このブログでも何でも取り上げてきましたが、とうとうグッドウィルが廃業することを正式に発表しました。詳しくは「グッドウィル支店長逮捕事件について(http://imogayu.blogspot.com/2008/06/blog-post_05.html)」に書いてありますが、一部不透明な動きがマスコミなどであまり議論されなかったのが残念です。
それと、確か先週の日曜あたりの朝日新聞朝刊に、人材派遣会社が集まってできた組合が一面カラーで意見広告を出していました。内容は「長期雇用を増進させるために努力する」とか、「職の安定に寄与します」など白々しい内容が書かれていましたが、今回のこのグッドウィルの事件で摘発理由となった「二重派遣」について何も書かれていないのは正直、どうかと思いました。今回の事件でこの問題が尻切れトンボにならないことを祈っています。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年6月25日水曜日
2008年6月24日火曜日
新聞メディアを考える~その六、新聞社の経営~
今日はちょっと疲労気味なので、短くまとめて、信長の野望で真田家で天下を狙いたいと思います。いやね、この前長野の真田家の居城である上田城を見てきてまたやりたくなっちゃってさ。
さて今回は新聞社の経営についてですが、特に専門的にこの分野を学んだというわけではないので、あくまで私の理解の中の話だと了解して読んでください。
新聞社の経営について、わかっている人はわかっていますが、その収入の半分以上は広告料です。一ヶ月当たりの新聞購読料は4000円くらいですが、これらはほとんど収入にならず、スポンサーが紙面に載せる広告料が主な収入源となっております。そのため、スポンサーである広告主を集めてくる広告代理店に新聞社は逆らえなくなっているのが今の日本のマスコミ界の最大の問題と言われ、しばしば非難される点でもありますがそれはまた今度にやるとして、とにもかくにも新聞の広告料が新聞社の生命線となっています。
ちなみに少し話は脱線しますが、新聞社の経営というのは一般的にも非常に難しいといわれています。それこそ明治の初めの頃はいろんな人が新聞を出していましたがみんな失敗してます。一例を挙げると首相にもなった西園寺公望は主筆に幸徳秋水を迎えてやってましたが失敗し、また当時から知名度の高かった福沢諭吉も失敗してます。なおその当時の経営も購読料よりは広告費に頼る傾向が強かったようです。
そんなんで現代の新聞経営では広告が大事なので、基本的に大きなスポンサーには逆らえないとも言われております。それがたとえ、そのスポンサーとなっている会社が社会的に大きな影響を及ぼす事件を起こしたとしても、黙殺されてしまうとまで言われています。まぁ黙殺とまで行かなくとも、実際に新聞社がスポンサーにプレッシャーを受けているのは間違いなく、以前に書いた「キャノン、御手洗会長の報道について」(http://imogayu.blogspot.com/2008/01/blog-post_21.html)で書いていますが、キャノンと松下が今も問題になっている偽装請負を行っていた(行っている?)事実を朝日新聞が明らかにしたところ、現在に至るまでこの二社の広告が朝日新聞には載らなくなりました。この損失は大きく、朝日ではこれで広告収入が大きく減ったと聞いています。
しかし、スポンサーになるのは何も会社だけではないようです。ここからがハイレアな情報になりますが、私自身が直接朝日新聞の社員から話を聞いたところ、「今の新聞社を支えているのは、大学だ」と言っていました。というのも、このご時世にもかかわらずカラーで両面広告を出してくれるのはもはや大学だけらしく、事実上大きな広告主となっているからだそうです。実際にこの時期に電車に乗ると、張られている広告にはオープンキャンパスの日程が書かれた大学の広告が目立ちます。恐らく、この情報に間違いはないでしょう。
ただこの広告費と購読料の割合は新聞社によって多少の差があると言われています。よく言われるのは朝日新聞では広告費の割合が高いのに対して、読売新聞は逆に購読料の割合が高いとされ、それが両紙の新聞の論調に現れているといいます。朝日新聞では企業やそういったものに向けて理念を語るのに対して、読売は一般消費者目線の記事が多いなど、うなずける部分があると私も思います。
ついでに書くと、読売新聞は公称1000万部の部数があると言っていますが、これも知ってる人には知られてると思いますが、なにも読売新聞に限らず、どの新聞社の部数の半分は「押し紙」といって、印刷された新聞屋の中におかれたまま捨てられるといいます。何故そんな無駄なことをするのかというと、一応刷ったら刷ったで広告主に対して、「この広告は1000万部も届けられています」と言えるので、広告料を引き上げられるからです。この方法はアメリカで新聞王と言われたマードック氏が考案した方法です。
そうやって広告料をあれこれ新聞社は稼ごうとしているのですが、それでも現在の新聞社はどこも経営が苦しいと言うのは一致しているようです。聞くところによると、ある全国紙の新聞社では広告料と購読料をあわせた新聞販売事業では完全に赤字で、会社の持つ不動産事業でなんとか黒字にこぎつけているところもあるそうです。まぁ会社ってのは潰れそうで潰れないものですしね。
