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2014年11月30日日曜日

中国の衝突安全性に対する意識

 昨日の記事で書いたド底辺の中国人労働者が味千ラーメンをおごられたことに気負いがあったのか、「今度は中国ラーメン屋に行かない?」と誘ってきたので、お昼ごろに彼の仕事場近くにあるラーメン屋に行っておごられてきました。そのラーメン屋まで私は自転車に乗っていったのですが、自らの公道最速理論に則って飛ばしてたら(時速40kmは出した)雨上りの路面だっただけに車体やら靴やらがやけに泥だらけになってちょっとしょげたわけです。
 なもんだったから帰りは比較的ゆったりとした速度でもって走ってたのですが、なんか前の方から「ドーン」という音がして、またどっかの馬鹿が昼間っから爆竹鳴らしてるのかとムッとしながら走り続けると、上記の写真のような場面に出くわし、「あっ、交通事故だったんだ」とわかりちょっとうきうきしてしまいました。

 上の写真がまさにこの時の事故直後ともいえる写真で、さすがに当事者であるドライバーには悪いかなと思って伏し目がちに携帯カメラを構えて撮影してきました。あんまり歩行者が多くない道路だったのもあって写真撮ったのも自分だけだったし。
 
 この写真で注目してもらいたいのは二台の事故車の破損具合です。位置から察するに左の車(中国ローカルメーカー車)が右の車(ドイツ車)に後ろから追突したと推察されますが、破損具合は明らかに中国車の方が大きいです。中国車のフロント下部にある外部プラスチックパーツがひしゃげるのはまだ理解できますが鋼鉄製なはずのボンネットが大きく曲がっているのに対し、ドイツ車の方はトランクの蓋がやや曲がるだけにとどまっているのを見るにつけ、「ここまで強度に差があるのか(;゚д゚)ゴクリ…」なんて思ってしまいます。明らかにぶつかった方がぶつけられた方より破損がひどいというのもなぁ。
 
 
 上記リンク先のニュースは先週出たニュースですが、サーチナさんにケンカ売るのもどうかと思うけどあまり見られる記事ではありません。先に言っておくと何故トンチンカンなのか根拠に乏しく、見ようによっては妙な反発をしてるだけにしか見えない記事です。
 この記事では中国の自動車ユーザーは日本車は燃費や構成部品の価格バランスが良く実用的だがそのかわりに強度を犠牲にしているとして、基準に適合する必要最低限度の水準しか強度がないなどと中国メディアが書いていると紹介しています。その為に本社は米国社に対して安全性に劣るとしてこの記事のライターは「的外れな主張」と書いていますが、何故的外れなのかという理由は書かかれておらず、読んだ後にちょっとストレスを感じる文章です。
 
 私の意見を述べると、上記の中国メディアの主張は半分当たりで半分外れといったところで、決して「的外れ」だと言い切る文章ではないと考えています。私も自動車の安全性については素人ですが素人なりに聞きかじった知識で述べると、日本車は何よりも乗車している人間が死なないように、次にぶつかった人間が死なないように安全性を設計するそうです。それはどのような設計かというと、具体的に言えば衝突時にボディ板金が敢えて曲がるようになっており、曲がることによって衝撃をボディ自体が吸収するようになってるそうです。
 たとえば曲げやすい金属と曲げにくい金属の板をそれぞれ叩くと、叩いた手が痛むのは恐らく後者だと思います。これは曲がる金属の方が叩いた際にひしゃげることによって衝撃を吸収するのに対して曲がらないとそのままの衝撃が反対方向、それと手に直接伝わるため衝撃が大きくなるわけです。
 
 こんな具合で日本車には靱性が高く曲がりやすい板金ことハイテン板が多く使われているため、ぶつかった時にドイツ車やアメ車と比べてへこんだりすることが多くともドライバー、ひいては轢いた相手の死傷率というか安全性は高いとされます。実際に米国などで行われる衝突安全性テストでは日本車が高い評価を受けていて、最初のサーチナの記事に関してはこうした理由に触れずやれトンチンカンやらやれ的外れやら書いているのでちょっとどうかなと感じたわけです。
 
 ただこうしたドライバーの安全性を確保するため、先程書いたように日本車はドイツ車やアメ車と比べて少しの衝撃でへこんだり、ひしゃげたりする傾向が高いそうで、そうした姿を見るにつけ中国のカーユーザーからは「日本車は脆い(中国車はもっと脆いけど)」という印象を覚えるようです。これを中国のユーザーが安全性に対する知識がないためと割り切るのは簡単ですが、私からすれば中国ではドライバーみんなが強引な運転をするのが当たり前で軽微な接触や衝突がガチで多いことを考えると、生か死かを分けるような重大な事故は頭から眼中になく、接触程度の事故でどれだけボディがへこまないかを重視するのは決して的外れではない気がします。言ってしまえば、彼らにとって交通事故というのはそういった水準の事故で、大事故が起きたらなんてことはあまり考えてないように見えます。
 
 まとめとしては所によって自動車の安全性に対する意識は確実に変わるということと、日系自動車メーカーは単なる衝突安全性というのではなく「命の安全性」という観点で自社の車を宣伝すべきかと言いたいのと、ドイツ車は中国車に比べてやっぱり硬いんだなということがよくわかったってことです。

