なんか設定を改めて見てみると、コメントがすぐに反映されないようには設定されていました。せっかく書いてもらっているのに悪いので、ちょっといじりなおして今度はすぐに反映するようにしました。
そんなことはさておき今日のネタですが、昔、倫理の授業にてある先生から、
「ヨーロッパ哲学の究極目的は、すべての事象を言語化することだ」
という話を聞いたので早速、自分の友人らにも受け売りで話してみました。現在のところ、この先生の言葉だけを話して、「なるほど」と、一瞬で理解できたのは二人だけですね。
もっとも、これだけで理解する方がむしろ異常です。実際にその二人のうち片っ方は私の友人の中でもエース級で、もう一人はこういった倫理や哲学に造詣の深い友人ですので、そういった素養があるからだと思います。
さてさて、ではこの言葉の意味することはなんでしょうか。私自身、完全に理解しているとは言い難いのですが、鍵となる言葉を言うと、物事というのは言語化されて始めて理解されるのです。
たとえば、今まで見たことも聞いたこともないものに、ある日誰かが触れたとします。しかも、偶然が重なり、なんと同じ日に二回もそんなことがありました。早速友人にその誰かは、
「今日、見たことも聞いたこともないものに触ったんだ。しかも二回も」
「その二回とも、同じものだったのか?」
「いいや違うよ。けどどちらも見たことも聞いたこともないものだった」
「そんなこといっても、聞いてる俺達には区別できないよ」
とな感じで、見たことも聞いたこともないものはたとえ別々のものでも、何かしら言語化、それこそ片方は丸いがもう片方は四角いなどとしなければ区別、果てには理解できないということです。
もともと、対象に名前を与えるということはその対象をその名前で定義するということになります。初めてメロンをメロンといった人によって、それまでただの果物だったものはメロンと定義されていくのです。
この論を発展して先ほどの先生は、ヨーロッパ哲学というのは物体から現象に至るまですべてに名前を振ることによって理解するのが目的だ、と私は言いたかったんだと思います。実際にヨーロッパ、というよりは欧米の科学的概念というのは物事をひたすら細かく分類することに注力しています。元々学問自体が事実の分類を進めることですが、日本とか中国などの東洋哲学はこの点が割とあいまいで、わからないことはわからないなりに話を進めようとして、儒教とか仏教では、
「なぜ空は青いのか」
「それは見る人の心がきれいだからだよ」
というような禅問答が成立したりします。それに対して欧米では、
「なぜ空は青いのか」
「普通、光があるとものが見えるだろ。つまり、光が関係しているのでは。そしてそれを敢えて名づけるなら、光の反射現象とでも……」
ちょっと極端な例ですが、割とうまいこと比較できたと思います。
こんな感じで、ヨーロッパでは各種の病気などにも名前をつけるだけでなく、心理現象などにも名前をつけ、細かく分類するようになっていきました。一番最初の例のように、体が発熱した状態でもウィルス性のものか栄養バランスの崩壊によるものかなどと言語化することによって分けて、そして理解します。こんなのがヨーロッパ哲学の概念だと、私は考えています。
そういう意味で、現在の日本の学問体系もヨーロッパ式に倣っています。まぁ確かに悪いわけじゃないんですが、逆に言うとこの形式では言語化しづらい領域は自然、無関心になりやすくなり、それこそ死後の世界と生き方とかはあまり真面目に議論されません。東洋哲学は逆にこの点が強いので、やはり両方学ぶのがベストだと私は思います。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年5月26日月曜日
2008年5月24日土曜日
赤いちゃんちゃんこの怪談話
子供の頃に聞いた怪談話で、トイレに入ったら「赤いちゃんちゃんこ、着てみませんか~」という声がするので「着てみる」と答えたら、血だらけになって死んでしまう、という怪談話がありました。まぁその血の跡がちゃんちゃんこみたいになるっていうオチですどね。
しかしいまどき、「ちゃんちゃんこ」と言う人はいるのでしょうか。昔の鬼太郎はよくちゃんちゃんこを投げて敵にぶつけてたけど、今の鬼太郎はどうなっているのだろう。「ちゃんちゃんこ」と言わずに、「ベスト」と言うのかな。それなら、
「赤いベスト、着てみませんか~」
こんな感じに怪談も変わるのでしょうか。ってか、これじゃただのユニクロの店員でしかないけど。
それより、この前ふと思いついたのですが、もしこれがちゃんちゃんこじゃない、別の服だったらどうなのだろうかと。
まずは「赤いコート」、間違いなく血だるまだ。次に「赤いブラジャー」、なんか卑猥だ。じゃあ「赤い全身タイツ」、ホラー映画化だ。それなら「赤いYシャツ」、ヤクザかよ。
ここまでならそんなネタにするほどではないのですが、その後しばらくしてとんでもないものを考えてしまいました。
「赤いふんどし、はいてみんかいっ!!」
そう、赤フンならどうなるのか。やっぱ自然と声もこんな感じになるのかな。でもって、「はいたろうじゃねぇかっ!!」とか言っちゃうと、「ぎゃぁぁああ……」ってなことになり、下半身だけ真っ赤……なんだろうか、このくそみそテクニックなホモ展開……。
