恐らくこのブログのメインコンテンツの一つである、ちょっとマイナー感のある指揮官を取り上げる「猛将列伝」ですが、このところどうもネタ切れ感が否めません。もちろん有名どころを取り上げればまだまだいくらでも続けられるしマイナーな小話を加えて面白く書く自信もありますが、何となくそこまでして続ける気にはなりません。
そこで今日は方針転換というか、指揮官ではなく末端のある一兵士を取り上げようと思います。
・藤田信雄(Wikipedia)
この藤田信雄氏は旧日本海軍のパイロットだった方です。この方がどのような人物かというと、歴史上唯一、アメリカ本土への空襲を成功させた人物です。
事の起こりを話すにあたってまず当時の状況を説明します。日米は1941年の真珠湾攻撃をきっかけに戦争に突入しました。その翌年1942年4月21日、すでに海軍パイロットとして高い実績を作っていた藤田氏は海軍軍令部に呼ばれ、アメリカ本土へ空襲を実行するよう命令を受けます。
はっきりと因果関係は書いてはいないものの、恐らくこの命令の背景にはこのわずか3日前にあった「ドーリットル空襲」が影響しているように私は思います。ドーリットル空襲について説明すると、当時の日本は太平洋で連戦連勝を重ねていてアメリカ側もさすがにこの時は気分的に沈んだ状態だったようです。そこでアメリカ国内の戦争士気を高めるために印象の強い作戦を実行しようという話となり、太平洋上から爆撃機を飛ばして日本本土を直接空襲するという案が採用されました。
空襲すると言っても当時制海権は日本側が圧倒的に握っており、一度飛ばした飛行機を回収するまで空母が洋上で待つのはほぼ不可能であったため、最終的には飛び立った爆撃機はそのまま日本を通過し、連合側であった中華民国にて着陸、帰投するという大胆な作戦となりましたが、結果的には前触れもない本土への直接攻撃に当時の日本軍部は大いにうろたえたそうです。
このドーリットル空襲から3日後、恐らくそれならばと日本からもアメリカ本土を直接攻撃してやろうと軍部は考え、その実行手として藤田氏が選ばれたそうです。ただ空襲するにしても日本本土からアメリカまで言うまでもなくとんでもない距離があり、その間にはアメリカ側も潜水艦などで防衛しているわけですから並大抵のことじゃありません。それ故に藤田氏も生き残る自信がなく、出発前日には遺書を書いたそうです。
作戦は伊25という潜水艦にEY14という飛行機を折りたたんで収納し、アメリカ本土まで近づいて焼夷弾を落とすというかなり無茶な内容でしたが、8月15日の出発から約一ヶ月後の9月9日、藤田氏らはアメリカの艦船に見つかることなく見事アメリカ本土へ近づくことに成功した上、カリフォルニア州とオレゴン州の境目に森林火災を起こすため焼夷弾を落とすことにも成功しました。その3週間後の9月29日にも藤田氏は出撃し、またも焼夷弾落下に成功して無事潜水艦に帰投、さらには日本への帰路も潜水艦は撃沈されることなく見事に帰還を果たすことができました。
これだけ難度の高い作戦を実行した藤田氏でしたが、帰ってくるなり軍部からは、「戦果は木を一本折っただけではないか!」と激しく叱責されました。というのも爆撃直前に雨が降っていたことと、空襲が現地のアメリカ人に見つけられていたために、空襲には成功したもののすぐに火は消火されていたようです。とはいえ生きて帰ってこれた藤田氏はその後教官として軍に在籍しつづけ、そのまま終戦を迎えました。
これで話が終われば戦時中の本当に些細な一エピソードで終わるのですが、1962年のある日、工場勤めをして生活していた藤田氏は突然政府から呼び出しを受けます。呼び出された都内の料亭にはなんと時の首相の池田隼人と官房長官の大平正芳がおり、藤田氏のことをアメリカが捜しているためそのままアメリカへ行くように、またこの件について日本政府は一切関知しないと告げられました。この池田元首相の言葉はいうなれば、アメリカ現地で戦犯として裁かれても日本は一切救いの手を差し伸べないと言っているも同然です。
この突然の事態に藤田氏も観念し、いざとなった際に自決するために先祖代々受け継がれてきた日本刀を忍ばせアメリカへ向かいました。そして戦々恐々とアメリカの空港へ降り立った藤田氏を待っていたのは、たくさんの歓声と笑顔あふれるアメリカ人達でした。
というのもアメリカが何故藤田氏を探していたのかというと、藤田氏が空襲したブルッキングズ市のフェスティバルにゲストとして呼びたかったためでした。もちろん現地では大歓迎で、藤田氏も藤田氏で自決用に持ってきた日本刀をそのままブルッキングズ市へ寄贈してしまうほどだったようです。
しかもあまりの歓迎ぶりに感激した藤田氏はその後、自費でブルッキングズ市の3人の女子学生を日本に招き、またブルッキングズ市へもその後何度も足を運んで自らが空襲した場所に植林をするなど交流を続けました。1995年には84歳という高齢ながらも、当時の市長らをセスナ機に載せて自分が空襲した航路をなぞるという荒技まで披露しております。
その後1997年に藤田氏は永眠されますが、死の直前にはブルッキングズ市の名誉市民の認定を受けました。藤田氏がここまで現地に受け入れられた背景には空襲をしたものの死傷者が誰一人いなかったというのが何よりも大きいでしょうが、それにしたってアメリカ人の戦後はノーサイドともいうべきこのフレンドリーさには頭が下がります。また好意的な解釈をするならば、戦時中に行きも帰りも非常に困難な航路だったにもかかわらず幸運にも日本への帰国を果たせたのは、戦後に交流を長くに続けた藤田氏という人物を生かせようとした天の配慮によるものだったのかもしれません。
それにしても「日本政府は一切関知しない」と言った池田元首相ですが、恐らくアメリカが捜している背景を本当に知らなかったんだと思うけど、結果的には国家ぐるみで藤田氏をサプライズパーティにかけただけじゃないかと思わずにはいられません。ここまで脅かすことなかったのに……。
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