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2025年11月18日火曜日

ブルネイと木村強

 つい最近Youtubeの動画で、東南アジアのブルネイでとある日本人がその発展に大きく貢献していたという話を知りました。その人物の名は見出しに挙げてるように木村強という人で、二次大戦の最中、英国の植民地だったブルネイを日本が占領した際に知事として派遣されてきた人でした。

 木村は現地に着くとブルネイ国王に通訳兼秘書として現地人を一人つけてもらうと、自ら精力的に動いてブルネイを観察したそうです。観察を終えた木村は、ブルネイにはゴムなどの多くの天然資源がありこれらを現地で採集、加工することによって大きな利益が得られると見込み、さっそく現地で工場を作りました。工場で作った製品は木村の予想通りに輸出競争力を持ち外貨が得られるようになったのですが、木村はこの外貨を惜しみなく工場従業員に給料として分け与え、それまで英国に酷使されるだけだった現地民からは驚きとともに受け止められたそうです。

 また木村は指定された物資を最低量で日本に送り、残りの物資はそのまま輸出して利益を得ると、その利益をブルネイ国内の道路をはじめとするインフラへと使いました。また王室とは距離があり関係が険悪だった少数民族の居住地にも自ら赴いて開発への協力を訴えたりもしていました。当初は相手にされなかったものの、彼らの居住地近くにもインフラを整備していったことから信頼を得て、最終的には協力を勝ち取ることに成功しています。

 このような活動でブルネイ国民から大きな支持を得た木村でしたが、物資を最低限しか日本に送らず、ブルネイ国内の開発を優先する態度が本国に嫌われ、その在任期間はわずか1年で本国引き戻されることとなりました。木村本人もブルネイでて手がけた事業は印象深く、戦後も折に触れて思い出していたそうですが、ある日ブルネイで勤務していた日本の商社員がブルネイ国王から木村を招待したいという伝言を持ってきました。
 この招待を受けて木村が20数年ぶりにブルネイを訪れたところ、出迎えたブルネイ国王はなんとかつて自分の通訳兼秘書をしていた人物で、そばで見ていた木村のやり方を手本に国内の開発に取り組んできたなどと話してその再会を喜び合ったそうです。ちなみに現国王はこの時木村と再会した国王のお子さんだそうです。

 私は以上の話を知った時、まず思ったのは「ブルネイにも今村均はいたのか……」という感想でした。今村均については何度もこのブログで触れていますが、水木しげると並んで自分が最も尊敬する人物であり、彼もまた占領地のインドネシアで日本本国の要求を突っぱねながら現地に仁政を敷いて高い支持を得るとともに、その後のインドネシアの独立に大きく貢献したと言われる人物です。彼自身、本国の物資上納要求を突っぱねる際に「現地を無視することは大東亜共栄圏の方針に背く」などと主張したとされています。

 この大東亜共栄圏のヴィジョンですが、言うまでもなく日本がアジア方面に戦線を拡大するための方便にしか過ぎず、提唱した軍本部はもとより日本国民も誰もが植民地解放など本気で実行に移すつもりはないものだったでしょう。ただ今村均にしろ今回取り上げた木村強にしろ、本気であの理想をやろうと思って実際に実行し、しかも成果を上げていた人物がいたということには驚きを感じるとともに、きちんとやっていたら本当に素晴らしい理想だったんだなという気持ちにさせられました。

 私はかつて、米国のヒーローと比べて日本のヒーローは理想を持たず、日常を守ることを最優先に戦うと指摘しました。ヒーローに限らず、日本人は概して理想というかヴィジョンを持つ人がおらず、それこそ1960年頃に池田隼人が提唱した経済優先の理想像に未だにしがみついている感すらあります。
 何でもかんでも理想を持てばいいものではないですが、目指すべき価値観や状況をもっと視野に入れ、それに向かって努力する姿勢こそがずっと日本にかけているものじゃないかと木村強の話を見ていて思います。

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