2014年11月29日土曜日

ある中国人労働者の記録

 私は現在の勤務地までんの出退勤は中国人従業員の車にいつも上司と共に乗せてもらっているのですが、今月初めのある日、たまたまその従業員が早退きしたので私と上司はバスで帰宅しました。バスの中で日本語でどうでもいいことを話していたら若い中国人の男の子が近づいてきて、「貴方たちは日本人?」と中国語で聞いてきました。そのまま少し話をするとなんでも来年日本に留学するそうで日本人に興味があるというので、念のため私の名刺を渡し、帰宅後に少しメールのやり取りを行いました。折角の機会でもあるし一回くらいは腰据えてあってみようと思い、自分の方から「日本語を教えてほしければ教えるよ」と伝えて夕食に誘いましたが、これにはちょっとした下心がありました。その下心というのも、私の元記者として、というよりかはアングラな社会学士としての嗅覚で、「きっとこいつはド底辺の若年労働者だ。取材相手としてこれ以上ない人物になるだろう」という確信めいた予感です。
 
 某日、私が指定したバス停にやってきた彼を近くのケンタッキーに連れて早速話をしてみました。聞いてみると彼の年齢は22歳で、なんでもYMCAの選考を受けて来年七月からの日本への留学切符を手に入れたそうです。話してみると意外と日本語の単語をたくさん覚えており、また日本語の教科書もそこそこ自習しているようで聞き取りにはまだ難があるものの片言での要求や自己紹介といった会話は日本語でもある程度こなしてきました。
 割と語学の筋が良いと思いつつ学歴を尋ねると、「高校二年」という回答が返ってきました。それ以上は深くは聞かなかったが大学には通っていないことはもちろんのこと、もしかしたらきちんと高校も卒業していないのかもしれません。この時点で大体想像ついていましたが出身地を訪ねると安徽省の農村(地名聞いてもさっぱりわからんかった)で、高校を出てからは都市部に出稼ぎに来て働いているとのことでした。
 
 では現在の仕事は何かと聞いたところフォークリフトの操縦と答え、より詳しく聞いてみたところ鉄スクラップの集積・販売業者みたいなところで働いているようで、「凄く汚れる」などと言いながら油被ったジーンズを見せてきました。その次に勤務日はと聞いたのですが、実はこの日会ったのは土曜日の夕方で、私はてっきり土日は休みだろうと思ってお昼くらいの時間を最初に指定したら「その時間は勤務中でいけない」と返ってきたので夕方になったわけです。なもんだから平日の何曜日が休みなのかを確認したかったのですが、「休みはない。毎日仕事がある」という、ちょっと想定外の回答が来て私も困っちゃいました。ちなみに曜日感覚は全くなく、「今日って土曜日なんだっけ。花園さんは土日が休みなの?」なんても聞いてきました。
 
 念のため書いておくと、彼の様に全日仕事がある中国人労働者は決して多くはないと思いますが存在することは確かに存在しており、ホテルの従業員や不動産屋なんかには多いものの、面と向かって知り合いになった人物では彼が最初だったのでさすがに私も面喰らいました。しかもその仕事、短期の契約制なもんだから今年の12月で雇止めになるらしく、「1月以降はまた新しい仕事探さないと」だなんて言い出し、「花園さんの所で働けない?そこなら日本語も学べて一石二鳥なんだけど」と、中国人らしくストレートな物言いをしてきましたが、「うちの会社儲かってないから無理」とここはやんわりと断りました。
 この時点で私の中にもかなり同情心も芽生えて来たので、「ひとまず毎週一回のペースで会おう。その度に色々教えるよ」と約束しました。無論向こうとしても歓迎する提案だったようですが、多分毎日でも構わないような雰囲気だったもののさすがにそれだと自分がきついと感じたので敢えて触れませんでした。
 
 一通り相手の現況について聞き終えると今度は向こうから、日本の大学について教えてほしいと切り出してきました。なんでも、日本に留学して日本語を学んだらそのまま日本の大学に入りたいとのことで、どの大学がいいかを聞きたかったようです。しかもかなり自分でしらべており、国立は東大京大、私立は早慶上智がトップで、ほかにもMARCHや関関同立なんていう言葉まで知っているなど非常に細かいところまで把握していました。もっとも最初の留学というか日本語学校は福岡県だそうなので九州内で探すか、あとは生活費が比較的安く済むのとアルバイト先も確保しやすいという点で関西の方が良いとは薦めましたが、「東京の大学じゃないと就職きつくない?」なんて言い出してきて、これには私も苦笑しました。
 なお彼との会話はほぼすべて中国語で行いましたが、私からすれば綺麗な中国語の標準語を向こうは話してくれるので非常に聞き取りやすいです。その点を彼に伝えたら、「僕だってこっち(昆山市)の人の言葉は聞いててよくわかんないよ」とホッとさせてくれること言ってきてくれました。あとケンタッキーであれこれ話してたら掃除のおばさんが寄ってきて、「なに?あんたら起業でもすんの?」と話し掛けてきて、「あたしも昔会計士目指して勉強してたんだけどさー」なんて大阪のおばちゃんみたいにいきなり苦労話をしてきました。
 
 こんな具合でほぼ私の予測通りのステイタスを持ったいい取材相手だし、近年の中国の若者はどんな生活をしているのか、何に関心を持っているのか、でもって最底辺に近い労働者はどういう生活水準なのかを知る上でいいパートナーを見つけたと考えています。同時に私の中国語も少なからず上達が見込めるだけに、なるべく彼には自分からもいい刺激を与えようと考えてその後も会い続けています。今週に至っては彼が「味千ラーメン」という中国で一番有名な日系ラーメンチェーンのラーメンを食べたことがないというので、待ち合わせ場所からタクシーに乗って連れて行ってあげましたが、「昆山に来てこんな遠くまで来たの初めてだよ。普段は家と勤務地の往復で休みなんてないし」と話しだし、まぁ引っ張ってきてよかったと思いました。もちろんタクシー代とラーメン代は私の負担。
 