ただ素人目から言わせもらうと、現代の新聞社はすべからく、企業として大きくなり過ぎていると言えます。何故そんなに社員数を増やしてここまで大規模化したのかというと、単純に報道力高めようとした結果とのことです。何でも日露戦争以降、日本の新聞は社説などの論説からスクープで紙面を埋めるようになり、情報を取るために大きく大きくなり、現在ではその祟り目となって経営を圧迫しているように思えます。
多分、このまま何かネタが思い浮かばなければ、今度でこの連載も最期です。
さて今回は新聞社の経営についてですが、特に専門的にこの分野を学んだというわけではないので、あくまで私の理解の中の話だと了解して読んでください。
新聞社の経営について、わかっている人はわかっていますが、その収入の半分以上は広告料です。一ヶ月当たりの新聞購読料は4000円くらいですが、これらはほとんど収入にならず、スポンサーが紙面に載せる広告料が主な収入源となっております。そのため、スポンサーである広告主を集めてくる広告代理店に新聞社は逆らえなくなっているのが今の日本のマスコミ界の最大の問題と言われ、しばしば非難される点でもありますがそれはまた今度にやるとして、とにもかくにも新聞の広告料が新聞社の生命線となっています。
ちなみに少し話は脱線しますが、新聞社の経営というのは一般的にも非常に難しいといわれています。それこそ明治の初めの頃はいろんな人が新聞を出していましたがみんな失敗してます。一例を挙げると首相にもなった西園寺公望は主筆に幸徳秋水を迎えてやってましたが失敗し、また当時から知名度の高かった福沢諭吉も失敗してます。なおその当時の経営も購読料よりは広告費に頼る傾向が強かったようです。
そんなんで現代の新聞経営では広告が大事なので、基本的に大きなスポンサーには逆らえないとも言われております。それがたとえ、そのスポンサーとなっている会社が社会的に大きな影響を及ぼす事件を起こしたとしても、黙殺されてしまうとまで言われています。まぁ黙殺とまで行かなくとも、実際に新聞社がスポンサーにプレッシャーを受けているのは間違いなく、以前に書いた「キャノン、御手洗会長の報道について」(http://imogayu.blogspot.com/2008/01/blog-post_21.html)で書いていますが、キャノンと松下が今も問題になっている偽装請負を行っていた(行っている?)事実を朝日新聞が明らかにしたところ、現在に至るまでこの二社の広告が朝日新聞には載らなくなりました。この損失は大きく、朝日ではこれで広告収入が大きく減ったと聞いています。
しかし、スポンサーになるのは何も会社だけではないようです。ここからがハイレアな情報になりますが、私自身が直接朝日新聞の社員から話を聞いたところ、「今の新聞社を支えているのは、大学だ」と言っていました。というのも、このご時世にもかかわらずカラーで両面広告を出してくれるのはもはや大学だけらしく、事実上大きな広告主となっているからだそうです。実際にこの時期に電車に乗ると、張られている広告にはオープンキャンパスの日程が書かれた大学の広告が目立ちます。恐らく、この情報に間違いはないでしょう。
ただこの広告費と購読料の割合は新聞社によって多少の差があると言われています。よく言われるのは朝日新聞では広告費の割合が高いのに対して、読売新聞は逆に購読料の割合が高いとされ、それが両紙の新聞の論調に現れているといいます。朝日新聞では企業やそういったものに向けて理念を語るのに対して、読売は一般消費者目線の記事が多いなど、うなずける部分があると私も思います。
ついでに書くと、読売新聞は公称1000万部の部数があると言っていますが、これも知ってる人には知られてると思いますが、なにも読売新聞に限らず、どの新聞社の部数の半分は「押し紙」といって、印刷された新聞屋の中におかれたまま捨てられるといいます。何故そんな無駄なことをするのかというと、一応刷ったら刷ったで広告主に対して、「この広告は1000万部も届けられています」と言えるので、広告料を引き上げられるからです。この方法はアメリカで新聞王と言われたマードック氏が考案した方法です。
そうやって広告料をあれこれ新聞社は稼ごうとしているのですが、それでも現在の新聞社はどこも経営が苦しいと言うのは一致しているようです。聞くところによると、ある全国紙の新聞社では広告料と購読料をあわせた新聞販売事業では完全に赤字で、会社の持つ不動産事業でなんとか黒字にこぎつけているところもあるそうです。まぁ会社ってのは潰れそうで潰れないものですしね。
ただ素人目から言わせもらうと、現代の新聞社はすべからく、企業として大きくなり過ぎていると言えます。何故そんなに社員数を増やしてここまで大規模化したのかというと、単純に報道力高めようとした結果とのことです。何でも日露戦争以降、日本の新聞は社説などの論説からスクープで紙面を埋めるようになり、情報を取るために大きく大きくなり、現在ではその祟り目となって経営を圧迫しているように思えます。
多分、このまま何かネタが思い浮かばなければ、今度でこの連載も最期です。
2008年6月23日月曜日
大河ドラマについて
最近カテゴリーが「社会のはなし」ばかりなので、ちょっと別のカテゴリーの補充をしておきます。ついでに近況を書くと、今日買った「ノノノノ」という漫画の二巻、めちゃくちゃ面白かったです。
