先日何気なく零戦のアンサイクロペディア記事を読んでいたら、「ちなみにこの機体を開発したのはランエボを作った会社で、製造し、エンジンを供給していたのは、STIの会社である」という記述が書かれてあり、言われてみると確かにそうだと妙に納得しました。言うまでもなく、ランエボの会社というのは三菱(自動車)で、STiというのは旧富士重工こと最近データ改ざんで揺れているスバルです。それにしても社名変えた直後にバレるっていうのも門出が悪い、
上の一文を見てパッと閃いたのがこの記事の見出しですが、昔は仲良く零戦を作っていた両社であるものの1990年代は自動車ラリーのWRCでしのぎを削り合ったライバル関係にあり、それぞれランエボとインプレッサ(現在のWRX)という当時の4WDラリー車としては破格のマシンを作っていました。だったらせっかくだし、両社でコラボしてまた新しい車を作るとしたらきっと「ランサーエボリューションWRX STi」になるなというわけです。
ただ、自分で言っててなんですがあながちむちゃくちゃな組み合わせでもないなという気もします。というのも両車種ともに「最強の4WD車」というコンセプトこそ共通しているものの、そのアプローチの仕方は真逆と言っていいほど違っているからです。
三菱のランエボは「4WDに最適な駆動システムとは何か?」が追及され、その結果出来上がったのは四本それぞれのタイヤにかかる荷重によってパワー伝導率を変えるよう制御するシステムを乗せた車となり、「走るスパコン」とまで一時期言われました。一方、スバルのWRXは「4WDに最適なシャシーとは何か?」が追及されており、4WDが最も発揮できる車体構造が徹底的に煮詰められた車です。いわば三菱はソフトウェア、スバルはハードウェアに重きを置いてレース車の開発に取り組んでいました。
だったら駆動システムは三菱、シャシーはスバルでがっちゃんこさせたら面白いというか、普通に見てみたい車が出来上がりそうな気がします。問題はエンジンでどっちのを載せるか悩むところですが、やっぱレアリティで言えばスバルのボクサーエンジンに軍配が上がるのでこっちにして、代わりにターボユニットは三菱重工が国内大手なんだし三菱にしてしまいましょう。
っていうか本当にコンセプトカーでもいいから、両社でコラボして1台作ってもらいたいものです。きっとスバルとトヨタのコラボよりもずっといい車が出来上がるはずです。でもってこの車でWRCにも復帰してもらい、他のメーカーを総薙ぎしてもらえば痛快この上ないでしょう。
おまけ
現実にはスバルはトヨタと、三菱は日産との提携関係にあり、むしろ実現しやすいのは「スカイラインエボリューション GT-R V spec Ⅲ」の方かもしれません。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2018年4月27日金曜日
エディット機能のあるゲーム
上の画像は最近ネットで見つけたものですが、恐らくファミコンの「バトルシティ」というゲームでしょう。このゲームは戦車動かして敵戦車を殲滅したり、本陣を陥落させたりすること目的としたゲームで、用意されているステージだけでなく上記画像のように素材を使って独自のステージを作るエディット機能がありました。
なお私は友人とこのゲームでよく遊んでおり、後年にPS2で「THE戦車」というゲームが出た際は魂を揺さぶられながら「バトルシティ」を思い出し、買ってみたところクソゲー過ぎて戦車自体が嫌いになりました。
話は戻りますがファミコン時代はこの「バトルシティ」に限らず「エキサイトバイク」などのように、セーブ機能がないにもかかわらずエディット機能を備えたゲームが数多くありました。スーパーファミコン時代もいくらかあったものの、大体プレステの時代辺りからこうしたエディット機能はどんどん少なくなり、なんていうか「やらされている感」の強いゲームが増えていった気がします。最たる例としては、シナリオ進行が一つしかない一本道RPGとかですが。
やはりゲームというのは遊んでなんぼというか、一定の枠やルールの中であれこれ弄繰り回せるというのも遊びの一つの醍醐味だと思います。実際に上記のエディット機能のあるゲームも、セーブできないから一期一会だというのに夢中でみんなで作ってはそのステージで遊んだりしてました。またエディット機能は往々にして極端なステージを作ったりでき、平地が全くないバイクのレースコース作ったりとか、ああいうむちゃくちゃが試せるというのが個人的には良かったです。しかし最近のゲームだとそうした外枠ががっちり固められていることはおろか、こうしなさいああしなさいと説教臭く指示されるというか攻略法がワンパターンに決められていることも多く、やはり往年の時代を振り返ると物足りないものです。
唯一、こういったエディット機能が現代のゲームでも残されている点を挙げるとすると、そりゃやっぱりキャラエディットでしょう。見た目や能力を思い通りに弄って作る機能ですが、この方面に関しても正直不満を感じることが多いです。
外見のエディットに関しては眉毛や輪郭、目の虹彩まで非常に細かく設定できるゲームがこのところ多く、好きな人はいいかもしれませんが、私にとっては設定項目が多すぎて作ってても疲れるしイメージ通りにはなかなか作れず、もっとシンプルにしてほしいとすらよく思います。ついでに書くと、戦国無双のキャラエディットは細かすぎるのも難点だし、声もなんか棒読みなパターンしか用意されておらず不満が募りました。
逆にそういったキャラエディットで過去楽しかったと思うのは、「パチンコパラダイス」の13と14です。髪型から体系、歩き方、服装に至るまで自由に且つシンプルに選べ、自分はよく海水パンツ一丁に辮髪にして、スケート靴を履かせて街を練り歩き、気が向いたら二輪バイクを乗り回して、早くこのシリーズ復刻してほしいと今でも願ってます。
2018年4月25日水曜日
心の隙間を埋める家具
知る人ぞ知るカルト映画の「ファイトクラブ」の冒頭で、エドワード・ノートン演じるエリートサラリーマン(自動車の不具合箇所についてリコール費用と事故被害者への賠償のどっちが高いかを判断する仕事)の主人公が、「僕も周りの人たちのように家の中を流行りの北欧家具で埋めてみたが、特に大きな満足感は得られなかった」と言うシーンがあります。このセリフの「北欧家具」都は恐らくIKEAの家具のことでしょうが、確かに中国でも数年前からIKEAの家具で家の中を埋め尽くすというのが憧れというかトレンドのようになっている節があります。
ただ上記の主人公(役名は実際にない)はこうした流行の家具を買い漁っても満足感を得られず、人生にやる気というか面白味を感じない生活が続くこととなります。その後については出張先でブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンという破天荒な男と出会い、お金を賭けたりすることもなくただ週末に地下室に集まり合い、男同士で殴り合いをするという「ファイトクラブ」を創設することとなるのですが、そうした映画のシナリオは置いといてこのところ家具による満足度で先度のセリフがよくよぎります。
