前回の投稿では社会保障について、やや単純に問題を追っていきました。この、「単純」という言葉ですが、どちらかというと悪い意味で使われることの方が多いと思います。かといって「複雑」という言葉も、どちらかというとマイナスな意味が付与されているような気がします。
まぁ言ってしまえば両者は両者で如何に使い分けるかが重要ではあるのですが、政治の世界だとやはり複雑な言い回しの方がいいとされています。ですが小泉元首相のように、単純な言い回しをする政治家の方が人気は集まりやすいものです。
いきなり結論ですが、私は基本的に物事は単純であれば越したことはない、単純であるほうが優勢だと考えています。というのも論文においても、複雑な論理であればある程その主張が発揮される場所が限定されるのに比べて、単純で簡潔な論文ほど応用範囲が広いことになります。かの有名な遺伝の法則をメンデルが科学アカデミーに報告した際、その紙量はほんの一、二枚だったといいます。実際に遺伝の法則は実に単純で、理解して見ればわかりやすい。それだけに法則は偉大だともいわれています。
そして物事を行う際に計画を作るにしても、私なんかは結構手抜きしやすい性格なのもありますが、大まかな目標を作った上で始めてしまう事が多いです。というのも、理想の計画通りに現実がうまく行くことなんて百に一つもないと思っており、それよりその大きな目標に対して過程をどうやりくりするかに対して重要視しています。もっとも、まるきり計画性がないのはやっぱり問題ですが。
政治の世界についても、私は同様の見識を持っています。かの日露戦争の勝利の立役者の児玉源太郎氏も、軍人としての経歴ばかりが注目されていますが戦後は議員にもなっており、本人は自分は政治家だと自認していたようですが、この人が言うに、
「政治というのは大鉈を振るうように行わねばならない。細々と対処していては何も問題は解決しない」
と述べています。私もこの言葉に同感します。細かな軸はともかく、大きな観点で問題を見据えることがよい政治家の条件ではないかと考えています。言うなれば、物事を単純化して見る力があるかどうかです。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年3月13日木曜日
社会保障支出の今後の展望
今年はとうとう2008年。私が中国に行ったのは2005年のことで、後3年後にここでオリンピックがあるんだなと思っていたら、とうとうその年になってしまいました。時間経つのが早いような。
そんな2008年ですが、もう一つの意味合いで象徴的な年になりそうです。その意味と言うのも、最後の団塊世代退職年という意味です。
団塊の世代の具体的な意味はここでは説明しませんが、その対象年とされているのは1946~48年の3年間に生まれた世代の事を指します。すでにこれまでの間に、こういった世代が一挙に定年を向かえることから新卒の就職状況は活発だなどといわれていますが、その最後の1948年生まれが定年に達するのが、今年ということになります。
ここでもう一つのある概念と比べてみましょう。近年、年金不安とともに社会保障についての議論がかまびすしく行われています。国会の予算案についても、まぁ今年はガソリン税があるのであまり相手にされませんが、社会保障費と医療費をどうするかということが毎年の議論の的となっています。
この社会保障、言うなれば老後の年金支出ですが、先ほどの団塊の世代を考慮に入れるとすれば、恐らく支出のひとまずのピークがくるのは今年から5年後、最後の団塊世代が年金受給資格を得る65歳になる年である2013年にくるということが予想されます。というのも、すでに日本の人口は漸減しており、これ以降は若年層も減っていくのですが同様に新たに老年層となる人口も減っていくので、収入面はともかくとして年金としての支出は恐らく5年、もしくは6年後くらいがピークを向かえるかと私は考えています。
そしてそのピークを向かえた後はどうなるか。これまた単純な計算をすると、今の日本人の平均寿命は大体80歳くらいですから、そのまま80引く65をして15、つまりそれから15年後でひとまずの支出が極大化する過渡期が終わると考えられます。実際に西暦に直すと、それは2028年、つまり今から20年後です。