しかしいまどき、「ちゃんちゃんこ」と言う人はいるのでしょうか。昔の鬼太郎はよくちゃんちゃんこを投げて敵にぶつけてたけど、今の鬼太郎はどうなっているのだろう。「ちゃんちゃんこ」と言わずに、「ベスト」と言うのかな。それなら、
「赤いベスト、着てみませんか~」
こんな感じに怪談も変わるのでしょうか。ってか、これじゃただのユニクロの店員でしかないけど。
それより、この前ふと思いついたのですが、もしこれがちゃんちゃんこじゃない、別の服だったらどうなのだろうかと。
まずは「赤いコート」、間違いなく血だるまだ。次に「赤いブラジャー」、なんか卑猥だ。じゃあ「赤い全身タイツ」、ホラー映画化だ。それなら「赤いYシャツ」、ヤクザかよ。
ここまでならそんなネタにするほどではないのですが、その後しばらくしてとんでもないものを考えてしまいました。
「赤いふんどし、はいてみんかいっ!!」
そう、赤フンならどうなるのか。やっぱ自然と声もこんな感じになるのかな。でもって、「はいたろうじゃねぇかっ!!」とか言っちゃうと、「ぎゃぁぁああ……」ってなことになり、下半身だけ真っ赤……なんだろうか、このくそみそテクニックなホモ展開……。
武田邦彦氏の公開討論会に行って
本日、午後一時半から吉祥寺で行われた、「温暖化対策とリサイクルは地球を救う ウソ?ホント?」というシンポジウムを見学しに行ってきました。主役はこのブログでも何度も取り上げている、「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」という本で、環境省やリサイクル団体を批判している武田邦彦氏です。
このシンポジウムは他にも数人のパネリストを揃え、それぞれが温暖化とリサイクルについて持論を展開して討論する形式でしたが、なかなか有意義で面白い内容でした。パネリスト、司会者もそれぞれの意見に対して、「それが正しいかどうかはともかく、さまざまな異論が聞けたことがよかった」と口々に述べておいり、聞いている私個人も同感でした。
パネリストの中には現役の環境省の役人もいれば、国立研究所の研究員もおり、やはりそれぞれの立場から武田氏とは全く意見が異なる、というより、「でたらめを言うな」という言い合いもありましたが、なにも罵り合うというほどでもなかったので、よい討論の仕方をしていたと思います。
それで、この討論をすべて一から書いていたまたえらく長くなりそうなので、いくつか気になった点だけを紹介します。
まず全体的な内容ですが、すべてのパネリストの方の一致した意見として、「内容はともかく、武田氏の環境問題への問題提起はすばらしい」ということでした。いくつかはスタンスの違い、根拠となるデータが怪しいなどの反論はあるものの、実際に環境対策として使われているお金、そしてリサイクルの仕組みには不明瞭なものも多く、環境の名の下で無茶が通っているものもすくなくないのですが、そういった部分に光を当てた意味では武田氏の功績を皆評価していました。
それで各パネリストの意見はというと、主役の武田氏の主張については彼の書いた本を読んでいたのでほとんどがすでに知っている内容でした。もし興味をもった方があるなら、是非本を買って手に取ってください。それにしても、テレビでも何度かこの人を見たことがあるのですが、実際に見てみると本当に喋り方がうまい。話の展開が早く、論点が結構知らないうちに変わってたりするので、学者より政治家のが向いている気がします。
この武田氏以外だと、朝日新聞の社員である杉本裕明氏の話が一番面白くて、彼の話によると、なんでも政府の環境を守る名目としてとして集めた税金は、現段階でも余っているそうなのです。特に使い道がなく余っている横で、現在の道路特定財源を環境税に変えるといって、また余計な方向へ政府がそのお金が使うのではないかという危惧を持っていましたが、これは初耳でした。けど、なんかそうありそうです。
さらに、現在国が立ち上げている環境対策の計画を実行することとなると、一世帯辺り四十万円もの負担を新たに強いることとなるのですが、そういったことは一切説明せずに、「環境にいいから」という意味で認めてはならないということも言っていました。これは他の話題についての武田氏の言及でしたが、政府はそれが本当に環境にいいのかどうか詳しい内実を話さずに、計画を実行する癖があるとも言っています。
このほか一般の方の質問で、
「燃費のいい車に乗り換えることが環境にいいというが、それまで使われてきたまだ乗れる車を放り捨て、新たに車を製造会社に作らせることの方がかえって環境に悪いのでは?」
という鋭い質問も出てきました。これについては武田氏も言及しており、白熱電球から蛍光灯に取り替えれば電気使用量は減るが、製造コストを考えるとかえってマイナスだともいっています。
とまぁ片っ端から書いたらこんな感じなのですが、やはりテーマが環境という事なので、一部の参加者からは感情論とも取れる、やたら長いだけで面白みのない質問も数多く出てました。何もこの環境問題だけに限るわけではありませんが、どうも議論を感情論と事実論がごっちゃになって、途中で双方訳がわからなくなることが多いような気がします。もうすこし、はっきりとした事実のみに目を当てて議論はすべきだと思うのですが。
