初めに断っておきますが、今日の内容は紹介こそすれども私は完全に理解している自信はないので、あくまで私の解釈として受け取ってください。そしてできることなら原典である、宇沢弘文先生の「社会的共通資本」(岩波新書)をお読みすることを強くお勧めします。
さて今朝まで連載していた「悪魔の経済学」の記事の中で私は、新自由主義経済学の最大の欠陥的思想は人間の心理、行動から二酸化炭素に至るまですべてのものに対して金額をつけて計算しようとする点だと主張しました。それに対して東大名誉教授である宇沢弘文先生は真っ向からこれに反対する主張をしており、その説のことを「社会的共通資本」と呼ばれています。
この説の考え方というのは割と単純(だと私は考えている)で、何でもお金に換えて計算する新自由主義とは逆で、社会公益性が高い物に対しては下手に損得勘定を計算できないように市場から完全に切り離して独立させ、原則的にどんなに費用をかけてでも守っていくべきという思想です。
こういったものとしてまず挙げられているのが自然環境です。基本的に現代では市場に任せておけば森林や山地はどんどんと開発されていきますが、かつての江戸時代に日本の社会は山林に対し「入会地(いりあいち)」という概念を持ち、周辺の住民同士の共有財産として木々を必要な分だけお互いに消費し、また山林の保護も共同で行ってきました。
それが明治時代に入ると土地などに私有財産の概念が持ち込まれ、こういった共同管理されていた土地は数少ない例外を除いてほぼすべて国有地として吸収され、それまで共同で使用、保護されていた土地は途端に周辺住民が立ち入ることすら出来なくなりました。
私の恩師のK先生などは社会的共通資本の考え方はこの「入会」だとよく説明してましたが、私の解釈もこれに同じくします。要するに、社会公益性が高いものに対しては経済上の「私有」という概念から外して、社会で「共有」することによって保護していくという考えです。こうすることにより、たとえば周辺住民が反対している土地に住宅会社が無理やりでかいマンションを建てるなど、一個人や一事業者の勝手で社会の公益性が損なわれるのを防ぎ、その上個人では難しい管理や保護を共同にすることによって負担を分配していけるようになります。
こうした考え方の一つの実例として、私も参加した講演会では中国にあるどこかの川では周辺住民によって年に一回程度、氾濫を防ぐために流れを緩めさせる底石を川底に並べられているという例が紹介されていました。これだと周辺住民が総出でやればそれほど時間がかからず、その上作業に使うのはほんとただの石だけで費用もゼロな上に環境負荷もゼロというお得ぶり。
この例は日本の防災ダムとの比較がなされていたのですが、よくダムさえ作れば最初に費用はかかるとしても電力も作られ防災にもなって更には半永久的に使えると誤解されていますが、実際にはダムの寿命というのはそれほど長くはないのです。
実はダムというのは水は通すのですが、上流から流れてくる砂はなかなか流れずに時間とともにダムの壁際にどんどんと堆積していってしまうのです。もちろん堆積していくとえらい山になって川底を押し上げ、防災上にも発電上にも悪影響が発生し、ダムとして使い物にならなくなってしまいます。かといって機能を維持するためにその堆積した砂を地上から掘り返そうものなら、これまた異様なくらいにお金がかかってしまうのです。
元祖注目知事だった田中康夫なんて今じゃかなり落ちぶれちゃっているけど、長野県知事就任当初の「脱ダム宣言」にはこういったことが指摘されており、社会史的に見るなら非常に意義深い問題提起をやっていたのだと私は評価しています。
それが最初に紹介した中国の川、っていか今急に思い出したけどこれって「都江堰」です。調べてみると世界遺産にもなっており、古代に整備されたものですが現代においても非常に技術的に高い構造となっているそうです。
こっちの都江堰と日本のダムを比較した場合、前者は毎年の管理、整備は必要としますが基本的に周辺住民がボランティアで行い資材費もいらないので費用はゼロです。それに対して後者は建設時にものすごい費用をかけた上、時間が経ったらまたすごい費用をかけて整備しなければいけません。
またダムの場合は砂とともに川の中の栄養も遮断してしまうので大抵は下流の水質が悪化してしまうので、無理やりダムを作ろうとする行政側とそれに反対する市民団体が議論するダム問題は現在も日本各地で行われています。なおこの際の勉強会では、四国のダム建設に反対する市民団体の方も参加しておりました。
ついでにちょっとかくと、この都江堰に準ずる日本が世界に誇る水利施設と呼べるのはあの「信玄堤」です。これなんかメンテナンスいらずで半永久的に使っているんだから、実はとんでもない代物らしいです。
こんな感じで、社会公益上で価値が高いものについては共同管理、しかも行政の手に寄らない独立した管理をすることこそが保全、維持につながるというのが社会的共通資本の考え方です。何もこの対象は自然環境に限らず、医療や農業、文化も対象として挙げられ、医療なら下手な厚生省の役人に任せずに医療問題をきちんとわかっている現場の医師や専門家などによって経営や運営を決めていくべきだと宇沢先生は主張されています。また運営上に費用が必要だというのなら、社会全体でこの方面へどんどん投資するべき、何故なら医療も農業も欠くことのできないものだからとも言われております。
この概念を新自由主義と比較するなら、新自由主義では市場に任せればすべて解決されるのだから規制を取っ払って何でもかんでも商業ベースに乗せればいいという考え方で、社会的共通資本では公益性の高いものは市場に任せるとろくなことにはならないから専門家や周辺住民による共同管理をした上で費用をかけてでも守っていくべき、というような感じになります。
先ほどの医療を例に取ると、新自由主義では医師同士で経営や技術を競争することによってサービスは向上されて消費者も万々歳なのだから、極端な例だと医療行為の費用も医師個人で決めさせるべきだという主張まであります。そうなると同じ盲腸の手術でも、東京で受けるのと鹿児島で受けるのでは費用が変わり、まぁあえて批判するとお金のない人は医者にかかることすらできなくなる可能性があります。
それに対して社会的共通資本は、勉強会でいらした医師の方などが主張していたのですが、「いい医療を維持存続させるには、やっぱりお金がいるのだ」と言っておられ、現在は全然足りていないのだから社会はもっと医療に予算を分けるべきだと主張していました。社会的共通資本は新自由主義と違い、公益を守ることをまず前提としてそのためにどうやりくりしていくかを重視し、そのためにかかる必要最低限の費用は議論の余地なく出すべきとしています。新自由主義だと如何に採算を合わすかしか考えないしね。
大体こんな感じが私の社会的共通資本の理解です。本当はまだまだ紹介するべき例があるのですが書ききれないので、もし興味をもたれた方は宇沢先生の本を手にとることをお勧めします。私なんか最初に「社会的共通資本」を読んだ際、えらくはまって何度も読み返しました。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2008年10月25日土曜日
悪魔の経済学 その三
前回の「悪魔の経済学 その二」において、新自由主義経済学の最大の欠陥は、本来換算すべきものに対してすらも金額に直して価値を算定し、社会的に不条理とも言えるいえるような行動についても安易な損得勘定から犯してしまうと私は説明しました。今日はその一例とも言える、排出権取引の欠陥について簡単に解説します。
まず結論から一気に攻めると、排出権取引でCO2排出権を得る費用がCO2削減につながる設備投資費用を下回った場合、逆にCO2排出を余計に誘発するという欠陥があります。
この排出権取引というのは京都議定書などで算定されたCO2の削減目標を国や企業が達成できなかった場合に、目標を超えた分のCO2排出量の分だけ発展途上国に「CO2削減投資」という名目で資金援助を行うか、逆に目標を超えて排出量を削減できた他の国から超えた分だけお金を払って「排出権」を購入する取引のことを指します。
たとえば日本のある企業がCO2の削減目標が10トンであるのに対して8トンまでしか削減出来なかった場合、隣の中国でCO2を排出している鉄鋼会社などからCO2の排出を削減する名目で2トン分のCO2削減につながる(であろう)額の投資を行うことが義務付けられます。また発展途上国でなく先進国であっても、その国や企業が目標以上に削減したところから超過した削減量2トン分を先ほどもいったように排出権として購入することによっても、当該企業は削減目標を達成したと認められます。
この排出権取引によって欧米などの国では、国や企業は削減目標を超えたらよそに販売して利益を出すことになり、逆に目標を下回ったらコストを支払うこととなるので利害的にCO2削減を積極的に行うようになるだろうと主張していますが、この主張には実はある前提が必要になります。というのも、CO2の排出権価格です。
たとえば先ほどの例だと日本のある企業は目標を達成するのにあと2トン削減しなければいけないのですが、仮にその2トンを削減するのに自社の工場などへ設備投資をするとしたら10億円かかるのに、他国や他企業から排出権2トンを購入するのに5億円しかかからなければ、利害的に設備投資は行わずに利害的に排出権を企業は率先して買っていくでしょう。
この排出権を購入したところで結局世界中で排出されるCO2の総量というのは変わらず、逆にもし排出権取引自体がなくて削減目標が厳しく義務付けていられれば、その企業は10億円を払って設備投資を行ってCO2は2トンも排出量が減ることになります。