 以上までが観察日記でこっからが私の論評ですが、まず彼のようなタイプの日本人は確実に存在しないでしょう。一週間毎日休みもなく働き詰めにもかかわらず日本への留学を企図し、備えるため勉強し、さらには日本の大学への入学を目指す。一言で言えば非常にやる気があり応援したくなるような人物ですが、ここまでガッツある日本人を捜すとなると割とハードワークな気がします。もちろん彼のような中国人もレアと言えばレアだし、上海人の友人にも話したところそんな人間は周りにはいないし、同じ中国人ながら同情するし応援したいと話していました。
 しかし、一言で言うならやはり中国はまだまだ発展途上国であるということに尽き、親のお金で何不自由なく大学に通う上に車を乗り回す人間もいれば、故郷を離れ毎日働きながら勉強、そして立身出世への意欲を強く燃やす若者も同時に存在する。これこそが中国の縮図であって日本には存在しない世界のように思えます。
 
 私個人としては先ほどにも書いたように取材相手としてほぼ最高の材料であるとともに強い同情心を覚える相手で、また彼のような中国人にこそ日本に来てもらい、学問を修め世に出るべきだと思えるだけに出来る範囲で今後も応援していきたいと考えています。また最近は日中の関係が密になって中国人を取材する本もたくさん出ておりますが、それらの本は主に元から裕福な中国人が主な取材相手であるのに対し、ド底辺な中国人、しかも若者となると実際に取材するのも難しいこともあってそんなには出ていない気がします。そういう意味で彼のエピソードというかライフヒストリーを書くことはブログレベルでも価値あることだと思え、多少なりともライターとして燃え立つ気持ちを覚えます。
 なお、日本でも就職戦線や労働状況に関する話題は基本的に世代間約50%の大卒しか取り上げられず高卒者の話はほとんどなく、中卒者に至っては皆無に近いでしょう。しかしド底辺こそ地に足がついており、本当に目を向けるべき場所というのはここにあると私は常々考えており、彼から聞ける話はそこそこ価値があると思えるのと同時に日本でもこうはならないものかと、ちょっとやるせなさを覚えます。
 
  おまけ
 味千ラーメンを食べた帰り、同じショッピングセンター内にあって前から匂いが気になっていたチーズケーキ屋に寄りました。看板を見てみると「RIKURO」という文字とコック帽のヒゲ親父の絵が書いてあって後で調べてみましたがどうやら大阪にある「りくろーおじさんの店。」のフランチャイズか何かだったようです。
 この店で私はチーズケーキを自分用に買うのと同時に連れてきた彼にも買ってあげようとしたら向こうが遠慮して、「いや、僕はそんなに甘いのが好きじゃないから」と言ったところ、「甘くないっ!( ゚Д゚)」と、すかさず女の子の店員が否定してきたので、それならばと二つ買って一つは彼に持たせました。その次の日に彼から来たメールには、「あの店の女の子かわいかったね。けどケーキはめちゃくちゃ甘かったよ(´・ω・`)ダマサレチッタ」と、書かれてありました。

2014年11月28日金曜日

生贄の牛を羊に取り換えるとな

 これは昔々、中国戦国時代のお話です。戦国時代に現在の山東省は斉という国で、この国は「封神演義」でおなじみの太公望を祖とする国でしたが、内紛によって戦国時代には田氏に乗っ取られ、田一族が王となって治めておりました。この田氏斉の四代目は宣王という人物(紀元前4世紀)なのですがこの宣王がある日、宮殿を歩いているとひどくおびえた牛を従者が引いているのを目撃しました。そこでおもむろに宣王はおもむろに、「この牛をどうするの?」と聞いたところ従者は、「はい、煮込んだ鐘に血を塗る儀式に使うので、これから生贄に殺すところです」と答えました。
 この従者の答えに宣王は、「やめなさい。ひどく怖がっているし何の罪もない牛だ。殺すに忍びない」というので、なら血塗りの儀式は中止ですねと従者が確認すると、「いや、儀式はやる必要がある。そうだ、代わりに羊を使えばいい(・∀・)」と閃いたので、その時の儀式は牛の代わりに羊を殺してつつがなく終えたそうです。
 
 私はこの話を大学三回生の頃の中国語の授業で習ったのですが一読して、「これって、羊とばっちりじゃん(;゚Д゚)エエー」と思うのと同時に、牛がかわいそうだからって羊殺してちゃ意味ないんじゃないかと心の中で突っこみました。恐らく、この記事読んでる人たちもみんな同じような感想だと思いますが、出典によると当時の斉の人間ですら「牛をケチって羊を使った」などと揶揄していたと書かれてあります。
 その出典ですがこれは何かというと実は「孟子」からです。「孟子」の説明は省きますが斉の国を訪れていた孟子に対して宣王が民を安んじて治めるにはどうしたらいいかと説いたところ、孟子は「宣王は過去にこんなことやりましたよね」と自分からこのエピソードを切り出します。確かにそんなことがあったと頷く宣王に孟子は、「それこそ仁です」と言わんばかりに激賞し、世間はアホな王やと言っているがこのような心持ちを持つことこそが大事で、王たる資格がある証拠だとまで言います。
 
 正直に白状するとこのくだりまで読んだところで、「孟子もちょっと持ち上げ過ぎじゃないかな?」、「頭のいい人の考えてることはよくわからない」、「もうちょっと単純に事実を見た方がいいのでは」なんていう感想を当時の私は持ちました。しかし牛や羊の肉を食べる時にふとこのエピソードを思い出すことがあり、しかも年数が経つにつれて段々とあの話は含蓄の深い話なのではなどと何故だか熟考することが増えていきました。
 
梁惠王章句上(孟子を読む)
 
 このエピソードについて上記サイトでは原文と共に詳しい解説が載っております。非常に詳しく載っていて、読んでて自分も見入りました。
 直接上記サイトを読んでもらうのが一番なのですが自分の方からここの解説をかみ砕いて説明すると、孟子はこの時宣王に対して、目の前にある生き物に憐憫の感情を持つことが大事だと言いたかったようです。憐憫の心を持つことは仁の心にまで発展させるためのスタートに当たり、結果的には目の前にいない羊を代わりに殺すことになったものの、目の前にいる怯える牛の命を助けたという情けの精神をきちんと実行した宣王の心根は悪くないと孟子は伝えたと解説されています。
 その上で上記サイトの執筆者は補足として、人間は目の前で起こっていることしか関心がなく、目の前にないものにまでは気が回らないのは自然なことであるとして、下記のような例を持ってきています。
 
- どこかの隣国の独裁政治に始終憤激しているのならば、どうして旧ソ連で同様に独裁体制を取っている諸国に激怒しないのか?
- 自分の子には勉強させて高学歴を与えるのに必死なのに、どうして一般論になると「ゆとりある教育を」などといまだにのたまうのか?
 
