この連載も三回目です。多分ここが一番私が書きたかった内容です。
さてこの太陽電池、今年に入りテレビCMやら環境番組などで急激に取り上げられるようになってきたと思いませんか。太陽電池自体はなにもつい最近に発明されたわけでなく、確かに技術革新は進んでいるとはいえ何故こうも急激に取り上げられるようになったのか、私は以前から不思議に思っていました。
仮説として最初に挙がったのは、やはり環境問題でした。エコなエネルギーとして開発が期待されている燃料電池や原発と違い、太陽電池は作ってしまえば燃料は一切ゼロ、ランニングコストが一切かからずまた余計な排出物を出さないということで最大のエコエネルギーと言われており、環境意識が高まる中で急激に広がって今のようなブームになったのか、というように最初は感じました。
しかし、環境問題というのは基本的に胡散臭いものと考えている私にとって、こんな話をそうやすやすと受け取れるものではありません。そこでいろいろ調べてみて私なりに出した結論というのが、このブームは半導体の価格値下がりが原因であるのではないのかというところにたどり着きました。
ここでぱっといいましたが、皆さん、ここ数年でパソコンがまたえらく安くなったと思いませんか。この原因はパソコンの材料に使う半導体の価格がここ1、2年で急激に下がっているのが原因です。そのためこれまで半導体を作ってきた企業はどれも利益が減り、日本企業では大幅な投資を行って巻き返しを図っている東芝を除きほとんどのメーカーでコンピューター向けの半導体生産を縮小、あるいは撤退をしています。ソニーなんてCELL工場丸ごと東芝に譲り渡したし。
企業としてはこのまま半導体を作っててもどうしようもない。そこで出てきたのが、この太陽電池というわけです。
この太陽電池は昨日までの連載で説明したように、主材料は半導体です。そのため、これまでコンピューター向けの半導体を作っていた工場や施設に軽く手を加えることですぐに生産できる代物なため、コンピューター向け半導体より利益の狙える太陽電池へとシフトしていったのが恐らく実情でしょう。実際に大メーカーだけでなく、コンピュータ向け半導体の一次材料、二次材料を作ってきたメーカーも太陽電池の生産に乗り出しています。そのため環境問題というのは二の次の大義名分、もしくは単なるパフォーマンスというのが実情だと思います。それ言ったら環境PRすべてそうだろうけどさ。
おまけにこの太陽電池は何度も言っているように技術革新が続き、このところは1~2年くらいで設置コストを上回る発電量が期待できるようになったため、大幅な設備投資が行われるという予想もあってこう毎日シャープなどのテレビCMで拝めるようになったのでしょう。因みに先ほどの設置コストというのは、
太陽電池の設置にかかる費用>発電した分の電気代
です。つまり、設置する際にある程度まとまったお金がかかりますが、大体1、2年くらいでその分の費用以上に電気代を節約できるということです。特に最近は余った電気を発電会社に逆に買わせることもでき、ますます費用対効果が高まっているといわれています。
ここまで書くと、なんてすばらしい太陽電池、燃料はいらないし環境にもやさしい……という風に思われるかもしれませんが、もし本当にそうだったらこんだけ環境問題で前のサミットのようにもめたりはしなかったでしょう。おいしい話には必ず落とし穴があります。次回はその落とし穴、といっても私も素人なので多分まだまだ私の知らない落とし穴があると思いますが、ひとまずわかる範囲で太陽電池の弱点を開設します。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年8月18日月曜日
2008年8月17日日曜日
太陽電池とは~その二、種類~
昨日に引き続き太陽電池についてです。前回は一番ややこしい原理をわんこそばに無理やりたとえて説明しましたが、今回も昨日ほどではないにしろ、すこしややこしい構造の部分です。現段階で言うのもなんですけど、本当に書きたいのは何故今太陽電池がよく話題に上るのか、そういった社会的な面を書きたいのですがいきなり書いても仕方ないですしね。
それで種類なのですが、一口に太陽電池と言ってもいくつか系統に分かれています。種類分けの目安となるのは主に原材料で、まず大まかに分けて、
1、シリコン系
2、化合物系
3、有機系
以上の三つに分かれます。一般に言われている太陽電池というのはまず間違いなくシリコン系を指しているので、本解説ではシリコン系に限って解説します。なお、三番目の有機系に属する「色素増感太陽電池」というのは見ていてなかなか面白いので、別の回にて説明します。
それでシリコン系ですが、これはその名の通りにシリコンを原材料にします。シリコンというと私はちょっと前まで女性の豊胸手術や顔面整形の頬に入れるだけの物質かと思っていましたが、最近になって多方面に使用されているということがよくわかってきました。いくつか例を挙げると、一部のプラスチック製品や金属の金型、そして今回の太陽電池のように半導体材料として使われています。
恐らく、このシリコンは半導体材料として使われる量が最も多い材料でしょう。加工が容易で手に入りやすく、その上半導体の材料となれる電子を通したり通さなかったりする物質なので、非常に需要が高い物質です。原材料は珪石といって、昔は「火打ち石」と呼ばれていた鉱物から作ります。これは鉄と同様に地球上に数多く存在する物質で、多分このネタでも記事が一本書けるんですが、実は日本はこの珪石を中国から大半を輸入しています。
そんなシリコンから作られる太陽電池ですが、ここでもまた種類が分かれます。まず、よく民家の家の屋根などに取り付けられている太陽電池は、いわゆる結晶型の太陽電池が使われております。この結晶型はさらに「単結晶型」と「多結晶型」と、材料に使われるシリコンの純度によってまた分けられており、単結晶型というのは高純度のシリコンを材料に使うためコストも比較的割高なのですが、その分発電量を左右する変換効率は高いとされています。
それに対して多結晶型は純度の低い安価のシリコンで作られますが、単結晶型に比べると変換効率は低くなります。しかし変換効率は低いものの、コスト面では絶大な力を持っており、現在の太陽電池の主流となっているのはこの多結晶型で、さらに近年はネックだった変換効率も高く向上しており、この面で単結晶型に迫ってもきているといいます。
これら結晶型に対して、ある意味一番身近な太陽電池がもう一つの「アモルファス型」太陽電池です。このアモルファス型は主に小型精密機器に使用されており、電卓などについている太陽電池はほぼ間違いなくこのアモルファス形です。先ほどの結晶型と比べると変換効率は非常に低いのですが、結晶型と違い光の波長が短波でも(太陽光は長波)電気へと変換できるので、蛍光灯の明かりでも使用できるのが大きな問う口調です。材料のコストも低いのですが、太陽光を浴び続けると劣化してしまうのとその変換効率の低さゆえにこれまで大きな需要へとは至らなかったのですが、こちらも技術の進歩によって劣化対策が進み、現在では主に「多接合型太陽電池」などに組み込まれるようになっております。
