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2016年7月16日土曜日

日本を破った米海軍三将~ウィリアム・ハルゼー・ジュニア

 この連載もようやく最後の三本目。今日は恐らく日本側で最もよく知られているであろう米海軍提督の「ブル・ハルゼー」ことウィリアム・ハルゼー・ジュニアを紹介します。

ウィリアム・ハルゼー・ジュニア(Wikipedia)

 ハルゼーは海軍士官であった同名の父がいる家庭に生まれ、若い頃からまるでその将来を写し取ったかのように腕白な少年だったそうです。父親と同じく海軍入りを希望した彼はアナポリス(海軍士官学校)に入学しようとしたものの最初は推薦が取れず一旦はヴァージニア大学の医学部に進学しますが、有力者のコネを使ってアナポリスへの切符をつかむと今度は無事に入学できました。在学中の成績はあまりよくなく落第の危機にもあっており、最終的には62人中42番の成績で卒業しました。

 卒業後、幾度かの海上任務を経ている際に東京へ寄港する機会がありこの時開かれたパーティでハルゼーも東郷平八郎と同席しています。ただ同じように東郷を見たニミッツやスプルーアンスの様に尊敬の念を抱くことはなく、「ロシアをだまし討ちしやがってこの野郎!」みたいなことを考えていたそうです。
 その後、一次大戦においては駆逐艦を指揮し、パリ講和会議の際には当時海軍次官で後に大統領となるフランクリン・ルーズベルトの輸送任務に就いています。それ以前にもルーズベルトはハルゼーと一緒に乗艦する機会があり、お互い第一印象から悪くなく信頼を持ちあったそうです。

 一次大戦後、ワシントンとロンドンの海軍軍縮条約によって保有艦数が各国で制限されたことを受けこの時期は世界中どこの海軍でも冷や飯食いとなった時代ですが、この時にハルゼーにとって大きな転機が訪れています。高級士官教育用の海軍大学校に入学した彼は先輩の勧めもあり空母を始めとする航空兵器の教育コースを歩みます。また視力が悪くて本当はテストで落ちてるのですが何らかの不正を使い航空機パイロットの訓練コースも受講し、これが二次大戦における彼の戦闘能力を大きく高めるきっかけとなったのは間違いないでしょう。
 ただ、ここでも在学中の成績はやっぱり悪かったそうです。

 教育訓練を終えた彼はまだ世界でも運用され始めて間もない空母、それも新鋭艦の「エンタープライズ」、「ヨークタウン」を始めとする艦隊の司令官に就任します。
 先にこの辺について説明しておくと、当時の世界の常識では海戦の主役は依然として強大な砲を持つ「戦艦」であると考えられていました。というのも、分厚い装甲で作られた戦艦を破るには強力な砲を持つ戦艦失くして考えられないとされ、「戦艦を倒せるのは戦艦だけ」という認識で各国の海軍の認識は一致していました。これがひっくり返ったのはまさにその後の太平洋戦争で、技術革新によって攻撃力を高めた魚雷があれば駆逐艦でも戦艦を倒せるようになったことと、艦同士ではなく空母に搭載する航空機により攻撃するという戦法の方がずっと有効で戦いやすいとわかり、逆に戦艦は鈍重ででかいため航空機からすればまさに格好の「的」となってしまい、太平洋戦争以降は海戦においては無用の長物、せいぜい言って陸地沿岸にある基地や港を艦砲射撃で攻撃する以外はあまり価値がないとされ現代ではほとんど作られないし運用されなくなりました。そのせいもあって、日本が戦時中に完成させた「大和」、「武蔵」は未だに「史上最大の戦艦」としてあり続けてるわけです。

 話はハルゼーに戻りますが、日米開戦の火蓋を切った真珠湾攻撃の際はたまたま艦隊を率いて輸送任務に就いていたためハワイを離れており、自慢の空母部隊を損害を逃れました。そして真珠湾攻撃後、実質的な海軍総司令官に就いたニミッツに対してはアナポリスでの後輩にあたるにもかかわらずすぐに打ち解け、作戦会議などでもニミッツの援護、というよりニミッツに反論を言う奴で、「黙ってろこの野郎!」って怒鳴り脅しつけることで協力していきました。
 当時、空母の運用法は世界でもまだ研究途上でありましたが、ハルゼーの場合は自身が航空パイロットとしての訓練も受けていたことなどから比較的長けており、実際戦艦についても、「あんなノロマは邪魔なだけだ!」とも言っていたことから、新しい海戦の「ルール」をよく理解していた模様です。実際、ニミッツの指揮のもとでミッドウェー海戦に至るまでの防戦一方だった戦線をよく支えています。

 そして来るミッドウェー海戦直前、日本軍がミッドウェー島へ大規模攻撃をかけるという無線を傍受して準備を続けていた最中、長い戦場生活もあってハルゼーは一次体調を崩します。そこで自分の後任として空母艦隊を率いたことのないスプルーアンスを推薦してハワイに入院しますが、結果的にこの判断は功を奏し、ハワイの病院内でミッドウェー海戦の勝利の報を耳にします。
 戦場に復帰したハルゼーは主力空母を失ったものの未だ強勢を保っていた日本海軍と向き合い、徐々に相手の主力艦を潰し戦線を有利に運んでいきます。そして事実上、最後の海上決戦となったレイテ沖海戦においても指揮を執ったのですが、この際は日本軍のかなりみえみえな陽動作戦に露骨に引っかかり、基地の守備をそっちのけて日本艦隊を一直線に追跡するというミスを犯してかの有名な「ブルズラン(猪突猛進)」と揶揄されるようになります。
 なおこのレイテ沖海戦は規模で言えば現在までで過去最大の海上決戦であり、この陽動作戦を始めとした駆け引きから「謎の反転」など現在に至るまで様々な議論に尽きない戦いだったりします。私個人としては一番贔屓にしている空母「瑞鶴」が沈んだ海戦という印象が強いですが。

 その後、あまり日本では報じられませんが海上で二度も台風につっつかれ、どちらでもレイテ沖海戦以上に多数の艦船や航空機を失うという「神風」(吹くことは吹いてた)に遭遇して一時は更迭論も出されましたがニミッツの判断というか海軍のプライドのため留任し、日本の降伏も戦場で耳にします。降伏調印式にはニミッツのお声がかかりハルゼーも出席していますが、文書調印の際には日本側代表の重光葵に対して、「早くサインしやがれこの野郎!」と怒鳴っていますが、本人曰く、「本当は日本人全員蹴っ飛ばしてやりたかった」と語っていることから一応は我慢していたそうです。
 終戦後は議会から元帥に任命され、また世間での人気も高かったことからあちこちに引っ張りだこになったり、新聞に自分の自伝を執筆したりとなんか楽しげな余生を過ごしました。これはニミッツやスプルーアンスにも言えますが、陸軍のマッカーサーと比べて海軍の連中はやっぱり政治的野心が薄いように感じられこれは万国共通なのかなとも思います。

 私のハルゼー評を述べると、多分私だけでなく「猛将タイプの提督」、っていうより三国志で言えば張飛みたいに短気で粗野だけど殴り合いが強いイメージで一致するかと思います。実際性格もそのまんまで、同僚からは「冷静でなく艦長はともかく艦隊は任せられない奴だ」とも言われてたし、レイテ沖海戦においては実際そうなりました。ただ末端の兵士からの人気は抜群で、ウィキペディアにも書かれている通り、「あのジジイのためなら俺は死ねるぜ!」という兵士の後ろから突然現れ、「おい若ぇの、俺はまだそんな年じゃねぇぜ」と言って去ってくというツンデレぶりも見せるだけでなく、艦内のアイスクリーム製造機に割り込みしようとした新人士官に対して、「黙って列に並べこの野郎!」と怒鳴りつけたこともあったそうです。多分後者は本人も並んでたからじゃないかという気がしますが。

 しかし、こと戦場においては空母の運用戦術を開戦当初から把握していたことから日本側にとっては手ごわいことこの上ない相手だったと思われます。日本側も空母運用の研究が疎かだったわけでなく名機零戦の性能もあって善戦していますが、指揮官の不足は否めなかったという指摘もあるだけに新規の戦術については育成が本当に肝心なのだなと考えさせられます。

日本を破った米海軍三将~レイモンド・スプルーアンス

レイモンド・スプルーアンス(Wikipedia)

 前回記事に引き続き、二次大戦で米海軍を率いた将軍というか提督として今日はレイモンド・スプルーアンスを紹介します。
 スプルーアンスはメリーランド州の比較的裕福な家庭で生まれますが、彼が青年になる頃には破産し、学費の当てがないことから大学には行かずアナポリス(米海軍士官学校)への進学を決めます。卒業後は若いうちから海上任務に就きますが、一時期は電気技術の研修のためゼネラルエレクトリック(エジソンの会社)にも勤務しています。

 若い頃から優秀と目されたことからスプルーアンスは順調に出世を重ねていきますが、一番の転機となったのは第一次大戦後の艦隊勤務で、後にともに日本海軍と戦うこととなるハルゼーの部下となったことでしょう。就任当初からスプルーアンスとハルゼーは意気投合し、ハルゼーもスプルーアンスの能力と人格を激賞して後の彼の抜擢に繋がります。

 真珠湾攻撃が行われた日米開戦当時、スプルーアンスは太平洋艦隊の一司令官として航空機の輸送任務に就いており、海上でハワイが攻撃されたことを知ります。そして当時太平洋艦隊を束ねていたハルゼーの指揮の元でしばらくは太平洋上で指揮を執り続けましたが、真面目に世界の海戦史上でも屈指の決戦劇となったミッドウェー海戦の直前にハルゼーが急病となり戦場を離れ入院することとなります。この時ハルゼー自身の推薦もあり総司令官のニミッツはスプルーアンスを後任として任命し、世紀の一大決戦において当時の米海軍にとっても虎の子の空母艦隊を率いることとなりました。

 この時スプルーアンスは、ハルゼーからの要求もありましたが自分の親しい幕僚はほとんど連れていかずにハルゼー時代のスタッフをほぼそのまま留任させています。ハルゼーのスタッフたちはスプルーアンスについて航空艦隊の指揮経験のない提督としか知らずその資質について疑問視するような目もあったそうですがスプルーアンスが就任直後に言った、「君たちが優秀な人間たちであることはハルゼーが選んだ時点でわかっている」という言葉を受けて彼を信頼するようになったそうです。もっとも、当のハルゼーがスプルーアンスの就任以前に、「今度来る提督は間違いなく優秀な奴だからてめぇらも黙ってその指示聞きやがれよこの野郎」的なことを言っていたということも見逃せませんが。

 こうしてスタッフの信頼も得たスプルーアンスは来たるミッドウェー海戦において、ニミッツの指示を忠実に守り見事に日本の航空艦隊の撃破に成功し、その勝利の立役者となります。その後一旦ハワイに戻った後で充実した戦力を持つ艦隊の司令官に就任し、太平洋上の各島々の攻略作戦を指揮し、ほぼワンサイドに近いと言われたマリアナ沖海戦でも大勝してのけています。最後の艦隊決戦と言われるレイテ沖海戦には参加しませんでしたが、ここはハルゼーがいろんな意味で大活躍したのである意味いなかった方がよかったかもしれません。

 その後は硫黄島の戦い、沖縄攻略を指揮し、沖縄戦では日本の特攻攻撃に自身もあわやというほど危険な目にあっただけでなく艦隊も大きな損害を受け、ニミッツの判断で沖縄戦の途中で指揮権をハルゼーと交替するとグアム島に戻り、終戦もその地で迎えます。終戦後はしばらく日本での上陸任務に就いた後、ニミッツの後任として太平洋艦隊の総司令官となるもこの職をわずか二ヶ月で降り、海軍大学校の校長を経て現役を引退します。引退後はトルーマンの要請を受けてフィリピン大使にも一時期就任していますがそれほど政治には深くかかわらず、穏やかな引退生活を送った後に天寿を全うしています。

 スプルーアンスについて私の評価を述べると一言でいえば「地味」な感じする人なのですが、自分の考える一番恐ろしい相手ってのはまさにこういう「地味に優秀な人」だったりします。何故かというと地味な人は視界に入らず自然とその警戒も怠りがちとなり、突然表舞台に出て来られると対策が取れずにあれってな感じでやられてしまうこともあり、密かに「地味」というのは一種の強みでもあると考えています。
 実際、彼について知っている現代日本人はほとんどいないでしょうが、ミッドウェー海戦、ひいてはその後の太平洋上の戦いで米海軍を指揮し日本を打ち破る立役者の一人であったりします。ハルゼーみたいに無駄に目立っている提督もいますがこういう隠し玉的な人材も持っていた辺りが米海軍の優れていたところだと思えるわけです。

2016年7月13日水曜日

日本を破った米海軍三将~チェスター・ニミッツ

 二次大戦史において日本陸軍、海軍の将軍らはそれぞれ数多く紹介、分析されており、ちょっとしたまとめ本でも買ってくればある程度の有名どころはすぐに調べられます。然るに、その日本軍と戦い打ち破った米軍側の将軍についてはあまり取り上げられることが少ないのではないかと大体今年二月辺りにふと思いつきました。
 彼を知り……ではないですが、日本を破った米軍側の将軍はどういう人物でどんな戦略だったかを知るということはあの戦いでどうすべきだったのか、どんな判断が正しく、間違っていたかを考察する上で非常に重要であるように思えたため、とりあえず私の方で解説できる範囲としてしばらく二次大戦時の米海軍将軍をを取り上げます。一発目の今日は、事実上の海軍総司令官として指揮したチェスター・ニミッツです。

チェスター・ニミッツ(Wikipedia)

 ニミッツはドイツ系アメリカ人としてテキサス州で生まれます。当初は陸軍士官学校への入学を希望していたものの、当時の米国の士官学校は議員などの推薦がなければ入学できず、頼った伝手の下院議員がウエストポイント(陸軍士官学校)への推薦枠を使い切っていたため、代わりに余っていたアナポリス(海軍士官学校)へ推薦してもらい、海軍士官としての第一歩を歩みます。
 下級士官の頃は謹厳実直な性格で真面目に勤務をこなしていたようで、一次大戦の勃発もあって比較的早い昇進を遂げながら「海軍の休息」と呼ばれた一次大戦以後の戦間期を挟み、1941年の真珠湾攻撃を迎えます。

 真珠湾攻撃時、ニミッツは名うての潜水艦艦長として日本側にも知られていましたが、早くからその指導力と見識を買っていたルーズベルト大統領によって太平洋艦隊司令長官に就任するよう求められます。当時、彼よりも年齢の高い将軍もいたことから当初は難色を示すものの最終的にはこれを承諾し、事実上の太平洋戦争における米海軍総指揮官として日本と向き合うこととなります。
 司令官に就任したニミッツはまず最初に真珠湾攻撃について、「誰にも防ぎようのなかった事態だった」として一切の処分を行わないと訓令し、周囲を固める幕僚も前任者のメンバーをほぼそのまま受け継ぎました。この処置によって曲者揃いの提督たちの心を一気に掴み(どうでもいいが英語でも「ハートキャッチ」っていうのかな?)、その後も一貫して彼らの信頼を一身に受けながら統率のとれた艦隊指揮を続けていきます。

