ページ

ラベル 教育、学問のはなし(´ー`) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育、学問のはなし(´ー`) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年4月18日火曜日

個人に合わせた教育法に関する考慮

 去年の今頃はロックダウンの真っ最中で、毎日家の中で暮らし、食べ物も野菜チャーハンばかりで今思い出しても涙が出てきます(´;ω;`)ウッ…
 今は普通に夜中とかに喉乾いたらコンビニ行って買い物とかできますけど、こうした自由が一体どれだけ価値があるのか、それがわかっただけでも全くの無駄ではなかったと思いたいです。二度とごめんですが。

 話は本題ですが、先ほどまたWBC準決勝の村上選手のサヨナラ打を見て涙を流してましたが、マジでこの10年くらいで日本の野球は桁違いに実力を上げていると感じます。少子化や野球人口の減少などを考慮するとこの成長は異常発達のようにも見えますが、躍進の背景としては根性論から脱した科学的トレーニングの普及や、前の記事にも書いた各チームがそれぞれ人気を得るようになり、実力を高め、リーグ内で切磋琢磨が働くようになったことが大きい気がします。
 このうちトレーニングに関しては、大体7、8年くらい前から画一的な指導ではなく、選手ごとに特性に合った指導やトレーニングを貸すようになったのが功を奏しているという指摘を見たことがあります。具体的には、同じ投手でも身長や腕の長さ、柔軟さによって最適とされる投球フォームやトレーニングは異なり、誰かが成功したからと言って同じトレーニング法が誰にでも通用しないといった価値観です。

 それこそ、大谷選手がやっているトレーニングをほかの選手がやったところで、大谷選手のように活躍できるわけではないでしょう。また現在の大谷選手がやっているトレーニングを、今の体が出来上がる前の大谷選手がやったところで功を奏すかという点でも疑問であり、同じ選手であってもその時期に応じて必要とされるものは変わってくるというのが常識化してきています。

 以上は野球の話ですが、勉強面においても結構同じことが言えるのではないかと前から密かに考えています。例えば進学校の生徒が受ける授業を底辺校の生徒に受けさせたところで、成績が上がるかと言ったら多分そうはならないでしょう。下手したら授業についていけず、従来の授業を受けるよりも成績が低下する可能性すらあるのは、検証するまでもない事実でしょう。

 では進学校の生徒は同じ授業を受けていたら成績も同じようになるのかと言ったら、進学校の中でも優劣は当然分かれてきます。その分かれ目とは何なのかですが、単純な地頭の良さの差と言ったらそうでもないような気がします。というのも、入学試験である程度水準は均されており、極端な差は本来なら出ないとも考えられます。
 私自身もちょっとそういうところがあったというか、学校の授業だとあまり覚えが良くなく、外部の予備校とか自習の方が成績に直結しやすい傾向がありました。はっきり言えば通った学校の指導法があまり合っておらず、無理して通わず自分で勉強していた方が効率よかったなと今でも本気で思っています。

 私のケースで言うと、一つ一つ足場を固めながら知識を広げるのではなく、まず全体像を見てから重要な個所をピンポイントで埋めていき、ある程度埋まったところで残った余白を埋めるような勉強法が肌に合っています。恐らくこうしたタイプはレアな方なので学校が悪いわけではないですが、とにもかくにも指導法は私には合っていませんでした。
 その上で、仮に私のようなタイプの人間であれば、学校の授業を受けて成績が悪くても、勉強法を変えることによって劇的に成績を上げる可能性もあるんじゃないかと思います。それどころか、上記のようなタイプに限らず、個々人によって合う勉強法、合わない勉強法があるのではないかと思え、その辺のマッチングをよくするだけでも全体の学習力や意欲も向上するんじゃないかというわけです。

 本来ならそういうのは学風というか、学校の指導方針や教育理念とかで大雑把にとはいえ擦り合わせていくべきものなのですが、近年の中学や高校の募集要項とか見ていると、あんまそういう大方針には触れず、校舎施設や制服、あと部活動などをアピールして募集するパターンが多く、こと勉強に関してはどんな指導方針なのか読み取りづらくなっている気がします。まぁ昔からでしょうが。
 また学校全体の指導方針があっていたとしても、教師との相性も存在するだけに、学校選びが正解であっても授業が正解となるわけでもありません。そう考えると、自分に合った教育法、学習法を見つけ、それを受けるのは難しいことかもしれません。

 唯一の効率的手段としては、少人数、場合によってはマンツーマンの指導が受けられる予備校などがそれに当たるかもしれません。コストは高いですが、こうした指導を受けることで花開く人もいるかもしれないので、自分に合った教育法を探すうえではすごくいいのではないかという気がします。自分も中学に受けたマンツーマン授業を受け、「学校の授業は無理して聞かなくてもいい、っていうか時間の無駄だな(´・ω・)」とぶっちゃけ理解するに至ってますし。

2023年1月24日火曜日

日本にあったと思うエリート校

 一蘭が作ったソーセージは一蘭製ソーセージと呼ぶのかなどと考えながらJBpress用の記事を書き上げほっとしていますが、上海も今日は強風が吹き荒れる寒い日で、家の中に閉じこもって「アイドルマネージャー」で遊んでました。作ったインタビュー番組の名前は「ごぼうでいいとも」。

 話は本題ですが前の記事で私は、東大はエリート育成校というよりかは官僚養成校であり、実務家しか育てないという風に書きました。官僚だってエリートじゃんと言われるかもしれませんが、この一連の記事における私のエリートに対する定義は、まず高い実務能力は備わっているのは基本前提というか足切り条件で、その上で書きの能力に富む人物だと考えています。

・自己判断力
・統率力
・責任感

 では上記のような能力を備えたエリート育成学校は日本にあるのかと言えば、はっきり言えばありません。特に最後の責任感については、日本人は本能的に責任から逃げることを主目的としており、多分エリート育成の上で最大の障害になるでしょう。
 その上で、かつて上記要素を備えたエリートを輩出した学校が日本にあったかというと、それに関してはあったんじゃないかと内心考えています。単純なエリート輩出率でいえば、幕末の松下村塾がぶっちぎりトップですが、松下村塾だと期間が短くて時代的要素も大きいので敢えて省きます。ではこれ以外となると上がってくるのは、意外や意外に戦前の学習院じゃないかと考えています。

 戦前の学習院は皇室と家族の子弟の教育を目的として作られました。でもって伝え聞くところによると全寮制で、通う子弟たちはみんな寮に住まわされて、教員らの指導を授業以外でも受けていたとされます。
 こうした教育システムは、恐らく学習院自体がモデルとしたのでしょうが英国におけるエリート校と非常によく似ています。階級によって入学をあらかじめ制限するという障害こそあるものの、日常生活から指導するとともに、皇室の藩屏という意識を叩き込むという上では、国家を背負って立つエリートの育成においては適したシステムであったのではないかと思うわけです。

 もっとも現代においてはこんなシステムはもはやなく、ただの一私大になり下がっており、皇室、っていうか秋篠宮家もなんとなく距離を置き始めているように見えます。コムケイを誕生させたICUよりかはいいんじゃないかと思うんですが。

 さらっと書いていますが、エリート教育で模範とすべきはやはり英国だと思います。英国のエリート教育の特徴は「エリート生徒を特別視する」ということで、優秀な生徒には式でサーベルを帯剣させたりするなどいろいろな特典を付けさせるそうです。なんでそんなのするのかっていうと、「自分が特別」だと思わせるとともに、「特別であるだけに変なことしたら学校のブランドなどを傷つける」という責任感を負わせると言われます。
 これは奨学金をもらう生徒にも同じことをしているそうで、掲示板とかで「奨学金被授与者」みたいに公開するそうです。これにより、うかつな行動を取ろうものなら剥奪されるというプレッシャーを与えるとともに、努力すればこうした特典や栄誉に預かれるという競争心に火をつけさせるというわけです。

 この辺で恐らく、「日本とは逆だ」と考える人が多いと思います。奨学金をもらっていることを公開したらプライバシーの侵害だという人もいるし、特定の生徒を特別扱いする何て平等に反するという風に感じる人もいるでしょう。結構テクニカルに今この記事を書いていますが、そう考える人がいるという時点で、日本はエリート教育と対極的な教育が支配的であることを証明している気がします。
 そういう風に言えば、極端な平等主義こそがエリートの芽を摘んでいるのかもしれません。

 私自身は何もすべての学校とは言わず、一部の特定学校で英国式の教育を取り入れ、エリートを少量生産することが日本にとってプラスだと考えます。一部でそういう取り組みを目指そうとする動きもみられるものの、少なくともまだ結実しているようには見えませんし、上記のように抵抗する勢力も存在するでしょう。

 最後に余談ですが、一連の記事で自己判断力がエリートにとって大事だと何度も書いていますが、自己判断力があるだけでエリートとは考えていません。やはり統率力ことカリスマ性や責任感、そして高い実務能力を兼ね備えてこそエリートであり、自己判断力一本ではエリートとは呼べません。
 とはいえ、そんな自己判断力がある人間はそれはそれで貴重です。手探りのような状況を打開する上ではもってこいな人材であり、社会においては一般的な人より価値があると思います。それこそ以前に例えたようにエリートを指揮官、一般人を兵士だとすると、自己判断力がある人はさしずめ敵地に潜入して自分で考え行動をする特殊工作員的な役割の人間だと思います。

 このエリートの育成に関してかつて佐藤優氏は、戦前に工作員を養成していた陸軍中野学校こそが理想の学校だと主張していました。この意見に関して私は否定的で、というのも陸軍中野学校は確かに自己判断力を育成していただろうけど、エリートに必要な統率力や責任感は置き去りにしていたと考えるからです。そういう意味でも、自己判断力だけに特化しているのは工作員に過ぎずエリートではないという見方を持ちます。

2023年1月22日日曜日

エリートを育成できない東大の教育

 先日の記事で私は、日本の教育は基本的に自我を奪い従順な人間を量産する方向に異常に特化しており、結果的に自己判断力が極めて低い国民を量産していると指摘しました。文字に書くと結構過激な文言に見えますが、これまでこうした傾向を説明していて誰一人として否定する人はいません。
 その上で、別にこうした教育は国家目線でいえば従順でまとまりのある国民を作るうえでは悪くはないものの、あまりに特化し過ぎているため、結果的に自己判断力に富み、大衆を引っ張ることのできるエリートを生むことができなくなっており、それが日本全体のやや歪な人材構成を生んでいるという考えを呈しました。また以上のような人材構成を軍隊に例えて、「指示待ちの兵隊がたくさんいるけど指揮官が一切いない状態」と評しました。

 またその記事で私は、「東大にエリート教育はない」と書きました。この辺について少し解説すると、東大が日本最高の教育機関であることは間違いなく、その排出する人材は実際に社会から評価されるなどブランドもあり、また数多くの首相も輩出するなど政財界に重きをなしています。
 ただ、特に政治エリートにおいては顕著ですが、東大での政治エリートは東大の教育が良かったから政界で活躍したというよりかは、東大以前の家庭教育がその能力に及ぼす影響が大きかったように感じます。

 前回記事で例に挙げた竹下登をはじめ、昭和期の首相の多くの実家は酒造家や地主など、地元の名士たる家が非常に経歴として多くありました。こうした家庭では周辺の人々や繁忙期に大量に抱える労働者などの管理がごく身近にあり、そうしたところでエリートに必須の集団への指導力や統制力、いうなればカリスマ性を磨いたのではないかと伺われます。
 近年においては東京一極集中もありこうした地元名士出身者が減っていますが、その代わりとして増えているのが二世政治家です。この点でもやはり、バックボーンのない東大出身者というよりかは政治家の家で育ち、政治家である親類の党員や秘書、運動員らの動かし方を学んでカリスマ性を磨いていると思われ、たとえ東大を出ていようとも、東大の教育がエリートに求められるカリスマ性に影響を与えたようにはあまり見えません。