今日のYAHOOニュースで知りましたが、今年の大河ドラマ「篤姫」で、今視聴率を押し上げているのが十三代将軍徳川家定役の堺雅人らしいのですが、この人ならさもありなんと思いました。私自身この堺氏が大好きですし、四年前の大河ドラマ「新撰組!!」にて山南敬介役を演じた堺氏の演技がいまだにありありと思い出せます。つうか、出るんだったらもっと早くからだせよなぁ。
その大河ドラマも来年は「天と地と」で、直江兼次が主役になるそうです。しかし番組の多チャンネル化に伴い、ここ数年の大河ドラマは視聴率が下がりっぱなしと言われています。それで確かこれも四年位前だったと思いますが、友人と話をしている時に、「誰が主役だったら大河ドラマも面白くなるかなぁ」と、相談しあったことがあります。
その際に私が出したのは、
「足利尊氏役を元若乃花、弟の直義役を元貴乃花に演じさせて、兄弟間の争いを描いたらどうかな」
「視聴率は取れるけど、撮影が途中で中断になるんじゃない」
と、言い返されました。面白そうだけど。
そんな感じでなんだかんだと候補を挙げていったのですが、最後になって突然友人がポツリと、
「僕、甲斐宗運だったら必ず全話見るよ」
「俺も、それだったら見るわ」
と、妙な形で決着がつきました。
今日のYAHOOニュースで知りましたが、今年の大河ドラマ「篤姫」で、今視聴率を押し上げているのが十三代将軍徳川家定役の堺雅人らしいのですが、この人ならさもありなんと思いました。私自身この堺氏が大好きですし、四年前の大河ドラマ「新撰組!!」にて山南敬介役を演じた堺氏の演技がいまだにありありと思い出せます。つうか、出るんだったらもっと早くからだせよなぁ。
その大河ドラマも来年は「天と地と」で、直江兼次が主役になるそうです。しかし番組の多チャンネル化に伴い、ここ数年の大河ドラマは視聴率が下がりっぱなしと言われています。それで確かこれも四年位前だったと思いますが、友人と話をしている時に、「誰が主役だったら大河ドラマも面白くなるかなぁ」と、相談しあったことがあります。
その際に私が出したのは、
「足利尊氏役を元若乃花、弟の直義役を元貴乃花に演じさせて、兄弟間の争いを描いたらどうかな」
「視聴率は取れるけど、撮影が途中で中断になるんじゃない」
と、言い返されました。面白そうだけど。
そんな感じでなんだかんだと候補を挙げていったのですが、最後になって突然友人がポツリと、
「僕、甲斐宗運だったら必ず全話見るよ」
「俺も、それだったら見るわ」
と、妙な形で決着がつきました。
私が中国語を学んだ理由
今日は例の上海人からリクエストがあったので、中国語でお送りします。
很多人常常问我,你为什么学习汉语……
だめだな、なんだか文字化けする。まぁそういうわけなのでいつもどおりに日本語で書きます。
まぁ書き出しの文の通り、周りからなぜ中国語を勉強しようと思ったのかよく聞かれます。ただその際の私の返答はいつも決まっていて、「三国志が好きだったから」の一言だけです。大抵の人は、「は?」ってな顔をして、人によっては、もっとこれから需要が増えるとか、将来を見越してとかじゃないのと余計なお世話と言い返したいようなことを言ってきます。
時系列に沿って言うと、私は小学生の頃から「信長の野望 覇王伝」をやりこむくらいの日本史マニアでした。きっかけは当時に友達が少なく、教室にあった学級文庫の歴史漫画を学校にいる間中ずっと読んでいたからです。なんせ、友達がいないもんだからあの頃は昼休みはずっと席に座って、歴史漫画を読んでいました。なんか絵に描いたような話だな。
そんなある日、ゴミ捨て場に捨てられていた横山光輝氏作の漫画版「三国志」の一巻と出会いました。堅そうな話だけど、歴史の話だからいっかと持ち帰って読んだのが、私の三国志との出会いでした。当初はそれほどはまらなかったのですが、当時に高校生だった姉が学校の図書館から残りの続きを毎日借りて持ってきてくれたので、全六十巻を読破することができました。もう最期の方の五丈原に至る頃にはすごいはまってて、確かその年のお年玉で「三国志Ⅲ」を買ってました。
それ以降も中国に対して異様な親近感とともにその歴史に尊敬にも似た気持ちを持つようになっていきました。さらに言うと、今もやっている「世界丸見えテレビ」という番組では当時、レンガを食べて暮らすとかひじで釘を刺すとか、体中に針を刺すとかいうトンデモ超人ときたら、ほぼ間違いなく中国人かインド人が出てきていました。昔から今でもそうですけど、そういうわけのわからないものがとにもかくにも好きなので、子供心に見たあの番組から今でもこの二国が非常に大好きなんだと思います。
その後、中国語を実際に学び始めましたが、別にこの分野だけに限るわけじゃないですが、私の場合やり始めの頃は非常に成長が遅い傾向があります。中国語でもそうで、最初の二年は全然上達してなかったし、留学奨学生の試験も即効で落ちてました。この辺もいつか解説したいですが、私は敢えてこのような傾向を自らに起こして、大器晩成型に能力を伸ばしています。それが見事に功を奏したのか、今では街で見かける中国人には片っ端から話しかけて、特に発音には非常に力を入れた分、発音に対して褒められることが非常に多いです。