知ってる人には早いですが私は2010年くらいからほぼ2年ペースで引っ越しを繰り返しており、リアルに3年以上同じ部屋に住んだことがありません。それだけ引っ越しが頻繁なこともあってか家具を買ったところでいちいち引っ越しの度に持って行けず、結局引っ越し前の部屋に置いて大家に挙げてしまうことが多いため、「あまり高額、というか家具そのもの自体あまり買わない方がいい」という境地に至るようになりました。
ただ現在いる部屋は住み始めて既に2年を経過しており、このペースだと実に久しぶりに3年超の滞在が達成出来そうな予感です。仕事も今のところ転職するような予定は全くないためこのまま現状が維持が続きそうで、そうした背景もあってか以前と比べてやや高い家具とかも去年あたりから揃えるようになってきました。
具体的に挙げるとパソコン用のデスクと椅子、あと折り畳み式のチェアですが、デスクと椅子については安い値段のをそれぞれ持っていたにもかかわらずわざわざ高いものに買い替え(つってもどちらも単体で5000円行かない)、サイズ的に引っ越した場合は持っていくことはほぼ不可能なのに買ってしまってます。このほか中国だと割と安く買えるもんだから無駄にクッションとか首に巻く枕などもやたらめったら買っており、最近はリアルに置き場所とかどうしようと思うくらい家具が増えてきました。ついでに書くと趣味の茶碗やマグカップも増殖中です。
しかし、と言っては何ですが、こうした家具が揃えば揃うほどなんか前より部屋にいて落ち着かなくなっていることに最近気が付きました。元々、あまり家具とかおかずがらんとした部屋が好きだったということが大きいでしょうが、なんとなく部屋の隙間が埋まるたびに、笑うせぇるすまんじゃありませんが自分の心の隙間も埋まっていくというか余裕がなくなってきているように思え、上記のファイトクラブのセリフを思い出すに至ったわけです。
単純に自分だけの価値観かもしれませんが、なんとなく家具については「ああここにあれがあればいいのに」と軽く不足感を覚えるくらいの方がいいのかもしれません。何でもそろっているとかえって手狭感を覚えてしまい、またビビッドな色など目立つ外見の家具は何度も見るうちに違和感を感じるようになるのでむしろ飽きないような保守的なデザインを選ぶのも吉でしょう。そう考えると、学生時代の「なんやこれ?何もあらへん?」とリアルに言われたくらいがらんどうだった自分の部屋は案外ありだったかもしれず、友人も「自分の部屋より花園君の部屋のが落ち着くんやけど」と言ってました。
なお、もし日本に帰ってまた引っ越すなら、椅子を完全に排除した部屋を設計しようかと考えてます。パソコンデスクも座卓にし、座った状態で目線より上にはエアコン以外置かず、収納も風呂敷かぶせるだけなくらいに変な工夫して、がらんどうの空間を意図的に作れないかと今考えてます。何気にテレビもパソコンで見れるようにすればもういらんかもな。
と、ここまで家具はイランと書いておきながら、部屋のインテリア道具としての戦闘機プラモはこのところどんどん増殖しています。枕元にはタイフーンあるし、冷蔵庫の上にはJ-20がおるしで、こっちもリアルに置き場所に困りはじめてきました。
ちなみに私の感覚で言えば、車でも飛行機でもプラモ1体だけ部屋にインテリアとして置いておくのはクールです。けど2体、3体と増えてくると、なんかいろいろおかしくなってきます。で以って戦闘機は冷蔵庫の上が置き場所として地味にいいです。
ただ上記の主人公(役名は実際にない)はこうした流行の家具を買い漁っても満足感を得られず、人生にやる気というか面白味を感じない生活が続くこととなります。その後については出張先でブラッド・ピット演じるタイラー・ダーデンという破天荒な男と出会い、お金を賭けたりすることもなくただ週末に地下室に集まり合い、男同士で殴り合いをするという「ファイトクラブ」を創設することとなるのですが、そうした映画のシナリオは置いといてこのところ家具による満足度で先度のセリフがよくよぎります。
知ってる人には早いですが私は2010年くらいからほぼ2年ペースで引っ越しを繰り返しており、リアルに3年以上同じ部屋に住んだことがありません。それだけ引っ越しが頻繁なこともあってか家具を買ったところでいちいち引っ越しの度に持って行けず、結局引っ越し前の部屋に置いて大家に挙げてしまうことが多いため、「あまり高額、というか家具そのもの自体あまり買わない方がいい」という境地に至るようになりました。
ただ現在いる部屋は住み始めて既に2年を経過しており、このペースだと実に久しぶりに3年超の滞在が達成出来そうな予感です。仕事も今のところ転職するような予定は全くないためこのまま現状が維持が続きそうで、そうした背景もあってか以前と比べてやや高い家具とかも去年あたりから揃えるようになってきました。
具体的に挙げるとパソコン用のデスクと椅子、あと折り畳み式のチェアですが、デスクと椅子については安い値段のをそれぞれ持っていたにもかかわらずわざわざ高いものに買い替え(つってもどちらも単体で5000円行かない)、サイズ的に引っ越した場合は持っていくことはほぼ不可能なのに買ってしまってます。このほか中国だと割と安く買えるもんだから無駄にクッションとか首に巻く枕などもやたらめったら買っており、最近はリアルに置き場所とかどうしようと思うくらい家具が増えてきました。ついでに書くと趣味の茶碗やマグカップも増殖中です。
しかし、と言っては何ですが、こうした家具が揃えば揃うほどなんか前より部屋にいて落ち着かなくなっていることに最近気が付きました。元々、あまり家具とかおかずがらんとした部屋が好きだったということが大きいでしょうが、なんとなく部屋の隙間が埋まるたびに、笑うせぇるすまんじゃありませんが自分の心の隙間も埋まっていくというか余裕がなくなってきているように思え、上記のファイトクラブのセリフを思い出すに至ったわけです。
単純に自分だけの価値観かもしれませんが、なんとなく家具については「ああここにあれがあればいいのに」と軽く不足感を覚えるくらいの方がいいのかもしれません。何でもそろっているとかえって手狭感を覚えてしまい、またビビッドな色など目立つ外見の家具は何度も見るうちに違和感を感じるようになるのでむしろ飽きないような保守的なデザインを選ぶのも吉でしょう。そう考えると、学生時代の「なんやこれ?何もあらへん?」とリアルに言われたくらいがらんどうだった自分の部屋は案外ありだったかもしれず、友人も「自分の部屋より花園君の部屋のが落ち着くんやけど」と言ってました。
なお、もし日本に帰ってまた引っ越すなら、椅子を完全に排除した部屋を設計しようかと考えてます。パソコンデスクも座卓にし、座った状態で目線より上にはエアコン以外置かず、収納も風呂敷かぶせるだけなくらいに変な工夫して、がらんどうの空間を意図的に作れないかと今考えてます。何気にテレビもパソコンで見れるようにすればもういらんかもな。
と、ここまで家具はイランと書いておきながら、部屋のインテリア道具としての戦闘機プラモはこのところどんどん増殖しています。枕元にはタイフーンあるし、冷蔵庫の上にはJ-20がおるしで、こっちもリアルに置き場所に困りはじめてきました。
ちなみに私の感覚で言えば、車でも飛行機でもプラモ1体だけ部屋にインテリアとして置いておくのはクールです。けど2体、3体と増えてくると、なんかいろいろおかしくなってきます。で以って戦闘機は冷蔵庫の上が置き場所として地味にいいです。
2018年4月24日火曜日
日本人アクション俳優はいるのか?