ただ、この環境問題というのは地球科学からリサイクル関連の経済学など、幅広い知識を持って語らねばならないところ、現在各専門家がそれぞれの分野の立場だけに立ってあれこれ言うのが混乱を作る主要因だと何人かのパネリストが言っていました。実際に範囲がだだっ広いことは間違いなく、いろんなところから意見を聞き、最終的に自分で考えねばならないといって、この討論会は終わりました。
このシンポジウムは他にも数人のパネリストを揃え、それぞれが温暖化とリサイクルについて持論を展開して討論する形式でしたが、なかなか有意義で面白い内容でした。パネリスト、司会者もそれぞれの意見に対して、「それが正しいかどうかはともかく、さまざまな異論が聞けたことがよかった」と口々に述べておいり、聞いている私個人も同感でした。
パネリストの中には現役の環境省の役人もいれば、国立研究所の研究員もおり、やはりそれぞれの立場から武田氏とは全く意見が異なる、というより、「でたらめを言うな」という言い合いもありましたが、なにも罵り合うというほどでもなかったので、よい討論の仕方をしていたと思います。
それで、この討論をすべて一から書いていたまたえらく長くなりそうなので、いくつか気になった点だけを紹介します。
まず全体的な内容ですが、すべてのパネリストの方の一致した意見として、「内容はともかく、武田氏の環境問題への問題提起はすばらしい」ということでした。いくつかはスタンスの違い、根拠となるデータが怪しいなどの反論はあるものの、実際に環境対策として使われているお金、そしてリサイクルの仕組みには不明瞭なものも多く、環境の名の下で無茶が通っているものもすくなくないのですが、そういった部分に光を当てた意味では武田氏の功績を皆評価していました。
それで各パネリストの意見はというと、主役の武田氏の主張については彼の書いた本を読んでいたのでほとんどがすでに知っている内容でした。もし興味をもった方があるなら、是非本を買って手に取ってください。それにしても、テレビでも何度かこの人を見たことがあるのですが、実際に見てみると本当に喋り方がうまい。話の展開が早く、論点が結構知らないうちに変わってたりするので、学者より政治家のが向いている気がします。
この武田氏以外だと、朝日新聞の社員である杉本裕明氏の話が一番面白くて、彼の話によると、なんでも政府の環境を守る名目としてとして集めた税金は、現段階でも余っているそうなのです。特に使い道がなく余っている横で、現在の道路特定財源を環境税に変えるといって、また余計な方向へ政府がそのお金が使うのではないかという危惧を持っていましたが、これは初耳でした。けど、なんかそうありそうです。
さらに、現在国が立ち上げている環境対策の計画を実行することとなると、一世帯辺り四十万円もの負担を新たに強いることとなるのですが、そういったことは一切説明せずに、「環境にいいから」という意味で認めてはならないということも言っていました。これは他の話題についての武田氏の言及でしたが、政府はそれが本当に環境にいいのかどうか詳しい内実を話さずに、計画を実行する癖があるとも言っています。
このほか一般の方の質問で、
「燃費のいい車に乗り換えることが環境にいいというが、それまで使われてきたまだ乗れる車を放り捨て、新たに車を製造会社に作らせることの方がかえって環境に悪いのでは?」
という鋭い質問も出てきました。これについては武田氏も言及しており、白熱電球から蛍光灯に取り替えれば電気使用量は減るが、製造コストを考えるとかえってマイナスだともいっています。
とまぁ片っ端から書いたらこんな感じなのですが、やはりテーマが環境という事なので、一部の参加者からは感情論とも取れる、やたら長いだけで面白みのない質問も数多く出てました。何もこの環境問題だけに限るわけではありませんが、どうも議論を感情論と事実論がごっちゃになって、途中で双方訳がわからなくなることが多いような気がします。もうすこし、はっきりとした事実のみに目を当てて議論はすべきだと思うのですが。
ただ、この環境問題というのは地球科学からリサイクル関連の経済学など、幅広い知識を持って語らねばならないところ、現在各専門家がそれぞれの分野の立場だけに立ってあれこれ言うのが混乱を作る主要因だと何人かのパネリストが言っていました。実際に範囲がだだっ広いことは間違いなく、いろんなところから意見を聞き、最終的に自分で考えねばならないといって、この討論会は終わりました。
障害者教育について
先ほど確認してみたらコメント、しかも知らない人から初めて残されていたので、タイムリーでもあるので今日は障害者の教育について書こうと思います。実はこの障害者教育については以前にかなり真剣に調べた事もあり、一家言ある身です。前述の障害者自立支援法と並び、日本はこの手の対策が欧米先進国と比べると非常に遅れているとも言われております。
