にすることなく堂々と入園して行きました。
さて上野動物園というとこれまでの目玉動物となると中国最強の輸出兵器だったパンダなのですが、長らく上野動物園で活躍してきたパンダは数年前に死去しており、ある意味福田康夫政権の最大の功績ともいえる中国からのパンダレンタル(レンタル料年間一億円。けどそれに勝る経済効果があると私は信じている。)も現在着々と準備が進んではおりますがまだ上野にまではまだ届いていません。それでは空いたパンダの檻は今どうなっていたのかというと、なんとパンダはパンダでもレッサーパンダが入っておりました。レッサーパンダもかわいいけど、シャレで置くというのもなぁ……。ちなみにレッサーパンダは今のパンダが見つかるまではパンダと呼ばれていて、今のパンダが見つかってからレッサー(劣る)パンダと呼ばれるようになったと聞いた事があります。
今年の夏は統計上でも最も暑い夏となっただけあって親父といったその日もシャレにならないくらい暑く、動物達も見た目にも暑くて辛そうでした。猿山では子供の猿はまだ動き回っていたものの大人の猿は日陰でじっとしており、キリンもなんかだれた感じでした。まぁ見た目が元々だれた感じだけど。
その中でちょっと面白かった事が一つあり、上野公園でおなじみの蓮の葉でいっぱいに覆われた池を渡る橋の上を歩いていると、金髪の外人の姉さん二人組が向こうから歩いてきました。蓮の葉っぱを見ながら彼女等は英語で、
「まるで傘みたい(´∀`*)ウフフ」
「トトロだー!(゚∀゚)」
「キャー!(*´∀`*)」
ってな会話してました。多分、トトロが葉っぱを傘にするシーンを見ての発言だと思います。
なんていうか、見ていてこっちも和みました。
2010年9月1日水曜日
刑法は何故必要なのか
ちょっとこれからまたややこしい関係の記事をしばらく投下して行こうかと思います。その第一発目として今日は、刑法の必要性について私の知る限りで解説します。前もって断っておくと私の専門は法学ではないので専門的知識を持った方からすると何だこれはと思う事も書いてしまうかもしれませんが、出来れば暖かい目でこんな考えを持つ素人がいるのだな程度に流していただければ助かります。
刑法が何故必要なのか、恐らくこう問われると大半の方は「犯罪を抑止するのに必要だから」と答えるかと思います。この答えの意味を詳しく説明すると、例えば他人から一万円を盗んで警察に捕まると罰金を課されたり、前科がつくなどしてリスクに対して得られる金額が少ないと感じて悪い気が起こらないようにさせる。そういう風に刑法というものを犯罪行為に対するリスクとして意識させる事で犯罪を未然に防ぐ効果のことを「犯罪抑止力」と呼びます。
私なんか専門が社会学なだけに人間というのは八割方打算的に行動すると考えておりますが、この犯罪抑止力なんかもまさにそのような考え方で刑法というものを規定しているように思えます。
こうした一般的な犯罪抑止力という考え方に対し、刑法というものは無限の復讐を止める手段という考え方を以前に聞いた事があります。こちらはあまり一般的な考え方ではないと思うので詳しく解説しておくと、日本ではちょっと想像し辛いのですが中東の国では文字通り、「七代に渡って祟る」という概念があるそうです。
なんでもある中東の国の中にある部族では伝統的に自分から数えて七世代上までの先祖の出自や人生などを覚えさせる風習があり、この七世代の祖先のうち誰かが殺害でもされていれば、その殺害した一族に対して復讐を行わなければならないという価値観まであるそうです。何処の国かまでははっきり覚えていませんが(確かトルクメニスタン)、それがために旧ソ連が侵攻した際には兵士達は一様に顔を隠して復讐の対象とならないようにしたそうです。
こうした風習がどう刑法に関わってくるかですが、皆さんも子供の頃に経験があるかと思いますが、友達から小突かれてお返しとばかりに小突いたら、「お前のが俺より痛かったぞ」と言ってまた小突かれて、「今のはやりすぎだぞ」といってまた小突き返したりと。
復讐、特に殺人ではこのループに陥りやすく、先ほどのある部族の例だと五世代上の先祖が誰かに殺されている一方で三世代上の先祖は誰かが殺している場合、その人間はある一族を復讐の対象とする一方で別の一族から復讐の対象になっているという事になります。またここまで極端でなくとも、親が殺されたからその殺害者を復讐して殺した場合、今度はその殺害した相手の子供に命を狙われる……そんな無限パターンもあったりするので、昔の中国の権力者なんかはよく三族皆殺しをして復讐の根を絶とうとしていました。