またまた単純な結論に持ってくるとすれば、年金支出が膨大化するのは今から5年後、そしてそれが収まるのが今から20年後ということです。これを言い直すのならば、間の15年間が日本の財政を考える上で一つの過渡期となるという事です。この過渡期を乗り切ってしまえさえすれば、ここまで単純ではないにしろ、日本の少子高齢化問題のうちの高齢化問題はある程度片がつくと思います。
そこで政策的にはどうするべきかというと、恒久的な年金、社会保障案はこの際考えない方がいいと思います。言ってしまえばこのいびつな年代に合わせて社会保障体制を作ってしまうと、その後は人口比などの面から必ず歪みが生じてきます。それならばいっそ、時限立法的にこの15年間をどう乗り切る、どう予算を集めるかというような方法を考える方がずっと建設的だと思います。それこそ、この15年間限定で今話題のガソリン税のような特定財源、特別税を作るのも一つの手でしょう。
と、問題を単純化して社会保障に対する政策案をまとめて見ました。なかなかいい出来でしょ。
そんな2008年ですが、もう一つの意味合いで象徴的な年になりそうです。その意味と言うのも、最後の団塊世代退職年という意味です。
団塊の世代の具体的な意味はここでは説明しませんが、その対象年とされているのは1946~48年の3年間に生まれた世代の事を指します。すでにこれまでの間に、こういった世代が一挙に定年を向かえることから新卒の就職状況は活発だなどといわれていますが、その最後の1948年生まれが定年に達するのが、今年ということになります。
ここでもう一つのある概念と比べてみましょう。近年、年金不安とともに社会保障についての議論がかまびすしく行われています。国会の予算案についても、まぁ今年はガソリン税があるのであまり相手にされませんが、社会保障費と医療費をどうするかということが毎年の議論の的となっています。
この社会保障、言うなれば老後の年金支出ですが、先ほどの団塊の世代を考慮に入れるとすれば、恐らく支出のひとまずのピークがくるのは今年から5年後、最後の団塊世代が年金受給資格を得る65歳になる年である2013年にくるということが予想されます。というのも、すでに日本の人口は漸減しており、これ以降は若年層も減っていくのですが同様に新たに老年層となる人口も減っていくので、収入面はともかくとして年金としての支出は恐らく5年、もしくは6年後くらいがピークを向かえるかと私は考えています。
そしてそのピークを向かえた後はどうなるか。これまた単純な計算をすると、今の日本人の平均寿命は大体80歳くらいですから、そのまま80引く65をして15、つまりそれから15年後でひとまずの支出が極大化する過渡期が終わると考えられます。実際に西暦に直すと、それは2028年、つまり今から20年後です。
またまた単純な結論に持ってくるとすれば、年金支出が膨大化するのは今から5年後、そしてそれが収まるのが今から20年後ということです。これを言い直すのならば、間の15年間が日本の財政を考える上で一つの過渡期となるという事です。この過渡期を乗り切ってしまえさえすれば、ここまで単純ではないにしろ、日本の少子高齢化問題のうちの高齢化問題はある程度片がつくと思います。
そこで政策的にはどうするべきかというと、恒久的な年金、社会保障案はこの際考えない方がいいと思います。言ってしまえばこのいびつな年代に合わせて社会保障体制を作ってしまうと、その後は人口比などの面から必ず歪みが生じてきます。それならばいっそ、時限立法的にこの15年間をどう乗り切る、どう予算を集めるかというような方法を考える方がずっと建設的だと思います。それこそ、この15年間限定で今話題のガソリン税のような特定財源、特別税を作るのも一つの手でしょう。
と、問題を単純化して社会保障に対する政策案をまとめて見ました。なかなかいい出来でしょ。
2008年3月12日水曜日
地球温暖化は本当なのか?