 では東大の教育は何なのか。そもそも東大は官僚育成校として創設された経緯があり、現代においても中央官僚(理系は国家級研究者)への登竜門としてはっきり認知されています。結論から言えば、実務能力の育成にやや特化しているきらいがあり、社会におけるエリートを育成、輩出する校風もなければ、そういう教育を行っているという様子も見られません。
 現代においてはどうかはわかりませんが、昭和期における東大法学部の授業は最前列の座席が取り合いになって、最前列に座った人間は講師の発言を一言一句ノートに書き残すという授業風景が当たり前だったそうです。というのも、省庁入庁後もある程度東大時代の授業評価が出世に左右されたそうで、基本的に講師の言うことの完コピが授業形態であったと聞きます。このエピソードを聞くにやはり東大の授業は自己判断力、集団指導力を育成するような要素は見られず、言っては何ですがやはり言われたことを確実にこなす「従順さ」を大学としても求めているようにしか見えません。

 それでも日本社会で東大は「エリート」として見られていますが、上記のような見方から自分としては欧米で言われるエリートとはやっぱ違うという風に感じます。それこそ先の軍隊のたとえでいえば、命令遂行能力が極めて高く、目標達成に向けた現場判断(=戦術)などの一定の裁量権が付与されるという点で、現場指揮官に当たる少尉とか大尉と呼ばれる尉官級の人材に相当するのではないかと思います。少なくとも、日本の官僚に関してはそうした立場が実際に求められるし、実際そうなっているでしょう。

 そういう意味でやはり、戦略を立案、指示して軍団を率いることができ、自己判断力(=自我)を持つ将軍クラスの人材は、少なくとも東大の教育でほとんど育成されないし、実際輩出されていないように見えます。東大に限らず、京大などほかの国立も同様で、少なくとも「この高台にいる敵兵1000人を移動させるにはどうする?」といったような指導をする学校はないでしょう。
 唯一、エリートを構成する要素であるカリスマ性という点では、早稲田や慶応などの学生数の多い上位私大であれば、サークルをはじめとした大学内の団体活動の中で集団に対する指導力を磨くチャンスがあり、もともと高い実務能力を持っていて自己判断力も持ち得ていたら、エリートが発生する可能性があると思います。そういう意味で前回記事で私は、エリート輩出という点ではむしろ上位私大の方が確率として高いと主張しました。

 しかし総じていえば、日本の公教育機関においてはエリートを育成し得る教育体制や方針を備えている学校は一切存在しないというのが自分の見方です。その上で日本はエリートの自然発生を待つだけで必要な数を揃えられないばかりか、自然発生したエリートに対しても相応しい地位を用意できず、活用もできていないのではないかとみられます。そういう意味でも、エリートを育成する教育機関がやはり日本には必要じゃないかということになってくるわけです。
 ではエリートを育成する教育機関とはなんぞや。結論から言えば英国のイートン校といったエリート校がモデルとなりますが、日本国内にも過去の歴史では有力となるモデル校が存在したと考えています。その辺はまた次回で。

2023年1月15日日曜日

日本の教育におけるエリート欠如の大失敗

 昨日から上海は明日辺り日本に来そうな寒波がすでに来ていて、今朝雪が降る中洗濯ものを干したらみんな凍りました。

【動画】「女王の教室」とかいう20年前のTVドラマ、ガチでやばいwwwwwwwwww(暇人速報)

 話は本題ですが上の記事見て前々から用意していた記事ネタをそろそろ出さないとなと思ったので出します。大分前に自分は、日本の教育の究極目的は何かと問われるなら、生徒らの「自我を徹底的に潰す」ことにあると主張しました。自己判断力を落とすところまで落とし、世間一般でいわれている大学を出て、サラリーマンとなって定年まで過ごすことが最上の幸せだと信じ込ませ、実体のない「世間体」を気にして目立たず過ごすことに疑いを持たせないようにするのが、日本の教育だと考えています。
 具体例としては体育会系と呼ばれる運動部などでの極端な上意下達主義、作品内容の肯定以外は絶対に認めない読書感想文、選択余地のほとんど少ない授業選択などが挙げられますが、プロセスを挙げるまでもなく成人となった日本人の行動を見るだけでも自分の主張は立証できると思います。

 ただ、私自身はこうした自我を奪う日本の教育を必ずしも否定しません。私自身は幼少より極端に自我が強い、というより自分の頭でやたら物事を深く考える癖があったため上記の日本型教育は相性が悪く、小中高すべてであんまいい記憶ありませんが、こと「良質な国民の規格統一生産」という面では、日本型教育はよくできていると思います。
 ただ国家視点で見ると、こうして生まれる自我の少ない日本人というのは、やはりソルジャーでしかありません。軍隊で言えば良兵が大いに越したことはないものの、指揮官がいなければ指示待ちで何も動けない軍隊になります。ではその指揮官は何なのかというと、社会でいえばエリートとなります。

 ここで勘のいい人は分かるでしょうが、日本は従順な一般国民を大量生産することには成功しながらも、その優れた国民を活用して生かすエリートが絶対的に不足している、というのが今の現状だとみています。ではその日本のエリートはどうやって生まれているかですが、ぶっちゃけ自然発生的なものに今は完全に頼っており、教育によってエリートを補充する術を失っているのではないかというのが自分の見解です。

 本来ならこうしたエリートはいわゆるエリート教育を経て高品質少量生産されるものであり、かつては東大や京大など上位高が担っていた……という説は、最近疑問視しています。むしろ国立大よりも私大の方が学生数が多いこともあり、集団を率いる素質という点で早慶などの私大の方がエリートを生んでいたように思います。ただそれは私大の教育がエリートを育成していたというより、そうした私大出身エリートの実家、つまり家庭教育である程度育成されていた面の方が大きいのではないかという気がします。
 ひとつ例を挙げると竹下登で、この前ニュースにもなっていましたが彼の実家は地元名士たる酒屋で、そうした家庭環境が集団を率いる面での力や物事に対する決断力を養成したのではないかと考えています。何気に戦後政治家としては、自分の中で池田隼人に次いで高く評価しています。

 もっと長く書いてもいいけど寒いしゲームしたいのでまとめに入りますが、自分の言いたいことを言えば今の日本の教育は自我を奪って良質な国民とする一般化教育が強くなりすぎて、日本全体でエリートを育成するエリート教育を完全に忘れてしまったし、こうした教育を施せる教育機関も消え失せてしまったのではないかということです。
 またエリート育成で大きな役割を担ってきた家庭教育も、平成に入ったあたりからどっかでプツンと切れてしまい、どうやればエリートができるのか、国全体で忘れてしまっているように見えます。こうして、「兵多くして船進まず」ならぬ「船頭おらずして船進まず」みたいな国ができましたとさ、というのが自分の見解です。

 その上で自分の方から居丈高なアドバイスをすると、エリートをどう増やすか、というのはもはや議論として成り立たないと思います。何故なら増やし方を今の日本は完全に忘れてしまったし、また時代の変化に合わせたエリート育成方法も新たに作る必要があるでしょう。
 そういう意味で今必要な議論は、「優れたエリート育成方法とは何か」という議論だと思います。増やし方ではなく作り方から始めないと、もうどうにもならないでしょう。まぁ勝手に沈んでもらっても自分としてはもう気になりませんが。

2022年2月23日水曜日

中国人の「最近の若い者は……」

 先日に友人と食事した際、「ところでそっちの会社の若手社員はどう?」と尋ねる機会がありました。その質問の答えが見出しに掲げた通り、「ダメ、能力が低い。これだから最近の若い者は」でした。

 日本ではとっくに該当する時期は過ぎたもののまだ「ゆとり世代」という言葉が出来そこないな若者を揶揄する言葉として使われていますが、中国でも「80後(1980年代生まれ)」「「90後(1990年代生まれ)」という言葉が長らく使われ、最近は「00後(2000年代生まれ)」という言葉も段々普及してきました。
 ちなみに同じような話題で同僚と話してて「やはり90後は世間の評価が低いよね」と女性の同僚に話し振ったら、「あたしだってギリギリ(1990年生まれ)90後なんだけど(#^ω^)」と凄まれました。10年間でひとくくりに世代にするとこういう問題が起こりうる……。

 話を戻すと何故若手社員の質について私が聞いたのかというと、私自身が最近入社してくる社員(中国人)の質が明らかに落ちてきていると感じているからです。上がってくる報告書は誤字を含め間違いだらけな上、仕事の段取りが悪くスケジュールがおかしくなったり、上司に確認してもらったと嘘を言ったりと、ほんの数年前と比べても明らかに業務が回される自分の立場からしておかしな仕事の回され方をされることが増えているからです。こうした状況はうちだけなのか、それとも他の会社でもそうなのかという点が気になり、冒頭のような質問をしたわけです。

 こうした単純な業務処理能力だけでなく、メンタル面でもやはり往年の世代と比べると劣るとよく聞きます。中国人女性の友人なんか、「あいつらちょっと叱ったらすぐ泣きだしやがる( ゚д゚)、ペッ」とよく洩らします。
 ちなみにこの手の「若手は使えない」と主張する人は、中国人だと明らかに女性のが多いです。ぶっちゃけ仕事に対する厳しさで言えば、中国だと男性より女性の方が厳しい姿勢で臨む人が多い気がします。

 脱線しまくっていますが上記の通り、中国でも「これだから最近の若者は」現象が日本と同様に起きています。もっとも自分たちの世代も上の世代からは同じように言われていただろうし、古代ローマ時代の文書にも「これだから最近の若者は」って記述があったとのことなので、どの時代でも関係なく起きる現象なのかもしれませんが。

 たださっき語ったように、明らかにこの数年で下から上がってくる報告書の質が明確に落ちてきています。こうした報告書の執筆作業は現場に入りたての若手がやる仕事であり、また毎年定期的に作られる報告書なため、比較条件で言えば環境方面は共通しているだけに、その差はやはり能力差であると思っています。仮に私の見立て通りに実際に今の中国の若者がほんの数年前と比べても能力が落ちているとしたら、その原因は何なのかって話になってきます。

 冒頭の友人との会話でもまさにこういう話題となり互いに原因をいくつか挙げていったのですが、その中の一つに「一人っ子政策によって兄弟がなく、社会性で劣るからかな?」という意見を私が上げました。そしたら友人は即座に「それはない」と言ってこの意見を否定し、「だって俺たちも一人っ子政策時代でみんな一人っ子だもん(´・ω・`)」と言われました。
 若干偏見が入っていますが、日本国内にいた頃は相手が一人っ子だと「こいつわがままやろな(´・ω・)」と内心考え、兄弟が多い奴だと「こいつは安心できる(´・ω・)」などとはっきり考えていました。実際にこの法則は当てはまることが多く、兄弟が多い人だと人当たりも柔らかくて人間関係も安定することが多かったです。

 その点、中国は長らく一人っ子政策をやってきたこともあって、私だけでなく多くの人が「わがままな奴が多い」といい、中国人自身も上の世代からはまさにそういわれてきました。そうしたわがままな一人っ子がさらに甘やかされて育てられて能力も落ちているのかなどと考えたのですが、友人の言う通り一人っ子政策は今の中堅世代も当てはまるだけに、近年の若者の能力低下理由にはならないでしょう。

