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2009年3月14日土曜日

格差と情報 前編

 いきなり結論ですが、私は現実にある格差の大きさより、格差が見えてしまう状態こそが一番問題であると考えております。

 これは社会学で最も有名な古典の一つであるエミール・デュルケイムの「自殺論」にて分析されている話ですが、一見すると不況期に自殺は増加するものだと考えられがちですが、統計上では好況期にも不況期と同じ程度の自殺者の増加が起こるそうです。自殺というと生活苦からくるのではと想像しがちなので、不況期に自殺が増えるのはわかるにしても、生活水準が向上する可能性の高い好況期に自殺が増えるなんて、初めて聞いたときには私も妙な風に感じました。
 デュルケイムの解釈をかいつまんで説明すると、どの人間にも「自分はこうあるべき」という自分像があり、その自分像と現実の自分の姿に差異を感じた際に人間は自殺に走るのだと、そうした自殺のことをデュルケイムは「アノミー的(無規範的)自殺」(本店の方でコメントがあり、この箇所は「アノミー的自殺」ではなく「自己本位型自殺」でした。訂正します)と呼び、私としてもこの説を支持します。

 自分像と現実に差異を感じるとはどういうことかですが、単純に言うと比較です。たとえばある人が自分は正社員で働きながらそこそこ収入を得て、かわいい彼女もいて、周りにはいい友達もいるというのを理想の自分像として持ってはいるものの、現実の自分は正社員ではなく、彼女もおらず、周りに友達もいない状況であった場合、いちいち言わなくとも相当不安とかプレッシャーを感じるであろうことがわかるでしょう。それに対して別の人が最初の人と同じ現実の状況でも、その人は別に正社員でなくともいい、彼女もいなくともいいし、この際友達もいなくてもいいという風にいつも考えている人だったら、明らかに最初の人よりは精神的には満ち足りてそうな気がします。

 こんな具合に、「自分が本来あるべきだと思う像」と「自分の現実の状況」の差が大きければ大きいほど人間は不安に感じ、その不安がある種の臨界点に達することで人間は自殺に走るというパターンのことを「自己本位型自殺」と呼びます。
 基本的に自分像というのは個人々々が持つものではありますが、その形成過程は周りから得られる情報に大きく依存しており、たとえば周りの友達皆が大型テレビを持っていたり、皆で結婚をし始めたりしたら、「俺って遅れてんじゃね?(;゚Д゚)」と大抵の人は思ってしまいます。それに対して周りがみんなテレビを持たなかったり結婚もしていなければ、「まだテレビと結婚はいいや(´ー`)」という風に覚え、こんな具合で人間、それも日本人や韓国人みたいに横並びが大好きな民族は周囲の情報によって自分像を大きく変えていきます。

 中にはそれこそ自分一人で、「マツダロードスターさえあれば他に何も要らない」とか「三食食えればそれでいい」というように周囲に影響されずに自分像を確立させてしまう人もいますがそんなのは極少数で、大抵の人は「他の人はああなんだから自分だって」と考えて、皮肉な言い方をすると自分で自分を縛ってしまいます。これが不況期であれば職を失って生活が苦しくなる現実に対し、「なんで自分は仕事がないんだ」というように覚えることから自殺に走り、好況期であれば職があるものの、「周りはあんなに稼いでいるのに何で自分の稼ぎはこれっぽっちなんだ」というように覚えて自殺に走ると、大まかに説明すればこんな感じになります。

 このデュルケイムの理論を援用すると、たとえ不況期であっても皆が皆で貧乏でそれが当たり前であれば、人間はそれほど自殺に走らなくなるということになります。言ってしまえばその通りで、そのような状況であれば少なくとも自殺にかんして、果てには生活上で受けるプレッシャーも少なくなると私は考えています。ここで私が何を言いたいのかと言うと、物質的な面より現代人は精神的な面でプレッシャーを受けやすく、その原因は格差というよりはその格差が見えてしまったり強調されてしまう現代の情報環境にあるといいたいのです。

 これは何も私だけが言っているわけじゃありませんが、日本は戦前から戦後にかけてと現代の状況を比べると、格差で言えば明らかに戦前戦後の方が大きかったです。現代は明らかにあの時代よりも物質的に豊かにもなっているにもかかわらず、テレビをつければみんなで格差格差と連呼し、格差社会の是正が声高に叫ばれています。確かに格差自体は問題ですし是正すべき問題ですが、あまりにも大きく取り上げて問題視することはそれ自体かえって問題ではないかと私は思いますし、また格差を取り上げるマスコミは言うに及ばず、その格差を強く認識してしまう社会自体も問題で、言ってしまえばただ生活する分には日本人も格差を気にしなければ精神的にはずっと充足して生活していけるのではないかと考えます。

