先週に頑張って書いた「二次大戦下のフィンランド 前編 後編」の記事ですが、この両記事中には二つの戦争で元帥として活躍し、戦中に大統領に就任したカール・グスタフ・マンネルハイムという人物が何度も登場します。そこで今日はこの人物の紹介をするとともに、二次大戦中のフィンランドの決断について私なりの解釈を紹介しようと思います。
マンネルハイムはドイツ系フィンランド人の家系に生まれ、父親は実業家でありましたが見込みのない金融取引に手を出した挙句破産して愛人と逃げたので、母親はそのショックでマンネルハイムが13歳の頃に亡くなります。しょっぱなから勢いあるな。
両親を亡くしたマンネルハイムはほかの兄弟ともども叔父の家に引き取られますが少年時代の彼は非常に素行が悪く、矯正する目的もあって軍の幼年学校へと入れられます。しかし幼年学校でも問題を起こしたため放校の処分を受けてしまい、仕方なく当時フィンランドを保護国化していたロシアの軍学校にアプローチをかけ、過去の経歴が足を引っ張りながらもあの手この手の手段を使ってどうにかこうにかロシアの騎兵学校に潜りこむことが出来ました。
騎兵学校の卒業後はロシアの軍人として着実にキャリアを積み、1904年には日本との日露戦争にも参加して功績を上げております。日露戦争後は各国の人間による中央アジアを縦断する探検旅行に参加し、サンクトペテルブルグからチベットなどを通過して北京へ向かう草稿14000キロメートルに及ぶ探検を見事成功させています。なおこの旅行の後、ロシアへの帰国に際して日本の長崎や舞鶴といった都市で8日間過ごし、ウラジオストック経由で帰っています。
その後もマンネルハイムは順調にキャリアを重ね一次大戦でもロシア軍を指揮し活躍を続けますが、ロシア本国で社会主義革命が起こり、その保護国でもあった故国のフィンランドでも社会主義化の波が高まります。こうした状況を見たマンネルハイムはフィンランドに帰国し、フィンランド国内で右派と左派が激突したフィンランド内戦で右派を支持し、自らが指揮官となって部隊を指揮して右派の勝利に貢献します。
内戦後、フィンランド国内で重い地位を得たマンネルハイムは新生フィンランドの初代大統領選にも立候補しますがこの時は落選し、二次大戦までの間はソ連への脅威を唱えて軍の強化をするべきと主張し楽観的な議会と激しく対立しました。その後の歴史でこの時のマンネルハイムの予想は大当たりだったことから、現代においてはマンネルハイムのこの時の判断は高く評価されています。
そして1939年、マンネルハイムの言う通りにソ連がフィンランドに侵攻してきたため(冬戦争)、マンネルハイムは70歳を超えた年齢でフィンランド軍の最高指揮官に就任します。本人も高齢のため就任をためらったというような内容を書き残しておりますが戦時中は猟師経験のある民兵を多数採用し、また現場に何度も足を運んで現場ゆえの意見を多く採用するなどして戦況を有利に進めることに成功しました。ただ評論家からは現場をあまりにも訪問し続けており要所要所で対局を見失う戦術を取って敗北を喫するなど、大きな視野での指揮には疑問符が付く指揮官だったようです。まぁ狭い視野でも大きな視野でも間違える、日本の多くの指揮官に比べればそれでもマシな方でしょうけど。
こうした戦時中に発揮された指導力によってフィンランド国内で高い信頼を得たマンネルハイムは継続戦争の処理を巡り、ソ連に対する和睦、そして同盟相手であるドイツへの踏ん切りを巡り、前大統領のリュティに変わって自らが大統領に就任してその処理を引き受けます。この時のソ連への和睦案については前に書いた通りで、領土の割譲並びに賠償金の支払いと厳しい内容ではあったもののそれを実行したことで、他の東欧諸国とは違いフィンランドは見事独立を守り切ることに成功しました。大戦後はその処理に大統領として当たり、1946年に退任すると政治と軍事の一線からは身を引いて1951年に83歳で没しました。
その活躍は本国フィンランドでは現在でも高く評価されており、「尊敬するフィンランド人ランキング」では堂々の一位を獲得したと聞きます。なお昔イラクで同じような尊敬する人ランキングを行ったところ、ホメイニ師をぶっちぎって「おしん」がダントツの一位を取ったという話を聞いたことがあります。
このマンネルハイムの経歴を見て私がまず思ったこととしては、ロシアの軍人としてキャリアを積みながらフィンランドの最高司令官としてソ連と戦ったというこの事実に尽きます。別に恩知らずだなんていうつもりはなく、むしろロシア軍に在籍していたからこそソ連の傍若無人な脅威を意識していたのではないかと思え、彼の後年の決断に大きく影響したのではなどと思えます。
また司令官としている最中、議会とは対立が多かったものの基本的には議会に従い続け、民主主義の骨子を曲げなかったというのを私は高く評価します。最終的には文民としても最高の大統領に就任しますが、この時も軍人でありながらソ連に対する賠償金支払いを含む和睦案に調印するなんて旧日本陸軍とは大違いもいい所です。
最後にこの一連の二次大戦下におけるフィンランド関連の記事についてまとめますが、最初のこの国の当時の歴史を見て思ったのは「日本とは大違いだ」という一言に尽きます。フィンランドは冬戦争においてはソ連からの防衛、継続戦争においては失地回復と戦争に当たって明確な目的を持って参加し、その目的達成のために徹頭徹尾行動しています。そしてそれらの目的達成が困難と見るやすぐさま軟着陸点を捜し、如何に損失を少なく戦争を終わらせるか機敏な外交を取っており、正直に言って羨ましいと感じました。特に継続戦争の終盤においてはソ連と和睦したらドイツから攻撃されかねない厳しい条件下にありながら、最終的にはソ連に対して善戦しつつもやや屈辱的ともいえる和睦案に調印したというのは勇気ある決断だったと心から褒め称えたい気持ちです。
歴史に詳しい人なら言わずもがなですが、日本は二次大戦でなぜ米国と戦うことになったのか明確にその理由を言える人間は本来ならいません。というのも、何も目的が無く戦争を開始したためで、東条英機側近の佐藤賢了に至っては戦後のインタビューで、「なんとなく戦わなくてはいけない空気だったから」などとマジで証言しています。実際に戦争が進んでもどこで戦争を終わらせるのかという着陸点は最初から最後まで見いだせず、実質的にサイパンを米軍に奪取された時点で敗北は目に見えていたにもかかわらずその後も戦争は継続されており、たとえ賠償金や領土割譲があったとしても、ポツダム宣言を受諾するよりかはあの時点で米軍に降伏していた方がずっと賢かったでしょう。
おまけ
フィンランドではこの二度の戦争中にシモ・ヘイヘを始めとする民兵が大活躍していますが、フィンランド名物でもあるあの青い妖怪こと「ムーミン」が何故か頭に思い浮かび、「ムー民兵」とかいたのかななどと友人に聞かせてはやや呆れられました。でも響き的に「ムー民兵」ってなんか強そうな気がする……。