 では何が最近の中国の若者の能力を落としているのか。考えられる理由はまだあり、一つは単純に物質的な豊かさが得られ、ハングリー精神が落ちてきていることが挙げられます。これは中国人たちも指摘しており、特に起業意識を持つ若者は一時期と比べると劇的に少なくなっています。

 もう一つの仮説理由として、密かに大学進学率の上昇があるのではと見ています。
 中国も2000年頃と比べると大学進学率は現在跳ね上がっており、前は本当にごく一部のエリートだけが進学したのに対し、今は頑張ればある程度誰でも進学できるようになりつつあります。しかしそうやって同じ大学を同じ専攻で卒業したとしても、以前と比べると能力が落ちてきていることとなります。

 この大学進学率の仮説は日本での状況も意識して出てきた案です。日本も大学生の数や進学率が高まるにつれて若者は能力を失っていったと言われるようになったと思え、大卒者の選別割合が単純に大きく影響しているのではないかと睨んだからです。また学生の数が増えるにつれて教員の指導対応人数割合も拡大し、一人当たりにかける時間の希薄化もあるかもしれません。
 まぁ大学教員もある程度は増えていますが。増えた分だけ、教員の質も希薄化されているかもしれませんが。

 つまるところ何が言いたいのかというと、大学進学率を高めることはかえって、大卒資格者全体の能力を下げることになる可能性もあるのではということです。こういった主張は私以外も言っている人がおり、大学進学率は一定程度まで到達すると、それ以降は社会全体の効率向上にあまりつながらなくなるという主張だった気がします。
 この辺はもう少し煮詰めるともっといろいろ出てきて面白くなるかもという気もしますが、現在進行形で日中で同時に起きている「最近の若者は」現象は、大卒者の人数が拡大されたことによる影響ではないかと今睨んでいます。

 もう一つ付け加えると、中国の大学試験の難易度自体は年々上がっており、去年に学習塾営業停止令が出ましたが、受験競争も激しくなっています。日本でもセンター試験などはどんどん難しくなっており、こと大学入学時点の学力で言えば日本も中国も現代の方が過去より上でしょう。
 それにもかかわらず社会における能力が低下しているとしたら、やはり教育体制そのものをもっと組み立てなおす必要があるでしょう。そういう意味ではこの日中での若者の同時比較は意外と価値を持つのではないかと思うわけです。

2021年11月13日土曜日

ニートを生む教育法

天才なんJ民「過干渉な母親には、ある日"子育ての大変換"が起きる」(暇人速報)

 上のまとめ記事は先月見たものですが、非常に納得感があるというか金言だと感じる内容が書かれてあります。直接抜粋すると、

32 風吹けば名無し 2018/10/17(水) 04:34:04.69 ID:fBdqdJ6Yd
子供をいつまでも幼児扱いする過保護過干渉な母親と、寡黙で子育てに無関心な父親
ことあるごとに母親が口を出してくるので、子供はどんなことでも母親に意見を仰ぐようになる

入る部活から、家庭科で使う裁縫道具のケースのデザインまで何でも口出しされる
母親に反対されそうなことは怖くてできないので、行動力の無い子供になる

また、こういう母親は往々にして他人の悪口を平気で子供の前で言うため、子供も人嫌いになったり、対人関係における好き嫌いが激しくなり友達もできない
しかし、人生の出来事において全て母親が過保護とはいえしっかり面倒を見切れるのならニートになることはないかもしれない

問題は、高校大学受験や就活などの人生の大きな節目になると、母親がビビって急に口出しをやめることである

それまで何においても干渉してきたくせに、子供の人生を大きく左右するそれらのイベントに直面すると途端に怖じ気づき、「自分の人生なんだから自分で決めなさい」と一切の口出しをやめてしまう(子育ての大転換)

突然母親という羅針盤がなくなった子供は、どうすればいいかわからず受験や就活に失敗し、ニートになる
ここに来て、ようやく重い腰を上げた間抜けな父親が叱責を始めるが、自分に無関心だった父親が今更何を言い出すのか、と子供は反発し、更にニートの地位にしがみつくようになる

というわけや

 簡単に言いなおすと、子供の進学や進路について小さい頃から細かく口出す母親の元で育つと、子供は自らの方向性や将来について考えられなくなるのに、大学神学者就職などの重要なシーンになって母親が怖気づいて急に指示しなくなると、子供はニートになりやすくなる、といったところです。この主張ですが上にも書いてある通り私としてはまさにその通りだと感じるとともに、まさにこういうケースだと感じる人を実際に何度か見ています。それまで過干渉だったのに突然干渉をやめ、ある意味悪い場所で突き放されることで躓くような人がまさにそういう人でした。

 先日に私は「日本人の自我形成における大学教育の重要性」という記事も書いていますが、実はこの記事を書くきっかけとなったのも上の書き込みです。上の書き込みを読んで、またかねてより日本の教育は大学を除いて自我を叩き潰すことが目標になっているという前提を掛け合わせたところ、結局のところ日本人の自我はどこで形成されるのかというと大学在学シーンで、だからこそ各大学の学風というかスクールカラーも成人において比較的わかりやすくみられるのではという結論になりました。

 話を戻すと、仮にニートになる人の一部原因がまさに上の書き込みの通りであるとしたら、その対策はやはり子供の節目節目で、自らに自分の生き方や価値観を自己決定させ、自らが判断する重要性とその責任をはっきり自覚させることに尽きると思います。具体的にはまとめ記事にも書いてある通り習い事や高校などの進学先については強制はせず、本人が望むものを取捨選択させたり、誤った選択であることをわかっていながら本人が望むのなら敢えて選択させて、失敗の経験を敢えて積ませるなどが対策となりうるのではないかと思います。

 その上で、前の記事で主に取り上げた自我について、地味に日本人とその教育を分析する上でかなり重要なワードじゃないかとこのところ思うようになってきました。突き詰めれば自我が未発達の状態で突き放されるということが上の書き込みの内容で、自我をどのように形成させるか、またその自我が暴走しないようにどう抑えるかをもっと日本は考えるべきだと思います。
 具体的には、小中高の自我を叩き潰す教育は早くやめるべきだと思います。この教育法の中で自我を発達させるには既存権力(両親や学校)への反抗しかほぼないように見え、仮に家庭教育の中で自我が育成されなければ本当にもうどうしようもなくなります。

 一方で、現在の大学教育はやはり日本だと非常に重要だと思います。カリキュラムに関してはもっとどうにかしてほしいという気持ちがありますが、授業出席を強制せず、本人の自主性にある程度委ねる姿勢はやはり維持されるべきでしょう。真面目に日本の自我教育における最後の砦な気がします。

2021年7月13日火曜日

どうやれば行動力を高められるのか?

 またブログの更新が空きましたが一昨日と昨日は次のJBpress記事書いてたせいです。前回までは毎年恒例の夏の歴史特集記事を仕事の繁忙期に合わせてため記事として書いて出していたので、JBpress用記事を書くのはリアルに1ヶ月ぶりくらいでした。っていうか普通にサラリーマンしながら毎月2回記事書いて出してるのってかなり異常だと思う。仕事も決して暇じゃないし。
 あと昨日から上海めちゃ熱い。昼間は会社オフィスで冷房浴びれますが、家帰ってさっきまでは扇風機でこらえてたけど室温30℃ぶっちしていてこれもう無理と思って冷房つけました。気にせず冷房つけられる身分になれたことが単純にうれしく、10年前は扇風機でリアルに我慢してた頃を思い出すと泣けてきます。

 話は本題ですが前回このブログに書いた通り、今の日本の教育問題は突き詰めると日本人全体で行動力を失ってきている点だと私は考えています。じゃあ行動力を高めればいいってことになりますが、これがどうすればいいかって点でかなりむずいです。ただ少なくとも、かつてと比べると現代日本人と子供は明らかに行動力を失った無気力人間となっているので、その辺から攻めて行けば何かヒントが出てくるのではないかと思っています。

 まずいきなり挙げる一つの手段として、大学の定員を大幅に削減するってのがいいと思います。知識を身に着けることで行動力を高める人もいますが、大多数はむしろ無駄な知識とともに無駄に行動力を減らすパターンが多く、むしろ高卒ですぐ就職する層を増やせば全体で行動力は高まるんじゃないかと思います。
 一体何故知識がつくと行動力が落ちるのかというと、将来を予測することが増えるからだと思います。基本的に人間はリスク回避思考で動きますが、全く予想がつかないとある程度行動はするものの、変に予想できてしまう、一例を挙げると三流私大だとあまりいいところに就職できないという先入観持つと、やはりその行動力は限定されてしまう気がします。であればかえって将来が見えない方が当人にとってもいい結果をもたらすのではないかと日ごろ思います。

 次に、単純に挑戦ということを重視させるというのを挙げます。これなんか小中学生辺りには良いと思います。
 むしろ今の日本ほど「挑戦」することへの価値が低くなっている時代はなかったんじゃないかと思います。企業も余計な事せず既存事業の深堀だけしかやらせようとしないし、学校でも部活の拘束が変に激しくなって、部活を掛け持ちするような子供なんて今皆無でしょう。っていうか自分も部活参加日がもう少し限定されていた茶道部とか入りたかった。

 なんだかんだ言って昨日に1件で5件分くらいのクソ重たい仕事してフラフラなのでもう最後の挙げちゃいますが、単純に行動力を高めるのに一番いい方法は何といっても欲望を刺激することに尽きます。物欲だったらお金を稼ごうと動くし、女性にもてようと思ったらいろいろ聞かざるなど、人間の行動原理において欲求や欲望というのは非常に重要なポイントです。
 ただ言うまでもないですが、その欲望が異常に大きすぎると満たすことができない現実とのギャップで心理的圧迫を生みます。また充足手段がないにもかかわらず充足させようと変な行動力が出てしまうと、犯罪行為につながってしまいます。

 こうした点から古来より宗教を始め、如何に自らの欲求を抑制しコントロールするかが重視されてきましたが、近年の日本においては抑制され過ぎというか、欲求がもはや高まらなくなるに至っています。敢えて言うなら、モルヒネ打ち過ぎて痛覚なくなってしまったというべきか。
 かくいう私も出世欲とかは昔から皆無だし、生活に関しても華美なものはあまり好まず非常に質素です。物欲においても、近年最もときめいたのはこのブロンズ不動明王像くらいです。

 逆を言えば、ブロンズ不動明王像を見た時は本当に小学生くらいのときめきを感じて、「ああ物欲ってあり過ぎてもだめだけど、なさ過ぎてもだめだな」と本気で思いました。やはり一定の欲望があると何とかして達成しようという意識が働くし、何もしてない時も「あああれ欲しいなぁ」みたいな感じで思考が動きます。欲しいものが全くない時なんか、「これから何しようか」みたいな途方に暮れた感情を覚えますし。

 そういう意味で、適度に子供の段階から「欲しい物は欲しいと考え、真っ当な手段で得られるよう努力しなさい」と教えるのは良いことだと思います。でもって日本社会はもっと欲望を刺激する、具体的には広告業の連中もっと頑張れよとか思います。ライフスタイルも最近はミニマリストばかり取り上げられてタワマン成金がむしろ叩かれる現状ですが、自分に言わせればタワマンはやや極端すぎるもので、もう少し手の届く、100万円以内、できるなら30万円以内の単価の商品なりサービスで世間に注目を集めさせるべきでしょう。

 この辺昔考えたけど、女性だったら化粧品なり宝飾品などいくらでもありますが、男だとかわせる商品自体がなかったりします。昔だったら自動車がありましたが今はそれほど価値がなく、あと自分だったら自転車なら興味持ちますがこれもみんながみんなってわけじゃありません。となるとやっぱり行きつくのはプラモかと、何故か自分の趣味に入っていきます。しかもプラモだと安いし。

2021年6月29日火曜日

日本に必要なのは行動力を育てる教育?