 どちらも自分の胸にグッときました。実際、日本国内で虐待で子供一人が殺されるというニュースを聞くのとアフリカで今日何百人の子供が死んだというニュースでは、感じ方は後者の方が他人事です。同様に、北朝鮮や中国の政治弾圧の方が中東やアフリカの政治弾圧より気になります。上記のサイト執筆者によるとこうした距離感に伴う感じ方の違いは人間にとって当たり前で、誰にでも平等にだなんて言わずにしかるべき距離のしかるべき対象に愛情や憐憫の情を持ち、発展させていくことが大事だと孟子は人生を通して主張しているそうです。
 
 ここからが私の個人的意見になりますが、解釈にもよりますが上記の孟子の考え方はキリスト教の隣人愛とも通じるように思えました。隣人愛の解釈は人によっても変わりますが、私の解釈だとまずは何よりも身近な人を大事にすることに尽きます。身近な人を大事にすることが出来ればもう一つ先の距離の人も大事にすることが出来るようになり、こうして範囲を徐々に拡大していくことによって良好な共同体を作り上げられるというような具合です。
 こうした考え方のほかにもう一つ最近できてきて、たとえばNGOとかNPOみたいに世界中の人々を助けようとして活動する集団が結構ありますが、そうした集団の方々の活動は確かに尊敬できますが果たしてそれで本当に世界はよくなっていくのだろうかという疑問がよくもたげます。単純な話、日本人が地球の反対側のブラジルで活動するにしてもお金も費用も文化的障壁もあります。それであれば日本人は同じ日本にいる困っている日本人を助けることによって、その助けられた日本人が今度はほかの人を助けていくような状態に持っていく方が結果的には効率がいいのでは、しかもこっちの方が外国語能力とか変なバイタリティが無くてもすぐできるのではなどとも思います。
 
 無論、海外に行って救援活動などをされている方は確かに必要とされているし、尊敬もします。しかしみんながみんなそこまで強くはなれないし、それであれば、「貧困の国に井戸を掘るため募金しよう!でもって砒素いっぱいの水飲ませて村の人を病気にしよう」なんて某テレビ番組みたいな主張はほっといて、もっと距離的にも身近な人同士で助け合おうという精神を持つことの方が人間として正しいのではという結論に至りました。マザー・テレサも、「自国の困っている人を無視して他国の人を助けようとするのはちょっと違う」なんて言ってたそうで、この辺は孟子もキリストも一致しているのではなんて思った限りです。
 
  おまけ
 終戦間際の山田風太郎の日記に、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すのがキリスト、右の頬を叩いたら左の頬も叩いてくるのがキリスト教徒」と書いてあって吹き出しました。あと自分の大学はミッション系だったのに、「キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしてったような宗教だ」なんて授業中に言い出す講師がいて、フリーダム過ぎるにもほどがあるずこの大学なんて思いました。

2014年11月25日火曜日

どうして成りすましするんですか?

 また我ながら挑発的な見出しですが、案外ほかの人が使ってないのでこんなの浮かぶのってもしかして自分だけってちょっと悦に入っています。この見出しから恐らく連想がつくかと思いますが、NPOをやってるという二十歳の大学生が先日、小学四年生が作ったように見せかけ、「どうして解散するんですか?」と暗に安倍首相を批判するようなサイトを公開していたことがバレ、ネットを中心に批判が起こり炎上しています。しかも安倍首相までフェイスブックで「卑怯な行為だ」として槍玉に挙げたことからさらなる盛り上がりを見せており、逆に攻め過ぎなのではないかという逆批判も起こる等そこそこ議論としてみていて面白い感じになってきました。自分もこの事件では少し気になる点があり、今の所その点を誰も追及してくれていないので議論に参戦する形で、今日はこの事件について言いたいこと書きたいこと書いてきます。
 それにしても非常に驚いたのは、さぁこれから記事を書こうとパソコンに向かった矢先、読者の方からまさにこの事件について意見をとリクエストを受け取ったことです。
 
 結論から書くとこの大学生はしょうもないやっちゃなぁと思うのと同時に、そもそもどうして子供に成りすまそうとしたのかという点が個人的に興味あります。三度の飯より政治論議は好きだけど、やっぱ自分は社会学士だなぁ……。
 
<事件の経緯>
 事の経緯から簡単に追って行きますが、先日の衆議院解散後にどうして解散をするのかと解散理由を問うサイトが公開されました。そのサイトの製作者と名乗る人物は自分が小学四年生で周囲の友人とこのサイトを作った、子供の自分から見ても解散する理由、特に約700億円というやけに具体的な選挙にかかる費用を挙げてこんな無駄遣いをする価値があるのかわからない、自分たちから見てもおかしいなどと、暗にというかあからさまに安倍首相を批判する論調でもって世に訴えるような内容でした。
 しかし公開直後から小学生が作ったというにはやけに凝ったサイトで、年齢を詐称しているのではないのかという疑惑が持たれていました。案の定というか公式ツイッターで、
 
