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2008年9月1日月曜日

権威の失墜と自意識の向上

 かなり前に、「モンスターペアレントはどこから生まれたのか」という記事を書きましたが、この記事の中で取り上げている「自意識の向上」というのは、実は非常に大きな問題なのではないかとこのところよく思うようになりました。

 この問題の背後にあるのは間違いなく「権威の失墜」でしょう。私が子供だった頃と比べると、警察や教師に対する社会の信用というものが数々の不祥事の発覚とともに明らかに低下しているように思えます。
 その結果が私の主張する自意識の向上につながっていると思います。というのも、昔はなんとなく自分じゃ違う気がしていても、権威のある人間が言うのだから正しいのだろうというように納得できたものが、このところは専門家の意見に対しても、「自分たちの考える意見が正しい」などと主張するようになって来ました。

 だからといって、私は警察や教師といった人間の権威を守るために、不祥事は明るみにするなとは言うつもりはありません。確かにこれまで閉鎖的に情報が閉ざされていた結果、冤罪事件や教師の不正採用など数々の悪事が隠されてきてしまい、そういった問題が発覚するようになったのは感激すべきでしょう。しかし、一部の小悪人の行動が全体の行動を代表しているかのように考えるのはやはり良くない気がします。

 特にそれが顕著なのは医師です。ほんの1%にも満たない人間の悪事によって医師全体の国民の信頼が薄れ、この前に書いた「医療裁判事件の無罪判決について」のように、必死で行われた処置を間違っているのではないかと疑うのは医師患者双方にとってとても不幸なことだと思います。

 ではどうすればいいのかということですが、これは単純にいって、相手を集団で見ないことです。警察だから、政治家だから、自民党だからというように、所属する組織や団体で相手の性格や行動を考えず、相手個人をしっかりと見つめることです。なんか擁護するような形になりますが、毎日新聞の問題にしろ、私は明らかに毎日新聞社の経営側職員の不手際がこの前の問題を引き起こし、スクープを多く拾い(最近あまり見ないけど)、現場で活躍する毎日新聞社の記者が毎日だからという形で批判されるとのは少し可哀そうな気がします。

 そして何よりいいたいことですが、自分の意見と相手の意見のどちらが正しいのか、それははっきりと基準となるものはありませんが、じっくり自分で意見を比べ合い、考えることが最善の選択を得る唯一にして最大の手段であると思います。一概に自分の意見が正しいと、慢心するのはよくない……と言いたいんだけど、私が一番人の意見を聞かない性格してるからなぁ……。

人の意見を自分の物とする者

 以前、というか今でもそうですが、私があれこれ政治談議を若い人間にしていると、

「花園さんの話とか聞いているとためになるのですが、一体こういった問題だと、誰の話を信用したらいいのかわからないのです」

 という風に言われることが非常に多いです。 
 確かに、政治政策などの問題だと複雑であるし、何が実際に効果があるのかといったことは非常にわかり辛いということはあります。しかしそれにしても、何が良いか悪いかはじっくりその人の意見、果てには対抗意見をよく聞いて、その上で自分で考えろ、人の意見を鵜呑みにするなと叱り飛ばしてやりたいのが本音ですが、最近だとこういう人間の方がマシだったと思うようになりました。

 というのも、最近だとろくすっぽ知識もないくせに、人の意見は聞かずに根拠なく自分の意見が正しいという人間が増えてきました。それこそネットの意見をそのままなぞるだけなので、「それはどこそこのサイトの○日の記事だね」といって私はそういった人間を黙らせているのですが、その際にはいつも異様な不気味さを感じます。何故かというと、確かに人の意見を参考にしてそれに同意するというのはわかるのですが、そういった人は他人の言った意見をまるで自分が考えて出した意見のように言うからです。

 私は問題意識を持たずに考えない人間よりあれこれ物事を考える人間の方を評価します。しかし、わからないことをわからないという人間はソクラテスの「無知の知」ではないですが、先ほどのセリフを言った人間のようにそれはそれでまだ素直さもあり、まともな人間だと思えます。できれば考えてほしいけど。
 ですが、人の意見を自分の意見かのように言う人間は言語道断です。さらにその問題について自分から対抗意見や掘り下げたりもせず、漫然とその意見の正当性を主張するなんて持っての外でしょう。