 今日は締切にあんま追われてないからすぐ帰ってきたけど、明日当たりからなんか仕事やばそうで、ブログ書く機会も減るだろうからもうこのネタ放出します。最初にネタと関係ないけど、今日のJBpressで出てた「逃走事件のヘビより巨大だった我が家の4メートル『アナコンダ」の記事を見て、「こんな見出し反則だろ」と思いました。こんなの見たら読むしかないじゃん。

 結論から言うと、今の日本の教育で最も足りておらず、最も必要なのは「行動力」を育てる教育なのではとう気がします。

 私がこのように思ったきっかけは結構ありますが、一つはあるゲーム専門学校の話です。その学校の講師によると、就職率はほぼ0%で誰もまともに就職できないのですが生徒はやってくるそうです。で、何故卒業後に就職できないのかというと、とにもかくにも生徒らが無気力だそうで、あれこれ熱心に教えようとしても全然反応がないということだそうです。厳しく指導しても、「なんでこんな風に怒られてんだろう」みたいなキョトンとした顔されるとのことで、講師たちとしても指導しあぐねるという話を以前みました。
 また今回記事を書くきっかけとして、最近の子供がゲームを遊ばなくなってきた原因の一つとして、「ゲームを起動させるのが面倒だから」という理由があるという話をネットで見ました。ほんとかどうかわかりませんが、私個人としては実際ありうるのではないかと思え、そう思うくらい確かに最近の日本の若い世代は何事にも無気力で、何か自分が求めることを追うよりも、すべてめんどくさいからとりあえず生きていけるレールになった人生を消極的に選ぶ人が多いように見えます。

 突き詰めると、日本全体でこのところ盛り上がらないのは日本人がみんなして無気力化していて、特に若い世代で深刻だからではないかという結論に至りました。では何故若い世代ほどこの傾向が顕著なのか、理由はいくらでも挙げることができて、PCやインターネットの発達で社会の利便性が高まったから、日本全体の経済と社会が縮小しているから、苦労しなくても死なない程度に生きられるようになったからという風に、理由づけしようってんなら無限にできます。
 ただ一つだけ強めにいうこととして、「裕福になったから」というのは確実に理由として当てはまらないでしょう。90年代くらいなら通用したかもしれませんが、2000年以降の日本は相対的に貧困化が進んだ一方、無気力な子供はこの間も増加しているように見えるからです。むしろ近年は「金持ちの子供は無気力」というよりは逆に、「金持ちの家ほど行動力がある」ように見えます。逆は私に言わせちゃなりません。

 私の見立てでは無気力化は先ほどに上げた理由がそれぞれ一部ずつ当てはまって、複合的に作用した結果ではないかと見ています。その上で、同じく無気力化の原因でもあるものの、歯止めをかけられるスイッチ部分に当たるのが教育だと思え、やっぱこの点で「行動力」、「ガッツ」というものを根本的に教え込むことが日本、ひいてはアレフガルドを救うことになるのではという風に思えてきました。
 自分で言っててなんですが、今のちびっこはもうアレフガルドと言ってもわからないんだろうな。

 私が小学生だった頃は数年ごとに起きる自殺問題が盛り上がってて「ゆとり教育」とともに「生きる力」が教育の重点に掲げられましたが、結局それは何だったのか未だにわかりません。どうせ教えるんならメタルギアソリッド3ばりにサバイバル能力とか教えればよかったのに。
 話を戻すと、中途半端に知識を授けるから無気力になっているのではと思う節があります。失敗する未来が見えると誰もが歩みを止めますが、それが見えなければ誰もがそのまま突っ込みます。そうした無謀のような行動力こそが今の日本に絶対的に足りてないように思え、「ダメかと思っても何も考えず取りえずやってみよう」的な精神こそ、教育で教えるべきでしょう。

 実際にというか、社会においては知能よりもこの手の体力と行動力に溢れた人の方が頼りになります。また学生においても、片っ端から手を出していろいろなことを経験している人間の方が、やはり伸びしろがあるように思います。まぁそれくらい行動力あって、知能も備わっていればさらに強いわけですが、少なくとも知能だけの人よりは行動力のある馬鹿の方がずっと社会には有益です。

 そんな感じで考えていって何かしらモデルとなる人物像はないかと考えてみたところ、最終的に行きついたのが「こち亀」の主人公の両津勘吉でした。彼みたく後先考えず目先の欲だけで無限ともいえる行動力を発揮できるような人こそ、現代日本においてもっと増やすべきタイプの人間だと思います。まぁああいうのが多すぎても問題で、ちょっと前の中国がそれに近かった気がしますが。
 以上を踏まえて日本の義務教育、特に小学校くらいでは「両さんみたくとりあえず何も考えず、自分がやりたいと思ったらとにかく行動しろ」みたいに教えるのが今の日本には一番いいのではと密かに考えてます。真面目に。

 かくいう自分もどちらかと言えば無気力な方で、あんま旅行もしないし、休日も家でゲームばかりですが、この方面で自慢できるとしたら興味を持った後の動き方は明らかに他の人より早く、粘り強い気がします。マジで。
 記事の取材なんかでその手の行動力が発揮されることが多いですが、そういう意味では本当の意味で自分は記者が天職だったのかもしれません。


  追記

 書きそびれていましたが、行動力がなく無気力になってきていると思う一方、上のニュースのように変なところで行動力を発揮してしまう人も最近増えてきているような気がします。そういう意味では行動力を高めるだけでなく、その正しい方向性も養う必要があるかもしれません。ってかあるだろ。

2021年5月16日日曜日

日本の義務教育の良いところと悪いところ

 さっき夕食の準備していてお椀に味噌汁の素入れようとしたらちょうどおなかの前にあるダイニングの引き出しが勝手に出てきて(ストッパーが緩くしょっちゅう出てくる)、入れなおそうとしてもまた出てきて、味噌汁の素の投入先がずれて、挙句にお椀を床に転がして、「くっそなんだこの野郎!」とまた一人で怒鳴ってました。よく見たら近くの窓開いてたけど中国ならこの手の怒声は珍しくないので周りはみんな何ともなさそうとしているあたりはほんと中国いいとか思います。
 マジな話、日本人、特に住宅周りはちょっと音に敏感過ぎて、軽いノイローゼ入っているではと疑っています。

日本の義務教育がダメって言われる理由って何だ?←これ(ぶる速)

 話は本題ですが上のリンクは結構前に見た記事ですが、何年も前から何度も繰り返し議論されているにもかかわらず未だに一致を見ない論点で、根深いなと思ってリンクを残しておきました。義務教育ということで、大学教育を除く小学校から高校の範囲で少しこの論点に触れると、まず悪いところじゃなくて良いところ、維持すべきところをもっと明確に意識すべきじゃないかと思います。

 地味に日本の義務教育で最も優れていると私が感じるのは、掃除教育です。小学校の段階から外部の業者や用務員を使わずに生徒自らその使用する教室や設備を掃除させることで、自分が掃除するのだから必要以上に汚さないよう意識させ、尚且つ清掃外注費用も浮くという最強のコンボが成立します。
 この辺、中国だと生徒に一切掃除させないため、やはり共用の備品などに対する扱いが非常に粗雑で、自分が壊しても平気なふりする人も珍しくないです。またトイレ掃除はやったことがないのか物凄い拒否感を見せる人間も多く、トイレの使い方も汚い人が多くてこの辺は自分も辟易します。具体的に言うと、男性用立小便用便器があるにもかかわらず、個室の洋式便器に向かって立小便する人とかざらにいます。こうした比較例が身近にあるだけに、日本の教育の最も優れた点は掃除教育だと私は思っています。

 もう一つ日本の義務教育でいい点を挙げると、私学があるというところじゃないかと思います。私自身も私学出身ということもありますが、生憎通った私立中高一貫校はなんも楽しくなくカスだったと思うものの、やはり私学という存在があるから公立校も対抗意識を持ち、自分らの教育手法の改善に取り組む競争関係が働いていると思います。また私学は私学同士で競争し、尚且つ公立校の枠にとらわれない余地もあり、こうした選択の幅は割とプラスであると思います。
 中国は基本公立校で、私学に当たるものとしては外国人らが通う国際学校があります。中国戸籍者でも希望すれば確か国際学校に通えましたがその分学費はかなりお高いんでしょうになり、日本の私学と比べると一般的ではありません。まぁ中国の場合、社会のいたるところで競争激しいから公立校だけでも競争意識働いているかもしれませんが。

 逆に日本の義務教育の悪いところとして、上記リンクの記事にもありますが「進路指導が悪すぎる」点はまさにその通りだと思います。私の場合は上述の通り私学出身で通う生徒は基本全員が大学進学を希望しており、教師もその前提で動きます。それ自体は悪くないものの大学進学が手段ではなく明らかに目的と化しており、大学に行って何をやるのか、どんな職業や研究のためどの学部を目指すのかと言った視点なり指導はほぼ皆無でした。基本、得意な科目と偏差値のマッチングでしたし。
 この辺は多少偉そうな言い方をすると教師の社会人経験のなさが影響している気がします。どの学部がどんな職業につながるのか、実際の一般企業ではどんな知識が求められるのかという感覚が全く持っていない教師も珍しくありません。そういう意味では、人材会社の社員を各校に一人ずつジョブカウンセラー的においてみるのも案外ありな気がします。

 もう一つあまりよそで見ない悪いところとして、これは昨今の傾向なのかもしれませんが、少人数教育はあんまよくないのではと密かに睨んでいます。というのも50人くらいいれば仲の悪い奴もいるだろうけど気の合う奴も一人や二人はでてくるでしょうが、半分の25人学級とかだとあぶれる人間が出やすい、率直に言うといじめが発生する人間が出てくるのではないかと思っています。
 もちろん教師の負担を考えたら少人数の方が管理面ではプラスと思うものの、その辺は二人担任制などにするなどしてカバーして、可能な限り大人数学級を維持すべきじゃないかと密かに考えています。


 そうした私の方針とは真逆に、世の中は少人数学級制へと移行しつつあります。自分としてはもっといろんなタイプの人間と若い頃から接しておいた方がいいと思うのですが、どうもそんな価値観は少数派のようです。

2021年2月5日金曜日

私大の一般入学者率データについて

 今日はサブウェイでご飯食べた後、物足りないから自宅で買っておいたカップヌードルビーフカレー味を食べましたが、控えめに言ってもまずかった。なんていうか薄めたカレー汁に面を入れただけにしか思えませんでした。まずかった上に、なんか無駄に喉が渇く。


  それで本題ですが、前々から気になっていたものの具体的なデータに触れることのなかった私大の一般入学者比率、裏を返せば内部進学など無試験進学比率のデータがまとめられている掲示板を見つけて、昨夜友人と盛り上がっていました。そのデータを早速引用すると、

私立大学一般入学者割合(2019)

明治大学 69.9%
東京理科大学 68.5%
立命館大学 60.9%
青山学院大学 59.7%
法政大学 58.5%
慶應義塾大学 56.3%
早稲田大学 55.8%
中央大学 55.5%
同志社大学 51.8%
関西大学 51.1%
学習院大学 46.2%
上智大学 44.5%
関西学院大学 36.6%