なので、私は中国語を学んだ理由を必ず三国志からだと答えています。別に何か物をやり始めるのに、大層な理由は必要ないと思いますし、むしろこういった単純な理由の方が人間って動くと思います。こうして文章を書くようになったのだって、昔にあった「サウンドノベルツクール」というゲームでセーブに失敗し、せっかく書こうと思ってた長い話が全部おじゃんになって、それなら紙に書こうと小説を書いたのがきっかけなんですし。
很多人常常问我,你为什么学习汉语……
だめだな、なんだか文字化けする。まぁそういうわけなのでいつもどおりに日本語で書きます。
まぁ書き出しの文の通り、周りからなぜ中国語を勉強しようと思ったのかよく聞かれます。ただその際の私の返答はいつも決まっていて、「三国志が好きだったから」の一言だけです。大抵の人は、「は?」ってな顔をして、人によっては、もっとこれから需要が増えるとか、将来を見越してとかじゃないのと余計なお世話と言い返したいようなことを言ってきます。
時系列に沿って言うと、私は小学生の頃から「信長の野望 覇王伝」をやりこむくらいの日本史マニアでした。きっかけは当時に友達が少なく、教室にあった学級文庫の歴史漫画を学校にいる間中ずっと読んでいたからです。なんせ、友達がいないもんだからあの頃は昼休みはずっと席に座って、歴史漫画を読んでいました。なんか絵に描いたような話だな。
そんなある日、ゴミ捨て場に捨てられていた横山光輝氏作の漫画版「三国志」の一巻と出会いました。堅そうな話だけど、歴史の話だからいっかと持ち帰って読んだのが、私の三国志との出会いでした。当初はそれほどはまらなかったのですが、当時に高校生だった姉が学校の図書館から残りの続きを毎日借りて持ってきてくれたので、全六十巻を読破することができました。もう最期の方の五丈原に至る頃にはすごいはまってて、確かその年のお年玉で「三国志Ⅲ」を買ってました。
それ以降も中国に対して異様な親近感とともにその歴史に尊敬にも似た気持ちを持つようになっていきました。さらに言うと、今もやっている「世界丸見えテレビ」という番組では当時、レンガを食べて暮らすとかひじで釘を刺すとか、体中に針を刺すとかいうトンデモ超人ときたら、ほぼ間違いなく中国人かインド人が出てきていました。昔から今でもそうですけど、そういうわけのわからないものがとにもかくにも好きなので、子供心に見たあの番組から今でもこの二国が非常に大好きなんだと思います。
その後、中国語を実際に学び始めましたが、別にこの分野だけに限るわけじゃないですが、私の場合やり始めの頃は非常に成長が遅い傾向があります。中国語でもそうで、最初の二年は全然上達してなかったし、留学奨学生の試験も即効で落ちてました。この辺もいつか解説したいですが、私は敢えてこのような傾向を自らに起こして、大器晩成型に能力を伸ばしています。それが見事に功を奏したのか、今では街で見かける中国人には片っ端から話しかけて、特に発音には非常に力を入れた分、発音に対して褒められることが非常に多いです。
なので、私は中国語を学んだ理由を必ず三国志からだと答えています。別に何か物をやり始めるのに、大層な理由は必要ないと思いますし、むしろこういった単純な理由の方が人間って動くと思います。こうして文章を書くようになったのだって、昔にあった「サウンドノベルツクール」というゲームでセーブに失敗し、せっかく書こうと思ってた長い話が全部おじゃんになって、それなら紙に書こうと小説を書いたのがきっかけなんですし。
2008年6月21日土曜日
新聞メディアを考える~その五、新聞の個性~
今日は私個人が今の新聞に足りないと思うものを解説します。結論から言うと、今の日本の新聞には個性がないと思います。
皆さんはどういう時に新聞を買うのか、まずそれを考えてみてください。恐らく、普通なら何かしら求める情報を得るために買うのだと思います。しかし買った後、自分の知りたいと思う情報が必ずしもその新聞に載ってなかったという経験がないでしょうか。
私が言いたいのは要するに、今の日本の新聞だと、求める情報と提供されている情報が必ずしも一致しないというのが最大の欠点だと思います。それこそ、スポーツ新聞の場合だとそう言う事はまずありません。野球なり競馬なり、そういった方面に詳しい情報を載せている新聞はたくさんあり、購読者もそういった情報を求めてその新聞を選んで買います。ほかにも日経新聞をはじめとする経済新聞も同じで、これも経済関係の情報なら必ず載せられているので、サラリーマンならまず必携になってきます。
それに対し、全国紙の場合はどうでしょうか。確かに社説の論調で言うなら朝日、毎日が左寄り、読売、産経が右寄りと言われていますが、その取り扱う内容にはほとんど違いが見出せないと思います。それこそ、新聞の1~3面までに載っている記事なんて、どこも変わらないのが実情でしょう。
私が今の新聞に対して求めたいのは、少なくとも「この分野には強いぞ」というような、個性が欲しいです。たとえばほかの新聞に比べて紙面における政治に関する記事が多いとか、他の新聞にはない小説なりエッセイの連載をやっているとか、そういったような個性です。
現状では4コマ漫画や毎週の決められた曜日におけるエッセイが各新聞で連載されていますが、私が期待して読むのは朝日新聞夕刊におけるしりあがり寿氏による「地球防衛家の人々」くらいです。ほかにはと言われても、どっかで連載していた漫画批評のエッセイなんて、これで金がもらえるのかよと思ったほどくだらない内容で、言っちゃ何ですがほとんどの連載は読む気が起きないし、それほど価値がないと思います。