まず知的障害者の場合ですが、やはり未だに偏見が強いということもあって幼児期に、「もしかしたらこの子は……」と思っても、それを誰にも相談しないまま育てていってしまう人が多いそうです。専門家によると、たとえ生後時から知的障害を負っていたとしても、生まれた直後からそういった障害者への専門的教育を施すことによってその後の発育はしない場合と比べて大きくよくなるそうなのですが、どうも未だに隠したがる人がまだ多く、五歳や六歳になってようやく相談に行っては処置が手遅れになってしまうケースが多いそうです。。
この問題の解決方法は言うまでもなく偏見をなくすことなのですが、どうもアメリカと比べると日本では知的障害者、身体障害者双方ともに社会進出が阻まれており、こうした偏見がなかなか払拭できずにいます。
そして近年、こうした知的障害者の生活環境はすでに紹介した自立支援法とともに、ネット上で加速している、「知的障害だからといって罪が軽減されるのはおかしい」という言論によって追い詰められております。また、各企業に雇用者数ごとにこういった障害者の方を受け入れる規定があるにもかかわらず、規定を守らなかった場合に支払う補償金を払う方が得だといって、なかなか雇用されないとも聞きます。
さてこっから社会学的な話になりますが、身体障害者だと思考能力には問題なく、それこそデスクワークや簡単な軽作業程度なら働くことに問題はないにも関わらず、健常者と比べて就職率が非常に低くなっております。その理由はいくらでも挙げられるのですが、私が問題視しているのは学歴についてです。
というのも、実は私の友人も障害とまで言わずとも、生まれつき体の弱い人間でして、大学に入学したものの、毎日通学するだけの体力がなく、結果的には退学せざるを得ませんでした。身体障害者、特に腕や足の障害を持つ方などは助けなしでは通学することは難しく、まして実家から離れて遠くの大学に通おうとしても、住んで生活できる借り部屋などほとんどありません。
つまり、身体障害が原因となって高等教育の道が閉ざされ、結果的に学歴が付かず就職もままならないという構図になるのではないかと思います。本当はこういった教育面でもっと障害者に日を当てるべきだと思うのですが、現実はさにあらず、日本の大学のホームページにて障害者の入学条件、方法について説明があるサイトは本当にごくわずかです。アメリカなんかはほとんどあるのに……。
今後もこの障害者関連のネタは書き続けていこうと思いますが、前述の友人がかつて言った、「健康な人は、病気や怪我した時の苦しみを普段は全く考えないよね」という言葉を忘れずに取り上げていこうと思います。
まず知的障害者の場合ですが、やはり未だに偏見が強いということもあって幼児期に、「もしかしたらこの子は……」と思っても、それを誰にも相談しないまま育てていってしまう人が多いそうです。専門家によると、たとえ生後時から知的障害を負っていたとしても、生まれた直後からそういった障害者への専門的教育を施すことによってその後の発育はしない場合と比べて大きくよくなるそうなのですが、どうも未だに隠したがる人がまだ多く、五歳や六歳になってようやく相談に行っては処置が手遅れになってしまうケースが多いそうです。。
この問題の解決方法は言うまでもなく偏見をなくすことなのですが、どうもアメリカと比べると日本では知的障害者、身体障害者双方ともに社会進出が阻まれており、こうした偏見がなかなか払拭できずにいます。
そして近年、こうした知的障害者の生活環境はすでに紹介した自立支援法とともに、ネット上で加速している、「知的障害だからといって罪が軽減されるのはおかしい」という言論によって追い詰められております。また、各企業に雇用者数ごとにこういった障害者の方を受け入れる規定があるにもかかわらず、規定を守らなかった場合に支払う補償金を払う方が得だといって、なかなか雇用されないとも聞きます。
さてこっから社会学的な話になりますが、身体障害者だと思考能力には問題なく、それこそデスクワークや簡単な軽作業程度なら働くことに問題はないにも関わらず、健常者と比べて就職率が非常に低くなっております。その理由はいくらでも挙げられるのですが、私が問題視しているのは学歴についてです。
というのも、実は私の友人も障害とまで言わずとも、生まれつき体の弱い人間でして、大学に入学したものの、毎日通学するだけの体力がなく、結果的には退学せざるを得ませんでした。身体障害者、特に腕や足の障害を持つ方などは助けなしでは通学することは難しく、まして実家から離れて遠くの大学に通おうとしても、住んで生活できる借り部屋などほとんどありません。
つまり、身体障害が原因となって高等教育の道が閉ざされ、結果的に学歴が付かず就職もままならないという構図になるのではないかと思います。本当はこういった教育面でもっと障害者に日を当てるべきだと思うのですが、現実はさにあらず、日本の大学のホームページにて障害者の入学条件、方法について説明があるサイトは本当にごくわずかです。アメリカなんかはほとんどあるのに……。
今後もこの障害者関連のネタは書き続けていこうと思いますが、前述の友人がかつて言った、「健康な人は、病気や怪我した時の苦しみを普段は全く考えないよね」という言葉を忘れずに取り上げていこうと思います。
2008年5月23日金曜日