この、今出た多接合型太陽電池というのは、複数の光の波長に対して対応させるために作られた構造のことをさしています。先ほどアモルファス型の説明で出ましたが、アモルファス型は短波の光に対応しているように、各太陽電池の種類もそれぞれ変換できる光の波長が決まっています。そのため、対応している波長の違う太陽電池を一つの装置に組み込むことによって、文字通り光を余すところなく電気へと変換できるようになるので、こうして組み合わさって作られているのがこの多接合型太陽電池です。このように複数の太陽電池を組合わすことによって近年の変換効率の上昇率が飛躍的に高まっていったとされます。
ようやく太陽電池の説明が終わったなぁ。明日からようやく書きたい内容が書けるよ……。
それで種類なのですが、一口に太陽電池と言ってもいくつか系統に分かれています。種類分けの目安となるのは主に原材料で、まず大まかに分けて、
1、シリコン系
2、化合物系
3、有機系
以上の三つに分かれます。一般に言われている太陽電池というのはまず間違いなくシリコン系を指しているので、本解説ではシリコン系に限って解説します。なお、三番目の有機系に属する「色素増感太陽電池」というのは見ていてなかなか面白いので、別の回にて説明します。
それでシリコン系ですが、これはその名の通りにシリコンを原材料にします。シリコンというと私はちょっと前まで女性の豊胸手術や顔面整形の頬に入れるだけの物質かと思っていましたが、最近になって多方面に使用されているということがよくわかってきました。いくつか例を挙げると、一部のプラスチック製品や金属の金型、そして今回の太陽電池のように半導体材料として使われています。
恐らく、このシリコンは半導体材料として使われる量が最も多い材料でしょう。加工が容易で手に入りやすく、その上半導体の材料となれる電子を通したり通さなかったりする物質なので、非常に需要が高い物質です。原材料は珪石といって、昔は「火打ち石」と呼ばれていた鉱物から作ります。これは鉄と同様に地球上に数多く存在する物質で、多分このネタでも記事が一本書けるんですが、実は日本はこの珪石を中国から大半を輸入しています。
そんなシリコンから作られる太陽電池ですが、ここでもまた種類が分かれます。まず、よく民家の家の屋根などに取り付けられている太陽電池は、いわゆる結晶型の太陽電池が使われております。この結晶型はさらに「単結晶型」と「多結晶型」と、材料に使われるシリコンの純度によってまた分けられており、単結晶型というのは高純度のシリコンを材料に使うためコストも比較的割高なのですが、その分発電量を左右する変換効率は高いとされています。
それに対して多結晶型は純度の低い安価のシリコンで作られますが、単結晶型に比べると変換効率は低くなります。しかし変換効率は低いものの、コスト面では絶大な力を持っており、現在の太陽電池の主流となっているのはこの多結晶型で、さらに近年はネックだった変換効率も高く向上しており、この面で単結晶型に迫ってもきているといいます。
これら結晶型に対して、ある意味一番身近な太陽電池がもう一つの「アモルファス型」太陽電池です。このアモルファス型は主に小型精密機器に使用されており、電卓などについている太陽電池はほぼ間違いなくこのアモルファス形です。先ほどの結晶型と比べると変換効率は非常に低いのですが、結晶型と違い光の波長が短波でも(太陽光は長波)電気へと変換できるので、蛍光灯の明かりでも使用できるのが大きな問う口調です。材料のコストも低いのですが、太陽光を浴び続けると劣化してしまうのとその変換効率の低さゆえにこれまで大きな需要へとは至らなかったのですが、こちらも技術の進歩によって劣化対策が進み、現在では主に「多接合型太陽電池」などに組み込まれるようになっております。
この、今出た多接合型太陽電池というのは、複数の光の波長に対して対応させるために作られた構造のことをさしています。先ほどアモルファス型の説明で出ましたが、アモルファス型は短波の光に対応しているように、各太陽電池の種類もそれぞれ変換できる光の波長が決まっています。そのため、対応している波長の違う太陽電池を一つの装置に組み込むことによって、文字通り光を余すところなく電気へと変換できるようになるので、こうして組み合わさって作られているのがこの多接合型太陽電池です。このように複数の太陽電池を組合わすことによって近年の変換効率の上昇率が飛躍的に高まっていったとされます。
ようやく太陽電池の説明が終わったなぁ。明日からようやく書きたい内容が書けるよ……。
2008年8月16日土曜日
太陽電池とは~その一、原理編~
以前にある友人から、「太陽電池について情報はない?」と聞かれたので、太陽電池関連の企業に勤めている別の友人に尋ねてみたところ、
「俺にだって、わからないことだってあるさ……」
とキバヤシばりに答えられたので、代わりに私があれこれ調べてみたのでその情報をしばらく連載で解説しようと思います。
今ちょっと復習をかねてウィキペディアの「太陽電池」の項目を見てみましたが、一度は読んだことがあるもののやっぱり文字びっしりでちょっとわかりづらく感じました。構造とか原理には専門的な内容が含まれるため難しくなるのはしょうがないでしょうが、それに対して私の表現力がどこまで肉薄できるかが今回の連載の肝でしょう。
それでは早速一発目の解説を始めますが、多分一番ややこしいであろう太陽電池の原理についてです。
まず基本的な話として、この地球上にある金属からたんぱく質までのあらゆる物質は、太陽の光を浴びるとみんな熱を帯びます。これは物質の中で飛び回っている「電子」が太陽光のエネルギーを受けることによって分子内で活発に動き、その際に余分なエネルギーを熱として外に出すためです。簡単に言うと、太陽光を浴びると暖かくなるのは、分子内の電子が刺激されて要らないエネルギーを出すからです。
基本的に、太陽電池はこの原理を応用して作られています。太陽電池の主材料である、コンピュータ部品としてもよく使われる半導体とは、電子を通したり通さなかったり分別する材料のことを言います。この半導体にも二種類あり、n型半導体とp形半導体といって、それぞれ単純な言い方をすると「陽極」と「陰極」、つまり電池のプラス、マイナスのような関係にあり、n型というのは常に余分な「電子」を抱えて隙あらばどんどん放出しようとする半導体であるのに対し、p型は逆に電子の受け皿となる「正孔」をたくさん持っている半導体です。
このようにそれぞれ性格の違う半導体を二つ重ねると、放出したがっているn型の半導体から受け入れたがっているp型の半導体へと電子が移動します。しかしいくら受け入れたがっているp型といっても、いくらでも電子を受け入れられるわけじゃないので、わんこそばのように「もういいよ」といって途中からn型からの押し出しを拒否するようになり、放出しようとするn型との間で電子と正孔を押し合いへし合い、わんこそばで言うとそばとおわんを押し合っているように、いつしか接合面では電子の移動が止まり、安定した「電界」という領域の状態へとなっていきます。
これまでの過程を簡単な図にするとこうなります。
どんどん来い!>p型半導体(おわん)→←(そば)n型半導体<はいどうぞっ!