 次回は一つそのモデルとなるかわからないですが、うちのお袋が昨日に酔っ払ってのたまった昔話をしようと思います。

ゴディバの話

 結局一度も入ったことはありませんでしたが、多分今もあるでしょうが京都の嵐山に「ピーピングトム」という名前の喫茶レストランが私がいた頃にはありました。この店の名前に私はなるほどと感心したのですが、このピーピングトムというのはベルギーの有名なチョコレートメーカーである「ゴディバ」が命名に使用したエピソードに出てくる名前で、わざわざそんなところからこんな名前を店に使うなんてなかなか洒落ていると思い、今でも折に触れて思い出したりします。

 そのゴディバの名前の由来となったエピソードですが、真実かどうかまではわかっていないものの、昔イギリスのある地方の領主様がその地域の領民に重い税金をかけて苦しめていたのをみて、その領主の后のゴディバが税金を軽減するように領主に訴えたところ、「お前が裸で街中を馬で駆け巡ったら軽くしてやるよ」と、セクハラ親父さならがらの無茶な要求を出してきました。
 ゴディバもさすがにこの無茶な要求にはしばらく頭を抱えて悩みましたが、領民のためを思い、ある日ついに決心をして本当に裸で馬に乗って街中に繰り出したのです。そんなゴディバの心境を領民も察し、ゴディバが街に繰り出すや家々の窓や戸を閉め、ゴディバを辱めないよう皆でその姿を見ないようにしたそうです。しかし仕立て屋のトムだけは好奇心に負けて隙間から覗いた所、この様子を見ていた神様が神罰としてトムの目を失明させたそうです。こうしたゴディバの決死の行動を受けて領主も税金を軽くしたそうなのですが、神様もトムの目を失明させるくらいなら始めから領主に神罰を与えりゃよかったのに……。

 ここまで言えばわかると思いますが、一人だけ覗き見したトムを揶揄して「覗き見トム」こと、「ピーピングトム」という言葉が出来、日本語的には「覗き魔」とか「出場亀」「田代」といった意味で使われています。なかなか小憎らしいネーミングで件の嵐山の喫茶レストランには興味を持っていたのですが、結局行かずじまいで京都を去ってしまいました。
 このエピソードの発祥地はイギリスのコヴェントリーという田舎町なのですが、実を言うとイギリスに旅行をした際に私はその町で一泊した事があり、町の真ん中にあるでかいゴディバ像が建っていたのを見ています。ピーピングトムという言葉も、そこで初めて知りました。

 そんなわけでこのゴディバのエピソードにはそこそこ詳しい自信もあるのですが、この前ふとしたことから領主に諌言したのがゴディバではなく男の大臣とかだったらと妙な想像をしてみたのですが、そしたらやっぱり同じように「裸で走って来い」とか言われて、大の男が「うおー、俺の股間の下は暴れ馬っ!」とか言って町の中を疾駆したのでしょうかね。もしそうだとしても町の人たちも言われなくたってゴディバと同じように窓を閉めただろうな、これだと。

2009年3月13日金曜日

私がスプラッターを好んだ理由

 別に今日に狙いを定めていたというわけではないのですが、私は四歳くらいの幼児の頃からスプラッター映画、っていうかジェイソンでおなじみの「十三日の金曜日」シリーズが大好きで、当時はよくテレビでもロードショーがされていたのでしょっちゅう毛布にくるまって恐がりながら見ていました。何でそんな小さな頃からよりによってこういう映画が好きだったのかというと、今でもそうですが当時は多分、あまりお目にかかれないような珍しいものがともかく好きだったのでそういった物珍しさ(流血なんてそうそうないんだし)から見ていたと思うのですが、小学生になった頃にはなんとなく別の意味も持ってきていたと思います。