 一目見て驚いたのはトップの明治大学で、受験者数が多い大学ということもあってかリストアップされた中で堂々のトップを張っています。ぶっちゃけ大手私大はどこも内部進学率が5割程度あると思っていたので、一般入学者比率や約7割というのはマジびっくりです。もっともその次の東京理科大は逆に、十分高いけどもっと高いのではと当初思っていました。

 その次に、めちゃくちゃ納得したのは上智大学です。この大学の人には悪いですが、あまり上智出身でこれはと思う人物に私は会ったことがありません。上智のブランド力が低い関西地域で学生時代を過ごしたこともあるでしょうが、なんでこの大学が世間で持て囃されるのかは実は疑問に感じるところが多いです。

 でもって最後、っていうかドベの関学ですが、実は以前から最近の関学の凋落ぶりは目に余るという話を薄々聞いていました。とはいえ大学入試データを見るとそこまで入試難度(偏差値)は落ちていなかったので一体どうしてそのように言われるのだろうと思っていたのですが、今回このデータを見てひどく合点がいきました。っていうか一般入学者が1/3しかいないってヤバイを通り越した水準にある気がします。

 逆にこういうのを見ると、小さくてもいいから国公立大学の方がまともであるようにも見えてきます。まぁ自分も関西私大出身ですが、真面目に一般入学者比率は最低でも6割以上はキープするようしてもらいたいものです。

2020年11月28日土曜日

中学受験する子供に言ってはならないこと

 上海は昨日まで長雨でしたが今日は久々に雨がやみ、曇りとはいえまだ気分的にマシでした。もっとも天気以上に空気が入れ替わって湿気がなくなったことの方が個人的にうれしいです。
 ちなみに急激に気温が下がったこともあって街中や商店の人影はいつもより少なく、その分自転車で走りやすくてこれまた都合がよかったです。今日は買う気なかったのに、またプラモを衝動買いしてしまったけど。

 話は本題ですが、Yahooニュースとか見ていると最近子供の不登校や教育に関する記事もいくつか候補に出てきて適当にそれらを読んでいますが、そういうのを読んでいて、中学受験する子供にこれだけは絶対に言っちゃいけないなと思う内容があります。
 具体的には、「今勉強していい中学に受かれば、中学と高校では楽が出来て、スポーツなどに集中できる」という内容です。結論から言うと、この発言は根本的な事実間違いが含まれています。

 仮に大学付属の私立中とかなら、私も通ったことがないのでもしかしたら上記発言の通りかもしれません。しかし一般的な中高一貫校の場合、私の経験で言うと上記発言の通りには絶対にならないと断言できます。理由は非常に単純で、公立校と比べ中高一貫校の授業ペースは早く、勉強しなかったらあっさりドロップアウトするからです。
 実際にというか私の通っていた学校では、1年次の終了とともに確か男子生徒2人がドロップアウトして地元公立校へ転校しました。私自身も中学時代は成績は下から数えた方が早かったですが、後述しますが私自身というより学校の仕組みに問題があったせいで成績が上がらなかったのだろうと考えています。

 恐らく多くの親の世代の考え方では、中学受験すれば高校受験のために勉強する必要はなく、その分だけ中学と高校で部活動などの課外活動にも集中できると思い込んでいる節があります。でもって、それを受験させる子供への売り文句として実際に私も使われたし、ネットに出ている教育相談関連記事でもまさにそういって受験させたところ不登校になったという話をよく見ます。
 しかし一般的に中高一貫校の授業ペースは早く、特に英語と数学に関しては公立校とは比べ物にならないくらいハイペースです。私の学校では数学は中三の時点で数Ⅰ・Aに入ったし、英語に関しても一般受験組と比べれば基礎暗記単語量では劣るものの、長文読解力は高く、この方面で中学生にしては高い水準が要求されていました。

 で、普通に考えて、こんなハイペースな授業が続けられる中で部活とかに集中できるかです。はっきり言ってそんなわけなく、実際うちの学校の運動部とかは半端なく弱かったです。それこそ将棋部とかそういうのだったら話は違うかもしれませんが、運動部入って疲れた状態で帰宅し、普段のハイペースな授業についてこれるかっていったらそんなわけないでしょう。むしろそんなんだったら、普通に高校受験する方がまだ短期集中で乗り切られるところもあるだけに、中高一貫校より課外活動に集中できるのではと思います。

 その上でと言っては何ですが、これは以前にもブログに書いてはいるものの、お世辞にも私の通った学校の教師は授業での指導が上手くありませんでした。中にはテストの学年平均点が30点台だった際に「なんでお前らは勉強しないんだ」と生徒に責任転嫁する教師までいて、見ていて明らかに、素材の良い生徒たちに助けられているだけで、実際にはほぼ全く指導力のない教師が少なからずいました。
 しかも具合の悪いことに、中高一貫校とはいえ厳しい家庭ではすでに大学受験を見据えて、中一から予備校に通わせる家も少なくありませんでした。でもって、そういった予備校に通う生徒が学校でも揃って成績が良く、ぶっちゃけ学校の授業に余り価値がないことを間接的に証明している有様でした。

 私自身もというか、テストの成績良くないから「中学受験すれば中学生時代は塾とかに通わずに済む」と言われて受験したものの、結局また中一から予備校に入れられる羽目となりました。もっともそこで対応してくれたアルバイトの大学生塾講師と馬が合い、成績は実際かなり急上昇したし、その講師の指導で政治とかに興味を持ったので塞翁が馬でしたが。
 逆にもし講師と馬が合わなければ、真面目にかなり危険な状態になっていたかもしれないと今思います。

 それで話を戻すと、「今勉強していい中学に受かれば、中学と高校では楽が出来て、スポーツなどに集中できる」といって子供をいい学校に入れてしまう、特に偏差値的に受かるのは難しいとされていた第一志望校とかに運よく合格して入っちゃうと、十中八九その子供は「あれは嘘だったんだ」と親に裏切られたような心境を持つであろうと私は思います。
 極端な例かもしれませんが、予備校でクラスが一緒で仲良くしていた友人が、普段のテストの偏差値からすると大金星的な高偏差値高に受かって、そこへ進学しました。ただ高校でドロップアウトしたのか中退したことが後年わかり、いい学校に受かるのも素直に喜べるわけじゃないと当時感じています。

 偏見かもしれませんが、何か特定のスポーツに従事したいと普段から言っている子供は勉強好きはそこまで多くいません。素材が良かったり体力があったりして中学受験で上手く成功を収めるかもしれませんが、受かった先の学校でスポーツに集中できるかと言ったら、そこではさらに素材の良さが求められてくるでしょう。はっきり言えば、地元公立校に通わせた方がそういう子たちの負担はずっと低くて済む気がします。
 それでも敢えて中学受験させたいってんなら、やはり分相応な偏差値の学校に入れる、若しくは通学面で有利な一段レベルを下げたような学校に入れさせるのも手でしょう。そうした学校なら授業についていく上ではハイランクの学校よりずっと余裕があり、親の言う通り高校受験を回避することで課外活動に集中できる環境があるかもしれません。一番良くないのは、本人が決して勉強好きでもないのに、分不相応にレベルの高い学校に入るということでしょう。
 っていうか、勉強好きじゃない子なら初めから中学受験なんてさせるべきじゃないでしょうが。

 最後に途中で話した高校受験組について少し補足すると、前述の通り中学時代の私はあんま成績良くなくて結局塾に入れられ(中三時は半分より上で無試験進級組に入ったが)、高校に入るやすぐまた大学受験に備えるよう別の予備校に入れられました。まぁ高校生の時点ではそんな抵抗感なかったけど。
 高校で入った予備校には地元公立中学から高校受験した生徒も多くいたのですが、彼らを見て感じたこととしては前述の通り、暗記している英単語量で私立中出身の私と大きな差があるということでした。上位高校の生徒に限られますが、やはり高校受験でその辺の対策が求められることから、英語に関しては長文読解は私の方が上かもと思いつつ、基本的な単語量では逆に遠く及ばず、「高校受験しなくて済むと言われて入ったが、結局高校受験組とは実力差がつき、この分を埋め合わせなければならないことを考えると中学受験しただけ無駄だったな」という結論に至りました。ぶっちゃけ今でも無駄だったと思っています。

 ただ世の中わからないもので、高校時代は一番英語苦手だったのに、社会人になってからは外国語をメインに使う仕事ばっかやっています。こう考えると、高校の成績は何の適正も見いだせないなと思います。思考も文系のくせしてやたら数学的な論証が多いし。

2020年5月13日水曜日

内部進学の弊害

さすがになし? いや…案外いいかも 8年目の奇跡!! 三菱ミラージュのマイナーチェンジはなぜ行われたのか(ベストカー)

 ちょっとだけ、「いいじゃん」とか思っちゃいました。っていうかマイチェンやってたこと自体初めて知りましたが。何気に同じ三菱製コンパクトの「コルト」のデザインは好きだったので、あの頃のコルトを彷彿とさせるデザインは素直にいいです。

 話は本題に入りますが数ヶ月前の受験シーズン中、「関学の凋落が著しい」、「関関同立の名折れよ」、「関近同立だこれからは」などという議論が交わされている掲示板を見ました。ほんまかいなと思って偏差値を調べましたが、一応比較したサイトでは「関関同立」の水準にあり、また同じような議論は見かけなかったので、あまり実態に則した議論ではなかったのかもしれません。
 ただそこで語られていた関学の凋落理由として、「系列高校から内部進学した内部生比率が高いため受験生に敬遠された」という指摘については、他の大学を含め十分ありうるのではと読んでて感じました。

 かくいう私も関西の私大に進学しており、そこも系列高校が複数あることから内部生の比率は非常に高かったです。ここだけの話をすると進学した学部の人数は約180人で、受験時の募集人数も確か180人だったと思います。しかし蓋を開けて入学すると内部生の割合は約50%、実際に90人弱が内部生でした。それと同時に、「実質90人の枠によく入ったな俺(;´・ω・)」と、あまり成績良くなかっただけにわが身の幸運にもびっくりでした。
 この辺は数字のマジックというか、実際どこの大学でもやっています。試験募集人数でこそ100人、200人としますが、その枠に内部生を突っ込むことで倍率を高め、偏差値を内部操作するかの如く無理やり引き上げています。逆を言えば国立の様に全学生を試験でしか入学させなかったら、恐らく大手大学ほど受験偏差値が急落することになるでしょう。

 話は戻しますが、昔このブログでも書いていたように外部生と内部生の実力差ははっきり言って松戸の闇ほど深く、外部生であった私も在学中はあまり内部生とは付き合わず、周囲の友人はみんな外部生でした。そもそもいろんなところから話を聞くと、慶応の系列高校を筆頭に付属校に通っていてもできる子供は内部進学したりせず、東大とか京大など国立大を受験して進学するそうです。そりゃ内部生の質が下がるわけだ。

 で、こういった内部生が原因による大学生の質の低下は結構笑えない水準に来ている気がします。というのも早慶など大手大学ほど系列高校を増やす一方、近年の国や都の指示もあって大学定員は縮小するという、いわば内部生の濃縮みたいなことをやっているのではないかという気がしてなりません。仮にそうだったら外部生の方がこれからはレアになりかねないのですが、私の時代ですら全学生の40%くらいは内部生だったので、過半数が内部生という大学ももうそんな珍しくないような気がします。

 最初の関学の話じゃないですが、真面目に私が今受験生でこうした状況にあっては、内部生が少ないというだけでその大学を評価して進学理由の一つにするかもしれません。そう考えると、「内部生が少ない」というのは今後大学や学部のアピールポイントになりうるでしょう。

