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2011年9月18日日曜日

A級戦犯の選出方法

 極東国際軍事裁判への批判の代表的なものとして、「日本人を支配しやすくするための洗脳の一環だった」というものがありますが、これについては私もほぼその通りだという意見を持っております。ちょっとこのところやる気が落ちてきているのでぱっぱと書きますが、連合国側がこの裁判を通して日本人の意識に刷り込ませたかったであろう内容とは下記の数点に集約されます。

・戦争は軍部、それも東条英機を中心とした陸軍らが国民を煽動して引き起こした。
・日本国民はそうした軍部に間違った情報を流され、騙された被害者だった。
→アメリカは戦争を主導した一部の人間を倒しただけで、日本人全員の敵になったわけじゃない。

 大雑把にするとこんな感じだと思います。何故私がこのように考えると、前回の記事でも書いたようにA級戦犯に指名された人間に明らかに恣意的な要素が働いているからです。

A級戦犯(Wikipedia)

 名目上、A級戦犯に指名された人間らの指名理由は「人道に対する罪」ということになっていますが、現実は「国民を騙して戦争に無理やり駆り立てたというグループ像になってくれそうな連中」というもので選ばれているように私は考えています。作業の手順としてはまずその中心となる人物として、太平洋戦争開戦当初の首相であった東条英機が選ばれ、その東条と距離関係が近かったものから次々と選ばれていきました。
 無論、東条は首相になる前から対米強硬派であったことは間違いなく、日米を開戦に至らしめる上では波を強くさせた一人ではあります。しかし生前に松本清張は、「たとえ東条がいなくとも日米は開戦していた(別の人間が東条の代わりになっただろう)」と言っていたように、東条以外にも陸軍内部には数多くの戦争推進者がおり、仮に東条が処罰されるのであれば同様の理由でもっと大勢の人間が処罰されなければ論理としてはおかしくなります。

 実際にはその他大勢の陸軍関係者らはB、C級戦犯として裁かれることとなるのですが、私が最も腑に落ちないのは満州事変の首謀者といってもいい石原莞爾が東条と仲が悪かったという理由で一切処罰されていないことです。ちょっと専門的な話になりますが、満州事変は政府の承認なしに関東軍が勝手に軍事行動を起こしていることから本来ならば関係者らは厳しく処罰されなければいけないところ、満州地域の大半を占領したことから政府が追認を与えてしまい、その後の陸軍内部では命令がなくとも、また違反しても戦果を作れば許されるという風潮が生まれてしまったようです。このような目から見ると、真に日本を戦争に駆り立てたのは誰なのかという疑問がもたげます。

 またもう一つ極東国際軍事裁判への代表的な批判の一つに、「勝者による敗者への一方的な報復」というものがあります。これについてもおおむね間違いではないのですが、内心ではアメリカは満願を果たせずにいるのではないかと見ています。というのもアメリカが最も報復したかった人物はほかでもなく、真珠湾作戦を実行した山本五十六だったのではないかと思うからです。
 山本は戦時中に戦死しますが、もし仮に終戦まで生きていれば真っ先にA級戦犯として死刑判決を受けていたでしょう。よく真珠湾についてはアメリカは、「宣戦布告なしに奇襲をして日本は卑怯だった」と批判しますが、二次大戦におけるドイツのポーランド進撃をはじめとして近代戦はむしろ宣戦布告のある戦争の方が少ないです。また当のアメリカ自身、アフガニスタン侵攻、イラク戦争においては一切宣戦布告はしておらず、私はアメリカが真珠湾にこだわる理由は宣戦布告のあるなしではなく単純に、予想外の大きな損害だった故のショックからだと思います。

 そんな大ショックを与えた張本人の山本に対しては相当怨念が強かったらしく、戦時中も戦略的価値が低いにもかかわらずアメリカはわざわざ山本の出身地である新潟県長岡市までも空襲を仕掛けております。しかしいざ報復をする段階で当の山本は戦死していたわけで、東条とはあまり関係がないもののわざわざ海軍からは永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純の三名がA級戦犯に指名されておりますが、これは山本のとばっちりが回ってきただけだと一説では言われており私もそれを支持します。