↓ ↓ ↓
ごめん、もういいわ……>p型半導体←(電界)→n型半導体<そんな……
自分で書いてて、すごくアバウトな図な気がします。文字表現でこの原理を図に描こうとすること自体凄い試みだけど。ちなみに「おわん」が「正孔」で、「そば」が「電子」のつもりです……。
さてここからが肝心な部分ですが、こうして電界が発生している接合部に太陽光を当てます。するとほかの物質同様に中で電子が活発に動き始め、ちょっとこの辺の理解が曖昧なのですが、太陽光を浴びると上の図のおわんに当たる正孔も活発に動き始めるようで、電子も正孔も弾き飛ばされるように真ん中にあったものがそれぞれの端側へ一気に飛びます。そこへあらかじめ導線となる回路線を電子を放出するn型に取り付けておくと、弾き飛ばされた電子が回路線を通過して、その回路線につながれた電球なり電卓なりに通過することによって電気を供給し、最期にp型へ取り付けられた回路へと導かれ、電子同様弾き飛ばされた正孔が通ってきた電子を受け取る、というようになります。そのため光が浴び続ける間、この二つの半導体は永遠に電流が流れる状態となるので、接続された機器へ電気を供給できることとなるのです。
これも、また図にすると、
←←←←←←←(光る電球)←←←←←
↓ ↑
↓ 太陽光 ↑
↓ ↓ ↑
(おわん) p型半導体(電 界)n型半導体 (そば)
→→→→→→→→ ↑ ↓ →→→→→→→
というような感じです。例によっておわんが正孔で、そばが電子のつもりです。
ここまで書いといてなんですが、ぶっちゃけ原理を誤解しているところがある可能性が高いです。多分以下に示す参考サイトを見た方がずっと解りやすいと思います。我ながら今回はわんこそばをたとえにするあたり、相当思い切った感があります。よく考えたな、こんなの……。
参考サイト
産総研:太陽光発電研究センター「太陽電池の原理」
「俺にだって、わからないことだってあるさ……」
とキバヤシばりに答えられたので、代わりに私があれこれ調べてみたのでその情報をしばらく連載で解説しようと思います。
今ちょっと復習をかねてウィキペディアの「太陽電池」の項目を見てみましたが、一度は読んだことがあるもののやっぱり文字びっしりでちょっとわかりづらく感じました。構造とか原理には専門的な内容が含まれるため難しくなるのはしょうがないでしょうが、それに対して私の表現力がどこまで肉薄できるかが今回の連載の肝でしょう。
それでは早速一発目の解説を始めますが、多分一番ややこしいであろう太陽電池の原理についてです。
まず基本的な話として、この地球上にある金属からたんぱく質までのあらゆる物質は、太陽の光を浴びるとみんな熱を帯びます。これは物質の中で飛び回っている「電子」が太陽光のエネルギーを受けることによって分子内で活発に動き、その際に余分なエネルギーを熱として外に出すためです。簡単に言うと、太陽光を浴びると暖かくなるのは、分子内の電子が刺激されて要らないエネルギーを出すからです。
基本的に、太陽電池はこの原理を応用して作られています。太陽電池の主材料である、コンピュータ部品としてもよく使われる半導体とは、電子を通したり通さなかったり分別する材料のことを言います。この半導体にも二種類あり、n型半導体とp形半導体といって、それぞれ単純な言い方をすると「陽極」と「陰極」、つまり電池のプラス、マイナスのような関係にあり、n型というのは常に余分な「電子」を抱えて隙あらばどんどん放出しようとする半導体であるのに対し、p型は逆に電子の受け皿となる「正孔」をたくさん持っている半導体です。
このようにそれぞれ性格の違う半導体を二つ重ねると、放出したがっているn型の半導体から受け入れたがっているp型の半導体へと電子が移動します。しかしいくら受け入れたがっているp型といっても、いくらでも電子を受け入れられるわけじゃないので、わんこそばのように「もういいよ」といって途中からn型からの押し出しを拒否するようになり、放出しようとするn型との間で電子と正孔を押し合いへし合い、わんこそばで言うとそばとおわんを押し合っているように、いつしか接合面では電子の移動が止まり、安定した「電界」という領域の状態へとなっていきます。
これまでの過程を簡単な図にするとこうなります。
どんどん来い!>p型半導体(おわん)→←(そば)n型半導体<はいどうぞっ!
