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2014年9月27日土曜日

猛将列伝~マンネルハイム

 先週に頑張って書いた「二次大戦下のフィンランド 前編 後編」の記事ですが、この両記事中には二つの戦争で元帥として活躍し、戦中に大統領に就任したカール・グスタフ・マンネルハイムという人物が何度も登場します。そこで今日はこの人物の紹介をするとともに、二次大戦中のフィンランドの決断について私なりの解釈を紹介しようと思います。
 
 マンネルハイムはドイツ系フィンランド人の家系に生まれ、父親は実業家でありましたが見込みのない金融取引に手を出した挙句破産して愛人と逃げたので、母親はそのショックでマンネルハイムが13歳の頃に亡くなります。しょっぱなから勢いあるな。
 両親を亡くしたマンネルハイムはほかの兄弟ともども叔父の家に引き取られますが少年時代の彼は非常に素行が悪く、矯正する目的もあって軍の幼年学校へと入れられます。しかし幼年学校でも問題を起こしたため放校の処分を受けてしまい、仕方なく当時フィンランドを保護国化していたロシアの軍学校にアプローチをかけ、過去の経歴が足を引っ張りながらもあの手この手の手段を使ってどうにかこうにかロシアの騎兵学校に潜りこむことが出来ました。
 
 騎兵学校の卒業後はロシアの軍人として着実にキャリアを積み、1904年には日本との日露戦争にも参加して功績を上げております。日露戦争後は各国の人間による中央アジアを縦断する探検旅行に参加し、サンクトペテルブルグからチベットなどを通過して北京へ向かう草稿14000キロメートルに及ぶ探検を見事成功させています。なおこの旅行の後、ロシアへの帰国に際して日本の長崎や舞鶴といった都市で8日間過ごし、ウラジオストック経由で帰っています。
 その後もマンネルハイムは順調にキャリアを重ね一次大戦でもロシア軍を指揮し活躍を続けますが、ロシア本国で社会主義革命が起こり、その保護国でもあった故国のフィンランドでも社会主義化の波が高まります。こうした状況を見たマンネルハイムはフィンランドに帰国し、フィンランド国内で右派と左派が激突したフィンランド内戦で右派を支持し、自らが指揮官となって部隊を指揮して右派の勝利に貢献します。
 
 内戦後、フィンランド国内で重い地位を得たマンネルハイムは新生フィンランドの初代大統領選にも立候補しますがこの時は落選し、二次大戦までの間はソ連への脅威を唱えて軍の強化をするべきと主張し楽観的な議会と激しく対立しました。その後の歴史でこの時のマンネルハイムの予想は大当たりだったことから、現代においてはマンネルハイムのこの時の判断は高く評価されています。
 
 そして1939年、マンネルハイムの言う通りにソ連がフィンランドに侵攻してきたため(冬戦争)、マンネルハイムは70歳を超えた年齢でフィンランド軍の最高指揮官に就任します。本人も高齢のため就任をためらったというような内容を書き残しておりますが戦時中は猟師経験のある民兵を多数採用し、また現場に何度も足を運んで現場ゆえの意見を多く採用するなどして戦況を有利に進めることに成功しました。ただ評論家からは現場をあまりにも訪問し続けており要所要所で対局を見失う戦術を取って敗北を喫するなど、大きな視野での指揮には疑問符が付く指揮官だったようです。まぁ狭い視野でも大きな視野でも間違える、日本の多くの指揮官に比べればそれでもマシな方でしょうけど。
 
 こうした戦時中に発揮された指導力によってフィンランド国内で高い信頼を得たマンネルハイムは継続戦争の処理を巡り、ソ連に対する和睦、そして同盟相手であるドイツへの踏ん切りを巡り、前大統領のリュティに変わって自らが大統領に就任してその処理を引き受けます。この時のソ連への和睦案については前に書いた通りで、領土の割譲並びに賠償金の支払いと厳しい内容ではあったもののそれを実行したことで、他の東欧諸国とは違いフィンランドは見事独立を守り切ることに成功しました。大戦後はその処理に大統領として当たり、1946年に退任すると政治と軍事の一線からは身を引いて1951年に83歳で没しました。
 その活躍は本国フィンランドでは現在でも高く評価されており、「尊敬するフィンランド人ランキング」では堂々の一位を獲得したと聞きます。なお昔イラクで同じような尊敬する人ランキングを行ったところ、ホメイニ師をぶっちぎって「おしん」がダントツの一位を取ったという話を聞いたことがあります。
 
 このマンネルハイムの経歴を見て私がまず思ったこととしては、ロシアの軍人としてキャリアを積みながらフィンランドの最高司令官としてソ連と戦ったというこの事実に尽きます。別に恩知らずだなんていうつもりはなく、むしろロシア軍に在籍していたからこそソ連の傍若無人な脅威を意識していたのではないかと思え、彼の後年の決断に大きく影響したのではなどと思えます。
 また司令官としている最中、議会とは対立が多かったものの基本的には議会に従い続け、民主主義の骨子を曲げなかったというのを私は高く評価します。最終的には文民としても最高の大統領に就任しますが、この時も軍人でありながらソ連に対する賠償金支払いを含む和睦案に調印するなんて旧日本陸軍とは大違いもいい所です。
 