 最後に余談ですが社会人になって自分と同じ大学出身の先輩に会うこともたまにありますが、今まで凄かったのは、年間平均1週間しか登校しなかったけどきちんと4年で卒業したという先輩でした。どんなマジック使ってたんだろう(´・ω・`)

2019年4月20日土曜日

自我を削ぎ落とす教育

 先日知人と話をした際、日本の教育について話題が及びました。知人からは日本の、特に学校現場の教育は従順な子供を作ることが強調されているような気がすると、中国での学校と比較して述べたのですがそれに対し私は、「従順な子供を作るのは目的であってそれは正しいと思いますが、では手段は何だと思いますか?」と尋ねました。一思案したあとすぐ降参した知人への答え合わせとして私は、見出しに掲げた「自我を削ぎ落とす教育手法こそがその手段で、日本の教育の根源的な哲学は個々にあると思います」と話しました。

 自我を削ぎ落とすとはどういうことかというと、端的に言えば個性を認めずむしろ排除する、個人的欲求を認めず集団に従うことが最上であると教える、周囲の人間と同じ価値観を持つと信じ込ませるなどなどです。この中でも一番理解されやすいと思うのは、「集団に従うのがベスト」という点だと思え、日本の学校だと小中校のどこでも集団に溶け込むことこそが最大の美徳であることが強調されているのは事実以外の何物でもないでしょう。
 逆を言えば集団に溶け込めない、いじめによって排除されたり、身体的・出身的特徴で差別されたりすると途端に学校には居場所がなくなるわけで、真面目に全人格を否定されかねないような事態すら招きます。何故こうなるのかと言うと、私自身はやはり集団の価値観が強すぎることと、集団への服従強制が異常過ぎることが大きな要因ではないかと考えています。

 もちろん人間が社会で生活していくためには集団性を持たなければならず、集団生活やその価値観を教える必要性までは否定しません。ただ日本の場合は、それでもやはり集団の価値観が強すぎるきらいがあるように思え、ちょっとこの方面の教育ではやりすぎと思えるところがあります。

 次に個性を奪うという点ですが、一番わかり易いのは制服と丸刈りでしょう。髪型とかに関して私は本人の自由だと思うので気にしませんが、一定の髪型を校則で強制したり、部活動などで丸刈りに統一するといった行為は、強制する側がどのような意図で行っているとしても確実に個性というか自我が薄れ、他の同一集団内のメンバーとの差異が減少します。制服も同様ですが、自我を削るには何が一番いいかと言うと、周囲の他の人との区別をなるべくできない環境に置くことが手っ取り早い方法であり、そういう意味ではこういった行為は実に理に適っています。
 なお中国の学校では制服はあまり見られません。

 この他にも、英語の授業とかで実際には正しい発音してるのに、他の未熟な生徒の発音と異なっていれば笑われたりする(教師も黙認)のは、ある意味日本の教育の賜物かもしれません。私自身はあまり気にせずに発音してよく授業中に笑われていましたが、あの時教室にいた誰よりも今英語が上手であるという自身はあります。

 他にも細かい点をあげたらキリがないですが、私から見て日本の教育は生徒の自我を削ぎ落とすことに全力を注いでいるように見えてなりません。「個性を伸ばす教育」などという標語をたまに謳いますが、これは真に受けたが最後、空気が読めないやつだと思われ確実に教師にマークされますし、現実に日本人で個性に溢れた人材が生まれるのは稀な方でしょう。少なくとも自分より個性が強い人はあまり見ないし。
 他の国とかでも多かれ少なかれこういった自我を削ぎ落とすプロセスはあるでしょうが、それにしても日本のやり方はやや強すぎるように思え、なおかつ私が子供だった頃よりも今のほうが更に程度が増しているのではと思う節があります。具体的に言えば、生徒だけでなく教師も学校内で更に個性を削がれているような。

 その上で言えば、やはり世界で戦っていく上では一定度の個性こと自我が必要不可欠です。周囲にいる誰もが敵となる状況下で自分を保ち闘い続けるためには、周りが否定する言葉を浴びせたとしても自ら信じ続けるような頑固さが時には求められます。全く周りを省みないのはもちろん問題ですが、周りしか見ていない人間なぞ最初から役には立ちません。
 そういう意味で、今日本の教育下では突然変異的な無駄に自我が強い人間か、自我を保ちつつそれを表に出さずうまくまわりとに合わせる振りができる人間しか、使い物になる人材が生まれてこないのではとまで考えています。自分の場合は圧倒的に前者ですが、言い訳をすると少年期はやはり今考えても圧倒的に理解者がおらず、そのため自分の方針が正しいということを認めさせるためにやや躍起になっていましたが、一人くらいちゃんとした理解者がいれば牙を隠すこともできた気がします。

 自我を育てる教育、なんていうと一歩間違えるとテロリストを生む可能性があるだけに、私個人としては自我を潰さない教育あたりが標語としては有りなんじゃないかと思います。少なくとも、名前と成績以外で他者との違いを認識把握できない人間は作るべきではないというのが人文主義ゆえの立場です。

2018年8月5日日曜日

統計に関する考え


 今日自宅で仕事(頼まれてもいない自動車統計記事執筆)しながら上のアイドルマスターの「待ち受けプリンス」聞いていたら、テンション上がり過ぎたのか猛烈な頭痛きてダウンしました。なおこの曲聞いて声優の原由実氏(四条貴音役)が好きになりました。

 話は本題に入って統計についてですが、ライターとしてみた場合、私はかなり統計データの処理に長けたライターに入ると思います。自分でも意識的に統計関連記事を書いていますが、やはりこれまでの同僚の中にはデータの収集や編集が苦手なことからあからさまにこうした記事を避ける傾向があり、どちらかと言えば経済記事でもインタビューを重視する記者の方が多かったです。
 私が何故統計に強くなったのかと言えば、一つはExcelの処理に長けていたことからそれほど苦手意識を持たなかったことと、学部生時代にこうした統計処理について専門ソフトを使った講義を受けるなどして訓練(と言っても初歩的)を受けていたからだと考えています。

 なお一部で、「統計学こそ最強の学問」と主張する人がいますが、統計学は手段であって学問としての目的や思想が全くないことからむしろ低い部類だと私は考えています。従って、最強はやはり社会学……とか言いたいですが、内心すげぇなと思うのはやっぱ天文学です。

 話は戻りますが中国だと統計をベースにした記事が非常に多く出るため、最近世界統計データを得ようとする場合は日本語よりも中国語で検索することが多いです。例えば新エネ車の世界販売台数なんて日本語じゃ全くヒットしませんが、中国語だったらすぐに整理されたデータを手に入れウェヒヒヒできます。これが何を意味するかというと、どうも統計方面の人材や考え方でもこのところ、中国に日本は抜かれつつあるのではないかとまたいつものジャパンバッシングになりそうなのでこの辺でやめておきます。

 ただ経済記事に限れば、先ほどにも述べた理由からか明らかに日系メディアは弱いと思うところがあります。だから私みたいなのが適当な統計出すだけで成立する記事を出せるのでありがたいっちゃありがたいのですが、この辺の教育とか最近はどうなってんのかなと思うところもあります。私に関しては一応統計処理について簡単に大学で学びましたが、その後の実際のExcel処理から分析、収集などはほぼ我流で磨けたものの、きちんとそういうのを教えられる人材が自分意外にいるのかとか気になります。特にメディアの中で。
 先ほどにも書いた通り、どうも日系経済メディアの記者たちは重要人物らへのインタビューを重視するような傾向があり、データ方面への意識が低いです。財務諸表すらきちんと読み取れない人も珍しくなく、メディア講座とかで教育機関がこの辺教えてあげるべきとも考えています。なお財務諸表の読み取りに関しては、自分はライターとしてはトップクラスです。

 もっとも、こう言いながらもこれまた先に述べた通り統計というのは手段であり、その統計からどんな結論や知見を見出せるかが一番重要なので、ただ統計処理ができる、グラフを作れる程度ではなんも意味がなく無価値もいいところです。分析が如何にできるかが重要で、地味に全く意味のないデータを無価値だと見抜く力なんか誰も言いませんが実は最も重要だと思います。真面目にそういう意味ないデータって少なくないし。
 繰り返しますが統計はあくまで手段であり目的でも思想でもありません。使いようによっては大きな武器になるのでできるに越したことはありませんが、「統計こそ最強」みたいに過大に強く見せようとする考えや動きには賛同できず、分をわきまえるべきでしょう。その上でこの統計の活用法なり処理方法、特に一般の方についてはその「読み取り方」についてもっと啓もうしてく必要があるのではというのが私の見方です。

2018年2月9日金曜日

現代も色濃い松田優作の影響とオマージュ

 先日、ふとしたきっかけから「GANTZ」に出てくる岡八郎というキャラクターがのモデルが松田優作であるということを知りました(言動は岡八郎氏そのものですが)。言われてみると確かにそうと取れる面影があるのですが、なにもこのキャラクターに限らず松田優作をモデルにした漫画キャラクターは非常に多くいます。
 代表的なものを挙げると、「北斗の拳」のケンシロウ、というよりこの漫画の作者の原哲夫氏が書く主人公キャラはみんな松田優作にしか見えません。また平松伸二氏が書く漫画の主人公も「ドーベルマン刑事」をはじめやはり松田優作をモデルにしているように見られ、あと「シティハンター」の主人公、冴羽遼もそうなんじゃないかという気がします。

 一体何故これほど多くの漫画家が松田優作をモデルにキャラクターを書いたのか、やや世代が異なり現実の松田優作の演技をあまり未定な自分からしたらやや想像しづらいのですが、伝え聞く限りではその存在感や迫力は同時代の俳優をもってしても群を抜いており、実際に共演した経験のある俳優も誰もが口を揃えて「別格だった」と話していることから、スターとはまた違った存在感を持つ人物であったのではと推察しています。

 一方、こう言っては何ですが近年の俳優らで、この松田優作のように漫画や小説でモデルとされるような人物がいるかとなると、正直あまり浮かびません。強いてあげるとしたら阿部寛氏で、髭面のイケメンキャラクターをみるとどことなく面影を感じさせる辺り多方面へ影響を与えているのではないかと思います。
 このほかだとパッと思い浮かぶのは、プロレスラーのグレートムタこと武藤敬司氏で、スキンヘッドで髭はやしたいかついキャラクターともなるとこちらも彼の面影があるどころか、「夜王」をはじめ、「どっからどう見ても武藤じゃねーか」と言いたくなるくらいそっくりそのままに書いてくる漫画家すらいます。まあそれだけあって、武藤氏の存在感はやっぱすごいですが。

 このように男優でも他のメディアにモデルで使われる人間はあまり出てこず、女優ともなると私が知る限りでは現在皆無です。石原さとみ氏っぽいキャラ出てくる漫画とかあんのかな。

 現実に、今の時代で評価される俳優は松山ケンイチ氏や山田孝之氏など、役柄に合わせてがらりとイメージを変えるカメレオン俳優ばかりで、かつての高倉健など一つのイメージを保って強い存在感を感じさせる俳優は逆に評価されません。唯一例外なのは「クズキャラの帝王」こと藤原竜也氏で、もうなんか犯罪者以外の役は演じられないんじゃないかってくらいクズキャラしか演じず、「クズと言ったら藤原竜也」というくらい変な風に存在感持っています。

 以上を踏まえて極論を述べると、なんとなくですが日本社会全体で個性が失われつつあるるのかなという懸念がよぎります。過去に高倉健について書いた記事でも同様の意見を述べていますが、キャラの濃い人間が芸能界はおろか一般社会でも少なくなってきているように思え、それこそ中国人やハリウッド俳優とかと比べると顔が覚えられないということが多いです。現実に、私の世代は個性があればあるほど学校を含め社会では不利になる傾向があり、やはり全体として没個性的な世代だと感じます。