権力獲得のプロセスについて
かつて北海道農学校、現在の北海道大学の前身となった場所で、かの有名なクラーク博士が、「少年よ、大志を抱け」と言いましたが、これは誤訳らしいです。
それはともかくとして、偉くなって周りをブイブイ言わせたいという人はどの時代にもたくさんいます。しかしどうすれば偉くなるのかという、直接的な議論というものはあまり見ませんし、比較されておりません。それは恐らく、プロセスがそれとなく暗黙な了解となっているからだと思われます。
日本の場合、やはり商業主義的な思想が強いので、基本的にどれだけお金を持っているかがその偉さの尺度となることが多いように思えます。それを反映してか、立身出世の王道とも言えるストーリーはまずいい大学に受かり、そして一流企業に入る。そして最後にそこで社長となるか、途中で飛び出して新たに創業し、その会社を大きな会社とする、といった所でしょうか。これがいわゆる通説の範囲内の権力獲得プロセスでしょう。
ただこれはあくまで「お金の及ぶ権力」内の話で、現実的にはやはり官僚として成功する方がサクセスストーリーとしては価値があると思われています。この場合のプロセスもまず最初はいい大学、というよりこの場合は東大限定で、しかも法学部に入る。そして上級国家公務員試験に受かり、官庁へと入る。そこで出世コースにうまいこと乗り、最後は次官というプロセスとなります。
これでもさらに飽き足らないという野心満々の方への特別コースはというと、まず官庁に入るとこまでは先ほどのコースと一緒ですが、ある時点でそこを飛び出し、選挙へと打って出て政治家となる。そして自民党内の権力レースに勝ち、最後は総理大臣となって満願成就といったところでしょうか。
以上までが日本の主な権力獲得のプロセスですが、やはりネックとなる条件になってくるのは若い世代の内に東大に入学するということです。霞ヶ関の官庁内の東大贔屓は言うに及ばずで、たとえ他の大学出身者が官庁に入ったとしても、その中では出世が望めないとまで言われます。
しかし、世界の日本を見る目はというと、何はともあれ東大にさえ入れば立身出世は約束され、しかもその入学試験はまだフェアであるから、出世機会の平等はよく守られている国だと言われているようです。
言うまでもなく、他国では未だに出身環境が物を言うことが多く、といっても日本でも数十年前と比べてその傾向は強くなってきましたが、何はともあれ日本は東大さえクリアすればいいのだからまだ平等らしいです。
さてここで話は変わりますが、現在中国のトップ2といえば言うまでもなく、国家主席の胡錦濤氏(フーチンタオ)と首相の温家宝氏(ウェンジャーパオ)の二人ですが、実は二人とも大卒は大卒でも、理系出身です。
この話をすると結構周りの日本人には驚かれるのですが、胡氏はもともとダムの設計士をやっており、温氏は「中国地質大学」(どうでもいいが、二年前にこの大学はえらく綺麗な寮を作っていたなぁ)の出身で、そのまま地質関係の技師だったようです。恐らく日本人からすると、なぜ大学で文系出身じゃないのに政治家をやっているのかと疑問に思うかもしれませんが、向こうは向こうで日本の経営家と政治家のほとんど、というより九割がた文系出身者だと教えると、「なぜそれで国がやっていけるんだ?」と、私自身が中国人に言われました。
ここで結論を言うと、権力獲得のプロセスというものは決して万国共通ではなく、国ごとに意外と違うということです。さらに例を挙げると、レーニン以降のソ連では最高権力者である書記長となった者の中で大卒者はというと、なんとレーニンとゴルバチョフの二人だけしかいません。しかも新制ロシアも入れると、この前亡くなったエリツィン氏も大学を卒業していません。プーチンとメドベージェフは出てるけど。
ソ連の場合、私も詳しくはわかりませんが、大卒という肩書き以上に共産党内のプロセスが重要視されており、そのためこのような系譜を辿ることとなったようです。
現在日本の権力獲得プロセスはアメリカの制度に倣っているため、日本とアメリカで共通する権力獲得プロセスを、さもグローバルスタンダードかのように思い込んでいる部分があると感じます。井の中の蛙と言われないように、あくまで日本限定でこうなのだと覚えておくことが、国際世界で笑われない知識となると思います。
それはともかくとして、偉くなって周りをブイブイ言わせたいという人はどの時代にもたくさんいます。しかしどうすれば偉くなるのかという、直接的な議論というものはあまり見ませんし、比較されておりません。それは恐らく、プロセスがそれとなく暗黙な了解となっているからだと思われます。
日本の場合、やはり商業主義的な思想が強いので、基本的にどれだけお金を持っているかがその偉さの尺度となることが多いように思えます。それを反映してか、立身出世の王道とも言えるストーリーはまずいい大学に受かり、そして一流企業に入る。そして最後にそこで社長となるか、途中で飛び出して新たに創業し、その会社を大きな会社とする、といった所でしょうか。これがいわゆる通説の範囲内の権力獲得プロセスでしょう。