 その別の意味と言うのもスプラッター映画特有の残虐性というかアンハッピーな情景や結末というもので、そういったものに対して人一倍強い興味を抱くようになりました。今もそうですが、小学生くらいの頃からテレビやマンガは何でもかんでもハッピーエンドで終わり、最後は皆で幸せになるという描き方に対してなんとなくうそ臭いような気持ちを覚えていき、むしろ世の中そんなに甘くないんだし、最後はどうあがいても救われないという話の方が現実に近いように思えてきたからです。
 我ながらこんな風に考える辺り当時から自分が斜めな性格をしていたのだなという気がしますが、一応成人になったいまでもこうした考えが大きく変わっているわけではなく、血を見るのが苦手でテレビドラマの外科手術シーンの出血描写だけでもくらくらきちゃいますが、残酷な描写のあるホラー、スプラッター映画を始めとして「ヘルシング」や「エルフェンリート」といった描写の激しい漫画も好んで見ています。

 もともとそのような残酷な情景のことを「グロテスクな」という表現がよくなされますが、このグロテスクという言葉の和訳は「生々しい」という意味で、いわば「現実に近すぎる」という意味合いなので、現実というのは本来残酷で見るに絶えないという意味なのかもしれません。
 別にこれに限るわけじゃないですが、私は何事に関してもうそ臭いのは嫌いです。それを言ったらB級ホラー映画自体がうそ臭さの権化みたいなものですがそれはそれでおいといて、普段見るテレビのニュースやドラマで描かれる世界というものに対してこのところそのようなうそ臭さを強く感じる様になってきています。

 だからと言って現実に近い話をドラマ番組として放映したところで、つまらない話だったり後味の悪い話ばっかりになって視聴率も稼げないでしょうが、それでも私は吐き気を催すような現実というものを見ていたいと常日頃思ってしまいます。そんなんだから漫画の「カイジ」も好きなのかな。

2009年3月12日木曜日

満州帝国とは~コラム 張学良

 私が近現代で最も尊敬している人物は今村均氏と水木しげる氏ですが、もし日本人以外でというのならばといのなら私は必ず張学良氏の名前を挙げるようにしております。今日はそういうことで、満州帝国の連載コラムとして張学良氏個人について解説をしようと思います。

 日本史を勉強した方で張学良氏の名前を知らない方はまずいないでしょう。前回の「張作霖爆殺事件」で紹介したように、張学良氏は戦前の中国東北部の軍閥の長であった張作霖の息子として生まれ、張作霖の死後は彼の後を継いで軍閥を率いて蒋介石軍に投降をしました。
 実は前回から「張作霖」の名前には「氏」をつけずに張学良氏にはずっとつけていますが、これは張作霖は時代が大分過ぎていることから歴史上の人物と捉えているからで、張学良氏についてはまだ歴史というほど古い人物ではないと判断しているためです。

 この話をすると驚かれる方が非常に多いのですが、張学良氏はほんの八年前の2001年まで存命しており、この年に満百歳でハワイにて死去しています。この死亡年と年齢から察しのいい人はお分かりでしょうが、張学良氏は二十世紀の始まりの年である1901年に生まれて二十一世紀の始まりの年である2001年に死去し、丸々20世紀という時代を生きて去っていったということになります。さらには1901年という彼の誕生年は、もう一人の20世紀の日中史を代表する人物である昭和天皇と同じ誕生年でもあります。本当に偶然と言えば偶然なのですが。

 さてこの張学良氏が何故日中史において私が重要であるかと考えるかですが、結論から言えば第二次国共合作の立役者であるからです。
 満州帝国の本連載では次回にようやく満州事変を取り上げますが、この満州事変によって中国東北部から張学良氏は強制的に支配地域から追放され、以後しばらくは蒋介石の国民党の下について西安にて共産党の討伐軍を指揮していました。しかし共産党と戦いつつも張学良氏は、今は中国人同士で戦っている場合ではなく一致団結して日本に立ち向かうべきではと考え、極秘裏に共産党の周恩来と会って共闘の道を探り始めていました。そうした中で起きたのが、あの西安事件です。

 西安に視察に来た蒋介石に対して張学良氏は共産党と国民党の共闘を打ち出しますが、当初蒋介石はこれを拒否します。すると張学良はなんと自分の上官である蒋介石を逮捕、監禁し、再度共産党との共闘を脅迫するような形で提案しました。そしてこうした張学良氏の動きに恐らくは示し合わせての行動でしょうが、共産党からも周恩来を始めとした幹部が西安に入って蒋介石との会談を持って合意を作り、蒋介石としては内心忸怩たる思いがあったでしょうがここに第二次国共合作こと、中国において統一された抗日戦線が張られるに至りました。