本当は中部大学の武田邦彦氏の本を読んでからこの記事を書こうと思っていたんですが、どこの本屋に行ってもなかなか見つからないもんなので、しょうがないからもう記事を書くことにします(´Д`)ハァ
この武田邦彦氏は関西に在住の方の方が知っている方も多いと思います。というのも、向こうの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組にてゲストとして登場し、そのキャラクターぶりとあいまって、環境問題に対する彼独自の主張が非常に大きく取り上げられました。
彼の主張を簡潔に言うと、まず現在環境問題がらみで言われていることはすべて嘘らしいです。何故そんな嘘がまかり通るのかと言うと、単純に言って先進国が新興国の急成長を阻むためやら、新たなビジネスチャンスにしようとしているからで、さらにはアル・ゴア氏の映画「不都合な真実」の最も不都合なのは、映画の内容のほとんどが真っ赤な嘘だということだそうです。
この武田氏の主張には多かれ少なかれ私も同感する気持ちがあります。まず私が小学生の頃から、石油やレアメタルは後10年もすれば枯渇すると言われ続けてきました。ニカド電池を作るカドミウムはたしか95年くらいでなくなると言われていましたが、知ってます、ニカド電池は携帯用の充電池なんだって。
こんな感じで危機感を煽るだけ煽っといて現実がまるで変化しなければそれは疑問に思います。それにこのまま温暖化が進むと世界中で大変になるといいますが、それ以上に人口が増えることの方が大変だと思うのに、そっちの方は完全にスルーです。
そして環境問題の本丸ともいうべき地球の平均気温の上昇ですが、これは以前からその科学的裏付けには乏しいといわれていました。冷静に考えて見ると、同条件で普通の空気だけを充填した空間と、二酸化炭素を普通の空気以上に濃くした空間にてそれぞれの気温の上昇率を測ってみればそれなりに説得力のある温暖化の検証が取れそうな気がするのですが、私は未だかつてこのような実験を見たことがありません。
そんなことを言うと、二酸化炭素を排出する車がビュンビュン走る道路近くの方が暑い気がするとか言われそうですが、それはむしろコンクリートの照り返しとか、ガソリン燃やした車の排熱とかの原因のが強いのであまり当てになりません。
ほかにも、このところの夏は最高気温が記録を塗り替えているという意見もありますが、知ってましたか、ここ数年で気温観測所とかが結構移動しているのを。確か名古屋は観測所を動かしたらその年から記録更新のオンパレードになったそうです。また都市部では、先ほどの車や温まった空気が抜けないヒートアイランド現象の方が実際には強い気がします。
もうこれだけでも十分怪しいのですが、私がこの地球温暖化説を否定する際に最も使う根拠というのが、大塩平八郎の乱です。この乱の当時は1837年ですが、当時の記録によるとこの乱の当時、大坂を流れる川は凍結していたらしいです。もちろん今の大阪では過去十数年位で冬に川が凍結した例など一例もありません。川が凍結するということは日中の気温でも零下を大体下回らなければならず、恐らく現在の北京くらい(向こうでも冬は川が凍結する)の気候だったことが予想されます。
たかだか170年くらい前と現在で、これほどまでに気候の違いがあるのです。それほどまでに地球規模の気温変動というのは大きな物で、ここ十数年くらいの変化など、どうと言うことはない。人為的な力でそこまで変化は及ぼせない、地球温暖化というのはほとんどが嘘だというのが私の持論です。
追伸
確か先週の朝日新聞の一面だったと思いますが、地方自治体で環境保全に従事しているというお墨付きであるヨーロッパの「ISO14001」をかつて取得したものの、次は更新しないという自治体が現れてきたそうです。その理由と言うのも、更新に際して非常にお金が掛かる(数百万単位)ことからだそうです。
私自身、この「ISO14001」を取ること自体は決して悪くはないとは思うのですが、取得や更新に金が掛かること、取得したからといって環境保全に対して直接投資するわけでないことを考えると、この手の動きをむしろ歓迎します。しかし頭の固い連中や企業は物がわからないようで、噂によると松下、今度からはパナソニックですが、ここはこの「ISO14001」がなければ取引相手として選ばないとして、中小企業をいじめているとのことです。こんなものに金をかけるくらいなら、植林や間伐に使った方がずっといいのにね。