 これまでの意見はあくまでこういう仮説があるというものでまだ確定された歴史観ではないものの、仮にそうだとしたら本当にしょうもない理由で決められたんだなという気もしないでもありません。だからといって一部のA級戦犯、特に東条について私は同情するような感情は覚えず、厳しい言い方をすればアメリカに余計なものを始末させてしまったという風にすら思っています。東条の評価についてはまた次回に解説します。

2011年9月15日木曜日

極東国際軍事裁判に対する私の意見

 昨日、一昨日と帰宅が11時過ぎとなり、ブログの更新が出来ませんでした。別に仕事が忙しくて残業しているというわけじゃなく付き合いで遅くなったのですが、さすがに今日はブログ書きたいし三日連続は嫌だからとその付き合いを断ったけど、ありゃ確実に上司から目を付けられただろうな。

 それはさておき比較的高い支持率で今のところ私も文句がない野田新首相ですが、就任当初によく「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」という過去の発言が取り上げられました。この発言前後の話及び具体的な意図がわからないので特にあげつらうつもりはさらさらありませんが、ちょうどいい機会というか前からまとめようと思っていたので、このA級戦犯と極東国際軍事裁判について私が持ちうる知識と評価をまとめようと思います。

極東国際軍事裁判(Wikipedia)

 まずはっきりいうと、この極東国際軍事裁判は論点が多くて非常に整理し辛い内容です。私において言えばある一点では肯定、別の一点では否定と項目ごとにに意見が異なっており、いっしょくたに全肯定や全否定するべきではないとみております。またこれも最初に言っておくと、多分ここで私が書く内容よりも歴史家の半藤一利氏(たまに自分で”半藤的”とシャレたりして面白い)と保坂正康氏の著作の方がわかりやすくよくまとめられているので、興味がある方は両者の著作を読まれることをお勧めします。私の意見も基本的にこの二人に依っていますし。

 それでは早速始めますが、まずこの裁判がアメリカの復讐によるもので公平性は低いという意見については私もまさにその通りだと思います。論拠としてはこれはまた後で詳しく解説しますが、A級戦犯となった被告人たちの選出基準が明らかに恣意的なもので、罪状となった平和に対する罪とは関係なく決められているからです。ではどういう基準で選ばれたのかというと、まず陸軍関係者、それも東条英機に近いかどうかで選ばれ、その後バランスを取るような形で海軍からも開戦当初の責任者ということで3人、でもってついでに外交関係者からもちょちょいのちょいという形で頭数が揃えられています。こう書くと本当に馬鹿みたいですが、真面目な話でこれが実態だったと思います。

 ただこうした背景があったとはいえ、私はこんな裁判を行ったアメリカは卑怯だとか文句を言う気持ちはあまり覚えません。こういうことを書くと怒られるかもしれませんし実際に怒られたとしても何も言い返す気はありませんが、私は二次大戦で日本は負けた国であって、負けた国が勝った国に「平等に扱え」などというのはどこかお門違いな気がします。もちろん平等に扱ってくれればそれに越したことはありませんが、そんなのは所詮理想論で、好き勝手やられたくないのなら負けるような戦争を初めからするべきでないという立場を取ります。
 むしろ二次大戦後のアメリカの日本に対する態度や処置は、冷戦構造のおかげではあるものの一次大戦後のドイツと比べて非常に寛大なものがあり、この点についてはアメリカに対して素直に感謝したいと思います。ただ唯一言うことがあれば、上記のようないい加減な基準で半ば巻き込まれるような形でA級戦犯にされてしまった一部の方には深く同情しますし、アメリカさんにもあんまりこういうこと繰り返しちゃいけないよと言いたいです。

