これから書くことは内容が内容だけに、すこし手が震えます。書くことの重大さもさることながら、そのあまりの内容からだと思います。
さてこの連載の中の「その五、毛沢東思想」の中で、通称マオイズムと呼ばれる毛沢東の思想について、非常にお粗末ながら解説させていただきました。この毛沢東思想ですが、よく勘違いされがちですが伝播した範囲というのは中国国内に限定されておらず、なんだかんだいって欧米でも研究者が出るなど世界的に大きく広がりを見せ、現在でも大まかな範囲で否定されつつも、共産主義と農民主義を合体させたことなど限定的な面で評価されています。
ここで更に注意してもらいたいのは、この毛沢東思想は決して過去の遺物ではなく、現在もなお影響を持ち続けている思想であるということです。その影響が未だに続いている場所というのは他でもなく、東南アジアに位置するカンボジアです。
注意してみている人だけかもしれませんが、よく海外政治ニュースなどでカンボジアの情勢が伝えられる際、「毛派」という言葉が出てきます。この毛派というのは文字通り、毛沢東主義を第一に掲げている政治集団のことを指しており、その勢力が大きく衰えたとはいえ現在もなお活動している団体です。もちろん、その活動は非合法なテロなどが多いのですが。
話は毛沢東が生きていた時代、そしてベトナム戦争が行われていた時代です。当時のカンボジアはシアヌーク国王による王政国家だったのですが、国王が外国に出ている隙に親米派のロン・ノルがクーデターを起こして政権をとりました。当時はベトナム戦争真っ只中ということもあり、ロン・ノルは国内にいるベトナム人や共産主義勢力に弾圧を加えた(カンボジアとベトナムは国境を接している)のですが、それに対して反動が大きくなり、最終的にはポル・ポト率いる共産主義勢力であるクメール・ルージュがゲリラ戦を展開して内戦を起こし、逆にロン・ノルを国外へ追い出すことに成功しました。
まぁなんていうか、ここで話が終わればそれなりによかったのですが、皮肉なことにこの結果が後にカンボジア、ひいては20世紀の一つの悲劇を生むことになります。
この時政権を奪取したクメール・ルージュですが、これはフランス語で「カンボジアの真紅」という意味で、カンボジア共産党ともいう意味です。この時の指導者はフランスへの留学帰りが多く、それから名づけられた名前です。
ついでに余談ですが、中国で私と相部屋であったルーマニア人はフランスのことを、「あそこは共産主義国だから」と評していました。まぁそれとなくそんな感じはするけど。
それでこのクメール・ルージュですが、内戦時に主に支援を受けていたのは中国からでした。中国としては共産圏を広がることでこの地域への発言力を強めようという意図があったのだと思いますが、この時に中国に影響を受けたことからクメール・ルージュの掲げる思想というのは毛沢東思想に準拠したものになりました。そしてそんな集団がカンボジア首都、プノンペンを占領すると、早速その思想を実行に移します。
出来れば先にリンクにあげた過去の記事を読み返してもらいたいのですが、毛沢東思想の最も代表的な特徴というのは、「知識人は搾取階級であり悪である」ということです。そのため、この思想を掲げるクメール・ルージュが真っ先に行ったのは知識人の一方的な殺戮でした。聞くところによると、英語をほんのすこし話すだけでも、仏教を修行していただけでも知識人とみなされ一方的に殺戮されたそうです。またそうでなくとも、途方もなく極端な政策が無理やり実行されて強制労働が各所で行われ、文字通り死ぬまで人を酷使した上で逃げ出そうものなら容赦なく射殺していったようです。
そうして知識人を社会からはじくかわりに持ち上げられたのが、まだ年端もいかない子供たちでした。毛沢東思想の反復になりますが、まだ何の教育にも染まっていない子供たちこそ新たな時代が切り開けるという考えの下でクメール・ルージュは子供に銃を持たせ、政策への不満を漏らしていないかスパイ活動を行わせ、挙句に大人たちの処刑を行わせたのです。このあたりは中国の文化大革命時の紅衛兵を想像してもらえばいいでしょう。まぁさすがに毛沢東も紅衛兵に銃は持たせませんでしたが。
その結果、このクメール・ルージュ政権時に虐殺された人数は200万人から300万人とも言われ、当時のカンボジア全体の人口の実に四分の一もの人間が殺害されたと言われています。これは一つの政権による虐殺としては過去最大で、あのナチスドイツのユダヤ人虐殺の人数をも越えます。
にもかかわらず、こちらは日本でユダヤ人虐殺ほどあまり取り上げられません。その理由は恐らく、ユダヤ人には政治家や金持ちが多くいるために世界的に発言力が大きく、それに対してカンボジア人はそれほど発言力がないからと、同じ共産主義国といってもソ連の支援を受けていたベトナムに対する防波堤としてこのクメール・ルージュを中国同様に間接的にアメリカが支援したということが影響していると思います。
最終的にこのクメール・ルージュは対立していたベトナムと戦争状態になり、実力に優れるベトナム軍にコテンパンにやられ国外から追放され、この虐殺の責任を追及されないことを条件にベトナムに従うという政府関係者によって新たに政権が作られることにより虐殺が終わりました。このことが後々に問題となってくるのですが、こちらはちょっと範囲外なので取り扱いません。
このカンボジアの虐殺については「不思議館~ポル・ポトの大虐殺~」に非常に詳しく書かれているので、勝手ながらリンクを貼らせていただきます。このページでも冒頭に書かれていますが、この虐殺について詳しく知りたいのなら最もよいのは「キリング・フィールド」という、実話を基に作られた映画を見ることをお勧めします。これはアメリカ人記者とそのカンボジア人通訳の人の話で、作中後者の通訳の方が英語を使える事を悟られまいと必死で隠す姿と、その彼に対して12~3歳くらいの少年が無機質な顔で銃を向ける映像が印象に深く残っています。
結論を言うと、文化大革命は中国だけでなくカンボジアでも行われたということです。そして両国ともおびただしい犠牲者を生み出し、毛沢東思想というのは事実的にも悲劇の歴史を複数も生んでしまったということです。思想という言葉について最近あまり私が本を買わなくなった佐藤優氏によると、「普段何気なく、当たり前だとみんなが思っていること」と言い、日本人が意識しなくとも仏壇で手を合わせるような事が思想だと説明していますが、この毛沢東思想の例を考えるにつけ、集団を方向付ける非常に大きな要素なのだと思うようになりました。よく教育議論などで思想思想とあれこれ議論になりますが、そんな簡単に扱っていいものか、そんなあいまいな議論でいいものかなどと、軽々しくそれを口にするものに対して強く不快に私は思います。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年10月4日土曜日