この武田邦彦氏は関西に在住の方の方が知っている方も多いと思います。というのも、向こうの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組にてゲストとして登場し、そのキャラクターぶりとあいまって、環境問題に対する彼独自の主張が非常に大きく取り上げられました。
彼の主張を簡潔に言うと、まず現在環境問題がらみで言われていることはすべて嘘らしいです。何故そんな嘘がまかり通るのかと言うと、単純に言って先進国が新興国の急成長を阻むためやら、新たなビジネスチャンスにしようとしているからで、さらにはアル・ゴア氏の映画「不都合な真実」の最も不都合なのは、映画の内容のほとんどが真っ赤な嘘だということだそうです。
この武田氏の主張には多かれ少なかれ私も同感する気持ちがあります。まず私が小学生の頃から、石油やレアメタルは後10年もすれば枯渇すると言われ続けてきました。ニカド電池を作るカドミウムはたしか95年くらいでなくなると言われていましたが、知ってます、ニカド電池は携帯用の充電池なんだって。
こんな感じで危機感を煽るだけ煽っといて現実がまるで変化しなければそれは疑問に思います。それにこのまま温暖化が進むと世界中で大変になるといいますが、それ以上に人口が増えることの方が大変だと思うのに、そっちの方は完全にスルーです。
そして環境問題の本丸ともいうべき地球の平均気温の上昇ですが、これは以前からその科学的裏付けには乏しいといわれていました。冷静に考えて見ると、同条件で普通の空気だけを充填した空間と、二酸化炭素を普通の空気以上に濃くした空間にてそれぞれの気温の上昇率を測ってみればそれなりに説得力のある温暖化の検証が取れそうな気がするのですが、私は未だかつてこのような実験を見たことがありません。
そんなことを言うと、二酸化炭素を排出する車がビュンビュン走る道路近くの方が暑い気がするとか言われそうですが、それはむしろコンクリートの照り返しとか、ガソリン燃やした車の排熱とかの原因のが強いのであまり当てになりません。
ほかにも、このところの夏は最高気温が記録を塗り替えているという意見もありますが、知ってましたか、ここ数年で気温観測所とかが結構移動しているのを。確か名古屋は観測所を動かしたらその年から記録更新のオンパレードになったそうです。また都市部では、先ほどの車や温まった空気が抜けないヒートアイランド現象の方が実際には強い気がします。
もうこれだけでも十分怪しいのですが、私がこの地球温暖化説を否定する際に最も使う根拠というのが、大塩平八郎の乱です。この乱の当時は1837年ですが、当時の記録によるとこの乱の当時、大坂を流れる川は凍結していたらしいです。もちろん今の大阪では過去十数年位で冬に川が凍結した例など一例もありません。川が凍結するということは日中の気温でも零下を大体下回らなければならず、恐らく現在の北京くらい(向こうでも冬は川が凍結する)の気候だったことが予想されます。
たかだか170年くらい前と現在で、これほどまでに気候の違いがあるのです。それほどまでに地球規模の気温変動というのは大きな物で、ここ十数年くらいの変化など、どうと言うことはない。人為的な力でそこまで変化は及ぼせない、地球温暖化というのはほとんどが嘘だというのが私の持論です。
追伸
確か先週の朝日新聞の一面だったと思いますが、地方自治体で環境保全に従事しているというお墨付きであるヨーロッパの「ISO14001」をかつて取得したものの、次は更新しないという自治体が現れてきたそうです。その理由と言うのも、更新に際して非常にお金が掛かる(数百万単位)ことからだそうです。
私自身、この「ISO14001」を取ること自体は決して悪くはないとは思うのですが、取得や更新に金が掛かること、取得したからといって環境保全に対して直接投資するわけでないことを考えると、この手の動きをむしろ歓迎します。しかし頭の固い連中や企業は物がわからないようで、噂によると松下、今度からはパナソニックですが、ここはこの「ISO14001」がなければ取引相手として選ばないとして、中小企業をいじめているとのことです。こんなものに金をかけるくらいなら、植林や間伐に使った方がずっといいのにね。
インテリジェンス交渉術の紹介