この話は先月の文芸春秋で載っていた記事に書かれていたのですが、確かにこういう風に考えると、なんとなくこの排出権取引のおかしな点が見えてきます。
それにそもそも設定される削減目標自体に国や企業ごとに差があり、ちょっとダジャレて言うと中には「エコ贔屓だ!」と主張したくなる例も数多くあります。代表的なのは日本とEUの削減目標の大きな差で、バカ真面目に京都議定書を履行するくらいならアメリカを見習ってとっとと脱退した方がいいんじゃないかとすら最近私も思っています。議定書が結ばれた京都国際会館にはよく入り浸っていたんだけど。
実際に今履行していて色々問題が起きていて、やっぱり当初見込んでいたよりもCO2排出権の価格が世界中でなかなか一定にならなかったりと、日本の企業も削減努力そっちのけで中国など発展途上国からバンバン購入するようになったりとうまく運用できていないそうです。
ここまでくれば私の言いたい事も勘のいい人ならわかるかもしれませんが、私はこの排出権取引に対して、そもそも二酸化炭素に価格をつけようという価値観自体が間違いだったのだと考えています。この排出権取引の価値観の後ろにはどうも、「商業ベース(市場)に環境問題を乗せれば競争原理が自然に働き、理屈はないけどきっとうまくいくだろう」という考えが見え隠れしており、新自由主義経済学のもう一つの欠陥である「市場至上主義」も働いているであろうと思われます。
しかし世の中何でもかんでも市場に任せればいいってわけじゃなく、最低限のルールこと規制(あり過ぎてもよくないけど)の上に物事を行わねば何もうまくいくわけでなく、そもそも商業ベースに乗せること事態間違いなものも数多くあります。
こうした考えの経済学こそ私が一応は属している……と言えるのかぁ、第一、経済学じゃなくて社会学が私の専門ですし。
まぁそんな疑問は置いといて、こうした考えが展開されているのが私が信奉している宇沢弘文先生の「社会的共通資本主義経済学」です。時期も時期ですし、この「社会的共通資本」の概念については次回に解説します。このところ経済ネタの記事が多いなぁ。
まず結論から一気に攻めると、排出権取引でCO2排出権を得る費用がCO2削減につながる設備投資費用を下回った場合、逆にCO2排出を余計に誘発するという欠陥があります。
この排出権取引というのは京都議定書などで算定されたCO2の削減目標を国や企業が達成できなかった場合に、目標を超えた分のCO2排出量の分だけ発展途上国に「CO2削減投資」という名目で資金援助を行うか、逆に目標を超えて排出量を削減できた他の国から超えた分だけお金を払って「排出権」を購入する取引のことを指します。
たとえば日本のある企業がCO2の削減目標が10トンであるのに対して8トンまでしか削減出来なかった場合、隣の中国でCO2を排出している鉄鋼会社などからCO2の排出を削減する名目で2トン分のCO2削減につながる(であろう)額の投資を行うことが義務付けられます。また発展途上国でなく先進国であっても、その国や企業が目標以上に削減したところから超過した削減量2トン分を先ほどもいったように排出権として購入することによっても、当該企業は削減目標を達成したと認められます。
この排出権取引によって欧米などの国では、国や企業は削減目標を超えたらよそに販売して利益を出すことになり、逆に目標を下回ったらコストを支払うこととなるので利害的にCO2削減を積極的に行うようになるだろうと主張していますが、この主張には実はある前提が必要になります。というのも、CO2の排出権価格です。
たとえば先ほどの例だと日本のある企業は目標を達成するのにあと2トン削減しなければいけないのですが、仮にその2トンを削減するのに自社の工場などへ設備投資をするとしたら10億円かかるのに、他国や他企業から排出権2トンを購入するのに5億円しかかからなければ、利害的に設備投資は行わずに利害的に排出権を企業は率先して買っていくでしょう。
この排出権を購入したところで結局世界中で排出されるCO2の総量というのは変わらず、逆にもし排出権取引自体がなくて削減目標が厳しく義務付けていられれば、その企業は10億円を払って設備投資を行ってCO2は2トンも排出量が減ることになります。
この話は先月の文芸春秋で載っていた記事に書かれていたのですが、確かにこういう風に考えると、なんとなくこの排出権取引のおかしな点が見えてきます。
それにそもそも設定される削減目標自体に国や企業ごとに差があり、ちょっとダジャレて言うと中には「エコ贔屓だ!」と主張したくなる例も数多くあります。代表的なのは日本とEUの削減目標の大きな差で、バカ真面目に京都議定書を履行するくらいならアメリカを見習ってとっとと脱退した方がいいんじゃないかとすら最近私も思っています。議定書が結ばれた京都国際会館にはよく入り浸っていたんだけど。
実際に今履行していて色々問題が起きていて、やっぱり当初見込んでいたよりもCO2排出権の価格が世界中でなかなか一定にならなかったりと、日本の企業も削減努力そっちのけで中国など発展途上国からバンバン購入するようになったりとうまく運用できていないそうです。
ここまでくれば私の言いたい事も勘のいい人ならわかるかもしれませんが、私はこの排出権取引に対して、そもそも二酸化炭素に価格をつけようという価値観自体が間違いだったのだと考えています。この排出権取引の価値観の後ろにはどうも、「商業ベース(市場)に環境問題を乗せれば競争原理が自然に働き、理屈はないけどきっとうまくいくだろう」という考えが見え隠れしており、新自由主義経済学のもう一つの欠陥である「市場至上主義」も働いているであろうと思われます。
しかし世の中何でもかんでも市場に任せればいいってわけじゃなく、最低限のルールこと規制(あり過ぎてもよくないけど)の上に物事を行わねば何もうまくいくわけでなく、そもそも商業ベースに乗せること事態間違いなものも数多くあります。
こうした考えの経済学こそ私が一応は属している……と言えるのかぁ、第一、経済学じゃなくて社会学が私の専門ですし。
まぁそんな疑問は置いといて、こうした考えが展開されているのが私が信奉している宇沢弘文先生の「社会的共通資本主義経済学」です。時期も時期ですし、この「社会的共通資本」の概念については次回に解説します。このところ経済ネタの記事が多いなぁ。
2008年10月24日金曜日
日経平均株価七千円台突入について
連載の途中ですが、本日の日本株価の大幅な下落について急遽友人とメール会談を行ったので、ちょっとそれについての補足と今日の株価について解説します。
まず本日日経平均株価は八千円台を切って終値でも7000円台という、十数年ぶりともいえる歴史的な安値を記録して取引を終えました。今回何故これほど日本の株価が下落したかというとその原因はまず間違いなく二つあり、まず直接的な引き金となったのがソニーの経営見通しの下方修正です。今期の世界的な大不況の影響を受けてソニーが今期の売り上げを当初見込んでいたものより大幅に少なくなるという予測から下方修正を行ったところ、このニュースが波及効果を及ぼして他の銘柄の株価も急激に下がったという見方でまず間違いないでしょう。そしてもう一つの株価下落の背景にある実原因、ソニーが下方修正するに至った要因はここ数週間の急激な円高です。
前にNHKのニュースで報道されて私も以前の記事に確か書きましたが、何でも1ドルに対する円価が1円上がるごとにトヨタだと400億、ソニーだと40億円も売り上げが落ちることになるらしく、実は円高というのは輸出を主力としている企業、ひいてはそういった企業に頼りきっている日本からするとものすごい悪影響を与えるのです。
なのでここで断言しても良いですが、今日明日の経済記事の一番の見出しが下がった株価のメディアは下で、上がった円価を載せているのは上です。実際、今私がYAHOOの情報を見ると何でももう1ドル=92円と、ちょっと前まで108円位だったということを考えると、トヨタはこの時点で6400億円の売り上げ低下といえることになります。実際にはこれ以上になること確実ですけど。
今回株価が下がったのを順序だてて説明するならば、まずアメリカで金融危機が起こりドルの通貨価値が急激に下がりだし、比較的サブプライム問題の影響の少なかった日本の円価がまだ安定している通貨だと世界の投資家に見られたことにより逆に上がることとなった……というのが今日の事態に繋がったと見て間違いないでしょう。
それでこの下落について友人は、「株価は全然実態を反映していないね」と言ったのですが、厳しいことを言うと、それは違って実体経済も今の株価並みにボロボロだというのが私の意見です。
というのも、今の日本経済は完璧なまでに輸出頼みで成り立つように作られており、いざ海外、それも消費力の高いアメリカなどが駄目になると途端に一緒になって駄目になるような仕組みとなっており、それを挽回しようと思っても国内市場を放置してきた分、もはや取り返しがつかない状態となっているからです。
これを細かく解説すると、基本的に経済というのはたとえ100の生産力があっても、50の消費力しかなければ結局50の経済価値でとどまってしまいます。日本は十年くらい前から国の経済体制を大きく改造し、大企業を優先して強くさせて生産力を限りなく上げていったのですが、その代わりに日本国内の消費力、つまり個人が持つお金の量をどんどんと減らしていきました。個人が持つお金の量が増えれば基本的に消費力というのは上がっていくのですが、日本政府は派遣雇用などで個人給与を減らしていき、企業もその政府の動きにあわせて非正規職員を増やすだけでなく残業代といった正規職員の給与までもどんどん減らしていきました。