ただこれはあくまで「お金の及ぶ権力」内の話で、現実的にはやはり官僚として成功する方がサクセスストーリーとしては価値があると思われています。この場合のプロセスもまず最初はいい大学、というよりこの場合は東大限定で、しかも法学部に入る。そして上級国家公務員試験に受かり、官庁へと入る。そこで出世コースにうまいこと乗り、最後は次官というプロセスとなります。
これでもさらに飽き足らないという野心満々の方への特別コースはというと、まず官庁に入るとこまでは先ほどのコースと一緒ですが、ある時点でそこを飛び出し、選挙へと打って出て政治家となる。そして自民党内の権力レースに勝ち、最後は総理大臣となって満願成就といったところでしょうか。
以上までが日本の主な権力獲得のプロセスですが、やはりネックとなる条件になってくるのは若い世代の内に東大に入学するということです。霞ヶ関の官庁内の東大贔屓は言うに及ばずで、たとえ他の大学出身者が官庁に入ったとしても、その中では出世が望めないとまで言われます。
しかし、世界の日本を見る目はというと、何はともあれ東大にさえ入れば立身出世は約束され、しかもその入学試験はまだフェアであるから、出世機会の平等はよく守られている国だと言われているようです。
言うまでもなく、他国では未だに出身環境が物を言うことが多く、といっても日本でも数十年前と比べてその傾向は強くなってきましたが、何はともあれ日本は東大さえクリアすればいいのだからまだ平等らしいです。
さてここで話は変わりますが、現在中国のトップ2といえば言うまでもなく、国家主席の胡錦濤氏(フーチンタオ)と首相の温家宝氏(ウェンジャーパオ)の二人ですが、実は二人とも大卒は大卒でも、理系出身です。
この話をすると結構周りの日本人には驚かれるのですが、胡氏はもともとダムの設計士をやっており、温氏は「中国地質大学」(どうでもいいが、二年前にこの大学はえらく綺麗な寮を作っていたなぁ)の出身で、そのまま地質関係の技師だったようです。恐らく日本人からすると、なぜ大学で文系出身じゃないのに政治家をやっているのかと疑問に思うかもしれませんが、向こうは向こうで日本の経営家と政治家のほとんど、というより九割がた文系出身者だと教えると、「なぜそれで国がやっていけるんだ?」と、私自身が中国人に言われました。
ここで結論を言うと、権力獲得のプロセスというものは決して万国共通ではなく、国ごとに意外と違うということです。さらに例を挙げると、レーニン以降のソ連では最高権力者である書記長となった者の中で大卒者はというと、なんとレーニンとゴルバチョフの二人だけしかいません。しかも新制ロシアも入れると、この前亡くなったエリツィン氏も大学を卒業していません。プーチンとメドベージェフは出てるけど。
ソ連の場合、私も詳しくはわかりませんが、大卒という肩書き以上に共産党内のプロセスが重要視されており、そのためこのような系譜を辿ることとなったようです。
現在日本の権力獲得プロセスはアメリカの制度に倣っているため、日本とアメリカで共通する権力獲得プロセスを、さもグローバルスタンダードかのように思い込んでいる部分があると感じます。井の中の蛙と言われないように、あくまで日本限定でこうなのだと覚えておくことが、国際世界で笑われない知識となると思います。
2008年5月22日木曜日
放置された医療改革
先ほど、徳光和夫が司会をやっている「逢わせ屋」という番組を見ていました。この番組自体はくだらないシステムとやらせっぽい内容で嫌いなのですが、今日の番組で出てきた、若いときに右腕を工場で切断し、その後のリハビリの間にずっと元気付けてくれた医師と再会したいという女性の話は非常に感動的でした。
さて、今ここで出てきたリハビリですが、皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか。大体二年前、リハビリを開始してから180日後に、これまで患者に支払われてきたこのリハビリの医療費補助を打ち切るという政府の新たな政策が始まりました。
当時の政府の言い分はというと、リハビリという名の下に不当な医療を行う輩もおれば、本来は必要ないのに受け続け、補助だけをもらっている患者がいる。そんな不届きな輩を撲滅するために、どうせリハビリを始めてから半年経っても効果がない人には治る見込みがないはずなのだから、いっそ打ち切ってしまえというものでした。
もちろん、この政府の言い分は頭から間違っていることは明白でしょう。リハビリというのは何も身体障害を完治させないまでも、身体の機能維持という目的で行われていることも多いからです。また半年経って効果がないから治る見込みがないというのも間違いらしく、この日限の根拠はなにもないといいます。
この打ち切り制度が始まる直前の二年前は、それこそ毎日のようにメディアが報道し、制度の見送りが各関係者から訴えられましたが、現実はというと大山鳴動して鼠一匹動かずというか、ちょっとネットで検索を掛けてみたところ、施行状況まではわかりませんが、現在もこの制度は何も改正されずに残っているようです。