・終業・始業間の休息に数値目標 過労死防止大綱見直し案(朝日新聞)
上の記事の見出しを今日最初に見た時、「休息に数値目標」を何故か「体臭に数値目標」と見えてしまい、「何考えてんだこいつら、頭おかしくね」と思いましたが頭がおかしかったのは自分の方でした。っていうかまた働き過ぎなのかも。
話は本題に入りますが、今現在で最も人気で知名度のあるアクション俳優と言ったら恐らくハリウッドのトム・クルーズ氏が来るのではないかと思います。もともとバイクや車の運転がプロ並みということもあって激しいスタントシーンもノースタントで自ら演じてしまうほか、自身がプロデュースするミッションインポッシブルシリーズなどのアクション超大作での活躍もあり、活動中のアクション俳優としてはその露出は群を抜いているでしょう。
そんなトム・クルーズ氏について私自身も高く評価しているものの、ことアクション俳優の枠で言えば今一番好きなのは、ミッションインポッシブルシリーズにもレギュラー出演している上に、主役作品こそないものの数多くのマーブル映画に跨って出演しているジェレミー・レナー氏だったりします。さすがにトム(もう全名称書くのがめんどいので省略します)ほど激しいスタントシーンは連発しないものの、レナーの場合は一つ一つの動作が非常にメリハリがあってきれいで、アベンジャーズシリーズで演じるホークアイの弓を引く動きはもとより、ミッションインポッシブルシリーズでの無駄が一切なく拳銃を奪ってすぐ構えなおすところなどは見ていて惚れ惚れします。出世作となった「ハートロッカー」はあんま好きじゃないですが、レナーの演技というか動作に関してはどの作品でも一見の価値があると太鼓判押します。
この二人に限らず、現在米国ではマーブルのヒーロー映画が全盛ということもあって見事と思えるアクション俳優が次から次へと登場しています。新スパイダーマンを演じるトム・ホランド氏もバレエダンサー出身とあってジャンプ一回転着地なんて普通にこなしますし、他の若手もCGに頼らずとも見事なキレのいい動きを見せてくれます。
また往年のアクション俳優陣も最近はセルフパロディを見せつつも未だに活躍しており、シルベスタ・スタローン制作の「エクスペンダブルズ」シリーズに至っては「博物館って、俺たちのことかよ」とブルース・ウィリス氏を前にアーノルド・シュワルツネッガー氏が言ったりしながら、きちんとアクションシーンはこなしてます。もっともこのシリーズの名言は3での、刑務所を脱獄してきたウェズリー・スナイプス氏演じるキャラが刑務所に入った理由について「知りたいか?脱税だよ」と、リアルに脱税による収監から出所したばかりのスナイプスが言っているシーンでしょうが。
と、ハリウッドのアクション俳優についてつらつら話してきましたがここでふと疑問というか最近、日本人俳優でアクション俳優と呼べる人間はいるのかってなると、正直私の中では誰も浮かんできませんでした。少し前ならケイン・コスギ氏、あと一応「キルビル」に出演した栗山千明氏が出てきましたが、ここ数年でそのアクションぶりが見事と思えたり、また「アクションに強い俳優」として認知されているような人は、ただ私が不勉強なだけかもしれませんが浮かんできませんでした。
そもそも今の日本では「どんなキャラにも器用に演じられる」ようなカメレオン俳優が評価される傾向にあり、アクが強く一つのキャラクターが強くなりがちなアクション俳優はあまり評価されない気がします。さらに言えば、アクションメインの映画自体が日本ではあまり制作されていないように思え、アクション俳優自体がそもそも需要がないとすら思えてきます。
そんな状況を反映してか、はっきり言って日本映画のアクションシーンは見ていて惨澹たる出来です。多分アクションシーンを演じられる俳優があまりいないせいなのかCGでごまかそうとする傾向があり、しかも伝統的に日本は予算以前のレベルでCGの見せ方が下手で、変に色の濃い背景を前に俳優が大げさな演技をするシーンを見せられ興醒めした経験があるのは私だけではないでしょう。
単純に、役作りとして体をしっかり鍛えてくる俳優について言えば今の大河で主演している鈴木亮平氏を筆頭にそこそこいますが、動作もついたアクションもしっかりこなせる俳優となると本気で今の私には浮かんできません。っていうかむしろなぜいない。
理由については思いつくのを勝手に挙げてくと、まずは上にも挙げている通りにアクション俳優をあまり評価しない日本の映像市場状況、次にルックス重視でアクション能力を度外視する俳優事情、終いにはアクションを撮れる人間がいなくなってきていることかなとか考えています。まぁアクション以前に、日本の映像作品はアニメを含め全体的にテンポの悪い撮り方してる気がするけど。
最後に、唯一ここ数年でそのアクションに私が目を見張った日本映画を挙げると、何気に「リアル鬼ごっこ2」が挙がってきます。この作品はタイトルの通りに鬼からひたすら逃げまくる映画ですが、第一作目の撮影では初日終わった後、俳優全員が筋肉痛に襲われたという曰くつきな映画なだけあって、ガチで全力疾走しているのが映像からもはっきりわかります。
表情一つとってもみんな本気で走っているのがよくわかり、その甲斐あって映像もスピード感があって見栄えのいい仕上がりになっています。2を見てから1も見ましたが、谷村美月氏は好きだけど、やっぱ2の方が見ていて面白かったです。
なおこのリアル鬼ごっこシリーズですが、3は脚本も映像もクソ過ぎると感じたためにほぼ同時公開だった4と5は見ていません。そして2015年公開の園子温監督による「リアル鬼ごっこ」については見てみましたが、はっきり言って「自分にはこの作品は無理だ」と感じました。多分見る人によっては面白いと思うのかもしれませんけど、自分は見ていて苦しかったというのが偽らざる感想です。
上の記事の見出しを今日最初に見た時、「休息に数値目標」を何故か「体臭に数値目標」と見えてしまい、「何考えてんだこいつら、頭おかしくね」と思いましたが頭がおかしかったのは自分の方でした。っていうかまた働き過ぎなのかも。
話は本題に入りますが、今現在で最も人気で知名度のあるアクション俳優と言ったら恐らくハリウッドのトム・クルーズ氏が来るのではないかと思います。もともとバイクや車の運転がプロ並みということもあって激しいスタントシーンもノースタントで自ら演じてしまうほか、自身がプロデュースするミッションインポッシブルシリーズなどのアクション超大作での活躍もあり、活動中のアクション俳優としてはその露出は群を抜いているでしょう。
そんなトム・クルーズ氏について私自身も高く評価しているものの、ことアクション俳優の枠で言えば今一番好きなのは、ミッションインポッシブルシリーズにもレギュラー出演している上に、主役作品こそないものの数多くのマーブル映画に跨って出演しているジェレミー・レナー氏だったりします。さすがにトム(もう全名称書くのがめんどいので省略します)ほど激しいスタントシーンは連発しないものの、レナーの場合は一つ一つの動作が非常にメリハリがあってきれいで、アベンジャーズシリーズで演じるホークアイの弓を引く動きはもとより、ミッションインポッシブルシリーズでの無駄が一切なく拳銃を奪ってすぐ構えなおすところなどは見ていて惚れ惚れします。出世作となった「ハートロッカー」はあんま好きじゃないですが、レナーの演技というか動作に関してはどの作品でも一見の価値があると太鼓判押します。
この二人に限らず、現在米国ではマーブルのヒーロー映画が全盛ということもあって見事と思えるアクション俳優が次から次へと登場しています。新スパイダーマンを演じるトム・ホランド氏もバレエダンサー出身とあってジャンプ一回転着地なんて普通にこなしますし、他の若手もCGに頼らずとも見事なキレのいい動きを見せてくれます。
また往年のアクション俳優陣も最近はセルフパロディを見せつつも未だに活躍しており、シルベスタ・スタローン制作の「エクスペンダブルズ」シリーズに至っては「博物館って、俺たちのことかよ」とブルース・ウィリス氏を前にアーノルド・シュワルツネッガー氏が言ったりしながら、きちんとアクションシーンはこなしてます。もっともこのシリーズの名言は3での、刑務所を脱獄してきたウェズリー・スナイプス氏演じるキャラが刑務所に入った理由について「知りたいか?脱税だよ」と、リアルに脱税による収監から出所したばかりのスナイプスが言っているシーンでしょうが。