その結果、企業は支払う給与が減るのでその分を自社投資に回して生産力を増大させていったのですが、肝心の消費が国内ではそれに追いつかなくなっていきました。そこで政府は国内のかわりに、ガンガンと海外への輸出を誘導することによって消費を補っていく政策を行っていきました。実際うちの親父なんか知った顔して、「今の企業は海外に出ることなしではどこもやっていけない」とよく言うのですが、これは裏を返してみるなら経済のコントロール力、いわば日本経済の生殺与奪権をみすみす外国に握らせるも同然です。そして今実際に、日本企業はサブプライム問題で他国ほど影響は受けず、また金融機関の財務状況も非常に安定しているにもかかわらずここまで株価の下落が起きてしまっているのです。
ちょっと込み入っているので、先ほどの生産力と消費力の変遷をちょっと図にすると、
生産力 日本の消費力 海外の消費力
十年前 100 80 20
今 150 50 100
といったような感じです。やや極端な数字にしていますが、こんな具合に十年前と今は移り変わっていると考えてください。
では日本はどうするべきだったか、輸出頼みに舵を切るべきではなかったのかという話ですが、私はあの失われた十年に海外重視に政策を打ったのは大正解だったと思います。しかしその政策をいつまでも続けたというのは、評価が難しいとはいえ結果的には失政だったと言えると思います。もし2006年のまだ日本全体で余裕が戻ってきたあの段階で国内の消費力増加に取り組む、具体的には派遣労働の禁止とか給与の底上げ、減税などさえ打っていれば、今の状況とはまた全然違ったものになっていたと思います。
最後に、友人は今の状態は政治的な強権が発動されなければもはやどうにもならず、市場メカニズムに任していても解決できるはずがないと言っていましたが、後半は正しいのですが前半の部分は、私もそうあってほしいものなのですが、実際にはほとんど期待できないと思います。
まず日本の今の麻生内閣はただでさえ解散を控えて不安定であり、その上今の経済混乱に対応できる人材が政治界にいるかとなったら非常に疑問です。田原総一朗氏はこの前のサンデープロジェクトにて、この状況下で中川昭一財務、金融大臣が切り盛りしていてよかったと誉めましたが、この人が具体的にどんな政策を打ち出そうというのかが私にまでさっぱり伝わってこないことを考えると、やはり力不足なんじゃないかなという気がします。少しうぬぼれもありますが。
そして何より、前回G7、先進七カ国財務大臣会議にて歩調を合わせて持ち前の資金をどんどん流すと約束したにもかかわらず世界中で株価下落を下げとめられなかったことを考えると、日本程度の一国がいくら権力使ったところでどうにもならないのではと思います。
じゃあどうすればいいかというと、ありていですが耐えるしかないというのが私の意見です。
まず本日日経平均株価は八千円台を切って終値でも7000円台という、十数年ぶりともいえる歴史的な安値を記録して取引を終えました。今回何故これほど日本の株価が下落したかというとその原因はまず間違いなく二つあり、まず直接的な引き金となったのがソニーの経営見通しの下方修正です。今期の世界的な大不況の影響を受けてソニーが今期の売り上げを当初見込んでいたものより大幅に少なくなるという予測から下方修正を行ったところ、このニュースが波及効果を及ぼして他の銘柄の株価も急激に下がったという見方でまず間違いないでしょう。そしてもう一つの株価下落の背景にある実原因、ソニーが下方修正するに至った要因はここ数週間の急激な円高です。
前にNHKのニュースで報道されて私も以前の記事に確か書きましたが、何でも1ドルに対する円価が1円上がるごとにトヨタだと400億、ソニーだと40億円も売り上げが落ちることになるらしく、実は円高というのは輸出を主力としている企業、ひいてはそういった企業に頼りきっている日本からするとものすごい悪影響を与えるのです。
なのでここで断言しても良いですが、今日明日の経済記事の一番の見出しが下がった株価のメディアは下で、上がった円価を載せているのは上です。実際、今私がYAHOOの情報を見ると何でももう1ドル=92円と、ちょっと前まで108円位だったということを考えると、トヨタはこの時点で6400億円の売り上げ低下といえることになります。実際にはこれ以上になること確実ですけど。
今回株価が下がったのを順序だてて説明するならば、まずアメリカで金融危機が起こりドルの通貨価値が急激に下がりだし、比較的サブプライム問題の影響の少なかった日本の円価がまだ安定している通貨だと世界の投資家に見られたことにより逆に上がることとなった……というのが今日の事態に繋がったと見て間違いないでしょう。
それでこの下落について友人は、「株価は全然実態を反映していないね」と言ったのですが、厳しいことを言うと、それは違って実体経済も今の株価並みにボロボロだというのが私の意見です。
というのも、今の日本経済は完璧なまでに輸出頼みで成り立つように作られており、いざ海外、それも消費力の高いアメリカなどが駄目になると途端に一緒になって駄目になるような仕組みとなっており、それを挽回しようと思っても国内市場を放置してきた分、もはや取り返しがつかない状態となっているからです。
これを細かく解説すると、基本的に経済というのはたとえ100の生産力があっても、50の消費力しかなければ結局50の経済価値でとどまってしまいます。日本は十年くらい前から国の経済体制を大きく改造し、大企業を優先して強くさせて生産力を限りなく上げていったのですが、その代わりに日本国内の消費力、つまり個人が持つお金の量をどんどんと減らしていきました。個人が持つお金の量が増えれば基本的に消費力というのは上がっていくのですが、日本政府は派遣雇用などで個人給与を減らしていき、企業もその政府の動きにあわせて非正規職員を増やすだけでなく残業代といった正規職員の給与までもどんどん減らしていきました。
その結果、企業は支払う給与が減るのでその分を自社投資に回して生産力を増大させていったのですが、肝心の消費が国内ではそれに追いつかなくなっていきました。そこで政府は国内のかわりに、ガンガンと海外への輸出を誘導することによって消費を補っていく政策を行っていきました。実際うちの親父なんか知った顔して、「今の企業は海外に出ることなしではどこもやっていけない」とよく言うのですが、これは裏を返してみるなら経済のコントロール力、いわば日本経済の生殺与奪権をみすみす外国に握らせるも同然です。そして今実際に、日本企業はサブプライム問題で他国ほど影響は受けず、また金融機関の財務状況も非常に安定しているにもかかわらずここまで株価の下落が起きてしまっているのです。
ちょっと込み入っているので、先ほどの生産力と消費力の変遷をちょっと図にすると、
生産力 日本の消費力 海外の消費力
十年前 100 80 20
今 150 50 100
といったような感じです。やや極端な数字にしていますが、こんな具合に十年前と今は移り変わっていると考えてください。
では日本はどうするべきだったか、輸出頼みに舵を切るべきではなかったのかという話ですが、私はあの失われた十年に海外重視に政策を打ったのは大正解だったと思います。しかしその政策をいつまでも続けたというのは、評価が難しいとはいえ結果的には失政だったと言えると思います。もし2006年のまだ日本全体で余裕が戻ってきたあの段階で国内の消費力増加に取り組む、具体的には派遣労働の禁止とか給与の底上げ、減税などさえ打っていれば、今の状況とはまた全然違ったものになっていたと思います。
最後に、友人は今の状態は政治的な強権が発動されなければもはやどうにもならず、市場メカニズムに任していても解決できるはずがないと言っていましたが、後半は正しいのですが前半の部分は、私もそうあってほしいものなのですが、実際にはほとんど期待できないと思います。
まず日本の今の麻生内閣はただでさえ解散を控えて不安定であり、その上今の経済混乱に対応できる人材が政治界にいるかとなったら非常に疑問です。田原総一朗氏はこの前のサンデープロジェクトにて、この状況下で中川昭一財務、金融大臣が切り盛りしていてよかったと誉めましたが、この人が具体的にどんな政策を打ち出そうというのかが私にまでさっぱり伝わってこないことを考えると、やはり力不足なんじゃないかなという気がします。少しうぬぼれもありますが。
そして何より、前回G7、先進七カ国財務大臣会議にて歩調を合わせて持ち前の資金をどんどん流すと約束したにもかかわらず世界中で株価下落を下げとめられなかったことを考えると、日本程度の一国がいくら権力使ったところでどうにもならないのではと思います。
じゃあどうすればいいかというと、ありていですが耐えるしかないというのが私の意見です。
2008年10月23日木曜日
悪魔の経済学 その二
本当は続けるつもりはなかったのですが、前回の記事を書いてる途中にふと、よくアメリカ型の新自由主義は弊害の多い考え方だと批判する意見は数多いのですが、一体どこにどんな弊害を生む要素があるのかという説明は実は少ないということに気がついたので、ちょっとその辺を解説しようと思います。
まず巷によく出ている意見で多いのは、「市場に任せれば何もかもうまくいく」という価値観が、この新自由主義経済学の欠陥だというものでしょう。この指摘自体は間違ってはいません。小泉政権時に行われた規制改革路線もこの考え方で行われ、それによって規制を皆取っ払われた全国のタクシー業界は現在競争過多となってタクシー運転手から事業者に至るまで、「規制をもっと増やしてくれ」と国に嘆願書を出すまで追い込まれており、基本的に今の時代で全く規制をせずに経済がうまくいくということはないでしょう。ちょっと専門的な事を言うと、規制のない無法経済はどれもゼロサムゲームになるのがオチです。