 最後にこの一連の二次大戦下におけるフィンランド関連の記事についてまとめますが、最初のこの国の当時の歴史を見て思ったのは「日本とは大違いだ」という一言に尽きます。フィンランドは冬戦争においてはソ連からの防衛、継続戦争においては失地回復と戦争に当たって明確な目的を持って参加し、その目的達成のために徹頭徹尾行動しています。そしてそれらの目的達成が困難と見るやすぐさま軟着陸点を捜し、如何に損失を少なく戦争を終わらせるか機敏な外交を取っており、正直に言って羨ましいと感じました。特に継続戦争の終盤においてはソ連と和睦したらドイツから攻撃されかねない厳しい条件下にありながら、最終的にはソ連に対して善戦しつつもやや屈辱的ともいえる和睦案に調印したというのは勇気ある決断だったと心から褒め称えたい気持ちです。
 
 歴史に詳しい人なら言わずもがなですが、日本は二次大戦でなぜ米国と戦うことになったのか明確にその理由を言える人間は本来ならいません。というのも、何も目的が無く戦争を開始したためで、東条英機側近の佐藤賢了に至っては戦後のインタビューで、「なんとなく戦わなくてはいけない空気だったから」などとマジで証言しています。実際に戦争が進んでもどこで戦争を終わらせるのかという着陸点は最初から最後まで見いだせず、実質的にサイパンを米軍に奪取された時点で敗北は目に見えていたにもかかわらずその後も戦争は継続されており、たとえ賠償金や領土割譲があったとしても、ポツダム宣言を受諾するよりかはあの時点で米軍に降伏していた方がずっと賢かったでしょう。
 
  おまけ
 フィンランドではこの二度の戦争中にシモ・ヘイヘを始めとする民兵が大活躍していますが、フィンランド名物でもあるあの青い妖怪こと「ムーミン」が何故か頭に思い浮かび、「ムー民兵」とかいたのかななどと友人に聞かせてはやや呆れられました。でも響き的に「ムー民兵」ってなんか強そうな気がする……。

2014年9月25日木曜日

維新の会の人を見る目のなさ

 先週末の日本潜伏中に秘密裏にうちの親父と会った際、「うちの会社の人間が『やる気のある無能』の記事を見てみんな納得しとったで」、ということをを私に伝えてきました。私自身もこの記事の内容は佐藤優氏の著作からの引用ではあるもののそこそこ自信もあるし面白い内容であると思っていただけに素直にうれしく思え、やはりサラリーマンなら誰もが頷く内容なのだなと自信もつきました。あとどうでもいいことですが先程アマゾンのKindleで佐藤優氏の本を電子書籍で購入してダウンロードを行いましたが、タブレットPC(ネクサス7\(゜ロ゜)/)の通知欄にはダウンロード完了後、「佐藤優をダウンロードしました」と表示されてなんかちょっと……なんて思いました。作り話の様に自分でも見えるけど本当の話です。

 話は戻りますがこの「やる気のある無能」というのは真面目に日本社会に蔓延していて、その原因も日本の多くの会社は終身雇用制のため不要な人員に対する淘汰が働かないためであると断言できます。最近はほかのメディアでも似たような話題が取り上げられることも増えているし、親父の会社、並びに私の友人も「これはほんとよくわかる」という内容なだけに「やる気のある無能が会社をダメにする」なんてタイトルで新書でも出したら本気で売れるのではないかと思います。まぁ実際には他にも書く話題がこうも毎日あるから書かないけど。

 ただこのやる気のある無能が発生する要因として内部淘汰が去れないことともう一つ、やる気のある無能を見抜けないばかりか実力があると勘違いしてしまい他を差し置いて採用してしまう傾向も日本社会には見られます。元の記事にも書いていますが日本は経歴や実力以上にやる気というか見た目(+年齢)で判断しようとする人間が多く、こうした要素も問題の悪化に一役買っているでしょう。特にその傾向が激しい集団として、現代であれば橋下大阪市長率いる「維新の会」がまさにこの典型だと睨んでいます。

 維新の会について説明をする必要はないと思うので省略しますが、私の目から見て橋下市長は前回衆議院選挙にかけて勢力拡大を急いだあまりに組織全体で人員の質を大きく下げてしまったように思えます。しかも頭数揃えるのが目的なのだから多少下がる程度ならまだわかりますが、一般市民として見ても明らかに人格やマナーが破綻している都しか言いようのない問題のある人間も多く取り込んでしまっており、何故よりによってこんな奴をというような人選が多々見られます。

 こうした問題のある人物は公募されたポストに多くみられ、いくつか挙げると全く学校に出勤してこなかった公募校長や、職員にセクハラをしたり経歴詐称をしたりする公募区長など、ちょっとあまりにも不祥事起こす人間が多いので自分も段々と把握しきれなくなりました。下記のニュース記事に辞めさせられた公募区長はまとめてあるので助かります。