 ではA級戦犯として裁かれた方々は本来無罪とするべきだったのか。これについては私は理想論でいえば「その通り」ですが、現実論としてはやはり何かしら裁かなければ世界、場合によっては日本人は納得することができなかったのではないかと思います。あくまで仮定の話ですが、もし仮に東条英機が天寿を全うしていたら私は一個人としてやはり納得がいかなかったと思います。文民で唯一死刑判決を受けた広田弘毅についてはその逆で、死刑とされたことに納得がいきませんが。
 一番ベストだったのはやはり、日本人自身で戦後に裁判を起こし、一体何が原因で負けるをわかっていた戦争に突き進んでいったのか、誰が亡国の臣だったのかを徹底して究明し、戦時中にかこつけて好き放題やった人間らを相応に処罰するべきだったかと思います。最もこれで当時の世界の人間らが納得するかと言われたら難しいですが。

 案の定というか短い文章ながらかなり時間がかかりました。次回はA級戦犯について詳しくやります。

2011年9月12日月曜日

枝野氏の経産相就任について

 ZAKZAKが今シーズンのプロ野球セリーグについて「あれれ~ヤクルト突然“復活”のワケ…セは再び「1強4弱」」という記事を書いてますが、1強4弱って……。まぁ言いたいことはよくわかるんだけど。

 それでは本題に入りますが、果たして自分が解説する価値があるのか非常に悩む話題です。

経産相後任に枝野氏、正式発表(読売新聞)

 事の発端は全経産大臣の鉢呂氏が失言によって辞任したことからですが、そもそもどうしてあんな発言が飛び出してくるのかまったくもって理解できません。発言を巡ってはいろいろごたごたしているようですが、議員以前に人として神経を疑います。
 それで代わりに登板することとなった枝野氏ですが、恐らくその抜群の知名度から今回就任を打診されたんだと思います。ちょうど程よくフリーだったし。ただ枝野氏の経済方針というか考え方についてはこれまで私はあまり見聞きしたことがなく、現在まだ未知数です。もしかしたら飾り程度の人事になるかもしれませんが、この際失言さえしなければただ座ってる大臣の方がマシじゃないかとすら思えてきました。

 先週末に寝だめし損ねたので、ちょっとやる気が低いです。明日からはまた頑張って、気合入れた歴史記事を書こうと思います。

2011年9月11日日曜日

今日目についた記事

 あまり名指しで批判しても敵を作るだけだし他人は他人で放っておくというのが基本的な私のスタンスなのですが、ちょっと今日に限ってはあまりにも目につく記事を二本連続で見かけたので、差し出がましいようですが批判をさせてもらおうかと思います。

任天堂ピンチ!「3DS」値下げ効果、早くも失速のワケ(SankeiBiz)

 まず気になったのは上記リンク先の記事ですが、記事内容自体は特に悪いというわけじゃないですが1ページ目にある売上比較について、これはほかの記事でもそうでしたが「何故その数字を取り出す?」と思わずにはいられません。具体的なその個所を抜粋すると、

「ゲーム雑誌出版のエンターブレイン(東京都千代田区)によると、3DSが値下げされた直後の8月第2週(8~14日)の国内販売台数は約21万5千台に達した。2月26日の発売初週(約37万1千台)に次ぐ水準で、値下げ前の買い控えがあった8月第1週(1~7日)に比べ約58倍と大幅に増加した。値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形だ。」