ちなみにこれは昨日歩きながら思ったのですが、この新自由主義経済学の説明の際に、「無政府主義」という言葉は何で出てこないんだろうなぁと気がつきました。まぁ死語なんだけどさ。
この無政府主義ではバクーニン(どうしてこう、ロシア人って極端なんだろう)という人が有名ですが、あまり勉強していないで解説するのもなんですけと、この思想は基本的には共産主義以上に左翼思想が強く、経済に対して国家は一切の関与を行うべきではなく政府はただ国防のみを行えばいいという思想の一派です。非常に幅の広い思想で一概に私が言ったようなもので定義できるというわけではないのですが、私の定義を言い表す有名な言葉で「夜警国家」というものがあり、これは先ほどの「国防のみを行えばいい」という姿を一言で説明した言葉です。この言葉と私の定義を聞いて、はっと気がついた人とは私と仲良くなれそうです。
これはあまり人が言わないのですが、私から見て新自由主義というのは見方を変えるとこの無政府主義と言っても過言じゃない気がします。そして先ほどの夜警国家の概念についても、アメリカのブッシュ政権での極度な軍事化を見ていると、規制自由化と国防強化はやはり同一線上にあるのかなとも思えます。日本も海外にまで自衛隊を派遣するようになったし。
佐藤優氏はアメリカのネオコンは思想的にはトロツキスト、要するに世界革命を目指す古い共産主義的な思想だと説明しており私もこれには納得しますが、政策で言うなら無政府主義の方が近い気がします。
まぁそんな説明はほっといて本題に戻りますが、最初の規制を何でも取っ払うという価値観は確かに欠陥で、こういったことを指摘している経済学者やコラムニストの方はまぁちゃんと仕事をしていると思います。しかし中にはこの新自由主義に対して、「儲け第一主義」が良くないとかいう批判をする人も多くいますが、私はこれには呆れてしまいます。何故かというと基本的に経済を担う企業はそれこそ「儲け第一主義」ですし、今更それを否定してもしょうがないと思うからです。またその価値観がどのような弊害を生むのか、大抵の人は「強者がのさばり弱者が苦しむ」といいますが、儲け主義がこれに直結するかというとどうも腑に落ちません。それよりは先ほどの「市場第一主義」のほうが強盛弱衰に繋がるという指摘の方が的確です。
そこで私の意見ですが、確かに市場第一主義とかいろいろ突っ込むところはあるのですが、あまり表に出ていない新自由主義の欠陥的価値観というのは、何でもかんでも金銭に置き換えて勘定をするところだと思います。
昨日の記事でも書いたように、浮気をすることによる損害リスクと快感をわざわざ金額に置きなおして比較したりするなど、新自由主義経済学にはどうも人間の感情など、本来金銭に置きかえれないものまで無理やり置き換えた上に計算をしようという特徴がある気がしてなりません。なにもこの浮気の話だけでなく、「動物を買うことによってかかるエサ代と、動物によって和む心的ストレスの緩和に貢献する価格比較」とか、「金のかかる美人と金のかからないブスの生涯の費用対効果」などと、かなり無理やりな計算比較を連中は当然のように行います。
そして実際の経済活動においても、ブランドイメージを金銭に置き換えたり、知名度やメディアへの出演時間の計算など、本来お金に換えるに適当でないものまで金額を出してしまいます。特に私がよく疑問に感じるのは、「~の経済効果は○○円です」などという触れ込みです。以前の宮崎県知事の「東国原旋風」の頃はテレビの露出時間からクソ生意気な電通が「広告料に置きなおすと○億円の経済効果が宮崎にあります」などとしたり顔で説明してやがったが、どこをどういう風に計算したらそうなるのか、また実際に宮崎の生産高がこの時期に「○億円」増えたのかというと滅茶苦茶怪しい数字な気がします。
しかしこの発表があった当時はどこも検証することなくこの数字を出して、見ている側も何がなんだかわからないまま「へぇ、すごいんだなぁ」と感心してました。しかし数字の根拠は未だに不明で、今思うと東国原旋風に便乗して衝撃的な数字を出し、自分らへの注目を集めようとする策謀だったような気がします。同様のもので、「阪神優勝による経済効果」ってのもあります。こっちも、数字の根拠をずっと私は追っているのに未だにわからずじまいです。
こういった本来金額に直すことの出来ないもの、人間の感情までも含めて無理やりに勘定してしまう、これこそが新自由主義の一番問題のある欠陥だと私は思います。具体的にどんな弊害があるかというと、前回の記事で書いたアメリカの自動車会社の例のように、取るべき行動を決める際に、絶対やってはならないことという行為までも費用対効果で比較してしまう弊害があります。前回の例だと、車の事故などは本来絶対に起こしてはならないものであるのに、遺族への保証金額と車の欠陥対策費を比較し対策を行わなかったりと、お金で比較するべきでない行為までも比較対象にすることにより、返って社会に対して重大な損害を与える行動を取ってしまうという点こそが、この価値観の最大の欠陥だと私は思います。
竹中平蔵氏と同様に日本での新自由主義の第一人者である、前日銀総裁の福井俊彦も小学生に対する講演で、
「皆さん、大事なものはみんなお金に変えてください。お金に換えておけばその価値をいつまでも保存することが出来ます」
という、頭のおかしいことをのたまったことがあります。真に大切なものはお金で価値が換算できるはずもなく、またお金で換算せずとも、たとえ何億円を積まれてもまげてはならない道理(殺人など)も世の中にはあります。そういったものを根底から覆しかねないのが、この新自由主義の価値感でしょう。
本当は今日で終わるつもりだったのに、また明日も続きます。明日はちょっとこういった部分に関係する環境問題、それも二酸化炭素の排出権取引の欠陥について解説します。
まず巷によく出ている意見で多いのは、「市場に任せれば何もかもうまくいく」という価値観が、この新自由主義経済学の欠陥だというものでしょう。この指摘自体は間違ってはいません。小泉政権時に行われた規制改革路線もこの考え方で行われ、それによって規制を皆取っ払われた全国のタクシー業界は現在競争過多となってタクシー運転手から事業者に至るまで、「規制をもっと増やしてくれ」と国に嘆願書を出すまで追い込まれており、基本的に今の時代で全く規制をせずに経済がうまくいくということはないでしょう。ちょっと専門的な事を言うと、規制のない無法経済はどれもゼロサムゲームになるのがオチです。
ちなみにこれは昨日歩きながら思ったのですが、この新自由主義経済学の説明の際に、「無政府主義」という言葉は何で出てこないんだろうなぁと気がつきました。まぁ死語なんだけどさ。
この無政府主義ではバクーニン(どうしてこう、ロシア人って極端なんだろう)という人が有名ですが、あまり勉強していないで解説するのもなんですけと、この思想は基本的には共産主義以上に左翼思想が強く、経済に対して国家は一切の関与を行うべきではなく政府はただ国防のみを行えばいいという思想の一派です。非常に幅の広い思想で一概に私が言ったようなもので定義できるというわけではないのですが、私の定義を言い表す有名な言葉で「夜警国家」というものがあり、これは先ほどの「国防のみを行えばいい」という姿を一言で説明した言葉です。この言葉と私の定義を聞いて、はっと気がついた人とは私と仲良くなれそうです。
これはあまり人が言わないのですが、私から見て新自由主義というのは見方を変えるとこの無政府主義と言っても過言じゃない気がします。そして先ほどの夜警国家の概念についても、アメリカのブッシュ政権での極度な軍事化を見ていると、規制自由化と国防強化はやはり同一線上にあるのかなとも思えます。日本も海外にまで自衛隊を派遣するようになったし。
佐藤優氏はアメリカのネオコンは思想的にはトロツキスト、要するに世界革命を目指す古い共産主義的な思想だと説明しており私もこれには納得しますが、政策で言うなら無政府主義の方が近い気がします。
まぁそんな説明はほっといて本題に戻りますが、最初の規制を何でも取っ払うという価値観は確かに欠陥で、こういったことを指摘している経済学者やコラムニストの方はまぁちゃんと仕事をしていると思います。しかし中にはこの新自由主義に対して、「儲け第一主義」が良くないとかいう批判をする人も多くいますが、私はこれには呆れてしまいます。何故かというと基本的に経済を担う企業はそれこそ「儲け第一主義」ですし、今更それを否定してもしょうがないと思うからです。またその価値観がどのような弊害を生むのか、大抵の人は「強者がのさばり弱者が苦しむ」といいますが、儲け主義がこれに直結するかというとどうも腑に落ちません。それよりは先ほどの「市場第一主義」のほうが強盛弱衰に繋がるという指摘の方が的確です。
そこで私の意見ですが、確かに市場第一主義とかいろいろ突っ込むところはあるのですが、あまり表に出ていない新自由主義の欠陥的価値観というのは、何でもかんでも金銭に置き換えて勘定をするところだと思います。
昨日の記事でも書いたように、浮気をすることによる損害リスクと快感をわざわざ金額に置きなおして比較したりするなど、新自由主義経済学にはどうも人間の感情など、本来金銭に置きかえれないものまで無理やり置き換えた上に計算をしようという特徴がある気がしてなりません。なにもこの浮気の話だけでなく、「動物を買うことによってかかるエサ代と、動物によって和む心的ストレスの緩和に貢献する価格比較」とか、「金のかかる美人と金のかからないブスの生涯の費用対効果」などと、かなり無理やりな計算比較を連中は当然のように行います。