 さすがに橋下市長も自身の選考に問題があったと責任を認めていてその点についてはまだまともだと思えるし、また立派に職務をこなし続けている公募区長もいるということもわかります。ただそれにしたって「わざと変な奴を選んでいるのでは」と思うくらいに維新の会は妙なタレントを見つけてきてはポストを与えて案の定問題起こすことがあまりにも多過ぎます。もともと、こういう議員を始めとした政治関連ポストというのは自己顕示欲の塊みたいな人間が立候補したり応募して来たりするので「やる気のある無能」が大挙してやってくる傾向はありますが、それをどうふるい落とすかが組織の健全な運営、育成のためには非常に重要であるというのに、それが出来てないというのはこれこそが維新の会の最大のアキレス健であると私は見ています。

 もちろん維新の会の中にはまともで立派な人物も恐らく入るでしょう。しかしこうして問題を起こす人間をよりによって重要なポストにつけてしまう辺りに加え、稀にメディアに出てくる維新の会メンバーのやや拙いと私が感じさせられる発言や見識を見ていると政党としてはとても信用が出来ません。まぁ今一番発言おかしいと思うのは熊手カッターのあの人だけど。
 詳しく検証しないで批判するのもよくないとは思いつつ敢えて言わせてもらうと、今の維新の会はやる気のある無能たちの集団に成り下がっているのではと強く疑っています。今の自民党一強の政治状況は好ましいとは思えないものの、問題がありそうな維新の会が勢力を延ばすくらいだったら今のままの方がいいとすら私は考えています。

 だからといって私は維新の会に早く潰れてほしいとまでは考えておらず、むしろこうした私の懸念を払拭するような立派な功績を上げるなり、これはという人材を発掘して活用してもらいたいと考えているのも事実です。しかしはっきり言ってしまうと、橋下市長というか橋下代表には人を見る目が現時点で全くないし今後も改善される見通しはまるでありません。本人も早くこの事実をしっかりと受け止めて、人材の発掘やポスト管理をこなせる伯楽を早く見つけるなり紹介してもらうなりすることこそが今の維新の会の最大の課題ではないかと思う次第です。
 その上でもう一つだけ書くと、やる気や声の大きさにこだわらず、真に実力だけを見てポストにつけることが何より大事です。三国志の三顧の礼じゃありませんが、「やる気のない有能」を拾ってくる努力こそが人事に置いて重要ではないでしょうか。

2014年9月24日水曜日

宇都宮病院事件について

 今日は唐突ですが古い事件をちょこっと紹介します。なんでこんなの取り上げるのかっていうと後で解説します。
 
宇都宮病院事件(Wikipedia)
 
 この宇都宮病院事件というのは1983年に起こったという発覚した事件なのですが、私はこの時点でまだ生まれていないので発覚当時はどのように報じられたのかなど全く分かりません。ただ少なくとも私より年少の世代であれば確実にこの事件のことは知らないだろうなと思うので、まだ紹介する価値はあるのかなと勝手に考えてます。
 そういうわけで早速事件の概要を説明していきますが、この宇都宮病院というのは正式名称が報徳会宇都宮病院で、精神科病棟、つまり精神疾患者を対象とした治療施設を保有しているのですがここでは非人道的な看護・医療処置がかつて行われており、入所者に対する暴力や虐待は当たり前、挙句の果てに何人かが暴行が原因で死んでしまったことはともかくばれてしまったから大事になったというのが事件のあらましです。なおこの病院自体はまだ存続してます。
 
 さてそんな宇都宮病院がどのような足跡をたどっていったのかというと、今はどうだか知りませんが戦後になって精神科病棟であれば通常の病棟に比べ常勤の医師や看護師数は少なくても設置、運営を認めるという法律が通ります。さらに手厚い融資策なども取られたことから高度経済成長期にかけて精神科病棟は各地でどんどん病床数を増やしていったわけなのですが、そうした精神科病棟設置のビッグウェーブに乗って作られたのが宇都宮病院でした。
 宇都宮病院は1961年に石川文之進という医師が前身となった石川医院を改組する形で開院されました。石川は元々内科医ではありましたがやはり精神科は設置しやすい上に医師や看護師数が病床数に比べて少なくてもいいという経営上の判断から宇都宮病院を作りました。ただ院長が精神科について何もわからないとなるとちょっとカッコ悪く、箔をつける目的もあって東大医学部精神科の武村信義に指導を仰ぐ形で研究生になります。
 
 このような形でスタートした宇都宮病院でしたが、どうも開院当初からお世辞にも真っ当な病院ではなかったと聞きます。初めから経営を優先するような運営が目立ち、ベッドを埋めるためにそれこそなりふり構わない形で入所者を集め、中には精神疾患とはとても言えないような健常者ですらあれこれ理由をつけたり、もしくは家族から要請があればどんどんと入所させ、医療保険料を国に請求していたそうです。また医療環境、というか法律なんか始めから無視しており、本来やってはいけないのに看護師に診断をやらせていただけでなく死体解剖まで医師以外の無資格者に行わせていたというだけにその意識の低さには呆れてきます。さらには作業療法と称して入所者に作業を行わせ、その勤労文の利益はしっかり着服するということまでやらかしてます。
 