まるで佐藤優のファンサイトかのように彼を扱うことの多いこのブログですが、おとといの三月十日はいわずと知れた文芸春秋の発売日で、私もその日に買ってのんびり読んで、今日読み終わりました。その文芸春秋誌上にて、佐藤優氏によるビジネスマン向け処世術「インテリジェンス交渉術」が現在連載中です。
内容はビジネスマン向けに、外交交渉などで使われるテクニックや組織のあり方を紹介、説明するもので毎号楽しく私も読んでいますが、今日はその中でも以前に書かれたものをすこし紹介しようと思います。
載っていたのは確か去年の秋頃だったと思います。扱ったテーマは2001年に起こった、松尾克俊氏による外務省内の外交機密費流用事件でした。
この事件を説明する前にまず、佐藤優氏の外交機密費に対する考え方を私が捉えた範囲で説明します。まず佐藤氏は外交交渉において金という物はとにもかくにも掛かるものだと言っています。それこそ権力のある政治家に近づくためやらあれこれの下準備などで、表に出せない出費というものはやはり存在するようです。そして交渉がうまく進めばそれらの費用は効果的に評価されるのですが、逆にうまくいかなかった場合は無駄金となってしまいます。その失敗に終わった際、無駄な支出だったとしていちいち外務省員が非難されてしまえば、こうした交渉にリスクを負って取り組む人間はいなくなるとして、こうした予算が組まれる必要性はあると、確か主張していたと思います。
ですが領収書の要らない予算ということで、その松尾克俊氏の事件のように実際の外交案件とは全く関係ない、マンションやら競走馬に途方もないお金を使われてしまったという事件が起こりました。実はこの事件を起こした松尾氏自体に佐藤氏も接触していました。
佐藤氏がかつてある仕事をしていた際、松尾氏が佐藤氏の仕事振りを見てこの外交機密費から金一封を持たそうとしたそうです。それに対して佐藤氏は、
「いや、自分は別にお金に困っているわけじゃないので、それは受け取れない」
「気にしないでいい。第一、君は仕事がらみで自腹を切ることが多過ぎる。これくらいは受け取って当然だ」
として、無理やりねじ込まされたらしいです。
この佐藤氏の自腹を切る話ですが、この人はどうにも欲のない人らしく、本来外務省に請求すべき支出などに対しても大抵自分の金で払ってしまうことが多かったそうです。彼を接見した検事も、
「君を見ていて反面教師にしようと思う。あまりにも仕事熱心すぎる」
とも言わせています。
その後、流用疑惑でこの松尾氏が捕まった後、松尾氏を昔から知る人と佐藤氏が話をしたそうです(ちょっと記憶があいまいだなぁ)。その人によると、この松尾氏も昔は非常に仕事熱心な人だったらしく、仕事での支出を自分で負担することも珍しくなかったようです。佐藤氏の分析によると、松尾氏は外務省という組織のために自分はこれまで散々お金を使ってきたのだから、逆に組織の金を少しくらい使ってもいいと考えるようになったのではないかと推量しています。
こうして話をまとめた上で佐藤氏は、自分もそのように国益にかなうことを理由として組織のために自己のお金を使ってきたことを反省し、ビジネスマン一同に向けて組織と自分のお金を分けろ、つまり公私をはっきり分けろと主張していました。さもなければ組織と自分の境目がはっきりしなくなり、結果的に双方にいい結果を残さないと断言しています。
この回の内容が最も面白かったので覚えていましたが、それ以外にも毎号面白いことが書かれているので、興味を持った方はぜひ自分の手で読んで見ることをおすすめします。
内容はビジネスマン向けに、外交交渉などで使われるテクニックや組織のあり方を紹介、説明するもので毎号楽しく私も読んでいますが、今日はその中でも以前に書かれたものをすこし紹介しようと思います。
載っていたのは確か去年の秋頃だったと思います。扱ったテーマは2001年に起こった、松尾克俊氏による外務省内の外交機密費流用事件でした。
この事件を説明する前にまず、佐藤優氏の外交機密費に対する考え方を私が捉えた範囲で説明します。まず佐藤氏は外交交渉において金という物はとにもかくにも掛かるものだと言っています。それこそ権力のある政治家に近づくためやらあれこれの下準備などで、表に出せない出費というものはやはり存在するようです。そして交渉がうまく進めばそれらの費用は効果的に評価されるのですが、逆にうまくいかなかった場合は無駄金となってしまいます。その失敗に終わった際、無駄な支出だったとしていちいち外務省員が非難されてしまえば、こうした交渉にリスクを負って取り組む人間はいなくなるとして、こうした予算が組まれる必要性はあると、確か主張していたと思います。