そして実際の経済活動においても、ブランドイメージを金銭に置き換えたり、知名度やメディアへの出演時間の計算など、本来お金に換えるに適当でないものまで金額を出してしまいます。特に私がよく疑問に感じるのは、「~の経済効果は○○円です」などという触れ込みです。以前の宮崎県知事の「東国原旋風」の頃はテレビの露出時間からクソ生意気な電通が「広告料に置きなおすと○億円の経済効果が宮崎にあります」などとしたり顔で説明してやがったが、どこをどういう風に計算したらそうなるのか、また実際に宮崎の生産高がこの時期に「○億円」増えたのかというと滅茶苦茶怪しい数字な気がします。
しかしこの発表があった当時はどこも検証することなくこの数字を出して、見ている側も何がなんだかわからないまま「へぇ、すごいんだなぁ」と感心してました。しかし数字の根拠は未だに不明で、今思うと東国原旋風に便乗して衝撃的な数字を出し、自分らへの注目を集めようとする策謀だったような気がします。同様のもので、「阪神優勝による経済効果」ってのもあります。こっちも、数字の根拠をずっと私は追っているのに未だにわからずじまいです。
こういった本来金額に直すことの出来ないもの、人間の感情までも含めて無理やりに勘定してしまう、これこそが新自由主義の一番問題のある欠陥だと私は思います。具体的にどんな弊害があるかというと、前回の記事で書いたアメリカの自動車会社の例のように、取るべき行動を決める際に、絶対やってはならないことという行為までも費用対効果で比較してしまう弊害があります。前回の例だと、車の事故などは本来絶対に起こしてはならないものであるのに、遺族への保証金額と車の欠陥対策費を比較し対策を行わなかったりと、お金で比較するべきでない行為までも比較対象にすることにより、返って社会に対して重大な損害を与える行動を取ってしまうという点こそが、この価値観の最大の欠陥だと私は思います。
竹中平蔵氏と同様に日本での新自由主義の第一人者である、前日銀総裁の福井俊彦も小学生に対する講演で、
「皆さん、大事なものはみんなお金に変えてください。お金に換えておけばその価値をいつまでも保存することが出来ます」
という、頭のおかしいことをのたまったことがあります。真に大切なものはお金で価値が換算できるはずもなく、またお金で換算せずとも、たとえ何億円を積まれてもまげてはならない道理(殺人など)も世の中にはあります。そういったものを根底から覆しかねないのが、この新自由主義の価値感でしょう。
本当は今日で終わるつもりだったのに、また明日も続きます。明日はちょっとこういった部分に関係する環境問題、それも二酸化炭素の排出権取引の欠陥について解説します。
2008年10月22日水曜日
悪魔の経済学 その一
今も株価暴落などでお騒がせのアメリカ経済ですが、現在のアメリカ経済の主流を占めているのは効率崇拝主義とも言うべく、フリードマン学派による新自由主義経済です。日本では私も過去に記事を書いている竹中平蔵氏がこの流派に属していますが、この新自由主義経済というのは基本的に「費用対効果の効率が+であるものはすべて正しい」というような価値観ですべてを語れます。そのため具体的にどのような社会を作るかではなく、如何に自分の取り分を多くするかということに注力しており、実際的には経済学よりも商学的な性格が強い流派です。
この新自由主義が如何に世界に害毒を撒いたかについては、いろんなブログや出版されている書籍などで解説されているのでいちいち私も解説しませんが、この価値観を当てはめられたために生まれた一つの企業の話を今回紹介しようと思います。
先ほどから言っているように、この新自由主義の価値概念はほぼすべて「費用対効果」で語られると言っても過言ではありません。そのため以前にはあるアメリカの経済学者がこんな試算を作ったことがあります。
「浮気をすることによる快感が浮気によって失う損失(離婚による賠償金額)を上回るなら、浮気という行為はどんどんと行うべきである。その際に計算される快感には、浮気相手の容姿や性格、果てには本人の浮気をすることによるストレスの緩和量などが考慮される」
とまぁこんな感じで何でもかんでも無理やりな計算に当てはめては、「どうだ、これまで計算することの出来なかった価値観を俺は計算してのけたぞ!」って自慢するアメリカ人が一時は後を立ちませんでした。こんなことを自慢して、そもそも計算してなんになるのかといったら非常に疑問ですが、日本でも昔にある数学者が「ナンパの成功確率式」という計算式を作ってましたからあんまり人のこと言えません。
まぁこの程度だったらよくある「~心理学」とかいう冗談めかした本で出版する程度なのでまだ許せる範囲ですが、この効率の計算がとんでもない場所で使われた例がありました。
それが行われたのはアメリカのある自動車会社(名前は失念しました)で、そこで開発されているある車に数千台に一台の割合で、致命的な事故を引き起こす欠陥が確認されました。ところが、この欠陥を徹底的に根絶するためにかかる費用は非常に高かったので、経営者たちはこの費用に対して別の費用と比較することにしました。その費用というのも、事故が起きた場合に被害者やその遺族に支払う賠償金額です。
そしてなんと両方の費用を比較した結果、少ない確立で起こる事故を起こす欠陥をなくすより、遺族に払う賠償金額の方が少ないとわかり、はっきりと欠陥を認識しているにもかかわらず対策を行わずに発売をしてしまいました。そして当初の計算通りに、その車は数千台の一台の割合で事故は起こり、被害者も続出しました。
その後の結末を話すと、続発する事故に不審を抱いた国の調査機関が捜査したところ前述の経営判断が行われたことがわかり、その自動車会社は激しい社会的非難を受けるとともに不買運動が起こり、それによって受けた損失は欠陥対策を行っていた場合の費用を上回りました。
日本でちょうどこれと同じケースに属するのが、2003年前後に起きた、私の愛する三菱自動車グループの欠陥隠し事件です。この事件でも販売していた自動車の欠陥を早々に経営陣は認識していたにもかかわらず、一切その対策を行わなかったために欠陥による事故が続いて被害者を出していきました。そして結末も、普通の会社なら明らかに潰れているはずだった程の大損失を受け、かつては国内シェア8%だったものが現在では確か3%にまで落ちています。それでも一時期よりは大分よくなって、「ギャランフォルティス」とか「i」とか、すごいいい車を作るようになっており、特に「ⅰ」については前回の失敗に相当懲りたのか、雪国での走行に多少問題を起こす可能性があるとして、普通なら見過ごしてもいいような対策のためにわざわざリコールをして無償修理を去年に行いました。これは評価してもいいと思います
なにもこの三菱自動車だけにとどまらず、日本には他にもたくさんこういった例があります。三菱自動車だけあげつらうのもかわいそうなので他にも挙げると、雪印乳業も工場内の汚染を知っていながら表沙汰にならなければ損失は発生しないだろうという安易な発想の元に食中毒事件を起こし、猛烈な売り上げ低下を自ら招いています。ちなみに当時の社長の記者会見でのセリフは、「私は寝てないんだ」と、他人事なセリフでしたね。
よく今の中国食品問題で日本のメディアは知った風な口をして「これだから中国は」という批判をしていますが、確かに「毒餃子事件」や「メラミン混入事件」に対して社会的注目を行うのは当然だとしても、かつての、それもほんの十年弱くらい前にもたくさんの日本企業がこのように同じようなことをしていたと考えると、感情的になるのを避けてもっと冷静に批判するべきではないかと思います。少なくとも、「後進国」とか「衛生に対するしっかりとした発想がない」などという言葉は使うべきではないと思います。事実今年になっても日本でも「事故米流出」事件が起きており、他国を批判する前に自国の衛生環境に対してもっと気を配るべきではなかったのかと疑問に感じます。
こういった事件の背景にあるのは効率重視……というよりは、安易な損得勘定だと思います。こうしたくだらない経営判断によって、社会の被害者から企業の従業員までが損害を受けないためにはどうするべきかと友人と相談したところ、やっぱり企業の社会的責任を今以上に高く設定するより他がないという結論になりました。そういった不正を行い、それが発覚した場合に起こる不買運動などの大幅なコストをはっきりと経営者側に意識させること、これが最大にして唯一の方法でしょう。
ただこの方法が効果を発揮する最低条件として、「不正をしてもいつかはばれる」という不文律が必要で、そういった意味で先ほどの日本のメディアへの私の疑問へと繋がって行くのです。まぁ後は内部告発とかだけど、これの保護問題とか話してたらまた長くなるので、今日はこれだけにしておきます。
この新自由主義が如何に世界に害毒を撒いたかについては、いろんなブログや出版されている書籍などで解説されているのでいちいち私も解説しませんが、この価値観を当てはめられたために生まれた一つの企業の話を今回紹介しようと思います。
先ほどから言っているように、この新自由主義の価値概念はほぼすべて「費用対効果」で語られると言っても過言ではありません。そのため以前にはあるアメリカの経済学者がこんな試算を作ったことがあります。
「浮気をすることによる快感が浮気によって失う損失(離婚による賠償金額)を上回るなら、浮気という行為はどんどんと行うべきである。その際に計算される快感には、浮気相手の容姿や性格、果てには本人の浮気をすることによるストレスの緩和量などが考慮される」