 個々の海戦についてはあまり詳しくありませんがニミッツが実際に行った決断で最も戦果が高かったものとくれば、日米の好守が完全に逆転したミッドウェー海戦において他ならないでしょう。このミッドウェー海戦前、米海軍内では日本軍がミッドウェー島の占領を図ってくるか、ハワイを再攻撃してくるかで二つに割れていたそうです。かつてに日露戦争でもバルチック艦隊の回航ルートがどちらになるかを見定めることが大きな勝敗要因になりましたが、この時の米軍も同じような感じだったのではないかと思います。

 ニミッツはこの際、日本軍はミッドウェー島を通ると判断して島内の防衛設備拡充に努める一方、作戦目標を島の防衛ではなく攻めてきた日本軍、特に空母艦船の撃破一本に絞り、島内の部隊に対しては、「あなた方がどんな目にあっても海軍は助けない」と非常な通知を行っております。また的空母撃滅という目標を必達するため、可能な限りの戦力をこの海戦につぎ込んでおり、修理に三ヶ月かかると見積もられた空母「ヨークタウン」も、「これならいける」と言ってわずか三日の修理を経て出撃させており、文字通り日本との決戦に臨んできました。

 結果は説明するまでもなく、日本側は多数の艦船を失いこれ以降の戦闘の主導権は完全に米軍へ握られることとなりました。しかしこのミッドウェー海戦単体で取るならば実は米軍艦船の損害の方が大きかったというのは、戦史マニアであれば誰もが知っている事実です。
 それでも何故日本の敗北とされるのか。理由はいくつかあり、日本はこの戦闘で主力空母の「赤城」、「加賀」等を失い、それに伴い大戦初期を支えた多くの熟練パイロットも失いました。米軍側はほぼ一ヶ月に一隻のペースで新造空母を建艦出来ましたが日本側はそれだけの工業力を持っておらず、事実上、一隻失ったらもう取り返しがつかないという台所事情でありました。ましてや「赤城」、「加賀」級の空母はその後作られることはなく、将棋で言えば飛車角を一気にとられたと言っても過言ではないでしょう。

 さらに踏み込んで何故日本はこのミッドウェー海戦で負けたのかというと、その原因として挙げられる有力な説としては作戦目標が米艦隊の撃破なのか、ミッドウェー島の占領だったのかどちらかはっきりしなかったためとされており、私もこの説を支持します。本当に笑っちゃいたいくらいなのですが戦闘が始まってもどっちを優先するか一切指示がなく、そのため現場の指揮官たちは米艦隊を迎撃しつつミッドウェー島にも攻撃をかけなければと動き、結局虻蜂取らずみたいになってぼろぼろにやられるわけとなりました。この点、初めから一貫して「主力空母撃破」を掲げた米軍とは対照的でしょう。

 こうしてミッドウェー海戦を制し主導権を握ったニミッツはその後も着実に戦果を上げていき、日本のポツダム宣言受諾後の9月2日に行われた戦艦「ミズーリ」での降伏文書調印式にも臨みました。終戦後は海軍作戦部長の地位に就いた後で引退し、マッカーサーと違ってそれほど国民的人気がなく地味だったことから特に政治とは関わることなく天寿を全うして亡くなっています。

 諸々の資料を見る限りだとニミッツは本当に真面目で実直な人物であり、組織の統率においては右に出るものがないほどチームをまとめ上げられる人物だったそうです。実際、この後で紹介するつもりのハルゼーもニミッツに対しては深く信頼し、その指示や意向に口を挟まずに従っています。
 そんなニミッツですがこちらもまた今度紹介するつもりのスプルーアンスともども若手士官時代、日露戦争直後に練習艦で日本を訪れ東郷平八郎と会う機会があり、彼について深い尊敬の念を覚えたと手記に残しております。そして戦後、日露戦争の旗艦であった戦艦「三笠」が好き勝手に部品取られた挙句にダンスホールとして使われていることを知り、「もっと大事に保存すべきだ。俺も金を出す!」とわざわざ言い出し、これを受け日本国内でも三笠の保存運動が高まり現在の様に横須賀市で記念館的に保存されるきっかけとなりました。

 こういってはなんですが、真に武人らしい武人だというのが私のニミッツ評です。

2016年6月9日木曜日

猛将列伝~ゲオルギー・ジューコフ

 ゲオルギー・ジューコフという名前を聞いてどんな人物か即座に反応できる人はほぼ皆無かと思われます。実際にこのところ頻出のやけにツッコミの厳しい私の後輩にこの前尋ねてみたところ、

「ゲオルギー・ジューコフって知ってる? (´・ω・)」
「知りませんけど、なんか強そうな名前っすねヽ(・∀・ )ノ」

 という素直な回答が返って来ました。実際に強かった人だから名前だけの印象も馬鹿にならないものです。
 では一体ジューコフはどんな人かと言うと、二次大戦におけるソ連軍元帥で、実質的にナチスドイツを粉砕した軍事指揮官です。

ゲオルギー・ジューコフ(Wikipedia)

 ジューコフは1896年に帝政ロシアのモスクワ近郊に生まれますが、生家は貧しく十分な教育も受けられないままモスクワで労働者となります。しかし19歳の頃、第一次大戦で徴兵されたところ一兵士として勇敢な活躍が認められ下士官となり、続くロシア革命で共産党率いる赤軍に加入するや軍功を重ね、昇進を重ねて軍団長の地位にまで上ります。この出世の背景には貧困階層出身という彼の経歴も影響したと言われていますが、階級を否定する共産党内で階層がきっかけに昇進するというのもつくづくな気がします。

 その後、時代はレーニンからスターリンの時代へと移り、1930年代後半にはソ連内で軍属の大粛清が起こったもののジューコフはこの禍に巻き込まれず、極東地域の司令官に就任します。そこでは、彼の転機となるハルハ河が待っていました。
 個人的にこの「ハルハ河」という音が好きなのでよく多用するのですが、歴史に詳しい人であればこの言葉の意味するところをすぐに思い浮かべられることでしょう。このハルハ河というのは長いれ式上で中国とモンゴルの国境線に使われた河のことで、この境界線を巡り1939年に勃発したのが俗にいうノモンハン事件、日本とソ連が干戈を交えた戦争です。

<ノモンハン事件>
 満州国を設立した日本とソ連の間ではかねてよりこのハルハ河周辺の国境線をめぐり小規模な紛争が起こっておりましたが、両者ともに強い一撃で以って国境線を有利に画定させたいという意図の下、正式な宣戦布告なしに小競り合いから大規模な戦争へと発展したのがこのノモンハン事件です。この戦闘で日本の関東軍はかつての満州事変の勢いよろしく、拡大を望まない軍中央部の意向を無視してぐいぐいと進軍していき序盤はソ連軍を圧倒してハルハ河の対岸にまで追い込みますが、そこからのジューコフ指揮による反撃は文字通り戦況をひっくり返すようなものでした。

 かねてからジューコフは軍隊の機械化、簡単に言えばこれまで歩兵が中心となってトラックや戦車を随行させるという形態から、戦車やトラックに歩兵を随行させるというような、兵士から兵器を中心とした軍隊改革を主張していました。ただノモンハン事件勃発当初においてこうした機械化部隊はまだ実現してはいなかったものの、序盤の日本軍の攻勢を受けたジューコフはひたすら防戦に徹する一方、反撃に必要な兵士や資材を次々と戦場に送り込んで準備するとともに兵站線の拡充に努め反撃の機会を待ちます。
 勘のいい人ならわかるかもしれませんが、こうしたジューコフの戦略は後に二次大戦初期にナチスドイツが実行した「電撃戦」における軍隊思想そのものです。機械化により軍の攻撃力、進軍速度をかつてないほど高めた上で、進軍を支えるための補給の拡充に努めるというプランをドイツに先んじて部分的にジューコフは行っていました。後のポーランド進撃でこの機械化部隊の有用性は証明されることとなりますが、目の前で見ていたこれを見ていた日本軍はどうやら何も学ばなかったようです。

 話しはノモンハンに戻りますが、反撃に必要な軍備と兵員を揃えたと判断したジューコフは一気に反転攻勢へ出て、まずは左右から一気に進軍すると残った中央を覆い込むかのように包囲して日本軍を撃滅することに成功します。これにより日本側は一個師団が確か壊滅した上に大幅な後退を強いられ、国境線交渉においてほぼソ連側の言い分を飲まざるを得なくなりました。

 このハルハ河の一戦を以ってもジューコフは名将と呼ぶに十分ですが、彼がその名を真に歴史へ刻み込んだの二次大戦における独ソ戦の、スターリングラード包囲戦でしょう。

<スターリングラード包囲戦>
 独ソ戦序盤、ナチスドイツが好調に進軍してくる中でレニングラードの防衛司令官だったジューコフはこの地でドイツ軍の進撃をついに止め、続くモスクワ防衛戦にも部隊を派遣してこの首都の防衛にも成功して戦争を膠着状態へ持ち込みます。
 続いてジューコフが任されたのはスターリングラードを巡る戦いでした。こちらも歴史に詳しい方ならわかるでしょうが二次大戦における最大の戦闘で、「小屋一個を奪い合った」とまで称されるほどの熾烈な戦場で、欧州における二次大戦の分水嶺となったと言っても過言ではない戦いです。

 スターリングラードでは同じ都市の中でドイツ軍、ソ連軍が互いに入り込み双方で都市の完全占領を目指して戦い合う中、その周辺にも双方の大部隊が山脈の様に累々と対峙し合う状態でした。こうした状況でジューコフが採用した戦術というのはかつてノモンハンと同じく、といっても規模は半端なくこちらが大きいのですが、都市丸ごとの包囲を狙う「ウラヌス作戦」でした。
 この作戦の外相はスターリングラードを挟んで西側に陣取ったまま戦線が伸びきっていたドイツ軍に対し、比較的戦力の手薄なドイツの同盟軍であるルーマニア軍のいる南側から打ち崩し、そのまま北上することでスターリングラードを丸ごと包囲するという作戦で、この作戦においてもジューコフは何度も延期に延期を重ね準備を整えると、一気呵成に進軍してのけて反撃するドイツ軍を跳ね返しながら東西40km、南北50kmのエリアに20万人以上のドイツ軍、ルーマニア軍を閉じ込めることに成功します。ドイツ軍も最初は閉じ込められた部隊に空輸で補給を行いましたがとてもじゃありませんが間に合わず、最終的に閉じ込められた部隊はなすすべもなく降伏します。もっとも、降伏して捕虜となり、生きて帰って来れたのは一割もいなかったそうですが。

 その後、ジューコフは元帥に昇進して独ソ戦を指揮し続け、最終的にベルリンでドイツ側から降伏文書を受け取り占領軍最高司令官にも就任しています。戦後はその活躍ぶりからぶっちぎりの人気でスターリンからも警戒されますが、暗殺されることなく軍歴を継続し、スターリンの死後は彼の懐刀で秘密警察長官のベリヤを逮捕、処刑するなどソ連の安定化に努め、1974年に天寿を全うしています。

 ジューコフの戦争指揮は早くから機械化部隊の構想を持つという先進性もさることながら、「必要な兵力、必要な装備を整え必要な時期に叩く」という原則を徹底している点にあります。相手側の兵力などをきちんと分析した上で自分に必要な軍備はどの程度か、こうした点をきちんと把握して確実に勝てるという体勢になってから始めて本格的に戦うという、どちらかといえば慎重な戦法を取る人物だと見ています。
 ただ彼の場合、自軍と敵軍の比較に当たって全く情け容赦がないというか、自軍の犠牲を全く恐れずに決断を下すという点がほかの指揮官と大きく違います。彼自身の回想録でも日本軍やドイツ軍と比べてソ連軍兵士の質は一段と劣るということは把握しており、敵兵一人を殺すのにソ連兵は二、三人、下手すれば五人くらい必要だという計算でもって出撃させ、案の定、勝つには勝つものの戦死傷者数では実はどの戦いでもソ連軍の方が多かったりします。

 ノモンハン事件についても近年明らかになった資料によると戦死傷者で言えばソ連軍の方が日本軍より多く、また独ソ戦においてはソ連軍の死者はドイツ軍の約五倍という、一見するとどっちが勝利したのかわからないくらい戦死しています。
 ただ、それでもどちらの戦いでも勝ったのはソ連です。戦死傷者数の多寡は勝利には関係なく、戦略的な勝利目標をどちらが達成したのかといえばこちらも間違いなくソ連です。そういう意味でジューコフはソ連が圧倒的に物量で優れているということを把握した上で、その物量を惜しみなく使って戦略目標の達成を愚直に追いかけたと言えるでしょう。

 これと真逆なのは言ってて恥ずかしいですが日本軍で、相手兵力の分析もしっかりしていないばかりか戦略的にほぼ無意味と思える島の占領をした挙句、守る必要もないのに必死で防戦を続けて兵力をガリガリ削った上、後になって追加の防衛兵力を小出しで投入し、後半に至っては輸送する途中で船ごと撃破されたりと、何がしたくて戦争しているんだと素人ですら疑問に思う戦い方をしています。
 もっとも、戦争には強いですがジューコフ将軍の下で戦いたいかとなるとこれまた頭の悩ませどころです。聞いたところによると1920~1922年生まれのソ連男性の戦後直後における生存率は3%を切っていた(ほぼ全員が勲章持ち)そうですし、実際敵より味方の方を多く殺している将軍だしなぁ。

2015年7月13日月曜日

猛将列伝~宇喜多秀家

 猛将と呼ぶにはやや戦場のエピソードが少ない人物ですが、かといってカテゴリから離す理由もないので今日はこのカテゴリで宇喜多秀家について語ります。

宇喜多秀家(Wikipedia)

 宇喜多秀家は備前の豪族である宇喜多直家の次男として1572年に生まれました。父親の宇喜多直家については以前、親族だろうがなんだろうが謀略の上に暗殺しまくってリアルにサイコパスな人物だったと評したことがありますが、息子の方は幸いというかそんなサイコパスな性格は受け継ぐことはなかったようです。
 なお予断ですが、昨年の大河ドラマの「軍師官兵衛」では宇喜多直家役を陣内孝則氏が演じ、老獪な策士という直家の役柄を存分に演じられて強い印象を覚えました。またこのほか高山右近役を演じた生田斗真氏も見ていて惚れ惚れする演技ぶりで、このドラマは総じて役者の質が高かったとつくづく思います。

 話は戻りますが父の直家は秀家が9歳の頃に逝去したため、幼かった秀家は当時中国地方を攻略中だった秀吉の元で、ほかの加藤清正や福島正則といった子飼いの武将らと共に育てられます。そういう意味で今様に言えば「羽柴チルドレン」ともいうべき武将となったのですが、成人してからは朝鮮出兵などで武功を立てるなど宇喜多家の当主としてしっかり活躍しています。
 ただ秀家を語る上で外してはならないのは、ほかの羽柴チルドレンを差し置いて、徳川家康や前田利家らと共に五大老に任命されているという点です。元々秀吉の直参に近い立場であったことは間違いなくしっかりと信頼できる人間として任命されたことはまだわかりますが、同じく羽柴チルドレンの黒田長政や片桐且元などを置いて秀家が任命されたということは、やはりそれだけ秀吉から信頼されていたのかもしれません。なお秀家は五大老であったことから、在任中は領地になぞらえて「備前宰相」などと呼ばれていたそうです。