暗記のススメ その二
本店の方のコメント欄で何か私特別の暗記法があるのかという質問を受けたので、いい機会なのでいくつかお勧めの記憶術を紹介させてもらいます。
1、自己との連関化
これは「バカの壁」の中で作者の養老猛氏が紹介している話なのですが、女性の出産のビデオを学生に見せたところ男子からは感想が拙い物ばかりだったものの、女子からはいろいろと面白い返事が返ってきたそうです。養老氏によると、男子はともかく女子は将来自分も経験するであろう対象であるために、興味が多い分対象に対しての集中、観察が強化されたのだろうと述べ、人間の脳への入力は以下のような数式になると書いています。
記憶量=情報×係数 ※係数=対象への興味
私も基本的にこの養老氏の意見に同感で、やはり自分の興味が強い対象であればあるほど物事は頭に入りやすいと思います。たとえばテストにでる科学反応式なんかはなかなか覚えないくせにゲームの攻略情報や呪文の名称なんかは大抵一発覚えられます。まぁ誰でもそうでしょうが。
そこで私がこの人間の脳の特性ともいえる部分を利用している点ですが、基本的にどんな情報でも自分と関連付けるようにしてます。普段はどんなにくだらない情報でも将来それとどんな風に関わるかわからない、今のうちに覚えておかねばという具合で覚える動機づけを毎回やっております。
私の実体験だと中学時代にミリタリーマニアの友人がいたのでそういったものにそれまで全く興味はなかったものの、「こういうことを憶えれば、軍事関係の話とか理解しやすくなる」と自ら動機づけを行い、彼の話す銃器の種類から部品名などをよく聞いて今じゃある程度ミリタリー情報は暗記している自信があります。余談ですが、形状的に一番好きな銃は「グロック17」です。
2、心構え
先ほどの興味や連関と被る話ですが、やっぱり覚えようようという志しが一番大事だと思います。私の場合はそれがちょっと極端で、先ほどにも書いたように今は全く関係ないけど将来その情報が必要になってくるかもしれないので、予防線を張るような動機で情報を暗記しようとします。
ただそれ以上に、自分で書くのもなんですが、私は基本的に他人が自分の知らないことを知っているのを非常に悔しいと思ってしまう性格をしています。なんというか自分が負けているような気がして、他の分野で勝ってても一つでもある分野の情報量に負けていると何とかせねばと考えてしまいます。こんなんだから無闇に範囲だけ広くて、器用貧乏なタイプになってったんだろうな。このブログの記事も統一感ないし。
3、情報の出力能力の強化
これは以前に書いた、「情報の入出力に必要な能力」という記事でほんの少しだけ触れていますが、私の聞くところ他の人が一切言っていない私スペシャルの記憶術がこれです。一般的な記憶術や暗記法は情報の入力、つまり暗記する部分にばかり解説されており、肝心の運用方法には触れられていません。私はこの情報の運用、つまり出力に着目しています。
まず、一般に暗記した情報というのはどういう時に使うかを考えました。まぁ研究論文などを書く場合などは普通は資料と対峙するので、恐らく暗記情報を一番使うのは会話時、それも討論の場合であったらなおさらです。その場合、手元に資料を持たずにどのように人と議論を重ねるのか。議論を重ねる情報材料はどこから出すのか、それは最初から頭の中に用意されているのか。
自分でもちょっとわけのわからないことを言い始めましたが、簡単に言うと、会話全体で使う話題というのは会話を始めた当初から頭の中に「相手にはこういうことを言おう」と用意してあるわけでなく、その大体が相手の言う言葉に反応して、会話中に記憶から取り出されているということです。会話で使う暗記情報というのはメモ書きのように頭の中に常に張り出されているわけじゃなく、普通は相手からの返答、反応といった刺激に対して、「あっ、そういえばこの情報にはこういう話もあったな」っていう具合で引き出されるものが大半です。だから「空が青いね」と相手がいえば、天気の話題→気候→秋→秋空→「天高く馬肥ゆる秋だね」というような返答のプロセスが築かれます。くどいようですが、返答の内容は相手の発言があるまで頭の中に入っていません。
私は人間というのは、思われている以上に何でもかんでも憶えられるものだと思っています。ですが記憶した情報というのは外部からの刺激がくるまでは大抵頭の中で眠りについたままです。その外部からの刺激も、強弱によって引き出せるかどうかが変わります。たとえば、歴史のテストなどの人物名を問う問題で直接答えさせる記述問題に対し、あらかじめテスト用紙に書かれた人名から四択で選ばせる選択問題とでは解答率が大幅に変わってきます。これは記述より選択問題のほうが正解の人名が書かれている分、外部からの刺激が強いために記憶が想起しやすいということです。
これがどう記憶術に関わってくるかというと、私の場合は普段から会話などで情報に触れる際、なるべく多くの関連情報を想起するようにしており、その上何か新たな情報を取り込む際に、「この情報はこれとあれとに関連する。これとあれの情報が出てきたら必ずこの情報を思い出すように」と、見る人が見たらばかばかしいでしょうが、常にこうして情報同士の関連付けを整理しながら憶えています。こうした普段からのなんともいえない訓練の成果で、なにか一つの情報に対して記憶から引き出す関連情報の量は他人を遙かに凌駕しており、出力速度にも自信があります。結論を言うと、情報を引き出すために必要な刺激量を可能な限り少なくさせているのです。
こういう風に考えたのは、記憶量を増やすよりも記憶情報の運用法を考えることのほうが思考にはずっとプラスではないかと考えたのがきっかけです。結果的に言うと情報同士の関連付けが以前よりずっと強化され、またしょっちゅう思い出すので情報の記憶への定着も良くなりました。ただ弊害として、一人での思考が際限なく続くことが増え、前なんかパソコンの中で新規フォルダを作って名前を入れる際に、フォルダ→情報(データ)を入れる→データの収集→伝承が収集されたのがギリシャ神話→オデュッセイア→作者はホメロス→「ほめろ」と書いたところでどうでもいいと思って結局フォルダ名は「誉めろ」になったことがあります。この間約一秒。
4、確認の実行