そのため江戸幕府では「仇討ちは一代まで」として、親がなんらかの理由で殺害された場合はその殺害者に対して子が仇討ちをする権利が認められ、殺害者を斬り殺しても罪には問われませんでした(逆に返り討ちにあった場合でも、親共々子も殺した殺害者はその殺人については罪に問われない)。その代わり、仇討ちされた者の子は仇討ちを果たした相手を殺害する事は認められず、勝手に仇討ちとばかりに殺害した場合は容赦なく刑罰が課されていたそうです。
普通に考えたってあちこちで復讐劇が繰り返されていたら殺伐として、お世辞にも住み易い社会とは言えないでしょう。そのため日本に限らず多くの社会では復讐に対して一定の制限をかけ、最終的には現在の日本を始めとした法治社会のようにいくら親類が殺されたとしても私的な復讐は認められず、裁判を通じて課される刑罰へ手段を統一していく事になりました。こうした背景から以前にあるコラムニストが、刑法というのは個人から復讐権を奪う概念であって、過度な報復となっては良くないが最低限犯罪被害者の溜飲を下げさせる効果がなくてはならないと主張しているのを見たことがあります。
復讐を行った所で必ずしも気持ちが晴れるわけではないと言う人もいますが、それでもないよりはあった方がいいと主張する人もいます。ではどれくらいの報復がそれぞれの犯罪行為に見合うのか、これは時代によって変わったりしますが私はなんだかんだいって、「詐欺をしたら懲役○年」、「窃盗をしたら罰金○万円」というように、刑法で規定された内容にいつの間にかみんな慣らされていくような気がします。もっとも最近は厳罰化機運がどこでも高まっていますが、刑法はただ単に犯罪抑止力だけでなく、無限の報復を防ぐ、被害者の意識を和らげるといった面にも注目し、考えていくのが大事かと思います。
刑法が何故必要なのか、恐らくこう問われると大半の方は「犯罪を抑止するのに必要だから」と答えるかと思います。この答えの意味を詳しく説明すると、例えば他人から一万円を盗んで警察に捕まると罰金を課されたり、前科がつくなどしてリスクに対して得られる金額が少ないと感じて悪い気が起こらないようにさせる。そういう風に刑法というものを犯罪行為に対するリスクとして意識させる事で犯罪を未然に防ぐ効果のことを「犯罪抑止力」と呼びます。
私なんか専門が社会学なだけに人間というのは八割方打算的に行動すると考えておりますが、この犯罪抑止力なんかもまさにそのような考え方で刑法というものを規定しているように思えます。
こうした一般的な犯罪抑止力という考え方に対し、刑法というものは無限の復讐を止める手段という考え方を以前に聞いた事があります。こちらはあまり一般的な考え方ではないと思うので詳しく解説しておくと、日本ではちょっと想像し辛いのですが中東の国では文字通り、「七代に渡って祟る」という概念があるそうです。
なんでもある中東の国の中にある部族では伝統的に自分から数えて七世代上までの先祖の出自や人生などを覚えさせる風習があり、この七世代の祖先のうち誰かが殺害でもされていれば、その殺害した一族に対して復讐を行わなければならないという価値観まであるそうです。何処の国かまでははっきり覚えていませんが(確かトルクメニスタン)、それがために旧ソ連が侵攻した際には兵士達は一様に顔を隠して復讐の対象とならないようにしたそうです。
こうした風習がどう刑法に関わってくるかですが、皆さんも子供の頃に経験があるかと思いますが、友達から小突かれてお返しとばかりに小突いたら、「お前のが俺より痛かったぞ」と言ってまた小突かれて、「今のはやりすぎだぞ」といってまた小突き返したりと。
復讐、特に殺人ではこのループに陥りやすく、先ほどのある部族の例だと五世代上の先祖が誰かに殺されている一方で三世代上の先祖は誰かが殺している場合、その人間はある一族を復讐の対象とする一方で別の一族から復讐の対象になっているという事になります。またここまで極端でなくとも、親が殺されたからその殺害者を復讐して殺した場合、今度はその殺害した相手の子供に命を狙われる……そんな無限パターンもあったりするので、昔の中国の権力者なんかはよく三族皆殺しをして復讐の根を絶とうとしていました。
そのため江戸幕府では「仇討ちは一代まで」として、親がなんらかの理由で殺害された場合はその殺害者に対して子が仇討ちをする権利が認められ、殺害者を斬り殺しても罪には問われませんでした(逆に返り討ちにあった場合でも、親共々子も殺した殺害者はその殺人については罪に問われない)。その代わり、仇討ちされた者の子は仇討ちを果たした相手を殺害する事は認められず、勝手に仇討ちとばかりに殺害した場合は容赦なく刑罰が課されていたそうです。