 引用なら引用だとあらかじめ言い、その意見に賛同しているというならそう言えばいいだけです。別にこれは恥ずかしいことではなく、その意見に対して同意か不同意か、何故そう考えるに至ったのかという過程は非常に重要ですし、曲がりなりにも問題を考えているといえます。ですがこのところ私が出会う変な人たちはそういった過程を一切経ずに、最初に目に入った意見だけをひたすら盲信する傾向が特に強いです。
 そういった人たちのもう一つの特徴を言うと、最初の意見を盲信するあまり、どれだけ別の意見の有効性を訴えたところで考えを変えないというところもあります。どうも考え方を変えるのは、自分が負けると勘違いしているのかもしれませんが、そういうことは全くないのですし、こっちとしても勝ち負けにこだわっているわけじゃありません。

 やや散文的に内容がばらばらになりましたが、こういった人間らが増えるということは社会にとって大きなマイナスです。人の言葉や姿だけを取り込むしかできない「カオナシ」という妖怪が千と千尋で出てきますが、一人や二人ならともかく、こんなのがそこら中にいる社会は私はごめんです。

2008年8月31日日曜日

書評「人間回復の経済学」

 未だ小説がアップできないショックを引きずっていますが、ひとまず一本記事を上げます。

 コメント欄では少し言及しましたが、私が一番基礎においている経済学の流派は現東京大学名誉教授の宇沢弘文氏の経済学で、今回紹介する「人間回復の経済学」の作者である神野直彦氏はこの宇沢氏の弟子です。
 この本の内容を私なりに大まかに説明すると以下の通りです。

「本来経済というのは人間の生活を便利にするために作られたもののはずが、いつの間にか人間の方がこの経済の動向に一喜一憂し、立て直すためなどに犠牲にさらされている。こうした現状を打破し、真に人間の側に立つ経済に作り直さねばならない」

 というような内容が書かれております。具体的に神野氏がモデルとしている社会はスウェーデンなどの、北欧諸国のような高福祉社会です。これらの国は税金が高いかわりに国からの教育費や医療費は非常に充実しており、実質これらの部門の国民の負担はほとんどありません。こういった社会モデルは今風に言うと、「大きな政府」で、現在日本が目指している「小さな政府」とは対極をなしております。

 私は当初、確かにこのような高福祉社会は理想ではあるが、人口規模が一千万人台のスウェーデンと日本では、同じく教育費を無料にするにも大きな費用負担が必要になり、土台的には無理なのではないかと考えていました。しかしよくよく考えてみると、国家規模が日本に近いドイツでも教育費は基本的に無料(大学を含む)で、ドイツの税負担率もスウェーデンほど高くないのでこれは間違いだと気がつきました。

 このところよく思うのですが、現在日本政府は景気回復のために大幅な資金投入、まぁ言ってしまえば公共投資をやろうと検討していますが、真に景気拡充につながる投資と言うのは、教育以外にはないような気がします。たとえば工事や建設といった土建業は明らかに一過性だし、まだ企業の研究開発を後押しするならともかく、何か産業を資金的に後押しするとしても、金融の安定化を除いて旬が過ぎれば長期的に見てどの産業も景気に対して何の貢献もないのではないかと思います。

 神野氏は教育環境が充実していれば、たとえば今みたいに土建業が潰れまくって失業者にあふれたとしても、再教育して今だったらIT系の技術や知識をつけさせることにより、失業者を減らすと共に必要な労働者を再生産できると主張しています。私も、今なんかだったら刑務所の受刑者に家具などの技術教育を行うより、こうした難しくとも最先端の技術を授けるほうが効果ある気がします。

 そのように、再教育を行ううえで最大の障害となるのが、やはり学費です。だからそれこそドイツのように教育費が無料であれば、生活さえ保障できる貯金や援助があればいくらでも失業者を鍛え直すこともでき、労働力の回転も良くなるのではないかと考えています。
 中には、学費を無料にしたらただ働きたくないだけで大学でサボる学生が増えるという方もいると思いますが、現時点でも日本の大学はサボる学生で溢れているので、別に大きな差はないと思います。知り合いの中国人留学生らもみんなして、日本の学生は本当に勉強しないと呆れるくらいですし。

 私はこの本を恩師のK先生(ツッチーと会う前に)に薦められて手に取ったのですが、最初の頃はどうも胡散臭い気がして、結構K先生に噛み付いたりしたことも会ったのですが、改めて時間を置いて読んでみると、いろいろな面で先進的な内容が書かれており、また含蓄のある提言がなされているのに気がつき考えを改めるに至りました。なのでもし今回の記事で興味をもたれた方は、なにも教育問題だけに提言がなされているのではなく広範囲にわたってあれこれ書かれてあるので、是非読むことをお勧めします。

