知ってる人には有名ですが故ケネディ大統領は生前、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるのか」という言葉を含む有名な演説を行っております。この言葉自体がアメリカのマッチョイズムを強く体現している言葉ですが、私は敢えてこの言葉を現代の日本人にぶつけてみたらどんなもんだろうとこの頃よく考えます。
結論から言うと、現代の日本人は少なくとも戦後以降としては過去最高と言ってもいいくらいに国家(=政府)に対して強く依存していると私は考えています。
国家に依存するとはどういうことですが、先ほどのケネディ大統領の言葉を借りるならば、「国が自分に何かをしてくれることを期待する」ような状態の事で、具体的に言えば日々の生活や将来の社会保障などにおいて政府の支援を期待する意識が強い状態を指します。断言してもいいですが今の日本人の8割超は老後の年金を政府はきちんとしてもらわないと困ると考えていて、年金なんて当てにしないから自分自身の力で死ぬまで生きてやると割り切っているのは確実に少数派になるでしょう。ましてや、国家の年金を支えるために自分が頑張らないとと思う人間となると皆無になります。
つまり国家への依存とは「国に何とかしてもらう」という意識の事で、私見ながら現代日本人はかつてないほどのこの依存心を今高めているのではと密かに考えているわけです。こうなった最大のきっかけとして思い浮かぶのは2011年の東日本大震災で、今思うとどうもあの後から風向きが変わったというか復興を始めとして社会保障、経済問題などで国の支援を強く当てにする声がそれ以前と比べて強まってきているように思えます。
もちろん被災地の復興や経済対策などにおいて国家の役割は最も重要です。しかしその国家を当てにせず独力でも頑張ろうとする人たち、もしくはそうした対策を行おうとする国家を支えようとする動きや声はどうもそれ以前と比べると小さくなっているというか、「俺が国を引っ張ってやるぜ!」というようなちょいちょいウザいと思える熱い人間が実は減ってきているのではないかと思えてなりません。それどころかむしろ、少々乱暴な言い方かもしれませんが国家の支援がなくなると困ってしょうがない、頼むから何とかしてほしいというような請願のような態度すら見える時もある気がします。
こんな風に思うのも私自身が極端に国家の保護を当てにしないどころか、「てめぇの助けはいらねぇ」とばかりにやたら反発したがる性格だからというのが大きいでしょうが、それにしたって今の日本人は政府の支援を少し盲目的に信じ過ぎなのではと危惧を覚えるほどです。歴史的な視点で述べるとするならば国家の前で個人なんて言うのはほんの小さなチリのようなもので、国家によって簡単に翻弄されることもあればあっさり見捨てられることも珍しくはありません。国家に抗うのは決して楽なことではありませんが、何もそこまで距離を縮めることはなく、適度に距離を置くだけでもそうした荒波から避けるのにいい手段ではないかと個人的に思います。
この記事で私は国家に逆らえとまで言うつもりはなく、また同時に国家に尽くせと言うつもりもありません。ただ「国家がきっと何とかしてくれる」なんていう期待に関しては非常に危険な考え方であり、そうした思想を日本は全体で深めつつあるのではという危惧を誰かに共感してもらえれば幸いです。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年4月25日土曜日
2015年4月24日金曜日
「ファイナルファンタジー零式」をクリア!