 上記の文中でどこが気になるのかというと、この記事ではNintendo 3DSが2万5千円から1万5千円へ値下げした直後の週の販売台数を21万5千台と報じて、それがどれくらいの売り上げだったのかを比較する上で二つの数字を引用しております。まず一つ目の数字は3DSが発売した直後の第一周における発売台数の37万1千台ですが、ゲーム機に限らずとも発売直後の初期出荷台数というのはそのまま最大の販売台数になりやすいです。現実に3DSもこの37万1千台という数字が現時点における最高週間販売台数のようですが、値下げ直後の21万5千台はこれに「次ぐ水準」だとして、大きく売り上げを伸ばしたという感じで書かれてます。
 ただ私の目からすると、どう見たって「37万1千台」と「21万5千台」には数字に大きな開きがあるようにしか思えず、いくら初期出荷台数に次ぐ水準だからといっても、一万円もの大幅な値下げによるテコ入れをしたにも関わらずこれしか販売台数が伸びなかったのかという印象をむしろ覚えます。

 この初期出荷台数とともに「値下げのインパクトが販売台数を大きく押し上げた形」という根拠として、この記事では値下げ前の8月第一週に比べ値下げ後は「約58倍」も販売台数が増えたと書かれてあります。これなんか「値下げ前の買い控えがあった」と書いてあるのでもしかしたら上に言われて無理無理入れた根拠なのかもしれませんが、確か今回の3DSの値下げは発表から値下げまでタイムラグがあり、8月第一週の時点ではすでに次週に値下げすることが発表されていたはずです。言うなれば来週値下げされることがわかっててわざわざ高い値段の今週のうちに買う消費者などほとんどいるわけがなく、売り上げがどれだけ伸びたかとする比較対象とするのには如何な数字かと私は思います。それであれば値下げ発表前の週の販売台数を持ってくるのが適当なんじゃないでしょうか。
 任天堂に脅されているのかどうかまではわかりませんが、何故かどこの記事も同じ数字の引用の仕方をしているのを度々見ました。まぁ脅されるにしてもされないにしても、こんな数字の引用の仕方をするのは素人目にも問題があると思う書き方です。

なぜ若者はテレビ離れしているのか、制作会社から見たテレビの現在(Business Media 誠)

 3DSの記事とともに気になったのは上記の記事です。結論を最初に述べるとよくこれで上もOKを出したなと呆れました。
 内容は視聴率低迷に喘ぐ日本のテレビ業界について番組製作会社の人間はどう思っているのかをインタビューし、それをまとめた記事内容なのですが、まず最初に文章が滅茶苦茶長い割にはこれという内容がほとんどありません。しかも普通の記事なら冒頭、もしくは末尾にインタビュー対象者の経歴やプロフィールを書くべきなのに、何故かインタビューの話を解説している最中に急に入れてきてます。恐らく製作会社の雇用状況の話題と合わせて書こうとしたんでしょうが、読んでみればわかるでしょうが完全に流れがぶった切りになってます。もっとも流れがぶった切りといえば全編に渡ってインタビュー対象者の話をちょこっと引用され、それに記事執筆者がどうも本人の視点なのかあれこれ長い文章を付け加えられているのでどうもインタビュー対象者の真意がいまいちわからない、というより読み辛いことこの上ありません。しかもインタビュー対象の話も全然整理して書いているようには思えず、私だったら括弧で直接引用するよりかは前後の文章と合わせて内容だけまとめて書くのですが。

 最後に執筆者、インタビュー対象者二人への批判として個人的な見解を書きますが、インタビュー対象者は日本のテレビ市場は衰退・縮小しているとしてグローバル市場を意識して作品を制作、販売して行かなければならないとこの記事の中では言っているようなのですが、これ見て私はどうして執筆者はそのまま書いちゃってるんだろうなと感じました。というのもこれは何もテレビ業界に限るわけじゃありませんが、そもそもの話として日本で売れない作品がどうして海外では売れるのか、日本で番組が見られなくなっているという話をしている最中にどうしてこんな話題になるのかちょっと信じられません。しかもインタビュー対象者はそうしたグローバル市場の方向性として「海外の俳優を起用して、英語や中国語、スペイン語などで制作する」と言ってますが、本気でそれで売れると思うのと私は問いたいです。せめてそういうセリフはもっと日本で評価される番組を作ってからでも遅くない気がします。執筆者も執筆者で、そういう突っ込みが何故記事中にないのか不思議です。