とまぁこんな感じで何でもかんでも無理やりな計算に当てはめては、「どうだ、これまで計算することの出来なかった価値観を俺は計算してのけたぞ!」って自慢するアメリカ人が一時は後を立ちませんでした。こんなことを自慢して、そもそも計算してなんになるのかといったら非常に疑問ですが、日本でも昔にある数学者が「ナンパの成功確率式」という計算式を作ってましたからあんまり人のこと言えません。
まぁこの程度だったらよくある「~心理学」とかいう冗談めかした本で出版する程度なのでまだ許せる範囲ですが、この効率の計算がとんでもない場所で使われた例がありました。
それが行われたのはアメリカのある自動車会社(名前は失念しました)で、そこで開発されているある車に数千台に一台の割合で、致命的な事故を引き起こす欠陥が確認されました。ところが、この欠陥を徹底的に根絶するためにかかる費用は非常に高かったので、経営者たちはこの費用に対して別の費用と比較することにしました。その費用というのも、事故が起きた場合に被害者やその遺族に支払う賠償金額です。
そしてなんと両方の費用を比較した結果、少ない確立で起こる事故を起こす欠陥をなくすより、遺族に払う賠償金額の方が少ないとわかり、はっきりと欠陥を認識しているにもかかわらず対策を行わずに発売をしてしまいました。そして当初の計算通りに、その車は数千台の一台の割合で事故は起こり、被害者も続出しました。
その後の結末を話すと、続発する事故に不審を抱いた国の調査機関が捜査したところ前述の経営判断が行われたことがわかり、その自動車会社は激しい社会的非難を受けるとともに不買運動が起こり、それによって受けた損失は欠陥対策を行っていた場合の費用を上回りました。
日本でちょうどこれと同じケースに属するのが、2003年前後に起きた、私の愛する三菱自動車グループの欠陥隠し事件です。この事件でも販売していた自動車の欠陥を早々に経営陣は認識していたにもかかわらず、一切その対策を行わなかったために欠陥による事故が続いて被害者を出していきました。そして結末も、普通の会社なら明らかに潰れているはずだった程の大損失を受け、かつては国内シェア8%だったものが現在では確か3%にまで落ちています。それでも一時期よりは大分よくなって、「ギャランフォルティス」とか「i」とか、すごいいい車を作るようになっており、特に「ⅰ」については前回の失敗に相当懲りたのか、雪国での走行に多少問題を起こす可能性があるとして、普通なら見過ごしてもいいような対策のためにわざわざリコールをして無償修理を去年に行いました。これは評価してもいいと思います
なにもこの三菱自動車だけにとどまらず、日本には他にもたくさんこういった例があります。三菱自動車だけあげつらうのもかわいそうなので他にも挙げると、雪印乳業も工場内の汚染を知っていながら表沙汰にならなければ損失は発生しないだろうという安易な発想の元に食中毒事件を起こし、猛烈な売り上げ低下を自ら招いています。ちなみに当時の社長の記者会見でのセリフは、「私は寝てないんだ」と、他人事なセリフでしたね。
よく今の中国食品問題で日本のメディアは知った風な口をして「これだから中国は」という批判をしていますが、確かに「毒餃子事件」や「メラミン混入事件」に対して社会的注目を行うのは当然だとしても、かつての、それもほんの十年弱くらい前にもたくさんの日本企業がこのように同じようなことをしていたと考えると、感情的になるのを避けてもっと冷静に批判するべきではないかと思います。少なくとも、「後進国」とか「衛生に対するしっかりとした発想がない」などという言葉は使うべきではないと思います。事実今年になっても日本でも「事故米流出」事件が起きており、他国を批判する前に自国の衛生環境に対してもっと気を配るべきではなかったのかと疑問に感じます。
こういった事件の背景にあるのは効率重視……というよりは、安易な損得勘定だと思います。こうしたくだらない経営判断によって、社会の被害者から企業の従業員までが損害を受けないためにはどうするべきかと友人と相談したところ、やっぱり企業の社会的責任を今以上に高く設定するより他がないという結論になりました。そういった不正を行い、それが発覚した場合に起こる不買運動などの大幅なコストをはっきりと経営者側に意識させること、これが最大にして唯一の方法でしょう。
ただこの方法が効果を発揮する最低条件として、「不正をしてもいつかはばれる」という不文律が必要で、そういった意味で先ほどの日本のメディアへの私の疑問へと繋がって行くのです。まぁ後は内部告発とかだけど、これの保護問題とか話してたらまた長くなるので、今日はこれだけにしておきます。
これまでのブログを振り返って
実は人知れず、このブログの投稿記事数は既に400件を越えております。また当初目標としていた一年間の継続についても、ブログを始めたのは去年の十二月なので、残すところ実質一ヶ月半となりこっちの目標も達成しそうです。
ただそれ以上に自分で驚いているのは、まさかこの時点で毎日一本ずつ記事を書いたとすると一年間で365件となる記事数をすでに越えているという事実です。我ながらよくここまで書けるなということと、本当に自分は文章を書くのが好きなんだと思えます。
記事の履歴を見てみると、やっぱり記事にコメントがつくようになった六月ごろから猛烈な勢いで投稿記事数が増え始めています。読んでいる側にすればどうとも思わないかもしれませんが、書いてる側にするとコメントがつくとやっぱりうれしいものです。またこの辺が通り一遍等の新聞やテレビには真似できない、敢えて言うとしたらブログジャーナリズムの利点であり、私の記事でもブログでのコメントや質問を基にした記事が非常にいい内容の記事にまとまっていたりします。
もっとも、今言った双方向コミュニケーションによるブログジャーナリズムですが、それを本職としている方々は商業上、ほとんど崩れ去っているようです。
・「Web2.0」ビジネスって結局、ぜんぜん儲からないの?(YAHOOニュース)
リンクに貼ったのは今日出たニュース記事ですが、一時は「WEB2.0」が流行語ともなり、新しいビジネスモデルだと持て囃されたにもかかわらず、この分野のサービスを行っている企業、代表的なのはニコニコ動画とかミクシですが、一定の人気があるにもかかわらず儲かっていないという内容が紹介されています。
もともとこのWEB2.0の定義を私の解釈で説明すると、2ちゃんねるの「電車男」のようにネット上で皆であれこれ言い合ったり、交流しあったりすることによって自動的に客を呼び込むコンテンツをできあがっては何もせずに儲かる、といったような概念で、事業者側はそうやって交流する人間を呼び込むステージ、2ちゃんねるなら掲示板でゲーム会社ならネットゲームを作ることが大事だという経済話だったのですが、なんか聞くところによる我が家の宿敵である電通も、ネット上で擬似生活を体験する「セカンドライフ」とか言うのを作ったらしいですが、見事にこけたそうです。
私に言わせるとWEB2.0が成り立つにはやっぱり、最低でも中心に一人は広く人をひきつける人間が必要だと思います。電車男なら主人公みたいに。私は別にこのブログで金儲けしようとは考えていませんが、双方向コンテンツで儲けようというのはやっぱり並大抵のものではないと思います。
ここで話は変わりますが、本店の「ブロガー」の方はともかく、出張所の「FC2ブログ」の方では記事ごとに「拍手」といって、内容を評価した読者が押すボタンがあります。アクセスカウンターを見るとこのところは毎日30人弱の人が見に来てくれているようでそれだけでも非常にありがたいのですが、それとともに増えてきたこの拍手ボタンの履歴も見るのが毎日の楽しみになってきています。
それで履歴をみてみるとやはり拍手がよく集まる記事というものはあり、ここ一ヶ月で見るなら「文化大革命とは~その六、紅衛兵~」が6拍手と、同じ連載の他の記事と比べても不思議なくらいに拍手数が集まっています。確かにこの記事は私自身も力を入れて書いた記事なので、それが評価してもらえてると思うととても光栄に思えます。ただ欲を言えば、この連載で一番苦労したのは「文化大革命とは~その五、毛沢東思想~」で、本音を言えばこっちの方をもっと評価してもらいたかったなぁという気持ちがあります。だって、こんだけ毛沢東思想について噛み砕いた説明ってあんまりないと思うし。
ただそれ以上に自分で驚いているのは、まさかこの時点で毎日一本ずつ記事を書いたとすると一年間で365件となる記事数をすでに越えているという事実です。我ながらよくここまで書けるなということと、本当に自分は文章を書くのが好きなんだと思えます。
記事の履歴を見てみると、やっぱり記事にコメントがつくようになった六月ごろから猛烈な勢いで投稿記事数が増え始めています。読んでいる側にすればどうとも思わないかもしれませんが、書いてる側にするとコメントがつくとやっぱりうれしいものです。またこの辺が通り一遍等の新聞やテレビには真似できない、敢えて言うとしたらブログジャーナリズムの利点であり、私の記事でもブログでのコメントや質問を基にした記事が非常にいい内容の記事にまとまっていたりします。
もっとも、今言った双方向コミュニケーションによるブログジャーナリズムですが、それを本職としている方々は商業上、ほとんど崩れ去っているようです。
・「Web2.0」ビジネスって結局、ぜんぜん儲からないの?(YAHOOニュース)
リンクに貼ったのは今日出たニュース記事ですが、一時は「WEB2.0」が流行語ともなり、新しいビジネスモデルだと持て囃されたにもかかわらず、この分野のサービスを行っている企業、代表的なのはニコニコ動画とかミクシですが、一定の人気があるにもかかわらず儲かっていないという内容が紹介されています。
