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2015年4月22日水曜日

創業家列伝~鈴木道雄(スズキ)

 軽自動車大手であるスズキの経営者ときたら現会長の鈴木修氏が非常に有名ですが、その創業者となるとトヨタの豊田喜一郎やホンダの本田総一郎と比べると印象が薄い気がします。案外ほかで紹介されていることが少ないような気がするので、いい機会なので今日はそのスズキ創業者である鈴木道雄を紹介しようと思います。

 スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。

 話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
 奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。

 道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
 道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。

 終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
 この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。

 道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。

 会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
 開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。

 試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
 到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。

 この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。

 このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。

 そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。

 そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

2 件のコメント:

上海忍者 さんのコメント...

キミもいつか創業家になれますわ。祈っております。

花園祐 さんのコメント...

 なれたらいいんだが。祈ってて。