唯一の例外は日経新聞で、ここは前に連載していた「愛の流刑地」、通称「愛ルケ」は新聞の連載小説としては近年稀に見る大ヒットを起こし、また昔から連載されている各界の著名人による「私の履歴書」など、お家芸の経済面以外でもこういったコンテンツ分野も充実しています。それを反映してか、団塊の世代の集団退職に伴って減ると思われた部数が日経の場合、ここ数年は右肩上りで増えています。
さらに付け加えると、私のようなチャイナウォッチャーにとって現在でこそ中国経済新聞の「チャイニーズ・ドラゴン新聞」がありますが、以前は毎日中国の情報を載せていたのは日経新聞だけだったので、学者の方々はほぼ間違いなく日経新聞を読んでいました。
以上のように、「この新聞を買うと、少なくともあの関係の情報は確認できる」、と期待できるようなコンテンツが、今の日本の新聞にとって最も足りていない点だと私は思います。私個人で期待する内容はというと、政治系や海外情報に充実した内容が欲しいところです。
ちなみに、今回解説した内容はそのままブログの運営にも当てはまると思います。特にブログはネット上に無数にある中で固定した読者を得なければならないので、やはり期待されるコンテンツをしっかり持つことが重要になってくるでしょう。私のこの陽月秘話の場合は、
・ほかでは絶対にやってなさそうな情報や解説
・通常より、やや難しい中から上級者向けのニュース解説
・難しい内容でも可能な限りわかりやすく書く私の文章力
以上の三つを柱に据えています。よく友人から、「ブログの内容が難しすぎてわからないんだけど」と言われることがありますが、決して苦に思う必要はないと思います。時たま、やりすぎたと私も難易度に対して思う時があります。
しかし驚くくらいに今の日本のメディア界ではこういった、難しい内容の解説がないのが現状です。誰でもわかりやすい内容だけを書くのも必要でしょうが、自らの知識欲に満足できない人に向けて、今日も明日も私は書くのです。昨日は上海人に召集食らって休んだけど……。
皆さんはどういう時に新聞を買うのか、まずそれを考えてみてください。恐らく、普通なら何かしら求める情報を得るために買うのだと思います。しかし買った後、自分の知りたいと思う情報が必ずしもその新聞に載ってなかったという経験がないでしょうか。
私が言いたいのは要するに、今の日本の新聞だと、求める情報と提供されている情報が必ずしも一致しないというのが最大の欠点だと思います。それこそ、スポーツ新聞の場合だとそう言う事はまずありません。野球なり競馬なり、そういった方面に詳しい情報を載せている新聞はたくさんあり、購読者もそういった情報を求めてその新聞を選んで買います。ほかにも日経新聞をはじめとする経済新聞も同じで、これも経済関係の情報なら必ず載せられているので、サラリーマンならまず必携になってきます。
それに対し、全国紙の場合はどうでしょうか。確かに社説の論調で言うなら朝日、毎日が左寄り、読売、産経が右寄りと言われていますが、その取り扱う内容にはほとんど違いが見出せないと思います。それこそ、新聞の1~3面までに載っている記事なんて、どこも変わらないのが実情でしょう。
私が今の新聞に対して求めたいのは、少なくとも「この分野には強いぞ」というような、個性が欲しいです。たとえばほかの新聞に比べて紙面における政治に関する記事が多いとか、他の新聞にはない小説なりエッセイの連載をやっているとか、そういったような個性です。
現状では4コマ漫画や毎週の決められた曜日におけるエッセイが各新聞で連載されていますが、私が期待して読むのは朝日新聞夕刊におけるしりあがり寿氏による「地球防衛家の人々」くらいです。ほかにはと言われても、どっかで連載していた漫画批評のエッセイなんて、これで金がもらえるのかよと思ったほどくだらない内容で、言っちゃ何ですがほとんどの連載は読む気が起きないし、それほど価値がないと思います。
唯一の例外は日経新聞で、ここは前に連載していた「愛の流刑地」、通称「愛ルケ」は新聞の連載小説としては近年稀に見る大ヒットを起こし、また昔から連載されている各界の著名人による「私の履歴書」など、お家芸の経済面以外でもこういったコンテンツ分野も充実しています。それを反映してか、団塊の世代の集団退職に伴って減ると思われた部数が日経の場合、ここ数年は右肩上りで増えています。
さらに付け加えると、私のようなチャイナウォッチャーにとって現在でこそ中国経済新聞の「チャイニーズ・ドラゴン新聞」がありますが、以前は毎日中国の情報を載せていたのは日経新聞だけだったので、学者の方々はほぼ間違いなく日経新聞を読んでいました。
以上のように、「この新聞を買うと、少なくともあの関係の情報は確認できる」、と期待できるようなコンテンツが、今の日本の新聞にとって最も足りていない点だと私は思います。私個人で期待する内容はというと、政治系や海外情報に充実した内容が欲しいところです。
ちなみに、今回解説した内容はそのままブログの運営にも当てはまると思います。特にブログはネット上に無数にある中で固定した読者を得なければならないので、やはり期待されるコンテンツをしっかり持つことが重要になってくるでしょう。私のこの陽月秘話の場合は、
・ほかでは絶対にやってなさそうな情報や解説
・通常より、やや難しい中から上級者向けのニュース解説
・難しい内容でも可能な限りわかりやすく書く私の文章力