↓ ↓ ↓
ごめん、もういいわ……>p型半導体←(電界)→n型半導体<そんな……
自分で書いてて、すごくアバウトな図な気がします。文字表現でこの原理を図に描こうとすること自体凄い試みだけど。ちなみに「おわん」が「正孔」で、「そば」が「電子」のつもりです……。
さてここからが肝心な部分ですが、こうして電界が発生している接合部に太陽光を当てます。するとほかの物質同様に中で電子が活発に動き始め、ちょっとこの辺の理解が曖昧なのですが、太陽光を浴びると上の図のおわんに当たる正孔も活発に動き始めるようで、電子も正孔も弾き飛ばされるように真ん中にあったものがそれぞれの端側へ一気に飛びます。そこへあらかじめ導線となる回路線を電子を放出するn型に取り付けておくと、弾き飛ばされた電子が回路線を通過して、その回路線につながれた電球なり電卓なりに通過することによって電気を供給し、最期にp型へ取り付けられた回路へと導かれ、電子同様弾き飛ばされた正孔が通ってきた電子を受け取る、というようになります。そのため光が浴び続ける間、この二つの半導体は永遠に電流が流れる状態となるので、接続された機器へ電気を供給できることとなるのです。
これも、また図にすると、
←←←←←←←(光る電球)←←←←←
↓ ↑
↓ 太陽光 ↑
↓ ↓ ↑
(おわん) p型半導体(電 界)n型半導体 (そば)
→→→→→→→→ ↑ ↓ →→→→→→→
というような感じです。例によっておわんが正孔で、そばが電子のつもりです。
ここまで書いといてなんですが、ぶっちゃけ原理を誤解しているところがある可能性が高いです。多分以下に示す参考サイトを見た方がずっと解りやすいと思います。我ながら今回はわんこそばをたとえにするあたり、相当思い切った感があります。よく考えたな、こんなの……。
参考サイト
産総研:太陽光発電研究センター「太陽電池の原理」
2008年8月15日金曜日
頭文字Dについて
今日は特に書くことないから、ほんと言うと明日辺りからまたややこしいことを書く予定ですが、久しぶりにまた自分の事でも書こうと思います。
今BGM代わりに「Break in to the night」という曲を聴いています。聴いててなんですが、よくこんな歌でこの歌手はやっていけるなと思うくらい下手くそです。しかし、この下手さがかえってよいと思い、ことあるごとに聞いています。
この歌を歌っているのはm.o.v.eといって、アニメ「頭文字D」の主題歌を担当しているグループです。多分何度か書いていますが、私はこの頭文字Dにまたえらくはまって、それまで全く興味のなかった自動車が一気に好きになるきっかけとなった作品です。
この作品の内容自体はウィキペディアを見てもらえばわかると思いますが、本来は初心者マークをつけるはずの主人公藤原拓海が公道レースにデビューし、その技術でもって様々なライバルを倒していくという話です。
率直に言って、この作品が何故評価されたのかというと、まず第一に挙げられるのが主人公の使用車種が「トヨタAE86スプリンタートレノ」であることでしょう。これは往年の人気車種ですが、連載が始まった頃ですらすでに10年落ちのロートル車種でしたが、作者がこの作品で「おとぎ話を描きたかった」と言っているように、性能的には明らかに敵うはずのない最新車種のライバルたちを次々と倒していく爽快さが読者にはたまらなかったと思います。車の性能のハンデを技術で覆すという単純なストーリーの王道ですが、作者の技術的な解説(こじつけにちかいけど)が補填され非常によくできたストーリーへと昇華されています。
次に、私がこの作品でよかったと思う点が、主人公の高校生らしさだと思ってます。連載ではすでに高校を卒業していますが、連載当初は高校三年生の夏休みから始まり、当初は周りに振り回されて嫌々レースを行っていたものの、レースを重ねていくごとに自分の心境の変化、早く走りたいと思っていくようになる過程が、18歳の少年らしさが出ているように思えます。もちろん18歳なので、時には無茶とも思える行動を犯し、自ら挑戦したランエボⅢとの勝負で86のエンジンをブローさせて敗北を喫するなど(ちなみにこのときランエボⅢを運転している須藤京一が私の一番のお気に入り)不器用な姿も描かれており、非常に人間描写が優れているという点も、この作品を人気作品へと押し上げた要因でしょう。
さきほど、主題歌を歌っている人の歌が下手くそだがそれがいいと書きましたが、その理由はここにあります。主題歌が程よく主人公の不器用さを表しているようで、非常に作品にマッチして聞こえてきます。いちおうフォローを入れておくと、最近だとこの歌手は少しはマシになりました。
漫画としての表現面では、この作者の走行する自動車の描写ははっきり言って天下一品でしょう。結構ほかのレース漫画を見てると、車が走っているシーンですらまるで止まっているように見えて、全然迫力がありません。というのも二次元で、しかも静止画で車が走っている状態を描くのは非常に難しいとされています。言えばそのままですが、車は走っててもそんなに目に見えて走る動作を見せないので、常に同じボディ表面のままを書かざるを得ないのですが、この作者は擬音と効果線、そして視点の使い方が非常に上手く(その一方で人物画は下手だと揶揄されてますが)、文字通りこれだけ走っているように見せられるというのは驚愕の一言に尽きます。
そんな頭文字Dですが、私がこの作品の中で特に気に入っているバトルをいくつか挙げると、まず藤原拓海対高橋涼介のAE86対RX-7サバンナです。普通に考えたら、RX-7が負けるなんてありえないんだけどね。そして先ほども挙げた、藤原拓海対須藤京一のAE86対ランエボⅢの二戦目です。この時は86もエンジンを取り替えてパワーアップを遂げており、見事にリベンジを果たすというのが見ていてたまらなかったです。
そして、これは多分私だけではないと思いますが、藤原拓海対館智幸のAE86対シビックタイプRの対決です。この対決は話に二転三転があり、あのブラインドアタックも炸裂するので盛り上がりという点では最もよいバトルだと思います。しかし残念なことに、このバトル以降はどうも中ダレ気味です。作者もあまり連載をこれ以上続けたがっていないようですし、私としてもこのバトルが事実上、頭文字Dの最終回のようなものと位置づけています。
今BGM代わりに「Break in to the night」という曲を聴いています。聴いててなんですが、よくこんな歌でこの歌手はやっていけるなと思うくらい下手くそです。しかし、この下手さがかえってよいと思い、ことあるごとに聞いています。
この歌を歌っているのはm.o.v.eといって、アニメ「頭文字D」の主題歌を担当しているグループです。多分何度か書いていますが、私はこの頭文字Dにまたえらくはまって、それまで全く興味のなかった自動車が一気に好きになるきっかけとなった作品です。
この作品の内容自体はウィキペディアを見てもらえばわかると思いますが、本来は初心者マークをつけるはずの主人公藤原拓海が公道レースにデビューし、その技術でもって様々なライバルを倒していくという話です。