 これらの点だけでも悪い病院のよくある話としてそれなりに面白いのですが、本気で面白いのは院長の石川を取り巻いた人物たちです。石川の弟は地元の選挙に出て最終的には栃木県議会議員になり、まぁ恐らく行政の面からあれこれ宇都宮病院をバックアップしたことでしょう。そんな石川の弟以上に面白いのは、前述の東大の武村医師です。
 武村自身は研究医であって臨床医の経験はなく、はっきり言って石川を指導できるような医師ではないのですが箔つけに協力し、また宇都宮病院から得られる患者のデータを自分の研究に使うことでWin-Win、というよりはギブ&テイクの関係を石川と持ちます。もっともこうした行為は武村だけでなくほかの東大精神科に所属する医師たちも行っており、宇都宮病院の入所者に対する虐待行為や違法行為について知っておりながら黙認していました。
 
 もっともこうしたおおっぴらな悪事がずっと続くわけでなく、本人はいたって正常にもかかわらず仲の悪い親族に仕向けられて入所した男性が朝日新聞にタレこみ、その内情がメディアによって暴露されたことによって一気に社会から批判を受けることとなります。その後警察の捜査も入りより詳しい状況が明らかになり、その操作過程で1981年から三年間で入所者が220人も死んでいたことや、看護師による暴行が原因とみられる死者二名の案件で看護師数名と院長の石川が起訴され、最終的に有罪判決が下っています。
 この起訴案件となった死亡した入所者二名に対する虐待ですが、なんでも片方は食事がまずいと言ったところ看護師に金属パイプで20分間目一杯叩かれて死亡し、もう片方は劣悪な病院の現状を見舞いに来た知人に話したら職員に殴られて死亡、というよりは殺されたと、過去の事件とは言え自分ですら腹立たしく思えてきます。こんな些細なことで入所者を殴り殺しているくらいなのだから、監獄以上に劣悪で非人道的な行為が行われていたと想像できます。
 
 関係者のその後ですが、石川を含めた宇都宮病院の主犯格らは前述した通りに有罪判決を受け、また石川と深いかかわりのあった東大の武村は世間に批判を浴びる形で東大の研究機関を辞任し、再就職先として宇都宮病院へ移っています。こういってはなんですがこの時代はまだおおらかだったのだなぁと思えるのですが、石川らは現代なら無期懲役、下手したら死刑もあり得るでしょうに、武村も医師免許の剥奪を受けていたのではと勝手に考えています。
 改めて言いますがこの事件で不謹慎ながら何が面白いのかというと、儲けを優先する悪医者、それを支援する議員の弟、さらにギブ&テイクで黙認する大学と、こんなB級ドラマみたいなキャスティングが見事に揃ってお決まりな行動を取っていたという点です。しかもすぐにばれたというわけでなく会員からそこそこ時間経っての発覚というエピローグ付です。
 
 ただもう少し真面目な話を付け加えると、この前も児童養護施設で虐待が行われていたことが発覚しており、昔から何度も似たような問題が起こっておきながらこの手の話は尽きることがありません。もちろん発覚は内部通報によるものが多いですが、発覚まで長い時間が経過していることも多く、より社会の監視を強めるとともに内部通報者に対する対応の充実、捜査能力の拡大が今この現代だからこそ必要なのではないかと思えます。なお非常に攻撃的な性格ながらも自称自由主義者の自分に言わせるなら、善きにしろ悪しにしろ徹底した情報公開こそが最高の対策だと信じています。
 
  何故この記事を書いたのか?
 実は先週土曜から昨日まで密かに日本国内へ潜入していて更新も滞っていたのですが、昨日地元の友人とココスで朝食食べながらいつものように、「部活動こそ日本の教育の癌だ!」と熱く吠えていたところ、隣の席で医療系の学校に通っているっぽい女の子二人が互いに課題のプリントを読み上げている中、「えーっと、精神疾患者に対する待遇問題で宇都宮病院事件ってのがあって……」と口にしたのを耳にするや私は、
 
「ちょっと今隣の席で出てきた宇都宮病院事件だが、これほんまめっちゃ面白い事件やねん」
 
 と、それまでの話題をぶちきっていきなりこの宇都宮病院事件の解説をやり始めました。友人は苦笑していて、隣の女の子二人も、「あたし、宇都宮病院事件はこれでめっちゃ覚えたよ」と笑いながら話してました。相手の話題に割りこんじゃって、ちょっと悪かったなぁ。

2014年9月22日月曜日

任天堂とソニーでのゲーム事業合併の可能性

 前ネットで「隣のシャアは赤い」という言葉を見受けました。だからなんだといわれればそれまでですがなんか妙に印象に残るワードです。声の人は今度の大河ドラマでナレーターやるそうらしいですが。