 私は太平洋戦争はまだしも、日中戦争は紛れもない日本の侵略だったと考えております。そしてこの日中戦争において日本は中国の各主要都市を陥落させはしたものの、もとより占領政策が非常に下手だったこともあり結局大きな勝利を得ることなくアメリカとの戦争に突入して結局は敗北しましたが、もしこの国共合作がなければ、日本は中国に対して最終的に勝利を得ることはなかったでしょうが少なくとも最後まで落とせなかった重慶なども陥落させ、現実の歴史以上に中国の奥深くまで攻め込むことが出来たと思います。そういう意味で、この張学良氏の捨て身の行動は日中戦争における非常に大きなターニングポイントとなったと高く評価しています。

 しかしこの張学良氏の捨て身の行動は彼自身に大きな代償を伴い、上官を捕縛したことから軍法会議にかけられ懲役刑を科せられて軟禁状態にされ、更には日中戦争後、国民党が共産党に破れると張学良氏も台湾に渡りましたが、やはり相当恨みに持たれていたのか蒋介石によって台湾でも軟禁され続けました。蒋介石の死後は徐々に行動の自由も認められていったそうですが、軟禁年数は実に50年以上にも及びました。
 その後台湾の民主化によって1991年(90歳)に軟禁処置が解かれますが、張学良氏にもいろいろと思うところがあったのか、そのまま台湾には残らずハワイに渡って残りの人生を過ごしました。

 この張学良氏の現存する記録としては1990年に行われたNHKの取材が最も代表的ですが、この時の取材にて西安事件の後に自らの身の危険を考えなかったのかという質問に対し張学良氏は、
「あの時に日本と戦うためにはどうしても強い指導者が必要で、その条件に当てはまるのは蒋介石しかいなかった。だから国共合作後も私は彼を担いだのだ」
 と答えています。

 こうした彼の行動や功績から私は張学良氏を深く尊敬しているのですが、台湾ではどうだかわかりませんが本家中国ではどうやらそれほど高い評価を受けているわけではないようです。私も留学中に非常に知識のある中国人の方(何故か西郷隆盛まで知っていた)に話を聞きましたが、特段評判のいい人物でもなく、国共合作自体が張学良氏の功績だとはあまり言われていないようです。
 実際に私も中国に行ってから気づいたのですが、よく日本にいると中国人は一連の反日運動から日本のことを世界で一番嫌っているように思う方が多いかもしれませんが、実際には台湾への憎悪の方が強いように思えます。中国の歴史教育などでも日中戦争以上にその後の国民党との戦争の方がより詳しくかつイデオロギー的に書かれており、結局戦後は台湾に渡ったことを考えると張学良氏のことを大陸の中国人がよく言うはずがないという気がします。

 そのため一番最初にリンクに張った張学良氏のウィキペディアの記事中の最後部にある、「中国では千古の功臣、民族の英雄と呼ばれている」という記述には首を傾げてしまいます。なんか出典を出せというタグが貼られていますが、私もあるのなら是非見てみたいものです。

2009年3月11日水曜日

満州帝国とは~その五、張作霖爆殺事件

 戦前の日本において本格的に軍が国の主導権を握るようになる国内の最大のターニングポイントは二二六事件であることに間違いありませんが、国外における最大のターニングポイントとくればやっぱり満州事変ですが、その満州事変の嚆矢とも言うべき事件こそがこの張作霖爆殺事件だと私は考えております。

 この事件が起こる直前、中国では蒋介石率いる国民党がそれまでバラバラに各地域を支配していた軍閥を次々と打ち破り、清朝崩壊以後の混乱を納めるべく「北伐」を実行していました。こうした中、蒋介石の軍と戦って敗北するなどして北京周辺の軍閥の勢力が弱体化したのを見て、当時満州地域を支配していた軍閥の長である張作霖は中央に進出する好機と見て首都北京を制圧するも、結局北上してきた蒋介石軍によって完膚なきまで叩き潰され、ほうほうの体で自分の支配地である満州へと逃げ帰ろうとしていました。
 しかしその逃亡の途上、奉天郊外の鉄道駅にて張作霖の乗った列車が爆破され、即死こそしなかったものの張作霖は暗殺されてしまいました。この事件の犯人について当時はあれこれ意見が分かれたものの、現在、というより当時からも日本が保持する満鉄の守護部隊こと、関東軍の河本大作が実行したものだと確実視されていました。