先月、プレイステーション4などでHD版が発売されたスクウェア・エニックスの「ファイナルファンタジー零式」というゲームですが、私は何故か最初に発売されたPSP版を自慢のPSVita(ソニー製なのに丈夫で有名)にダウンロード購入して遊んでいます。このゲームはタイトルからわかるように日本、嫌恐らく世界で一番有名なRPGゲームシリーズの「ファイナルファンタジーシリーズ」の一つで、携帯機向けタイトルとしてオリジナルのPSP版は2011年に発売されております。
ゲーム内容を簡単に紹介すればアクションRPGといったところで、アクションが異なる各キャラクターを場面ごとに使い分けながら敵を薙ぎ倒していくゲームで、FFらしくレベルアップもあればブリザドやブリザガもあり、また戦闘シーン以外にもRPGらしくアドベンチャーシーンも多くてゲームのボリュームとしてはそこそこの量がありました。
それでこのゲームですが、つい先日にようやく一週目を終えてクリアすることが出来ました。その上で感想を述べると世間の評判通りに傑作と言ってもいい作品で、遊んでいて結構楽しかったです。
ストーリーは割とガチな戦争が舞台となっており、オープニングからして人がバタバタと撃ち殺される上にこのシリーズのマスコットキャラであるチョコボまで容赦なく撃たれるシーンは、「自分の知ってるファイナルファンタジーとちゃう」などと、一発目から度肝を抜かれました。元々FFシリーズ自体が人間の死をやたらクローズアップしたストーリーが多いのですが、このFF零式においては死ぬシーンがやたらとハードに描かれている上に最終的に名前付きで生き残る人間の方が少ない、というよりほぼ全員が皆殺しに遭うという「冨野版ファイナルファンタジー」みたいな結末になるので、合わない人にはこのストーリーは合わないと言われてもしょうがないでしょう。
しかし私個人の印象で述べると全体的にストーリー展開は悪くなく、特にエヴァンゲリオン並に賛否両論が相次いでいるあのエンディング直前に関しては私は高く評価しております。詳細はネタバレになるので敢えて語りませんが、ラストバトルに至るまで展開はそれまでの世界観が一挙に崩れて進むほどかなりアップテンポな展開になっており、この展開が急すぎるという声をいくつか見る一方、私自身はストーリー中にそれとなく「そうなる」暗示めいたヒントが結構転がっていたので、急展開であることには間違いありませんがまたく意味不明でああした展開になるわけではないので内心アリだという風に考えております。あくまで個人的意見ですが。
ただし、全体のストーリーでやや気になった点も少なくありません。一番気になった点を挙げると、このゲーム全体で「責任感のある大人」が誰ひとりとして登場していないことに強い違和感を覚えます。主人公たちを始め出てくるキャラクターはほぼ全員がやたら若いイケメン&美少女キャラばっかで、敵側には1人だけ混ざっていますが威厳があって渋さを覚えるような大人なキャラクターが全く出て来ず、こういってはなんですが「子供だけのピーターパンの世界かよ」という印象を覚えました。
一応味方にもおっさんキャラが少しは出てきますが、どいつもこいつも嫌味しか言わないハゲばっかで大人の威厳なんてありゃせず、そのくせやたら若いイケメンが活躍したりとキャラを美化するのは勝手だけど年齢層的に少々薄っぺらくはないかこの世界はとやっててつくづく思いました。主人公たちが全員高校生くらいの年齢にするのは別にいいんだけど、こういうのをちゃんと引っ張る大人の姿ももう少し描けばよかったのではと苦言を呈しておきます。
ゲーム性については言わずもがなですが、ほかのレビュアー同様に個性がしっかりと別れたキャラクターのアクションは使っているだけで楽しいし、敵キャラとのゲームバランスも非常に良好で、また各戦闘も難しすぎず優しすぎずで、それでいて戦略性を持って臨めば楽にクリアできたりといい仕上がり具合です。
最後、これはこのゲームを遊んだ人間すべてに共通する意見だと思いますが、エンディングで流れるテーマソングが素晴らしくよかったです。そのテーマソングはBUMP OF CHIKENの「ゼロ」という曲でこのゲームのために書き下ろされた曲だそうで、ゲーム製作者もこの曲があって初めて完成したと言うだけあってゲームのストーリーと歌詞がよく噛み合っており、それでいて歌い方というか耳に入る言葉一つ一つがこのゲームにおけるたくさんのシーンを思い起こさせる歌い方になっています。このテーマソングだけでなくゲーム中に流れるBGMはどれも情景に合ってて格段に優れていますが、最後のあのエンディングでこのテーマソングは卑怯だよと言いたくなるくらいに心に響きました(ノД`)
ゲーム内容を簡単に紹介すればアクションRPGといったところで、アクションが異なる各キャラクターを場面ごとに使い分けながら敵を薙ぎ倒していくゲームで、FFらしくレベルアップもあればブリザドやブリザガもあり、また戦闘シーン以外にもRPGらしくアドベンチャーシーンも多くてゲームのボリュームとしてはそこそこの量がありました。
それでこのゲームですが、つい先日にようやく一週目を終えてクリアすることが出来ました。その上で感想を述べると世間の評判通りに傑作と言ってもいい作品で、遊んでいて結構楽しかったです。