率直に言って、この作品が何故評価されたのかというと、まず第一に挙げられるのが主人公の使用車種が「トヨタAE86スプリンタートレノ」であることでしょう。これは往年の人気車種ですが、連載が始まった頃ですらすでに10年落ちのロートル車種でしたが、作者がこの作品で「おとぎ話を描きたかった」と言っているように、性能的には明らかに敵うはずのない最新車種のライバルたちを次々と倒していく爽快さが読者にはたまらなかったと思います。車の性能のハンデを技術で覆すという単純なストーリーの王道ですが、作者の技術的な解説(こじつけにちかいけど)が補填され非常によくできたストーリーへと昇華されています。
次に、私がこの作品でよかったと思う点が、主人公の高校生らしさだと思ってます。連載ではすでに高校を卒業していますが、連載当初は高校三年生の夏休みから始まり、当初は周りに振り回されて嫌々レースを行っていたものの、レースを重ねていくごとに自分の心境の変化、早く走りたいと思っていくようになる過程が、18歳の少年らしさが出ているように思えます。もちろん18歳なので、時には無茶とも思える行動を犯し、自ら挑戦したランエボⅢとの勝負で86のエンジンをブローさせて敗北を喫するなど(ちなみにこのときランエボⅢを運転している須藤京一が私の一番のお気に入り)不器用な姿も描かれており、非常に人間描写が優れているという点も、この作品を人気作品へと押し上げた要因でしょう。
さきほど、主題歌を歌っている人の歌が下手くそだがそれがいいと書きましたが、その理由はここにあります。主題歌が程よく主人公の不器用さを表しているようで、非常に作品にマッチして聞こえてきます。いちおうフォローを入れておくと、最近だとこの歌手は少しはマシになりました。
漫画としての表現面では、この作者の走行する自動車の描写ははっきり言って天下一品でしょう。結構ほかのレース漫画を見てると、車が走っているシーンですらまるで止まっているように見えて、全然迫力がありません。というのも二次元で、しかも静止画で車が走っている状態を描くのは非常に難しいとされています。言えばそのままですが、車は走っててもそんなに目に見えて走る動作を見せないので、常に同じボディ表面のままを書かざるを得ないのですが、この作者は擬音と効果線、そして視点の使い方が非常に上手く(その一方で人物画は下手だと揶揄されてますが)、文字通りこれだけ走っているように見せられるというのは驚愕の一言に尽きます。
そんな頭文字Dですが、私がこの作品の中で特に気に入っているバトルをいくつか挙げると、まず藤原拓海対高橋涼介のAE86対RX-7サバンナです。普通に考えたら、RX-7が負けるなんてありえないんだけどね。そして先ほども挙げた、藤原拓海対須藤京一のAE86対ランエボⅢの二戦目です。この時は86もエンジンを取り替えてパワーアップを遂げており、見事にリベンジを果たすというのが見ていてたまらなかったです。
そして、これは多分私だけではないと思いますが、藤原拓海対館智幸のAE86対シビックタイプRの対決です。この対決は話に二転三転があり、あのブラインドアタックも炸裂するので盛り上がりという点では最もよいバトルだと思います。しかし残念なことに、このバトル以降はどうも中ダレ気味です。作者もあまり連載をこれ以上続けたがっていないようですし、私としてもこのバトルが事実上、頭文字Dの最終回のようなものと位置づけています。
2008年8月14日木曜日
日本経済の非効率について
今お盆シーズン真っ盛りのため、連日高速道路の渋滞情報が報道されています。その渋滞を作っている人たちはお盆に実家に帰省するか、もしくはバカンスに避暑地などに行く人が大半だと思われます。
これは私の恩師のK先生がよく語っていた話ですが、日本人はお盆と正月に集中して行楽地へ出かけるのは、経済的には非効率なことをしているというのです。何故非効率かというと、この時期にまとめて移動するために渋滞が起きるからではなく、この時期にしか行楽地を使わないために、旅館やそういった施設というものが一年を通して非常に非効率な経営をせざるを得なくなるからです。
ちょっと算数的な話をしますが、ついてきてください。
とある行楽地があるとします。そこには一年間を通して正月とお盆のある一月と八月はいくらでも人がやってきてどこの旅館も満員になるのですが、それ以外の月だと一つの旅館だと100人しか人が来ません。なので、ひと月あたりの収容人数が1000人、500人、200人の旅館だと、一月と八月にはそれぞれ満杯になりますが、それ以外の月だと皆一緒に百人しか客が来ません。それで一年辺りの客数を計算すると、
1000人:1000×2+100×10=3000
500人 : 500×2+100×10=2000
200人 : 200×2+100×10=1000
という結果になります。そのため、単純に言って稼ぎ時である一月と八月にかけて客を大量に取り込む、つまり収容人数を可能な限り大きくしなければ売り上げが伸びず、旅館の経営が成り立ちづらいのです。見る人によっては、「少ない収容人数でも細々とやればいいのでは」と思うかもしれませんが、やはり経営を行っていくにはある程度の収入を稼がねばならず、どこの旅館も収容人数を大きくせざるを得ないと聞きます。
そうして経営をやってくために収容人数を増やすため、経営者は旅館の部屋数を増やしたり従業員も多く雇うのですが、そういった投資は一月と八月以外では逆に経営の重荷にしかなりません。掃除も毎日しなければならず、労働的にも多く働かねばなりません。かといって一月と八月に客を取り込めなかったらやっていけないので、一種のジレンマに旅館は陥ってしまいます。
しかし、もしこれが一月と八月に集中しなければどうでしょうか。たとえば、毎月コンスタントに250人ずつ来るとします。すると、
250×12=3000
という風に、最大収容人数が250人の旅館でも、先ほどの収容人数が1000人の旅館の一年分と同等の客を迎えられることになります。つまり、コンスタントに客が来ることによって無駄に大きな施設を作る必要もなく、単純計算で4分の1の投資でも同じ売り上げが見込めるということです。もちろん、施設の維持や従業員にかかるお金も単純計算で4分の1になるので、利益も非常に大きくなります。
このように、日本人が娯楽を一月と八月に集中して使うのは日本人全体にとってとても非効率的なことだと、私の恩師は語っていました。この考えはもっとミクロな世界にも通用し、たとえばラーメン屋さんでも、お昼の12時から12時半に客が一気に集中するので、売り上げを伸ばすため店を大きくしなければいけないところを、もっとサラリーマンなどが昼休みを分散して取り、11時から2時くらいまでの間に分けて来ることによって、投資もする必要がなくなったり、お昼の一時間に馬鹿みたいに忙しく働かなくともよくなり、ラーメン屋さんのおじさんも大助かり……という話にもなります。