以上の三つを柱に据えています。よく友人から、「ブログの内容が難しすぎてわからないんだけど」と言われることがありますが、決して苦に思う必要はないと思います。時たま、やりすぎたと私も難易度に対して思う時があります。
しかし驚くくらいに今の日本のメディア界ではこういった、難しい内容の解説がないのが現状です。誰でもわかりやすい内容だけを書くのも必要でしょうが、自らの知識欲に満足できない人に向けて、今日も明日も私は書くのです。昨日は上海人に召集食らって休んだけど……。
2008年6月19日木曜日
新聞メディアを考える ~その四、新聞の特性~
早いもので今回の連載も四本目。そこで今回は新聞が持つ、他のメディアに無い特性について語ろうと思います。どうでもいいですが、今ちょっとアニメ版、「ヒカルの碁」で使われた曲を聞いています。あまり知られて無いけど、いい曲が非常に多いです。なお、「ヒカルの碁」は何でも今ロシアで大ヒットしており、「ГО(ゴー)」と入力したら引っかかると前に聞きました。
そんなくだらない話はいいとして、まずほかのメディアの特性ですが、インターネットは言うまでも無く情報量の多さと検索の早さで、テレビは音と画像の同時提供とリアルタイム放送があります。これらに対して新聞はどんな特性を持つかというと、まずあげられるのは「見出し」だと私は思います。
これはうちの親父の受け売りですが、「見出しというのは一行の言葉でニュース内容を読者に理解させるもので、作ろうと思ってもなかなか作れない玄人芸だ」と言ってましたが、実際その通りだと思います。テレビやネットのニュースに対して、ざらっと情報を見渡す、それこそ何か気になるニュースはないかと探す時間だと新聞が圧倒的に短いと思います。この点は手放しで新聞を褒められる点です。なお、最近私が気に入った見出しは巨人のクルーン投手が試合で乱調だった次の日の朝日新聞のスポーツ欄で、「荒れクルーン」と書かれた見出しです。
この見出しともうひとつ、見逃せない新聞の特性というのが、情報の編集です。
本当は別に1コーナー儲けて解説をしたいのですが、ネットが始まってから「情報に強い人間」という定義が私の中では変わりました。始まるまでは文字通り、「どれだけ大量に情報を持っているか」だったのですが、ネットの検索機能が強化されたあたりから、「どれだけ情報を整理できるか」が、情報に対して強い弱いを決まるようになったと思います。
たとえば、今かまびすしい死刑に対する賛否問題ですが、ネットで検索をかければそれこそ賛成派だろうが反対派だろうが、どちらにとっても都合のよい意見を収集できるはずですし、その量にも大差はないと思います。しかし、普通の人にとってその死刑に関する意見や情報のすべてをネット上で眺め回すことなぞ、時間的にも物理的にもほぼ不可能に近いです。そこでは如何に効率よく、信用度や説得力のある意見を見つけられるかが問われるようになって来ます。私が言いたいのはこういうことで、ネット時代の到来と共に情報とは不足するものから過多なものへと化しました。その時代の情報人の必要とされる能力は記憶力ではなく、情報の収集や分析技能だと私は考えているのです。
そんな前置きはよしといて新聞の編集という特性ですが、基本的にほとんどすべての情報は新聞社に一旦集められこそしますが、そこで記者によって必要な情報か、重要な上であるかを判断する編集作業というふるいにかけられて、くだらない情報はそぎ落とされてから(私などはこの過程を「スクリーニング」と呼びます)私たちの元へと届けられます。これによって読者がどんな点で得するかというと、まずくだらない情報を掴まされる事がなくなります。それこそ誤報に至っては掴まされたら大事ですが、ネットで適当に見ているとやっぱりそういう情報も少なからずあります。しかし新聞はその点、発行部数に関わるのでそういった信用度の低い情報は切り捨ててくれます、たまにのっける事はあるけど。また、見るだけ時間の無駄な情報も切り捨てられるので、効率よく情報を得られる上にその逆の、同じ意見でも説得力のある有効な意見も選んで載せるというのも、編集の作業のひとつでもあります。
現在まであれこれ批判はありますが、少なくとも現状でこの編集能力が高いメディアは新聞でしょう。まぁ現在はあれこれ問題は抱えていますが、少なくともこの「見出し」と「編集」は新聞の特性と言ってもよいと思います。しかし、私から見て現在の新聞社はこの他のメディアに勝るこの二つの特性を使い切れていない気がします。次回は、「新聞会社もこうすりゃいいのに」、と私が思う点を紹介します。
そんなくだらない話はいいとして、まずほかのメディアの特性ですが、インターネットは言うまでも無く情報量の多さと検索の早さで、テレビは音と画像の同時提供とリアルタイム放送があります。これらに対して新聞はどんな特性を持つかというと、まずあげられるのは「見出し」だと私は思います。
これはうちの親父の受け売りですが、「見出しというのは一行の言葉でニュース内容を読者に理解させるもので、作ろうと思ってもなかなか作れない玄人芸だ」と言ってましたが、実際その通りだと思います。テレビやネットのニュースに対して、ざらっと情報を見渡す、それこそ何か気になるニュースはないかと探す時間だと新聞が圧倒的に短いと思います。この点は手放しで新聞を褒められる点です。なお、最近私が気に入った見出しは巨人のクルーン投手が試合で乱調だった次の日の朝日新聞のスポーツ欄で、「荒れクルーン」と書かれた見出しです。