 ちなみに海外でも売れる番組の例として今挙げるとしたら、一昨年と今年に放映されたTBSドラマの「JIN-仁-」をこのところよく引用してます。この番組は日本国内でもドラマとしては久々の大ヒットでもはやドラマでは(高予算なのに)視聴率は取れないと言われた風潮を一気に打破しただけでなく、海外でも好評だったことから今年放映された第二期は放映前の時点で海外80カ国での放映が決まったというとんでもない快挙を成し遂げています。
 日本では売れないけど海外では売れるというのは一種の幻想だと思います。まぁこれも例を出しちゃうと、トヨタの「カムリ」ってのが稀有な例としてありますが、日本国内で売れないのは多分名前が悪いせいだと思う。

2011年9月10日土曜日

猛兵列伝~藤田信雄

 恐らくこのブログのメインコンテンツの一つである、ちょっとマイナー感のある指揮官を取り上げる「猛将列伝」ですが、このところどうもネタ切れ感が否めません。もちろん有名どころを取り上げればまだまだいくらでも続けられるしマイナーな小話を加えて面白く書く自信もありますが、何となくそこまでして続ける気にはなりません。
 そこで今日は方針転換というか、指揮官ではなく末端のある一兵士を取り上げようと思います。

藤田信雄(Wikipedia)

 この藤田信雄氏は旧日本海軍のパイロットだった方です。この方がどのような人物かというと、歴史上唯一、アメリカ本土への空襲を成功させた人物です。

 事の起こりを話すにあたってまず当時の状況を説明します。日米は1941年の真珠湾攻撃をきっかけに戦争に突入しました。その翌年1942年4月21日、すでに海軍パイロットとして高い実績を作っていた藤田氏は海軍軍令部に呼ばれ、アメリカ本土へ空襲を実行するよう命令を受けます。

 はっきりと因果関係は書いてはいないものの、恐らくこの命令の背景にはこのわずか3日前にあった「ドーリットル空襲」が影響しているように私は思います。ドーリットル空襲について説明すると、当時の日本は太平洋で連戦連勝を重ねていてアメリカ側もさすがにこの時は気分的に沈んだ状態だったようです。そこでアメリカ国内の戦争士気を高めるために印象の強い作戦を実行しようという話となり、太平洋上から爆撃機を飛ばして日本本土を直接空襲するという案が採用されました。
 空襲すると言っても当時制海権は日本側が圧倒的に握っており、一度飛ばした飛行機を回収するまで空母が洋上で待つのはほぼ不可能であったため、最終的には飛び立った爆撃機はそのまま日本を通過し、連合側であった中華民国にて着陸、帰投するという大胆な作戦となりましたが、結果的には前触れもない本土への直接攻撃に当時の日本軍部は大いにうろたえたそうです。

 このドーリットル空襲から3日後、恐らくそれならばと日本からもアメリカ本土を直接攻撃してやろうと軍部は考え、その実行手として藤田氏が選ばれたそうです。ただ空襲するにしても日本本土からアメリカまで言うまでもなくとんでもない距離があり、その間にはアメリカ側も潜水艦などで防衛しているわけですから並大抵のことじゃありません。それ故に藤田氏も生き残る自信がなく、出発前日には遺書を書いたそうです。
 作戦は伊25という潜水艦にEY14という飛行機を折りたたんで収納し、アメリカ本土まで近づいて焼夷弾を落とすというかなり無茶な内容でしたが、8月15日の出発から約一ヶ月後の9月9日、藤田氏らはアメリカの艦船に見つかることなく見事アメリカ本土へ近づくことに成功した上、カリフォルニア州とオレゴン州の境目に森林火災を起こすため焼夷弾を落とすことにも成功しました。その3週間後の9月29日にも藤田氏は出撃し、またも焼夷弾落下に成功して無事潜水艦に帰投、さらには日本への帰路も潜水艦は撃沈されることなく見事に帰還を果たすことができました。