小説のアップロードについて

 昨日わざわざブログを休んでまで作業していたのですが、実は今週から毎週末に小説を連載しようと考えてこうして実際に小説も出来上がっているわけなのですが、ふざけんなと言いたいくらいに、なんと文書ファイルのアップロードができないことが今日になってわかりました。
 確かに文章なので、こうして他の記事同様に小説の文章を貼り付けるだけでもいいのですが、日本語にはやはり縦読みのが読みやすく、また表示の方法も工夫次第であれこれでき、それによって表現もいろいろ帰るので、できれば今保存してあるワードの形式で公開したいという思いがあります。そして何より、ブログで公開するには文章が長すぎます。

 単純に言って、20×20の原稿用紙20枚分もあり、これを他の記事の中に混ぜて公開していると、ブログ全体が異常に見辛くなります。なので苦渋の決断ですが、今回はアップロードをあきらめます。

 できればなんとしても後悔したいと言う思いがあるので、FC2(ここもテキストファイルはアップロードできない)のほうでもう一つ小説専用のブログを作り、そこで公開できたらと考えています。ああぁ、なんか馬鹿馬鹿しい。

2008年8月29日金曜日

情報社会論

 たまには一応専門だった社会学の話でもします。
 さて社会学の専門用語には「情報社会」という言葉があります。この言葉は現代の人間関係を説明する際に使う言葉です。

 卑近な例を出すと、大体50年位前であれば自分が生まれた時に産湯をつける産婆というのは近所に住んでいる方で、また自分が死んだ際にその死体を弔うのも生前に知り合いであった近所の方らでした。
 しかし現在はというと、誰とも知らない病院の医師によって取り出され、誰とも知らない葬儀屋によって最後弔われます。このように、昔は自分と同じ町内などの生活圏の距離的な長さによって人間関係が作られていきましたが、現在では機能ごとに人間関係が作られていくというのがこの情報社会の言い表す関係です。

 それこそ、昔であれば小学生からおっさんになるまで近所の人間同士で同じ生活圏で生活していて、昔の友達は年をとった後もずっと友達で夏祭りなどの近所の行事でも、お互いに顔をあわせてなんやかんや言い合って執り行う関係でした。しかし現在はというと、ネット上で顔も知らないが同じ趣味を持つもの同士で友人関係が結ばれたり、誰が公開しているかもわからない動画などをみて楽しみ、それにコメントをつけるように、人と人との関係性はピンポイントに結ばれていきます。
 それはもちろん最初の例のサービスの事例のように、昔は顔の見える人間から農作物といった食料を調達していたのが、いつの間にやら見も知らぬ、ってか中国から渡ってきた野菜を日本人は食べるようにもなりました。

 これまでの話を簡単にまとめると、昔の人間関係は小さく濃密であったのに対し、現在では広く薄く、といったような人間関係へと変わっているということです。ちょっと長くなりますが、そういう風に変わっていった経過を順を追って説明します。

 まず、今ほど交通の発達していない昔、日本だとそれこそ六十年くらい前でしたら、基本的にその一生の生活圏は大きく変わることはありませんでした。たとえば、私の生まれ故郷である鹿児島県の出水市で生まれた人は出水で教育を受け、出水で働いて、出水で嫁さんをとって、最後は出水で死んでなくなるように、生まれてから死ぬまで出水で過ごしていました。もちろん全く移動することがないわけでもなく、鹿児島県から出たり東京へ行くこともあったでしょうが、それでも当時少ない大学進学者などを除くと一般の方の生活圏は基本的に生まれてから大きく変わることはありません。

 しかし集団就職によって地方から都市部へと多くの人々が移動し始める時代(1960年代)に至ると、こういったライフスタイルが大きく変わります。まず教育を受け終わった時点で生まれ故郷を離れた職場へと移動します。そしてこれはあまりレポートなどが出ていませんが、集団就職をした方の大半はその職場の付近で、中には同じ集団就職者同士で結婚相手を見つけています。さらに年齢がいって職場を変えたりしたら、そこでさらにまた移動が起こります。

 このように、日本では60年代くらいからまず生まれ故郷と職場が切り離されました。しかし、これはまだほんの序章に過ぎません。その後、東京への一極集中が始まりますと、東京都内には住居が不足し始め、ドーナツ化現象によって神奈川、埼玉、千葉といった周辺地域が東京へ通勤する勤労者のベッドタウンへと貸していきました。この時点で、今度は職場と住居(生活圏)が切り離されます。