ですが領収書の要らない予算ということで、その松尾克俊氏の事件のように実際の外交案件とは全く関係ない、マンションやら競走馬に途方もないお金を使われてしまったという事件が起こりました。実はこの事件を起こした松尾氏自体に佐藤氏も接触していました。
佐藤氏がかつてある仕事をしていた際、松尾氏が佐藤氏の仕事振りを見てこの外交機密費から金一封を持たそうとしたそうです。それに対して佐藤氏は、
「いや、自分は別にお金に困っているわけじゃないので、それは受け取れない」
「気にしないでいい。第一、君は仕事がらみで自腹を切ることが多過ぎる。これくらいは受け取って当然だ」
として、無理やりねじ込まされたらしいです。
この佐藤氏の自腹を切る話ですが、この人はどうにも欲のない人らしく、本来外務省に請求すべき支出などに対しても大抵自分の金で払ってしまうことが多かったそうです。彼を接見した検事も、
「君を見ていて反面教師にしようと思う。あまりにも仕事熱心すぎる」
とも言わせています。
その後、流用疑惑でこの松尾氏が捕まった後、松尾氏を昔から知る人と佐藤氏が話をしたそうです(ちょっと記憶があいまいだなぁ)。その人によると、この松尾氏も昔は非常に仕事熱心な人だったらしく、仕事での支出を自分で負担することも珍しくなかったようです。佐藤氏の分析によると、松尾氏は外務省という組織のために自分はこれまで散々お金を使ってきたのだから、逆に組織の金を少しくらい使ってもいいと考えるようになったのではないかと推量しています。
こうして話をまとめた上で佐藤氏は、自分もそのように国益にかなうことを理由として組織のために自己のお金を使ってきたことを反省し、ビジネスマン一同に向けて組織と自分のお金を分けろ、つまり公私をはっきり分けろと主張していました。さもなければ組織と自分の境目がはっきりしなくなり、結果的に双方にいい結果を残さないと断言しています。
この回の内容が最も面白かったので覚えていましたが、それ以外にも毎号面白いことが書かれているので、興味を持った方はぜひ自分の手で読んで見ることをおすすめします。
三月国会について
昨日フジテレビ系列にて確認した情報ですが、自民党内で小泉、古賀、武部などと実力者がまた料亭にて会い、なんでも今年中の解散は見送るということを決意し合ったそうです。確かにこの状況下で解散なんて不利になることこの上もないので、賢明な判断と言えます。民主党も、どうも自民党を攻めきれないという、決め手にかけることから恐らくそのようになるでしょう。なにかしらまた、大きなスキャンダルでも出ない限りは。
2008年3月11日火曜日
続アニメ、漫画のブームについて
前回では日本のアニメ、漫画ブームの世界への広がり方について説明し、その上でこの文化を正当な文化、つまりメインカルチャーとしてみることに反対する主張を行いました。今日はその辺の理由を説明します。
まず、前回にも書いたようにメインカルチャーとなると避けては通れないのが表現の規制です。メインカルチャーの役割はというと公での生き方、考え方を提示、作ることで、どちらかというと高尚な文化を担当することになります。そのために反社会的な表現などはもってのほかですし、実際によくない影響を与えてしまいかねません。
それに対してサブカルチャーの役割というのは、メインで拾えない部分を拾ったり、もしくはその反面教師的なドロドロとした影の部分をグロテスクに描くことが主眼となってきます。また、そうした表現を持って、いわゆる社会の不満などの捌け口ともするのが主たる役割だと考えています。
そこで現況を見ましょう。現在の日本では小説類はすでにメインカルチャーの部類に入ってきていると思います。確かにまだまだサブカルチャー的な小説、言うなればジュニア向け小説やハードボイルド小説などはありますが、それでも公で堂々と読んだりできます。これに対して漫画、そしてアニメはまだ合コンとかで、「漫画を読むのが大好きです」というとドン引きされるほどで、サブカルチャー的な色彩が強いような気がします。