 これだけ難度の高い作戦を実行した藤田氏でしたが、帰ってくるなり軍部からは、「戦果は木を一本折っただけではないか!」と激しく叱責されました。というのも爆撃直前に雨が降っていたことと、空襲が現地のアメリカ人に見つけられていたために、空襲には成功したもののすぐに火は消火されていたようです。とはいえ生きて帰ってこれた藤田氏はその後教官として軍に在籍しつづけ、そのまま終戦を迎えました。

 これで話が終われば戦時中の本当に些細な一エピソードで終わるのですが、1962年のある日、工場勤めをして生活していた藤田氏は突然政府から呼び出しを受けます。呼び出された都内の料亭にはなんと時の首相の池田隼人と官房長官の大平正芳がおり、藤田氏のことをアメリカが捜しているためそのままアメリカへ行くように、またこの件について日本政府は一切関知しないと告げられました。この池田元首相の言葉はいうなれば、アメリカ現地で戦犯として裁かれても日本は一切救いの手を差し伸べないと言っているも同然です。
 この突然の事態に藤田氏も観念し、いざとなった際に自決するために先祖代々受け継がれてきた日本刀を忍ばせアメリカへ向かいました。そして戦々恐々とアメリカの空港へ降り立った藤田氏を待っていたのは、たくさんの歓声と笑顔あふれるアメリカ人達でした。

 というのもアメリカが何故藤田氏を探していたのかというと、藤田氏が空襲したブルッキングズ市のフェスティバルにゲストとして呼びたかったためでした。もちろん現地では大歓迎で、藤田氏も藤田氏で自決用に持ってきた日本刀をそのままブルッキングズ市へ寄贈してしまうほどだったようです。
 しかもあまりの歓迎ぶりに感激した藤田氏はその後、自費でブルッキングズ市の3人の女子学生を日本に招き、またブルッキングズ市へもその後何度も足を運んで自らが空襲した場所に植林をするなど交流を続けました。1995年には84歳という高齢ながらも、当時の市長らをセスナ機に載せて自分が空襲した航路をなぞるという荒技まで披露しております。

 その後1997年に藤田氏は永眠されますが、死の直前にはブルッキングズ市の名誉市民の認定を受けました。藤田氏がここまで現地に受け入れられた背景には空襲をしたものの死傷者が誰一人いなかったというのが何よりも大きいでしょうが、それにしたってアメリカ人の戦後はノーサイドともいうべきこのフレンドリーさには頭が下がります。また好意的な解釈をするならば、戦時中に行きも帰りも非常に困難な航路だったにもかかわらず幸運にも日本への帰国を果たせたのは、戦後に交流を長くに続けた藤田氏という人物を生かせようとした天の配慮によるものだったのかもしれません。

 それにしても「日本政府は一切関知しない」と言った池田元首相ですが、恐らくアメリカが捜している背景を本当に知らなかったんだと思うけど、結果的には国家ぐるみで藤田氏をサプライズパーティにかけただけじゃないかと思わずにはいられません。ここまで脅かすことなかったのに……。

2011年9月7日水曜日

天下統一後にしなきゃいけないこと

 古代史ネタはほぼもう書き終えたので、またいつも通りというか変な歴史ネタです。
 さて天下統一と言えば立派な大事業ですが、主導権を握ったもののその後は権威を保てず勢力を失うというケースは古今東西地域を問わずに数多くあります。ちなみに私の曾祖母の実家は鹿児島県菱刈というところですが、なんでもここは平家の落人の里ということで自分は平家出身だったようです。

 その平家を筆頭に基本的に、建武政権、豊臣政権は一時天下を握ったもののすぐに没落し、所変わって中国に至ると三国志の魏を筆頭として本当に出来た途端にすぐ潰れる政権がたくさんあります。これら政権の特徴、というより逆に長く維持した政権との違いはどこにあるのかと問われるならば、私が答えるとしたら自軍における武装勢力の駆逐ではないかと考えております。