ストーリーは割とガチな戦争が舞台となっており、オープニングからして人がバタバタと撃ち殺される上にこのシリーズのマスコットキャラであるチョコボまで容赦なく撃たれるシーンは、「自分の知ってるファイナルファンタジーとちゃう」などと、一発目から度肝を抜かれました。元々FFシリーズ自体が人間の死をやたらクローズアップしたストーリーが多いのですが、このFF零式においては死ぬシーンがやたらとハードに描かれている上に最終的に名前付きで生き残る人間の方が少ない、というよりほぼ全員が皆殺しに遭うという「冨野版ファイナルファンタジー」みたいな結末になるので、合わない人にはこのストーリーは合わないと言われてもしょうがないでしょう。
しかし私個人の印象で述べると全体的にストーリー展開は悪くなく、特にエヴァンゲリオン並に賛否両論が相次いでいるあのエンディング直前に関しては私は高く評価しております。詳細はネタバレになるので敢えて語りませんが、ラストバトルに至るまで展開はそれまでの世界観が一挙に崩れて進むほどかなりアップテンポな展開になっており、この展開が急すぎるという声をいくつか見る一方、私自身はストーリー中にそれとなく「そうなる」暗示めいたヒントが結構転がっていたので、急展開であることには間違いありませんがまたく意味不明でああした展開になるわけではないので内心アリだという風に考えております。あくまで個人的意見ですが。
ただし、全体のストーリーでやや気になった点も少なくありません。一番気になった点を挙げると、このゲーム全体で「責任感のある大人」が誰ひとりとして登場していないことに強い違和感を覚えます。主人公たちを始め出てくるキャラクターはほぼ全員がやたら若いイケメン&美少女キャラばっかで、敵側には1人だけ混ざっていますが威厳があって渋さを覚えるような大人なキャラクターが全く出て来ず、こういってはなんですが「子供だけのピーターパンの世界かよ」という印象を覚えました。
一応味方にもおっさんキャラが少しは出てきますが、どいつもこいつも嫌味しか言わないハゲばっかで大人の威厳なんてありゃせず、そのくせやたら若いイケメンが活躍したりとキャラを美化するのは勝手だけど年齢層的に少々薄っぺらくはないかこの世界はとやっててつくづく思いました。主人公たちが全員高校生くらいの年齢にするのは別にいいんだけど、こういうのをちゃんと引っ張る大人の姿ももう少し描けばよかったのではと苦言を呈しておきます。
ゲーム性については言わずもがなですが、ほかのレビュアー同様に個性がしっかりと別れたキャラクターのアクションは使っているだけで楽しいし、敵キャラとのゲームバランスも非常に良好で、また各戦闘も難しすぎず優しすぎずで、それでいて戦略性を持って臨めば楽にクリアできたりといい仕上がり具合です。
最後、これはこのゲームを遊んだ人間すべてに共通する意見だと思いますが、エンディングで流れるテーマソングが素晴らしくよかったです。そのテーマソングはBUMP OF CHIKENの「ゼロ」という曲でこのゲームのために書き下ろされた曲だそうで、ゲーム製作者もこの曲があって初めて完成したと言うだけあってゲームのストーリーと歌詞がよく噛み合っており、それでいて歌い方というか耳に入る言葉一つ一つがこのゲームにおけるたくさんのシーンを思い起こさせる歌い方になっています。このテーマソングだけでなくゲーム中に流れるBGMはどれも情景に合ってて格段に優れていますが、最後のあのエンディングでこのテーマソングは卑怯だよと言いたくなるくらいに心に響きました(ノД`)
Wordpressでのテキストエディタの切り替え不良問題
今日は勤務している工場のある一帯が停電のため臨時休業となり自宅で過ごしてましたが、折角だから姉妹サイトの「企業居点」でポチポチと更新していました。そしたら作業中、突然記事投稿画面でビジュアルエディタとテキストエディタの切り替えが出来なくなるという妙な問題が起こって「こは如何に」と妙な古語が口から出てきました。
そもそもビジュアルエディタとテキストエディタとはなんなのかですが、大抵のブログソフトの記事編集画面には実際にホームページで公開された状態、言い換えるとHTMLが反映された状態で編集する画面と、HTMLを直接打ち込んで編集する画面の二種類を自由に切り替えられるようになっており、Wordpressの場合は前者がビジュアルエディタ、後者がテキストエディタだと呼ばれます。
私が記事を編集するさいは両画面を切り替えながらリンク貼ったり改行弄ったりするのですが、それだけに切り替えが出来なくなると記事編集自体が出来なくなるので非常に困ります。思い当たった原因としては最近、ベースとなるWordpressのソフトが新バージョンに更新されたのでその影響で追加ソフトに当たる「プラグイン」と呼ばれるソフトの中で新バージョンに対応していないのもあり、それが悪さをしているのではないかと推測しました。
なわけで早速プラグインをしらみつぶしに一つ一つ無効化させて不具合が直るか直らないか試した見たところ、意外とあっさり犯人は見つかりました。今回の私の場合、「Jetpack」という、閲覧数の統計やスパムコメントのブロックなどWordpressに様々な機能をまとめて追加してくれるプラグインでした。これ一つを止めたところ先程の問題はピタリとなくなり、こちらが驚くほど万事丸く収まってしまいました。