この見出しともうひとつ、見逃せない新聞の特性というのが、情報の編集です。
本当は別に1コーナー儲けて解説をしたいのですが、ネットが始まってから「情報に強い人間」という定義が私の中では変わりました。始まるまでは文字通り、「どれだけ大量に情報を持っているか」だったのですが、ネットの検索機能が強化されたあたりから、「どれだけ情報を整理できるか」が、情報に対して強い弱いを決まるようになったと思います。
たとえば、今かまびすしい死刑に対する賛否問題ですが、ネットで検索をかければそれこそ賛成派だろうが反対派だろうが、どちらにとっても都合のよい意見を収集できるはずですし、その量にも大差はないと思います。しかし、普通の人にとってその死刑に関する意見や情報のすべてをネット上で眺め回すことなぞ、時間的にも物理的にもほぼ不可能に近いです。そこでは如何に効率よく、信用度や説得力のある意見を見つけられるかが問われるようになって来ます。私が言いたいのはこういうことで、ネット時代の到来と共に情報とは不足するものから過多なものへと化しました。その時代の情報人の必要とされる能力は記憶力ではなく、情報の収集や分析技能だと私は考えているのです。
そんな前置きはよしといて新聞の編集という特性ですが、基本的にほとんどすべての情報は新聞社に一旦集められこそしますが、そこで記者によって必要な情報か、重要な上であるかを判断する編集作業というふるいにかけられて、くだらない情報はそぎ落とされてから(私などはこの過程を「スクリーニング」と呼びます)私たちの元へと届けられます。これによって読者がどんな点で得するかというと、まずくだらない情報を掴まされる事がなくなります。それこそ誤報に至っては掴まされたら大事ですが、ネットで適当に見ているとやっぱりそういう情報も少なからずあります。しかし新聞はその点、発行部数に関わるのでそういった信用度の低い情報は切り捨ててくれます、たまにのっける事はあるけど。また、見るだけ時間の無駄な情報も切り捨てられるので、効率よく情報を得られる上にその逆の、同じ意見でも説得力のある有効な意見も選んで載せるというのも、編集の作業のひとつでもあります。
現在まであれこれ批判はありますが、少なくとも現状でこの編集能力が高いメディアは新聞でしょう。まぁ現在はあれこれ問題は抱えていますが、少なくともこの「見出し」と「編集」は新聞の特性と言ってもよいと思います。しかし、私から見て現在の新聞社はこの他のメディアに勝るこの二つの特性を使い切れていない気がします。次回は、「新聞会社もこうすりゃいいのに」、と私が思う点を紹介します。
2008年6月18日水曜日
日本の猫の目農政
今日になってようやく日中が東シナ海のガス田開発を共同で行う旨を政府が発表しました。まぁなんというか、少なくとも嘘をつかずに済んでよかったです。
さて今日は新聞メディアの連載をちょっと休んで、日本の農政について書こうと思います。まずタイトルの「猫の目農政」ですが、これはコロコロと変わる日本の農業政策を揶揄して言われている言葉です。
実際に日本の農政の方針は何度も変わっています。古くは米の流通自由化からですが、ちょっと今回の改正は致命的なところもあるのでその辺を詳しく説明します。
まず、大体2000年に入ったあたりでしょうか、何を思ったか農林省は、「日本の農業は土地規模の少ない零細な農家が多い。これらを統合して大規模集団農家にすれば、きっと効率が上がるはず」と言い出しました。当時にうちの親父なんか、「これからは農業も企業がやる時代だ」と言ってましたが、年をとってから私が思うのは、何をそんな適当な事をという事だけです。
この、「農業の企業集団化」というのは要するに、近くの農家同士で一つの経営団体を作り、農産物をつくって行くという事です。たとえば、2ヘクタールの土地を持つAさんと、3ヘクタールの土地を持つ隣のBさんが共同で農業をやっていくと役所に届け出て、それ以降は二つあわせて5ヘクタールの土地を使い、それまで別々に作っていた大根を一緒に作る……というような具合です。政府の言い分だと、大きな土地を集団で耕すのだから生産量も増えるはず。しかも集団で集まるのでまとまった資金も使えるようになり、トラクターなどの農業用器具も購入できるようになりみんなで万々歳だ、といってました。
そして大体二年位前からこの政策を実行に移して行きました。具体的にはこの農業を集団化する事を届けた場合、税制などの優遇するなどのエサをぶら下げ、農家の方々に自発的に集団化する事を誘導しました。しかし結果はというと、詳しくは調べてはいませんが伝え聞くところによると、全然届出がないらしいです。そして実際に集団化したところも、生産量にあまり変化が無いというらしいです。
それもそのはずです。農業というのは農家の方のモチベーション、つまり「やる気」が非常に大きな影響を及ぼす労働だからです。私自身農業を行っていないので強くは言えないのですが、やはり非常に体力のいる作業だと言われております。それでも、その労働が自分の収入に直結するなら、耕しているのが自分の土地ならば、といったやる気によって、生産量が大きく変わると言われています。実際に日本でも戦後のGHQの農地改革の際、それまで小作人ばかりであった日本の農家を土地を安く買い与えて自作農家に変えた事によって、飛躍的に生産量が伸びています。また中国でも作った作物が一時的に全部政府に取られていた共産主義経済時代に比べ、自由主義経済になり、一定量の作物を納めた残りは自由に売ってもよいという「生産責任制」を導入して以降に生産量が増加しています。