もともとこのWEB2.0の定義を私の解釈で説明すると、2ちゃんねるの「電車男」のようにネット上で皆であれこれ言い合ったり、交流しあったりすることによって自動的に客を呼び込むコンテンツをできあがっては何もせずに儲かる、といったような概念で、事業者側はそうやって交流する人間を呼び込むステージ、2ちゃんねるなら掲示板でゲーム会社ならネットゲームを作ることが大事だという経済話だったのですが、なんか聞くところによる我が家の宿敵である電通も、ネット上で擬似生活を体験する「セカンドライフ」とか言うのを作ったらしいですが、見事にこけたそうです。
私に言わせるとWEB2.0が成り立つにはやっぱり、最低でも中心に一人は広く人をひきつける人間が必要だと思います。電車男なら主人公みたいに。私は別にこのブログで金儲けしようとは考えていませんが、双方向コンテンツで儲けようというのはやっぱり並大抵のものではないと思います。
ここで話は変わりますが、本店の「ブロガー」の方はともかく、出張所の「FC2ブログ」の方では記事ごとに「拍手」といって、内容を評価した読者が押すボタンがあります。アクセスカウンターを見るとこのところは毎日30人弱の人が見に来てくれているようでそれだけでも非常にありがたいのですが、それとともに増えてきたこの拍手ボタンの履歴も見るのが毎日の楽しみになってきています。
それで履歴をみてみるとやはり拍手がよく集まる記事というものはあり、ここ一ヶ月で見るなら「文化大革命とは~その六、紅衛兵~」が6拍手と、同じ連載の他の記事と比べても不思議なくらいに拍手数が集まっています。確かにこの記事は私自身も力を入れて書いた記事なので、それが評価してもらえてると思うととても光栄に思えます。ただ欲を言えば、この連載で一番苦労したのは「文化大革命とは~その五、毛沢東思想~」で、本音を言えばこっちの方をもっと評価してもらいたかったなぁという気持ちがあります。だって、こんだけ毛沢東思想について噛み砕いた説明ってあんまりないと思うし。
2008年10月21日火曜日
極寒、信楽サイクリングツアー
またちょっと気軽に構えられる記事でも書こうと思います。
数年前のある日、親父の単身赴任先である名古屋に遊びに行っていた私はそのまま親父の運転する車で名古屋から当時住んでいた京都府の下宿へと帰っていました。当時は連休があればちょくちょく名古屋に遊びに行っており京都へ帰るルートも親父とあれこれ研究していて、一回は直線距離を試してみようということでその日は滋賀県の信楽を通って京都へ入るルートを走っていました。
すると意外にもこのルートは途中の道路はよく整備されており、また他の乗用車が少なくこれまでのどのルートより早く京都に帰ることが出来ました。ですがその帰路の際に私が着目したのはそんな時間の短さより、
「自転車でもこれそうだ」
という一点でした。
途中に坂とかがありますが基本的に一本道ですし、道路も舗装されているので恐らくその時の京都の下宿から自転車で行って当日中に往復することが可能だろうという見切りをつけました。サイクリングが趣味の私としてはいける範囲ならどこまでも、なおかつあまり試したことのない、他の人が行きそうにない場所を好んで当時は行きたがっていましたので、下宿に帰宅するや早速京都府の地図を開いて改めてルートを確認し、来るべき挑戦日となる週末を待ちました。
しかし行くとしても毎回一人というのはなんです。連れがいればもっと楽しいでしょうが、こんな強行軍についてこれる奴は周りにいるのかと考えてみました。来る奴がいるなら連れてってみたいと思いながら決行日の前日を迎えたところ、うまい具合にいい獲物が自らやってきました。
「やっほー、花園君おる?」
そういって私の部屋を訪ねてきたのは私と同じ下宿に住む、四国の田舎からやってきたやけに背の高い友人でした。確かその時は貸してた本か何かを返しに私の部屋に来たと思うのですが、いつもどおりに部屋に上がらせてお茶を飲ませて、明日サイクリングに行くが一緒に来るかと誘ったところ、「どうせ暇やし、ええよ」というので、パートナーも無事見つかり予定通りに作戦を決行するに至りました。
その日の朝早く、私と友人はお互いの自転車に乗り込むと颯爽と下宿を出発しました。ちなみにその際に私が使用した自転車は通常の二万円で買ったシティサイクルでギアも三段変形という、装備については至ってノーマルな自転車でした。それでもよく走ったし、多分総走行距離は1000キロは越えてたと思う。
スタート当初、友人の自転車のサドルがちょっと低いように思ったので途中で停めて上げてやったのですが、私は基本的に自転車のサドルは高ければ高いほどいい派で、停車時に地面に足がつく範囲で可能な限り上げています。それを友人の自転車にも施したところ、確かによく走るようにはなったらしいですがサドルを上げた分ケツが痛くなったと後に友人は述べています。
さてそんなもんでスタートから約5キロくらい走るとだんだんと歩道がなくなって山道へと入っていきちょうど滋賀県と京都府の県境のあたりですから道路は舗装されているとはいえ、長い上り坂の山越えをするような道になって行きました。私自身はこういった道に慣れていたのですが友人はどうなのだろうという心配があり尋ねたところ、「いや、高知のばあちゃん家に行くのって大体こんなもんやから平気やで」と言うので安心しました。グッジョブ、田舎人。
とはいえ、やっぱり県をまたぐ際はお互いに苦労しました。延々と上り坂が続いた上に歩道はなく、事実上車道の上で自動車に接近されながらギコギコちょっとずつ漕いで行くような感じです。トラックなんかもよく後ろから来て、当たりはしないだろうと思いながらも、邪魔にならないように端に寄せて上り坂を登るのは少し大変でした。
そうして何とか県境を越えて滋賀県に入った頃になると、今度は道路幅が極端に狭くなりはしたものの通る自動車の数が減って走行上は非常に楽になりました。ただ道路脇に設置されていた温度計の表示を見ると、気温は一度と表示されていました。
時節も一月で非常に寒い日で、その日は分厚い雲がどんよりと覆っていて日光も一切差していませんでした。普通なら相当寒い日になるのでしょうが、逆に自転車乗りとしては走っているとどんどんと体温が上がる一方なので、冷えやすい手を覆う手袋さえしていればこれくらいの気温の方が全然走りやすいものです。案の定私たちも、途中で「暑い」という理由から上着を脱いで走ってました。
そうして滋賀県を走っているとさらに山の中へと入っていき、いつしか周りには何もなく、ただ木々が生い茂る深い山の中、妙に整備の行き届いている道路を二人で延々と自転車をこぎ続けました。そうしてこいでいると、
「おわっ、雪や!」
空からちらほらと、寒いとは思っていたものの雪が降り始めてきました。それほどの降雪量ではなかったのでスリップ等の心配はなかったのですが、えらい日にサイクリングしているなとひとりでに笑えてきました。
ルート全体で見ると県境の山が一番勾配がきつかったのですが、ちょうど信楽に入る前当たりからそこそこの坂を上ったり降りたりする道になっていったので、無駄な体力を使わないように上り坂では二人とも自転車を降りてゆっくりと手押しで行く作戦に出るようになりました。結果的に言うとこれが大当たりして、確かに自転車を降りる分速度は遅くなるのですが、その分をすぐに下り坂で取り返せる上に降りて歩いている間は休むことが出来るので後半は体力的にも余裕を持て余して走ることが出来、そうこうしているうちについに信楽へと到着しました。
確か到着したのは11時過ぎくらいで、現地の焼肉屋に入っていつもはそんなに贅沢しないのに確か1500円の焼肉ランチをお互いに頼んで食べました。当時の私は一切外食はせずに一食あたりの平均が200円くらいケチった生活をしていたのですが、信楽までこれたという達成感と友人がいることからこの日は奮発しました。なお、この時の走行距離は片道で大体30キロ強です。
昼食を食べ終え、しばらく信楽の焼き物狸を観賞した後に私たちは帰還へと入りました。往路と違って復路だと一回はルートを通っていることもあり、また往路同様に上り坂を手押しで行ったので非常にスムーズに帰ることが出来ました。また帰る途中、往路に苦しんだ県境の坂を今度は逆に下りでものすごいスピード(多分時速40キロは出てた)で駆け下り、ちょうど降りた先にお茶屋さんがあったので休憩を兼ねて寄って行きました。
よく車と違って自転車はお金のかからない乗り物だと言われますが、金がかからない分、短距離ならまだしも長距離の運転だと途中から滅茶苦茶おなかが減る乗り物です。実際に長距離を乗り終えた後に私はバナナを一房丸ごと食べて、その上でお菓子とかパンをがっついたこともあり、そういった食事量を考えると思われているほど安くはないと思います。
なもんだから、馬鹿なので私はこの時にお茶屋さんでまた贅沢して抹茶パフェなんて頼んじゃいました。なおこの時もまだ外では雪が降り続けてます。
最初は笑って友人(彼は確かぜんざいを食べてた)と談笑していたものの、食べ終えた辺りから店内にいながらも猛烈に寒くなってきて、そのため店員のおばさんに無料の熱いお茶を何度ももらっては体を温めているとそのおばさんから、
「今日は寒いですからね。バイクで来られたんですか?」
「いいえ、自転車です」
「えっ!? それじゃあ寒いわねぇ」
と言われました。実際、往路ほど坂を上らないので復路は滅茶苦茶寒かったです。そんなこんなして大体昼の三時くらいに、無事下宿に帰ることが出来ました。
時間的にも走行的にも予定通りにほぼパーフェクトで、なおかつ景観のいい渓谷を通ってきたもんだから、下宿についた後もしばらくテンションが高いまんまでした。なのでそのまま同じ下宿のまた別の友人の家に行って、「信楽行ってきたぜ!」って妙な自慢までしました。その友人はというと、急に来られたのですごいびっくりしたと言ってました。