 そして現在になると、今度は転勤などによる単身赴任もざらになり、家族とまで切り離される方まで出てきました。また職場環境でも親会社から子会社、直接雇用と派遣雇用などというように、同じ会社内でもその位置や雇用形態によって本筋の人から切り離される人も出てきました。また仕事の内容でも、昔では距離的に近い者同士しか交流できなかったのがITや輸送手段の発達によって、瞬時に全国、果てには海外とも取引できるようにもなりました。

 確か、イソップ童話の「都市のねずみと田舎のねずみ」という話で、田舎のねずみが上京しますが都市の殺伐とした空気が合わなくて、生活は便利といえども最後には田舎に帰ってしまうという話があります。基本的に、それは今でも大きく変わっていないのかと思います。

 少なくとも現時点で中世のヨーロッパよりは現代人は「都市の空気」への耐性はついているとは思いますが、それでも田舎での生活が今でもノスタルジックに語られる点を考えると、今後はどうなっていくかはわかりませんが、人間というのは基本的に情報社会になじまないのだと思います。やはり距離的に短い関係の方が、人間にとっては安心しやすい関係なのではないかと私は思います。逆に、生活圏を構成する家族、住居、故郷、職場、人間関係、仕事、趣味といった要素がばらばらにされていけばいくほど、人間というのは不安を感じていくのではないかと思います。

 特に私が20世紀後半の急激な変化で致命的だったと思えるのが、職場と住居の切り離しです。昔はそれこそ地元の農家が作った野菜を地元の野菜屋が売り、地元の料理人がそれを料理して、地元の人間がそれを食べるというように完結していたのが、すでに述べたように今じゃこれが全部バラバラです。中国から来た野菜を、東京に本社のある商社が売り、食品メーカーが工場で食材を大量に調理し、トラックで配送されたイオンでそれを買う人が最後にそれを食べる、とでも言うのですかね今は。

 人間、まだ顔の見える相手にならなかなか悪いことはできません。それこそ地元の人向けに売る餃子に毒なんてなかなか混ぜないでしょう。そして職場と住居が一致することにより、同じ地域の人間同士で交流が生まれ、それによって地元への貢献心が強くもなります。その貢献心によって消防団活動や地元のレクリエーション活動、親戚が近くに住むもの同士での結婚というような行動に結びついてくるのだと思います。今、日本で起こっているモラルパニックの一因となっているのは、私はこの職場と住居の切り離しにあるのではないかと考えています。

 なんか今日はあまり上手い表現じゃないな……。明日頑張ろう。

2008年8月28日木曜日

あれこれ続報

 前回に書いた「アフガニスタン拉致事件について」で、報道でもなされているようにペシャワール会の伊藤和也氏が遺体となって発見されました。ペシャワール会の代表の中村哲氏は、伊藤氏の死を無駄にしないためにも、今後もアフガニスタンでの活動を続けていくつもりだと語っており、私も影ながら応援していく次第であります。

 もう一つ今日入った続報ですが、「医療事故裁判の無罪判決」で取り上げた産婦人科医の裁判で検察が控訴をあきらめたそうです。(ネタ元:帝王切開死 産科医無罪 検察、控訴断念の方向
 ちょっと他のニュースにまぎれて隠れてしまいましたが、まずは一安心です。

2008年8月27日水曜日

太田誠一農水大臣問題について

 これもニュースなどで取り上げられていますが、太田誠一現農水大臣において秘書宅を事務所として登記し、事務所費を計上していた問題が明らかになりました。すでにこれまでに松岡、赤城、遠藤と、歴代の農水大臣がほぼ同じ問題で責任が追及されて辞任に追い込まれているにもかかわらず、またも鬼門の農水大臣ポストで同じ問題が起こりました。

 この問題について今朝のテレビ番組でコメンテーター(名前はまた失念してしまいました)が、恐らくこれまでのことがあったために福田首相は相当議員の身体検査をしてから組閣しているはずであるから、今回このような問題が起きたのは組閣ギリギリの段階で太田を選んだためであるだろうと述べていました。では何故ギリギリの段階で抜擢したのかというと、それは恐らく最後の最後までもめた麻生太郎の幹事長就任において、麻生が就任を飲む代わりに太田を農水大臣ポストを与えることを条件にしたのだろう、つまり、麻生が太田を農水大臣に入れたためにこの事件は起こったと分析していました。

 状況から考えると、この説にうなずけるところが数多くあります。福田首相が行っていた身体検査は組閣以前から報道されていましたし、ましてこの農水大臣職、検査があったにも関わらずこんな事件が起きたのはこのコメンテーターの言う通りになにかのごり押しで決まったのでしょう。この大田という人は過去にも何度か失言やってますし、失言癖のある人とも仲がよかったのかもしれませんね。我ながら、すっごい皮肉だけど。