前回に「アホガール」を取り上げて書いておきながら今日はこの内容を書く当たり、いつもながらその記事のまとまりのなさに自分で驚きます。記事ジャンルのまとまりのなさでいえばこのブログは日本一かもしれません。
さて本題ですが、恐らく「でっちあげ」、「モンスターマザー」などノンフィクション系の本を買いあさっていたことからおすすめに表示されたのだと思いますが、あらすじを読んで興味を持ったことからこの「鬼畜の家」を読むこととしました。内容を簡単に説明すると、実際に幼児を虐待死させた三組の親たちについて、その事件詳細と関係者らに対し取材した内容となっています。正直、書評を書くべきかどうか少し悩んだというか、非常に書きづらい内容です。
この本の中で紹介されている三件の虐待事例を書き出すと以下の通りです。
1、幼児を室内にテープで目張りするなど監禁し餓死させ、7年間にわたり死体を放置した父親
2、生まれたばかりの赤ん坊を出産直後に殺害し、死体を隠蔽というのを2回やった母親
3、うさぎ用ケージの中に幼児を監禁し、衰弱死した子供を山に埋めた父親と母親
どれも本当にあったのかと疑いたくなる内容で事件発覚当時はメディアでも大きく報じられていたそうですが、自分にしては珍しくどの事件も記憶にありませんでした。それだけ幼児虐待死の事件が世の中に溢れているというか、今日も一件報じられていましたけど印象に残らないほど日常的なものになってきているのかもしれません。
さて通常の虐待死関連報道では如何に両親がひどい人間で子供達がかわいそうだったかを軸に報じられることが多いのですが、この「鬼畜の家」ではいい意味で視点がやや異なっているというか、偏見なく事件や虐待をした親を平等に見ており、取材して得た事実を淡々と書き綴っています。その上で作者の石井光太氏は、どの事件の親も子供のことを真剣にかわいがっていた、そして異常なまでに幼稚だったという点が強調されています。
虐待事件というと私もそうでしたが、ややもすると虐待を行った親たちは残虐な性格で、それこそ子供のことを児童手当の金づるみたいにしか考えていない奴らだと思いがちですが、石井氏はそうした点について児童手当はすべて特定人物に巻き上げられていたことなどを根拠に否定し、信じ難いことだが彼らなりに子供を愛そうとしていたということを何度も書いています。では何故かわいがっていた子供を自ら虐待死に至らしめたのかというと、それはひとえに彼らが幼稚な性格だったということが何よりも原因だとして、そのような幼稚な性格に至った背景についても、具体的には親たちの幼児期の家庭環境などを挙げつつ説明しています。
仮に作者が取材した内容が本当に事実だとすれば、私はこうした石井氏の主張を信じます。それだけこの本で取り上げられている取材内容は説得力があり、また石井氏の丹念な取材努力には頭が下がるというか、読んでいて「よくこんな所に取材に行ったな」と思うような描写も書かれてあります。その丹念に行われた取材では虐待を行った親たちの幼少期も辿っており、案の定というか彼らは明らかに一般的な家庭で育ってはおらず、その親たちから常識では考えられない仕打ちを受けながら育ってきたことが書かれてあり、いわゆる虐待を受けた子が長じて虐待をする負の連鎖が存在していることを指摘しています。
個人的に印象に残ったのは、彼ら虐待を行った親たちは確かに幼少期不幸な家庭環境にはあるものの、普通科の高校を卒業したり、勤務先では真面目でA評定を受けたりなどと、知能的には一般レベルにあると書かれてあったことです。特に勤務態度に関しては1番目、2番目の例などはきわめて真面目で職場での評価も高かったことはもとより、2番目の親に至っては秘密裏に出産、殺害をした前日と翌日も朝から晩までファミレスなどのバイトに出勤しているなど、どうしてこんな人がこんなことをと読んでて目を疑いました。