 話は本題に入りますが、先日友人と今後のゲーム事業の先行きについて話をしていて、これまで倒産間際になるやヒット作を生み出して生き延びてきたカプコンですがコーエーテクもに対してアップグレード版商法で提訴するなど迷走しているから今度は駄目だろうとか主張してきました。あと今後の日本のソフトメーカーで言えば、国外はともかく国内は「妖怪ウォッチ」でヒット邁進中のレベルファイブが引っ張っていくだろうともよそうし、自分が子供だった頃に最強のブランド力を誇ったスクウェアエニックスはなぜこうも……なども話題に上がりました。

 そうやってとりとめもなく話していると友人が突然、「グローバル化への対抗としてゲームハードメーカーの任天堂とソニーが合併してもいいと思うんだが」ということを口に出しました。私の意見を先に述べると、実現性はともかくとして議論に値する定期だと思います。

 ゲームのハードウェアは大別して二種類、テレビに接続する据置きハードと携帯して遊べる携帯ゲーム機に分かれます。前者は任天堂のWiiU、ソニーのプレイステーション4、マイクロソフトのX-Box360の三強となっており、情勢としてはソニーがやや有利でマイクロソフトと拮抗しているのに対し、任天堂は三国志で言えば諸葛亮亡き後の蜀よろしく建て直しの難しい状態となっています。後者の携帯ゲーム機は任天堂のニンテンドー3DSとソニーのPSVitaの実質二強で、どちらも決め手に欠け消極的な理由で決着がつかないような状態です。

 以上のようにゲームハード3社の中で現在圧倒的に状況が不利なのは任天堂です。任天堂が不幸なのは現行より一つ前のハード、WiiとニンテンドーDSが社会現象に近いほど好調な売れ行きを示したのに対してその後継機二つはどちらも芳しくない売れ行きに留まっており、ハードの売れ行きを伸ばすようなキラーソフトも今後出てくる見込みは大きくありません。まだ任天堂自社の「ゼルダの伝説」や「スマッシュブラザーズ」といったシリーズもののゲームは期待されては下りますが、任天堂以外のサードパーティ製によるソフトが揃えられないというのはちょっと……といったところです。

 一方、ソニーのプレイステーション4もキラーソフトがやや不足している間がありますが、自分でもよくわかりませんが海外市場ではやけに売れています。これは勝手な創造ですが日本市場はともかく、海外市場ではアメリカを始めとした海外のソフトメーカー製ソフトがプレステ4に参入して、それが呼び水になっているのかも知れません。あと国内市場に関しても、人気タイトルを抱える国内メーカーが新作を出してくることも予想され、まだまだ安泰とはいえませんがまだ未来が感じられます。

 任天堂が何故ここまで苦戦することとなったのか、ひとえに理由は時代の流れとしかいえないほど難しいのですが、じゃあ今後はどうすればいいのかとなると友人の言のようにソニーと提携するのも検討すべきひとつの手段かと思えます。
 この二社は据置き、携帯の両方で競合しているため、仮に提携するとなるとそれぞれでハードを一本化する必要があります。この一本化は据置きならまだしも携帯ではがっちり組み合っていることもあってまず現実的ではなく、それゆえ提携できるかといったらまず不可能といえる理由にも成り得ますが、仮に一本化、もしくは路線を明確に分けた棲み分けができればそれによって得られる効果は小さくはない気がします。

 ハードが一本化されることによってソフトウェアメーカーは複数ハードでの同時リリースに向けた開発に忙殺されることもなくなり、また日本一丸となってマイクロソフトにぶつかれることもできます。もっともハードで独占となったらかつてのスーパーファミコンの時のようにハードメーカーのマージンが高く設定されたり流通が限定されたりと、ソフトウェアメーカーが苦しむ可能性もありますが。

 この任天堂とソニーの事業合併案ですが、あくまで仮説です。しかし仮説を掘り下げることによって今後のゲーム事業も占えるのではと思える要素もあり、また何か思いつくことがあれば書いていきます。最近こういう引きが我ながら多いなぁ。

2014年9月21日日曜日

日本人の知らない中国

中国出張した日本人が、最も理解に苦しむこととは?―中国ネット(レコードチャイナ)

 ちょっと今日はやる気がないのと、レコードチャイナが面白い記事書いているのでこの内容に私の方から湖面と入れることで今日は間に合わせようと思います。明日はもうちょっと真面目な内容を書こう。

 この記事では中国に出張でやってきた日本人が違和感を覚える点について書かれてありますが、私の目から見てどれもいいポイントを突いているというか全部事実です。

→中国に出張に来た日本人は、ホテルの豪華さに驚く

 これなんか代表的な点ですが、中国のホテルはその宿泊料に比して広くて豪華な部屋が多いです。単純に日本より物価が安いということもありますがそれ以上に中国のホテル業界の競争が非常に激しく、特に上海市内は海外大手が文字通り凌ぎを削っており、航空券とセットで予約すれば五つ星ホテルにも安価で宿泊することが出来ます。どれくらい安価かというと、一万円以下でもざらかなぁ。
 この点については掘り下げる余地があるので、また別の機会にも取り上げます。