ところがサブに属すにもかかわらず、このところ子供への暴力的影響などから表現の規制が強まってきています。一例を出すと先週のジャンプに載った「銀魂」という漫画でタバコを吸っているキャラが漫画の中で、アニメ版の自分の喫煙シーンについて、「アニメ版だと煙が描かれず、俺はチョコでもくわえているのか」と、セルフパロディをかましていました。このように反社会的なシーンなどの規制がこのところ非常に強くなってきています。
一社会学士の目から見ると、反社会的な風潮が強まるのは確かによくはないのですが、そのはけ口とも言うべき場所を残すということは社会の安定にとって非常に重要だと考えています。しかし最近では、反権力の象徴でもあったロックミュージックも売れることが主眼になってきていると昔かたぎのロック親父がテレビで嘆いていましたが、私はそのはけ口とも言うべき役割をこれからも漫画やアニメに担っていってもらいたいと考えています。
そのために、私は漫画やアニメを人目に隠れて読むべきだと思います。公に出てしまうと表現の規制からは逃れられなくなり、その価値は半減化してしまいます。あくまでサブカルチャーのままで、この文化は発展させていくべきではないでしょうか。
まず、前回にも書いたようにメインカルチャーとなると避けては通れないのが表現の規制です。メインカルチャーの役割はというと公での生き方、考え方を提示、作ることで、どちらかというと高尚な文化を担当することになります。そのために反社会的な表現などはもってのほかですし、実際によくない影響を与えてしまいかねません。
それに対してサブカルチャーの役割というのは、メインで拾えない部分を拾ったり、もしくはその反面教師的なドロドロとした影の部分をグロテスクに描くことが主眼となってきます。また、そうした表現を持って、いわゆる社会の不満などの捌け口ともするのが主たる役割だと考えています。
そこで現況を見ましょう。現在の日本では小説類はすでにメインカルチャーの部類に入ってきていると思います。確かにまだまだサブカルチャー的な小説、言うなればジュニア向け小説やハードボイルド小説などはありますが、それでも公で堂々と読んだりできます。これに対して漫画、そしてアニメはまだ合コンとかで、「漫画を読むのが大好きです」というとドン引きされるほどで、サブカルチャー的な色彩が強いような気がします。
ところがサブに属すにもかかわらず、このところ子供への暴力的影響などから表現の規制が強まってきています。一例を出すと先週のジャンプに載った「銀魂」という漫画でタバコを吸っているキャラが漫画の中で、アニメ版の自分の喫煙シーンについて、「アニメ版だと煙が描かれず、俺はチョコでもくわえているのか」と、セルフパロディをかましていました。このように反社会的なシーンなどの規制がこのところ非常に強くなってきています。
一社会学士の目から見ると、反社会的な風潮が強まるのは確かによくはないのですが、そのはけ口とも言うべき場所を残すということは社会の安定にとって非常に重要だと考えています。しかし最近では、反権力の象徴でもあったロックミュージックも売れることが主眼になってきていると昔かたぎのロック親父がテレビで嘆いていましたが、私はそのはけ口とも言うべき役割をこれからも漫画やアニメに担っていってもらいたいと考えています。
そのために、私は漫画やアニメを人目に隠れて読むべきだと思います。公に出てしまうと表現の規制からは逃れられなくなり、その価値は半減化してしまいます。あくまでサブカルチャーのままで、この文化は発展させていくべきではないでしょうか。
2008年3月10日月曜日
アニメ、漫画のブームについて
近年、日本のアニメや漫画が世界中でブームを起こしています。実際に私も留学先で各国の人間らと詳しく話をしましたが、なかなか普通の日本人も手を出さないような細かな作品などにも触れており、その噂には間違いはないようです。
この、日本のアニメブームについて私が初めて情報に触れたのは確か、94年か95年位に、今もやっている「世界まるみえテレビ」にて、アメリカにて日本のヒーロー戦隊の特撮番組(現地ではパワーレンジャー)やアニメの「マッハGOGO」が受けているというニュースでしたが、その後も順調に人気は続いていったようですね。
ただ各国の状況を見ていると、いくつか違いがあるのではないかと少し感じています。まずドイツやフランスですが、この二カ国については相当なレベルまで日本のアニメ文化が根付いています。実際に両国の友人に私自身が話を聞きましたし、確か98年位にうちにやってきたドイツ人留学生も「カードキャプターさくら」にはまっていました。ですがこれがイギリスになるとちょっと話が違うのかもしれません。