普通に考えたってあちこちで復讐劇が繰り返されていたら殺伐として、お世辞にも住み易い社会とは言えないでしょう。そのため日本に限らず多くの社会では復讐に対して一定の制限をかけ、最終的には現在の日本を始めとした法治社会のようにいくら親類が殺されたとしても私的な復讐は認められず、裁判を通じて課される刑罰へ手段を統一していく事になりました。こうした背景から以前にあるコラムニストが、刑法というのは個人から復讐権を奪う概念であって、過度な報復となっては良くないが最低限犯罪被害者の溜飲を下げさせる効果がなくてはならないと主張しているのを見たことがあります。
復讐を行った所で必ずしも気持ちが晴れるわけではないと言う人もいますが、それでもないよりはあった方がいいと主張する人もいます。ではどれくらいの報復がそれぞれの犯罪行為に見合うのか、これは時代によって変わったりしますが私はなんだかんだいって、「詐欺をしたら懲役○年」、「窃盗をしたら罰金○万円」というように、刑法で規定された内容にいつの間にかみんな慣らされていくような気がします。もっとも最近は厳罰化機運がどこでも高まっていますが、刑法はただ単に犯罪抑止力だけでなく、無限の報復を防ぐ、被害者の意識を和らげるといった面にも注目し、考えていくのが大事かと思います。
2010年8月31日火曜日
先月に死刑執行を受けた受刑者
先月に千葉景子法相が従来の自説をひっくり返して二名の受刑者の死刑執行を行った事で議論を起こし、私も当時にパフォーマンス的要素が強い上に直前の参議院選挙で千葉法相が落選している事を受けて批判しましたが、今日ちょっと思うところがあって死刑が執行された二名の来歴を調べてみたところ、下記のサイトで詳しくまとめられていました。
・宇都宮・宝石店放火殺人事件
・熊谷男女4人殺傷事件(どちらも「事件史探求」より)
思えば私もそうでしたが、死刑執行当時は千葉氏への批判ばかりで受刑者がどんな人物でどんな事件を起こして死刑判決を受けたかについてはあまり議論にならなかった気がします。
こうして改めてみてみると、篠沢一男は宝石店にて店員を脅して貴金属を奪うと、店員らを縛りつけた上で店に火を放ち六人もの人間を殺害しています。尾形英紀は付き合ってた女性の要請を受け女性の二股相手だった男性を殺害し、さらには同じアパートに住んでいた何の関係もない男女三人を口封じのために殺傷しています。
両方の事件とも調べなおすまではすっかり忘れていましたが、改めて上記サイトの記事を読んでみると、「そういえばこんな事件、あったなぁ」と記憶が持ち上がってきました。私が十代の頃、死刑執行が行われて受刑者がどんな人物だったかについてニュースで解説が行われるものの大抵の事件は私が生まれる前に起きていた事件だったためいまいち実感が覚えなかったのに対し、さすがに二十代の今ともなるとリアルタイムで事件を見ていることもあり刑罰の実感が感じられるようになってきました。
それを踏まえた上で正直な感想をいえば、千葉氏が死刑執行を行った事について当然の行為を行っただけだったのではという思いが浮かんできました。それとともに、数ある死刑受刑者の中からどうしてこの二人が選ばれて死刑が執行されたのかも少し気になりました。まぁ恐らくは法務省が順番つけたリストを渡しただけでしょうが。
死刑についてはまた連載で詳しく書こう書こうかと考えていながら未だになかなか書けないでおりますが、死刑が何故必要なのかという意見の一つに、「犯罪行為に応じて重い刑が課されることで、犯罪への抑止効果を作ると共に国民に公平感、納得感を持たせる」というものがありますが、かねてから日本の死刑は事件発生から執行まで時間がかかり過ぎ、そのような抑止効果は生まれないのではという批判がありました。図らずも今回の死刑執行ではまさにそのような印象を私は覚えたので、やはりこういったものは執行という事実報道共に死刑までの背景も詳しく取り上げておくべきでした。
・宇都宮・宝石店放火殺人事件
・熊谷男女4人殺傷事件(どちらも「事件史探求」より)
思えば私もそうでしたが、死刑執行当時は千葉氏への批判ばかりで受刑者がどんな人物でどんな事件を起こして死刑判決を受けたかについてはあまり議論にならなかった気がします。
こうして改めてみてみると、篠沢一男は宝石店にて店員を脅して貴金属を奪うと、店員らを縛りつけた上で店に火を放ち六人もの人間を殺害しています。尾形英紀は付き合ってた女性の要請を受け女性の二股相手だった男性を殺害し、さらには同じアパートに住んでいた何の関係もない男女三人を口封じのために殺傷しています。