 まず何故張作霖が関東軍に殺される羽目となったかですが、これは単純に日本と張作霖の仲が割れたことによります。日本としては張作霖を満州地域で様々な援助を行って彼を操ることで満州における日本の権益を確保しようと意図したもの、当の張作霖は援助を受けはするものの必ずしもそうした日本の意図どおりに積極的に動いてはきませんでした。
 こうした張作霖の態度に日本の外務省や関東軍は次第に苛立ちを覚え、あまつさえ日本の勧告を受け入れずに北京などの中央地域にまで支配を拡大しようとしたことから、この際張作霖を殺してほかの実力者を操るべきだと言う声が彼の生前から各所から上がっていたようです。またこの頃から関東軍内では後の満州帝国の建国計画が持ち上がっており、その計画を実行するに当たり張作霖が障害になると目されたのも、彼が暗殺される事となる大きな理由となりました。

 このような日本の謀略の元、張作霖の暗殺は実行に移されました。
 ただこの暗殺実行について主犯が関東軍の河本大作大佐によるものとは当時の証言からもはっきりしているものの、日本政府が指示したかどうかまでははっきりしていません。まぁ私の見るところ、この後の関東軍の行動を見ても河本大作を始めとした関東軍内で独自に実行されたと見るべきだと思います。
 またこの事件は日本国内には「満州某重大事件」という名前で報じられましたが、この事件の処理をめぐって当時の総理大臣であった田中義一は関係者の処分をしようとすれば陸軍から強い反対を受け、その後の中国との外交方針も二転三転したことから昭和天皇に厳しく叱責されるまで混乱したのを見ると、日本政府の関与はやはり少なかったと思えます。

 なおこの時、若くして即位した昭和天皇はこの事件について報告が二転三転したことから田中義一首相を強く叱責、それこそ怒鳴ったとまで一部でも言われているほどで、この叱責を受ける形で任務をもう続けられないと田中首相は辞任し、その三ヵ月後には既往の狭心症によって亡くなっています。
 昭和天皇は既に当時に一般化していた美濃部達吉の天皇機関説に反し国政に天皇である自分が強く意見を主張して、挙句には田中首相を遠まわしに死へと追いやってしまったことを非常に後悔し、以後は自分の意思というものを全く表に出さなくなったと言われています。唯一の例外として終戦直前の御前会議がありますが、この前読んだ雑誌記事によると、死の直前に病院内にて水あめをとてもおいしそうに食べているのを見て医師がもう一つ如何でしょうかと薦めたら、「いいのかい?」とうれしそうに返事をして食べたエピソードが紹介されていました。思うに戦後の昭和天皇は、食事をおかわりしたいという意志すらも出していなかったのではないかと思えるエピソードです。

 話は戻りますがその後主犯の河本大作は責任を取る形で辞任し、満鉄に再就職し、結構不気味なのですが満州帝国が崩壊した戦後も中国に残り続けて国民党に協力し、最後は共産党に捕縛されて中国国内の収容所で死去しています。これまた私の意見ですが、恐らくこの人は日本に戻ったところで居場所がないと考えていたのではないかと思います。甘粕正彦もそんなところがあるし。
 そして張作霖死後の彼の軍閥はと言うと、鉄道爆破によって重傷を負った張作霖は部下たちによって秘密裏に自宅へと運ばれそのまますぐに息絶えましたが、彼の第五夫人は彼の死を隠し、自分の息子ではない張学良氏が後を継げるよう様々に根回しをして実現させた後にようやく事実を公表しました。そうして張作霖の跡を継いだ張学良氏は父親を殺された怒りから日本の予想とは打って変わり(張作霖より日本の言うことを聞くだろうと見ていた)、早々に蒋介石に降伏して彼の配下となることで満州の支配権を認められ、日本に対して敵対的な政策をその後次々と実行していきました。

 この張学良氏の降伏を受けて蒋介石の北伐は完了し、毛沢東率いる中国共産党のゲリラ活動を除けばひとまず中国は統一されて、これで安定した秩序が生まれるのではないかという期待が徐々に膨らんできていました。しかしこの統一を快く思わなかったは日本と関東軍(ついでに中国共産党)で、これまで混乱状況にあったからこそちまちまとした工作をしてきたものの、このままではまずいという危機感から徐々に過激な、そして強引に自らの計画を実行していくことになります。そういうわけで次回は前半のハイライト、満州事変を取り上げます。
 にしても、まだ前半かよ……。