予想以上に3が長くなってしまいましたが、最後に紹介するのは確認の実行です。たとえばちょっと気になったものとか、思い出せそうで思い出せないものがあったらすぐに調べるということです。今なんかウィキペディアもあるのですぐに確認が取れますが、やはり頭に出かかっているものを最後まで取り出さなければ、最終的にその情報は失われてしまうと思います。なので、「あの歴史上の人物は誰だったっけ」と思ったらすぐに関連情報から調べ、確認を取っております。こういう地道な積み重ねによる記憶の定着作業が、最終的に記憶量につながっていくと思います。
1、自己との連関化
これは「バカの壁」の中で作者の養老猛氏が紹介している話なのですが、女性の出産のビデオを学生に見せたところ男子からは感想が拙い物ばかりだったものの、女子からはいろいろと面白い返事が返ってきたそうです。養老氏によると、男子はともかく女子は将来自分も経験するであろう対象であるために、興味が多い分対象に対しての集中、観察が強化されたのだろうと述べ、人間の脳への入力は以下のような数式になると書いています。
記憶量=情報×係数 ※係数=対象への興味
私も基本的にこの養老氏の意見に同感で、やはり自分の興味が強い対象であればあるほど物事は頭に入りやすいと思います。たとえばテストにでる科学反応式なんかはなかなか覚えないくせにゲームの攻略情報や呪文の名称なんかは大抵一発覚えられます。まぁ誰でもそうでしょうが。
そこで私がこの人間の脳の特性ともいえる部分を利用している点ですが、基本的にどんな情報でも自分と関連付けるようにしてます。普段はどんなにくだらない情報でも将来それとどんな風に関わるかわからない、今のうちに覚えておかねばという具合で覚える動機づけを毎回やっております。
私の実体験だと中学時代にミリタリーマニアの友人がいたのでそういったものにそれまで全く興味はなかったものの、「こういうことを憶えれば、軍事関係の話とか理解しやすくなる」と自ら動機づけを行い、彼の話す銃器の種類から部品名などをよく聞いて今じゃある程度ミリタリー情報は暗記している自信があります。余談ですが、形状的に一番好きな銃は「グロック17」です。
2、心構え
先ほどの興味や連関と被る話ですが、やっぱり覚えようようという志しが一番大事だと思います。私の場合はそれがちょっと極端で、先ほどにも書いたように今は全く関係ないけど将来その情報が必要になってくるかもしれないので、予防線を張るような動機で情報を暗記しようとします。
ただそれ以上に、自分で書くのもなんですが、私は基本的に他人が自分の知らないことを知っているのを非常に悔しいと思ってしまう性格をしています。なんというか自分が負けているような気がして、他の分野で勝ってても一つでもある分野の情報量に負けていると何とかせねばと考えてしまいます。こんなんだから無闇に範囲だけ広くて、器用貧乏なタイプになってったんだろうな。このブログの記事も統一感ないし。
3、情報の出力能力の強化
これは以前に書いた、「情報の入出力に必要な能力」という記事でほんの少しだけ触れていますが、私の聞くところ他の人が一切言っていない私スペシャルの記憶術がこれです。一般的な記憶術や暗記法は情報の入力、つまり暗記する部分にばかり解説されており、肝心の運用方法には触れられていません。私はこの情報の運用、つまり出力に着目しています。
まず、一般に暗記した情報というのはどういう時に使うかを考えました。まぁ研究論文などを書く場合などは普通は資料と対峙するので、恐らく暗記情報を一番使うのは会話時、それも討論の場合であったらなおさらです。その場合、手元に資料を持たずにどのように人と議論を重ねるのか。議論を重ねる情報材料はどこから出すのか、それは最初から頭の中に用意されているのか。
自分でもちょっとわけのわからないことを言い始めましたが、簡単に言うと、会話全体で使う話題というのは会話を始めた当初から頭の中に「相手にはこういうことを言おう」と用意してあるわけでなく、その大体が相手の言う言葉に反応して、会話中に記憶から取り出されているということです。会話で使う暗記情報というのはメモ書きのように頭の中に常に張り出されているわけじゃなく、普通は相手からの返答、反応といった刺激に対して、「あっ、そういえばこの情報にはこういう話もあったな」っていう具合で引き出されるものが大半です。だから「空が青いね」と相手がいえば、天気の話題→気候→秋→秋空→「天高く馬肥ゆる秋だね」というような返答のプロセスが築かれます。くどいようですが、返答の内容は相手の発言があるまで頭の中に入っていません。
私は人間というのは、思われている以上に何でもかんでも憶えられるものだと思っています。ですが記憶した情報というのは外部からの刺激がくるまでは大抵頭の中で眠りについたままです。その外部からの刺激も、強弱によって引き出せるかどうかが変わります。たとえば、歴史のテストなどの人物名を問う問題で直接答えさせる記述問題に対し、あらかじめテスト用紙に書かれた人名から四択で選ばせる選択問題とでは解答率が大幅に変わってきます。これは記述より選択問題のほうが正解の人名が書かれている分、外部からの刺激が強いために記憶が想起しやすいということです。
これがどう記憶術に関わってくるかというと、私の場合は普段から会話などで情報に触れる際、なるべく多くの関連情報を想起するようにしており、その上何か新たな情報を取り込む際に、「この情報はこれとあれとに関連する。これとあれの情報が出てきたら必ずこの情報を思い出すように」と、見る人が見たらばかばかしいでしょうが、常にこうして情報同士の関連付けを整理しながら憶えています。こうした普段からのなんともいえない訓練の成果で、なにか一つの情報に対して記憶から引き出す関連情報の量は他人を遙かに凌駕しており、出力速度にも自信があります。結論を言うと、情報を引き出すために必要な刺激量を可能な限り少なくさせているのです。
こういう風に考えたのは、記憶量を増やすよりも記憶情報の運用法を考えることのほうが思考にはずっとプラスではないかと考えたのがきっかけです。結果的に言うと情報同士の関連付けが以前よりずっと強化され、またしょっちゅう思い出すので情報の記憶への定着も良くなりました。ただ弊害として、一人での思考が際限なく続くことが増え、前なんかパソコンの中で新規フォルダを作って名前を入れる際に、フォルダ→情報(データ)を入れる→データの収集→伝承が収集されたのがギリシャ神話→オデュッセイア→作者はホメロス→「ほめろ」と書いたところでどうでもいいと思って結局フォルダ名は「誉めろ」になったことがあります。この間約一秒。
4、確認の実行