→日本人は中国人の話し声が大きいと感じる

 これも典型事例ですが、中国人は普段から声がでかいのに電話となるともっとでかくなる傾向があり、中国に慣れていない人からすれば喧嘩でも起こっているのではないかと間違いなく思うでしょう。

→日本人が最も理解に苦しむのは、ペットボトルに入った緑茶だ

 これはあまり話題に上がることは多くありませんが、紛れもない事実です。何でこんなのに日本人が驚くのかというと、中国では緑茶にも砂糖を入れます。普通にコンビニで「緑茶」と書いてあるから日本の緑茶飲料の味を創造していると口の中で広がるのは砂糖入りの紅茶みたいな甘ったるい味で、最初に私が飲んだ時なんか腐ってるのではと疑ってしまいました。
 しかもこの砂糖入り飲料、あのサントリーの烏龍茶にもあります。 中国でもサントリーは日本と同じ包装デザインで烏龍茶を売っているのですが包装の一部に「微糖」、もしくは「無糖」という文字が書かれてあり、「無糖」は日本で売っているウーロン茶と全く同じですが「微糖」にほあ本当に砂糖が入ってて、甘ったるいウーロン茶に仕上げられています。決してまずいわけじゃないけど、日本の烏龍茶に慣れている自分からするとやっぱり手に取りたくはない味です。

2014年9月18日木曜日

二次大戦下のフィンランド 後編(継続戦争)

 前回記事でフィンランド対ソ連の第一ラウンドに当たる冬戦争を取り上げましたが、今日は第二ラウンドの継続戦争を取り上げると共に、大国に立ち向かう小国の外交というものを自分なりに解説します。どうでもいいけど今マジで眠い(-.-)zzz
継続戦争(Wikipedia)
 前回の記事で書いたようにフィンランドはソ連に因縁をつけられるような形で侵攻を受けたものの、「白い死神」を筆頭とした民兵などの活躍によって見事撃退を果たしました。ただ戦争継続能力がなかったことからフィンランドはソ連に対して大幅な妥協を迫られ、国土の10%に当たる領土の割譲を余儀なくされ、失地回復の機会を虎視眈々と狙っていたことでしょう。
 そんな冬戦争から約1年後の1941年6月、フィンランドとソ連を取り巻く環境は前年とは大きく変わっていました。何が起きたのかというとバルバロッサこと独ソ戦が始まり、ドイツがソ連領内へと攻め込んだためです。
 当時のフィンランドはソ連との関係悪化から「敵の敵は味方」とばかりにドイツの関係が強くなっていました。この独ソ戦でも当初は中立を宣言していましたがその中立だった期間中もドイツ軍はフィンランド領内を通過してソ連に攻め込み、またソ連側もフィンランド領内へ空爆を行ったことからすぐにソ連へ宣戦布告を行い、ドイツ軍と共にソ連へと攻め込みます。
 フィンランド側はこの参戦について、ドイツとの軍事同盟によるものではなく前回の冬戦争の延長上だとして「継続戦争」という言葉を用いました。何故このような主張をしたのかというとドイツと同じ側に立つことによって国交のあった米英から枢軸国と見られたくないとの思惑があったためですが、そのような主張は残念ながら通じずに米英からは間もなく国交断絶の通知を受けることとなります。
 こうして始まった継続戦争ですが、フィンランドの戦略目標としては一にも二にも失地回復にあり、真っ先に冬戦争でソ連に割譲を余儀なくされたカレリア地方を奪い返し、冬戦争以前の国境線まで領土を再占領します。しかしその後、ドイツ軍のソ連領内での進軍にブレーキがかかるとともにフィンランドも進軍を止め、早いうちから防衛へと方向を変えます。これは元々失地回復が目的であってソ連への侵攻、特にドイツ軍と同じにされてはまずいとの外交判断からの方針だったのではないかと見ます。