「妖怪ウォッチ真打はもう買いましたか?」
「もちろん買いました」
「まだ発売してないんだなぁ」
 
 というようなやり取りが交わされるなどボロがどんどん出てきて、証拠もほぼほぼ揃って人物の特定も済んだ段階でようやく件の大学生が小学四年生だと詐称した事実を認め謝罪をしました。このサイトについては公開直後から、主に民主党関係者が取り上げては賞賛しており、またサイトを制作した大学生が所属していたNPO団体に民主党関係者の親類が所属しており、マッチポンプだったのでは、民主党は初めからわかっていたのではなどという疑いも出ています。まぁ政治上における疑惑とは事実という言葉と何ら変わりはないのですが。
 
<大学生に対する私の見方>
 余計なことは置いといてこの事件に対する私の意見を述べると、まず名探偵コナンとは逆にサイトを作った大学生の頭が小学四年生以下だということはよくわかりました。どうでもいい冗談やゲームの攻略情報とかならともかく、政治に対する意見というのは主張したが最後、言った本人が責任を持たなくてはなりません。自分はこのブログでもその点を特に注意を払って書いており、具体的には、「誰々さんがこう言ってた」なんて伝聞系で終わらせず、それに対して自分は賛成か反対か立場を必ず明示させるようにしています。
 にもかかわらずこの大学生は、要するに安倍首相の解散の決断が気に食わなかったのでしょうがその不満を自分自身ではなく架空の小学四年生が言ったことにしようとしました。私に言わせるならば自分自身が自身の人格でもって意見を主張できないなど政治議論においては言語道断もいい所で、匿名としての発信ならまだしも子供を装っていう言い方は安倍首相同様に卑怯としか思えず、そんな生半可な覚悟でしか意見を言えないのなら始めから黙ってるか、そもそも発言する資格すらないように感じます。もっともこんな無意味なことしているあたり、政治議論の場はおろか一般社会においてもいなくていい存在に見えますが。
 
 ただここで話題を変えますが、そもそも何故彼は子供に成りすまそうとしたのでしょうか?理由は簡単で、二十歳の大学生が言うよりも小学四年生が言った事にした方が注目されやすいなどメリットが多いからに尽きるでしょう。じゃあなんで子供が言った方が注目されるのか、改めて考えるとここがこの事件の奇妙な所だなと私は思いました。
 
<何故子供の意見は尊重される?>
 最初に言っておくと、こと政治の話題に関して私は小学生及び中学生、高校生の意見は頭から一切耳を貸しません。一応聞くだけ聞いた後にやんわりと指摘をかけ修正を促したりはしますが、やはり子供の時分だと政治を語るにはまだ周辺知識が絶対的に不足していて狭い了見の中で考えるから、「お金がないならお金を刷ればいい」というような意見になりがちです。また子供の場合、特に注意しなければならないのは「誰かに言わせられているのでは」という点で、周囲の影響を受けやすいこともあって無自覚に、無理解に意見を言うことがあるので場合によってはその意見を操る背後を探る姿勢も必要となります。
 ある意味で今回の事件も「誰かに言わせられている」といった類の事件と言え、上記のような注意点もあるため私は子供の政治や社会に対する意見はそもそも聞くに値しない、取り上げるまでもない、むしろ耳を貸すなと考えているのですが、恐らくこんな価値観の持ち主は日本じゃ少数派でしょう。少なくとも今回の事件の張本人である大学生は子供を装った方がメリットがあると考え、また民主党の関係者らも子供ながら大した意見だなどと持ち上げていました。また日頃の報道を見ている限りだと、40歳のおっさんの意見はあまり取り上げられなくても10歳の子供の意見だったら、しかも政治などといった高尚な話題であれば率先して取り上げられる気がします。
 
<仮説一、毛沢東思想>
 どうしてこのように子供の意見だったらみんな注目しがちなのか、この点が私にとっては凄い不思議です。この理由をいくつか考えてみましたがまず民主党関係者については地味に毛沢東思想が影響してるんじゃないかと最初は冗談っぽく、途中からは割と真剣に考え始めました。毛沢東思想には「余計な知識のない無垢な状態の意見こそが最良」みたいな考え方があり、言ってた毛沢東本人ですら本気で信じてたわけじゃないのに元社会党の系譜を受け継ぐ現代の民主党はまだ毛沢東に踊らされ、子供や女性といった社会的弱者(とみなす存在)の意見ほど貴重で価値があると信じているのではないかと思えてきました。ある意味これは逆差別な気もしますが。
 
<仮説二、子供礼賛なマスコミ>
 では民主党以外の日本人ではどうか。私の目から見ても普通の日本人もやっぱりハゲたおっさんの意見よりは子供の意見を大事にするように見えますが、これは毛沢東思想というよりはマスコミの影響のが強いかなと考えています。マスコミ関係者が上記の毛沢東思想の影響を受けたかどうかはこの際置いておきますが、マスコミは確信犯的に子供や女性、障害者などといった社会的弱者の意見に価値があるかのような報道を行い、彼らを利用しております。何故このように断言するのかというと自分も記者時代に少なからず経験があるからで、記事に書きたい主張したい意見を自分の考えとしてではなく、取材対象に敢えて言わせる、もしくは言ってくれる人間に取材することによってメディアは報道しているからです。
 さすがに自分はこういった社会的弱者をダシに使ったインタビュー記事はさすがに書きませんでしたが、自分の言わせたいように言ってくれる存在として子供なんかは本当に使いやすいような気がします。実際に「あるある発掘大辞典」とかではないですが最近の街頭インタビューなどでは劇団員が多く使われており、市井の生の声というよりはシナリオ上のセリフが現在の報道では主要となりつつあり、こうした報道をやりやすくするため日本のマスメディアは子供の意見は大事で価値があるように見せかけていったのでは、なんて思ったりします。
 