予想以上に3が長くなってしまいましたが、最後に紹介するのは確認の実行です。たとえばちょっと気になったものとか、思い出せそうで思い出せないものがあったらすぐに調べるということです。今なんかウィキペディアもあるのですぐに確認が取れますが、やはり頭に出かかっているものを最後まで取り出さなければ、最終的にその情報は失われてしまうと思います。なので、「あの歴史上の人物は誰だったっけ」と思ったらすぐに関連情報から調べ、確認を取っております。こういう地道な積み重ねによる記憶の定着作業が、最終的に記憶量につながっていくと思います。
2008年10月3日金曜日
暗記のススメ
昔私が中学生だった頃、十字軍を舞台にした小説を書こうと思い立って学校の図書館から中世世界史の本を数冊借りてきて、うちにある歴史資料集と合わせて大体四冊くらいの本を並べてあれこれ事実関係の確認などを行いました。さすがに四冊もあると各資料の中で足りない部分が相互に補われて大体の内容を掴むことができたのですが、ふとこの時に思うことがありました。
たとえば「十字軍」という調べものに対してはこうして資料を並び立てることができるけど、毎回資料や記事がこう並びたてられる保障はないし、下手をしたら一回テレビかなんかで報道されてそれっきりという情報もある。そんな場合、今みたいに調査、研究するときにはどうすればいいのだろうか。
こうして考えた末に出た結論と言うのが、どんな情報でも一回触れた時点で暗記するしかないという境地でした。
基本的に情報を分析、研究するには、一つの情報を鵜呑みにせずに関連する情報同士を比較することが絶対条件です。しかし関連する情報というのは必ずしも先ほどの十字軍のようにそのテーマごとに本にまとめられていたり、ネット上でデータベース化されているわけでもありません。そのため比較する際には基本的に収集という作業が必要になるのですが、これも時間がとられるし、そもそも収集できる資料すらないということもあります。また資料があるとしても、大まかな目星なしに見つけるというのも難しいというものです。
ではどうすればいいか。その解決方法として唯一浮かんだのが、私の場合暗記でした。どんな情報、たとえどれだけ些細なものといえども一回見聞きして暗記すればいざ分析が必要になったり、後で関連する事件が起きて重要度が増した際に一発で脳内で引き出すことができます。また研究対象に関する大量の資料が実際にあるとしても、数学みたいに数式を作って比較検討(データ化しての比較はあるけど)できるわけでなく、一旦自分の頭に入れて租借しないと、新しい理論や考え方などは浮かぶはずがありません。
こういう風に考えるに至り、それ以降私は本当にどんなことでも暗記しようと心がけてきました。もちろん全部が全部暗記できるというわけではありませんが、それでも知人らからよく私の記憶力(知識力)が評価されるのは、こうした日頃の心がけの賜物だと思います。
こう改めて説明した上で私の他の記事を読み返してもらえばわかると思いますが、基本的に私の得意とする解説は一つの情報に対して別の関連する情報をさらに紹介し、両者を複合させて私の考え(新たな情報)を紹介するという形式が非常に多いです。私なんて変なプライド持っているもんですから、一つの事実をただ単に紹介するだけなら伝書鳩でもできると思って、最低限関連する情報を紹介するようにしております。ちなみに、こういった作業を私は私的に「情報を加工する」と呼んでいます。
なのでこれは他の人に言いたいことですが、よく丸暗記は官僚的で応用の利かない思考になってしまうなどと批判する人もいますが、私は最低限の知識を暗記して土台を作らねばそもそも人間は思考することができないと考えています。その土台は大きければ大きいほどもちろんよく、むしろ官僚的と呼ばれる方々のほうこそ暗記している知識が少ないのではないかと疑っています。
私の友人の中でも自分に興味のない話題となると一応会話はするもののあまり深く聞かずに相槌だけ打つ人間もいますが、どれだけ自分に関係なさそうな情報でも、私は暗記するに越したことはないと思います。人間の記憶力はパソコンみたいに容量が決まっているわけじゃなく、鍛えようと思えば鍛えられるものなのですから、一語一句暗記する勢いくらいが思考にとっても返ってよいのです。
おまけ
昔読んだ話で、ある日本人が外人が円周率を小数点第千位まで暗記して見せたというニュースを聞き、じゃあ私は一万位までやろうと思い立って本当に実行してしまいました。この人は二十歳を過ぎた頃に記憶力の減退を感じ、それ以降ずっと鍛えていたそうで、確かその暗記をやってのけた頃には四十歳を過ぎていたと思います。
よく年齢が重なると身体的に記憶力が落ちるといいますが、私はそれは嘘で、それまでより記憶する量が減るために起こることだと思います。なお、先ほどの円周率暗記の世界チャンピオンは確か去年か一昨年に事故の世界記録を塗り替えるために五万位までの暗記をやろうとしましたが、たしかこっちは途中で棄権していたと思います。
たとえば「十字軍」という調べものに対してはこうして資料を並び立てることができるけど、毎回資料や記事がこう並びたてられる保障はないし、下手をしたら一回テレビかなんかで報道されてそれっきりという情報もある。そんな場合、今みたいに調査、研究するときにはどうすればいいのだろうか。
こうして考えた末に出た結論と言うのが、どんな情報でも一回触れた時点で暗記するしかないという境地でした。
基本的に情報を分析、研究するには、一つの情報を鵜呑みにせずに関連する情報同士を比較することが絶対条件です。しかし関連する情報というのは必ずしも先ほどの十字軍のようにそのテーマごとに本にまとめられていたり、ネット上でデータベース化されているわけでもありません。そのため比較する際には基本的に収集という作業が必要になるのですが、これも時間がとられるし、そもそも収集できる資料すらないということもあります。また資料があるとしても、大まかな目星なしに見つけるというのも難しいというものです。
ではどうすればいいか。その解決方法として唯一浮かんだのが、私の場合暗記でした。どんな情報、たとえどれだけ些細なものといえども一回見聞きして暗記すればいざ分析が必要になったり、後で関連する事件が起きて重要度が増した際に一発で脳内で引き出すことができます。また研究対象に関する大量の資料が実際にあるとしても、数学みたいに数式を作って比較検討(データ化しての比較はあるけど)できるわけでなく、一旦自分の頭に入れて租借しないと、新しい理論や考え方などは浮かぶはずがありません。