その後は一緒に行った友人と別れて、ゆったりとした日曜の夕方を下宿で過ごしました。
ちょうどこの時期はいろいろいけるもんだから私は自転車であちこちを回り、一つのベンチマークとして自転車での琵琶湖一周も一日で行ったりしていますが、一番楽しいサイクリングといったらやっぱりこの信楽の例を絶対に挙げています。また機会があればやってみたいものですが、ついてくる友人とかいるかなぁ。
自分で書いてて、自分の体験は読み返してみても面白い話が多いのですが、以前に独自に書いた中国での一年間の留学体験記や高校生時代の夏休み日記などくくりがあるものは自分でまとめているのですが、こういう単発の話はそれだけではまとめづらいので、きっとブログとかじゃないと私も多分一生書かないだろうと思います。今後も、折に触れてこういう話を書いていきたいものです。
数年前のある日、親父の単身赴任先である名古屋に遊びに行っていた私はそのまま親父の運転する車で名古屋から当時住んでいた京都府の下宿へと帰っていました。当時は連休があればちょくちょく名古屋に遊びに行っており京都へ帰るルートも親父とあれこれ研究していて、一回は直線距離を試してみようということでその日は滋賀県の信楽を通って京都へ入るルートを走っていました。
すると意外にもこのルートは途中の道路はよく整備されており、また他の乗用車が少なくこれまでのどのルートより早く京都に帰ることが出来ました。ですがその帰路の際に私が着目したのはそんな時間の短さより、
「自転車でもこれそうだ」
という一点でした。
途中に坂とかがありますが基本的に一本道ですし、道路も舗装されているので恐らくその時の京都の下宿から自転車で行って当日中に往復することが可能だろうという見切りをつけました。サイクリングが趣味の私としてはいける範囲ならどこまでも、なおかつあまり試したことのない、他の人が行きそうにない場所を好んで当時は行きたがっていましたので、下宿に帰宅するや早速京都府の地図を開いて改めてルートを確認し、来るべき挑戦日となる週末を待ちました。
しかし行くとしても毎回一人というのはなんです。連れがいればもっと楽しいでしょうが、こんな強行軍についてこれる奴は周りにいるのかと考えてみました。来る奴がいるなら連れてってみたいと思いながら決行日の前日を迎えたところ、うまい具合にいい獲物が自らやってきました。
「やっほー、花園君おる?」
そういって私の部屋を訪ねてきたのは私と同じ下宿に住む、四国の田舎からやってきたやけに背の高い友人でした。確かその時は貸してた本か何かを返しに私の部屋に来たと思うのですが、いつもどおりに部屋に上がらせてお茶を飲ませて、明日サイクリングに行くが一緒に来るかと誘ったところ、「どうせ暇やし、ええよ」というので、パートナーも無事見つかり予定通りに作戦を決行するに至りました。
その日の朝早く、私と友人はお互いの自転車に乗り込むと颯爽と下宿を出発しました。ちなみにその際に私が使用した自転車は通常の二万円で買ったシティサイクルでギアも三段変形という、装備については至ってノーマルな自転車でした。それでもよく走ったし、多分総走行距離は1000キロは越えてたと思う。
スタート当初、友人の自転車のサドルがちょっと低いように思ったので途中で停めて上げてやったのですが、私は基本的に自転車のサドルは高ければ高いほどいい派で、停車時に地面に足がつく範囲で可能な限り上げています。それを友人の自転車にも施したところ、確かによく走るようにはなったらしいですがサドルを上げた分ケツが痛くなったと後に友人は述べています。
さてそんなもんでスタートから約5キロくらい走るとだんだんと歩道がなくなって山道へと入っていきちょうど滋賀県と京都府の県境のあたりですから道路は舗装されているとはいえ、長い上り坂の山越えをするような道になって行きました。私自身はこういった道に慣れていたのですが友人はどうなのだろうという心配があり尋ねたところ、「いや、高知のばあちゃん家に行くのって大体こんなもんやから平気やで」と言うので安心しました。グッジョブ、田舎人。
とはいえ、やっぱり県をまたぐ際はお互いに苦労しました。延々と上り坂が続いた上に歩道はなく、事実上車道の上で自動車に接近されながらギコギコちょっとずつ漕いで行くような感じです。トラックなんかもよく後ろから来て、当たりはしないだろうと思いながらも、邪魔にならないように端に寄せて上り坂を登るのは少し大変でした。
そうして何とか県境を越えて滋賀県に入った頃になると、今度は道路幅が極端に狭くなりはしたものの通る自動車の数が減って走行上は非常に楽になりました。ただ道路脇に設置されていた温度計の表示を見ると、気温は一度と表示されていました。
時節も一月で非常に寒い日で、その日は分厚い雲がどんよりと覆っていて日光も一切差していませんでした。普通なら相当寒い日になるのでしょうが、逆に自転車乗りとしては走っているとどんどんと体温が上がる一方なので、冷えやすい手を覆う手袋さえしていればこれくらいの気温の方が全然走りやすいものです。案の定私たちも、途中で「暑い」という理由から上着を脱いで走ってました。
そうして滋賀県を走っているとさらに山の中へと入っていき、いつしか周りには何もなく、ただ木々が生い茂る深い山の中、妙に整備の行き届いている道路を二人で延々と自転車をこぎ続けました。そうしてこいでいると、
「おわっ、雪や!」
空からちらほらと、寒いとは思っていたものの雪が降り始めてきました。それほどの降雪量ではなかったのでスリップ等の心配はなかったのですが、えらい日にサイクリングしているなとひとりでに笑えてきました。
ルート全体で見ると県境の山が一番勾配がきつかったのですが、ちょうど信楽に入る前当たりからそこそこの坂を上ったり降りたりする道になっていったので、無駄な体力を使わないように上り坂では二人とも自転車を降りてゆっくりと手押しで行く作戦に出るようになりました。結果的に言うとこれが大当たりして、確かに自転車を降りる分速度は遅くなるのですが、その分をすぐに下り坂で取り返せる上に降りて歩いている間は休むことが出来るので後半は体力的にも余裕を持て余して走ることが出来、そうこうしているうちについに信楽へと到着しました。
確か到着したのは11時過ぎくらいで、現地の焼肉屋に入っていつもはそんなに贅沢しないのに確か1500円の焼肉ランチをお互いに頼んで食べました。当時の私は一切外食はせずに一食あたりの平均が200円くらいケチった生活をしていたのですが、信楽までこれたという達成感と友人がいることからこの日は奮発しました。なお、この時の走行距離は片道で大体30キロ強です。
昼食を食べ終え、しばらく信楽の焼き物狸を観賞した後に私たちは帰還へと入りました。往路と違って復路だと一回はルートを通っていることもあり、また往路同様に上り坂を手押しで行ったので非常にスムーズに帰ることが出来ました。また帰る途中、往路に苦しんだ県境の坂を今度は逆に下りでものすごいスピード(多分時速40キロは出てた)で駆け下り、ちょうど降りた先にお茶屋さんがあったので休憩を兼ねて寄って行きました。
よく車と違って自転車はお金のかからない乗り物だと言われますが、金がかからない分、短距離ならまだしも長距離の運転だと途中から滅茶苦茶おなかが減る乗り物です。実際に長距離を乗り終えた後に私はバナナを一房丸ごと食べて、その上でお菓子とかパンをがっついたこともあり、そういった食事量を考えると思われているほど安くはないと思います。
なもんだから、馬鹿なので私はこの時にお茶屋さんでまた贅沢して抹茶パフェなんて頼んじゃいました。なおこの時もまだ外では雪が降り続けてます。
最初は笑って友人(彼は確かぜんざいを食べてた)と談笑していたものの、食べ終えた辺りから店内にいながらも猛烈に寒くなってきて、そのため店員のおばさんに無料の熱いお茶を何度ももらっては体を温めているとそのおばさんから、
「今日は寒いですからね。バイクで来られたんですか?」
「いいえ、自転車です」
「えっ!? それじゃあ寒いわねぇ」
と言われました。実際、往路ほど坂を上らないので復路は滅茶苦茶寒かったです。そんなこんなして大体昼の三時くらいに、無事下宿に帰ることが出来ました。
時間的にも走行的にも予定通りにほぼパーフェクトで、なおかつ景観のいい渓谷を通ってきたもんだから、下宿についた後もしばらくテンションが高いまんまでした。なのでそのまま同じ下宿のまた別の友人の家に行って、「信楽行ってきたぜ!」って妙な自慢までしました。その友人はというと、急に来られたのですごいびっくりしたと言ってました。
その後は一緒に行った友人と別れて、ゆったりとした日曜の夕方を下宿で過ごしました。
ちょうどこの時期はいろいろいけるもんだから私は自転車であちこちを回り、一つのベンチマークとして自転車での琵琶湖一周も一日で行ったりしていますが、一番楽しいサイクリングといったらやっぱりこの信楽の例を絶対に挙げています。また機会があればやってみたいものですが、ついてくる友人とかいるかなぁ。
自分で書いてて、自分の体験は読み返してみても面白い話が多いのですが、以前に独自に書いた中国での一年間の留学体験記や高校生時代の夏休み日記などくくりがあるものは自分でまとめているのですが、こういう単発の話はそれだけではまとめづらいので、きっとブログとかじゃないと私も多分一生書かないだろうと思います。今後も、折に触れてこういう話を書いていきたいものです。
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