 このように出世街道を歩んだ秀家ですが、関ヶ原の前年に当たる1599年に家中で「宇喜多騒動」といって家臣内の内部分裂が起こり、勢力を大きく弱体化させてしまっています。なんかこの騒動についてはいろいろと軋轢があったと書かれてありますが、時期が時期だけに徳川家が仕掛けた謀略なんじゃないかなぁという気も少しします。

 そしてここが本題なのですが宇喜多騒動の翌年に当たる1600年、秀家は関ヶ原の合戦に自ら出陣します。彼が属したのは石田三成率いる西軍ですが一体何故彼は西軍についたのか、一説によれば同じく秀吉子飼いの武将だった大谷吉継同様にプライベートでも三成と仲が良かったため、彼に準じるような形で参戦したとなど言われており、率いた兵力は西軍中でも最大の1万7千人だったことからその熱意は相当なものだったでしょう。
 この関ヶ原の合戦で西軍に参加した部隊の中で真面目に戦闘を行っていた部隊としてよく、三成直参の島左近隊、そして敗北を見越した上で参戦した大谷吉継隊だけだったと言われますが、この秀家の舞台も最前線で福島正則の部隊とぶつかり合うなど激しい戦闘を行っております。よく大谷吉継ばかりが三成との友情に準じたとばかり言われますが、私個人としては秀家も吉継同様にそれなりに熱い思いでもって西軍に参加したのではないかと思います。

 ここで話は石田三成について触れますが、よく三成は賢かったものの偏狭で鼻にかけるところがあり人望がなかったなどと言われます。しかし上記の大谷吉継や宇喜多秀家の様に、彼との友情に殉じて骨身を惜しまず支援してくれる人物も案外多く、多くの史料中に、「嫌な奴だった」、「友達少なかった」とはっきり書かれていることは事実であるものの、仲良くなる相手とはとことん仲良くなれる人物でもあったのではないかという気がします。直接関が原には参加してないものの、あの上杉家の直江兼続も三成と一緒に行動しているわけですし。

 話は秀家に戻りますが、結果的には関ヶ原で宇喜多隊は壊滅して秀家も落ち延び、島津家に一時身を寄せます。しかし居所が幕府にばれたことによって出頭し、妻・豪姫の出身家である前田家や匿ってくれた島津家のとりなしもあって死罪は免れましたが宇喜多家は改易の上、八丈島に流刑となりました。
 八丈島では島の主としての身分が認められたもののそこはさすがに流刑地、生活は非常に厳しかったようで前田家からは毎年米70俵の支援を受けていました。そんな生活を秀家はなんと1655年に84歳で没するまで続け、既に時代は4代将軍家綱が治める頃となっていました。なおこの関ヶ原に参戦した武将としてはこの秀家が最も遅くまで生きていたこととなります。

 最後にまとめとして述べると、大谷吉継だけでなくこの宇喜多秀家も石田三成との友情に殉じ、なおかつ合戦中もそこそこ奮戦していることから、もっと評価されてもいいのではないかと思いこうした記事を書きました。なおこの記事を書くきっかけとしては、八丈島に流された後も宇喜多家は細々と命脈を保ち、明治の時代に至って現在の千葉県浦安氏に移り住んでからも続いてて徳川家などと同様に現代にも残っていることを最近知ったからです。現在の当主も2009年の岡山城の築城400年式典に参加されたそうですし。

  おまけ
 最近読んでいる漫画で長谷川哲也氏による「セキガハラ」という漫画があります。この漫画のあらすじを簡単に述べると、戦国武将が一人につき一つの超能力を持ってて豊臣秀吉の死去から関ヶ原の合戦に至るまでの間にあれこれ戦ったりする漫画なのですが、主人公はほかならぬ石田三成だったりします。
 この漫画の三成は自分の賢さを鼻にかける傲慢な性格でまだテンプレ通りの三成ではあるのですが、そのほかのキャラクターはさにあらず、一つの特徴がやたら大きくデフォルメされててとにかくみんなすごいことになっています。

 島左近はグラサン掛けた上にひげを蓄えたラッパー風になってて「誰これ?」状態ですし、今日取り上げた秀家は「友情こそ至高」という言葉が口癖のまんまフランス貴族な見た目してて、武器もサーベルです。そして大谷吉継は恐らく、包帯をまといながら関ヶ原に参戦したエピソードからでしょうが、包帯を操るミイラ男になっています。
 このほかだと徳川家康は健康オタクだったことから鍛錬好きな超ムキムキマッチョに描かれ、加藤清正に至っては虎退治どころではなく虎そのもの、淀君もすごいボディコンなくのいちに描かれてて、歴史漫画はこれまでたくさん読んできたけどこれほどいろんな意味ですごいデフォルメされた戦国武将を見るのはこの漫画が初めてです。


     

2013年4月18日木曜日

猛将列伝~李陵

 この連載では既に数多くのややマイナー気味な戦争指揮官を取り上げておりますが、今日ふとしたことから前漢の李陵という人物について書いていないことに気が付いたので、反省を込めて早速書くことにします。ちなみにその「ふとしたこと」というのは横山光輝の漫画「史記」を読み返したことなんだけど。

李陵(Wikipedia)

 中国史に興味を持って調べたことのある人、または相当な日本文学好きならきっとこの人のことを知っているでしょうが、それ以外の人はきっと誰も知らない人物でしょう。

 この李陵という人は項羽を倒した劉邦が打ち立てた前漢の後期に出た人で、ちょうど紀元前1世紀頃に活躍した武将です。彼が活躍した時代の前漢の皇帝は武帝という人物で、それまで控えめともいえる外交方針をひっくり返しシルクロードに当たる西域や朝鮮半島などへ遠征軍を派遣し領土拡張を積極的に図った皇帝でした。その数ある遠征の中で最も大規模だったのは北方の異民族、匈奴に対するもので、前漢は成立当初に劉邦自身が匈奴討伐に出たものの逆に散々に打ち負かされたことから、贈り物を送って友好関係を保つ融和策を採っていたのですが、この武帝はこうした関係に我慢ならず、匈奴内で内紛が起きていたこともあり一挙に討伐して制圧しようと考えたわけです。

 匈奴に対する遠征は何度も行われ戦果も上々だったことから、最終的に匈奴は前漢に対して服従するようになるわけなのですが、今回取り上げる李陵はその数ある遠征のうちの一つに参加して軍功を上げております。彼が参加した遠征は当初、李広利という将軍が総大将となり李陵は後方支援こと補給に従事するように指示されたのですが、妹が武帝の妃となったことから将軍になった李広利の下に就くことを代々軍人出身の李陵は嫌ったのか、わずかな兵でもいいから別働隊を率いさせてほしいと願い出ます。この願い出は叶えられ、李広利は3万、李陵は5千の兵隊をそれぞれ率いて匈奴討伐に出発します。

 こうして遠征に出たところ本隊の李広利の軍にではなく李陵の軍がいきなり数万もの匈奴の本軍と遭遇するのですが、圧倒的な兵力差がある中で李陵は見事な采配を示し、数に勝る匈奴を散々に打ち負かして撃退します。この時の大勝利は陳歩楽という武将が首都、長安に伝令して宮中は大いに盛り上がったのですが、手ごわい相手と見た匈奴はさらに兵力を増強して李陵軍に襲い掛かってきました。さしもの名将李陵でも数倍の敵軍相手に永遠と戦うことも出来ず、途中で矢玉も尽き、散々抵抗を行った上で匈奴に降伏しました。

 これに怒ったのは短気で有名な武帝で、別に責任ないのに最初に勝利の伝令に帰ってきた陳歩楽を散々に責めて自殺に追い込み、あれほど善戦したのだから降伏したのも苦渋の上での決断だろうと、群臣全員が非難する中でただ一人だけ李陵を弁護した天文官も気に入らずに投獄しております。ただ本当の悲劇はそれからというべきか、李陵をして悲運の名将と呼ばれる出来事はその後も続きます。

 李陵は降伏後、匈奴のボスに当たる単于に気に入られ部下として匈奴の軍隊を率いるように何度も誘いを受けますが、これを固辞していました。ただ李陵より先に匈奴に降伏していた李緒という人物がおり、漢軍に降伏した匈奴の兵が「李将軍の指揮で戦った」と証言したことから、李陵は降伏したばかりか裏切って漢軍に攻撃を加えていると誤解されてしまいます。これに怒ったのは短気で有名な武帝で、この報告を聞くや国内にいる李陵の一族を全員皆殺しにし、先に投獄した天文官に対しても追加とばかりに死刑を与えております。
 よく三国志の曹操は三族皆殺しをしているけど、量といい回数といい、武帝など前漢の権力者の方がえぐい気がします。

 この事実は後に誤報、つまり匈奴兵の言う「李将軍」というのは李陵ではなく李緒だということが長安にいる武帝たちにもわかるわけですが時既に遅く、刑はすべて執行されておりました。そして北方の地にいた李陵もこの事実を知り、事の原因となった李緒を殺害しております。ちょっと八つ当たりな気もしないでもないが。
 その後、李陵も踏ん切りがついたというべきか失うものが何もなくなったからか匈奴の娘を娶り、匈奴の武将として活躍し右校王という地位にまで昇り、そのまま北方で亡くなったと言われます。

 この李陵の悲運な運命は「山月記」で有名な中島敦が「李陵」という小説に書いておりますが、李陵と同時期に匈奴に囚われていた蘇武という外交官が最後まで従属せず、10年以上も厳しい環境に抑留された上で長安に帰国したエピソードと対比させ、文学的に言うならその運命の翻弄さを際立たせております。なお李陵と蘇武は匈奴の地で何度も会っており、李陵は蘇武に降伏を進めたものの頷かなかったことから陰ながら食料を送るなどして援助していたようです。

 もう一人この李陵を語る上で外せない人物として、勘のいい歴史好きならもう気づいていることでしょうが、武帝に怒られて死刑判決を受けた例の天文官がおります。この天文官こそ江戸時代までの日本で使われていた「太陽太陰暦」という暦を作り、「史記」という歴史書を編んだ司馬遷その人です。
 彼はどんだけ短気なんだよと問い詰めたくなる武帝の怒りを買って投獄、そして死刑まで受けますが、宮刑という屈辱的な刑罰を受けて宦官となることで死刑を免れています。当時の貴族こと士大夫層の間では宦官になるくらいなら死刑を受けた方がみんなマシだと思っていたようですが、司馬遷は父親の遺言である歴史書を完成させる使命を果たすため、恥を覚悟で宦官となる道を選んだと言われます。なお司馬遷の刑の執行後、さすがの武帝も自分の短気ぶりを反省してかわざわざ中書令という新たなポストを作って司馬遷を官界に復帰させております。本当に豆知識ですが、この中書令は日本で言うと関白みたいな仕事で、隋や唐の時代には実質的な宰相職になっています。

 司馬遷は史記の中でもきちんと李陵について触れておりますが、李陵に関わる一連の事件は司馬遷のパーソナリティに大きな影響を与えたということは想像に難くありません。そもそも武帝に向かって敢然と李陵の弁護を行ったという事実からも司馬遷は直言居士というか我の強い人物だったと思われますが、やはりこの事件を受け、自分の力が及ばぬ運命に翻弄された人物に対して非常に同情的な目を持つに至ったと思えます。
 詳しい人なら説明するまでもありませんが、史記というのは高い才能を持ちながらその力を発揮せずに没した人物が多数載せられており、それらに対して司馬遷は「時代に恵まれなかった」などと非常に同情的な批評を与えており、自身を投影した素振りがあります。敢えて言うなら史記は「敗者版プロジェクトX」、ガンダムで言うなら「MS IGLOO」の様な歴史書で、多分そんなんだから自分も大好きなんだと思います。自分もよく才能を発揮できていないと不遇をかこってますが、李陵や司馬遷に比べたら不平言ってる場合かよと毎回反省する次第です。

2013年2月15日金曜日

猛将列伝~藤堂高虎

 歴史好きの人間なら誰しも自分を重ねる歴史上の人物の一人や二人はいるかと思いますが、私の場合は一番重なるのはほかでもなく、新撰組局長の近藤勇です。理由はいくつかありますが学生時代に私は実家のある関東から大学のある京都へ学期ごとに往復しており、このルートが近藤勇の辿った足跡とほぼ完全に重なるからです。あと彼は水木しげる氏をして「星をつかみ損ねた男」と評されており、私もそうした生き方に変に共感するところがあります。
 ではこのほかに自分を重ねる人物はいるのか、戦国時代の人物で挙げるとしたら本日紹介する藤堂高虎が入ってきます。

藤堂高虎(Wikipedia)

 戦国史が好きな人物なら藤堂高虎のことは誰もが知っているでしょうし、その能力の高さから歴史ゲームではいわゆる「かわいがられる」キャラクターであります。私もこの前に「太閤立志伝5」というゲームでこの人を使用しましたが、そのあまりの能力値の高さによってゲームが簡単になってしまい、かえって面白くないという妙な状態に陥りました。

 ではそれほどまでにKOEIさんからも能力値が高く評される藤堂高虎はどんな人物なのかですが、簡単に言ってしまうと現在の三重県に当たる伊勢国津藩の藩祖です。彼の出身地は近江(滋賀県)で初めは地元の浅井長政に仕えており、織田家と浅井家が激突したあの姉川の戦いでは一兵士として奮戦しており浅井長政から感謝状も受け取っております。ただ主家の浅井氏が織田家によって滅ぼされるとその後は主を転々とし、豊臣(羽柴)秀吉の弟である羽柴秀長の家臣となったところで一気に世に出ます。
 羽柴秀長の家臣となってからはその才能を戦に、施政に存分に発揮し、秀吉からも高く評価され秀長の死後も順調に出世していきます。この時(安土桃山時代後期)の藤堂高虎の事績として注目に値するのは数多くの名城を築城している点で、和歌山城をはじめ宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城などと、森ビルや大林組も真っ青なくらいに全国各地で築城工事を指揮しております。「その時、歴史が動いた」の松平定知氏も藤堂高虎の高い築城技術を指摘した上で、コアコンピタンスを発揮して出世した好例だと以前に著書で評価しておりました。

 このように豊臣政権下で大活躍し出世を続けた藤堂高虎ですが秀吉の死後は真っ先に徳川家康の側につき、関ヶ原の戦いでも西軍大名の切り崩し工作を担当したほか大谷吉継隊とも死闘を行っており、家康から戦後は20万石に至る加増を受けております。その後の大坂の陣でも真正面で戦って奮戦したことから家康にも「有事の際には高虎を先鋒とせよ」と評されるなど絶大な信頼を勝ち取り、死の直前に枕元に侍ることを許された数少ない人物となっております。これらの業績から藤堂高虎の国津藩は江戸時代にあって「別格譜代」という扱いを受けており、外様大名でありながら譜代大名と同様の扱いを受けていたと言われます。