このように、ほんのちょっとの工夫で社会というものは非常に効率的になり、働く側も負担が減り、サービスを受ける側も、ラーメン屋の例だと混雑に悩まされなくなるなどいろいろ恩恵を受けられるのです。経済学というのは中にはお金儲けの学問だと考えている方もおられますが、実際にはこのように、どうすれば皆で得するのかということを考える学問です。そういうことを教えてくれたK先生に、この場を借りて感謝をさせてもらいます。
これは私の恩師のK先生がよく語っていた話ですが、日本人はお盆と正月に集中して行楽地へ出かけるのは、経済的には非効率なことをしているというのです。何故非効率かというと、この時期にまとめて移動するために渋滞が起きるからではなく、この時期にしか行楽地を使わないために、旅館やそういった施設というものが一年を通して非常に非効率な経営をせざるを得なくなるからです。
ちょっと算数的な話をしますが、ついてきてください。
とある行楽地があるとします。そこには一年間を通して正月とお盆のある一月と八月はいくらでも人がやってきてどこの旅館も満員になるのですが、それ以外の月だと一つの旅館だと100人しか人が来ません。なので、ひと月あたりの収容人数が1000人、500人、200人の旅館だと、一月と八月にはそれぞれ満杯になりますが、それ以外の月だと皆一緒に百人しか客が来ません。それで一年辺りの客数を計算すると、
1000人:1000×2+100×10=3000
500人 : 500×2+100×10=2000
200人 : 200×2+100×10=1000
という結果になります。そのため、単純に言って稼ぎ時である一月と八月にかけて客を大量に取り込む、つまり収容人数を可能な限り大きくしなければ売り上げが伸びず、旅館の経営が成り立ちづらいのです。見る人によっては、「少ない収容人数でも細々とやればいいのでは」と思うかもしれませんが、やはり経営を行っていくにはある程度の収入を稼がねばならず、どこの旅館も収容人数を大きくせざるを得ないと聞きます。
そうして経営をやってくために収容人数を増やすため、経営者は旅館の部屋数を増やしたり従業員も多く雇うのですが、そういった投資は一月と八月以外では逆に経営の重荷にしかなりません。掃除も毎日しなければならず、労働的にも多く働かねばなりません。かといって一月と八月に客を取り込めなかったらやっていけないので、一種のジレンマに旅館は陥ってしまいます。
しかし、もしこれが一月と八月に集中しなければどうでしょうか。たとえば、毎月コンスタントに250人ずつ来るとします。すると、
250×12=3000
という風に、最大収容人数が250人の旅館でも、先ほどの収容人数が1000人の旅館の一年分と同等の客を迎えられることになります。つまり、コンスタントに客が来ることによって無駄に大きな施設を作る必要もなく、単純計算で4分の1の投資でも同じ売り上げが見込めるということです。もちろん、施設の維持や従業員にかかるお金も単純計算で4分の1になるので、利益も非常に大きくなります。
このように、日本人が娯楽を一月と八月に集中して使うのは日本人全体にとってとても非効率的なことだと、私の恩師は語っていました。この考えはもっとミクロな世界にも通用し、たとえばラーメン屋さんでも、お昼の12時から12時半に客が一気に集中するので、売り上げを伸ばすため店を大きくしなければいけないところを、もっとサラリーマンなどが昼休みを分散して取り、11時から2時くらいまでの間に分けて来ることによって、投資もする必要がなくなったり、お昼の一時間に馬鹿みたいに忙しく働かなくともよくなり、ラーメン屋さんのおじさんも大助かり……という話にもなります。
このように、ほんのちょっとの工夫で社会というものは非常に効率的になり、働く側も負担が減り、サービスを受ける側も、ラーメン屋の例だと混雑に悩まされなくなるなどいろいろ恩恵を受けられるのです。経済学というのは中にはお金儲けの学問だと考えている方もおられますが、実際にはこのように、どうすれば皆で得するのかということを考える学問です。そういうことを教えてくれたK先生に、この場を借りて感謝をさせてもらいます。
北京五輪の報道について
別に敢えて避けてきたわけじゃないけど、今も開催中の北京五輪について今日はお話します。
これは今日のニュースですが、水泳の北島選手が100メートルに続き200メートルでも金メダルを取りました。これ事態は非常にめでたいわけですが、確かおとといのニュースでしょうか、北島選手の北京での人気ぶりについて日本の民法が現地の新聞を取り上げ、
「現地では北島選手のことを「蛙王」と呼んでいます。なんでしょうかね、蛙みたいに泳ぎが速いからですかね」
とレポーターが言っていましたが、この放送局にはまともな中国語スタッフがついていないのではないかとちょっと思いました。というのも、この言葉に含まれている意味はただの蛙じゃありません。北島選手の専門の平泳ぎは中国語だと「蛙泳」なので、ただ単に「平泳ぎの王者」という意味で使っているのでしょう。ちなみにクロールは「自由式」、背泳ぎは「仰泳」、バタフライは「蝶泳」です。
これとともに思ったことで、これは報道というよりもネットでの評判ですが、よく中国の空気は汚染されている、吸うと体がおかしくなるという報道がありますが、私はちょっとこれはおかしいのではないかと思います。
そもそも、東京五輪が行われた時は東京の空気は多分今の中国より悪かったのではないかと思います。というのも、当時はようやく公害問題が注目され始めた頃で、光化学スモッグが夏場はほぼ毎日発生していたと言われています。日本だってそういう時期があったのだから、何もこれだけ激しく中国のことを責めなくともと、個人的には思います。
そして私の体験だと、私は一年間北京で留学生活を送りましたが、それほど北京の空気が汚いとは思いませんでした。そりゃ確かに日本と比べれば汚いと感じますが、個人的な見解をいうとロンドンの空気の方が北京より何十倍も汚かったように思えます。「イギリスの車には排ガス規制がないのか」とすら思うくらいに、鼻で吸うとものすごいにおいがして、口で吸うと思わずむせる、ロンドンはそれくらいの空気の汚さでした。その空気の悪さを反映しているのか、道路は文字通り真っ黒で、手で触るとすすですぐ指が黒くなります。さらに言うと、これは私は行っていないのですがフランスのパリに行った人によると、パリはこのロンドン以上に汚いそうです。
唯一、北京の環境面で悪いところを言えば、この夏場の暑さです。はっきり言いますがめちゃくちゃ以上です。共産主義国なもんで道路幅もやたらと広いから照り返しもきついし、じりじりと肌を焼かれるような日差しでした。そういうわけだから北京でマラソンをやるなんて、私なら頼まれたってごめんです。
これは今日のニュースですが、水泳の北島選手が100メートルに続き200メートルでも金メダルを取りました。これ事態は非常にめでたいわけですが、確かおとといのニュースでしょうか、北島選手の北京での人気ぶりについて日本の民法が現地の新聞を取り上げ、