ただ、既に上にも書いている通り知能的にはまともで且つ勤務態度は真面目でありながら、三例とも虐待を行った親は共通して性格が幼稚で、目の前の状況をただ受け入れるだけで現状を変えようとする努力をほとんど見せないどころか、やることなすこと小学生みたいに場当たり的な行動を取ってしまうほど幼稚であることが書かれてあります。一時期アダルトチルドレンという言葉がありましたが字面から判断すればまさにその典型と思うような人ばかりで、言い方は悪いですが何故こんな幼稚な人たちが知的障碍者とはならないのかとすら私は覚えました。
それだけにというか、私はこの本を読んでいろいろと分からなくなってしまいました。かつて私はこのブログで虐待対策としては子殺しの親にはもっと厳罰を科すべきだと主張したものの、今現在に至ってはそれは何の解決にも至らないのでないのかという疑念が強くなっています。言い方を変えると、何が間違っていてこのような虐待死事件が起きたのかがわからず、恐らくこの本で紹介されている親たちは「彼らなり」に子供を愛していたと信じ切っており、罪の意識が全くないように思えるからです。そんな人間に厳罰を科したところで反省など起きると思えず、現在進行で虐待を行っている親の抑止力になるとも思えなくなったわけです。
個人的な推量ですが、恐らく虐待を行って懲役を受けた親が、出所後に再び子供を作って虐待をするという事件が今後起きると思うし、すでに起きているとすら思えます。何故なら子供を愛しているし、虐待について何の呵責もないからです。
結構だらだらと書いてまとまりがない文章で申し訳ないのですが、この本を読んだ感想として私が伝えたいこととしては、虐待への対策とは一体何なのかがこの本を読むと本当に見えなくなるということです。行政の介入とか引き離しとか事後対策手段はまだ確かに存在するものの、事前対策としての虐待を行わないようにする教育なんてのはハナから無理があるのではと、正直思います。それだけに、虐待をしてしまう人が親になってしまったらもうどうにもならないように思えてしまうわけです。
通常、書評記事にはAmazonの広告を貼ってますが、この本に関しては読後はほぼ確実にストレスを受けるので今回はありません。自分も読了後は軽い倦怠感を覚えたほどで、その内容の価値の高さ、面白さについては太鼓判を押しますが、真面目に生半可な気持ちでは読むべきではない本なので手に取ろうとする方はその辺をよく考えた上でお取りください。
6 件のコメント:
少年法
少年法を考えることは、子供と社会の未来を考えることだと思います。
少年法は、人への信頼を土台に据えた法規です。
人は、教育、治療、社会福祉的援助によって変わり、より良い生き方を選択できるという思想が背景にあります。
万人が共感できるどうかは別として、個人的に悲惨な家庭に生まれた子に対して生活保護等の、社会福祉的援助、虫歯やケガ、病気の治療、教育費の援助は社会全体の利益にかなうと思っています。
低成長の今、6人に一人の子供が状態にあります。
より貧しい人の利益を切り取り、平成元年の消費税導入と同時に所得税、相続税の最高税率をどんどん下げて富裕層減、法人税減税、庶民増税の20数年間でした。
暑中お見舞い申し上げます。
毎回楽しく拝読させていただいております。
お元気そうで何よりですm(__)m
さて、
こういう児童虐待の「なぜ?あの人が・・・」について、
今、もっとも理解し易い象徴的な人物といえば、
かの「豊田真由子」国会議員でしょう。
要するに、ああいうことですからね(^^)
まさしく彼女もパターンどおり、
アタマはすこぶる優秀で周囲も羨むほどの才女ながら、
実際の中身は幼稚なオトナそのものでしたからね。
それと、現段階では正確な検証がなされていないため、
仮説の状態ですが以前私が書いたADHDの問題も、
この児童虐待問題の原因として相当にあるように思います。
そのうち、これも原因だったのか!ということで、
論争が始まることになるでしょう。
また、この辺についても現在、
ちょうど書いている最中なので、
無事書き上げられれば、
近々にアップしたいなと思っております。
ではまた。
せっかくのコメントですが、少しこの記事と論点が異なっているように感じます。コメントせずに放置することも考えましたが、なるべく内容に沿った議論を心がけていただけると助かります。