 このようにフィンランドはこの戦争では控え目な態度を見せたものの、周囲の状況が「控え目な結果」には終わらせてくれませんでした。1943年にドイツ軍が有名なスターリングラードの戦いで敗北するとソ連軍は一気に反撃へ打って出て、フィンランド領内へと逆攻勢をかけてきます。
 フィンランド政府は早くにドイツ軍の敗北は濃厚と見てソ連など連合国に対して単独講和を行おうと動き出しますが、こうしたフィンランドの動きに対してドイツが真っ先に反応し、脅しとしてフィンランドへの食糧輸出を止めてしまいます。心ならずも枢軸国側に立ってしまったフィンランドとしては主要物資をドイツ一国に頼っている状況もあり、結局単独講和は放棄してドイツ軍と共にソ連と当たることでドイツも物資輸出を再開します。
 ただこの時のソ連軍はかつての冬戦争時とは全く異なり、激しい戦闘を潜り抜けたこともあって兵卒や士官の質が大きく向上していました。冬戦争時は見事撃退したもののこの継続戦争ではフィンランド領内の奥深くにまで攻め入るほどでしたが、対するフィンランド軍も要所要所で一斉反撃に成功しており、この戦争の最終的な戦傷者数では今度もまたソ連軍がフィンランド軍を大きく上回っています。
 しかしそれは一時的なもので、フィンランドにとって長引けば長引くほど不利になることに変わりはありませんでした。またソ連としても戦後秩序を睨んでドイツ領内への進撃を優先したいという思惑があり、またフィンランドの懐を鑑みて講話に応じる態度を見せていました。両者の思惑は「ともかく早く戦争を終わらせること」にあり、この点で一致したことからフィンランドは大統領のリュティが辞任し、冬戦争、継続戦争を指揮したマンネルハイム元帥が代わりに大統領に就任。ソ連との間で下記の条件を守ることで講和を結びます。
・フィンランド領内にいるドイツ軍の排除
・国境線を冬戦争後の状態に戻す
・賠償金の支払い
 どれもフィンランドにとって非常に厳しい内容で、特に領内にいるドイツ軍の排除は下手すれば内戦にもなりかねないような内容であったために前大統領のリュティは呑み込むことが出来ませんでした。もっとも講和後、ドイツ軍もそれまでフィンランドと一緒に戦ってきた仲でもあったことから勧告に従い比較的すんなりとドイツへ帰っていったそうです。
 結果論から言うとフィンランドはこの継続戦争で失地回復を達成できなかったばかりか、戦争に伴う消耗、そして賠償金の支払いを負うこととなり事実上、敗北と言っていい結果に終わりました。しかし私としてはフィンランドが失地回復を求め、それが望めるような状況に行動を取ったというのはおかしい判断だとは思えず、またドイツ軍の敗退という状況の変化に合わせ不利な条件を呑み、すぐ講話に動いたというのは国家として素晴らしい判断だったように思えます。
 これと好対照だったのは言うまでもなく日本で、どうあがいても勝利を得ることが不可能な状況になりながらも講話へと全く動かなかったばかりか、追い詰められた後にはあろうことか今も約束を守ることのないソ連を仲介して少しでもいい条件で講和に持ち込もうとするなど、こういってはなんですが敗北する際の覚悟が全く足りません。それこそドイツが完全な敗北を無かる1945年4月以前、ないしは1944年の間にも講話へと動いていれば、戦後の日本の状況は史実と大きく異なっていたことでしょう。
 もう一つこの時のフィンランドについて触れると、よく日本は中国や米国という大国に挟まれるという地政学的に恵まれない国だという意見をたまに目にしますが、少なくともフィンランドとは違って陸続きで大国に接していない、しかもわけわかんないソ連とは陸続きでない点で相当恵まれている気がします。なんだかんだ言って日本はどの国とも海峡に挟まれて陸続きじゃないので、地政学的には結構楽な方に見えます。もっともそのせいでやや保守的なきらいがあるが。