2009年3月10日火曜日

二階俊博議員への捜査の広がりについて

 多分今朝の朝刊一面はどこも、自民党の二階俊博衆議院議員にも例の西松建設の献金問題にて疑惑が波及していることに言及していると思うので、今日は敢えてニュース記事へのリンクは省きます。
 そうした今日の新聞やテレビなどの報道によると、今回の小沢氏の秘書が逮捕されるきっかけとなった西松建設OBが代表を務めていた政治団体が二階氏の政治資金を集めるためのパーティーへの参加券こと、通称「パーティー券」を約800万円分も購入していたようで、この購入の事実について二階氏は認めた上で、特に西松建設に便宜を図ったこともなければパーティ券を購入したその政治団体が西松系列だということすらも注意していなかったと追求されている疑惑を否定しています。

 実を言うと私はこの二階俊博氏のことを以前から高く買っており、現役の政治家として非常に高い能力を備えていて、党運営などの実力だけなら一、二を争うような議員だと認識しておりました。多分あまり表に出ていないし私の方でもきちんと裏を取っていない情報なのですが、小泉政権が大勝したあの9.11選挙にて刺客候補の擁立や各地域の選挙運動などの演出を行ったのはなんとこの二階氏で、事実上のあの選挙の勝利の立役者であったとまで言われています。
 というのも本来選挙の要となるはずの幹事長は当時はタフさだけしか取り柄のない武部勤氏で、また小泉下総理の懐刀といわれた元秘書の飯島勲氏はメディア対策などでは非常に手馴れていたものの選挙には特別造詣の深い人物だとは言われておらず、選挙が行われた当時から私は一体誰がこの選挙を作ったのかとずっと気になっておりました。

 そうやっていろいろと当時の選挙の状況について調べていると、どうもあの選挙を演出したのはこの二階氏であるという情報をある日耳にすることが出来ました。その情報を得てからあれこれこの二階氏を調べてみると、確かに選挙当時に二階氏は選挙対策を行う総務局長の役職についており、また選挙においては自民党でも屈指の人物であるという評論を得てますますその情報に確信を持つように至ったのですが、その「選挙に強い」と言われる理由というのも、かつて二階氏が小池百合子氏同様に小沢氏の側近中の側近だったというからなおさら合点がいきました。

 そんな二階氏の経歴を簡単に説明すると、二世議員として父親の後を継いで自民党から政治家になるとすぐに小沢氏を師事する様になり、小沢氏が自民党を下野した際は一緒についていってその後活動をしばらく行動を共にするものの、小渕政権末期にて小沢氏が当時党首を務めていた自由党が連立与党から離脱するとそれに異を唱えて小池百合子氏同様に分派する形で保守党を作り、その保守党が自民党に吸収される形で現在のようにまた元の鞘の自民党に戻ったわけです。
 小沢氏と袂を分かつまでは二階氏は文字通り無二の忠臣だったそうで、当時から選挙に強いと言われた小沢氏の選挙手法を間近で学んできただけあり選挙について裏の裏まで熟知していると言われ、それゆえにあの郵政選挙も成功に導くことが出来たと言われております。

 その二階氏が今回の小沢氏の秘書逮捕の余波を受けて疑惑がもたれていることについて、こんな言い方をするのもなんですが何故どこも、「あいつは小沢と昔つるんでいたから、小沢と同じ所から同じ違法な献金をもらっていたのも不思議じゃない」という評論が聞こえてこないのがかえって不思議です。ワイドショーのネタ的には決して悪くはないし、因果関係的にも強い話だと思うのですが、マスコミも何か考えがあるのでしょうか。
 ただこんなこと書いといて言うのもなんですが、二階氏も小沢氏同様にこの件ではシロだと私は見ています。というより今この段階で二階氏が突き上げを食らうのを見て、その考えが強くなりました。

 話の組み立てはこうです。まず二階氏の政治団体が小沢氏の資金管理団体と同様の手法で献金を受けていたのであれば、何故検察は小沢氏の秘書だけを先週にいきなり逮捕したのかになります。確かに政治団体と資金管理団体であれば政治資金規正法の枠が変わってきますが、違法な献金の手法と目される手法で献金を受けていたのであれば本来ならば同時に捜査されてしかるべきで、何故秘書の逮捕から一週間後の今になって急に思い出したかのように二階氏の名前が出てくるのかになります。