なにもこのリハビリ制度に限るわけではないですが、私が前々から訴えている「障害者自立支援法」も、その名とは逆に障害者を追い詰め続けて施行から早や三年もの月日がたっております。このように、当初は大きく騒がれはしたものの、医療業界を取り巻く悪環境はここ数年で何も変わらないどころか、先月から始まった「後期高齢者医療制度」と、さらに悪化させるような法律までもが施行され始めてしまいました。この問題も今でこそなんやかんやと騒がれておりますが、後一ヶ月もすればみんなこの制度のことなど忘れてしまうかと思います。もちろん、そんなことはあってはならないのですが。
しばしば、この手の問題というのはこういった事態が起こりやすいもので、一概に報道メディアが報道しないせいだとは、マスコミに厳しい私でも言い切れません。なぜなら、熱の冷めた事件などを報道しても、連中が食っていけるわけではないからです。だからこそ、なんの利益も権益もない、こうした草の根的なブログなどでこういった問題が解決されるまで訴えていかねばならないと考えております。
さて、今ここで出てきたリハビリですが、皆さんは覚えていらっしゃるでしょうか。大体二年前、リハビリを開始してから180日後に、これまで患者に支払われてきたこのリハビリの医療費補助を打ち切るという政府の新たな政策が始まりました。
当時の政府の言い分はというと、リハビリという名の下に不当な医療を行う輩もおれば、本来は必要ないのに受け続け、補助だけをもらっている患者がいる。そんな不届きな輩を撲滅するために、どうせリハビリを始めてから半年経っても効果がない人には治る見込みがないはずなのだから、いっそ打ち切ってしまえというものでした。
もちろん、この政府の言い分は頭から間違っていることは明白でしょう。リハビリというのは何も身体障害を完治させないまでも、身体の機能維持という目的で行われていることも多いからです。また半年経って効果がないから治る見込みがないというのも間違いらしく、この日限の根拠はなにもないといいます。
この打ち切り制度が始まる直前の二年前は、それこそ毎日のようにメディアが報道し、制度の見送りが各関係者から訴えられましたが、現実はというと大山鳴動して鼠一匹動かずというか、ちょっとネットで検索を掛けてみたところ、施行状況まではわかりませんが、現在もこの制度は何も改正されずに残っているようです。
なにもこのリハビリ制度に限るわけではないですが、私が前々から訴えている「障害者自立支援法」も、その名とは逆に障害者を追い詰め続けて施行から早や三年もの月日がたっております。このように、当初は大きく騒がれはしたものの、医療業界を取り巻く悪環境はここ数年で何も変わらないどころか、先月から始まった「後期高齢者医療制度」と、さらに悪化させるような法律までもが施行され始めてしまいました。この問題も今でこそなんやかんやと騒がれておりますが、後一ヶ月もすればみんなこの制度のことなど忘れてしまうかと思います。もちろん、そんなことはあってはならないのですが。
しばしば、この手の問題というのはこういった事態が起こりやすいもので、一概に報道メディアが報道しないせいだとは、マスコミに厳しい私でも言い切れません。なぜなら、熱の冷めた事件などを報道しても、連中が食っていけるわけではないからです。だからこそ、なんの利益も権益もない、こうした草の根的なブログなどでこういった問題が解決されるまで訴えていかねばならないと考えております。
2008年5月21日水曜日
よい税金とは
なんでも将来の社会保障を維持するために、財務省が出した試算によると消費税を10%以上にしなければいけないと、昨今ニュースで報道されています。しかしなんというか、官僚の出す予測で当たった試しというのはほとんどないですし、そもそも連中が出した社会保障費のピークがくるのは2050年とのことらしいですが、以前にこのブログでも取り上げた私の予測だと、少なくとも年金に限って言えば世代人口が最も膨れている1946~1948年生まれの団塊の世代が、日本人の平均寿命に当たる80歳になって死に始める2030年くらいがピークではないかという素朴な疑問がわきます。
なのでこんなくだらない根拠で消費税を上げるなんてもってのほかですが、これに関連して、今日はちょっとよい税金とはどんな税金かをちょっと解説します。なにぶん昔に習ったことなので少し記憶があいまいですが、税金には三要素と呼ばれる要素があり、それらを列記すると、「公平性」、「均等性」、「効率性」の三つだったと思います。
まず公平性というのは読んで字の如く、対象の集団の中で差別なく公平に取られるかどうかです。たとえば同じ収入なのにある人には低い税率が課されるが、別の人には高い税率が課されるというのは傍目にも不平等で、よい税制とは言われません。
次の均等性というのは、単純に行って累進課税や資産税のことです。これは税の配分にも関わってきますが、集団内の人間の収入を均等化させる効果のことで、要するに勝ち逃げさせない要素のことを指しています。
ここまでなら言われりゃ誰だってわかると思いますが、今日の味噌である最後の効率性というのは実は結構ネックな部分でありながら、あまり議論されることがない内容です。