 以上が藤堂高虎の事績ですがよく言われる彼への評価としては、「能力は高いが主君を変え過ぎ」というものが大半です。本人も「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と居直っており、特に豊臣家から徳川家への転身ぶりには批判も少なくありません。ただ自分がそういうキャラだからかもしれませんが家臣が暇乞いした際には快く送り出し、他家で思うようにいかなくて戻ってきた際にはこれまた快く迎え入れて元の役職に就かせていたといいます。こうしたことから現代で言えば「風見鶏」と呼ばれた中曽根康弘元首相同様に、実力のある主君を見極め転身を図るのも一つの必要な才能と割り切っていた節があります。

 ただそのように仕官というか就職に関してはドライな感覚であったものの、数寄というか風流が全く分からない人物でもなかったようです。そう窺わせるエピソードがいくつかあるのですが一つは関ヶ原の合戦直後の石田三成との話で、捕縛された三成に「此度の戦、ご苦労でござった。ところで我が隊はどのように見えた」と尋ね、「鉄砲隊が良くないように見えた。指揮官を変えるべきでは」との答えに「まさにそのように思っていたところです。ご助言、ありがとうございます」と交わしたと伝えられております。
 また宇和島藩主だった時期に隣国の今治藩を修める加藤嘉明とは境界争いで不仲であったものの、蒲生騒動で会津藩を治めていた蒲生家が取り潰された際に後釜を誰にするか徳川秀忠に問われ、「要衝である会津を治めるに当たっては加藤嘉明が適任」と答え、遺恨なく実力の足る人物として推挙しております。

 このような藤堂高虎に対して何故自分がやたらと親近感を覚えるのかというと、良くも悪くもマイペースな人だからだと思います。周囲から「不忠者」と罵られながらもそれが処世術とばかりに次々と主君を変え、それでいて奉公人でいる間はこれと決めた主君のために手抜きせず存分に力を発揮する姿勢がビジネスライクで強い好感を覚えます。
 昔というほどでもありませんが二年前に同僚から、「花園さんが最初に勤めた会社は花園さんを持て余したのでしょうね」とやけに突然言われたことがありましたが、はっきり言って同じことを自分も考えて退社しました。忠誠といえば聞こえはいいですが、自身の才能を使い切れない会社というか環境に留まるのは自分以外にとっても損だと思え、たとえ後ろ指を指されてもより自身の成長を期待できる環境へ身を置こうと決断し、私は中国へ行きました。そうして実行した決断に価値があったのかどうかはこれからの自分にかかっているわけではありますが。

 それにしても「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という藤堂高虎のセリフ。自分はもう三回変わっているからあと四回しないと武士にはなれないのかなとか不遜なことを思っちゃったりします。

  おまけ
 藤堂高虎が起ち上げた津藩ですが、幕末の戊辰戦争の頃は幕府軍として出陣したにもかかわらず真っ先に官軍へ裏切っており、藩祖が藩祖だけに「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と罵られたそうです。

2012年10月3日水曜日

猛将列伝~朱元璋

 このところずっと中国史ネタをやってないので、意外と知らない人も多そうなので朱元璋について私なりに簡単に紹介します。

朱元璋(Wikipedia)

 朱元璋とくると世界史をやってる人には早いですが、14~16世紀に中国を支配した王朝である「明」の初代皇帝です。この明のひとつ前の時代は「元」といって、説明するまでもないですがモンゴル人の支配による王朝です。朱元璋は元々農民出身(しかもかなり貧乏)で、この元に対する白蓮教徒による反乱である紅巾の乱に参加したことから世に出ます。この反乱軍参加時に責任者の郭子興に気に入られ養女を嫁にもらったことから徐々に頭角を現し、郭子興の死後はその軍を実質的に引き継ぎ戦国時代と化していた中国で覇権を争うようになります。
 この時の朱元璋の行動で注目すべきは、自分が農民出身ということで同じく皇帝にまで上り詰めた前漢の劉邦を意識して参考にしていることです。たまに朱元璋を日本の豊臣秀吉と比較する人がおりますが、同じ農民出身ということでなくこう言った一種のパフォーマンスを取っていたということからも悪くない比較の仕方だと思います。

 朱元璋が後に中国の皇帝になれた大きな理由は知略に長けた功臣に恵まれたことはもとより、早くに南京を中心とした江南地方を手中に収めたことが何よりも大きいでしょう。当時の中国はたとえるなら今の北朝鮮と韓国のように南北で大きな経済格差があり、南方が圧倒的に裕福でした。元朝をはじめとしたその時々の王朝は隋朝時代にできた大運河を使って南方の物資を北に運ぶことで経済をまわしてきていたのですが、ライバルの漢民族の軍閥を蹴落としてこの裕福な南方を得たことによって、北京に居座る元朝との対決を非常に有利に進めることが出来るようになりました。
 私見ながらやはり朱元璋が偉大だと感じるのは、彼一代で軍閥を起ち上げた上にモンゴル民族を打ち破り中国統一を果たしていることです。ほかの王朝なんかは大抵は初代が王朝というか軍閥を起ち上げるところまでやって、中国統一は二代目以降がというパターンが多いのですが、朱元璋の場合は彼一代でこの難事業をやり遂げております。そういう意味では行動力というかパワーというか、とにかくそういったものに溢れている皇帝像を思い浮かべます。

 ただこの朱元璋、知ってる人には有名ですが性格に色々難があります。とにもかくにも猜疑心が強く、中国統一後は創業の功臣を片っ端から誅殺しております。何もこんなところまで劉邦をまねなくったっていいのに。そのため現代に伝わる彼の肖像画は二種類あり、片っ方はいかにも中国画って感じの恰幅のいいカーネルサンダース然した叔父さんですが、もう片っ方はネズミみたいな顔した、なんていうかヤクザのチンピラっぽい顔で書かれておりこちらの方が実像に近いと言われております。
 彼の誅殺ぶりを表す一つのエピソードして空印事件というものがあるのですが、これは帳簿の数字を修正する場合は今の日本のお役所仕事と同じように一からやり直さなければならなかったことから、あらかじめ印鑑を押した記入前の帳簿を作っておくという裏テクが明代のお役所でも公然の秘密のような感じで行われていたようですが、これを朱元璋が「意味ないじゃん!」と言って関係部署の人間、または作っていた人間をまとめて死罪にしたそうです。このほか彼の奥さんの馬皇后も、病気になった際に夫が送ってきた医師の診察を一切受けなかったそうです。というのも仮に診察を受けても治療できなければ、怒って旦那がその意思を殺すとわかってたからです。

 このように朱元璋は苛烈な性格をしていたことは間違いなく、中国語で「我的东西是我的,你的东西还是我的」と中国語がわかる方なら即意味が取れるでしょうが、「お前の物は俺の物、俺の物も俺の物だ」とジャイアンに約600年先駆けてこんなことを言うくらいな人だったらしいです。ただこうした苛烈な性格は周囲、特に本人の学歴コンプレックスもあって文人官僚などに向けられることはあっても、一般庶民に対しては自分が貧農出身だったことから比較的寛大な政策が取られており、反乱軍参加時も略奪などの行為は他の軍の比較して極端に少なかったそうです。そのため庶民からの人気は絶大で、上記のように豊臣秀吉といろいろかぶってくるわけです。

 ただ彼の不幸は後継者と目論んでいた長男が早世し、二代目を継いだのが長男の息子、つまり朱元璋の孫(建文帝)になったことです。政権を盤石にするために功臣をすべて排除していたものの、親戚には甘かった朱元璋は第四子である朱棣には北京で大規模な兵権を預けたままで、朱元璋の死ぬとこの朱棣があっさり反乱を起こして建文帝を殺害し、自らが第三代皇帝の永楽帝となります。
 中国文学者の高島俊男氏なんかはこの過程を現代中国にも当てはめ、重農主義だった朱元璋(毛沢東)の後に永楽帝(鄧小平)が立ち、永楽通報という通貨を流通させるなど市場経済主義に改変せしめたと指摘し、明代と同じように今の中国共産党帝国は寿命の長い王朝になると分析しておりますが、なかなか頷ける話だと私も思います。

2012年1月26日木曜日

猛将列伝~袁崇煥

袁崇煥(Wikipedia)

 なんか思うところあって中国の明の時代を調べていたら面白そうな人がいたので、ちょっと取り上げておきます。
 袁崇煥は明末期(17世紀前後)の武将ですが、元々は軍人ではなく文官でした。35歳で当時の官僚採用試験である科挙に合格後は地方官でありましたが、38歳のころに諜報関係の役職に就くと当時から力を持ち始め国境を侵食し始めていた、後に明を滅ぼして清王朝を作る女真族こと満州族について徹底的に調べ上げます。その後、報告書にて当時の対満州族最大の防衛拠点であった山海関の外に寧遠城という要塞を築くように進言して自らがこれを築城します。
 この寧遠城ですが、Wikipediaの記述をそのまま引用すると、「城壁の高さは10.2m、城壁の厚さは基底部で約9.6m、上部で約7.7mあり、ほぼ方形で、4つの門をもっていた。」となっており、非常に大規模な要塞だったことがわかります。さらに袁崇煥はこの城に周囲の反対を押し切ってポルトガルから直輸入した大砲を取り付け、「紅夷砲」と名付けて満州族に備えました。

 こうして準備万端整えた袁崇煥に対し、満州族を統一して「清」を作った太祖ヌルハチ率いる軍が1628年に一斉に攻め寄せてきたのですが、なんとこの戦いで袁崇煥率いる寧遠城守備隊は敵を散々蹴散らすほどの大勝を挙げて見事撃退に成功しております。しかもこの戦闘の直後にヌルハチは病死しており、一説には戦闘で負った傷が元となって戦死したのではないかとまで言われています。この翌年、ヌルハチの後を継いだ二代目ホンタイジも、何気に瀋陽市でこの人のでっかい墓を直接見に行ったこともありましたが、父の敵を討たんとばかりに再度攻め寄せますがこれも見事撃退しております。

 こうした活躍から袁崇煥は明朝で昇進を遂げ、恐らく文官出身ということもあるでしょうが三国志の名軍師である諸葛孔明になぞらえるまでに讃えられたそうです。ただいつの世もいいことは長く続かないというか、二度も大敗したことによって相対するホンタイジも袁崇煥は一筋縄でいかないと考えたのか、迂回策を取って彼を追い詰める作戦に出ました。
 なんていうか中国史では本当によくあることで真面目に「またかよ」と言いたいのですが、ホンタイジはスパイを使って北京にいる宦官を買収し、袁崇煥が謀反を考えているという噂を宮中に流したそうです。でもってそれをまた真に受けちゃった当時の皇帝こと崇禎帝は袁崇煥を召還するとあっさりと袁崇煥を処刑してしまい、その後はセオリー通りというか同じ漢民族である李自成による反乱軍に北京を包囲されたことによって明朝は崩壊することとなりました。

 こうして袁崇煥の活躍は「亡国で善戦した名将」として決して報われることのない歴史に刻まれたわけなのですが、彼の子孫らはその後、袁崇煥が戦った清軍に身を投じてあちこちで活躍するなど脈々と受け継がれ、なんと8代目の人なんか日清戦争にも従軍していたそうです。名将の血は裏切らないと言うべきか。

 最後に一つ北京の観光案内をしておきますが、北京で一番の観光地とくれば天安門こと紫禁城です。この紫禁城はまさに今回紹介した明代から使われているのですが、ここのかなり奥まった場所には景山という裏山があり、そこにはなんと追い詰められた崇禎帝が首を吊った木というものが存在しています。実際には元の木は文革期に切り倒され、っていうか明らかにそれ以前からもうなかったんだろうけど、今植えられている木は新しく植え直した木だそうです。まぁその木の辺りで首吊ったのは間違いじゃなさそうですけど、こういうのも案外観光地になるんだなといろんな意味で感心させられる場所です。

2011年9月10日土曜日

猛兵列伝~藤田信雄

 恐らくこのブログのメインコンテンツの一つである、ちょっとマイナー感のある指揮官を取り上げる「猛将列伝」ですが、このところどうもネタ切れ感が否めません。もちろん有名どころを取り上げればまだまだいくらでも続けられるしマイナーな小話を加えて面白く書く自信もありますが、何となくそこまでして続ける気にはなりません。
 そこで今日は方針転換というか、指揮官ではなく末端のある一兵士を取り上げようと思います。

藤田信雄(Wikipedia)

 この藤田信雄氏は旧日本海軍のパイロットだった方です。この方がどのような人物かというと、歴史上唯一、アメリカ本土への空襲を成功させた人物です。

 事の起こりを話すにあたってまず当時の状況を説明します。日米は1941年の真珠湾攻撃をきっかけに戦争に突入しました。その翌年1942年4月21日、すでに海軍パイロットとして高い実績を作っていた藤田氏は海軍軍令部に呼ばれ、アメリカ本土へ空襲を実行するよう命令を受けます。

 はっきりと因果関係は書いてはいないものの、恐らくこの命令の背景にはこのわずか3日前にあった「ドーリットル空襲」が影響しているように私は思います。ドーリットル空襲について説明すると、当時の日本は太平洋で連戦連勝を重ねていてアメリカ側もさすがにこの時は気分的に沈んだ状態だったようです。そこでアメリカ国内の戦争士気を高めるために印象の強い作戦を実行しようという話となり、太平洋上から爆撃機を飛ばして日本本土を直接空襲するという案が採用されました。
 空襲すると言っても当時制海権は日本側が圧倒的に握っており、一度飛ばした飛行機を回収するまで空母が洋上で待つのはほぼ不可能であったため、最終的には飛び立った爆撃機はそのまま日本を通過し、連合側であった中華民国にて着陸、帰投するという大胆な作戦となりましたが、結果的には前触れもない本土への直接攻撃に当時の日本軍部は大いにうろたえたそうです。

 このドーリットル空襲から3日後、恐らくそれならばと日本からもアメリカ本土を直接攻撃してやろうと軍部は考え、その実行手として藤田氏が選ばれたそうです。ただ空襲するにしても日本本土からアメリカまで言うまでもなくとんでもない距離があり、その間にはアメリカ側も潜水艦などで防衛しているわけですから並大抵のことじゃありません。それ故に藤田氏も生き残る自信がなく、出発前日には遺書を書いたそうです。
 作戦は伊25という潜水艦にEY14という飛行機を折りたたんで収納し、アメリカ本土まで近づいて焼夷弾を落とすというかなり無茶な内容でしたが、8月15日の出発から約一ヶ月後の9月9日、藤田氏らはアメリカの艦船に見つかることなく見事アメリカ本土へ近づくことに成功した上、カリフォルニア州とオレゴン州の境目に森林火災を起こすため焼夷弾を落とすことにも成功しました。その3週間後の9月29日にも藤田氏は出撃し、またも焼夷弾落下に成功して無事潜水艦に帰投、さらには日本への帰路も潜水艦は撃沈されることなく見事に帰還を果たすことができました。

 これだけ難度の高い作戦を実行した藤田氏でしたが、帰ってくるなり軍部からは、「戦果は木を一本折っただけではないか!」と激しく叱責されました。というのも爆撃直前に雨が降っていたことと、空襲が現地のアメリカ人に見つけられていたために、空襲には成功したもののすぐに火は消火されていたようです。とはいえ生きて帰ってこれた藤田氏はその後教官として軍に在籍しつづけ、そのまま終戦を迎えました。