と、ハリウッドのアクション俳優についてつらつら話してきましたがここでふと疑問というか最近、日本人俳優でアクション俳優と呼べる人間はいるのかってなると、正直私の中では誰も浮かんできませんでした。少し前ならケイン・コスギ氏、あと一応「キルビル」に出演した栗山千明氏が出てきましたが、ここ数年でそのアクションぶりが見事と思えたり、また「アクションに強い俳優」として認知されているような人は、ただ私が不勉強なだけかもしれませんが浮かんできませんでした。
そもそも今の日本では「どんなキャラにも器用に演じられる」ようなカメレオン俳優が評価される傾向にあり、アクが強く一つのキャラクターが強くなりがちなアクション俳優はあまり評価されない気がします。さらに言えば、アクションメインの映画自体が日本ではあまり制作されていないように思え、アクション俳優自体がそもそも需要がないとすら思えてきます。
そんな状況を反映してか、はっきり言って日本映画のアクションシーンは見ていて惨澹たる出来です。多分アクションシーンを演じられる俳優があまりいないせいなのかCGでごまかそうとする傾向があり、しかも伝統的に日本は予算以前のレベルでCGの見せ方が下手で、変に色の濃い背景を前に俳優が大げさな演技をするシーンを見せられ興醒めした経験があるのは私だけではないでしょう。
単純に、役作りとして体をしっかり鍛えてくる俳優について言えば今の大河で主演している鈴木亮平氏を筆頭にそこそこいますが、動作もついたアクションもしっかりこなせる俳優となると本気で今の私には浮かんできません。っていうかむしろなぜいない。
理由については思いつくのを勝手に挙げてくと、まずは上にも挙げている通りにアクション俳優をあまり評価しない日本の映像市場状況、次にルックス重視でアクション能力を度外視する俳優事情、終いにはアクションを撮れる人間がいなくなってきていることかなとか考えています。まぁアクション以前に、日本の映像作品はアニメを含め全体的にテンポの悪い撮り方してる気がするけど。
最後に、唯一ここ数年でそのアクションに私が目を見張った日本映画を挙げると、何気に「リアル鬼ごっこ2」が挙がってきます。この作品はタイトルの通りに鬼からひたすら逃げまくる映画ですが、第一作目の撮影では初日終わった後、俳優全員が筋肉痛に襲われたという曰くつきな映画なだけあって、ガチで全力疾走しているのが映像からもはっきりわかります。
表情一つとってもみんな本気で走っているのがよくわかり、その甲斐あって映像もスピード感があって見栄えのいい仕上がりになっています。2を見てから1も見ましたが、谷村美月氏は好きだけど、やっぱ2の方が見ていて面白かったです。
なおこのリアル鬼ごっこシリーズですが、3は脚本も映像もクソ過ぎると感じたためにほぼ同時公開だった4と5は見ていません。そして2015年公開の園子温監督による「リアル鬼ごっこ」については見てみましたが、はっきり言って「自分にはこの作品は無理だ」と感じました。多分見る人によっては面白いと思うのかもしれませんけど、自分は見ていて苦しかったというのが偽らざる感想です。
2018年4月23日月曜日
こわくなーい
おなかをすかせた状態で書くことないのでまたゲームの話ですが、今「アイドルデスゲームTV」というクソゲーと並行して「コープスパーティ」を遊んでます。前者については「日本ふんどし協会 ベストフンドシスト賞2015」というよくわからない受賞歴がある声優の、西明日香氏の京都弁の見事さに感服しており、後者については安売りしてたから買って、遊んではいるけどなんて言うかなぁという気持ちを覚えています。
この「コープスパーティ」というのはいくつかシリーズが出ており、私が遊んでいるのは「ブックオブシャドウ」のPSP版で、PSP系列で言えば2作目に当たります。ジャンルはアドベンチャーに当たりそこら中に腐った死体が落ちている小学校校舎を探索するゲームなのですが、なんていうか全然怖くありません。多分描写としては結構激しいと思え、中には素手て生きたまま女子高生の内臓を解体するシーンもあるのですが、「ふーん」としか思えません。
サウンドに関してはダミーヘッドマイクという、人間の頭を模した特別なマイクで収録しているだけあってささやく声なんかはほんとそんな風に聞こえるので「おおっ」とか思えますが、なんていうか昔と比べてグロ耐性が上がってきているのかあまりホラー作品を見ていても心が動くというか動揺することがありません。わざわざ真夜中にやってるというのに。
年齢のせいか、怖さの定義も変わってきているような気がします。マイナスドライバーで目玉をぐりぐりくりぬくシーンとかよりも、作成した思っていた書類が実はやっていなかったとか、部屋に呼び出されたら無言で多くの人間が待っていたとか、なんていうかそういうシーンの方が恐怖を感じるようになってきています。
その上でいうと、今の自分の怖さの定義というのは、想定からの乖離、若しくは想定外の事態に突然放り込まれるようなものじゃないかとこのところ考えています。ある意味、「コープスパーティ」も日常から突然お化けと死体が徘徊する学校に放り込まれるので想定外の事態かもしれませんが、それ以上に想像の付かないような、今ここでたとえを挙げると突然部屋にくまモンの着ぐるみを着た人がお玉片手に殴り込みをかけてくるとか、そういうのが恐怖なのかなぁという気がします。死体とか人体損壊のグロさというのは、フィクションに関してはある程度見慣れてしまうというか。
人気漫画の「進撃の巨人」の作者が作中の巨人の表情について、「漫画喫茶のバイト中に見た、酔っぱらって何するか全く読めないオッサンの表情が元になってる」と言及していますが、この意見には私もなるほどと思いました。実際、次の行動が読めない酔っぱらいは私も確かに怖さを覚えるのですが、表情や発言内容から読み取れない、何するかわからない相手ほど怖いものはありません。さっきのコープスパーティも、お化けはこちらに危害を加えてくるのが分かってるだけに怖さを覚えないのかもしれません。
ちなみに自分が一番、次に何するかわからないと思った相手はプロレスに参戦していた辺りの和泉元彌氏です。
この「コープスパーティ」というのはいくつかシリーズが出ており、私が遊んでいるのは「ブックオブシャドウ」のPSP版で、PSP系列で言えば2作目に当たります。ジャンルはアドベンチャーに当たりそこら中に腐った死体が落ちている小学校校舎を探索するゲームなのですが、なんていうか全然怖くありません。多分描写としては結構激しいと思え、中には素手て生きたまま女子高生の内臓を解体するシーンもあるのですが、「ふーん」としか思えません。
サウンドに関してはダミーヘッドマイクという、人間の頭を模した特別なマイクで収録しているだけあってささやく声なんかはほんとそんな風に聞こえるので「おおっ」とか思えますが、なんていうか昔と比べてグロ耐性が上がってきているのかあまりホラー作品を見ていても心が動くというか動揺することがありません。わざわざ真夜中にやってるというのに。
年齢のせいか、怖さの定義も変わってきているような気がします。マイナスドライバーで目玉をぐりぐりくりぬくシーンとかよりも、作成した思っていた書類が実はやっていなかったとか、部屋に呼び出されたら無言で多くの人間が待っていたとか、なんていうかそういうシーンの方が恐怖を感じるようになってきています。
その上でいうと、今の自分の怖さの定義というのは、想定からの乖離、若しくは想定外の事態に突然放り込まれるようなものじゃないかとこのところ考えています。ある意味、「コープスパーティ」も日常から突然お化けと死体が徘徊する学校に放り込まれるので想定外の事態かもしれませんが、それ以上に想像の付かないような、今ここでたとえを挙げると突然部屋にくまモンの着ぐるみを着た人がお玉片手に殴り込みをかけてくるとか、そういうのが恐怖なのかなぁという気がします。死体とか人体損壊のグロさというのは、フィクションに関してはある程度見慣れてしまうというか。
