わかりやすい話として、チンギスハンのモンゴル帝国は広大な領土を支配しながらその後継国(キプチュク・ハン国など)どれもその支配を維持できなかった理由について、モンゴル人は土着の信仰をもってはいたものの文字文化がなく体系化されておらず、それぞれの支配地域でキリスト教やらイスラム教を取り込まざるを得ず、結果的に分裂、崩壊していったと解説されています。
それに対しイスラム帝国は税金さえ払えばキリスト教やユダヤ教などの信仰をそのまま維持することを認めつつも、イスラム教に改宗することによって税金が免除されるなど携帯電話の契約のようなお得なプランをたくさん用意して領土内でイスラム教徒への改修者を増やしてったそうです。なおかつ教えが体系化されていて国内統治の手段として使われた結果、現在のトルコのもとになったオスマン帝国も数百年という長寿命国家になったと説明されており、自分も同感します。
そのイスラム教について島田氏は、「聖と俗が区別されていない宗教」と述べており、なかなか興味深い説明でした。これはどういう意味かというと、仏教やキリスト教では出家者は世俗と切り離された生活をし、浄土真宗やプロテスタントのように例外はありますが、妻帯を禁止するなど俗世間とは隔絶された生活を営むことになります。
それに対しイスラム教は創立者のムハンマド自体が商人であり、俗世の人間であったことから、教えを布教する聖職者という区分がそもそもないそうです。もちろん、イスラム法学者のようにイスラム教内でで権威を持ち尊敬の対象となる指導者こそいるものの、仏教やキリスト教のように先任者が講やミサを主宰するのではなく、あくまで教徒の代表がモスクなどの礼拝をはじめとする一連の儀式を主導しており、「俗世と断った聖職者がいない」という、言われてみればそうだけど言われてみるまで意識していなかった点についてこの本でも詳しく解説されています。
そのうえでこうした聖職者が明確に区分されていないことから、イスラム教は聖と俗の区別自体が非常にあいまいで、生活そのものが宗教信仰になっていると島田氏は指摘しています。仏教やキリスト教では信仰を行うにあたりある種特別な聖職者の話を聞いたり、寺院や教会といった特殊な施設に赴いたりするなど、宗派によって差はありますが一定の神秘主義的行為を行うことが多いですが、イスラム教もないわけではないものの、どちらかというとラマダンや豚肉禁止をはじめ、生活習慣を規定することそのものを信仰としていると説明されており、これも言われてみればまさにその通りです。
そのため、イスラム教では生活そのものが信仰活動となり、いったん根付いてしまえばそれそのままライフスタイルとなるため、イスラム教は定着したら別の宗教へ改宗する人が少ないと説明されていました。これが自分の中で深く納得したというか、現代のインドをはじめイスラム教が広められた地域において先祖返り的に仏教やヒンズー教が復活しないのは、こうした生活に根差した信仰活動こそがイスラム教の根幹だということになかなか感じ入りました。
逆に仏教、特に日本の密教は神秘主義的傾向が強いので、鞍替えが起こりやすそうとも感じます。
オチらしいオチはないですが、イスラム教が信者を増やし続けるという背景に関しては信仰が広まっているというより、一度教えを受けた人間はライフスタイルレベルにまで信仰が入ってくるため信仰を変えず、信者が増えるというより減らないという特徴にこそその背景があるのではないかと思えます。教えが魅力的だとか現代にあっているとかではなく、底堅さこそがイスラム教の強みなのかもしれません。
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