こういう風に考えるに至り、それ以降私は本当にどんなことでも暗記しようと心がけてきました。もちろん全部が全部暗記できるというわけではありませんが、それでも知人らからよく私の記憶力(知識力)が評価されるのは、こうした日頃の心がけの賜物だと思います。
こう改めて説明した上で私の他の記事を読み返してもらえばわかると思いますが、基本的に私の得意とする解説は一つの情報に対して別の関連する情報をさらに紹介し、両者を複合させて私の考え(新たな情報)を紹介するという形式が非常に多いです。私なんて変なプライド持っているもんですから、一つの事実をただ単に紹介するだけなら伝書鳩でもできると思って、最低限関連する情報を紹介するようにしております。ちなみに、こういった作業を私は私的に「情報を加工する」と呼んでいます。
なのでこれは他の人に言いたいことですが、よく丸暗記は官僚的で応用の利かない思考になってしまうなどと批判する人もいますが、私は最低限の知識を暗記して土台を作らねばそもそも人間は思考することができないと考えています。その土台は大きければ大きいほどもちろんよく、むしろ官僚的と呼ばれる方々のほうこそ暗記している知識が少ないのではないかと疑っています。
私の友人の中でも自分に興味のない話題となると一応会話はするもののあまり深く聞かずに相槌だけ打つ人間もいますが、どれだけ自分に関係なさそうな情報でも、私は暗記するに越したことはないと思います。人間の記憶力はパソコンみたいに容量が決まっているわけじゃなく、鍛えようと思えば鍛えられるものなのですから、一語一句暗記する勢いくらいが思考にとっても返ってよいのです。
おまけ
昔読んだ話で、ある日本人が外人が円周率を小数点第千位まで暗記して見せたというニュースを聞き、じゃあ私は一万位までやろうと思い立って本当に実行してしまいました。この人は二十歳を過ぎた頃に記憶力の減退を感じ、それ以降ずっと鍛えていたそうで、確かその暗記をやってのけた頃には四十歳を過ぎていたと思います。
よく年齢が重なると身体的に記憶力が落ちるといいますが、私はそれは嘘で、それまでより記憶する量が減るために起こることだと思います。なお、先ほどの円周率暗記の世界チャンピオンは確か去年か一昨年に事故の世界記録を塗り替えるために五万位までの暗記をやろうとしましたが、たしかこっちは途中で棄権していたと思います。
2008年10月2日木曜日
文化大革命とは~その十二、浅間山荘と紅衛兵~
この連載の中の「その六、紅衛兵」の中で、紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた話を私は紹介しました。見る人が見たら、「だから中国は……」と思うかもしれませんが、ちょうどこの時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。
もう私くらいの年代だとこの事件の詳細について知らない人間も数多くいると思うので、できればウィキペディアのページをみてもらいたいのですが私なりに簡単に説明します。
この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。この事件が当時に与えた衝撃というのは後者の篭城事件よりも前者の集団リンチの方で、もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです。
この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。
この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。
今ウィキペディアで見ると、この総括については「山岳ベース事件」の項目の中で解説されていますが、総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。
少し長くなりましたがこの総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。
基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。紅衛兵なら「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、総括なら「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。
両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵もなにが最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。
暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。
紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。
共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。細かくまでは言いませんが、共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。
この際だから徹底的に私から批判させてもらいますが、最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、恐らく共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。
敢えて厳しくも優しい言葉を共産党に変なの期待して入党した方に言うとすれば、この格差社会で大変だということも、誰かに何とかしてもらいたいという気持ちはよくわかります。しかし「誰か」に依存している限り、自分自身でこの社会をどうにかしようと行動しない限り、きっと何も変わらないと思います。共産党に入って世直しをしようと思うくらいなら、自分たちで集団を作ってデモなり意見交換なり行動するほうがずっと変革への近道です。私も三山木会で何かしようと思って、ずっと放っているけど。
もう私くらいの年代だとこの事件の詳細について知らない人間も数多くいると思うので、できればウィキペディアのページをみてもらいたいのですが私なりに簡単に説明します。
この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。この事件が当時に与えた衝撃というのは後者の篭城事件よりも前者の集団リンチの方で、もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです。