人気漫画の「進撃の巨人」の作者が作中の巨人の表情について、「漫画喫茶のバイト中に見た、酔っぱらって何するか全く読めないオッサンの表情が元になってる」と言及していますが、この意見には私もなるほどと思いました。実際、次の行動が読めない酔っぱらいは私も確かに怖さを覚えるのですが、表情や発言内容から読み取れない、何するかわからない相手ほど怖いものはありません。さっきのコープスパーティも、お化けはこちらに危害を加えてくるのが分かってるだけに怖さを覚えないのかもしれません。
ちなみに自分が一番、次に何するかわからないと思った相手はプロレスに参戦していた辺りの和泉元彌氏です。
2018年4月22日日曜日
てんかんとデジャブ
今月初めに極端に体調が悪くなったのですがその原因ははっきりしていて、仕事中に「ああ、ここだったのか」と感じたからです。なにが「ここだったのか」というと、大体去年の夏頃に見たデジャブというかイメージが今月初めの勤務中の自分の姿だったということです。
いきなり訳の分からないことを言い出していますが、こういった予知夢めいた未来のイメージを白昼夢のように見ることは自分にとってはよくあり、去年の夏に今回のイメージというかデジャブを見た時には、「とりあえず来年の春までは今の職場にいるということか。勤続2年は達成できそうだ」なんていう感想を覚えたこともあり、割としっかり覚えていたイメージでした。
またこの時見たイメージは特徴があり、というのも今年2月から職場での自分の座席が変わって窓際、それもかなり隅っこで割と個室っぽい空間となりました。この座席ですが窓からその風景を一望出来て、この外の風景がデジャブにもはっきり出ていたので記憶面でもあまり離れなかったのだと思います。
その上で、こうしたデジャブを見る、そして思い出すとほぼ確実に軽いてんかん発作が起こります。むしろ私にとっててんかん発作はデジャブとほぼセットであり、最初に発作を意識した小学四年生時においてすらも「(発作によって)急に気持ち悪くなって吐き気を催すと、なんか懐かしいような気持ちがする」と自分の口で言っています。
一応書いておきますがてんかん発作と言っても自分のは軽度なもので、最後に気絶にまで至ったのは6年前で、法律上でも過去3年間に気絶を伴わなければ申告義務も発生しません。っていうかここ数年は軽度の発作もほとんどなかったのですが、今年2月から4月にかけては激務もあってかこの時のデジャブを含め何度か吐きそうになりました。
・既視感(Wikipedia)
今まで知りませんでしたがデジャブは側頭葉てんかんと関係が深いことは前から見られていたものの、都合よく再現実験ができないこともあって詳しい研究はまだ進んでいないようです。そういう背景もあって自分の体験を書き残そうと今書いているのですが、私の場合はデジャブを感じる→ああそろそろ来る→てんかん発作(吐き気、頭痛)という流れがほぼ確立されています。そのためデジャブというか、「あれ、この状況前にも見たような……」という考えがよぎるとぞくぞくするというか、意識的にそれ以上あまり深く考えないようにしたり他の方に意識を向けたりすることもあります。
また思い出す方向とは逆に、先ほども書いたように白昼夢のように妙な自分の未来っぽいイメージが浮かぶ時も大体同じ流れです。この状態でも、「ああ、発作来たな」と内心思うのですが、割とこういう時は流れに任せるというか、発作の感覚をむしろ進んで受け入れることが多いです。なんでそんなことするのかっていうと、はっきり言えば発作起きている時の自分は当社比120%みたいな感じで勘が冴え渡り、予測や分析をさせたらほぼピタリと的中させられるくらい頭が回るようになるからです。このブログに関しても、てんかん発作真っただ中の間は書くの休んだりしますが、治まった直後なんかは自分が見てもいい視点で記事が書かれてあったりします。
そういうこともあってかこういう発作の時に、自分が未来を見ているという感覚は普通に持っています。先ほどにも書いたように、今回のデジャブのイメージを持った時も「来年春まで残留はほぼ確定」と確信しましたし、現実に周りから「今回の職場は珍しく花園さんにとっては長続きしますね」と驚かれるくらいもっています。逆を言えば、自分の賞味期限は約二年ってことになるのですが。
この記事で何が言いたいのかというと、デジャブはてんかんと非常に密接な関係があると言いたいわけで、頻繁にデジャブを見たりする人に関しては自分同様にてんかんの可能性も疑った方がいいと思います。特にデジャブを見た直後に頭痛、吐き気を覚えるのであれば、ほぼ確実だと思え、平常時の診断ではなかなか出ないのでそのような状態の時に診断を受けるべきです。
なお自分も最初気絶した際は原因不明、二回目の際にスキャン受けながらデジャブ見た時にはっきりと診断データが出て、晴れててんかんキャリアとなりました。
もう一つ言いたいことを挙げると、てんかん発作時に見るイメージは未来透視というよりかは未来の可能性の中でも割とあり得そうな、確率の高いイメージ、若しくはこうあってほしい願望的なイメージが出やすいのではないかとも思います。私が見るイメージは確率で言えばまさに将来その通りの状況が出るなど高い実現率に達していると思いますが、中には結局実現せずに終わったイメージもあり、数ある可能性の一つだとは思うものの必ずしもそうなるとは限らないイメージだと考えています。
こうした点を踏まえると、未来予知をする巫女とか予言者などは多分この手のてんかん発作を利用してイメージを見ていたのではと私には思えます。やろうと思えば多分私にもできるんじゃないか、具体的にはてんかんを引き起こしやすそうな環境や状態(三半規管を揺さぶるなど)に追い込んで発作を起こし、あとはひたすら見ようと思うイメージの関連物を頭の中でぐるぐる回せば一つや二つのイメージは作り出せる気がします。もっともすっげー吐きそうになるので実際にはやりませんが。
逆に今個人的に気になっている点として、他の人はどういう状況でどんなデジャブを見るのか。自分とどう違うのかに興味があります。自分の場合は先ほど書いたように「デジャブだ」と思う総毛立つのですが、他のみんなはどないなんやろう(´・ω・`)
いきなり訳の分からないことを言い出していますが、こういった予知夢めいた未来のイメージを白昼夢のように見ることは自分にとってはよくあり、去年の夏に今回のイメージというかデジャブを見た時には、「とりあえず来年の春までは今の職場にいるということか。勤続2年は達成できそうだ」なんていう感想を覚えたこともあり、割としっかり覚えていたイメージでした。
またこの時見たイメージは特徴があり、というのも今年2月から職場での自分の座席が変わって窓際、それもかなり隅っこで割と個室っぽい空間となりました。この座席ですが窓からその風景を一望出来て、この外の風景がデジャブにもはっきり出ていたので記憶面でもあまり離れなかったのだと思います。
その上で、こうしたデジャブを見る、そして思い出すとほぼ確実に軽いてんかん発作が起こります。むしろ私にとっててんかん発作はデジャブとほぼセットであり、最初に発作を意識した小学四年生時においてすらも「(発作によって)急に気持ち悪くなって吐き気を催すと、なんか懐かしいような気持ちがする」と自分の口で言っています。
一応書いておきますがてんかん発作と言っても自分のは軽度なもので、最後に気絶にまで至ったのは6年前で、法律上でも過去3年間に気絶を伴わなければ申告義務も発生しません。っていうかここ数年は軽度の発作もほとんどなかったのですが、今年2月から4月にかけては激務もあってかこの時のデジャブを含め何度か吐きそうになりました。
・既視感(Wikipedia)
今まで知りませんでしたがデジャブは側頭葉てんかんと関係が深いことは前から見られていたものの、都合よく再現実験ができないこともあって詳しい研究はまだ進んでいないようです。そういう背景もあって自分の体験を書き残そうと今書いているのですが、私の場合はデジャブを感じる→ああそろそろ来る→てんかん発作(吐き気、頭痛)という流れがほぼ確立されています。そのためデジャブというか、「あれ、この状況前にも見たような……」という考えがよぎるとぞくぞくするというか、意識的にそれ以上あまり深く考えないようにしたり他の方に意識を向けたりすることもあります。