 これで話が終われば戦時中の本当に些細な一エピソードで終わるのですが、1962年のある日、工場勤めをして生活していた藤田氏は突然政府から呼び出しを受けます。呼び出された都内の料亭にはなんと時の首相の池田隼人と官房長官の大平正芳がおり、藤田氏のことをアメリカが捜しているためそのままアメリカへ行くように、またこの件について日本政府は一切関知しないと告げられました。この池田元首相の言葉はいうなれば、アメリカ現地で戦犯として裁かれても日本は一切救いの手を差し伸べないと言っているも同然です。
 この突然の事態に藤田氏も観念し、いざとなった際に自決するために先祖代々受け継がれてきた日本刀を忍ばせアメリカへ向かいました。そして戦々恐々とアメリカの空港へ降り立った藤田氏を待っていたのは、たくさんの歓声と笑顔あふれるアメリカ人達でした。

 というのもアメリカが何故藤田氏を探していたのかというと、藤田氏が空襲したブルッキングズ市のフェスティバルにゲストとして呼びたかったためでした。もちろん現地では大歓迎で、藤田氏も藤田氏で自決用に持ってきた日本刀をそのままブルッキングズ市へ寄贈してしまうほどだったようです。
 しかもあまりの歓迎ぶりに感激した藤田氏はその後、自費でブルッキングズ市の3人の女子学生を日本に招き、またブルッキングズ市へもその後何度も足を運んで自らが空襲した場所に植林をするなど交流を続けました。1995年には84歳という高齢ながらも、当時の市長らをセスナ機に載せて自分が空襲した航路をなぞるという荒技まで披露しております。

 その後1997年に藤田氏は永眠されますが、死の直前にはブルッキングズ市の名誉市民の認定を受けました。藤田氏がここまで現地に受け入れられた背景には空襲をしたものの死傷者が誰一人いなかったというのが何よりも大きいでしょうが、それにしたってアメリカ人の戦後はノーサイドともいうべきこのフレンドリーさには頭が下がります。また好意的な解釈をするならば、戦時中に行きも帰りも非常に困難な航路だったにもかかわらず幸運にも日本への帰国を果たせたのは、戦後に交流を長くに続けた藤田氏という人物を生かせようとした天の配慮によるものだったのかもしれません。

 それにしても「日本政府は一切関知しない」と言った池田元首相ですが、恐らくアメリカが捜している背景を本当に知らなかったんだと思うけど、結果的には国家ぐるみで藤田氏をサプライズパーティにかけただけじゃないかと思わずにはいられません。ここまで脅かすことなかったのに……。

2011年1月29日土曜日

猛将列伝~鈴木貫太郎

 私は現在中国メーカー製のシャンプーを使っているのですが、使い心地は悪くはないものの今ある分を使い切ったら日本にいた頃から使っているLUXに切り替えようと思っていたところ、旧正月前ということで会社から社員全員へ今私が使っているのと全く同じシャンプーが配られました。ありがとう、総務部長よ。

 この猛将列伝は陽月秘話時代からずっと続く企画記事ですが、当初は中国古代史の武将を取り上げるだけ取り上げてすぐ終わりかと思っていたところ現在に至るまで続いてて書いてる本人もビックリな企画記事です。内容にもそこそこ自信があり、陽月秘話時代ではあまりよそでは取り上げられない宮崎繁三郎などの記事を取り上げたことからアクセスゲッターとして十二分に活躍し、名実ともに私のブログのキラーコンテンツでありました。そんな猛将列伝ですが先日はちょっと珍しく中世ドイツのヴァレンシュタインを取り上げましたが、今日も今日でちょっと異色というか、終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎を取り上げます。

 鈴木貫太郎と聞けばその名前を知っている方からすれば恐らく終戦時、つまりポツダム宣言受諾時の総理大臣として記憶しているかと思います。総理大臣と言えば軍人もなったりはしましたが名目は文官職、それがどうして猛将になるのかですが、実は鈴木貫太郎は元々は海軍軍人でした。

 彼は関宿藩士の家に生まれて海軍軍人となり、日露戦争にはあの日本海海戦にも駆逐隊を率いて従軍しております。この日本海海戦の折、これは鈴木の部隊に限るわけではないですが日本海軍は司令長官の東郷平八郎自身が晩年に至るまでも、「一撃必殺の砲よりも威力は小さくとも百発百中の砲がよい」と言ってただけあって狙撃精度の向上のため決戦を前に猛訓練を重ねていました。この訓練では確か前に読んだ本によるとあらかじめ決戦用に取っておいた弾薬を訓練で三回くらい使い切り、その度に本土から補給を受けたほどだったそうです。
 その訓練時、鈴木は自身が率いる部隊に対して特別厳しい訓練を課してそれゆえに「鬼貫」という異名までついたそうなのですが、いざ決戦が始まるや鈴木の部隊は目覚しい活躍を見せ、戦艦三隻、巡洋艦二隻を撃沈するという大戦果を上げ、参謀の秋山真之から一隻はほかの艦隊の手柄にしてやってくれとまで言われたほどだったそうです。

 海軍では最終的に最高位の軍令部長にまで出世しますが、その後鈴木は昭和天皇の要請に応える形で天皇の側近中の側近こと侍従長に転任します。一般的にはこの侍従長時代の姿が鈴木の姿として認知されていますが、この頃の昭和天皇の鈴木への信頼は絶大で、元々鈴木の妻のたかが幼少時の昭和天皇の教育係をしていたこともあって何事に付けても相談を受けるほどの間柄だったそうです。

 ただこの侍従長就任は鈴木に対して厄災も引き寄せ、鈴木は天皇を惑わす君側の奸として右翼軍人らに見られたことから二・二六事件の際には決起軍人らによって自宅にて襲撃を受けました。その襲撃の際に鈴木は銃弾三発を受け、そのうち二発は左頭部と左胸に命中しているのですが、なんとこれほどの大怪我を負いながらも鈴木は何とか一命を取り留めております。
 聞けば鈴木が撃たれた直後、決起軍人らは当初鈴木に止めを刺そうと一旦は軍刀を抜いたのですがその際に妻のたかが咄嗟に、「もうこれほどの怪我を負っているので夫は助からないでしょうに。それでも止めを刺そうというのならば私が致します」と軍人らに訴えかけ、これを聞いた軍人らは軍刀を鞘に納めて引き上げていったのですが、彼らが引き上げるやたかは鈴木を急いで病院へ運びその命を見事救いました。この時に鈴木は心臓も一旦停止したとのことで賢妻のたかの機転がなければまず間違いなく生き残ることは出来なかったでしょうが、銃弾三発を受けながらも生き残るというバイオハザードのゾンビも真っ青な鈴木の不死身ぶりには目を見張ります。

 これ以前にも鈴木は子供の頃に暴れ馬に蹴られかけたり釣りをしてたら川に落ちたり、海軍時代も夜の航海中に海に落ちるなど何度も死にかける経験をしているのですが、日本版ダイ・ハードとも言ってもよい驚異的な生存力と奇跡的な幸運によってどれも無事に生還しております。
 またこの二・二六事件の際に昭和天皇は鈴木が襲撃を受けたという報告を受けるや憤慨し、即座に決起軍人らを反乱軍と認定して自ら出陣して鎮圧するとまで意気込んだそうです。私が知る限り感情表現を常に抑えていた昭和天皇がこれほど強い感情をほかに見せたのは張作霖爆殺事件後の報告を行った田中義一に叱責を行った時くらいで、それだけ昭和天皇と鈴木の関係が密接だったことが伺えます。

 この二・二六事件後に鈴木は枢密院議長などの役職を経て、1945年4月から終戦時まで総理大臣の役職に就きます。この鈴木の総理就任は昭和天皇の強い意向と、木戸幸一を始めとする終戦工作派の根回しがあって実現したとされ、これが事実だとするとこの時点で昭和天皇は終戦を希望していたと考えられます。総理就任時の鈴木の年齢は77歳。これは現時点においても総理大臣としては最高齢の主任年齢で当時の時局を考えると明らかに異例な人事です。だが鈴木は老齢ながらも昭和天皇の希望の通りに終戦工作を行い、最終的に御前会議を持ち出すことで見事日本を終戦に導くことに成功しました。

 生前に松本清張は、たとえ東条英機がいなくとも誰かが代わりとなって太平洋戦争は起こった(その代わりヒトラーの代わりはいなかったとも述べている)だろうと述べており、私も当時の日本陸軍を見るにつけこの松本清張の意見に賛同します。その一方、では鈴木の代わりとなって日本を終戦に導けた人間は当時ほかにいたのかとなると、こちらは少し思い当たる人間が出てきません。敢えて挙げるとしたら鈴木同様に昭和天皇からの信頼も厚くそれ以前に総理大臣を経験している米内光政がおりますが、果たして米内であれほどスムーズに終戦にまで至れたかとなるとなかなか考え物です。一部で玉音レコードを奪取しようと襲撃こそ起こりましたが、はっきり言えば出来過ぎなくらいに日本は八月十五日を終えています。
 それだけに仮に鈴木が二・二六事件の際に死去していたら、私は日本の終戦の形は大きく違っていた可能性があると思います。私も一応日本人ですから、よくあの時に生き残り終戦という大仕事を成し遂げてくれたと鈴木貫太郎に対しては強い尊敬の念を持っております。


  おまけ
 鈴木の出身地は現在の千葉県野田市関宿町なのですが、去年の夏に実家から近いことからうちの親父と久しぶりに関宿城を見に行こうとドライブに行った際、たまたまこの地域にある鈴木貫太郎記念館を見つけて訪れました。右手指と両足の指がしもやけになるくらいこのところ寒くて去年の馬鹿みたいに暑い夏のことを思い出してたらこの時のことを思い出し、今回の記事を書くきっかけとなりました。
 これに限るわけじゃありませんが私の記憶は突拍子もなく何かを思い出すことが多く、そもそもこの時に関宿城に行こうと思ったのも私が中学三年生くらいの頃にその時もまた親父と車で行ったのを思い出したのがきっかけでした。

2011年1月9日日曜日

猛将列伝~ヴァレンシュタイン

 先日ネットのニュースにて、すでに二十年以上も連載が続いているファンタジー漫画の金字塔と呼ばれる「ベルセルク」が映画にて映像化されるという話を聞きました。ベルセルクとくれば昔の知り合いがすごい好きでそいつに紹介される形で私も読み出し、現在も新刊が出ていれば必ずチェックする漫画の一つなだけに映画化と聞いて素直に喜ぶ一方、私だけじゃないだろうけどストーリーがめちゃ長い漫画なだけに本当にできるのかという不安がこのニュースを見てよぎりました。
 さてベルセルクとくれば中世ヨーロッパ、それも神聖ローマ帝国時代のドイツを模したような世界が舞台の漫画で、物語序盤までは主人公も所属している「傭兵団」の存在が非常に大きなキーワードとなっております。このヨーロッパにおける傭兵についてですが、大体十字軍の時代ごろから定着したようで14世紀には名高いスイス人傭兵が各国の戦争で使われるようになり、国民軍がこれに取って代わるフランス革命期までは事実上戦争の主役だったそうです。そんな傭兵団において最大規模の勢力を率いたのが、今日紹介しようと思うヴァレンシュタインです。

アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(Wikipedia)

 高校にて世界史を勉強していた方なら名前だけ覚えているかもしれません。彼は国家という概念で初めて行われたというドイツ三十年戦争において活躍した傭兵隊長で、教科書によってはワレンシュタインという名前で紹介されています。

 ヴァレンシュタインはボヘミアの小貴族の家に生まれ、元々はプロテスタントでありましたが早くにカトリックに改宗して総本山のイタリアに留学しております。そのイタリアでの留学帰国後から傭兵業を営むようになったのですが、当時のドイツ、というよりヨーロッパはアウグスブルクの和議を経てピークこそ過ぎていたものの未だに新教(プロテスタント)と旧教(カトリック)の対立が激しく、ドイツにおいては各地域を支配する領主によってその信仰が決められておりました。これはつまりその地域の領主がカトリックなら領民以下はカトリックを信仰せねばならず、逆にプロテスタントならプロテスタントにならなければならなかったというわけです。向こうの価値観ではいちおうこれでも名目上は信仰の自由は持たれたと解釈していたようですが言うまでもなくこれだと領主のみしか自由はなく、領民らについては信仰の自由は未だにありませんでした。

 そこでやはりというか起きたのが、三十年戦争の発端となったボヘミア反乱です。当時のボヘミアを支配していたのは後のマリー・アントワネットをも連ねるハプスブルグ家なのですが、この一族は代々熱烈なカトリック一家で当時支配していたボヘミアにおいて新教徒の弾圧を行ったそうです。これに対してボヘミアにおける新教徒の貴族らは反発して領主であるハプスブルグ家に反乱を起こしたわけなのですが、この騒動に目をつけた周辺諸国は同じプロテスタントの同志を救うという名目の元、本心は勢力を拡大するハプスブルグ家を叩く為に続々と戦争に参加して泥沼化したのがこの三十年戦争の大まかな姿です。こんな具合で起こった戦争だったので、中にはハプスブルグ家と同じカトリックの癖にフランスはプロテスタント側で戦っております。

 当初、この戦争は新教側が優勢だったのですが苦戦するハプスブルグ家に対して助力を自ら申し出てきたのがヴァレンシュタインでした。彼は自身が募集し、訓練した傭兵団二万を率いて颯爽と現れるとドイツに押し寄せていたデンマーク軍を次々と撃破して逆にデンマーク領を侵すまでに進軍を行ったのですが、彼のあまりの活躍ぶりと彼が取った免奪税などの軍税に対してドイツ諸侯から批判が起こり、功績に対する褒賞として領土を得たものの軍指揮官職を罷免されてしまいました。

 ここで彼の取った軍税について説明を行いますが、当時の傭兵団は傭兵を派遣する領主や貴族は派遣先から派遣費を受け取るものの、派遣される傭兵自身は活動期間中に雇い主から給金を支払ってもらうことはなかったそうです。そのため領主らの命令とはいえ戦地で戦ったとしても何も得るものがなく、その代わりの対価とばかりに占領地で略奪を行うのが常で、この三十年戦争によってドイツ内の諸都市が大いに荒廃する一因となったそうです。
 その中でも一際有名でプロテスタント側を勢いづかせるきっかけとなったのがマグデブルクの戦いで、新教勢力が立てこもるマグデブルクという都市をを旧教勢力が陥落させたものの、陥落後は傭兵の統制が利かず大いに略奪が行われたために当時三万人いたマグデブルクの人口が陥落後はわずか五千人にまで減少し、しかもその生き残りのほとんどは成人の女性だったそうです。