 最後に大まとめに意見をまとめると、そもそも論として政治や社会といったやや小難しい領域において子供の意見なんて始めから聞く耳を持つなと言いたいわけです。内容がやけに通っているとしてもそれは悪い大人が言わせている確率が高く、ちゃんと子供に自分の頭で考えるよう指導してあげるのが大人の役割です。その上で、自分で堂々と意見を言えずに子供をダシに使って言うような人間は間違いなくクズで、そうしたクズを如何にこの社会というかマスコミ業界から追い出していくかが今後の日本の課題なのかもしれません。
 
  おまけ
 政治や社会問題に関しては私は子供の意見を始めから聞きませんが、かといって子供の意見全てを無視する気は毛頭ありません。一つ例を出すと、小学生の女の子二人が並み居る大人たちに対し言い放った、「盲導犬は人間を助けてくれるのに、どうして人間は目の見えない犬を助けてあげないの?」という意見には文字通りドキッとさせられ、自分にはこういう意見を言い出す少年の心はまだありやなどと考えさせられました。

2014年11月23日日曜日

論文盗用での早稲田の准教授解任について

 
 なんか話題にする人も少ないので私の方から一言突っこんでおこうと思います。
 上記リンク先のニュースによると、早稲田大学が商学学術院の准教授が過去に論文を盗用していたとして解雇処分を行ったと発表したそうです。記事によると問題の論文は該当の准教授が2001年と2003年に発表した英文論文で、ほかの記事によると他人の未発表論文をベースにしていて八割方同じ記述となっていましたが、元となった論文が今年公表されたことからばれてしまったようです。解雇処分を受けたその純教授は盗用を認めておりますが、読売新聞の記事によると手続きに対して公正ではないとして不服を申し立てたそうです。
 
 この事件になんで私が注目したのかというと、大体察しが付くでしょうが「小保方氏は?」というのが正直な感想です。説明するまでもないでしょうが小保方氏は早稲田大学の理工学部大学院時代に提出した博士論文で英語サイトの記述を一部コピペした論文を提出していたことが今年明るみになりましたが、これに対して早稲田大学の教授会は悪意があって行ったことではなく参考にした記事を誤って載せてしまったとして、修正した論文を提出することを条件に処分は行わないと発表しています。もっとも一部の早稲田大学の教授からはこの問題に対する処分としては適当ではないと声が上がったそうですが。
 
 まぁ小保方氏の論文は今回の事件の様に「八割方」をパクッたというわけではないものの、片っ方は悪意がないとして不問とされたのに対しもう片っ方は盗用を認めたということで懲戒解雇とするのはなんか温度差があるような気がしないでもありません。というよりその前に、どうして早稲田はこんなに盗用問題が頻繁に起こるのか、理工学部だけじゃなかったのかという点も気になります。
 盗用が問題であることは小学生でも十分に理解できるでしょうし妙な弁解の余地など私はないと思います。それゆえ小保方氏への処分は今でも手ぬるいと思いますし、そうした過程を経ているだけに今回の准教授が処分に対して不服を申し立てたというのも行為としてはどうかと思うものの文句の一つも言いたくなる気持ちは理解できなくもありません。
 
 私が言うまでもなく今年は数年に一人でるか出ないかというような世間を騒がせる人物が数多く輩出した異常な一年でありましたが、MVPは誰かというのならば私の中では「号泣議員」かこの小保方氏だと思います。正直言って甲乙つけがたいところがありますがどちらも大きな問題点(政務費の着服と論文盗用)を浮き彫りにして世間に認知を広めたという点では一部の功ありといったところです。

2014年11月22日土曜日

漫画レビュー:惡の華

 このブログ書いてて一番受ける質問ときたら何よりも「どうしてネタが尽きないの?」という質問です。私本人からするとなんでネタが尽きないのかというよりは書きたいと思う内容を思いついてもなかなか全部書き切れないというのが今の状態でして、この数日書いた記事も原案は大体二週間くらい前に思いついた話ばかりです。中には時間が経ち過ぎてネタごと没にすることも多いのですが、今日書く久々の漫画レビューはネタが腐らないということもあって先延ばしにされ続けた上での執筆です。書こうと考えたのは確か9月頃だし。
 
惡の華(Wikipedia)
 
 私がこの漫画を手に取ったのはなんかネットでやたら見るタイトルだったことと、巻数が少ないから漫画喫茶で余った時間を消化するのにちょうどいいからと思ったことからでした。そんな軽い気持ちで手に取ったのですが一読してなかなかに凄い衝撃を受け、過去にこれだけ衝撃を受けた漫画を上げるとしたらパッと思いつく限りですと「エルフェンリート」くらいしか思い浮かびません。
 
 この「惡の華」がどんな漫画なのか簡単にあらすじを書くと、主人公はどこにでもいるような中学生の男子生徒(春日高男)なのですがお年頃もあってか中二病がやや入っており、タイトルにもなっているボードレールの「惡の華」を始めとした海外の文豪の小説を父親に勧められるままに読み耽り、「俺はほかの男子とは違う」などと気弱な性格ながらに考えています。そんな春日君ですがある日、ふとしたきっかけからクラスで密かに憧れていた女子生徒の体操着を盗んでしまうのですが、そこは気弱な春日君のことだからすぐさま後悔し、誰かにばれないうちにどこかへ捨てに行こうとして自転車に乗りながら捨て場所を探している最中、ばったり会ったクラスメートの女子生徒こと仲村佐和に、私見てたんだよ 。春日くんが佐伯さんの体操着盗んだところ」 と、めっちゃいい笑顔で言われてしまいます。
 この仲村佐和こと仲村さんがこの漫画のヒロインに当たるのですが実質こっちが主人公と言ってもよく、「惡の華=仲村さん」みたいな感じで世間にも認知されている気がします。そんな仲村さんですがどんな女の子なのかというと、テストを白紙で出した挙句に教師に咎められると「うっせークソ虫」と吐き捨てるという、非常にエキセントリックな性格しています。ちなみにこのシーンがこの漫画の冒頭です。
 