また思い出す方向とは逆に、先ほども書いたように白昼夢のように妙な自分の未来っぽいイメージが浮かぶ時も大体同じ流れです。この状態でも、「ああ、発作来たな」と内心思うのですが、割とこういう時は流れに任せるというか、発作の感覚をむしろ進んで受け入れることが多いです。なんでそんなことするのかっていうと、はっきり言えば発作起きている時の自分は当社比120%みたいな感じで勘が冴え渡り、予測や分析をさせたらほぼピタリと的中させられるくらい頭が回るようになるからです。このブログに関しても、てんかん発作真っただ中の間は書くの休んだりしますが、治まった直後なんかは自分が見てもいい視点で記事が書かれてあったりします。
そういうこともあってかこういう発作の時に、自分が未来を見ているという感覚は普通に持っています。先ほどにも書いたように、今回のデジャブのイメージを持った時も「来年春まで残留はほぼ確定」と確信しましたし、現実に周りから「今回の職場は珍しく花園さんにとっては長続きしますね」と驚かれるくらいもっています。逆を言えば、自分の賞味期限は約二年ってことになるのですが。
この記事で何が言いたいのかというと、デジャブはてんかんと非常に密接な関係があると言いたいわけで、頻繁にデジャブを見たりする人に関しては自分同様にてんかんの可能性も疑った方がいいと思います。特にデジャブを見た直後に頭痛、吐き気を覚えるのであれば、ほぼ確実だと思え、平常時の診断ではなかなか出ないのでそのような状態の時に診断を受けるべきです。
なお自分も最初気絶した際は原因不明、二回目の際にスキャン受けながらデジャブ見た時にはっきりと診断データが出て、晴れててんかんキャリアとなりました。
もう一つ言いたいことを挙げると、てんかん発作時に見るイメージは未来透視というよりかは未来の可能性の中でも割とあり得そうな、確率の高いイメージ、若しくはこうあってほしい願望的なイメージが出やすいのではないかとも思います。私が見るイメージは確率で言えばまさに将来その通りの状況が出るなど高い実現率に達していると思いますが、中には結局実現せずに終わったイメージもあり、数ある可能性の一つだとは思うものの必ずしもそうなるとは限らないイメージだと考えています。
こうした点を踏まえると、未来予知をする巫女とか予言者などは多分この手のてんかん発作を利用してイメージを見ていたのではと私には思えます。やろうと思えば多分私にもできるんじゃないか、具体的にはてんかんを引き起こしやすそうな環境や状態(三半規管を揺さぶるなど)に追い込んで発作を起こし、あとはひたすら見ようと思うイメージの関連物を頭の中でぐるぐる回せば一つや二つのイメージは作り出せる気がします。もっともすっげー吐きそうになるので実際にはやりませんが。
逆に今個人的に気になっている点として、他の人はどういう状況でどんなデジャブを見るのか。自分とどう違うのかに興味があります。自分の場合は先ほど書いたように「デジャブだ」と思う総毛立つのですが、他のみんなはどないなんやろう(´・ω・`)
2018年4月21日土曜日
財務省次官セクハラ発言議論に対する所感
なんか自分が語ると立場的にもいろいろまずいかと思ってこの件に関しては黙ってましたが、コメントでリクエスト来てしまったのであくまで個人の立場として思うことを書いていきます。最初に書いておくと、この問題は多面的に捉えられる問題であるだけに見方によって判断が大きく変わるため、具体的にどの見地で立つかによって評価なども変わってくる問題だと思います。なので自分としては主張に立脚する立場、論点を明確にしたうえでポイントごとに書いていくことにします。
1、殴られる覚悟
私の持論の一つに、「殴られる覚悟がある奴だけが人を殴っていい」というのがあります。これが何を言い表すのかというと、「相手に殴り返されても何も文句を言わない、批判しないというのであれば殴ってもいい」という意味ですが、本意としてはむしろ逆の言い方で、「自分は殴ってもいいが殴る相手が殴り返すことを認めない、というのを認めない」という概念です。具体的に言えば、部活の顧問と生徒の関係のように、殴り返せない立場だとわかっている相手に暴力をふるうのは認めないという考え方ですが、逆に殴り返される、逆襲に遭う覚悟を持っているなら程度を知った暴力はアリではとも考えてます。
この価値観に立脚して今回の問題を語ると、福田事務次官が自身、若しくは身内にセクハラ発言や行為がなされても気にしないような人間であるのであれば、価値観にズレがあると考え、いくらかしょうがないし許してもいいのではと思っています。さすがにオッサン相手に「おっぱい触らせて」なんて言う発言は不毛この上ありませんが、仮に彼の家族や親戚に女性がいるとして、その人に誰かが「おっぱい触らせて」と言ったり触っても怒らないというような人であれば、いくらか問題があるとは感じるもののこうしたセクハラ発言について世間の認識とズレがあるという彼の主張に私は理解できます。
ただし、これが逆なら話は違います。逆であるということは「自分はセクハラしてもいいが他人はしてはダメ」というクズの理論になり、強い立場を利用した弱い者いじめ以外の何物でもなくなり全力で叩き潰すべき人間の価値観と言えるでしょう。まぁこの手の「殴られる覚悟のない」クズであることはほぼ間違いないでしょうし、刑法的には自分の行為が犯罪だとわかってやっている「確信犯」と言えるでしょう。
もし仮に私が何やってもいいってんなら、この点を敢えて突くために財務省の省庁前で目につく女性職員に対して「おっぱい触っていい?」と聞いて、イエスかノーの集計を取って報じます。セクハラだと言われれば「お前らの親玉が言ってることなのに、他の人は言っちゃ駄目だというのか!」と反論して、警察呼ばれたら「事務次官なら捕まえないのか?」と言おうかなと考えてます。まぁさすがにイエスと回答した人のを触っちゃったら紛れもない公然猥褻になるので、集計取るだけにしますが。
2、セクハラ発言録音データのリーク
今回の問題で大きな議論となっている点として、テレビ朝日の女性記者がセクハラ発言を録音したデータを自社ではなく週刊新潮に渡して記事化したことについて賛否両論が出ていますが、私個人としては女性記者の行動は正しいと考えています。
というのも女性記者は最初自分の上司にセクハラ発言を報道するべきか取り合ったものの「我慢しなさい」で却下されたと聞きます。いわば、ネタに対する報道化の優先権はテレビ朝日が持っていたにもかかわらずテレビ朝日はそれを使わなかっただけで、そのネタを他に報じるメディアがあるというのならばそこへ渡すのも至極当然でしょう。第一、記者が取ってくるネタというのは基本会社のものではなく記者自身のものだと私は考えます。
むしろこの件で一番批判されるべきは、福田事務次官というよりテレビ朝日ではないかとすら思います。テレビ朝日は自社社員が受けているセクハラを黙認したにもかかわらず、ことが明るみになってからは他のメディア同様に財務省を批判しており、さらには女性記者が名乗り出ると今度は女性記者が新潮にネタを渡した行動について「遺憾だ」と変な批判の仕方をするなど、自分たちが適切に対応せず報じないと決めたにもかかわらずなんだその言い草はと見ていて感じます。
そもそも、こんなおいしいネタを何故使おうとしなかったのか?はっきり言えば財務省は福田事務次官を怒らせては取材に支障が出るとビビった、または忖度したから以外ないでしょう。メディアとして、っていうかおいしいネタの料理の仕方的にもテレビ朝日はセンスがないと私には感じます。
3、オフレコ発言の報道可否
今回の問題でこちらも議論となっているのは、オフレコでの発言を隠れて録音して報じたという点です。これについて否定派の意見をみていると主なものは、「オフレコでの取材は大事」、「取材者と記者の信頼は必要」、「オフレコでしか言えないこともある」などといった所じゃないかと思います。
・沖縄防衛局長「犯す前に言いますか」と発言 辺野古巡り(朝日新聞)
実は今回の報道を見て一番最初に思い出したのは上の記事でした。これは私が香港でモンハンP2Gで遊んでた2011年に出た記事ですが、概要を書くと当時の沖縄防衛局長が非公式且つオフレコでの記者懇談会(つっても居酒屋)で「(女性を)これから犯す前に犯しますよと言いますか」という発言をして更迭された事件です。