 自軍における武装勢力の駆逐ですが、これを日本史上最もえげつなく実行したのはほかでもない明治政府です。知ってる人には有名な話ですが明治維新後に真っ先に反乱を起こしたのは旧幕府勢力ではなく実は長州藩の奇兵隊出身者らで、明治政府は維新に成功するやその武力闘争における原動力となった武士勢力を敵味方問わず猛烈に切り崩しを図っております。廃刀令に始まり版籍奉還、終いには廃藩置県とその手のひら返しは徹底していましたが、その甲斐あってか明治十一年の西南戦争を最後に革命後の武装反乱は完全に終結させることに成功しています。
 また明治維新以外にも徳川幕府における統治でも、関ヶ原の合戦以降は本田忠勝を筆頭として譜代における武闘派の面々を閑職に追いやり、大坂の陣以降は外様大名を徹底して締め付けて武士の兵士からサラリーマン化を推し進めていきました。もっとも江戸時代初期はやりすぎちゃって、浪人が大量にあぶれて治安が悪化した面もありましたが。

 上記のように政権を握った後に自らの武装勢力を削った政権というのは比較的長生きする傾向があるのですが、その逆のパターンとして日本においては室町幕府が好例です。室町幕府は三代目の足利義満の時代にようやく天下統一を成し遂げ、彼の時代においては直属の近衛兵が組織されたり山名氏をはじめとした各地の元味方だった大名を次々と討伐したのですが、義満の死後はまた大名同士の合議制に戻っていきます。その結果起きたのは将軍家を凌ぐほど大名家の力が増し、最終的には応仁の乱という形で暴発したことで完全に権威をなくすこととなりました。室町幕府は見かけ上はそこそこ長く続いてはいますが、幕府として機能したのは実質、三代目義満から六代目義教の時代まででしょう。

 では中国の場合はどうかですが、ある意味最も武装勢力の切り崩しに成功したのは前漢の創始者である劉邦で、彼は天下を取るや項羽率いる楚との戦争で最も活躍したトップ3こと、韓信、英布、彭越の三人を討伐、もしくは暗殺しています。その代り皇室縁者こと呂皇后の一族がやけに権力握っちゃって劉邦の死後は一時ドタバタしたものの、幸いにも陳平らが生き残っていたことでこの難局を乗り切り400年にも及ぶ政権となりました。
 この前漢同様に十世紀に成立した宋では、建国者である趙匡胤は元々軍人だったにもかかわらず、自分が皇帝になって以降はこちらも敵味方問わず軍閥の勢力をどんどんと削ぎながら文人官僚をどんどん登用していきました。まぁこちらもオチを言っちゃうと、そこそこ政権としては長く続いたもののあまりにも軍人が弱くなって異民族勢力にやられることとなるわけですが。

 このように天下を取るためには必要だった武力というのは統一後にはかえって不安定化させる要因となりやすく、成功した政権というのはどこかしらでこれら勢力の漸減を図っています。話は現代に戻しても戦時ならまだしも平和時には軍隊は金がかかるだけで、冷戦後はどこの国でも多大な軍事費を削るために軍隊規模を縮小していますし、毎年二桁%で軍事費が伸びている中国においても恐らく共産党幹部らは本音では縮小したいように見えます。そういう意味ではマッカーサーが残した、「老兵は死なず、ただ去るのみ」というのは、本来の意味とは違いますがなかなか的を得ているなという気がします。

2011年9月6日火曜日

いじめに関する統計データ

 ふと思うところがあったので、昨日は記事書くのをやめて下記サイトでいじめの統計データを眺めていました。

政府統計の総合窓口

 調べる前までこういうデータというものは本当にあるのかと内心疑っていましたが、意外とかゆいところに手が届くような感じで項目数も多く、比較的扱いやすいデータでした。ただ懸念がまったっくないというわけじゃなく、これは以前に統計関係の記事を書いた際にコメントしてくれた方がいましたがいじめの件数というものは得てして学校側が過少に報告するきらいがあり、鵜呑みにできないところがあります。その点を踏まえ、データを見ていくつか感じた点を教派紹介します。

