・平頼盛(Wikipedia)
<清盛の弟>
平頼盛とは誰かというと、平清盛の年の離れた異母弟です。その年齢差は15歳も離れており、清盛の長男である重盛の方が頼盛より5歳下でほぼ同年代という有様でした。そうした状況もあってか清盛が平家の棟梁として着々と権力を固めていくとその両脇を重盛と頼盛が支えるような立場となり、両者は官位昇進でもほぼ同時期になるなど「平家のナンバー3」としての役割を果たします。
そんな頼盛が最も活躍したのは平治の乱で、平家物語上の記述ではありますが重盛とともに平家軍の大将として前線で戦い、大いに敵軍を打ち破るなどの活躍が記述されます。こうした記述と後にも軍勢を率いる場面が多く、軍事指揮官として平家内でも一目置かれていたのではないかと思われます。
<清盛からの警戒>
しかし平治の乱後、重盛を後継者としたい清盛から頼盛は「その地位を脅かすもの」として警戒されたのか、これ以降も順調に官位昇進を果たす重盛に対し頼盛は抑えられ続けました。そうした兄・清盛との隙間風もあってか太宰大仁に任命されると、通常は代理人を現地に送るのが慣例なのにわざわざ頼盛本人が太宰府に赴任するなど距離を置き始めます。
さらには念願かなって参議に昇進を果たすものの、その一ヶ月後には突然解任された上、軍事指揮権なども取り上げられます。表向きは役目を果たさず後白河法皇の怒りを買ったとされていますが、重盛へのレールを引く清盛の意向が左右したとも言われ、私もこの説を支持します。
こうして一旦は頼盛を排除しようとした清盛でしたが、やはりその地位と立場、そして実力を買っていたのか、またすぐに頼盛を現場に復帰させ政務を行わせています。この政界復帰には頼盛の妻が昔仕えていた八条院(暲子内親王、鳥羽天皇の娘)との結びつきがうまく作用したとされ、この関係は後々にも頼盛の立場を大いに助けています。
<清盛からの更なる警戒>
平家の春が謳歌されていたころ、平氏打倒の謀議こと「鹿ケ谷の陰謀」が発覚して関係者一同が処分されるのですが、この謀議に頼盛も加わっていたのではないかと清盛は疑い、政界復帰をさせていながらまたも頼盛へプレッシャーをかけていきます。一時は「頼盛追討の兵が興された」という噂まで出たそうですが、これほどまでに頼盛が疑われていた背景には彼が平氏一門より八条院、ひいては後白河法皇との関係の方が強く、あっち側につくのではないかと警戒されていたためだと言われます。
そのため、八条院に支援を受けて挙兵したことがほぼ確実視されていた以仁王の挙兵でも、裏切りがないかを証明させるために頼盛は追討軍の大将に指名されています。もっともこちらでは頼盛は淡々と仕事をこなしてかわしてはいましたが。
<まさかの前線置き去り>
以仁王の挙兵以降、源頼朝を始め各地で反平氏の兵が興る中、清盛が突如病死してその後継には清盛の息子であり、先に病死した重盛の弟にあたる宗盛が継ぎます。大黒柱の清盛の逝去は平家側にとっては大きな打撃となりその後の源氏との戦いでも敗戦が続き、源義仲の軍勢が京都に近づく中、頼盛は京都山科に陣取って京都防衛の最前線を守るよう命令されます。
しかしこの命令に従って頼盛が山科に陣取るや、なんと宗盛らは平氏の都落ちを決め、六原の邸宅に火を放って続々と京都を離れて行ってしまいました。これに慌てた頼盛は洛中に使者を送って事の子細を宗盛に尋ねるも要領は得られず、結果的には戦場に置き去りにされる仕打ちを受けます。
この後頼盛は他の平家一門を追って西国へ落ち延びることはせず、むしろ彼らと離れるような形で単独行動をとるようになり洛中にて身を潜めます。この頼盛の行動について当時の日記などからは非難するような声はほとんどなかったようで、むしろ「彼がこうするのも当然」という形で同情視されていたとのことです。
また京都で隠遁中はまた後白河法皇や八条院から支援があり匿われたとされますが、そうまでして京都に残った判断はその後すぐに生きてきます。
<頼朝からのスカウト>
源義仲が京都を占領する中、頼盛は密かに頼朝と連絡を取り合い当時の京都の状況について細かく報告していました。特に頼盛からの「京都周辺は不作で兵糧難」という報告が頼朝自身の上洛を中止し、代わりに義経が派遣される判断の上で大きく影響したとされます。
それほどまでに頻繁に連絡を取り合っただけでなく、なんと頼盛自身が息子ともどもわざわざ鎌倉くんだりまで行ってきて頼朝とも直接対面まで果たしています。頼朝もまた頼盛をこれ以上ないくらいの勢いで激しくもてなしたとされ、源氏と平氏でありながら仲良くやっていたそうです。
何故頼朝が頼盛を厚遇したのかというと、彼が持つ後白河法皇周辺の人脈とパイプに期待していたとされ、実際にこれ以降の頼盛の活動や頼朝の京都工作において大いに貢献します。それに応える形で頼朝も頼盛の所領を安堵するなど、Win-Winの関係を築いていたと言えるでしょう。
<壇ノ浦後も生き残った平氏>
その後、1185年に平氏は滅亡しますが、頼盛は生き残り続けました。彼がどのような気持ちで平家の滅亡を眺めたかについては特に記録は見当たりませんが、一方で彼が源氏の側で活動していたことについて非難するような声も見当たらず、私としてもこんな立場ならと同情する気持ちの方が大きいです。
頼盛自身はその翌年の1186年に自宅で病死していますが、源氏方として平家の滅亡を眺めたという意味でこの人物は面白いと思い、今回紹介することとしました。