両方の事件とも調べなおすまではすっかり忘れていましたが、改めて上記サイトの記事を読んでみると、「そういえばこんな事件、あったなぁ」と記憶が持ち上がってきました。私が十代の頃、死刑執行が行われて受刑者がどんな人物だったかについてニュースで解説が行われるものの大抵の事件は私が生まれる前に起きていた事件だったためいまいち実感が覚えなかったのに対し、さすがに二十代の今ともなるとリアルタイムで事件を見ていることもあり刑罰の実感が感じられるようになってきました。
それを踏まえた上で正直な感想をいえば、千葉氏が死刑執行を行った事について当然の行為を行っただけだったのではという思いが浮かんできました。それとともに、数ある死刑受刑者の中からどうしてこの二人が選ばれて死刑が執行されたのかも少し気になりました。まぁ恐らくは法務省が順番つけたリストを渡しただけでしょうが。
死刑についてはまた連載で詳しく書こう書こうかと考えていながら未だになかなか書けないでおりますが、死刑が何故必要なのかという意見の一つに、「犯罪行為に応じて重い刑が課されることで、犯罪への抑止効果を作ると共に国民に公平感、納得感を持たせる」というものがありますが、かねてから日本の死刑は事件発生から執行まで時間がかかり過ぎ、そのような抑止効果は生まれないのではという批判がありました。図らずも今回の死刑執行ではまさにそのような印象を私は覚えたので、やはりこういったものは執行という事実報道共に死刑までの背景も詳しく取り上げておくべきでした。
円高の別の側面
ちょっと前にこの関連で記事を書いたので、一つ私と同じような意見が書かれたこの記事を紹介しておきます。
「円高」で得をしているのは誰か?(msnマネー)
書かれている内容は円高円高と大騒ぎの現在の日本ですが、円高で損だけではなく得する日本人もいるということが書かれ、実際にはそこまで問題は大きくないという主張です。私もこの意見にはほぼ同感で、記事を抜き出すと
まず、日本のメディアについてはもう「為替病」としか言いようのない状況と筆者には見えます。もはや円高の損得や、はたして今の状況が円高なのか円安なのかまったく吟味せず、単純に(名目の)米ドル/円レートが過去と比べてくらべて数字が小さくなってきたので、条件反射的に「円高=日本にとって損」と決めつけ、何も考えずにそういっているだけのように思えます。
あんまり持ち上げすぎてもしょうがないですけど、経済の原則論から言えば私は今の円高といわれる状態の方が自然だと思うし、むしろこの円高を食い止めようとするほうが史上をゆがめる事になるんじゃないかとすら思います。
さて今回取り上げた記事の本題である「円高で得する人」についてですが、私が挙げるとしたらやっぱり中国から商品を輸入している小売業の人たちがメインかと思います。実際に大手スーパーなどではこのところ円高ということで円高還元セールなどをやっておりますが、私はこういうときくらいはいちいちこういうセールをせずに小売業の人間は利潤を稼いだ方がいいような気がします。
その理由は二つあり、ひとつは現在の小売業は「バイトじゃなきゃ無理」と就活生にまで言われるほど厳しい競争でお互いでお互いが淘汰し合う共食い状態にあることと、円高セールを行う事でよりデフレが加速していく恐れがあるからです。
二番目のデフレ加速についてはこれまでにも何人かが指摘しておりますが、国民も悪いですが波に乗る小売業も問題で、もはや自分達が稼ぐというよりは如何に他店を潰すかという経営方針では共倒れになる事は自明です。とはいってもデフレ下ではなかなか抜けられないもの事実なので、せめて円高で利潤が増えると言うのならお互い黙ってもらっとく方が全体にいいというのが私の意見です。
あと前回の記事でも書きましたが、円高で損する人もいれば得する人もいて当たり前なのです。それをなんでもかんでも損損と後ろ向きに見ないで、もっとポジティブな面に目を向けないと日本全体で暗くなってしまいます。もう一つ突ついておくと、円安になると今日ここで取り上げた小売業の人はもちろん苦しくなりますがたとえそうなっても彼らが可哀想だとは誰も言いません。その一方、円高になると自動車産業の連中は大変だ大変だと言われ、わざわざ国からお金を出してもらって購買補助がなされます。いつまでもこんな事続けてちゃいけない気がするのですが、経団連はおそらく購買補助政策の継続を訴えてくんだろうな。
「円高」で得をしているのは誰か?(msnマネー)
書かれている内容は円高円高と大騒ぎの現在の日本ですが、円高で損だけではなく得する日本人もいるということが書かれ、実際にはそこまで問題は大きくないという主張です。私もこの意見にはほぼ同感で、記事を抜き出すと
まず、日本のメディアについてはもう「為替病」としか言いようのない状況と筆者には見えます。もはや円高の損得や、はたして今の状況が円高なのか円安なのかまったく吟味せず、単純に(名目の)米ドル/円レートが過去と比べてくらべて数字が小さくなってきたので、条件反射的に「円高=日本にとって損」と決めつけ、何も考えずにそういっているだけのように思えます。