この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。
この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。
今ウィキペディアで見ると、この総括については「山岳ベース事件」の項目の中で解説されていますが、総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。
少し長くなりましたがこの総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。
基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。紅衛兵なら「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、総括なら「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。
両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵もなにが最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。
暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。
紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。
共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。細かくまでは言いませんが、共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。
この際だから徹底的に私から批判させてもらいますが、最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、恐らく共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。
敢えて厳しくも優しい言葉を共産党に変なの期待して入党した方に言うとすれば、この格差社会で大変だということも、誰かに何とかしてもらいたいという気持ちはよくわかります。しかし「誰か」に依存している限り、自分自身でこの社会をどうにかしようと行動しない限り、きっと何も変わらないと思います。共産党に入って世直しをしようと思うくらいなら、自分たちで集団を作ってデモなり意見交換なり行動するほうがずっと変革への近道です。私も三山木会で何かしようと思って、ずっと放っているけど。
犯罪の地域性
昨日、警察は振り込み詐欺の犯人と思しき男性二名の顔写真を全国に公開しました。その報道によると、振り込め詐欺は一時は停滞したもののこのところ復活しているらしく、なんでも被害額でも過去最高のペースで推移しているそうです。それとこれは別の報道ですが、この振込み詐欺の形態の犯罪がなんでも他のアジア諸国にまで波及しているそうです。韓国や中国でも似たような犯罪が横行し、文字通り犯罪までも日本は輸出してしまい、日本人として恥ずかしい限りです。
それで顔写真の話ですが、やっぱり以前と比べるとこういう写真公開での捜査の効果というのは薄れているそうです。昔、確か関西でやっている「たかじんのそこまで言って委員会」で言われていた話だったと思いますが、昔の人は毎日銭湯に来ていて、そこにでも顔写真を貼っていたら皆が見て犯人もすぐ捕まったが
、今はそのように一箇所に集まるような施設もないからあまり効果がないのではという話になり、それだったら誰もが見るテレビのニュースの時間枠に、「では、今日の指名手配の時間です」とばかりに放送するべきではないかという意見がありました。まぁ至極その通りですが。
私なんかが勧めたいのは、ずばりYAHOOなどのポータルサイトのトップページなんか相当効果があると思います。確かに毎回犯人の顔を拝まなければならないというのは気分的にアレですが、それで治安がよくなるというのなら、指名手配になっている人間のうちランダムで毎回一人の顔が映し出されるトップページにするというのは結構いいんじゃないかと思います。
ここで話は全く変わるのですが、この振込み詐欺は当初、朴訥な人柄で有名な静岡県が最も被害が大きかったそうで、それに対して大阪府はあれこれ相手に対して詳しく聞いたりするので、逆に被害額が最も小さかったらしいです。恐らくこの傾向はまだそれほど変わってはいないと思いますが、昨日うちのおふくろから面白い話を聞きました。その話というのも、大阪は確かに振り込め詐欺の被害は小さいらしいですが、「料金を取りすぎたので20万振り込めば50万返す」などと言っては振り込ませる「還付金詐欺」は逆に被害額が最も大きいらしいです。なんというか、大阪人らしいというか。犯罪にも、地域性ってあるんだなと感じました。
それで顔写真の話ですが、やっぱり以前と比べるとこういう写真公開での捜査の効果というのは薄れているそうです。昔、確か関西でやっている「たかじんのそこまで言って委員会」で言われていた話だったと思いますが、昔の人は毎日銭湯に来ていて、そこにでも顔写真を貼っていたら皆が見て犯人もすぐ捕まったが
、今はそのように一箇所に集まるような施設もないからあまり効果がないのではという話になり、それだったら誰もが見るテレビのニュースの時間枠に、「では、今日の指名手配の時間です」とばかりに放送するべきではないかという意見がありました。まぁ至極その通りですが。
私なんかが勧めたいのは、ずばりYAHOOなどのポータルサイトのトップページなんか相当効果があると思います。確かに毎回犯人の顔を拝まなければならないというのは気分的にアレですが、それで治安がよくなるというのなら、指名手配になっている人間のうちランダムで毎回一人の顔が映し出されるトップページにするというのは結構いいんじゃないかと思います。
ここで話は全く変わるのですが、この振込み詐欺は当初、朴訥な人柄で有名な静岡県が最も被害が大きかったそうで、それに対して大阪府はあれこれ相手に対して詳しく聞いたりするので、逆に被害額が最も小さかったらしいです。恐らくこの傾向はまだそれほど変わってはいないと思いますが、昨日うちのおふくろから面白い話を聞きました。その話というのも、大阪は確かに振り込め詐欺の被害は小さいらしいですが、「料金を取りすぎたので20万振り込めば50万返す」などと言っては振り込ませる「還付金詐欺」は逆に被害額が最も大きいらしいです。なんというか、大阪人らしいというか。犯罪にも、地域性ってあるんだなと感じました。