  おまけ
 松田優作をモデルにしたキャラクターをいくつかあげましたが、一番強烈なものを挙げるとしたらやはり「ゾンビリベンジ」という英文法をどっかしら間違えたとしか思えないタイトルしたゲームに出てくる毒島力也でしょう。具体的には、


こんなん

 詳しくはさっきリンクを付けた解説記事に書かれていますが、舞台がアメリカなだけに登場人物はみんな英語で会話する中、何故かこのキャラだけ平気で日本語をしゃべり続けるし、「この邪気は……」などと脈絡ないことばかり話したり、松田優作そのものな外見もあってモデルとなった人物同様に強烈なインパクトを残しています。しかも必殺技がゾンビ相手にかける「四の字固め」で、このキャラ一人の存在でこのゲームがゾンビゲーであることが分からなくなってしまうくらいでした。

2017年7月5日水曜日

今思うと理不尽だった陸上部顧問

 以前にも書きましたがまた今度書いてもいいなと思うネタとして、日本の教育は突き詰めれば子供の自我を徹底的に破壊した上で従順にさせるところに狙いがあるというものがあります。真面目な話、私は大半の日本人には自我なぞなく、その思考から行動まで自分がどうしたいかよりも周りと同じであるように振舞おうとするところがあり、だからこそ戦前もあんなむちゃくちゃな戦争ムードに流されたと考えています。

 その話にもつながりますが日本では上記の通り自我を取り除くという意識が強いことから、教師の指示には疑うな、ただ従えしかありません。ご多分に漏れず私も子供の頃は「あれ、変だぞ?」と思いながらも渋々従ったことが何度もあるのですが、今思い返すと小学校の頃の陸上部顧問は正常であるかどうか以前に非常にやばい指導してたなと思えてなりません。

 具体的にどんな指導したのかというと、全体練習で何故か片足ケンケンで数十メートル走らせ足りするなど、運動量はともかくとして体のバランスを崩させるような動作を何故か定期練習に組み込んでいました。また当時私は選択種目としてハードルを選んでいましたが、4月生まれとあって人より早く成長痛が来るようになり、ある日あまりの痛みからジャンプすることもままならなくなって顧問に「足が痛いのですが」と伝えたところ、「ハードルやってる人の宿命です」といってそのまま練習を続行させられました。
 今思うと、詳しい痛みの症状も聞かなかったばかりか成長痛起こしている子供にただでさえ足を痛めやすいハードルの練習を続けさせるなど、よくこんな了見で部活の顧問やってたなと甚だ呆れます。ちなみに結構症状ひどかったのでこの時期は病院に通って赤外線治療とか受けていました。

 この私の顧問に限らず、熱中症対策など明らかに把握しておくべき内容を把握していない運動部の顧問は世の中に多いと思います。しかし最近は顧問に対してもいろいろクレーム就くことが増えているは言え基本的に日本の教育は指導者への絶対服従を是とするところがあり、あからさまに間違った、具体的に言えば体を壊すような指導をする人間は本人の自覚もないまま指導を続けてるんだと思います。
 あまり反逆的なことを言うべきではないものの、やはり指導に関しておかしいと感じたらその気持ちは簡単には捨てず、自分の体を守ることを第一に考えて指導者を疑うべきでしょう。どうしてもそのスポーツを続けたければ外部のクラブに入るといった選択肢も入れるべきで、唯々諾々と従うべきではないと主張したいです。

2016年1月26日火曜日

基礎教育と高等教育

 たまたまなのかもしれませんがこのところ、やけにお店で釣銭を間違えられることが多いです。以前はこういう事は中国だとほとんどなかっただけに、なんか詰め込み過ぎてかえって基礎教育レベルを落としているのではないかと邪推しています。
 あまり他に言っている人は多くないですが中国が近年に大幅な経済成長を遂げられた理由として、基礎教育レベルが地味に高かったという点は非常に大きかったと私は考えています。ほかの国、特にヨーロッパ辺りに行くと外国人は本当に暗算が出来る人がほとんどいなかったり、割り算すらおぼつかないような場所も珍しくはないのですが、こと中国に限ればこの手の計算は非常に早いだけでなく正確で、身なりの汚い店員ですら卒なくこなしてたりするのを見ると世界的に見て基礎教育レベルが高いのではと留学時代に強く印象に残りました。またそうした暗算だけでなく、割と学ぶ姿勢もよく出来てるというか技術指導に対して熱心に聞く姿も結構大したレベルだと考えています。

 このまま中国の基礎教育について書き続けてもいいのですが少し話題を変えると、よく友人が米国について、「基礎教育を放棄しておきながら、一番うまみのある高等教育を独占している」と非難しています。具体的に言うとハーバード大学などの事を指しており、ここに世界中から優秀な留学生がやってくることを言っています。

 前提として話すと、基礎教育と高等教育はその目的や目標はまるで別です。基礎教育が社会一般で求められる知識を教えるのに対して高等教育はイノベーションを生み出す発見力、観察力、想像力を鍛えるものです。国家として旨味が大きいのはもちろん後者で、技術革新や発明が起こればそりゃもう願ったりかなったりです。しかし高等教育に耐えられる人材を生むため、拾うためには基礎教育を疎かにしてはならず、こちらの方面にも一程度の予算を振り分ける必要があるわけです。

 米国の基礎教育レベルは断言してもいいですが日中よりも下です。三角関数も高校では教えないというし、多分ほかの分野でもいろいろ見ている限りだとおぼつかない感じがします。しかしそうであるにもかかわらず何故各研究分野で最先端を走るのか、世界的にも名門とされる大学を持ち続けられるのかというと、才能のある人間を飛び級などで拾い上げる制度があることも大きいですが、それ以外にも先程述べたように自国で高水準の基礎教育を受けてきた優秀な人材を留学生として取り込むという、おいしい所だけ独り占めにする手法を取っていることも見逃せないでしょう。
 そうした米国の現状について先程の友人は、「ハーバードは貧しく優秀な留学生と、彼らのスポンサーとなる裕福な白人の出会いの場なんだよ」と、皮肉っていますが、あながち間違えじゃないし昔の日本もそういう場所があったよなぁと私も思います。

 何故それだけ優秀な留学生が米国に集まるのかという理由は説明を省略してもいいとは思いますが念のため触れておくと、最高水準の研究費と予算、そしてスタッフが集まっているからです。ノーベル賞を取った江崎江玲於奈氏もやはり研究環境の理由から米国に渡ったと言いますし、この点で米国を抜き返すのは並大抵のことではないでしょう。

 話しは日本に戻しますが、日本の場合は戦後なんか特にそうですが上質な研究環境を用意することが出来なかったため、高等教育よりも基礎教育に力を入れていたことは歴史を見る限り間違いありません。その結果、日本は全体で高い教育水準を持つに至りそれが優秀な従業員を生み出して高度経済成長のサイクルを作ったと言えますが、自分が思うにこれは人件費がまだ低く大量生産が要求される発展途上過程において機能したサイクルであって、先進国となった現代においてはもはや機能しないサイクルだと見ています。同様に、中国もこれまでは通用したもののもはや基礎教育レベルの高さは経済に貢献しないかもと言いたいわけです。

 言うまでもなく、人件費が上昇し経済も大きくなった後の国家において求められるのはイノベーションであり、それを生み出すためには高等教育が非常に重要です。基礎教育よりも高等教育にもっと重心を移すべきというのを結論にしたいところですが、果たしてアメリカさんに人材を引っ張られないような環境を作れるのか、そう考えるとなかなか不安というかうまくいかなそうだというのが本当の結論です。

2016年1月11日月曜日

国を愛する教育の是非

 昨年末の余力有り余っている時に愛国心についての記事を書きましたが、この記事では私は愛国心はやっぱり政治用語だからその感情の矛先となる国家とは「政府」であって、国土や文化も関係ないとは言わないけどやっぱり矛先が違うと主張しました。なので仮に国土や文化を愛する気持ちを言い表すなら「愛国心」とは言わず「愛郷心」などと言葉を変えて表現するべきだとも主張しましたが、こちらはあくまで個人的な意見であるためそこまで確固たる価値観に基づいて言ったわけじゃありません。
 で、今日取り上げたいテーマとしては後者の愛郷心の方で、国土や文化といった範囲で自分の国を愛する気持ちを育てる教育をやるべきか否かです。結論から言えば私は反対で、そういう教育はまかり間違ってもやるべきではないとこっちは真面目に主張します。

 こう主張する理由は大きく分けて二つあり、一つ目としてはそもそも教える価値があるのかについて疑問だからです。普通の人だったら、こういってはなんですが生まれ育った国や地域を愛するようになるのはごく自然なことで、程度の差こそあれ愛する気持ちは何もしなくても根付くと思います。それを教育で伸ばそうとしたってそもそもどこまで伸びるのか、案外初めから持っている気持そのまんまで終わってしまうんじゃないのかと考えます。

 もう一つの理由が今回の本題ですが、こういう感情というのは私は「北風と太陽」のようなものだと考えており、変に気持ちを強くさせようという教育を施すとかえって反発心が生まれて、むしろ嫌悪感を持つ人間を増やしかねないのではと懸念しています。なんでこんな風なこと思いついたのかというと戦前の愛国心教育と戦後の自虐史観を自分の中で比較し、どちらもその教育方針に反発する層を一程度作っていたのではと思えたからです。
 戦前に関してはちょっと時代がずれますが、戦後生まれの世代から社会主義闘争が始まって強烈なアンチ国家主義者が大挙して出てきています。一方、こちらは私の時代とも被りますが自虐史観が盛んだった頃には、「なんでそこまで悪く言われなきゃいけないんだ」という具合で、ネット右翼に代表されるような戦前の賛美すら行う層が確実に生まれてきました。
 また比較的最近の話でも、テレビで日本礼賛番組が一時期続出したことに対してネット上で反発する声がいくらか見えましたし、かくいう私も正直に言ってあまりいい気分はしませんでした。日本のいいところを紹介されるのは決して気分が悪くなることではないですが、それでも量が多かったり、またしょうもない点でも勝っていると喧伝されるとなにがやねんという気持ちが少なからず芽生えてきます。

 話しは戻りますが過去の教育方針に反発した層もそれが多数派になったとは言えませんが、やはり感情を押し付けるような教育というのは反発心を育てかねない危険性を含むようにも感じられ、それであるなら露骨な愛郷教育みたいなのはよして、「日本は世界と比較するとこんな感じですよ~」って具合に、太陽みたく軽く説明する程度にとどめるのがベストではないかと個人的に思います。第一、自国を愛する気持ちを教えることは他国を卑下する感情をも生みかねないとも思えますし。

 なんか最近短い記事にまとめることが多いように思えるのでもう少し続けると、感情を「育てる」教育なんてのは本来なくて、本質的には「煽る」教育なのではとこの頃思います。だからといってノータッチにすべきだとは思いませんが、やはり教育というのは知識を授けることで感情を何かの方向に持って行こうというのは並大抵の成せる業ではないのかもというのが今日の私の意見です。

2015年10月24日土曜日

横浜高校野球部監督の教育論

 また今月の文芸春秋からの引用記事ですが、甲子園で幾度もの優勝をかっさらった横浜高校野球部を50年に渡って引っ張った渡辺元智前監督のインタビュー記事がなかなか面白かったので紹介しようと思います。