しょうがないのでこの「Jetpack」はしばらく封印せざるを得ないですが、なくてもいいといえばそれまでなのでもしかしたらこのまま削除することになるかもしれません。
ちなみに今日はまた150件ほど海外拠点データを打ち込んだ後、このブログで連載している「創業家列伝」をそのまま向こうのサイトにもコラムとしてアップロードしました。同じ経済系のネタだから相性いいだろうという判断からですが、アップロードに当たって以前に書いた安藤百福に関する記事を読み返し、「俺もええこと書いとるやないけ」と自分で書いた記事を自分で読んで感動してました。
そもそもあの創業家列伝自体、安藤百福について記事を書きたいと思ったことがきっかけで作った連載であって、正直な心境を話すとほかの人物については小倉昌男を除いてやはり熱意が一段低くなっております。この辺は佐野眞一氏も書いておりますが、経歴が怪しかったり物凄い決断をするような人間的魅了に溢れた人物はルポ記事を書く側にとっても魅力的で、書き手からしても「この人物を書きたい」という気持ちにさせられます。安藤百福然り、中国史の猛将然り、紹介したいと思う人物に対しては全力疾走で記事が書けますがそうでもない人となると引き上げられる熱意にも限界があります。
もちろん、この連載で取り上げている人物はどれも面白い人たちだし、そこそこ熱意を盛って書いてはいるつもりです。しかし安藤百福と同程度にまではモチベーションを上げ切れず、多分記事を読んでいる方にしてもそういう温度差が感じられるのではと推測しています。この前書いた樫尾四兄弟の記事なんかいい記事にしようと執筆前に集中しながら音楽聞くなどしてややトランス入った状態にしてから書きましたが、悪くはない仕上がりだけど他を圧倒するかのような記事にはとうとうできませんでした。好き嫌いで仕上がりに差がつくというのはよくないんだけどなぁ。
そもそもビジュアルエディタとテキストエディタとはなんなのかですが、大抵のブログソフトの記事編集画面には実際にホームページで公開された状態、言い換えるとHTMLが反映された状態で編集する画面と、HTMLを直接打ち込んで編集する画面の二種類を自由に切り替えられるようになっており、Wordpressの場合は前者がビジュアルエディタ、後者がテキストエディタだと呼ばれます。
私が記事を編集するさいは両画面を切り替えながらリンク貼ったり改行弄ったりするのですが、それだけに切り替えが出来なくなると記事編集自体が出来なくなるので非常に困ります。思い当たった原因としては最近、ベースとなるWordpressのソフトが新バージョンに更新されたのでその影響で追加ソフトに当たる「プラグイン」と呼ばれるソフトの中で新バージョンに対応していないのもあり、それが悪さをしているのではないかと推測しました。
なわけで早速プラグインをしらみつぶしに一つ一つ無効化させて不具合が直るか直らないか試した見たところ、意外とあっさり犯人は見つかりました。今回の私の場合、「Jetpack」という、閲覧数の統計やスパムコメントのブロックなどWordpressに様々な機能をまとめて追加してくれるプラグインでした。これ一つを止めたところ先程の問題はピタリとなくなり、こちらが驚くほど万事丸く収まってしまいました。
しょうがないのでこの「Jetpack」はしばらく封印せざるを得ないですが、なくてもいいといえばそれまでなのでもしかしたらこのまま削除することになるかもしれません。
ちなみに今日はまた150件ほど海外拠点データを打ち込んだ後、このブログで連載している「創業家列伝」をそのまま向こうのサイトにもコラムとしてアップロードしました。同じ経済系のネタだから相性いいだろうという判断からですが、アップロードに当たって以前に書いた安藤百福に関する記事を読み返し、「俺もええこと書いとるやないけ」と自分で書いた記事を自分で読んで感動してました。
そもそもあの創業家列伝自体、安藤百福について記事を書きたいと思ったことがきっかけで作った連載であって、正直な心境を話すとほかの人物については小倉昌男を除いてやはり熱意が一段低くなっております。この辺は佐野眞一氏も書いておりますが、経歴が怪しかったり物凄い決断をするような人間的魅了に溢れた人物はルポ記事を書く側にとっても魅力的で、書き手からしても「この人物を書きたい」という気持ちにさせられます。安藤百福然り、中国史の猛将然り、紹介したいと思う人物に対しては全力疾走で記事が書けますがそうでもない人となると引き上げられる熱意にも限界があります。
もちろん、この連載で取り上げている人物はどれも面白い人たちだし、そこそこ熱意を盛って書いてはいるつもりです。しかし安藤百福と同程度にまではモチベーションを上げ切れず、多分記事を読んでいる方にしてもそういう温度差が感じられるのではと推測しています。この前書いた樫尾四兄弟の記事なんかいい記事にしようと執筆前に集中しながら音楽聞くなどしてややトランス入った状態にしてから書きましたが、悪くはない仕上がりだけど他を圧倒するかのような記事にはとうとうできませんでした。好き嫌いで仕上がりに差がつくというのはよくないんだけどなぁ。
2015年4月22日水曜日
創業家列伝~鈴木道雄(スズキ)