 話はあらすじに戻りますが、仲村さんは春日君に対して体操服の件を黙っていてあげる代わりに自分の言うことを聞くようにと要求します。さっきも書いたように仲村さんは非常にエキセントリックな性格をしているだけにどんな要求を出すのかというと、一言で言えばドS極まりない要求ばかりで、最初でこそ河原に来いとか面白い話をしろとか大人しいものでしたが、ひょんなことから春日君が盗んだ体操着の持ち主であるクラスのマドンナとデートすることになると、「お前、今着ている服の下に盗んだ体操着着てデートしろ」と命令してきます。しかも何とかばれずにうまいことデート出来ていたら、突然後ろからバケツの水ぶっかけてスケスケにさせてくる始末です。春日君はすぐ逃げ出したので相手にはばれなかったけど。
 
 こんな具合でこの漫画の前半は仲村さんのドSっぷりを楽しむ漫画ですが、中盤からやにわに趣が変わり、徐々に世間体にどうして甘んじなければならないのかというような疑問を投げかけてきます。先程にも書いたように仲村さんは全く周りを気にせず自分の言いたいことを言うしやりたくないことははっきりと拒否しますが、そんな仲村さんがどうして春日君に執着するようになったかというと「もしかしたら自分を理解してくれるのでは」という期待があったからだという風に見えます。作中でも仲村さんは度々、春日君に本心をもっとさらけ出せ、周りのカスどもに同調する必要はないなどということを繰り返し述べ、その上で「春日君は変態の豆野郎だが自分もきっと同じ変態なのだろう」ということを口にします。
 この辺りが自分も凄い共感したのですが、小学生の頃ならまだともかく、中学生くらいから本心ではやりたくなくても周りに合わせて興味がないこともさもあるように話を合わせたり、周りがやってるからという理由で自分も同じ行動を取ったりなどと、本心を押し殺して実体のない空気に身も心を合わせるようになります。それこそ周囲に置いてかれないよう必死になって。
 
 私自身、同じような疑問を中学生頃に持ち始め、周囲と同じ行動を取ることに価値があるのか、それが本当に自分自身の幸福につながるのだろうかと仲村さんほど過激ではないものの疑問を覚えました。その挙句、自分のやりたいこと、なりたいものに対して一直線に進むべきだと思って高校には行かずに小説家目指して修行したい、同時にプロレタリアートみたいに現場で働きながら大検受けて大学行きたいと申し出ましたが、親に拒否されたので親の顔を立てて黙って学校に通い続けました。今現在も中学生の自分が考えた通りに無理して通うほど高校に価値はなかったなと考えてますが、上記の申し出をただの一度しか言ってないにもかかわらず「あの時高校に行きたくないとか抜かしやがって」と、その後ずっと親が自分を責める口実にさせられたことは失敗であったと思うと同時に今でも強い憎悪を覚えます。
 
 話は戻りますが仲村さんはこういった思春期における周囲の同調圧力に対してはっきりとノー、関西弁で言うならええかっこしいと拒否しており、そんな自分を理解してくれるかもしれない存在として春日君に執着したのではないかと自分は解釈しています。もっとも話の途中で仲村さんは春日君はやっぱり普通人間だと述べ一旦は見放しますが、距離を置かれたことで何故仲村さんが自分に執着していたのか気が付いた春日君が逆に歩み寄り、仲村さんを理解するため変態的な行為に手を染めていくことになります。
 以上までが中盤までの内容ですが、後半は中学生から高校生へ年代ジャンプすると共に登場人物が一新して、なんか普通の青春ラブコメのような展開が続きます。作者はこっちの後半こそメインだと考えているようですが他の人のレビュー同様、私も読んでてあまり面白くなかったし印象に残るようなシーンもほとんどありませんでした。唯一、満を持して数年ぶりに春日君と仲村さんが再会するところは読んでてこっちもドキドキしてくるほど面白かったですが。
 
 私の評価としては先ほどにも書いた通り、思春期特有の悩みとともに何故本心を押し殺さなければならないのかという疑問を呈示をする点が良く描けており、一読に値する漫画だと見ております。特に、よくもまぁこれほど暴力的な言葉を次から次へと浮かぶものだと思えるくらいに過激な仲村さんを通してそういったものを描いているので強い印象を残すと共に、思想というのは一種の暴力性を含んでいるのだなと再認識させられました。
 
 しかし漫画としてみる上では見逃せない欠点もあり、レビューを書いているほかの人が誰も指摘していないので今回自分が書こうと思った点なのですが、致命的なまでに主人公の春日君に魅力が感じられません。優柔不断な性格の持ち主として描かれているため情けなく見えることは仕方ないにしても、ほかの人は知りませんが自分はこのキャラに何にも共感できませんでした。優柔不断なキャラでも描き方によってはいくらでも魅力的に描くことはでき、いい例としてはまさに冒頭で挙げた「エルフェンリート」の主人公で、優柔不断であることは共通しながらも中盤で明かされる裏設定によって一気に印象が変わり非常に生き生きとしたキャラクターに化けています。
 作者の押見修造氏に対して苦言を呈すと、私はこれまで押見氏の漫画をほかにも「ぼくは麻里のなか」、「漂流ネットカフェ」の二作を読んでおりますが、「惡の華」を含む三作とも魅力あふれるヒロインにやや優柔不断な男主人公が引っ張り回されるというストーリーで共通しています。しかもどれも男主人公は見ていて全く魅力がなく、ヒロインを引き立てるためとはいえこれだけ傾向が共通するのは後々飽きられるなど致命的になるのではないかと他人事ながら心配しています。まぁ人のやり方にあれこれケチ付けるのはよくはないと思いますが。
 