私は2004年にイギリスのロンドンに一ヶ月ほど滞在しましたが、その際に大規模のビデオショップなども細かく見ましたが、どうも噂されているほど日本のアニメビデオは見当たりませんでした。どうも先ほどの二カ国とは差がある気がします。
そしてお隣の中国ですが、ここはなにせ人が多いもんだからはまる人ははまって、はまらない人は全くはまってないような気がします。それでも人数が多いもんだからはまる人の集まりもあっちこっちで作られ、ニュースなどは中国でもアニメブームが広がっているというような特集が組みやすいのではないかと思います。なお、恐らく連中が手に取るのはほとんどが海賊版です。
そんなんでもはや日本のアニメや漫画はオタク文化、サブカルチャーではなく、ポップカルチャーだという声も最近ちらほら聞こえるようになりました。時も時で麻生太郎自民党議員が漫画通だということで人気を浴び、アニメファンを日陰者的なオタクの扱いをするようなマスコミに対して、中には逆批判するような勢いすら感じることがあります。
しかし、ここで敢えて私は主張しますが、やはり漫画やアニメは人目に隠れて接するべきだと思います。
そもそも歴史を紐解けば、現在のメインカルチャーである小説などの文芸は、明治の頃には卑しいものとして扱われ、二葉亭四迷などは小説家になると親に言ったらめちゃくちゃ怒られたというほどでした。言うまでもなくこれは現在のアニメの状況に似ているののですが、メインカルチャーになるとある種のデメリットが付きまとってしまいます。そのデメリットというのも、表現の規制です。
長くなってきたので、続きはまた今度。
この、日本のアニメブームについて私が初めて情報に触れたのは確か、94年か95年位に、今もやっている「世界まるみえテレビ」にて、アメリカにて日本のヒーロー戦隊の特撮番組(現地ではパワーレンジャー)やアニメの「マッハGOGO」が受けているというニュースでしたが、その後も順調に人気は続いていったようですね。
ただ各国の状況を見ていると、いくつか違いがあるのではないかと少し感じています。まずドイツやフランスですが、この二カ国については相当なレベルまで日本のアニメ文化が根付いています。実際に両国の友人に私自身が話を聞きましたし、確か98年位にうちにやってきたドイツ人留学生も「カードキャプターさくら」にはまっていました。ですがこれがイギリスになるとちょっと話が違うのかもしれません。
私は2004年にイギリスのロンドンに一ヶ月ほど滞在しましたが、その際に大規模のビデオショップなども細かく見ましたが、どうも噂されているほど日本のアニメビデオは見当たりませんでした。どうも先ほどの二カ国とは差がある気がします。
そしてお隣の中国ですが、ここはなにせ人が多いもんだからはまる人ははまって、はまらない人は全くはまってないような気がします。それでも人数が多いもんだからはまる人の集まりもあっちこっちで作られ、ニュースなどは中国でもアニメブームが広がっているというような特集が組みやすいのではないかと思います。なお、恐らく連中が手に取るのはほとんどが海賊版です。
そんなんでもはや日本のアニメや漫画はオタク文化、サブカルチャーではなく、ポップカルチャーだという声も最近ちらほら聞こえるようになりました。時も時で麻生太郎自民党議員が漫画通だということで人気を浴び、アニメファンを日陰者的なオタクの扱いをするようなマスコミに対して、中には逆批判するような勢いすら感じることがあります。
しかし、ここで敢えて私は主張しますが、やはり漫画やアニメは人目に隠れて接するべきだと思います。
そもそも歴史を紐解けば、現在のメインカルチャーである小説などの文芸は、明治の頃には卑しいものとして扱われ、二葉亭四迷などは小説家になると親に言ったらめちゃくちゃ怒られたというほどでした。言うまでもなくこれは現在のアニメの状況に似ているののですが、メインカルチャーになるとある種のデメリットが付きまとってしまいます。そのデメリットというのも、表現の規制です。
長くなってきたので、続きはまた今度。
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