 渡辺氏は24歳で同高校野球部の監督に就任し、今年5月に引退するまで甲子園で春夏優勝5回を経験し、また松坂大輔選手をはじめとして横浜高校出身のスター選手を日本プロ野球界へ数多く送り出しており、名実ともに名監督と呼び声の高い人物です。そんな渡辺氏ですが部員の指導方法については「ひとつの指導方法でやってきたわけじゃない」と、冒頭から述べております。

 監督就任当初の渡辺氏は昔のスポ根ドラマよろしく、鉄拳制裁を当たり前のように行って指導してきたそうです。この指導方法について渡辺氏は当時の世相というか戦後は軍隊出身の指導者が多かったため誰もが殴られて教育されてきており、また他校でも当たり前のように行われてて練習試合でも野球そっちのけで双方のベンチで監督が選手を殴り飛ばしていたそうです。
 しかしそうした鉄拳制裁も次第に通用しなくなってきたそうです。通用しなくなった理由について渡辺氏は、若い当時は優勝実績がつくとともに周囲からちやほやされやや浮かれた生活を送ってしまい、そんな姿を部員たちが見透かしていたせいではないかと分析しています。ただそうした事態に至ってから立ち直りは早かったというか、一方的にこうしろという指導をやめて選手との対話を重視した指導へと切り替え、これが功を奏して1980年には愛甲猛氏を擁するチームで夏の甲子園優勝を達成できたと述懐しています。

 しかしこうした「対話路線」もそう長くは続かず数年でまた勝てなくなり、仕方ないので今度はアメリカの野球チームを参考に「伸び伸び野球」を打ち出したところチーム内に「甘え」が蔓延して余計に勝てなくなるという余計に悪循環となってしまいました。転機となったのは松坂世代が入ってきたころで、この世代は松坂選手を筆頭に後藤選手、小池元選手、小山元選手など後にプロ野球でも活躍する人材が大量に入ってきた年代だったため、彼らをきちんと使いこなせば必ず優勝できると確信が持てたそうです。
 しかしこう言った才能ある部員たちは渡辺氏によると「往々にして我が強い」とのことで、ひとまとめな指導ではとても対処できないと考え部品一人一人に合わせた指導を採用することにしました。具体的にはある選手には厳しく指導する一方で別の選手には誉めることを重視したり、またほかの人には体調管理の重要性を説いたりと、現代では当たり前とされる指導方法ですが98年の段階でこれを実践していたということはやはり渡辺氏には先見の明があるように感じられます。

 直近の指導方法については現在ロッテで活躍している涌井選手を引き合いにして、「メールでのコミュニケーション」をしたことが書かれています。なんでも松坂選手はどれだけ厳しく叱っても後でフォローすればきちんと彼も応えてくれたそうなのですが、涌井選手は一回叱ったら俯いて、誰とも話をしなくなってしまうため渡辺氏も、「叱り過ぎたのかな?」と度々感じたそうです。そこでマニュアルを必死で見ながら涌井選手の携帯にメールでフォローした所ようやく「わかりました」と返事が来てほっと一安心できたと書いてあり、それ以降はまめにメールで選手たちと頻繁に連絡を取り合うようにしていたそうです。ってかほんとマメだなこの人。

 自分の指導について渡辺氏は、選手に成長してもらいたいという信念だけは変わりはなかったものの、その指導方法は時代と共に常に変化していた。むしろそういう信念があったからこそ変化できたとまとめており、さすがベイスターズより強いのではと言われるくらいに横浜高校を牽引してきた監督だと感じるほど読み応えのあるインタビュー記事でした。

 本題とは少し外れるかもしれませんが、戦争指揮において参謀が将軍に優越する指揮システムを確立させた人物として、ドイツのモルトケという軍人がおります。彼の時代のプロイセンでは「戦争論」を著したクラウゼヴィッツなどが活躍しており戦争を学問体系的に分析する動きが強かったのですがモルトケはこうした動きに反発し、「戦争に不変の原則などないという事実のみが不変である」と述べ、従来の概念からは考えられないような鉄道や無線を活用した戦争指揮システムを導入し、ビスマルクと二人三脚でプロイセンを強国化させました。
 私自身もこのモルトケの意見というか概念を日頃から重視しており、不変なシステムなどほとんどなく時代とともにシステムはどんどん変えていくべきだと考えており、この渡辺氏もそうした価値観だったからこそ名監督足り得たと今回感じた次第です。

  おまけ Wikipediaに載っている渡辺氏の指導を受けた主だったプロ野球選手
青木実
永川英植
愛甲猛
高橋建
鈴木尚典
紀田彰一
多村仁志
松井光介
松坂大輔
成瀬善久
後藤武敏
小池正晃
荒波翔
涌井秀章
石川雄洋
筒香嘉智

大学ランクの壁、そして下剋上

 先日、日本から中国へ戻る飛行機を待っている間、空港の売店でかなり久しぶりに文芸春秋を購入しました。元々私は文芸春秋を購読していたものの姉妹雑誌の週刊文春で不必要と思うくらいに橋下大阪市長へのバッシング記事が続いたことに反感を持って数年前に購読をやめていたのですが、そろそろ過去は忘れてもいいかなと思ったのと、今月号(11月号)の特集が教育関連議論でその中に池上彰氏と佐藤優氏の対談が入っていたので、衝動買いの様にして買って持ってきました。

 掲載されていた記事や対談はどれも面白くこれからまた少しずつ記事化していく予定ですが、先ほど挙げた二人の対談では日本の大学の役割、そして改革案が中心となって語られており、自分は全然その存在を知らなかった「ビリギャル」という慶應大学の入試に合格した女の子について佐藤優氏が、「彼女は受験科目として使用した小論文と英語だけが合格水準にあってその他の科目は恐らく一定の水準に達していないだろう」的なことを指摘して、こうした偏った学力の学生を入学させることは問題があるとさりげなくディスっていました。
 なおこの佐藤氏の指摘を友人に話したところその友人は、ビリギャルが自分の受験体験をまとめた本の表紙に自分自身ではなくモデルの女性を使用したことについて、「結局女は見た目で決まるというようなことを自分でやっておいて何がビリギャルだよ。自分の実績をピーアールしたいなら自分が表紙に出ろ」とこっちもディスっていました。まぁ私もこの友人のいわんとしていることに同感なのですが。

 話は本題に入りますがこうした大学関連の改革話を聞いていてふと、「何で日本で最高峰の大学は東大なんだろう?」という妙な疑問がもたげました。こんな風に考えたのもちょっと前に戦前で本当のエリート校だったのは東大ではなく陸軍大学校だとか、エリート養成校として真に優れていたのは陸軍中野学校(佐藤優氏の主張)だったとかそういう内容を思い出しており、どうして現在では東大が一番なのか、否、どうして東大が一番に固定されているのかという点について疑問を覚えました。

 そりゃ東大は官制学校として一番金もつぎ込まれているだけでなく入試難易度でも文句なしにトップクラスです。しかし米国の大学ではアイビーリーグというトップクラスの大学ランクは存在するもののその中の順位や価値は常に変動していると聞き、特にハーバード大学を未だにありがたがっているのはアジア人だけで実は外国人留学生が学生の大半を占めているという噂も聞きます。
 大学の価値を推しはかる上で伝統は確かに重要な要素であるものの、真にその価値を見定める指標としては輩出した卒業生の質と、学内での研究ではないかと思えます。何が言いたいのかというと本来なら大学のランクというものはもっと変動があるべきで、この辺の競争システムが日本国内の大学業界では上手く働いていないのではと考えたわけです。

 先ほども言った通り日本でナンバーワンの大学と言ったら東大、次いで京大というのは戦後ずっと変わりがありません。国立大なんかは予算や教員などの面で政府も絡んでいるだけあってこのように順位が固定されるのは多少はしょうがない気がします。では私立大学はどうか。全く変動がないわけではないもののあるとしても同じ大学ランク内の優劣の逆転程度で、大学ランクを飛び越えた変動となるとほとんどあり得ないといっても問題ないでしょう。

 日本の私立大学のランクとなると最上位は言うまでもなく早慶こと早稲田大学と慶応大学です。以前はこの二者の実力は伯仲していたそうですが現在は私の見る限り明らかに慶應の方が上回るようになり、実際につくば市の風力発電機事件や小保方騒動とその対応を見ていると早稲田の水準は世間が見ているより実は低いのではと思うところもあります。もっとも、今思うと早稲田の凋落の始まりはスーパーフリー事件からだったのかなという気もしますが。

 関東圏内だとこの早慶に上智大学を加えた「早慶上智」という言葉もありますが、実は私はこの言葉にあまりピンと来なかったりします。というのも関西圏だと早慶のネームバリューは依然と高いものの上智大学についてはその存在すら知らない人間も少なくなく、高校時代までは関東にいたものの進学後は関西で過ごしてた私からすると「早慶上智」はいまいち実感の湧かない言葉だったりします。はっきり言えることは上智大学は早慶ほど全国的なネームバリューはなく、上智OBの方には申し訳ないですが早慶よりは一段劣るだろうというのが私の見方です。

 その早慶上智の下となると、今後はMARCH(+学習院)というランク層になり、その下は今度は日東駒専が来たりします。私の見る限りだとこれらも同ランク内での変動はあってもランクを越えた変動は数十年なく、なんていうか面白みに欠けます。
 では関西私立はどうか。こちらは最上位ランクにあたる「関関同立」というグループがあり、関西学院大学と立命館大学で2~3位の変動がたまにあるものの基本大きな変化はありません。ただその下の「産近甲龍」の中では近年大きな変動が起こっており、具体的に言うと近畿大学が目覚ましいばかりの躍進を続けています。

近畿大、志願者数で連続トップに 私立大の一般入試(朝日新聞)

 かつて大学入試の志願者数と言ったら早稲田大学か明治大学がトップの座をいつも争っていたのですが、なんとこの二大学を抑えて2014年と2015年は近畿大学がトップに躍り出てきました。近畿大学は関西圏にあることから東京の大学と比べ「上京への憧れ」という面でハンデを抱えておりますが、そのハンデを抱えながらトップに出たというのは控え目に見ても素晴らしい偉業と言っていいでしょう。

 何故近畿大学がトップに出たのか多方面で分析がされているものの、ほぼ一致した意見として「近大マグロ」ことマグロの完全養殖に成功した実績が世間に評価されたものとされ、私もこれに同感です。本人らもそれを自覚しているのか、「近代ってマグロだけだと思ってない?」という言葉が書かれた全面マグロの大学PRポスターを作ってたりしていて、見ていていいセンスを感じます。
 実際に近畿大学がどれほど躍進してるのかなと偏差値ランキングを少し見てみましたが、偏差値レベルでは同ランク内で明らかに最上位に入っており一部学部では関関同立をも上回っているところもあるほどで、もしかしたら絶対不滅と見られていたランクの壁をも超えるんじゃないかと思うくらいの勢いぶりです。

 先ほども書いたように大学の質を測る上でもっとも重要な指標は卒業生の指標、そして研究実績の二つです。近畿大学はこのうち後者で見事な成功を収めて躍進しており、今後もこう言った方面での競争が進んでランクの壁が破られて行けば日本の教育界も全体的な底上げが起こるのではないかと思っており、近畿大学には密かに期待していたりします。
 逆を言えばほかの私立大学についても小手先の改革に頼らず、学生の質向上に取り組みながらいい研究実績を作るなどといった、まともな方面の努力でもって大学ランクの壁を破るような下剋上を達成してもらいたいものです。なんでも競争に巻き込むことは私も反対ですが、真に競い合うべきところは競い合うに越したことはなく、そうした切磋琢磨によって世の中よくなってほしいものだというのが今日の私の意見です。