 こうした傭兵の略奪は当時としてはよくあることだったのですが、ヴァレンシュタインは自分の傭兵団においては傭兵一人一人に対して給金を支払う代わり、一切略奪を禁じていました。この給金の出所は自分の領地から来る収入を充てていたのですがこれだけではもちろん足りるわけがなく、そのために彼が創設したのが占領地において軍隊が市民に課す免奪税でした。この免奪税はその言葉の通りに「略奪を行わない代わりに取る税」で、彼は戦闘期間中に占領した各都市から勝手にこのような税金を取って傭兵らへの給金に充て、その後似た手法が他でも採用されるなどその後の軍政史に影響を与えています。西郷札も広義で軍税に入るかな。
 この給金を支払って傭兵を率いるやり方は当初はうまくいっていたようです。しかし戦争が続くにしれそのうわさを聞きつけた他の傭兵らが続々と参加したことでヴァレンシュタインの軍は徐々に肥大化し、最盛期には十万を越す大軍団にもなってしまったようです。もちろんこれだけの人数の軍隊は当時のヨーロッパにはなく軍勢だけならヴァレンシュタインはナンバー1となったのですが、逆にこれだけの人数となると維持をするのも大変で恐らくその軍税の取り立ても人数に比例して激しくなっていき、それが諸侯らの反感を買って罷免される原因となったのでしょう。

 こうしてヴァレンシュタインは一時罷免されたのですが、彼が降ろされるやデンマーク軍に変わり今度はグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍がドイツに侵入してきました。友人曰くこの時が、「スウェーデンが一番輝いた時期」というだけあってスウェーデン軍は連戦連勝し、これにうろたえたハプスブルグ家は罷免していたヴァレンシュタインを再び指揮官に任命することを決めました。この再登板の際、ヴァレンシュタインは前の一件で相当懲りたのかハプスブルグ家に対してかなり交渉で粘り、軍指揮権全権や外交権を認めさせ、そしてわからない人はいいですが皇帝選帝侯位まで求めたといわれております。

 こうして復職したヴァレンシュタインですが再任後に任された部隊は自分子飼いの軍隊でなかったため当初は苦戦するも徐々に戦線を押し返し、最終的にはグスタフ・アドルフ自身の不注意(霧の中一人で敵軍に突っ込んだらしい)もありますが彼を戦死せしめることに成功します。ただこのグスタフ・アドルフ撃破は彼自身の命取りにもつながり、最早脅威はないと判断したハプスブルグ家は用済みとばかりにヴァレンシュタインを暗殺しました。ヴァレンシュタインは元々成り上がりということで嫌われていましたし、また彼の豊富な軍事的才能が恐れられたというのもあるでしょうがこの暗殺により旧教側は足並みが乱れ、その後フランスの参戦によって再び劣勢に立たされる事になります。この時ヴァレンシュタインを暗殺したハプスブルグ家当主、というより神聖ローマ皇帝はフェルディナント二世ですが、少しは反省位すればいいのに。

 ヴァレンシュタインについては以上のような人物なのですが、大規模の軍隊を長期に維持するなど戦略家としてみるなら稀有な才能の持ち主と言えるでしょう。それだけに強過ぎるゆえに警戒され同じく暗殺された前漢の韓信と重なって見えます。
 最後に話は戻って漫画の「ベルセルク」についてですが、この漫画における主人公の宿敵ことグリフィスも傭兵団を率いて活躍するもその後彼自身のヘマもありますが投獄、拷問を受けることとなります。グリフィスは結局ベヘリット使ってゴッドハンドになったけど、ヴァレンシュタインはそうはならなかったのかな。

2010年7月13日火曜日

猛将列伝~信陵君

 中国戦国時代において軍事、内政それぞれの分野で並々ならぬ才能を持つ人物は数多くおりますが、その中でも屈指の人材ともなると私の中でまず挙がってくるのはこの信陵君です。

信陵君(Wikipedia)

 信陵君というのは通称で本名は魏無忌ですが、彼はかつて私が書いた「孟嘗君と馮驩」の記事にて取り上げた孟嘗君と同じく、戦国時代後期において高い評価を受けたことから並び称された「戦国四公子」と呼ばれた四人の一人です。この信陵君は魏王の弟でしたがかねてからその優秀さは群を抜いており、それゆえに王位を奪いかねない人物だとして実の兄からは警戒されておりました。

 そんな魏王を恐れさせた信陵君のエピソードに、信陵君が魏王と碁を打っていると隣国から軍団が近づいているとの報告があり、すわ戦争かと魏王が慌てたのに対して信陵君は隣国が狩りに出かけているだけなので慌てる必要はないと全く動じませんでした。果たしてしばらくするとまた新たな報告があり、信陵君の言う通りにその隣国の軍団は獲物の狩りのために出撃していたことがわかり、どうしてわかったのだと魏王が尋ねると信陵君は、自分は独自の情報網を持っており今日隣国が狩りに出かけるとすでに報告を受けていたからだとこともなげに答えました。

 終始こんな感じなので王である兄は信陵君を常に警戒していたのですが、ある年に魏の隣国の趙が秦に攻めこまれて首都を包囲されたため救援を求めてきました。趙には信陵君の姉が嫁いでいたために信陵君は王に救援を志願しますが、勢いのある秦に真っ向からぶつかるのは危険だとして魏王はこれを却下しました。
 やむを得ず信陵君は自分のわずかな手勢のみで救援に向おうとした所、門番の身分ゆえに誰も相手にしなかったものの信陵君だけが賢者だとして慕っていた侯嬴という老人から助言を受け、その助言に従って信陵君は魏の正規兵を指揮下に納める事に成功しました。そしてその兵を率いて趙を訪れるやあっという間に秦を撃退し、趙の救援に成功したわけです。

 ただ信陵君が正規兵を率いるに当たり兄である魏王の命令に逆らって行動したため、信陵君は兵だけを魏に帰すと自分は帰国せずにそのまま趙に止まりました。信陵君はその趙でもあまり身分がよくないものの賢者と呼び声の高い毛公と薛公という二人の人物とまた親しく交際するようになり、信陵君は身分を問わずにその才能で相手を見てくれるとますます人気が高まりました。

 しかしその一方、信陵君の去った魏では恐れていた信陵君がいなくなった事から逆に秦に何度も攻め込まれるようになり、年々その勢力を弱体化させていました。この危機的な事態に魏王は信陵君に何度も帰国を促しますが、暗殺が横行していた時代ゆえ、信陵君は謀殺されるのを恐れてその要請になかなか応じませんでした。
 そんな信陵君を見て、先程の毛公と薛公がこのように諭しました。

「あなた(信陵君)は魏あっての人物なのです。今諸国があなたを評価して競って求めるのは魏という母国があってのもので、仮に母国が滅亡しましたらあなたの正義はなくなり、誰もついてこなくなるでしょう」

 この言葉を受け信陵君はついに魏に帰国し、救援に来た他国の軍勢をすべてまとめ上げるやまたも一人で強国秦を見事に撃退して見せました。この恐ろしいまでの信陵君の活躍に恐れをなした秦は信陵君の存命中は二度と魏に攻め込まなくなったのですが、その代わりに信陵君を政治的に抹殺しようと、魏国内で信陵君が謀反を企てているなどといった噂を流布させて元々警戒していた魏王をさらに警戒させるという手段に出ました。この秦の策にはまった魏王は信陵君を暗殺こそしなかったものの政治からなるべく遠ざけるようにしたため、失意ゆえに信陵君はその後すぐに病気で死んでしまいました。

 この信陵君のエピソードを昔に読んで私が強く印象に覚えたのは、括弧書きで書いた毛公と薛公の、「如何に能力のある人物であっても、寄って立つものがなければ誰も信用しなくなる」という説法です。要するに背中に何を背負っているかという事ですが、なんでこんなエピソードを今日ここで引っ張ってきたのかと言うと、今の枡添要一氏と与謝野馨氏を見ているとつくづくこれがよくわかるなぁ思ったからです。

 この二人はどちらも選挙前に自民党から離脱して新たな党に入り、今回の参議院選挙にてそれぞれの党を実質取り仕切りましたが、自民党時代の名声や人気はどこいったのかと思うくらいに選挙中はおろか選挙の終わった今でも全くメディアに取り上げられませんし、人の噂にも上ってきません。特に桝添氏なんて自民党時代は総理にしたい候補ナンバー1だったのに、多分今このアンケートを取ったらランク外になる可能性すらあるんじゃないかと思うくらいの低落ぶりです。
 私は桝添氏が自民党離脱を発表した際にこのブログで、自民党あっての桝添要一であって、ただの桝添要一に有権者は反応しないだろうと書きましたが、この評論はまさにこの信陵君のこのエピソードから引用したものでした。多分先ほどの総理にしたい候補アンケートなんかあったもんだから、桝添氏は自分という個人が人気があると勘違いしちゃったのかな。

2010年1月5日火曜日

猛将列伝~西門豹

 先月に書いた曹操の墓発見についての中国の記事にて、「曹操の墓はこれまで文献上、西門豹の墓から西にあるとされてきた」という一文があったのですが、翻訳している最中にこの西門豹の名前を見て、中国人はこの西門豹のことを新聞記事に書いてみんな理解する程度に知っているのかと人知れず感慨に耽っていました。

 そんな西門豹とはどんな人物かと言うと、時代はちょうど春秋時代が終わった直後の戦国時代の人物で、当時の魏国の官僚でした。かねてより知恵者で鳴らしていた西門豹はある日魏王に呼ばれると、国力を増強するために新田開発をする必要があり、ついては国内で開発の遅れている鄴の地(現在の河北省)でその任に当たれと命じられました。
 命じられた西門豹は早速現地へ赴任して地形を確認し、近隣の河を整備した上で干拓を行おうと計画したのですが、西門豹の計画を知るや現地の農民達はみんな震えながら反対しました。わけを聞いてみると農民達は河には水竜がおり、工事などしようものなら村全体が祟られると話した上、村は毎年水竜に祟られないためにいけにえの儀式も行っている事などを西門豹に話しました。

 最初はただの迷信かと思っていた西門豹もいけにえの儀式と聞いて詳しく話を聞いてみると、その村では毎年村の中で一番の美女を選び、輿に乗せて河に放り投げる事でその美女を水竜に捧げているとのことで、その儀式のために村中から膨大な金額が毎年集められていることがわかりました。その儀式の費用は献金すれば死刑ですら免ぜられるほどで、本当にそれだけの費用を儀式のために全部使えるのかと西門豹が尋ねると、農民らは口ごもりつつも、恐らくは大半は儀式を取り仕切る神官や土地の古老らが着服しているといい、彼らにしか水竜を沈める事ができないので仕方がないと打ち明けました。

 この話を聞いた西門豹は村の窮乏の原因はこの儀式にあり、まずこの因習をどうにかしなければ干拓工事は出来ないと考え、ひとまず工事計画を棚上げにした上で儀式の日を待ちました。そして儀式の日が訪れるや西門豹は部下の役人を引き連れて参加し、水竜に捧げる美女の元へ案内するよう命令しました。そうしていけにえとなる美女を一目見るや西門豹は、

「なんだ、とんでもない不細工な娘ではないか。申し訳ないが神官らよ、もっといい美女を送るから先に水竜のところへ行ってお断りを言ってきてくれ。そら役人どもよ、神官らを河に放り投げろ」

 この西門豹の命令に役人らも戸惑うものの筋は通っていると思ったのか従い、慌てる神官らを片っ端から河に放り投げて溺死させました。それからしばらく川岸で待った後、さらに西門豹は、

「ふうむ帰りが遅い。仕方ない、ほかに水竜と話が出来るのは古老たちしかいないので、ひとつ早く戻るように催促をしに行ってくれ」

 そうして、今度は古老らを河に突き落とすように再び役人らに命じました。この命令には古老らも震え上がり、それだけは勘弁と抵抗するも西門豹は意に介さず、

「この儀式を終えねば村は大変なことになる。わしとてお主ら老人に骨を折ってもらうのは気が進まぬが、神官のいない今はお主らしか水竜と儀式で関わったものはおるまい。お主らはこれまでに水竜に散々貢献してきたのだから悪くされるはずはないのだし、一つ村のために行ってきてくれ。ほれ役人よ、さっさとしろ」

 こう言って、嫌がる古老らをまたも片っ端から河に突き落として溺死させました。
 そうやって再びしばらく待つと西門豹は立ち上がり、村民らに対してこう言いました。

「どうやら水竜は客人をもてなして帰さぬようだ。仕方がないので、今日はもうみんな帰ることにしよう」

 この西門豹の言葉にただただ唖然として事態を見守っていた村民らは何も言えず、結局その年は儀式をせずに皆家路に着きました。そしてその日以降、儀式について口にする者もいなくなったそうです。こうして因習を根本から断ち切った西門豹は村民を動員し、大規模な干拓工事を開始するに至ったわけです。
 しかしその干拓工事中、村民らから祟りについて口にするものはいなかったものの、このような工事が果たしてなんの役に立つのか、こんなことをするくらいなら今出来ている田畑を耕す方がマシではという不平不満が絶えなかったそうです。

 それに対して西門豹は、この工事は確かに現代の人間には評価されない事業かもしれず、評価してくれるとしたら十年、二十年、下手したら百年後になるかもしれない。しかしそれでもこの事業にはやる価値があるのだと最後まで工事を行い続けたそうです。
 果たしてこの言葉の通りに、西門豹が干拓した地域は見事な穀倉地帯となり、その後の魏国の躍進につながることとなったそうです。私は西門豹の因習を打破した知略はさることより、最後の後の時代の人間に評価される事をやるのだという発言がお気に入りで、内政における唯一にして最大の心構えだと周りにも言いまわっております。

2009年11月27日金曜日

猛将列伝~サラディン

サラディン(ウィキペディア)

 ウィキペディアに書かれているこの人物の名称は「サラーフッディーン」ですが、日本で出回っている世界史の教科書は他の書籍では「サラディン」と書かれていることが多いので、この記事もそちらの表記に従います。

 今日はいつも日本史や中国史の人物を紹介するのと違って、気分一新とばかりにイスラム世界の人物を紹介します。イスラム史については私はそれほど勉強したわけでなくはっきり言って世界史の中でもインド史と並んで苦手としていた範囲なのですが、中学生の頃に十字軍についてやけに詳しく勉強した事があったおかげでこのサラディンについてはかねてより良く知っていました。
 今ここでも書いたように、サラディンが活躍した時代というのはヨーロッパにおいて十字軍が組織された中世12世紀で、日本においては平安から鎌倉時代へ移るころの時代です。

 具体的にこのサラディンがどんな人物かというと、当時の中東イスラム国家の貴族階級の出身で、少年時代は人質として暮らすものの成人後は軍事、行政の面で活躍して幸運も重なりましたがエジプト地域の支配者にまで三十代で上り詰めます。当時のイスラム世界は各地の軍閥がそれぞれの地域を勝手に統治していた時代で、サラディンがエジプトを支配した頃も彼は形式上はまだサラディンはシリアのダマスクスにいた軍閥の臣下という立場でした。しかしエジプト占領後にその主君に当たる軍閥においてお家騒動が起こったのを好機として紛争に介入し、エジプトからシリアに跨る広大な領地を統一して支配するアイユーブ朝を開きました。

 シリアを征服したサラディンはその後、かつての第一回十字軍にて建国されたエルサレム王国に侵攻して今も紛争の耐えない地である聖地エルサレムを約百年ぶりに奪還することに成功しました。しかしエルサレムの占領はかつて十字軍を組んでまで取り返した西ヨーロッパ諸国を大きく刺激することになり、獅子心王(ライオンハート)とあだ名されるイギリス王のリチャード一世を筆頭とする第三回十字軍が組織される原因となりました。