それが今回の集団化を行ってしまうと、やはり名義上は自分の土地ではなくなるのですからやる気も失せて当然です。さらに生産効率の面でも、日本人は土地が少ない分これまで熱心に狭い土地を耕作してきており、単位面積あたりの生産効率は世界でもトップクラスだと言われていますし、私もそう思っております。いわば、生産効率がほぼ限界に近いまで上にいるのに、日本より生産効率が全然低い、アメリカのやっているような農業の集団化を行ってどうして生産効率が上がるのか、非常に疑問です。
そんなんだからこの農家の集団化は失敗に終わりそうです。そうして失敗が見えてきた最近になり農水省は、「やっぱ、今のナシね」と言い出しました。何が不幸かというと、すでにタッグを組んで集団化をやっている農家の方々です。
なにも農政に限るわけじゃないですが、日本の政策はそれこそまるで猫の目の如く、コロコロ変えられてしまう政策が多すぎます。今回の高齢者医療制度も始まるや否や改正やら廃棄やら言い出す始末ですし、もう少し原則と言うものを持つべきでしょう。今度は医療の方でもやろうかな、この問題。
さて今日は新聞メディアの連載をちょっと休んで、日本の農政について書こうと思います。まずタイトルの「猫の目農政」ですが、これはコロコロと変わる日本の農業政策を揶揄して言われている言葉です。
実際に日本の農政の方針は何度も変わっています。古くは米の流通自由化からですが、ちょっと今回の改正は致命的なところもあるのでその辺を詳しく説明します。
まず、大体2000年に入ったあたりでしょうか、何を思ったか農林省は、「日本の農業は土地規模の少ない零細な農家が多い。これらを統合して大規模集団農家にすれば、きっと効率が上がるはず」と言い出しました。当時にうちの親父なんか、「これからは農業も企業がやる時代だ」と言ってましたが、年をとってから私が思うのは、何をそんな適当な事をという事だけです。
この、「農業の企業集団化」というのは要するに、近くの農家同士で一つの経営団体を作り、農産物をつくって行くという事です。たとえば、2ヘクタールの土地を持つAさんと、3ヘクタールの土地を持つ隣のBさんが共同で農業をやっていくと役所に届け出て、それ以降は二つあわせて5ヘクタールの土地を使い、それまで別々に作っていた大根を一緒に作る……というような具合です。政府の言い分だと、大きな土地を集団で耕すのだから生産量も増えるはず。しかも集団で集まるのでまとまった資金も使えるようになり、トラクターなどの農業用器具も購入できるようになりみんなで万々歳だ、といってました。
そして大体二年位前からこの政策を実行に移して行きました。具体的にはこの農業を集団化する事を届けた場合、税制などの優遇するなどのエサをぶら下げ、農家の方々に自発的に集団化する事を誘導しました。しかし結果はというと、詳しくは調べてはいませんが伝え聞くところによると、全然届出がないらしいです。そして実際に集団化したところも、生産量にあまり変化が無いというらしいです。
それもそのはずです。農業というのは農家の方のモチベーション、つまり「やる気」が非常に大きな影響を及ぼす労働だからです。私自身農業を行っていないので強くは言えないのですが、やはり非常に体力のいる作業だと言われております。それでも、その労働が自分の収入に直結するなら、耕しているのが自分の土地ならば、といったやる気によって、生産量が大きく変わると言われています。実際に日本でも戦後のGHQの農地改革の際、それまで小作人ばかりであった日本の農家を土地を安く買い与えて自作農家に変えた事によって、飛躍的に生産量が伸びています。また中国でも作った作物が一時的に全部政府に取られていた共産主義経済時代に比べ、自由主義経済になり、一定量の作物を納めた残りは自由に売ってもよいという「生産責任制」を導入して以降に生産量が増加しています。
それが今回の集団化を行ってしまうと、やはり名義上は自分の土地ではなくなるのですからやる気も失せて当然です。さらに生産効率の面でも、日本人は土地が少ない分これまで熱心に狭い土地を耕作してきており、単位面積あたりの生産効率は世界でもトップクラスだと言われていますし、私もそう思っております。いわば、生産効率がほぼ限界に近いまで上にいるのに、日本より生産効率が全然低い、アメリカのやっているような農業の集団化を行ってどうして生産効率が上がるのか、非常に疑問です。
そんなんだからこの農家の集団化は失敗に終わりそうです。そうして失敗が見えてきた最近になり農水省は、「やっぱ、今のナシね」と言い出しました。何が不幸かというと、すでにタッグを組んで集団化をやっている農家の方々です。
なにも農政に限るわけじゃないですが、日本の政策はそれこそまるで猫の目の如く、コロコロ変えられてしまう政策が多すぎます。今回の高齢者医療制度も始まるや否や改正やら廃棄やら言い出す始末ですし、もう少し原則と言うものを持つべきでしょう。今度は医療の方でもやろうかな、この問題。
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