軽自動車大手であるスズキの経営者ときたら現会長の鈴木修氏が非常に有名ですが、その創業者となるとトヨタの豊田喜一郎やホンダの本田総一郎と比べると印象が薄い気がします。案外ほかで紹介されていることが少ないような気がするので、いい機会なので今日はそのスズキ創業者である鈴木道雄を紹介しようと思います。
スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。
話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。
道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。
終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。
道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。
会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。
試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。
この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。
このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。
そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。
そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。
話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。
道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。
終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。
道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。
会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。
試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。
この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。
このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。
そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。
そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
2015年4月21日火曜日
現代神話は何故作られるのか
今日はちょっと短くこの前考えたことについて書きますが、いつの時代もというか日本ではよく「少年犯罪の凶悪化」や「子供の学力低下」の二つが取り上げられます。しかし少年犯罪は70年代とかと比べると規模も内容も現代の方が圧倒的に小さいですし、ゆとり教育の世代もよくよく調べてみると大学入試の問題は難問化していて実際は二極化の傾向が強かったりして、現代神話ともいえる先程の二つの言葉は実態を表していないどころか、むしろ内容的に間違っている可能性が高いです。では何故内容的に実態を表していない言葉が、現代社会に置いてこれほどまで広く流布されるのでしょうか。
私の考えをスパッと述べると、「そうであってほしい」と願う人間がたくさんいるからこうした現代神話は生まれるのではないかと思います。どちらも子供関連、それも教育に深く影響する内容ですが、現代教育が間違っているということにしたい人間が案外こういう神話をはやらせているのではないかと何の根拠もなく思えてきました。
考えてみると現代に限らず、神話というのはどの時代でも案外そのように「そうあってほしい」という願望が下地となって作られている気がします。天皇降臨節とか天地創造説とか、作った人間に都合のいいように、権威がもたれるようにして作られているのではと思えてきます。現代における神話とも言うべき眉唾な話しなども、基本はこういった願望が根拠を含まずに独り歩きするものが大半でしょう。
なおそういう、「そうであってほしい」ことが一番感じられる神話を敢えて挙げるとすれば私の中だと「マリアの受胎」で、ダヴィンチの師匠に当たるジョットが「聖誕告知」の絵でマリアの夫・ヨセフを何やら不安そうな顔に描いた理由を問われた際、「そりゃそうだろ。妻のお腹にいる子供の父親が誰なのかわからないんだからさ」と答えているだけに、ヨセフからしたら「そうであってほしい」と強く神話を信じたんじゃないかと思います。
私の考えをスパッと述べると、「そうであってほしい」と願う人間がたくさんいるからこうした現代神話は生まれるのではないかと思います。どちらも子供関連、それも教育に深く影響する内容ですが、現代教育が間違っているということにしたい人間が案外こういう神話をはやらせているのではないかと何の根拠もなく思えてきました。
