最近中身の薄い記事ばかり書いている気がしてならないので今日はまたぞろ頭を使うような記事にします。
最近マイブームな「大学生にこんなこと聞いてみたい」と思う質問としてこれまで、「労農派と講座派の違いは?」、「ロシアのラストエンペラーは?」を上げていますが、この二つは多少おふざけが入っているので答えられなくてもまだ理解できますが、「学問を身に着けるとはどういう意味か?」というこの質問には真面目に回答してもらいたいです。答えをあっさり明かすと、理系に関してはそのまま技術と知識を覚えるという意味になりますが文系に関しては「その学問分野に根差した思考法を身につける」ということが私の中の模範回答です。私は幸いというかこの内容を一回生の頃に恩師に教えてもらったのでそれ以降は意識的に思考法を身につけるよう努力するとともに、ほかの専攻の連中はどんな思考法なのか密かに観察していました。
もっとも今の大半の日本学生はそれほど真面目に勉強しないので思考法以前に教養が物足りない者で溢れ返っていますが、割と真面目に勉強している学生を見ていていくつか気づいた点として、まず経済学の学生は明確に貨幣の流通を中心に社会を分析するという前提があるので、比較的現代的価値観に近い思考法を持ってることが多いです。具体的には流通経済の価値観に沿ってどれだけ回せばどれだけ返ってくるような、こうした考え方することが多く普段はそんな突飛なこととかも言い出したりしません。ちなみに一番突飛なのはやっぱりダントツで文学部出身者。
最も考え方に特徴が出てくるのを上げるとそれは法学部で、彼らのやっていること自体がそれだからってのもあるでしょうが、基本的に枠の中でしか物を考えません。法学部出身者は何か新しい発想を求めてもあんまり意見は出てきませんが、「こういう条件で」という具合で枠を作ってあげるとその中にある材料でいろいろ組み立ててくるのでこうした傾向がある人間にはなかなか有効な手段となり得ます。
以上はあくまで私の独断による見方で自分の中でもまだ固まっておらずほかにも意見がある方がおれば是非話を聞きたいのですが、それはさておきじゃあ私はどんな思考法でどんなアプローチをするのかというのが問題です。そもそも私の専門とする社会学はまだそれほどメジャーでないこともあって「一体どういう学問なの」って聞かれることも多いのですが、あくまで私個人による解釈として社会学とは、「人間は集団となると個人としての人格とは別の、集団の人格が形成される」というのが大前提です。これは個人としては非常に良心的な人を集めて30人にしても、その30人が集団して活動すると非常に好戦的で残酷な思考でもって行動を取ることがあるというように、個人と集団の考え方や思考、人格は大きく異なるという考え方です。
心理学との大きな違いは心理学は個人の精神、思考を対象とするのに対して社会学は集団の精神、思考を研究対象とします。具体的には民族や国民といった同じ文化をもつ大きな集団から小学校のクラスや会社の人間関係なども小さい集団も取り扱います。大きなポイントとしては人間の思考や心理を対象にするという点で、制度やルールは逸れに絡まない限りはあんまり相手にしません。
そんな社会学を曲がりなりにも学んで来た身であるため私の考え方というかアプローチの仕方も社会学に影響されており、必ずしもこれが正道というわけではないかもしれませんが、私がモノを考える際は基本的に「動機」から入ります。
科学でいちばん基本的なこととして因果関係の概念があります。原因があるから結果がある、英語で言えばCause and effectですが、この構図をどのように組立て適用し、証明するのかという過程が文系理系を問わずに存在する科学です。社会学は人間を対象にするため基本的にはその心理と行動が因果関係となっており、ある心理からどのように行動に移されるか、また逆にある行動がどのように心理へ影響を与えるかという構図で基本的に組み立てます。まぁ社会学はずるい学問なので、原因と結果を平気で逆にしたり、原因でもあり結果ともなるといった具合に双方向な干渉を主張したりすることもありますが。
それはともあれ私のアプローチの仕方ですが、私は何か疑問に当たったり、何か構造を分析しようとする際は必ず最初に「一体どんな目的で?」という具合に動機から探るようにしています。ちょうどいい例と言ってはなんですが今何かと話題の小渕優子議員の後援会における資金問題が発覚した際に彼女の発言などを見て思ったこととして、「何故憎悪が込められていないのだろうか?」というのが、決して誇張でもなく最初に感じた事でした。
この資金問題は彼女の後援会が不可解な経理報告書を出していたことに端を発し、発覚当初は小渕議員というよりは後援会の会計責任者がきちんと管理しなかったために起こった問題で小渕議員にはそれほど責任はないのではという声もありました。しかし私の考えは違い、もしその通りに会計の責任者なり担当者のポカミスもしくは不正があって起こったというのであれば一般的な人間の常識感覚だとその上司たる小渕議員は、「余計なことしやがって!」という風に怒りを覚えるのが普通な気がします。しかし先程も言った通りに小渕議員は釈明で、「監督不行きがあった」、「事実を調査中」という事ばかり述べて、自分の部下に対する怒りや恨み言を全く口にしないばかりかその目にも憎悪の炎が見えず、むしろ発言は会計担当者をかばうかのようなトーンすら感じました。
私の勝手な想像で進めますが何故小渕議員は会計担当者の責任なりをあげつらい自分に責任がないなんて主張せず、むしろかばうかのような素振りを見せたのか、一つに考えられる理由としては、やっぱり自分が主導してやったことなのでこの難局をどう乗り切るかでいっぱいいっぱいだった、もう一つに考えられる理由として、今後どのように秘書なり会計担当者に罪をおっ被ってもらうかを考えていたからあからさまな非難が出来なかったのでは、なーんて私は考えました。なんでこんな風に考えるのかというと一つはこういう組み合わせなら動機と行動が一致するように思えるのと、これまで秘書の責任にして逃げ切ろうとした議員たちも同じような釈明をしていたからです。なおこの例外は鈴木宗男元議員で、彼は部下なり他人に罪をおっ被せようとはしませんでしたが全部知らぬ存ぜぬで乗り切ろうとするのはちょっと無理があった気がします。
またややこしい話をしますが動機と行動は必ずしも一致するとは限りません。ですが普通なら何らかの思考があって行動が伴ってきます。逆を言えば周囲にある条件と行動が一致しない場合はその条件を無視する必要のある思考があると言え、その思考は一体何なのか、そしてこれからどんな行動を取ろうとするのかという風に考えて私は物事の予測を立てることが多いです。恐らく社会学を学んだ人間でもこういうアプローチをする人間はそんなにおらずやっぱり私独特な考え方だとは思いますが、こうしたアプローチをするようになったのは間違いなく社会学の影響を受けており、中にはこういうアプローチする人もいるんだという風に考えてもらえればありがたいです。
読者に負担をかけることは承知していながらも、たまにはこういうわけのわからない内容を書きつづるのはいいストレス解消になります。