 そしてもう一つ、何故自民党の中で最初に二階氏がこの疑惑の波及を受けたかです。実はこれが肝心なのですが、二階氏は問題となった西松建設系の政治団体に約800万円分のパーティ券を購入してもらっていたため、他の献金を受けていた自民党議員と比べても額が突出しているから疑われている、というニュアンスで今隣で放映されている報道ステーションは言っていますが、これだと明らかなミスリードになります。というのも、自民党の尾見幸次議員は問題となった政治団体からなんと1200万円も、しかも二階氏と異なりパーティ券ではなく現金にて直接献金を受けております。更に更にこの尾身氏の場合は沖縄及び北方対策担当大臣時代にも献金を受けており、東北地方に地盤の強い西松建設からすると北海道での公共工事に一枚かませられる立場にあった人物でもあります。(この一帯の情報源は3/8の「サンデープロジェクト」より)

 二階氏より明らかに額も疑惑も問題性も強い尾身氏を飛び越えて二階氏がこうして槍玉に挙げられるのは何故か、この辺にきな臭さを私は覚えます。考えられる理由としては二階氏は前述の通りにいわば外様の立場で、自民党内の派閥争いに絡めて尻尾きりにあったか、もしくは私が指摘したようにかつての小沢氏との関係を取りざたされる前に検察に自民党から差し出されたか、ではないかと一応は予想しておきます。
 どちらにしろ今回の事件はこうした明らかに怪しい人間が放っておかれておきながら、与党でないために公共工事の口利きが出来ない小沢氏や、与党ではあるもののなんとなく中途半端に怪しい二階氏が槍玉に挙げられるなど、何度も言っているように国策捜査の臭いがプンプンします。これまた何度もこのところ言っていますが、私は小沢氏のことがあまり好きではないものの、もし本当にこれが国策捜査であればそれがまかり通ることだけは何がなんでも許せないために、検察がはっきりとした証拠を出すまで(前に政治団体への小沢氏秘書からの献金額の請求書が出たとか言われたが、その請求書の額がなかなか公表されないのが不思議です)は小沢氏も脅しに屈するような形で民主党代表を辞任すべきではないと強く覚えます。

2009年3月8日日曜日

「徹底抗戦」(堀江貴文著)を読んで

「徹底抗戦」(アマゾン)

 先週の小沢民主党代表の逮捕のニュースを受けて、私の頭にすぐに浮かんだのは「国策捜査」という言葉でした。この国策捜査という言葉を知ったのはいわずと知れた「外務省のラスプーチン」こと佐藤優氏の著作で、言葉の定義を簡単に説明すると、それまで曖昧でルールのないまま半ば黙認されていた事案に対し、国や検察が政策変更や世論の流れを受ける形で何かを無理やり事件化させることでルールの厳格化をはかる事案のことを指します。自らを国策捜査の対象とされたと自称し一躍日本にこの言葉を定着させた佐藤氏は、自分と鈴木宗雄議員の逮捕や捜査はこれまでの中央から地方へ税金をばら撒く形で公平分配を行うというやり方から、首都東京を始めとする都市にすべての資本と人材を集中して中央集権化を強める政策転換を行うということを内外に知らしめるため、小泉政権が党内の権力闘争に絡んで半ば象徴的に国民に見せ付けるために行ったものだと主張しています。

 このように国策捜査というのは、今度また細かく解説はしますが何らかのルール変更や制度の厳格化を行う前段階に起こるものとされ、その性格ゆえに捜査過程を検察が強く見せるという傾向があるとされます。近年に起こった国策捜査の例として佐藤氏があげているのは、村上正邦元議員のKSD事件、自分や鈴木宗男議員の「ムネオハウス事件」(こっちはむしろインターネット事件史としてみたらいろいろと面白い)、そして今回書評を行う本の著者である堀江貴文氏の「ライブドア事件」です。

 一番最初にリンクに貼ってあるのは昨日に私が買った堀江貴文氏が書いた、「徹底抗戦」という本のアマゾンのページです。この本はフジテレビ買収事件から逮捕、拘留の期間を含めた現在までの堀江氏の心境をつづった内容で、全体の感想をまず言えば読んでてなかなか面白かったです。
 それで肝心のライブドア事件についての堀江氏の心境ですが、この本の中では始めから最後まで徹底して自らは無罪だと主張しています。捜査されることとなった子会社との架空取引などについて何が容疑とされて何が違法とされたのか、それに対してどうして自分が無罪だと考えるのかなどが細かくつづられていますが、ぶっちゃけかなり細かい話なのでここでは省略します。