 十字軍は合計で七回組織されましたがこの時組織された第三回十字軍は最も戦火が激しかったとまで言われるほどの激戦で、先程のリチャードのほかにもフランス王のフィリップ二世なども参加した非常に大規模な戦争でありました。サラディンはこの戦いで一度手に入れた地中海沿岸地域の都市を奪い返されるものの本命のエルサレムの防衛には成功し、リチャード一世との和議によってこの地域の支配権を確立する事が出来ましたが、まるでそれを待っていたかのごとく終戦の翌年に病気にて死去しております。

 現在彼への評価はイスラム世界はもとより、世界史上でも英邁な君主として高く賞賛されております。エルサレムを奪還した戦術的功績ももちろん大したものなのですが、彼が評価される最大の理由というのは彼がエルサレムを奪還した後に行ったキリスト教徒の保護にあります。
 第一回十字軍がエルサレムをイスラム世界から奪還した際、西ヨーロッパの騎士たちは街中のイスラム教徒を片っ端から虐殺して、その後もイスラム教徒の巡礼を一切許す事はありませんでした。そんな第一か十字軍とは打って変わって約百年ぶりにエルサレムを奪還したサラディンはというと、街にいるキリスト教徒と捕縛した捕虜達を保護し、身代金と引き換えの上で西側諸国へ開放しました。また第三回十字軍の後に行われた和議でも、キリスト教徒のエルサレムへの巡礼を許可するなど寛大な態度を最後まで崩す事はありませんでした。

 こうした現代において人道的、当時にとってすればそれ以上とも取られていたであろう寛大な態度こそが彼を現代においても高く名指しめている要因となっており、私もまたその人間的魅力に強く惹かれました。多少青臭いと自身でも感じますが、このような人物が高く評価されるのを見るにつけて人間にはまだ良心というものが曖昧ではあるものの確実に存在するのだと感じます。

 ちなみにサラディンが開いたアイユーブ朝は比較的短命に終わり、その後は女性の、しかも元奴隷のシャジャルが開いたマムルーク朝が中東を長らく支配しますが、この二つの王朝の間は中東は比較的安定した時代を送ったそうです。今度この辺をまた勉強しなおそうかな。

2009年9月23日水曜日

猛将列伝~趙匡胤

 中国史と来ると日本人は「史記」、「三国志」の二大史書の影響からか、春秋戦国時代から後漢末期まではよく知っている方がおられるものの、その後の晋朝から五胡十六国時代以降となると途端に認知度が低くなってしまいます。ただこの時代以後の中国史を扱っている歴史書はないわけではなく、ポピュラーなものとして「十八史略」という中国史入門者用の歴史書があります。

 この十八史略はその名の通りにそれ以前に成立した史記や三国志を含む十八の歴史書を簡単にまとめた本で、十二世紀までの中国史を一通り扱っている史書です。私が読んだのは陳瞬臣氏の「小説十八史略」という、陳氏のオリジナルな記述が多くて本編とはやや異なる内容の本なのですが、それでもこの本を読んだことによって三国時代にとどまらず幅広く中国史を学ぶいいきっかけとなりました。

 そんな小説十八史略の中で私が一際目を引かれた人物というのが、本日ご紹介する趙匡胤です。この人物は十世紀に成立した宋朝の初代皇帝で、通称は「太祖」とされています。この趙匡胤は宋朝の前の後周朝の将軍だったのですが、英邁な君主であった世宗の死後、跡を継ぐ恭帝がわずか七歳で即位したことに不安を感じた軍人らに勝手に祭り上げられる形で、趙匡胤本人は渋々と皇帝に即位したと言われております。もっともこの即位劇には裏があり、実際にはかねてから趙匡胤が即位するよう軍内部で打ち合わせられて行ったとも言われており、恐らくはこちらの説の方が正しいと私も考えております。

 ただこの趙匡胤がほかの皇位簒奪者と大きく違っていたのは、皇位を奪った恭帝を殺さず、その後彼ら元皇族の一族を手厚く保護した点にあります。三国志における献帝よろしく、皇位を奪われた皇帝とその一族の末路は惨めな例が多いのですが、趙匡胤はそういった例を踏まなかったためにこの点において後世の歴史家からも高く評価されております。
 またこれ以外にも、元々軍属出身であったにもかかわらず趙匡胤は皇帝に即位するや、その後一貫して軍部勢力を解体していき、現代的に言うならシビリアンコントロール、当時の言葉で言うなら官僚による文民統制を国の形として整えていきました。実際にその後、それまで軍閥同士が激しく争った戦乱極まりない五大十国時代の騒乱は徐々に収まり、科挙を経て任官された官僚らが大いに活躍する安定した時代へと移って行きました。

 もっともこの文治主義はなんでもかんでもいい結果を生んだわけではなく、軍隊が弱体化したために宋朝はその後異民族の侵入に始終悩まされ、最終的には後の満州族である女真族によって華北地域を追われることで崩壊するに至りました。とはいえ国内の騒乱を終えただけでなく、現在でも宋朝時代の絵画、書画が最も評価されるまでに安定した時代の礎を築いたことは誰もが高く評価しております。

 そんな趙匡胤ですが、彼の政治姿勢とともに優れた見識があったと思わせられるあるエピソードが十八史略に載せられております。
 宋朝の皇帝は即位する際、皇帝となる者以外は決して見てはならない、創業者である趙匡胤が残した宮中にある碑文を読むことが慣わしでした。この碑文は宋朝の時代にはその存在自体が秘匿されていたそうですが、先ほど述べた女真族が華北に侵入して征服した際に宮殿に入ったことでその存在が明るみになりました。その碑文には一体何が書かれていたかというと、大まかな意味でこんなことが書かれていたそうです。

「発言の門で、官僚を処刑してはならない」

 あくまで士大夫である官僚に限りますが、これは言うなれば言論の自由を冒すなという意味です。実際に宋朝においては官僚らがそれぞれの持論を好き勝手に言いたい放題しており、新法旧法闘争において従来の法律を抜本的に改めるべきだと主張した王安石も一時左遷こそされども処刑されるまでには至らず、その後中央官界に復帰まで果たしております。

 この言論の自由というのは案外言うは易く、守るは難い代物で、近い時代の日本においても「核保有論」や「憲法改正論」はそれを実行するかどうかは別においても、議論することすら全く許されていませんでした。最近ではこうした点も議論した上で非核を世界に訴えるべきだと大分タブー性は薄まってきましたが、それでもまだ「天皇制廃止論」ともなると口火を切るだけでいろいろと厄介なことになるのは目に見えます。
 それだけに宋朝において言論の自由を守れと遺訓を残した趙匡胤の先見性は鋭く、世界史にちょこっと名前が出てくるだけにしておくにはもったいないと私に思うわけです。

2009年8月26日水曜日

猛将列伝~畠山重忠~

畠山重忠(ウィキペディア)

 今日はそこそこ歴史を勉強していても意外と知られていない、平安末期から鎌倉初期に活躍した日本の武将の畠山重忠を紹介します。

 恐らく大学受験で日本史を勉強された方は「畠山重忠の乱」という事件名だけは暗記されているかもしれません。日本史の教科書にはこの事件を、源頼朝が死去するや成立したばかりの鎌倉幕府では次々と御家人の反乱が相次ぎ、その反乱の中一つとして紹介されております。
 これだけ聞くと畠山重忠という人物は野心的な人物のように見えますが、いくつか異説はありますが歴史の中の彼はこのイメージとは違う、というよりも程遠いまでに清廉潔白な武将像の人物です。

 畠山重忠の名が始めて歴史に現れるのは、源頼朝の挙兵時です。1180年、以仁王の令旨を受けて源頼朝は打倒平氏の旗を掲げて挙兵をするのですが、この時は平氏からすぐに討伐軍がすぐ差し向けられた上に思ってた以上に呼応する武士が少なく、頼朝も一時は数人で雲隠れする羽目になりました。この失敗に終わった挙兵初期、頼朝方についた有力武士団の頭領の三浦氏を平氏の指示で討伐を行い、三浦氏の援助を当てにしていた頼朝を窮地に陥れたのが他でもなくこの畠山重忠でした。

 その後頼朝が危機を脱した後、頼朝の元へ徐々に武士団が参集していたところで重忠も馳せ参じてきました。頼朝としては味方であった有力武士団の三浦一族を滅ぼした重忠に複雑な思いがあったでしょうが、それ以上に腰を抜かしたであろうが重忠のこの時の年齢でしょう。なんとこの時の重忠はわずか17歳で、本来の畠山家の当主である彼の父が京都に在任中であったために代理として率いていたに過ぎなかったのです。それにもかかわらず関東において名の知られた三浦一族を打ち倒し、堂々と頼朝の元へと帰参して来たのです。
 もちろん頼朝は重忠に三浦一族の件を詰問したのですがそれに対し重忠は、当時は平家方の討伐軍がいた為に帰参が難しく、また本来の当主である彼の父が京都にいた為にやむにやまれず平家方についたと、臆することなく堂々と答え、これを受けて頼朝も重忠の帰参を認めるに至りました。

 こうして源氏方についた重忠はその後の源平合戦において、目覚しいばかりの活躍を見せ続けます。基本的には源義経の下で槍働きを行うのですが、木曾義仲との宇治川の合戦では徒歩での一番槍を得ており、圧巻なのは平家との一ノ谷の戦いにおける鵯越(ひよどりごえ)でしょう。この鵯越は崖下の平家軍を急襲するために義経が先陣を切って騎馬に乗ったまま崖を下って攻め勝ったというエピソードですが、重忠の馬はこのときに崖にビビってなかなか降りようとしなかったそうです。それならばと重忠が取った行動というのは、なんとビビる馬を自らが担ぎ上げてそのまま自分で崖を飛び降りて行ったそうです。正直なところ、無理せずに馬を置いていけばいいのにと思わせられたエピソードです。
 このエピソードのように剛力な重忠は一見すると武辺者な印象を覚えますが、文化的な素養も優れていたらしく義経の妻の静御前が頼朝の前で舞を疲労させられた際に伴奏を務めており、音楽にも造詣が深かったようです。

 その後鎌倉幕府が成立すると創業の功臣として、また幕府内における重鎮として奥州藤原氏との戦いから各地の反乱鎮圧に参加し、公平な人柄と態度から名実ともに「武士の鑑」として周囲から高く評価されたそうです。
 そんな重忠の人柄をうかがわせるエピソードに、こんなものがあります。
 鎌倉幕府がある反乱を鎮めた際、反乱に参加した武士の首級を重忠の御家人が挙げたということで執権の北条時政らの前でその首級を差し出したところ、鎌倉時代最強のチクリ魔で有名な梶原景時が、

「待て待て、その首級はうちの御家人が挙げたところを横取りされたものだ」

 という異議を呈しました。この景時の異議に周りが騒然とする中、重忠だけが落ち着いた様子でこのように言い返しました。

「はて、私はこの首級をその御家人から受け取っただけです」

 この言葉の意味とは、重忠の御家人が首級を横取りしたのであれば、何故その本人に異議を申さずこの場で言うのかという意味です。重忠は御家人を預かる立場とはいえ、重忠本人が横取りをしたわけではなくて部下の手柄を報告したに過ぎず、真偽の確認などこの場ではどうしようもないではないかということもこの発言野中に暗に含まれています。この重忠の返答に景時も何も言えなくなり、この話が載せられている吾妻鏡によると周囲も景時を嘲笑って重忠への人気はますます上がったそうです。

 こんな具合にいろいろと魅力のある重忠ですがその人気の高さゆえに北条氏の独裁を目論む北条時政に目を付けられることとなり、あらぬ謀反の疑いをかけられて百数十騎で鎌倉へ呼び寄せられて向かう途中、待ち伏せされていた北条一族を初めとする大軍の武士団によって殺害されました。なおこの際、重忠は側近から自分の領地に逃げ戻るべきだと進言されるも、

「もしここで逃げようものなら謀反の疑いが本当だったということになってしまう。それならば武士らしく、一戦交えて華々しく散ろう」

 そう言って真正面に突っ込み、見事に討ち死にを果たしたそうです。享年は42歳です。

 この畠山重忠の話のほとんどは鎌倉幕府編纂の歴史書である吾妻鏡に収録されているのですが、吾妻鏡は信用性の高い資料として評価されているものの、この畠山重忠の乱がそれを強行した初代執権北条時政がその後北条政子と義時に追放される名目となっていることから、二代目執権北条義時以降の執権政治の正当性を高めるために敢えて重忠が全般において美化されているのではないかと指摘されております。そういう意味では三国志における趙雲と似た特性がありますが、すくなくとも吾妻鏡においては重忠は一線級に魅力のある武将で、私も彼を知ったことから鎌倉時代に対して強い興味を覚えるようになりました。

2009年6月18日木曜日

猛将列伝~木村昌福~

 前回の猛将列伝のコメントで誉めてもらって調子に乗っているので、またこの関係の記事です。今日は久々に近代の軍人で、通にはよく知られているものの一般にはやや知名度が低そうに見える木村昌福氏を取り上げます。

木村昌福(ウィキペディア)

 あまり歴史に興味がないために私と私の親父、果てには福岡出身の嫁さんがいる親父の従兄弟揃って「これだから九州の女は……」と言われる鹿児島出身のうちのお袋ですが、不思議なことにこの木村昌福氏についてはよく知っていて、どのような人物でどんな業績をあげたのかまでも詳しく知っていました。というのもお袋が子供だった頃にこの木村昌福氏をモデルにした映画が三船敏郎氏主演で公開されており、その影響を受けてかお袋らの世代は彼の業績である、あの伝説のキスカ島撤退作戦を知っている人が多いようです。逆にその世代に対して私くらいの世代だとあまり知らない方も多いと思うので、そこそこいい記事にはなる気がします。

 この木村昌福氏というのは旧日本海軍の軍人で、はっきり言ってしまえばそれほど出世街道を歩んだ人物ではなくどちらかというなら叩き上げの軍人タイプな人物でした。旧日本海軍ではハンモックナンバーこと海軍兵学校や海軍大学校時代での成績がそのまま後年の出世順につながったため、大学校に行くことはおろか兵学校で118人中107位の成績だった木村氏はそもそも大した出世は望める立場ではなかったものの、駆逐艦の艦長として長い間勤務するも水雷の戦闘知識や指揮においては周囲からも一目置かれていたため、最終的には実力で中将という地位にまで昇っております。

 そんな木村氏が一躍戦史に名を轟かしたのは既に述べた、俗に言う「キスカ島撤退作戦」からです。
 1943年、ミッドウェー海戦を経て既に防戦側に立たされていた旧日本海軍はこの年に太平洋上にあるアッツ島を米海軍によって攻め落とされてしまいます。このアッツ島は太平洋の上で日本の支配地域からポンと突き出た位置にある島であったため補給もままならず、米軍の激しい攻撃によって守備隊員2650名は全員が玉砕した上に占領されてしまうという悲劇的な結末に終わってしまいました。
 そこで困ったのがこのアッツ島以上に日本から離れた位置にあったキスカ島です。当初日本海軍は米軍が攻めてくるとしたら先にこっちを落とすだろうと守備隊もアッツ島より多い約6000名を擁していたものの、米軍は日本の裏をかいてキスカ島の先にあるアッツ島を先に落とすことでこの島を孤立無援の状態へと追い込んだのです。