1、都道府県別のいじめ発生率
 これはもう上位、下位のトップ10を直接書いてしまいますが、前述の通りにあまり当てにならないデータです。なおこの順位は直接の件数ではなく、児童生徒数に対する発生件数の割合です。

<いじめ発生率の高い県>
 1位 熊本
 2位 大分
 3位 岐阜
 4位 福井
 5位 石川
 6位 愛知
 7位 長崎
 8位 静岡
 9位 千葉
10位 富山

<いじめ発生率の低い県>
47位 和歌山
46位 佐賀
45位 福岡
45位 福島
43位 鳥取
41位 群馬
41位 宮崎
40位 滋賀
38位 三重
38位 沖縄

 ざっとこんなもんですが、むしろいじめ発生率の高い県はきちんといじめ件数をカウントしているだけあって良心的な地域なのではないかと思います。その根拠として直接的ではないものの、いじめと相関しやすいであろう「小中学校の不登校発生率」と比較すると、最もいじめ発生率が高い熊本県は41位と非常に低く、逆に神奈川県はいじめ発生率が24位であるものの不登校発生率は1位でした。カウントのしやすさから言うと圧倒的に不登校率の方なので、むしろこっちの方で地域差を測るのが適当かもしれません。

2、いじめが発生しやすい年齢
 これは認知件数とかはあまり影響しないのでデータをそのまま信じていいのですが、結論から言うといじめの発生件数が最も高くなる年代は中学一年次でした。細かい数字は書きませんが小学校一年時から発生件数は年齢の上昇に比例して上がり小学六年次で約8600件となるのですが、中学一年次はなんとその約二倍の約17000件となります。ただそれ以降は減少していき中学二年次で約13000件、中学三年次で約6200件と、恐らく受験勉強などが影響してか急速に収束します。
 このデータをどう読み解くかですが、単純に中学校で最もいじめが発生しやすく、この年代に対して重点的な対策を取ることが最も求められているのではないかと思います。

3、いじめの男女差
 これは特段取り上げる必要もないのですが各年代ごとの比較を見るとどの年代でも男子の方が女子より頭一個分発生件数が多く、男子の方がいじめを起こしやすいようです。現実問題としては男子のいじめには暴力が伴いやすいことから、女子に対してもそうですがこちらでも対策を注力する必要があるでしょう。

4、いじめの様態
 これもデータの捻じ曲がりが発生しやすい内容なのであまり使えないかなとも思ったのですがちょっとだけ面白いと思ったもので、学校運営別の比較では発生件数から何から何まで基本的に公立校が私立、国立を圧倒的な差で上回っているのですが、いじめの様態で「パソコンや携帯電話等で、誹謗中傷や嫌なことをされる。」に限り、公立中学校が7.3%であるのに対し、私立が15.1%、国立が17.9%と割合で上回っております。変に頭が回るってことかな。

 なんか今日はそれほどやる気がないのでこの辺で終えてしまいますが、もう少しこれらの統計データを利用してもっといじめ対策を煮詰めるべきだと強く思います。具体的にはからかいや嘲笑といった軽度のいじめと、暴力やカツアゲを伴う重度のいじめをはっきり分け、それぞれが発生した際にどのような対策や指導が効果的なのかをもっと比較し、共通認識を作るべきです。今回調べた限りですと中学三年次に急激に発生件数が減っていることから暇な時間を持て余すほどいじめが多くなるのではないかと思え、変な話ですがいじめる生徒にはそういう時間が持てないように課題なり部活なりボランティア活動なりを強制して行わせてみてはという案が浮かびました。