 ただ堀江氏の主張の中でも私が強く納得したのが、強制捜査後に日本の株価が大きく下落したライブドアショックについての堀江氏の反論です。本来ああいうような強制捜査は投資家心理に与える影響が強いので、株価が大きく下落して株式市場に混乱を起こさせないために海外などでは金曜日に行われるものだそうです。そうすれば市場が閉まっている土曜日と日曜日に投資家は頭を冷やすことが出来、捜査による市場の混乱と無用な株主の損失も最小限に止められるのですが、このライブドア事件では週始めの月曜日に捜査が行われ、案の定翌日の東京証券市場ではライブドアショックと呼ばれる大幅な株価下落が起こりました。しかも堀江氏も突っ込んでいますが、当時の東京証券取引所のシステムは世界的に見ても非常に貧相なシステムで、一日五万件しか取引が行えないために途中でシステムがダウンしたことで当時の混乱と株価下落に拍車をかけました。

 こうしたライブドアショックによって堀江氏と法人としてのライブドアは、もう結審したかどうかまでは調べていませんが、ライブドアの元株主などに株価下落による損害賠償請求まで起こされ、刑事裁判でも堀江氏は「市場を無闇に混乱させた」などとこの件が批判材料にされましたが、仮に自分の全財産を出したところでこの時の損失をすべて補填することは出来ず、こうした事態が予想できたにもかかわらず月曜に強制捜査を行った検察と貧相なシステムゆえに混乱に拍車をかけた東証に対してそこまで責任を持たなければならないのかと反論しており、この点については私も深く同意します。

 そしてこの事件で堀江氏は逮捕されて拘置所に収監されるのですが、堀江氏は拘置所生活で何もできない、というより人と話すことが出来ないのが非常に辛かったと語っています。私の目からしても堀江氏の性格で狭い場所に閉じ込められていたらそりゃ相当苦痛だろうと思いますが、本を差し入れられてもすぐに読んでしまい、それでいて狭い部屋で一日何時間も何もすることなく置かれるということに現在も強い恐れがあるとして、今後裁判が進んで懲役刑が確定するにしてもできるならば早く刑務所に移送してもらって労務作業をしていた方が絶対マシだとまで述べています。
 よく無人島に漂流した場合、食料や衣服があるとしても人間は誰かと話をしなければ精神的に追い詰められて簡単に死に陥るという話がありますが、私のイメージ的には拘置所の生活もそんな感じなのだと思います。そんなもんだから検察官との取調べですらまだ会話が出来るので歓迎したとも堀江氏は述べていますが、こうした精神的プレッシャーを与えて筋書き通りに供述させるのが検察の常習手段だと、同じ経験をした佐藤優氏とこれまた同じ内容の言葉を述べているのが印象的でした。

 なおこの本でも名前が出てきますが、やっぱり同じ経験をした仲ゆえか堀江氏と佐藤氏はこれまで何度か対談を催しています。これは佐藤氏の本に書かれていた内容ですが、嗜好品などは拘置所内でも自費で払えば買えるらしいのですが、その購入リストには「メロンの缶詰」というものがあるらしく、変わっているしおいしそうだと思って頼んでみると実際の中身はとんでもなくまずいものだったと、二人とも意見が一致したそうです。そのほか通常の食事では白米ではなく麦飯が混ざったご飯が出されるそうですが、最初は戸惑うものの慣れると非常においしくてやみつきになるという点でも一致したそうです。私から付け足しておくと、出所直後は痩せてすっきりして男前になったのに、現在ではまた元のまんまに太ってしまったのも一致してます。

 こうした拘置所体験から出所後の生活、そして現在の裁判の状況とそこでの自身の主張についていろいろこの本ではまとめられていますが、あの逮捕から三年後の現在になって読んでみるといろいろと私の中でも思うところやこれまでの考えを改める内容がふんだんに盛り込まれています。特に堀江氏の人生観についてですが、私自身は今もそうですがちょっと目先が短すぎてあまり好きになれないところがあるのは変わりませんが、世界一の企業を作って後は民間での宇宙開発に残りの人生をささげるという目標に対して堀江氏が従順に努力をしてきたという事実には正直に頭の下がる思いがしました。
 そして日本の司法制度についても、検察が捜査権と訴訟権を持つのが問題で、彼らから捜査権を奪わなければどんな犯罪も作り出せてしまうと言っているのは時期が時期だけに核心を突いたことを述べており、また逮捕後の過剰なバッシングにも触れて日本のマスコミは検察とグルになっているとして、電話内容を無断で録音されたなどの実例を挙げて批判しているのは、今後の小沢氏の事件を考える上でも重要な指標になってくると思います。

 なんかこのところ文章のノリが急激に悪くなっていますね。今度辺りちょっと趣向を変えた記事でも書いて、心機一転をはかってみようかな。