防衛局長が言わんとしたことは、「攻撃は予告なしに来る」という趣旨のたとえだと思え、言わんとしてること自体は表現が下品であるものの私には理解できます。ただこの事件の面白いところh、多くのメディアの記者が同時に発言を聞いていたにもかかわらず(朝日新聞は同席しておらず)最初はどこも報じず、地元の琉球新報のみが報じて、それを見た他のメディアもあとからこぞって報じたという点です。
この事件は女性蔑視発言やオフレコ内容の報道など、今回の事件と共通する点が多いように感じるのですが現時点で比較しているのは多分私だけじゃないかと思いますが(西山事件との比較は見たが)、やはりこの事件の時と今回の事件の世間の反応を見ていると本来あるべきではないずれがあるように感じます。具体的なずれの内容については触れませんが、何故そのずれが生まれるのかと言えば報じたのが女性記者本人だったからではないかと内心考えています。
話は戻りますが、オフレコでの発言、しかも隠れ録音内容を報じることの是非について私の意見を言えば、「これの何が問題だ?」ってところです。そもそも、相手が記者であればオフレコだろうが盗み聞きだろうがその発言がニュースネタとして価値を持つ限りは報じられてしまうのが当然で、また記者としてもそれがニュース価値のあるネタであれば「今夜のおかずはイカリング」というどうでもいい発言であっても報じるのが私に言わせれば責務です。
一例を挙げると、以前私が報じた上海大江戸温泉の記事で日本の大江戸温泉側が私の質問内容を「否定」ではなく「回答を拒否」したことを敢えて強調して記事に書きましたが、これは「回答拒否」自体がニュースであると私が考えたからです。そして今回の件でも、「おっぱい触っていい?」という発言はニュースネタとして十分価値があるように思え、実際にこれだけ大きな話題になっているんだから報じない方がおかしいというかテレビ朝日はセンスがないとしか言いようがありません。
そして記者との信頼関係についてですが、私に言わせれば記者を信用する奴はタダの馬鹿だと思います。よくサイコパスは会社経営者とかジャーナリストに多いという人いますが、記者に関しては私もそう思え、「友人を突然ドブに蹴落として大笑いする奴ほど職業適性あるよ」と周りにも言っています。実際に多くの記者は人を躊躇なく裏切るし、同僚ですら騙し討ちし、部下にも平気で暴行するような人間ばかりというか、そういう人間じゃないと心身持ちません。そして何よりも、相手が一番嫌がる内容を暴露することこそが一番の仕事であり、一般市民ならまだしも官僚でありながら記者と信頼関係を構築するなんてアホ以外の何物でもありません。記者からしたらそんな奴いいカモで、利用するだけ利用したら情報リークして消えてもらうだけです。
実際私も教えられましたが、記者と取材相手に友好関係などはなく、緊張感を持った敵同士の対立関係しかありません。記者としてはネタになるニュースをどう引き出すか、取材相手としては自分(自社)にとって有利な情報を如何に発信し、不利な情報を如何に隠すかというやり取りこそが「取材」であり、そこにあるのは相手をどう利用し倒すかという勝負だけです。
もっともこう言いながらも、「協力による見返り」が期待できる相手にはそりゃ記者も便宜図ります。また何でもかんでも暴露すればいいというわけではなく、記事にしても意味ないニュース価値のない、相手にとっては暴露されたくはない情報に関しては聞かなかった振りくらいはします。これを「信頼関係」というなら言うで構いませんが、今回のセクハラ発言の件に関しては報じれば辞任に追い込めるネタなので、「利用しつくしてのポイ」なので余計な同情はいらんでしょう。
さっきちょっと書きそびれましたけど、盗み聞き、盗み見による報道はこの世界では当然です。見られるってんなら携帯だろうが引き出しの中なんてためらいなく盗み見ますし、飲食店で何かしら面白そうな話題を誰か話していたら私だってそ知らぬふりして盗み聞いて、ネタになるなら記事化します。こうした行為からすれば隠し録音なんて、まだ面と向かって話を聞いてるんだからかわいい方じゃないかとすら思います。
そもそも、といったらなんですが、今回のセクハラ発言は政治的内容ではないというのが私にとってはポイントです。政治的内容を含む発言であれば将来の見返りというか一部の人間の言う「信頼関係」が働いてオフレコにと言われたら確かに取り扱い上で打算が動くものの、問題となった発言はそういった類ではなくただのセクハラ発言です。そんな低レベルな発言内容に「信頼のために報じない」なんてのは私の中ではありません。ましてや、これだけのニュース価値を持つのであればなおさらです。
中には今回の報道をハニートラップだという人もいますが、それもだからなんだってところです。特に社会報道で顕著ですが取材では如何に「相手を怒らせるか」が重要で、取材相手を挑発するだけ挑発し、怒らせて殴らせればしめたもので、「記者にも暴行」という見出しが翌日書けます。ハニートラップも同様で、記者だとわかっている相手という見え見えの罠に引っかかる奴の方が馬鹿なだけでしょう。まぁ今回の件はハニートラップ以前でしょうが。
総じていえば、「信頼感」なんていうのは報道の世界、いやむしろ一般社会においてもまやかしでしかありません。基本的には利用価値があるかないかという打算以外なく、それすらも理解できてないというのは「利用される側」だからではないかというのが私の偽らざる心境です。
おまけ、
つい最近に人気声優の日笠陽子氏がラジオの番組で、カレーうどんをホースで食わされたという事実を知ってすごいカルチャーショックを受けました。声優、しかも女性で人気も高いのに、芸人以上に芸人らしいことやっててなんなのこの人と変な感銘を受けました。
1、殴られる覚悟
私の持論の一つに、「殴られる覚悟がある奴だけが人を殴っていい」というのがあります。これが何を言い表すのかというと、「相手に殴り返されても何も文句を言わない、批判しないというのであれば殴ってもいい」という意味ですが、本意としてはむしろ逆の言い方で、「自分は殴ってもいいが殴る相手が殴り返すことを認めない、というのを認めない」という概念です。具体的に言えば、部活の顧問と生徒の関係のように、殴り返せない立場だとわかっている相手に暴力をふるうのは認めないという考え方ですが、逆に殴り返される、逆襲に遭う覚悟を持っているなら程度を知った暴力はアリではとも考えてます。
この価値観に立脚して今回の問題を語ると、福田事務次官が自身、若しくは身内にセクハラ発言や行為がなされても気にしないような人間であるのであれば、価値観にズレがあると考え、いくらかしょうがないし許してもいいのではと思っています。さすがにオッサン相手に「おっぱい触らせて」なんて言う発言は不毛この上ありませんが、仮に彼の家族や親戚に女性がいるとして、その人に誰かが「おっぱい触らせて」と言ったり触っても怒らないというような人であれば、いくらか問題があるとは感じるもののこうしたセクハラ発言について世間の認識とズレがあるという彼の主張に私は理解できます。
ただし、これが逆なら話は違います。逆であるということは「自分はセクハラしてもいいが他人はしてはダメ」というクズの理論になり、強い立場を利用した弱い者いじめ以外の何物でもなくなり全力で叩き潰すべき人間の価値観と言えるでしょう。まぁこの手の「殴られる覚悟のない」クズであることはほぼ間違いないでしょうし、刑法的には自分の行為が犯罪だとわかってやっている「確信犯」と言えるでしょう。
もし仮に私が何やってもいいってんなら、この点を敢えて突くために財務省の省庁前で目につく女性職員に対して「おっぱい触っていい?」と聞いて、イエスかノーの集計を取って報じます。セクハラだと言われれば「お前らの親玉が言ってることなのに、他の人は言っちゃ駄目だというのか!」と反論して、警察呼ばれたら「事務次官なら捕まえないのか?」と言おうかなと考えてます。まぁさすがにイエスと回答した人のを触っちゃったら紛れもない公然猥褻になるので、集計取るだけにしますが。
2、セクハラ発言録音データのリーク