2014年9月17日水曜日

二次大戦下のフィンランド 前篇(冬戦争)

 この頃密かなマイブームとして北欧史にはまっています。なんでこんなのにはまっているのかというと米国、西欧とは明らかに異なる文化県で現在も「福祉国家」に代表される独特な国家運営の仕方などから一体どういう歴史やパーソナリティがあるのかなと興味を持ったことに端を発します。あとどうでもいいけどパズドラのヴァージョンアップが出来なくて今遊べません(´;ω;`)ウッ
 話は戻りますがちょっと比較研究を兼ねて二次大戦期において恐らく北欧で一番苦しんで、なおかつ伝説を残したフィンランドの戦争について解説します。フィンランドは二次大戦下に二度、二度ともソ連とぶつかり合っているのでそれぞれで一回ずつ開設するという形で、今回は1939年12月から1940年3月まで続いた冬戦争を取り上げます。
冬戦争(Wikipedia)
 当時の世界状況から説明を開始しますが、1939年9月にドイツはポーランドへ侵攻し、またそれによって英仏がドイツに対して宣戦を布告したことから第二次世界大戦は幕を開けます。この時にドイツはソ連との間で不可侵条約を結んでいたのですが、この条約は1941年に破棄されるだけあって独ソ双方で一時的な取り決めという認識が始めから持たれており、ドイツが英仏を相手にしている間にソ連も勢力を拡大する事があらかじめ視野に入っており、そんなソ連のターゲットとなったのがほかならぬフィンランドでした。
 ソ連はフィンランドに対して領土の割譲、軍港の無条件での租借などといったあんま今と変わらない無茶な要求を繰り返し、これに対して明らかに小国であるフィンランドは拒否し続けます。こうしたフィンランドの態度を見たソ連はフィンランドとの国境でフィンランド側から銃撃を受けたと偽装し(崩壊後にその記録がばれてる)、フィンランドに対して一方的に宣戦布告を行い軍を派遣します。その兵数はなんと45万人で、最終的には100万人を派遣したと記録されています。
 この奇襲とも言えるソ連の行動は世界から批判され国際連盟からも追放を受けますが、あんま今と変わらず気にしないソ連はフィンランド領内に突き進みます。しかもフィンランドにとって不運だったのはスカンジナビア半島の先端に位置するノルウェーがドイツの圧迫を受けていたことから中立に回らざるを得ず、英仏などの支援物資、義勇兵の輸送を妨害したことです。事実上この時のフィンランドは孤立無援と言っていい状態で、ソ連に対して何の援助もないまま自国だけで立ち向かわなければなりませんでした。
 そんなフィンランドですが結果から言うと、ソ連に対して有り得ないくらい大勝しています。ウィキペディアの記述を引用すると下記のとおりです。
  フィンランド軍:ソ連軍
  歩兵戦力=25万:100万
  戦死・行方不明者数=2万6000:12万7000
  戦傷者数:4万:26万5000
 実に4倍の兵力差、兵器でもソ連に劣っていたと思われるのに堂々たる戦果ぶりです。
 一体どうしてフィンランドはこれほどまでにソ連軍を打ち負かせたのかというといくつか理由があり、最大の原因と考えられているのは当時のソ連の最高権力者であるスターリンが赤軍将校を片っ端から粛清していたためまともな士官がおらず、ソ連の指揮系統や戦術があまりにも不甲斐なかったせいだったためと指摘されています。実際に当時のソ連の国防大臣がスターリンに面と向かって、「お前が殺し過ぎたせいでまともに戦えないんだろっ!」と痛罵しており、さすがのスターリンも責任を感じたのかこの国防大臣を左遷こそしますが処刑まではしませんでした。
 このほかソ連側の敗因としては、一ヶ月ほどで片が付くと思っていたらずるずると戦争期間が延びてしまって補給に綻びが生まれたことと、それにより冬将軍の備えが出来ず大量の凍死者を出してしまった点が挙げられます。後の独ソ戦でドイツが辿ったような失敗をこの時はソ連が経験しています。
 逆にフィンランド側の勝因としては、少ない兵力をカバーするために決戦を避け、森林などで待ち伏せするゲリラ戦のスタイルを徹底的に貫いたことと、開戦前にソ連の侵攻に備えマンネルハイム線という防御陣を敷いていたこと、その防衛陣の名前の元で元帥として戦ったマンネルハイムという将軍のリーダーシップなどが挙げられます。ただこうした要因以上に祖国を守ろうとするフィンランド人の高い士気、そして民間人から最低限の訓練を経て採用された民兵が恐ろしいまでに強い兵隊だったという事実も見逃せません。
 もともとフィンランドは狩猟の盛んな地域でこの冬戦争時にはハンターを中心に民兵の狙撃部隊が組織されたのですが、多くのメンバーが氷点下何十度という厳しい環境下でも高い狙撃能力を発揮しており、特にソ連側から「白い死神」と呼ばれたあのシモ・ヘイヘがこの民兵の中にいたということはソ連にとって悲劇以外の何物でもないでしょう。
シモ・ヘイヘ(Wikipedia)
 知ってる人には有名ですが、狙撃による射殺数が確認されるだけで505人、実際には1000人を超すのではと言われるのがこのシモ・ヘイヘです。彼の狙撃にまつわるエピソードはどれも人外じみており、上記の射殺記録は冬戦争中のわずか100日間で打ち立てただけでなく、300m以内なら確実にヘッドショットを決められたとか、1分間で16人を射殺したなど、連邦の「白い悪魔」もびっくりです。実際に彼が配属されていたコッラという地域は終戦までフィンランド軍がソ連軍を押し返しており、さらにはシモ・ヘイヘを含む32人が防衛した丘では押し寄せるソ連軍4000人を撃退するというフィクションのような話まであります。
 ただソ連軍相手に善戦したフィンランド軍でしたが他国からの支援がない中で武器弾薬の不足は否めず、戦争の長期間継続は初めから不可能でした。一方のソ連も余りの損害の多さから早くから講話の道を探っており、両者の思考が一致したことから講和条約成立へと至ります。
 この講和条約でフィンランドはソ連側の多くの要求を受け入れざるを得ず、重要な工業地帯を含む国土の10%をソ連に割譲することとなります。とはいえ祖国の危機から独立を守り切ることはでき、フィンランドにも束の間の平和が訪れます。もっともこの時のソ連へのフィンランドの怨みはくすぶり続け、一年後の1941年に勃発するフィンランド対ソ連の第二ラウンドに当たる継続戦争が起こることとなるわけです。
  おまけ
 この冬戦争には英国からの義勇兵として、「ロードオブザリング」のサルマン役、「スターウォーズ」のドゥークー伯爵役で有名なハリウッド俳優のクリストファー・リーが参加しています。非常に強いキャラクターのある俳優ですが、あの迫力はこうした経験が背景にあったのかと妙に納得しました。