この効率性というのは、いわゆる徴税のコストがどれだけ低いかどうかという事です。たとえば新聞の集金を想像してみてください。自動振込みにしておけば新聞屋が払うのは銀行への手数料だけで新聞代を受け取れますが、もし自動振込みでなければ集金を行う人を新聞屋は雇わなければならず、その分人件費が掛かってしまい同じ新聞代でも手元に受け取る金額は減ってしまいます。
このように、同じ税率でも徴税コストがあるとないとで収入の大小が変わってくるのです。そして実は日本というのは、この徴税コストが高い国だといわれております。
というのも、戦後から日本は一貫して直接税を主な収入源としています。これだと一人一人に税金額を計算、徴収を行わねばならず、また不正にごまかす人間もいちいち摘発せねばなりません。これはつまり、その分だけ国税庁の役人を雇わねばならず、また税理士なども各企業や自治体で雇わねばなりません。
ここで言ってしまいますが、実は私は消費税を上げる事には賛成なのです。というのも、消費税や酒税のような間接税だと徴収する対象は小売店やら事業主だけなので、その分徴税コストは少なくて済むのです。事実、日本以外の国ではほとんどが間接税が主体となっており、戦前の日本もそうでした。
最近は確かにIT化が進み以前ほどではないにしても、直接税だとやはりコストが高すぎます。なのでこの際、直接税の税率を大幅に下げる代わりに、消費税などの間接税の税率を大幅に上げるような改革をすべきだと思います。もちろん、欧米同様に食料や医療などにはその税率を課さずにです。
以上の三つの要素を満たせば満たすほどよい税制だということになります。あえて言うならもうひとつ、「わかりやすさ」もよい税制の条件だと思います。これもまた日本ですが、非常に複雑で税理士以外には誰もわからないとまでいわれ、そのせいで知らず知らずのうちに脱税をやっていたり逆に払いすぎたりという事が毎回起こっています。こんなんでは先に言った公平性が乱れるので、やさしく単純に、それでいて公平な税制へと大改革をするのが今の日本の課題だと考えています。
なのでこんなくだらない根拠で消費税を上げるなんてもってのほかですが、これに関連して、今日はちょっとよい税金とはどんな税金かをちょっと解説します。なにぶん昔に習ったことなので少し記憶があいまいですが、税金には三要素と呼ばれる要素があり、それらを列記すると、「公平性」、「均等性」、「効率性」の三つだったと思います。
まず公平性というのは読んで字の如く、対象の集団の中で差別なく公平に取られるかどうかです。たとえば同じ収入なのにある人には低い税率が課されるが、別の人には高い税率が課されるというのは傍目にも不平等で、よい税制とは言われません。
次の均等性というのは、単純に行って累進課税や資産税のことです。これは税の配分にも関わってきますが、集団内の人間の収入を均等化させる効果のことで、要するに勝ち逃げさせない要素のことを指しています。
ここまでなら言われりゃ誰だってわかると思いますが、今日の味噌である最後の効率性というのは実は結構ネックな部分でありながら、あまり議論されることがない内容です。
この効率性というのは、いわゆる徴税のコストがどれだけ低いかどうかという事です。たとえば新聞の集金を想像してみてください。自動振込みにしておけば新聞屋が払うのは銀行への手数料だけで新聞代を受け取れますが、もし自動振込みでなければ集金を行う人を新聞屋は雇わなければならず、その分人件費が掛かってしまい同じ新聞代でも手元に受け取る金額は減ってしまいます。
このように、同じ税率でも徴税コストがあるとないとで収入の大小が変わってくるのです。そして実は日本というのは、この徴税コストが高い国だといわれております。
というのも、戦後から日本は一貫して直接税を主な収入源としています。これだと一人一人に税金額を計算、徴収を行わねばならず、また不正にごまかす人間もいちいち摘発せねばなりません。これはつまり、その分だけ国税庁の役人を雇わねばならず、また税理士なども各企業や自治体で雇わねばなりません。
ここで言ってしまいますが、実は私は消費税を上げる事には賛成なのです。というのも、消費税や酒税のような間接税だと徴収する対象は小売店やら事業主だけなので、その分徴税コストは少なくて済むのです。事実、日本以外の国ではほとんどが間接税が主体となっており、戦前の日本もそうでした。
最近は確かにIT化が進み以前ほどではないにしても、直接税だとやはりコストが高すぎます。なのでこの際、直接税の税率を大幅に下げる代わりに、消費税などの間接税の税率を大幅に上げるような改革をすべきだと思います。もちろん、欧米同様に食料や医療などにはその税率を課さずにです。
以上の三つの要素を満たせば満たすほどよい税制だということになります。あえて言うならもうひとつ、「わかりやすさ」もよい税制の条件だと思います。これもまた日本ですが、非常に複雑で税理士以外には誰もわからないとまでいわれ、そのせいで知らず知らずのうちに脱税をやっていたり逆に払いすぎたりという事が毎回起こっています。こんなんでは先に言った公平性が乱れるので、やさしく単純に、それでいて公平な税制へと大改革をするのが今の日本の課題だと考えています。
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