「現地では北島選手のことを「蛙王」と呼んでいます。なんでしょうかね、蛙みたいに泳ぎが速いからですかね」
とレポーターが言っていましたが、この放送局にはまともな中国語スタッフがついていないのではないかとちょっと思いました。というのも、この言葉に含まれている意味はただの蛙じゃありません。北島選手の専門の平泳ぎは中国語だと「蛙泳」なので、ただ単に「平泳ぎの王者」という意味で使っているのでしょう。ちなみにクロールは「自由式」、背泳ぎは「仰泳」、バタフライは「蝶泳」です。
これとともに思ったことで、これは報道というよりもネットでの評判ですが、よく中国の空気は汚染されている、吸うと体がおかしくなるという報道がありますが、私はちょっとこれはおかしいのではないかと思います。
そもそも、東京五輪が行われた時は東京の空気は多分今の中国より悪かったのではないかと思います。というのも、当時はようやく公害問題が注目され始めた頃で、光化学スモッグが夏場はほぼ毎日発生していたと言われています。日本だってそういう時期があったのだから、何もこれだけ激しく中国のことを責めなくともと、個人的には思います。
そして私の体験だと、私は一年間北京で留学生活を送りましたが、それほど北京の空気が汚いとは思いませんでした。そりゃ確かに日本と比べれば汚いと感じますが、個人的な見解をいうとロンドンの空気の方が北京より何十倍も汚かったように思えます。「イギリスの車には排ガス規制がないのか」とすら思うくらいに、鼻で吸うとものすごいにおいがして、口で吸うと思わずむせる、ロンドンはそれくらいの空気の汚さでした。その空気の悪さを反映しているのか、道路は文字通り真っ黒で、手で触るとすすですぐ指が黒くなります。さらに言うと、これは私は行っていないのですがフランスのパリに行った人によると、パリはこのロンドン以上に汚いそうです。
唯一、北京の環境面で悪いところを言えば、この夏場の暑さです。はっきり言いますがめちゃくちゃ以上です。共産主義国なもんで道路幅もやたらと広いから照り返しもきついし、じりじりと肌を焼かれるような日差しでした。そういうわけだから北京でマラソンをやるなんて、私なら頼まれたってごめんです。
2008年8月13日水曜日
予想の極意
本日のMSN産経のニュースにて、「アイフォーン発売1カ月 ブームは息切れ? 料金変更で販売てこ入れ」というニュースが報じられました。私はこのアイフォーンについて以前に、「iPHONE参入に見る日本の携帯電話市場ついて」の記事で、言われているほどそこまで売れないのではないかと予想していましたが、現段階でどうにかその予想が大きく外れていないことがわかり、正直ほっとしています。
ここで言うのもなんですが、前回の記事を書いていた時は自信はあったものの内心ではひやひやしていました。というのも、発売前から連日報道され、あれだけ宣伝効果の高い商品をはっきり売れないと書くのはなかなか勇気のいる行為だからです。
それで何故私がアイフォーンを売れないだろうと予想したかですが、まず記事にも書いていますが、「日本の携帯電話は世界的にもすでに高性能である」という、発売前のアイフォーンについての記事があり、これを一つの判断材料にしました。
その記事の中ではアイフォーンの特徴や利点なども説明されていたのですが、たとえばアイフォーンが多機能でインターネット機能も充実しているという記述ですが、この点では日本ではiモードを筆頭に携帯電話でのネット閲覧機能はすでに普及しており、販売が伸びる要因にはならないと踏みました。同様に、たくさんのソフトを取り込めゲームなどもあれこれできるということも書かれていたのですが、これも日本は他国と比べて携帯ゲーム機がPSPやNINTEMDO DSなどが非常に充実しており、今更ゲームハードとして機能の落ちるアイフォーンを使う人間はいないだろうと思いました。
以上のように、アイフォーンの売りとされる特徴が日本人には真新しくない、さらに付け加えると日本には欧米と比べてそれほどアップルの信奉者がいないということを考慮に入れ、いくら価格が抑えられたからといって最初の物珍しさがなくなれば恐らく今のようになるという予想に至りました。
唯一の懸念として、前回の記事にも書きましたがマーケティングによる影響が最も怖かったです。もし今も絶好調の白犬のお父さんのテレビCMがアイフォーンの宣伝に使われたら爆発的に売れるだろうとは思いましたが、恐らくアップル社との契約の関係でコラボレーションはないと踏み、保険のつもりで「マーケティング次第」という記述を加えたりしておきました。ほんと、やらなくて助かった。
私のことを直接に知っている人間ならわかるでしょうが、基本私は予想屋です。国際政治にしろ経済にしろ、今後どのように世の中が動くのかを予想し、判断材料を周りへと提供しています。過去の記事にもいくつか書いていますが、予想の成否というのは判断者の実力以上に運の要素の方が大きいものです。しかし何故その判断に辿り着いたのかという手順さえ踏んでおけば、たとえその予想が外れたとしても、あらかじめその問題を考えておくことによって事情の推移や背景というものが頭に入るので、たとえ出た結果が予想と異なったものであろうとその後の事態の理解には役に立ちます。そういう意味で予想というのは、成否以上に過程の方が重要だと私は考えています。
それでも予想は当たるに越したことはありません。では当てるためにはどうすればいいのかですが、今回のアイフォーンの例のように、やはり判断材料をしっかり集め、それを煮詰めることに尽きます。
しかしただ判断材料を一言で集めるといっても、情報というものは無数にあるものです。それこそアイフォーンの場合、恐らく発売前だと私が選んだ「本当に日本で売れるのか?」という記事はほとんどなく、むしろ「アイフォーンはこんけすごいぞ」、「日本でも絶対バカ売れ」と書かかれた記事の方が断然多かったはずです。にもかかわらず私が判断材料に否定的な記事を選んだのは、私自身が持っている情報とその記事に書かれている情報、そして現実の事実関係の一致があったからです。その事実こそ、もう何度も言ってますが「日本の携帯はもう高性能」という事実で、さらに私の持ち寄った携帯でのネット閲覧や携帯ゲーム機の情報です。こうしていくつもの情報を刷り合わせることで、予想の的中率というのは飛躍的に高まっていきます。
しかしここまで書いておいて言うのもなんですが、これは佐藤優氏も言ってますが最期に一番ものを言うのは判断者の勘です。なんだかんだいって、一番的中率を上げるのは職人仕事的な言語化することのできない鍛え上げられた直感で、判断者が漠然と「こうなんじゃないかな」と思う気持ちだと思います。こう言うと一見、予想は抽象的な世界のように感じられるかもしれませんが、敢えてこの直感について理論をつけると、その予想をする人間も事態を動かす全体の中の一人だということが元になっています。
