なんか設定を改めて見てみると、コメントがすぐに反映されないようには設定されていました。せっかく書いてもらっているのに悪いので、ちょっといじりなおして今度はすぐに反映するようにしました。
そんなことはさておき今日のネタですが、昔、倫理の授業にてある先生から、
「ヨーロッパ哲学の究極目的は、すべての事象を言語化することだ」
という話を聞いたので早速、自分の友人らにも受け売りで話してみました。現在のところ、この先生の言葉だけを話して、「なるほど」と、一瞬で理解できたのは二人だけですね。
もっとも、これだけで理解する方がむしろ異常です。実際にその二人のうち片っ方は私の友人の中でもエース級で、もう一人はこういった倫理や哲学に造詣の深い友人ですので、そういった素養があるからだと思います。
さてさて、ではこの言葉の意味することはなんでしょうか。私自身、完全に理解しているとは言い難いのですが、鍵となる言葉を言うと、物事というのは言語化されて始めて理解されるのです。
たとえば、今まで見たことも聞いたこともないものに、ある日誰かが触れたとします。しかも、偶然が重なり、なんと同じ日に二回もそんなことがありました。早速友人にその誰かは、
「今日、見たことも聞いたこともないものに触ったんだ。しかも二回も」
「その二回とも、同じものだったのか?」
「いいや違うよ。けどどちらも見たことも聞いたこともないものだった」
「そんなこといっても、聞いてる俺達には区別できないよ」
とな感じで、見たことも聞いたこともないものはたとえ別々のものでも、何かしら言語化、それこそ片方は丸いがもう片方は四角いなどとしなければ区別、果てには理解できないということです。
もともと、対象に名前を与えるということはその対象をその名前で定義するということになります。初めてメロンをメロンといった人によって、それまでただの果物だったものはメロンと定義されていくのです。
この論を発展して先ほどの先生は、ヨーロッパ哲学というのは物体から現象に至るまですべてに名前を振ることによって理解するのが目的だ、と私は言いたかったんだと思います。実際にヨーロッパ、というよりは欧米の科学的概念というのは物事をひたすら細かく分類することに注力しています。元々学問自体が事実の分類を進めることですが、日本とか中国などの東洋哲学はこの点が割とあいまいで、わからないことはわからないなりに話を進めようとして、儒教とか仏教では、
「なぜ空は青いのか」
「それは見る人の心がきれいだからだよ」
というような禅問答が成立したりします。それに対して欧米では、
「なぜ空は青いのか」
「普通、光があるとものが見えるだろ。つまり、光が関係しているのでは。そしてそれを敢えて名づけるなら、光の反射現象とでも……」
ちょっと極端な例ですが、割とうまいこと比較できたと思います。
こんな感じで、ヨーロッパでは各種の病気などにも名前をつけるだけでなく、心理現象などにも名前をつけ、細かく分類するようになっていきました。一番最初の例のように、体が発熱した状態でもウィルス性のものか栄養バランスの崩壊によるものかなどと言語化することによって分けて、そして理解します。こんなのがヨーロッパ哲学の概念だと、私は考えています。
そういう意味で、現在の日本の学問体系もヨーロッパ式に倣っています。まぁ確かに悪いわけじゃないんですが、逆に言うとこの形式では言語化しづらい領域は自然、無関心になりやすくなり、それこそ死後の世界と生き方とかはあまり真面目に議論されません。東洋哲学は逆にこの点が強いので、やはり両方学ぶのがベストだと私は思います。
2 件のコメント:
そうか、確かにそのような雰囲気があるように思います。ミルの自由論の翻訳したものを少し読んだのですが、ミルは自由に関しての影響や利益といった矛盾を他の哲学者から批判されていて、その弁明のためにあらゆる言語や見方を屈指して切り抜けているようでした。だから、すべての批判=現象をミルが説明できるようになれば、「人間は自由だ」とはっきり断言できるのだろうなと思います。
それと、いいお友達をお持ちのようでうらやましい限りです。
ミルは読んだことはないのですが、弁論学などが欧米で発達したのはやっぱりこういう背景があるからだと思います。
自分の友人らは胸を張って自慢できる連中ばかりです。本当は彼らにもコメントしてもらって、ここで議論とかしたいのですが(´ー`)
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