あんまり持ち上げすぎてもしょうがないですけど、経済の原則論から言えば私は今の円高といわれる状態の方が自然だと思うし、むしろこの円高を食い止めようとするほうが史上をゆがめる事になるんじゃないかとすら思います。
さて今回取り上げた記事の本題である「円高で得する人」についてですが、私が挙げるとしたらやっぱり中国から商品を輸入している小売業の人たちがメインかと思います。実際に大手スーパーなどではこのところ円高ということで円高還元セールなどをやっておりますが、私はこういうときくらいはいちいちこういうセールをせずに小売業の人間は利潤を稼いだ方がいいような気がします。
その理由は二つあり、ひとつは現在の小売業は「バイトじゃなきゃ無理」と就活生にまで言われるほど厳しい競争でお互いでお互いが淘汰し合う共食い状態にあることと、円高セールを行う事でよりデフレが加速していく恐れがあるからです。
二番目のデフレ加速についてはこれまでにも何人かが指摘しておりますが、国民も悪いですが波に乗る小売業も問題で、もはや自分達が稼ぐというよりは如何に他店を潰すかという経営方針では共倒れになる事は自明です。とはいってもデフレ下ではなかなか抜けられないもの事実なので、せめて円高で利潤が増えると言うのならお互い黙ってもらっとく方が全体にいいというのが私の意見です。
あと前回の記事でも書きましたが、円高で損する人もいれば得する人もいて当たり前なのです。それをなんでもかんでも損損と後ろ向きに見ないで、もっとポジティブな面に目を向けないと日本全体で暗くなってしまいます。もう一つ突ついておくと、円安になると今日ここで取り上げた小売業の人はもちろん苦しくなりますがたとえそうなっても彼らが可哀想だとは誰も言いません。その一方、円高になると自動車産業の連中は大変だ大変だと言われ、わざわざ国からお金を出してもらって購買補助がなされます。いつまでもこんな事続けてちゃいけない気がするのですが、経団連はおそらく購買補助政策の継続を訴えてくんだろうな。
2010年8月29日日曜日
カー雑誌の悲哀
私自身はそれほど自動車は運転しませんが(、暇な時や長時間の移動をする際にはよくカー雑誌を購入しては読んでたりします。そんなカー雑誌を読むたびにこの頃思うことなのですが、記事に登場する車がどれも古くてこれでは新規の読者、年代的には中学、高校生は手に取らずにおっさんにしか読まれないだろうと強く感じます。
雑誌の種類にも由りますが、一般的にはカー雑誌はスポーツカーを多く取り上げる媒体です。しかしながら最近はスポーツカーに憧れる若者が減っており、またそういったかっこよさを追い求める車以上に燃費のよい車に注目が集まるようになり、どうにも読者の関心が雑誌のスタイルと適合していないように思われます。さらにいえば自動車メーカー自体がこのところ余力がなくなってきて、スポーツカーの販売数を減らしてきております
カー雑誌編集部の方からすると取材で取り上げる車の数が減る事はそれだけでも大変なことでしょう。では現在のカー雑誌は主にどんな車を取り上げて記事を書いているのかというと、書いてて笑っちゃいますが全ページの半分以上にすでに生産が中止されている車の名前が出てきております。
私がよく買っているのは「ベストカー」という雑誌ですが、この雑誌がよくやる特集記事に「○○対××」というように二台の車の性能を評論家が多方面から比較するものがあるのですが、こういった特集記事に頻出してくる車は「マツダRX-7」や「ホンダインテグラ」、果てには「トヨタAE86」など走り屋に愛されていたもののすでに生産が中止され、現在までニューモデルが出ていない生産中止車ばかりです。まぁ「ベストカー」について言えば明らかに他社の車より贔屓されて持ち上げられている「三菱ランサーエボリューション」が未だにニューモデルが出され続けている事は救いですが。
カー雑誌記者の方でも特集するスポーツカーがメーカーから新規に販売されないために記事の書きようがないのはわかりますが、ただこういった特集する車に普通に「日産スカイラインGTR(R32)」が出てくるほど古いのばかりだと新規の読者はなかなか獲得できないでしょうし、おっさんばかり相手してても先細って行く一方でしょう。
そういう意味では、ようやく発売日が今年の11月に決まった「グランツーリスモ5」といったゲームや「頭文字D」などといった漫画は、こういった古いスポーツカーなどを比較的若い世代に親しませられることができ、おっさん向けの雑誌を私のような20代でも手に取るきっかけになる事が出来ます。