こちらもいつもそちらの記事を拝見させてもらっています。最近は子供にスポーツさせるのも一苦労だなと、なんていうか苦しそうな状況が文面からひしひしと伝わってきています。
ADHDはあまり詳しく勉強したわけじゃないのですが、一般に言われるIQという知能とはまた別に、何か性格面で大きくゆがませる要素なり指標があるのではと確かに今回本を読んで感じました。それこそ性格的に幼稚であるか否か、精神年齢と言ってはなんですがそうしたものが地味に大きな要素ではないかとも考えています。どちらにしろ、なにかしらそういう児童虐待について判断基準が欲しいところです。
三年前の記事ですが、今月わが国で起きた痛ましい虐待事件を受けて、虐待に対する私の考えを述べさせていただきます。
諸悪の根源は、親世代の家庭教育の欠如にある事は間違いないでしょう。
教育には学校による公教育と家庭教育のふたつがあると大学の社会学の講義で聞いた気がするのですが、その一柱である家庭教育が役割を果たせなかった末路が親の指導力不足を引き起こすのだと思われます。
私が思う学校の役割とは、知識と解法を学び、問題を効率よく解く思考訓練の場だと考えており、対する家庭の役割とは、まず炊事洗濯など人間の生存と繁殖を支える場であり、そして教育上の役割においては、繁殖に関わる知識と模範的行動を学ぶ場だと考えております。親が子を生存させ、おしゃれをさせ(性的魅力を上昇させる)、時に叱る(子の社会的に相応しくない行動を矯正させる)のも究極的には次世代の繁殖を助けるためだと言えます。何よりこうした親の行動は、子にとって親の演じ方を学ぶ機会になるので、次世代の家庭教育に直接影響されます。
虐待を防ぐ有効な策はあるのでしょうか。公教育が家庭教育を一部負担し、家庭科の時間を増やして「虐待を行わないようにする教育」を学ぶカリキュラムを設けるのはどうでしょうか。
三年前の花園さんと同感で、このような教育はわが国における公教育制度の疲弊ぶりを鑑みれば、現実的でないように思われます。それにあくまで公教育の専門家である(とされている)教員に
家庭教育の一端を担わすのは無理があると考えられます。
親権を免許制にするのは根本的な解決策に思えます。しかし、誰もが正しい運転の仕方を知っているにも関わらず、交通事故の件数の多くは常習犯であるのは、一瞬の判断が下される過程が一個人の資質に依存しているからでしょう。
正しい知識を授けたからといって判断が上手に出来るようになるとは限りません。それは教育が失敗しているのではなく、教育の限界だと私は考えています。
そうなってくると、真に根本的な解決策とは、家庭を破壊する事なのかなーと思います。
狭義のスパルタ式教育を復古させ、親権は子の出生と同時に行政が受持ち、公務員が保護者になるのでしか、公正な教育というものは保障されないと考えます。
当然公務員が不適切な指導を行う事は想定されますが、指導の失敗は行政の責に帰するので、親(私人)が犯罪者にならずに済みます。
そして今までは「ウチの問題」とされていた教育格差が是正されるのです!
ここまで書いておいてなんですが、こういうマルクス主義的(死語)ドクトリンは不幸の平等化に過ぎない気がします。
丹念なコメント、ありがとうございます。
改めて自分もこの記事を読み返しましたが、3年前の自分もなかなかいいこと書いてるじゃんとか思うのと同時に、改めて解決策を作るのは難しい問題だと感じました。知っての通りでしょうがつい先日も子供を監禁したうえで旅行に出かけた母親が逮捕される事件があり、育児が不可能と思う親に子供の親権をすぐ手放せる制度を作るべきという主張が見えましたが、これも私は機能するかと言ったら疑問を感じました。
単純に虐待を根絶するやり方ならば川戸さんの言う通りにスパルタ式教育で、生まれて一定年齢に達した時点で親と子を引き離し、集団生活で教育するという手段が一番でしょうが、実際にやったらマルクス主義を標榜する中国も、「日本やべぇ(;゚Д゚)」とか思ってくるでしょう。
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