それこそ内閣支持率なんかだと支持するか支持しないかの二択です。その人が今の総理大臣を支持しているか支持していないかどう思うかですが、もしその人の価値観が日本人の中で多数派を占めている価値観であるならば、その人が支持すると思うのならば多数派である同じ価値観の人間も支持すると考え、結果的には支持が上回る結果が起こるということになります。
言ってしまえば、その人の価値観が当該社会で多数派に属しているのなら、余計な理屈なんて踏まずにその人の思ったことを予想に出せば当たってしまうのです。私の場合はこれを逆説的に用い、今の日本人の多数派の思考や価値観を読み取り、その中でものを判断して予想したりします。今回のアイフォーンの例でも、発売前の報道で自由にプログラムが組めるなど書かれていましたが、私はこの報道に対して、「操作が複雑そうで、手にとりづらいな」と思い、恐らくほかの日本人もそういう風に考えるに違いないと踏んだりしました。
このやり方は結構地味ですが、意外に強力です。肝心なのは自分個人の判断は全体の1%にも満たないが、その同じ判断をほかの人間がどれだけするかです。さらに言うと、自分が多数派に属しているか少数派に属しているか、日頃からしっかりとわきまえておくことです。私なんて少数派に属すことが多いので、普段は、「大衆は私と反対の考えを持つに違いない」と、自分の考えと逆の内容の予想を作ることの方が多いです。
ここで言うのもなんですが、前回の記事を書いていた時は自信はあったものの内心ではひやひやしていました。というのも、発売前から連日報道され、あれだけ宣伝効果の高い商品をはっきり売れないと書くのはなかなか勇気のいる行為だからです。
それで何故私がアイフォーンを売れないだろうと予想したかですが、まず記事にも書いていますが、「日本の携帯電話は世界的にもすでに高性能である」という、発売前のアイフォーンについての記事があり、これを一つの判断材料にしました。
その記事の中ではアイフォーンの特徴や利点なども説明されていたのですが、たとえばアイフォーンが多機能でインターネット機能も充実しているという記述ですが、この点では日本ではiモードを筆頭に携帯電話でのネット閲覧機能はすでに普及しており、販売が伸びる要因にはならないと踏みました。同様に、たくさんのソフトを取り込めゲームなどもあれこれできるということも書かれていたのですが、これも日本は他国と比べて携帯ゲーム機がPSPやNINTEMDO DSなどが非常に充実しており、今更ゲームハードとして機能の落ちるアイフォーンを使う人間はいないだろうと思いました。
以上のように、アイフォーンの売りとされる特徴が日本人には真新しくない、さらに付け加えると日本には欧米と比べてそれほどアップルの信奉者がいないということを考慮に入れ、いくら価格が抑えられたからといって最初の物珍しさがなくなれば恐らく今のようになるという予想に至りました。
唯一の懸念として、前回の記事にも書きましたがマーケティングによる影響が最も怖かったです。もし今も絶好調の白犬のお父さんのテレビCMがアイフォーンの宣伝に使われたら爆発的に売れるだろうとは思いましたが、恐らくアップル社との契約の関係でコラボレーションはないと踏み、保険のつもりで「マーケティング次第」という記述を加えたりしておきました。ほんと、やらなくて助かった。
私のことを直接に知っている人間ならわかるでしょうが、基本私は予想屋です。国際政治にしろ経済にしろ、今後どのように世の中が動くのかを予想し、判断材料を周りへと提供しています。過去の記事にもいくつか書いていますが、予想の成否というのは判断者の実力以上に運の要素の方が大きいものです。しかし何故その判断に辿り着いたのかという手順さえ踏んでおけば、たとえその予想が外れたとしても、あらかじめその問題を考えておくことによって事情の推移や背景というものが頭に入るので、たとえ出た結果が予想と異なったものであろうとその後の事態の理解には役に立ちます。そういう意味で予想というのは、成否以上に過程の方が重要だと私は考えています。
それでも予想は当たるに越したことはありません。では当てるためにはどうすればいいのかですが、今回のアイフォーンの例のように、やはり判断材料をしっかり集め、それを煮詰めることに尽きます。
しかしただ判断材料を一言で集めるといっても、情報というものは無数にあるものです。それこそアイフォーンの場合、恐らく発売前だと私が選んだ「本当に日本で売れるのか?」という記事はほとんどなく、むしろ「アイフォーンはこんけすごいぞ」、「日本でも絶対バカ売れ」と書かかれた記事の方が断然多かったはずです。にもかかわらず私が判断材料に否定的な記事を選んだのは、私自身が持っている情報とその記事に書かれている情報、そして現実の事実関係の一致があったからです。その事実こそ、もう何度も言ってますが「日本の携帯はもう高性能」という事実で、さらに私の持ち寄った携帯でのネット閲覧や携帯ゲーム機の情報です。こうしていくつもの情報を刷り合わせることで、予想の的中率というのは飛躍的に高まっていきます。
しかしここまで書いておいて言うのもなんですが、これは佐藤優氏も言ってますが最期に一番ものを言うのは判断者の勘です。なんだかんだいって、一番的中率を上げるのは職人仕事的な言語化することのできない鍛え上げられた直感で、判断者が漠然と「こうなんじゃないかな」と思う気持ちだと思います。こう言うと一見、予想は抽象的な世界のように感じられるかもしれませんが、敢えてこの直感について理論をつけると、その予想をする人間も事態を動かす全体の中の一人だということが元になっています。
それこそ内閣支持率なんかだと支持するか支持しないかの二択です。その人が今の総理大臣を支持しているか支持していないかどう思うかですが、もしその人の価値観が日本人の中で多数派を占めている価値観であるならば、その人が支持すると思うのならば多数派である同じ価値観の人間も支持すると考え、結果的には支持が上回る結果が起こるということになります。
言ってしまえば、その人の価値観が当該社会で多数派に属しているのなら、余計な理屈なんて踏まずにその人の思ったことを予想に出せば当たってしまうのです。私の場合はこれを逆説的に用い、今の日本人の多数派の思考や価値観を読み取り、その中でものを判断して予想したりします。今回のアイフォーンの例でも、発売前の報道で自由にプログラムが組めるなど書かれていましたが、私はこの報道に対して、「操作が複雑そうで、手にとりづらいな」と思い、恐らくほかの日本人もそういう風に考えるに違いないと踏んだりしました。
このやり方は結構地味ですが、意外に強力です。肝心なのは自分個人の判断は全体の1%にも満たないが、その同じ判断をほかの人間がどれだけするかです。さらに言うと、自分が多数派に属しているか少数派に属しているか、日頃からしっかりとわきまえておくことです。私なんて少数派に属すことが多いので、普段は、「大衆は私と反対の考えを持つに違いない」と、自分の考えと逆の内容の予想を作ることの方が多いです。
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