まぁこういうものはいくらメーカーや雑誌社がプッシュしてもヒット作が出るものじゃないので登場を期待するのは酷ですが、自動車業界に限らず現在何処の業界でもファン層の拡大よりターゲット顧客層の絞込みが行われてばかりなので、こういった夢が広がりそうな分野くらいはどんどんと外に訴えて行ってもらいたいものです。
余談ですが、漫画の「頭文字D」で「三菱ランサーエボリューション」は大抵ガラの悪い敵役の車として登場し、ちょっと調べたらトヨタ系やマツダ系と比べてランエボだけ悪く書かれすぎじゃないかという意見まで出ているそうです。私個人の意見だとやっぱ良い意味でモノがモノだけにランエボは主役機にはなれず、こうした敵役の車にならざるを得ない気がします。ランエボでシビックとかに勝ってもだから何って話になるし。
雑誌の種類にも由りますが、一般的にはカー雑誌はスポーツカーを多く取り上げる媒体です。しかしながら最近はスポーツカーに憧れる若者が減っており、またそういったかっこよさを追い求める車以上に燃費のよい車に注目が集まるようになり、どうにも読者の関心が雑誌のスタイルと適合していないように思われます。さらにいえば自動車メーカー自体がこのところ余力がなくなってきて、スポーツカーの販売数を減らしてきております
カー雑誌編集部の方からすると取材で取り上げる車の数が減る事はそれだけでも大変なことでしょう。では現在のカー雑誌は主にどんな車を取り上げて記事を書いているのかというと、書いてて笑っちゃいますが全ページの半分以上にすでに生産が中止されている車の名前が出てきております。
私がよく買っているのは「ベストカー」という雑誌ですが、この雑誌がよくやる特集記事に「○○対××」というように二台の車の性能を評論家が多方面から比較するものがあるのですが、こういった特集記事に頻出してくる車は「マツダRX-7」や「ホンダインテグラ」、果てには「トヨタAE86」など走り屋に愛されていたもののすでに生産が中止され、現在までニューモデルが出ていない生産中止車ばかりです。まぁ「ベストカー」について言えば明らかに他社の車より贔屓されて持ち上げられている「三菱ランサーエボリューション」が未だにニューモデルが出され続けている事は救いですが。
カー雑誌記者の方でも特集するスポーツカーがメーカーから新規に販売されないために記事の書きようがないのはわかりますが、ただこういった特集する車に普通に「日産スカイラインGTR(R32)」が出てくるほど古いのばかりだと新規の読者はなかなか獲得できないでしょうし、おっさんばかり相手してても先細って行く一方でしょう。
そういう意味では、ようやく発売日が今年の11月に決まった「グランツーリスモ5」といったゲームや「頭文字D」などといった漫画は、こういった古いスポーツカーなどを比較的若い世代に親しませられることができ、おっさん向けの雑誌を私のような20代でも手に取るきっかけになる事が出来ます。
まぁこういうものはいくらメーカーや雑誌社がプッシュしてもヒット作が出るものじゃないので登場を期待するのは酷ですが、自動車業界に限らず現在何処の業界でもファン層の拡大よりターゲット顧客層の絞込みが行われてばかりなので、こういった夢が広がりそうな分野くらいはどんどんと外に訴えて行ってもらいたいものです。
余談ですが、漫画の「頭文字D」で「三菱ランサーエボリューション」は大抵ガラの悪い敵役の車として登場し、ちょっと調べたらトヨタ系やマツダ系と比べてランエボだけ悪く書かれすぎじゃないかという意見まで出ているそうです。私個人の意見だとやっぱ良い意味でモノがモノだけにランエボは主役機にはなれず、こうした敵役の車にならざるを得ない気がします。ランエボでシビックとかに勝ってもだから何って話になるし。
2010年8月28日土曜日
石川啄木と金田一京助
働けど働けどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る
格差社会、といってもそれ以前から何かしら貧困エピソードが出るたびに引用されておなじみのこの有名な和歌ですが、作者は言うまでもなく明治の詩人である石川啄木です。この和歌を始めとして暮らしの困窮について表現する和歌を多く作っていたことや、死後になって友人らから作成、出版された「一握の砂」によって名を残したという事から、石川啄木は生前には全く評価される事のなかったゴッホと比較されるなど一般的には不遇の詩人としてよく紹介されます。
しかし事実はさにあらず、近年には大分浸透して来ましたが石川が生前に貧乏な生活をしていたということは本当ではあるものの、その困窮は不遇というよりは彼自身の放漫な性格による行動の結果だったと言われております。