  おまけ
 「惡の華」の前半部の終わり間際で春日君と仲村さんと体操服盗まれたクラスのマドンナ三人が対峙する場面がありますが、この場面にて仲村さんが言い放った、「春日君はオメーとゴミデートしてたときもカス告白したときも、匂い嗅ぎまくり擦りつけまくりのオメーのクソ体操着体にまとわりつかせてズクンズクンしてたんだよ!」というセリフが個人的に一番お気に入りです。

2014年11月21日金曜日

いかりや長介から志村けんへ最後の手紙、というデマ

 いつも通り本題と関係ありませんが、上記のパワプロの新垣投手の能力値評価はちょっとひどいと思いつつも校としか設定できないというのもちょっと理解できちゃいます。真面目な話、過去最低の能力値なんじゃないかなこれ……。
 
 そういうわけで本題に入りますが最近ネット上で、「いかりや長介さんから志村けんさんへの最後の手紙」という話があることを知りました。これはいわゆるコピペの一つで、ある定型の文章があちこちの記事に引用され回っているのですが該当のテキストをそのまま下記に引用します。(芸名であることを考慮して敬称はこの記事では省略します)
 
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志村へ

この手紙をもって俺のコメディアンとしての最後の仕事とする。
まず、俺がこの世からいなくなるという悲しい事実を笑いへと昇華ために
葬式をコントのネタにするようお願いしたい。
以下に、コントについての愚見を述べる。
コントを考える際、第一選択はあくまで「笑いを取れば勝ち」という考えは今も変わらない。
しかしながら、現実には若手芸人の多くがそうであるように、他人をバカにして笑いを取ったり、
素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる。
その場合には、企画段階から綿密な計算と準備が必要となるが、残念ながら未だ満足のいくコントには至っていない。
これからのコントの復活は、綿密な企画立案、それとライブの復活にかかっている。
俺は、志村がその一翼を担える数少ない芸人であると信じている。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
志村にはコントの発展に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、素人いじりや他人をこき下ろすコメディがこの世からなくなることを信じている。
ひいては、俺の葬式をコントにした後、計算された笑いの一石として役立てて欲しい。
リーダーは活ける師なり。
なお、最後に、 お笑い芸人でありながら、多数の人を泣かせて旅立ったことを、心より恥じる。
 
いかりや長介
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 この文章ですがさすがに晒しちゃうとかわいそうなのでリンクとか貼ったりしませんが、あちこちのブログやFacebook、果てにはYoutubeに動画まで作られていて結構な数の人間が感動話として取り上げています。しかし私はこの文章を一読してすぐ違和感を覚え、果たして本物だろうかと疑問に感じました。
 
 違和感を覚えた点を挙げていくとまず一つ目は、「他人をバカにして笑いを取ったり、素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる」と書かれたテキストで、こうした「弄り芸」が流行った時期といかりや長介が逝去した時期は微妙にずれるのではと感じました。次にいかりや長介は医者から家族には余命が宣告されていたものの本人には知らされていなかったようで、そんな状態で果たしてこのような遺書をきちんと書くことが出来たのか。そして何よりも、逝去した2004年当時にこのような手紙があったなどという報道を私本人が全く記憶していないということです。逝去当時は各メディアがこぞって大きく取り上げており、他のドリフメンバーに対してもたくさん取材がされていたにもかかわらずこの手紙について全く記憶にないというのは私に限っては有り得ないのではと考えました。
 
 そんなわけでこの手紙が本物かどうか確かめようとざらっと調べ、まず最初にどこが初出なのかを探りました。初出を探るに当たっては引用しているブログなりの更新日を追って行くのが一番なのですが、調べていくとどうも2014年の今年に入ってから引用される回数が増えていることがわかり、それ以前となると2012年に引用している記事が一件あった後はほぼ皆無であった中、2004年に掲示板の書き込みらしいものを引用しているサイトが見つかりました。
 この時点でうすうす勘付いてきましたが続けて調べていると、あっさり答えが出ました。
 
 
 結論から言うとこの手紙はダウトことデマで、偽物です。上記リンク先を見れば一目瞭然ですがこの手紙は「白い巨塔」のラストシーンで主人公の財前が同僚に送った手紙文を下地に、さもいかりや長介が志村けんに送ったように改編するという言葉遊びの一種だったようです。しかもこの元となった財前の手紙ですが、このサイトを見るとほかにも多種多様に改編されているようでそこそこ有名なベーステキストの様で、面白がって探してみたらマツダ地獄について書かれたこちらの知恵袋がなかなかツボにはまりました。
 恐らく年代などから察するに、こちらの引用しているサイトに書かれている日付の2004年が初出ではないかと思います。書かれた当時はそれほど脚光を浴びなかったものの10年経った2014年にレトリックであることがわからないまま、というより財前先生の手紙文が忘れ去られたため引用され始めたのが今の実体でしょう。確信犯かどうかまでは詮索しませんが……。
 
 こんなわけで自分の予感が当たって一安心。明日は土曜日だしゆっくり眠れると言いたいわけですがもうちょっとだけオチをつけると、2004年に作られたコピペが10年の年月を経てあちこちに引用されるようになるというのはなかなか稀有なことのように見えます。何故このような稀有な事態が起こったのかと推察するにやはりいかりや長介に対して思い入れを持つ人間が、その死から10年経った現代においても数多くいたからだと思えます。無理矢理いい感じに話をまとめるならば、こうしたデマがそこそこ拡散すること一つとっても彼が偉大なコメディアンだったことが偲ばれます。