 こんな状況下では反撃など望めるべくも無く、司令部も守備隊の救出を最優先事項として早速救出部隊を編成して第一陣として潜水艦の部隊を送るものの米軍のレーダー網にあっさりと見つかり、何百人かを救出するものの少なくない損害も出してしまいました。そこで第二陣として大人数を輸送できる駆逐艦部隊の派遣を決め、その指揮官として木村昌福氏が選ばれました。
 木村氏はこの地域特有の濃霧に隠れて救出作戦を行おうとじっと天候を眺めてチャンスをうかがい、七月十日に一度出撃するもこの時はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れてきたために結局途中で引き返してしまいます。この際には米軍と戦闘したわけでもない上に誰も救出してこなかったことから上層部より激しい非難を受けますが、当の木村氏はあまり気にせずすぐに再出撃するようにとの中央の命令を無視しつつ、平然と現地で釣りをしながら次のチャンスをうかがっていました。

 そして来る七月二十二日、再び濃霧発生の予報を受けたことにより木村氏の艦隊は救出のために基地を出撃します。その濃霧予報は見事に当たり、キスカ島に行く途中に同じ日本の艦隊内で沈没にまで至らなかったものの衝突事故を起こすほどの濃霧だったようで、米軍のレーダーも霧によって誤認を起こし、誰もいない海域に向かって延々と攻撃をかけてしまったほどだったようです。
 しかも奇跡的というべきか、米軍はその後も一向にレーダーがうまく機能せず、先にレーダーで誤認した敵艦隊をすでに全滅させたと勘違いして七月二十八日に一旦補給をするためにキスカ島を包囲していた艦隊を撤退させてしまいます。そのまさに一瞬とも言うべき米軍が包囲を解いた間隙に、木村氏の艦隊は七月二十九日にキスカ島に上陸を果たしたのです。

 もちろん敵軍なんていないものだから一切妨害を受けないばかりか迅速な輸送によって5000名を越える人数をわずか55分で収容し終えて、そのまま米軍に見つかることなく基地への撤退を見事完了しました。当初、この救出作戦は状況の圧倒的不利さから不可能とまで呼ばれたほどの作戦だったのですが、終わってみると被害は全くといっていいほど無く、しかも一切の戦闘を行わずにこれほどの大人数の撤退を成功させた例は世界戦史上でも全くないといっていいでしょう。なお七月二十八日に包囲を解いた米軍は七月三十日に再び包囲を行いますが既にその時の島はもぬけの殻で、わずか一日の差で米軍は日本兵を逃してしまったのです。

 濃霧といい米軍の誤認といい偶然が重なった要素が多いのは事実ではありますが、一回目の出撃で救出が不可能と見るや批判を恐れずに撤退し、二度目の出撃がドンピシャのタイミングだったことを考えるとその後の強運とも言うべき状況を引っ張ってきたのは木村氏の高い決断力によるものとしか言いようがありません。そのため当時の旧日本軍だけでなく戦後は米軍からも木村氏は高く評価されたとのことです。

 その後木村氏は終戦時まで生き残り、戦後は故郷の山口県で元部下らと共に商売をして天寿を全うしたそうです。豪放磊落な人柄で部下からもよく慕われ、その上冷静な決断を上からの命令にものともすることなく忠実に実行する様はまさに軍人の鑑で、何もこのキスカ島のエピソードだけでなく米国の民間輸送船を撃沈させた際も乗組員がしっかり脱出するまで待ってから沈没させたとのことで、軍人としてだけでなく一私人間としても尊敬させられる人物です。特に出撃に至る決断は見事なもので、中途半端な妥協を一切許さなかったこの決断なくしてこの奇跡はありえなかったでしょう。

 ちなみにこの脱出時にはもう一つ小さなエピソードがあり、キスカ島の守備隊が脱出時に悪戯で「ペスト感染患者隔離所」という嘘の看板を島に残して行った為、守備隊のいなくなった後に上陸した米兵はペスト菌に感染するのではないかと大いに慌てたそうです。

2009年6月16日火曜日

猛将列伝~范雎~

 最近歴史関連の記事が少ないので久々にこの「猛将列伝」系列の記事を書こうと思います。なおグーグルアナリティクスによると、今でも私のブログは検索ワードで「宮崎繁三郎」が二位に就き続けてアクセス数を稼いでおります。件の記事は以前に書いたこの猛将列伝シリーズのこの記事ですが、なんでこんなに検索されるんだろうと書いた本人が一番びっくりしています。

 そういうわけで本題に移りますが、本日紹介するのは中国戦国時代、西暦にすると紀元前三世紀の「范雎」という人物です。この人物が描かれている歴史書は言わずもがなの史記ですが、実は史記に登場する人物の中で私はこの范雎が一番好きな人物でもあり、中二病的なくらいにこの人物と自分を重ね合わせたりすることがよくあります。
 そんな范雎ですが一体どんな人物かというと、一言で言えばその後始皇帝の時代に始めて中国を統一した泰国の宰相です。この范雎が活躍したのは始皇帝が国王として統治する前の昭襄王(始皇帝の曽祖父)の時代で、事実上後の泰の統一を確固たるものにした国王です。

 この范雎は元々は泰の人間ではなくむしろ泰と長らく敵対してきた魏の出身でした。若い頃から弁舌に優れていてそれを評価した魏の大臣の付き人として働いていたのですが、ある日斉の国に使者として派遣された大臣に付いて行ったところ、范雎の優秀さに気がついた斉の大臣が先にコネを作っておこうと范雎個人へ贈り物を送ろうとしたのですが、それを何かしら機密情報を密告した謝礼ではないかと疑った大臣らによって激しい拷問をかけられることとなってしまいました。
 もちろんそんな事実は一切なかったようなのですが、その際の拷問は凄まじいもので散々殴る蹴るなど暴行を加えられた後に文字通り簀巻きにされて便所にまで放り投げられ、各人に小便まで引っ掛けられて嘲け笑われた程でした。

 そんな大ピンチの中、范雎は牢番に死んだことにして助けてくれと頼み、その頼みを受け入れた牢番が大臣に小便で溺れ死んだと偽ったことによって九死に一生を得ました。そうして脱出した范雎は密かに魏を脱出して泰に赴くと、「長禄」という名前に変えて当時外戚によって権力を握られて何もすることの出来なかった昭襄王に近づき、一念発起して外戚を追い出して親政をすべきだと諭して信用を得、范雎の建言を受け入れて親政を始めた昭襄王によって宰相に任命されます。
 宰相に任命されるや范雎は次々と政策を実行していき、その中でも特に際立ったのはいわゆる「遠交近攻」政策でした。これは日本の戦国時代でもよく使われた外交政策ですが簡単に説明すると国境の接していない遠くの国とは誼を結び、自国とその国に挟まれる国境の接する国を両国で攻め込んで打ち倒していくというオセロゲームのような外交戦略のことです。まぁもっとも、間の国が倒れたら今度はその両国が争うことになるんだけど。

 この遠交近攻政策が功を奏し、当時の泰に戦国時代最強とまで言われた猛将白起もいたことで泰は一挙に勢力を拡大し、隣国の韓の領土を分断して弱体化させただけでなく近隣の弱小国も次々と併呑していきました。極めつけがこれまた戦国時代において最大規模の戦争と言われる長平の合戦において、白起の名采配もあり泰に次ぐ最大国であった趙を完膚なきまで叩いて40万もの趙兵を生き埋めにするという大戦果を挙げるに至りました。

 この頃、巨大化する泰に対してその脅威を和らげるために魏から泰へ使者が送られたのですが、皮肉なことにこの時送られた使者というのがかつて范雎を拷問にかけた大臣の一人でした。その大臣が来るとわかるや范雎はわざt汚い身なりをして会いに行き、運良く生き返ったといって再会を喜んだふりをしました。大臣の方も行き違いがあったとはいえ高く評価していた范雎と再会したことを喜び、しかもその范雎が泰の宰相に今仕えていて大臣に早速明日にでも引き合わせてくれると言うもんですから疑いも無く信用してしまいます。
 その大臣は泰の宰相は長禄という人物だと信じていたのですが、既に述べたようにそれは范雎が泰に来てから名乗りだした変名で、次の日に大臣を屋敷へ連れて行って待合室で待たせていざ謁見するや、さっきまで汚い格好をしていた范雎が宰相の席に座っているもんだから大いに腰を抜かしたことでしょう。

 范雎はその大臣が再会時に汚い身なりを哀れんで上等な着物を譲ってくれたことに免じて生かしてやると伝えるものの、魏との同盟は一切認めず、また自分を拷問にかけるのを主導した公子(国王の一族)の首を持ってこない限り真っ先に魏を叩き潰すと伝えて大臣を追い返しました。その後紆余曲折はありましたが、范雎は見事復讐を果たして公子の首を送り届けさせます。

 その後范雎は屋敷にやってきた人物に、もし范雎を買ってくれた後ろ盾の昭襄王が死ねばかつての呉起や商軮のように范雎に恨みを持つ人物らによって殺されるだろうから今のうちに引退したほうがいいと説得され、まだ全然現役にもかかわらず早くに引退します。史記というのは才能があるものの悲劇的な最後を遂げる人物が多い中で、過程は壮絶ではあるものの、唯一といっていいほどこの范雎は在世中に功績を挙げただけでなく無事天寿を全うすることが出来ました。

 私がこの范雎に惹かれるのはそうした苦労をしたものの最後は報われた人物であることと、自分をあらぬ罪で追い落とした人物へ見事復讐を果たした点に尽きます。世の中才能があってもなかなか報われないとはわかっているだけに、見事それを開花して成功した話は相応の美しさがあります。

2009年1月30日金曜日

猛将列伝~田単~

 この猛将列伝も本当に久しぶりです。別に忘れていたわけじゃないのですが、このところはニュース以外に書くことなかったら連載記事を優先していたのでほとんど書くことがなくなって来ていました。
 それで今日は「田単(でんたん)」という人物について紹介しますが、この人のことを知っているのはほとんどいないといっていいくらい超マイナーな人物で、よっぽどの中国史マニアでなければまず知らない人でしょう。。

 田単は中国の戦国時代、西暦にすると紀元前三世紀の人物で斉国の下役人でしたが、それ以前に斉が滅亡の寸前にまで追い込んだ燕国が名将楽毅を擁して六カ国連合軍を作って攻撃を始めることによって一転、斉がそれまで所有していた七十城(中国は都市を城壁で囲んで城と呼ぶ。「七十都市」と言い換えても問題ありません)が奪取されてたった二城だけとなり、今度は逆に斉が滅亡の寸前へと追い込まれていました。しかもそんなドサクサにまぎれて二城の一つの莒城では宰相が斉の国王を殺して反乱を起こしこのまま滅亡かと思いきや、皇太子が宰相に逆襲したことによって城内で一致団結が強まり、これは攻め落とすのには難しいと判断した楽毅は軍勢を一旦引き上げ、残りの一城の即墨城(現在の山東省即墨市)へと兵力を集中させました。この城の中に、今日の主役の田単も逃げ込んでいたのです。

 即墨城に燕軍が攻め込んだことによって即墨も最初は応戦したものの、相手はあの諸葛孔明も尊敬したという楽毅とのことであっさり大敗し、その戦闘で即墨側は将軍が全滅するという非常事態に陥りました。そこでまだ兵学を勉強したことがあるということで重臣らは田単を将軍にしようと呼び出すのですが、当の田単は相手が楽毅では自分だとどうしようもないと固辞するものの、講和条件をよくするだけでもいいとせがまれてしぶしぶ承諾しました。
 そうして田単が将軍になった直後、なんと燕の国で突然国王が病気で死亡してしまいました。田単はこのニュースを受け、楽毅が今度国王となる皇太子とそりが合っていなかったという噂から、ひょっとすれば何とかなるかもしれないと希望を抱くのでした。

 田単はまずスパイを放ち、楽毅は遠征を続けるのは実は反乱や独立を考えているからだという噂を燕国内に流しました。これを真に受けた皇太子は楽毅に対して遠征の労をねぎらうという目的で将軍職を解いて交代する将軍まで派遣したのですが、楽毅としても新しい国王とはそれまで仲がよくなかったこともあり、その帰還命令に従えば帰国するや誅殺されると読んでそのまま帰国せずに他国に亡命してしまいました。
 こうして最大の障害である楽毅を排除すると田単はまず、城内の人間に対して毎日先祖へお供え物を出すよう命令を出しました。するとすぐにそのお供え物を狙って鳥が城内に飛び集まるようになり、これは神が降りてくる前兆だとして適当な人間を神の使者に仕立てて選ぶと城内の兵士に対し、
「これからはこの者の口から出る神の作戦を取る。命令をよく聞くように」
 と訓示し、それまで下役人ゆえに見くびって命令に従わなかった兵士を統率しました。

 そうして城内をまとめると田単はまたもスパイを使って燕軍の中に、
「捕虜は鼻そぎの刑にあっているらしい」
「城の外のお墓が荒らされたらどうしよう」
 という根も葉もない噂を流し、またもそれを真に受けた燕軍は相手の戦意が落ちるだろうと考え片っ端からその流された噂を実行して斉軍に見せつけました。すると斉軍は思ってもないそれらの暴挙に怒り、必ずや逆襲して見せるとますます団結力が高くなり、田単の思うとおりに事が動いていきました。

 ことここに至り決戦の時期だと考えた田単は燕軍に使者を送り、城内の反対する人間を説得したら降伏するから五日の猶予をくれと、偽の降伏を燕軍に申し出ました。燕軍としてもそれを聞いて長らくの遠征がようやく実ったと将兵揃って大喜びし、申し出通りに五日の猶予を与えてしまいました。
 すると田単はその日のうちに城内の食料をすべて放出して兵士に与えて体力をつけさせると、一部の城壁に穴を空けて城内の牛をねこそぎ集め、その牛の角に刃物をくくりつけて夜を待ちました。そして夜に入るや、田単は集めた牛を一挙に城壁の穴から追い立て、その後にはそれまでの斉軍の暴挙に怒りを持った兵士を突入をかけるという奇襲を行いました。対する燕軍はすっかり相手は降伏するもんだと油断していたのもあり突然の奇襲になすすべもなく、楽毅の代わりにきた将軍もその夜のうちに討ち取られて城を包囲していたのが一挙に敗走にまで追い込まれました。

 こうして即墨を救った田単はその後も燕軍に奪われた城へ攻撃をかけると、一度は降伏したそれらの城の軍勢も悉く田単に呼応して燕に対し反乱を起こしたために、あっという間に田単は首都を含む奪われた七十城をすべて奪い返してしまいました。その功績に対し、首都に戻ってきた国王は田単に多大の領地を与えてその救国の功績に報いました。
 前にも書いたように、史記には才能も実力もある人物がほとんど報われない話が多く、作者の司馬遷はそれを評して「天の力は微なり」という言葉を残していますが、そんな史記の中でこの田単のエピソードは数少ない成功したエピソードで、私が史記の中で一番好きな話でもあります。