石川は元々、岩手県にある寺の住職の長男として生まれており、当時としては比較的裕福な家庭の出でした。しかもこの家での待望の長男であったために両親からは大いにかわいがられて食事なども一番良いものが優先して振舞われ、子供の頃からわがまま放題に育てられていたために妹の光子の証言によると何か気に入らない事があるとすぐに蹴ったり叩かれたりしたそうです。それでも妹はそんな兄が好きだったそうですが。
ともあれ裕福な家ということで石川はきちんとした学校に通わせてもらうも遅刻、欠席、果てにはテストでのカンニング行為の結果、卒業を待たずに退学させられてしまも、その後はいろいろと転々とするもののある年に家族を置いて東京に向かい、朝日新聞社へ就職します。この東京での生活は彼自身が残したローマ字日記によって行跡が辿られるのですがその日記の内容となると破天荒そのもので、就職した朝日新聞社では遅刻、欠勤、給料前借は当たり前で、貧乏だといいながらもいろんな人間から次々とお金を借りてはすでに借りた借金の返済には殆んど使わず、娼妓との遊興費に惜しみなく費やしたということが赤裸々につづられております。ただ石川の変な所というか、お金を殆んど返そうとしないにも関わらず会う人皆が石川の新たな借金の申し出に答えており、石川の方でも律儀に日記でどこそこで誰からどれだけ借金したかを事細かに記録しています。
そんな石川に最も金づるに使われたのはほかでもなく、彼と同郷で東京での生活も一緒だった金田一京助でした。金田一京助というといろんな辞書に編纂者として名前を連ねており、また小説のキャラクターである「金田一耕助」の名前のモデルとなった人物であるため皆さんもよく知っている人物でしょうが、彼は若い頃から石川の才能を買って東京に来た石川を自らの下宿に招き寄せては生活費など一切合財面倒を見ていました。
ただこの金田一京助もあの放蕩三昧の石川を囲うだけあって相当な人物だったらしく、ことあるごとに借用を申し出る石川の願いに首を横に振ることなくいつも快く応じ、彼の希望をかなえるために次々と家財道具を質屋へ持って行ったそうです。そうやって献身的に支えられているにもかかわらず遊んでばかりの石川に対して金田一の妻の方が怒り、またも石川に金を貸して欲しいと言われて何か質草があるかと金田一が妻に尋ねると、「もうそんなものはありません」と一度、突っぱねたことがあったそうです。すると金田一は、
「お前の今着ている着物、まだ質屋に出せそうだな( ´ー`)」
と言って、奥さんの着ていた服をひっぺはがして質屋に持って行きお金を受け取るとそれをそのまま石川に渡し、そして石川はそのお金を浅草で使い切ったそうです。そんな話を妻からよく聞かされていた金田一京助の息子である金田一春彦氏は、石川という姓だけに石川啄木は石川五右衛門の子孫に違いないと子供ながらに考えていたと語っています。
こうした石川との絡みもさることながら金田一京助にはそのほかにも逸話が多く、前述の辞書の編纂者名についてもお人よしな性格ゆえに、権威付けのために人から頼まれるそばから二つ返事で快諾していただけで、実際には一冊の辞書にも編纂に携わった事がなかったそうです。
またこれ以外にも自身のスピーチも予定してあった知人の結婚式に出席し、出された食事を平らげたもののなかなかスピーチの出番がなくて係員に確認すると、なんと赤の他人の結婚式に出席していた事が分かって慌てて帰ってきたという話や、息子の春彦氏に来ていた原稿の執筆依頼を自分宛に来ていたと勘違いして慌てて原稿を書いて出していたなど、お人好しで慌てん坊だったという人柄が窺える話が数多くあります。
最後に蛇足かもしれませんが、知名度で言えば圧倒的に金田一京助の方が息子の金田一春彦氏より上ですが、私の中国語の恩師によると言語学における功績で言えば春彦氏の方が遥かに勝るそうです。本日この記事を書くために春彦氏の略歴を調べてみた所、なんと中国語発音で基本となる四声の研究を初め日本の方言などを詳しく調べており、すごい人物だったのだということに気づかされました。
これは私の邪推ですが春彦氏は一年だけ京都産業大学に在籍していたそうで、京都なだけにもしかしたら私の恩師はその時期に春彦氏の知遇を得ていたのかもしれません。今度あったら聞いてみよう。
格差社会、といってもそれ以前から何かしら貧困エピソードが出るたびに引用されておなじみのこの有名な和歌ですが、作者は言うまでもなく明治の詩人である石川啄木です。この和歌を始めとして暮らしの困窮について表現する和歌を多く作っていたことや、死後になって友人らから作成、出版された「一握の砂」によって名を残したという事から、石川啄木は生前には全く評価される事のなかったゴッホと比較されるなど一般的には不遇の詩人としてよく紹介されます。