2008年10月1日水曜日
今日の党首討論について
早くも今日三本目の記事です。我ながらよく書くものだ。
さすがに疲れてきたのでちゃっちゃと書きますが、本日国会にて麻生首相と小沢民主党党首の党首討論が行われました。NHKのニュースを見ているとあまりうまい突込みがなされていなかったので、一つ私がかわりにやっておこうと思います。
まず麻生首相は民主党が訴えている、政権をとった暁に行うといっている育児手当などのばら撒きの
財源はどうするつもりだと聞きましたが、小沢党首はいろんなところから節約すればいいと言い張り、その上で二代も続けて首相が政権を放り投げるなら、野党に政権を渡せと主張しましたが、お前が言うな、と私は思いました。
というのも、そういう小沢党首だってちょうど一年前の大連立騒動の際に民主党内で了解を得られなくて、
「そもそも民主党には政権を担当する能力がないので、私は党首を降りる」
って言ってました。野党に政権を渡せったって、あんた自分で民主党にはその能力がないと言ってたし、自分もちゃっかり党首をやるという責任を放り投げてんじゃん、と私は思いました。
私は小沢氏は地方周りと党内運営が上手なんだから、はっきり言って党首より幹事長のほうがずっと能力に合っている気が前からします。このところニュースの政治解説で、民主党は党への支持率は自民党と変わらないほど高いものの、首相は誰がいいという調査では麻生首相に対して小沢党首は大きく水を空けられているという調査結果が取り挙げられていますが、この結果から民主党は政権をとった場合に小沢党首が首相をやらないといえば、より支持が集まるのではないかと私は思っています。
自民党には任せられないけど小沢じゃねぇ……という声は何も今に始まったものじゃないし、実際に自民党はよくないが小沢党首が首相をやるくらいなら自民党を応援するという人もたくさんいると思います。なので民主党はここで、政権奪取の暁に小沢党首以外の誰を首相にするかと明言するのが賢い選択だと思います。差し当たって適任なのは真面目なだけが取り得の岡田氏でしょう。鳩山、菅の両氏はなんか軽そうですし。
話は戻って党首討論ですが、その後の討論で麻生首相は補正予算案とインド洋派遣法案に民主党はどう対応するのかと再三問いましたが、結局小沢氏はこの質問には最後まで答えませんでした。別に麻生首相の肩を持つわけではありませんが、今回の討論では麻生首相の方が誠意ある態度を取ったと思います。
さすがに疲れてきたのでちゃっちゃと書きますが、本日国会にて麻生首相と小沢民主党党首の党首討論が行われました。NHKのニュースを見ているとあまりうまい突込みがなされていなかったので、一つ私がかわりにやっておこうと思います。
まず麻生首相は民主党が訴えている、政権をとった暁に行うといっている育児手当などのばら撒きの
財源はどうするつもりだと聞きましたが、小沢党首はいろんなところから節約すればいいと言い張り、その上で二代も続けて首相が政権を放り投げるなら、野党に政権を渡せと主張しましたが、お前が言うな、と私は思いました。
というのも、そういう小沢党首だってちょうど一年前の大連立騒動の際に民主党内で了解を得られなくて、
「そもそも民主党には政権を担当する能力がないので、私は党首を降りる」
って言ってました。野党に政権を渡せったって、あんた自分で民主党にはその能力がないと言ってたし、自分もちゃっかり党首をやるという責任を放り投げてんじゃん、と私は思いました。
私は小沢氏は地方周りと党内運営が上手なんだから、はっきり言って党首より幹事長のほうがずっと能力に合っている気が前からします。このところニュースの政治解説で、民主党は党への支持率は自民党と変わらないほど高いものの、首相は誰がいいという調査では麻生首相に対して小沢党首は大きく水を空けられているという調査結果が取り挙げられていますが、この結果から民主党は政権をとった場合に小沢党首が首相をやらないといえば、より支持が集まるのではないかと私は思っています。
自民党には任せられないけど小沢じゃねぇ……という声は何も今に始まったものじゃないし、実際に自民党はよくないが小沢党首が首相をやるくらいなら自民党を応援するという人もたくさんいると思います。なので民主党はここで、政権奪取の暁に小沢党首以外の誰を首相にするかと明言するのが賢い選択だと思います。差し当たって適任なのは真面目なだけが取り得の岡田氏でしょう。鳩山、菅の両氏はなんか軽そうですし。
話は戻って党首討論ですが、その後の討論で麻生首相は補正予算案とインド洋派遣法案に民主党はどう対応するのかと再三問いましたが、結局小沢氏はこの質問には最後まで答えませんでした。別に麻生首相の肩を持つわけではありませんが、今回の討論では麻生首相の方が誠意ある態度を取ったと思います。
ダイハツ「ストーリア」から思うこと
唐突ですが、私が一番見ていて好きな車というのはダイハツがかつて出していた「ストーリア」、OEM供給でトヨタからでは「デュエット」という名前で出ていた車です。ダイハツらしくシンプルなデザインのコンパクトカーなのですが、何故この車が好きなのかというと以前私が住んでいた京都の住所の近くにあった町屋に、いつもこのストーリアが止まっていたからです。
色はエンジ色で、傍目にも町屋の風景とも非常に合っていました。ちょうどよく通る道だったので、文字通り毎日見ているうちにだんだんと好きになったというのが実情です。
ただ、この車を見ているうちに思ったことがあります。今ではいろんな会社からいろんな車種の車が出ており、その中には人気のあるものもあればデザインの意匠性がよいと言われている車もあり千差万別ですが、結局のところ運動性能とかを度外視するなら、自分や自分が住んでいる地域にあった車を選んで乗るのが最良なのだろうと思うようになりました。そういいつつ、街中で乗るには多分非常に危険なランエボⅩとかも好きなんだけど。
先ほどのストーリアの場合、色とそのシンプルなデザインが京都という一番景観を選ぶ場所に適合していたと思います。さてこのストーリア、車種としてはコンパクトカーという部類に属しますが、私はこのコンパクトカーこそが最も日本に合った車だと思います。