考えてみると現代に限らず、神話というのはどの時代でも案外そのように「そうあってほしい」という願望が下地となって作られている気がします。天皇降臨節とか天地創造説とか、作った人間に都合のいいように、権威がもたれるようにして作られているのではと思えてきます。現代における神話とも言うべき眉唾な話しなども、基本はこういった願望が根拠を含まずに独り歩きするものが大半でしょう。
なおそういう、「そうであってほしい」ことが一番感じられる神話を敢えて挙げるとすれば私の中だと「マリアの受胎」で、ダヴィンチの師匠に当たるジョットが「聖誕告知」の絵でマリアの夫・ヨセフを何やら不安そうな顔に描いた理由を問われた際、「そりゃそうだろ。妻のお腹にいる子供の父親が誰なのかわからないんだからさ」と答えているだけに、ヨセフからしたら「そうであってほしい」と強く神話を信じたんじゃないかと思います。
2015年4月19日日曜日
中国雑誌の山口組特集
昨夜は上海に行って友人と一緒に夕食を取った際、昨日に書いたベルリン五輪の日本人選手の記事で「トレーナーにNIPPONって書いてあって時代を感じた」と話したところその友人から、「でも花園さんも夏場はよく、胸にHONGKONGって書いたTシャツ着てるじゃないですか」とツッコまれて苦笑しつつ、「俺、香港好きやねんから……」としか言えませんでした。なお「I♡上海」のTシャツもよく着て徘徊しています。
そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。
余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。
興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。
山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。
それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。
果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。
そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。
余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。
興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。
山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。
それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。
果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。
2015年4月18日土曜日
ベルリン五輪に出場した日本人レスリング選手
今回はちょっといつもと趣向が異なる記事で、友人から提供いただいたちょっとした記録的写真を紹介します。
この写真はこのブログによくコメントくれる若生わこさんから提供いただいた写真です。写真に写っている人物は誰かというと若生さんの親戚で、見ての通りというレスリング選手だったそうで1936年のベルリンオリンピックに日本代表として出場した際に撮ったのがこの写真だそうです。
如何にもベルリンって感じがするのはこっちの写真ですね。日本人でありながら体格の大きいドイツ人と並んでいても見劣りしない辺りさすがはレスリング選手だという気持ちを覚えます。ただ、「NIPPON」って刺繍のあるトレーナーはいくらか時代を感じてしまいます。
こちらは日本国内で撮影された写真のようです。このベルリン五輪に日本はレスリング選手を明大から二人、早大から三人を選出して計五人だったとのことですから、一番右の方が監督で他の方々がその五人のレスリング選手だと思われます。
こちらも日本国内で撮影されたものと思しき写真で、郷里の壮行会で撮られたのでしょう。この時代でありながら居並ぶ面々がスーツ姿のきちんとした身なりで、また神主さんもしっかり写っているのが印象的です。一人だけ女性も写っていますが、この人が母親なのかな。
こちらが最後の写真となります。日本の国旗、五輪のマークの入ったバッヂがついている辺りは日本代表らしい姿で、体格ががっちりしている分スーツ姿が堂に入っています。このほか思いつく点としては髪型が比較的現代の見方でもそれほど時代を感じさせない髪型で、現代と時代が続いているんだなという気がします。
戦前の時代の写真はそこそこ残っていますが、オリンピック選手の写真となるとこれまで案外見たことがなかったので今回提供いただいた写真は素直に新鮮な感じを覚えました。改めて写真を提供いただいた若生さんにはここで感謝を述べさせてもらいます。
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