しかし事実はさにあらず、近年には大分浸透して来ましたが石川が生前に貧乏な生活をしていたということは本当ではあるものの、その困窮は不遇というよりは彼自身の放漫な性格による行動の結果だったと言われております。
石川は元々、岩手県にある寺の住職の長男として生まれており、当時としては比較的裕福な家庭の出でした。しかもこの家での待望の長男であったために両親からは大いにかわいがられて食事なども一番良いものが優先して振舞われ、子供の頃からわがまま放題に育てられていたために妹の光子の証言によると何か気に入らない事があるとすぐに蹴ったり叩かれたりしたそうです。それでも妹はそんな兄が好きだったそうですが。
ともあれ裕福な家ということで石川はきちんとした学校に通わせてもらうも遅刻、欠席、果てにはテストでのカンニング行為の結果、卒業を待たずに退学させられてしまも、その後はいろいろと転々とするもののある年に家族を置いて東京に向かい、朝日新聞社へ就職します。この東京での生活は彼自身が残したローマ字日記によって行跡が辿られるのですがその日記の内容となると破天荒そのもので、就職した朝日新聞社では遅刻、欠勤、給料前借は当たり前で、貧乏だといいながらもいろんな人間から次々とお金を借りてはすでに借りた借金の返済には殆んど使わず、娼妓との遊興費に惜しみなく費やしたということが赤裸々につづられております。ただ石川の変な所というか、お金を殆んど返そうとしないにも関わらず会う人皆が石川の新たな借金の申し出に答えており、石川の方でも律儀に日記でどこそこで誰からどれだけ借金したかを事細かに記録しています。
そんな石川に最も金づるに使われたのはほかでもなく、彼と同郷で東京での生活も一緒だった金田一京助でした。金田一京助というといろんな辞書に編纂者として名前を連ねており、また小説のキャラクターである「金田一耕助」の名前のモデルとなった人物であるため皆さんもよく知っている人物でしょうが、彼は若い頃から石川の才能を買って東京に来た石川を自らの下宿に招き寄せては生活費など一切合財面倒を見ていました。
ただこの金田一京助もあの放蕩三昧の石川を囲うだけあって相当な人物だったらしく、ことあるごとに借用を申し出る石川の願いに首を横に振ることなくいつも快く応じ、彼の希望をかなえるために次々と家財道具を質屋へ持って行ったそうです。そうやって献身的に支えられているにもかかわらず遊んでばかりの石川に対して金田一の妻の方が怒り、またも石川に金を貸して欲しいと言われて何か質草があるかと金田一が妻に尋ねると、「もうそんなものはありません」と一度、突っぱねたことがあったそうです。すると金田一は、
「お前の今着ている着物、まだ質屋に出せそうだな( ´ー`)」
と言って、奥さんの着ていた服をひっぺはがして質屋に持って行きお金を受け取るとそれをそのまま石川に渡し、そして石川はそのお金を浅草で使い切ったそうです。そんな話を妻からよく聞かされていた金田一京助の息子である金田一春彦氏は、石川という姓だけに石川啄木は石川五右衛門の子孫に違いないと子供ながらに考えていたと語っています。
こうした石川との絡みもさることながら金田一京助にはそのほかにも逸話が多く、前述の辞書の編纂者名についてもお人よしな性格ゆえに、権威付けのために人から頼まれるそばから二つ返事で快諾していただけで、実際には一冊の辞書にも編纂に携わった事がなかったそうです。
またこれ以外にも自身のスピーチも予定してあった知人の結婚式に出席し、出された食事を平らげたもののなかなかスピーチの出番がなくて係員に確認すると、なんと赤の他人の結婚式に出席していた事が分かって慌てて帰ってきたという話や、息子の春彦氏に来ていた原稿の執筆依頼を自分宛に来ていたと勘違いして慌てて原稿を書いて出していたなど、お人好しで慌てん坊だったという人柄が窺える話が数多くあります。
最後に蛇足かもしれませんが、知名度で言えば圧倒的に金田一京助の方が息子の金田一春彦氏より上ですが、私の中国語の恩師によると言語学における功績で言えば春彦氏の方が遥かに勝るそうです。本日この記事を書くために春彦氏の略歴を調べてみた所、なんと中国語発音で基本となる四声の研究を初め日本の方言などを詳しく調べており、すごい人物だったのだということに気づかされました。
これは私の邪推ですが春彦氏は一年だけ京都産業大学に在籍していたそうで、京都なだけにもしかしたら私の恩師はその時期に春彦氏の知遇を得ていたのかもしれません。今度あったら聞いてみよう。
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