というのも、日本というのはもともと狭いところに密集して住んでいたために基本的に道路幅短いです。そんな小さい道路に大きい車ではやはり旋回や隘路を通行するときには不便で、小回りが効いて小柄な車の方が便利であります。
そういった環境の中から、日本の自動車会社は世界的にも珍しい「軽自動車」という車種を作り、燃費もよいことから現在のような不況下でも割と売れております。また政府もこの軽自動車に対しては税制面で優遇しており、他の車種を買うより保持するのにかかるコストが絶大なほどに安く抑えられていることも人気の要因です。
しかし、この軽自動車の税制について異議を呈す者がいます。何を隠そう、世界のトヨタ……と呼ぶのは癪だから、愛知のトヨタです。愛知のトヨタが言うには、燃費面ではコンパクトカーと軽自動車は全く変わらないのだから、軽自動車を環境保全の目的の元に税金を安くするならそれをコンパクトカーにも適用しろっというわけです。結論から言って、私もこのトヨタの意見に賛同します。
一見すると車重が軽い軽自動車の方が燃費がよさそうに見えますが、軽自動車はエンジンの排気量が660cc以下、馬力にすると大体60馬力以下の車に適用されるのですが、これだとエンジンの力が少なすぎて高速度では必ずしも効率よく走らせることができません。それに対してコンパクトカーは大体1000ccから1500ccの、税区分では普通乗用車に適用される車のことを指しますが、これだとそこそこエンジンの力があるので、中~高速度では軽自動車より効率よく走らせることができます。
実際に雑誌「ベストカー」の検証実験だと、高速道路を時速80キロで一定時間走った場合の燃費を計算した場合、コンパクトカーの方が軽自動車よりわずかに優れておりました。
恐らく時速60キロ程度では軽自動車の方がわずかに勝ると思いますが、軽自動車では構造上内装の広さが限られてくるため、載せられる人数や運べる荷物の量などを考えると、コンパクトカーぐらいが一番日本の道路事情に適しているのだと思います。今のコンパクトカーだと、セダンなんかより明らかに内装が広いし。
それでも、コンパクトカーは税区分では普通乗用車扱いです。これだと軽自動車と比べて払う税金額にものすごい差があります。燃費だけでもコンパクトカーは軽自動車と同等なので、この際税金額を軽自動車と一緒にするほうが全体的な効率にもよいとトヨタ同様私も思います。
逆に、ワゴンやSUV、ミニバンといった大型車は燃費が悪いだけでなく日本の道路事情に明らかに合っていない車なので、もっと税金を上げてもいいとすら思います。ちなみに、うちの家ではホンダのフィットというコンパクトカーに乗っています。自動車会社でホンダはかなり嫌いな部類なんだけど、私はコンパクトカーに乗るならストーリアか三菱のコルトにしたいものです。
色はエンジ色で、傍目にも町屋の風景とも非常に合っていました。ちょうどよく通る道だったので、文字通り毎日見ているうちにだんだんと好きになったというのが実情です。
ただ、この車を見ているうちに思ったことがあります。今ではいろんな会社からいろんな車種の車が出ており、その中には人気のあるものもあればデザインの意匠性がよいと言われている車もあり千差万別ですが、結局のところ運動性能とかを度外視するなら、自分や自分が住んでいる地域にあった車を選んで乗るのが最良なのだろうと思うようになりました。そういいつつ、街中で乗るには多分非常に危険なランエボⅩとかも好きなんだけど。
先ほどのストーリアの場合、色とそのシンプルなデザインが京都という一番景観を選ぶ場所に適合していたと思います。さてこのストーリア、車種としてはコンパクトカーという部類に属しますが、私はこのコンパクトカーこそが最も日本に合った車だと思います。
というのも、日本というのはもともと狭いところに密集して住んでいたために基本的に道路幅短いです。そんな小さい道路に大きい車ではやはり旋回や隘路を通行するときには不便で、小回りが効いて小柄な車の方が便利であります。
そういった環境の中から、日本の自動車会社は世界的にも珍しい「軽自動車」という車種を作り、燃費もよいことから現在のような不況下でも割と売れております。また政府もこの軽自動車に対しては税制面で優遇しており、他の車種を買うより保持するのにかかるコストが絶大なほどに安く抑えられていることも人気の要因です。
しかし、この軽自動車の税制について異議を呈す者がいます。何を隠そう、世界のトヨタ……と呼ぶのは癪だから、愛知のトヨタです。愛知のトヨタが言うには、燃費面ではコンパクトカーと軽自動車は全く変わらないのだから、軽自動車を環境保全の目的の元に税金を安くするならそれをコンパクトカーにも適用しろっというわけです。結論から言って、私もこのトヨタの意見に賛同します。
一見すると車重が軽い軽自動車の方が燃費がよさそうに見えますが、軽自動車はエンジンの排気量が660cc以下、馬力にすると大体60馬力以下の車に適用されるのですが、これだとエンジンの力が少なすぎて高速度では必ずしも効率よく走らせることができません。それに対してコンパクトカーは大体1000ccから1500ccの、税区分では普通乗用車に適用される車のことを指しますが、これだとそこそこエンジンの力があるので、中~高速度では軽自動車より効率よく走らせることができます。
実際に雑誌「ベストカー」の検証実験だと、高速道路を時速80キロで一定時間走った場合の燃費を計算した場合、コンパクトカーの方が軽自動車よりわずかに優れておりました。
恐らく時速60キロ程度では軽自動車の方がわずかに勝ると思いますが、軽自動車では構造上内装の広さが限られてくるため、載せられる人数や運べる荷物の量などを考えると、コンパクトカーぐらいが一番日本の道路事情に適しているのだと思います。今のコンパクトカーだと、セダンなんかより明らかに内装が広いし。
それでも、コンパクトカーは税区分では普通乗用車扱いです。これだと軽自動車と比べて払う税金額にものすごい差があります。燃費だけでもコンパクトカーは軽自動車と同等なので、この際税金額を軽自動車と一緒にするほうが全体的な効率にもよいとトヨタ同様私も思います。
逆に、ワゴンやSUV、ミニバンといった大型車は燃費が悪いだけでなく日本の道路事情に明らかに合っていない車なので、もっと税金を上げてもいいとすら思います。ちなみに、うちの家ではホンダのフィットというコンパクトカーに乗っています。自動車会社でホンダはかなり嫌いな部類なんだけど、私はコンパクトカーに乗るならストーリアか三菱のコルトにしたいものです。
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