今回の問題で大きな議論となっている点として、テレビ朝日の女性記者がセクハラ発言を録音したデータを自社ではなく週刊新潮に渡して記事化したことについて賛否両論が出ていますが、私個人としては女性記者の行動は正しいと考えています。
というのも女性記者は最初自分の上司にセクハラ発言を報道するべきか取り合ったものの「我慢しなさい」で却下されたと聞きます。いわば、ネタに対する報道化の優先権はテレビ朝日が持っていたにもかかわらずテレビ朝日はそれを使わなかっただけで、そのネタを他に報じるメディアがあるというのならばそこへ渡すのも至極当然でしょう。第一、記者が取ってくるネタというのは基本会社のものではなく記者自身のものだと私は考えます。
むしろこの件で一番批判されるべきは、福田事務次官というよりテレビ朝日ではないかとすら思います。テレビ朝日は自社社員が受けているセクハラを黙認したにもかかわらず、ことが明るみになってからは他のメディア同様に財務省を批判しており、さらには女性記者が名乗り出ると今度は女性記者が新潮にネタを渡した行動について「遺憾だ」と変な批判の仕方をするなど、自分たちが適切に対応せず報じないと決めたにもかかわらずなんだその言い草はと見ていて感じます。
そもそも、こんなおいしいネタを何故使おうとしなかったのか?はっきり言えば財務省は福田事務次官を怒らせては取材に支障が出るとビビった、または忖度したから以外ないでしょう。メディアとして、っていうかおいしいネタの料理の仕方的にもテレビ朝日はセンスがないと私には感じます。
3、オフレコ発言の報道可否
今回の問題でこちらも議論となっているのは、オフレコでの発言を隠れて録音して報じたという点です。これについて否定派の意見をみていると主なものは、「オフレコでの取材は大事」、「取材者と記者の信頼は必要」、「オフレコでしか言えないこともある」などといった所じゃないかと思います。
・沖縄防衛局長「犯す前に言いますか」と発言 辺野古巡り(朝日新聞)
実は今回の報道を見て一番最初に思い出したのは上の記事でした。これは私が香港でモンハンP2Gで遊んでた2011年に出た記事ですが、概要を書くと当時の沖縄防衛局長が非公式且つオフレコでの記者懇談会(つっても居酒屋)で「(女性を)これから犯す前に犯しますよと言いますか」という発言をして更迭された事件です。
防衛局長が言わんとしたことは、「攻撃は予告なしに来る」という趣旨のたとえだと思え、言わんとしてること自体は表現が下品であるものの私には理解できます。ただこの事件の面白いところh、多くのメディアの記者が同時に発言を聞いていたにもかかわらず(朝日新聞は同席しておらず)最初はどこも報じず、地元の琉球新報のみが報じて、それを見た他のメディアもあとからこぞって報じたという点です。
この事件は女性蔑視発言やオフレコ内容の報道など、今回の事件と共通する点が多いように感じるのですが現時点で比較しているのは多分私だけじゃないかと思いますが(西山事件との比較は見たが)、やはりこの事件の時と今回の事件の世間の反応を見ていると本来あるべきではないずれがあるように感じます。具体的なずれの内容については触れませんが、何故そのずれが生まれるのかと言えば報じたのが女性記者本人だったからではないかと内心考えています。
話は戻りますが、オフレコでの発言、しかも隠れ録音内容を報じることの是非について私の意見を言えば、「これの何が問題だ?」ってところです。そもそも、相手が記者であればオフレコだろうが盗み聞きだろうがその発言がニュースネタとして価値を持つ限りは報じられてしまうのが当然で、また記者としてもそれがニュース価値のあるネタであれば「今夜のおかずはイカリング」というどうでもいい発言であっても報じるのが私に言わせれば責務です。
一例を挙げると、以前私が報じた上海大江戸温泉の記事で日本の大江戸温泉側が私の質問内容を「否定」ではなく「回答を拒否」したことを敢えて強調して記事に書きましたが、これは「回答拒否」自体がニュースであると私が考えたからです。そして今回の件でも、「おっぱい触っていい?」という発言はニュースネタとして十分価値があるように思え、実際にこれだけ大きな話題になっているんだから報じない方がおかしいというかテレビ朝日はセンスがないとしか言いようがありません。
そして記者との信頼関係についてですが、私に言わせれば記者を信用する奴はタダの馬鹿だと思います。よくサイコパスは会社経営者とかジャーナリストに多いという人いますが、記者に関しては私もそう思え、「友人を突然ドブに蹴落として大笑いする奴ほど職業適性あるよ」と周りにも言っています。実際に多くの記者は人を躊躇なく裏切るし、同僚ですら騙し討ちし、部下にも平気で暴行するような人間ばかりというか、そういう人間じゃないと心身持ちません。そして何よりも、相手が一番嫌がる内容を暴露することこそが一番の仕事であり、一般市民ならまだしも官僚でありながら記者と信頼関係を構築するなんてアホ以外の何物でもありません。記者からしたらそんな奴いいカモで、利用するだけ利用したら情報リークして消えてもらうだけです。
実際私も教えられましたが、記者と取材相手に友好関係などはなく、緊張感を持った敵同士の対立関係しかありません。記者としてはネタになるニュースをどう引き出すか、取材相手としては自分(自社)にとって有利な情報を如何に発信し、不利な情報を如何に隠すかというやり取りこそが「取材」であり、そこにあるのは相手をどう利用し倒すかという勝負だけです。
もっともこう言いながらも、「協力による見返り」が期待できる相手にはそりゃ記者も便宜図ります。また何でもかんでも暴露すればいいというわけではなく、記事にしても意味ないニュース価値のない、相手にとっては暴露されたくはない情報に関しては聞かなかった振りくらいはします。これを「信頼関係」というなら言うで構いませんが、今回のセクハラ発言の件に関しては報じれば辞任に追い込めるネタなので、「利用しつくしてのポイ」なので余計な同情はいらんでしょう。
さっきちょっと書きそびれましたけど、盗み聞き、盗み見による報道はこの世界では当然です。見られるってんなら携帯だろうが引き出しの中なんてためらいなく盗み見ますし、飲食店で何かしら面白そうな話題を誰か話していたら私だってそ知らぬふりして盗み聞いて、ネタになるなら記事化します。こうした行為からすれば隠し録音なんて、まだ面と向かって話を聞いてるんだからかわいい方じゃないかとすら思います。
そもそも、といったらなんですが、今回のセクハラ発言は政治的内容ではないというのが私にとってはポイントです。政治的内容を含む発言であれば将来の見返りというか一部の人間の言う「信頼関係」が働いてオフレコにと言われたら確かに取り扱い上で打算が動くものの、問題となった発言はそういった類ではなくただのセクハラ発言です。そんな低レベルな発言内容に「信頼のために報じない」なんてのは私の中ではありません。ましてや、これだけのニュース価値を持つのであればなおさらです。
中には今回の報道をハニートラップだという人もいますが、それもだからなんだってところです。特に社会報道で顕著ですが取材では如何に「相手を怒らせるか」が重要で、取材相手を挑発するだけ挑発し、怒らせて殴らせればしめたもので、「記者にも暴行」という見出しが翌日書けます。ハニートラップも同様で、記者だとわかっている相手という見え見えの罠に引っかかる奴の方が馬鹿なだけでしょう。まぁ今回の件はハニートラップ以前でしょうが。
総じていえば、「信頼感」なんていうのは報道の世界、いやむしろ一般社会においてもまやかしでしかありません。基本的には利用価値があるかないかという打算以外なく、それすらも理解できてないというのは「利用される側」だからではないかというのが私の偽らざる心境です。
おまけ、
つい最近に人気声優の日笠陽子氏がラジオの番組で、カレーうどんをホースで食わされたという事実を知ってすごいカルチャーショックを受けました。声優、しかも女性で人気も高いのに、芸人以上に芸人らしいことやっててなんなのこの人と変な感銘を受けました。
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