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2009年4月12日日曜日

満州帝国とは~その九、甘粕正彦

 前回に引き続き人物伝です。今日取り上げるのは映画「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じたことで有名な、満州の夜の帝王と呼ばれた甘粕正彦です。
 甘粕は大学受験レベルでの日本史でも大きく取り上げられておりこの科目を受験した人ならばまず誰もが知っているであろう人物で、関東大震災の混乱のどさくさに紛れて無政府主義者の大杉栄とその内縁の妻であった伊藤野枝、そしてわずか六歳の大杉の甥をその思想信条が将来政府に仇なすであろうことから甘粕の独断で殺害したという、俗に言う甘粕事件の犯人として紹介されています。

 しかしこの甘粕事件については発生した当時からも甘粕正彦が犯人ということ事実は世間から疑問視されていたようで、この連載に使用した資料は最後にまとめて紹介する予定ですが、この甘粕正彦についての資料である去年に出版された佐野真一氏による「甘粕正彦 乱心の曠野」にはその辺りの詳細が詳しく載せられています。

 まず事件発生当時からあった矛盾点として、事件の発端となった大杉らの拉致と殺害に際して甘粕とともに実行した憲兵らは所属で言えば甘粕の部下に当たらず、いくら関東大震災の戒厳令下とはいえ上意下達が厳守されている憲兵組織の指揮系統上、また甘粕自身がこうした憲兵内の軍規に対して忠実な人間であったことから事件に関わった憲兵らを命令することは不可能と見られていました。
 そしてこの事件の甘粕犯人説を否定する決定的な証拠は、戦後になってから発見された大杉らの死亡鑑定書と甘粕の逮捕後から裁判中の供述の食い違いです。甘粕は逮捕後の供述にて取調べ室内で椅子に座っていた大杉の背後から首を絞め殺害し、その後同じ手段で伊藤も殺害したと供述してますが、両者の死亡鑑定書によると執拗な暴行を加えられた上での絞殺となっており甘粕の供述とは明らかに異なっております。

 こうしたことから裁判中も甘粕の弁護士は、真犯人の罪を被ろうとせず真実に基づいた供述をするよう甘粕本人に対して促す質問を繰り返しています。そうした一連の質問の中で、私が最も心を動かされた質問は以下の質問です。

「甘粕大尉、あなたは上杉謙信の部下として川中島の戦いでも活躍した甘粕近江守の末裔であり、勤務には実直でよく部下を可愛がるなど柔和仁慈の者であるあなたがわずか六歳の少年の殺害という残虐な行為を行うとは考え辛く、さらには天皇の名で裁かれる法廷にてわが国の武士道を汚すような虚偽の証言をするはずがない」

 この質問文はさきほどの「甘粕正彦 乱心の曠野」から引用したものですが、整理がつきやすいようにとそのまま引用せずに結構大胆に脚色しております。ちょっと話が外れますがこの質問に出てくる甘粕近江守というのは、今NHKでやっている「天地人」にてパパイヤ鈴木氏が演じている甘粕景持のことで、この人物が甘粕正彦の祖先に当たります。(申し訳ありません。パパイヤ鈴木氏が演じているのは甘粕景継で、この人は甘粕景持の親戚でした。訂正してお詫びします)
 話は戻り弁護士は甘粕に対し大杉、伊藤はともかくとして罪無き子供まで殺したとは考え辛く、誰か部下の罪を被っているのではないのかと再三問い詰めました。これら一連の質問に対して甘粕は「無意識に子供も殺した」と答え続けるものの弁護士の追及はやまず、一時休憩が挟まれた後に甘粕は最後こう答えています。

「大杉、伊藤の両人を殺したのは考えがあったことからです」

 こう述べた後、甘粕はすすり泣きながら続けました。

「部下の者に罪を負わせるのは忍びませんので、ただいままで偽りを申し立てておりました。実際は私は子供を殺さんのであります。菰包みになったのを見て、はじめてそれを知ったのであります」

 この下りは何度読んでも胸がつかえる思いがします。この甘粕の証言の後、では一体誰が大杉の甥を殺害したのかという質問について甘粕はわからないとの一点張りで、最終的には甘粕と共に逮捕された憲兵が実行したと裁判中に供述しすることでうやむやのうちに結論がつけられています。

 こうした経緯がありながらも裁判は結局甘粕の主犯によるものということ決着し、甘粕へは懲役刑の判決が言い渡されて結審しています。そして甘粕は出所後はまるで人目から遠ざけられるように陸軍よりパリへと留学させられた挙句、周り回って満州の関東軍内で謀略を巡らす機関の責任者にもなり、以前の記事にて紹介したように満州事変時に日本領事館へと爆弾を投げ込んでこれを中国軍によるものとして戦火を拡大させ、事変後の満州政府の設立のためにラストエンペラーの溥儀を迎えるなど歴史の暗部で活躍を見せることとなりました。

 そして満州事変後、甘粕は請われて満映こと満州映画協会の理事長となり、映画の「ラストエンペラー」ではこの時の甘粕が登場しています。もっとも映画ではさも悪人のように描かれていますが実態は少し違っていたようで、会社の金を役員が平気で持ち出していた放漫経営を叩き直しただけでなく、日本人社員と中国人社員で大きな差のあった給料額を平等にするなど格差是正に努めていたそうです。実際にこの時満映に属していた森重久弥氏や山口淑子氏は甘粕について好意的な証言を寄せており、無口で一見恐そうな印象(この時の写真を見ると私からしても恐そうに思える)をしているが周囲に対しては人一倍気を使う人で非常に優しい人物であったと述べています。
 またこの満映時代、甘粕は自身の運命から思うところがあったのか、日本で左翼活動をしていたとして社会から弾き出されていた運動家等を非常に多く満映に招聘しています。

 最終的には終戦と共に甘粕は幼い子供を残して青酸カリを含んでの自殺を遂げていますが、「甘粕正彦 乱心の曠野」の書評にて佐藤優氏は、忠実であるがゆえに歴史に一生を翻弄された官僚だと、多少自分と重ねるような評価をしているのかもしれませんがこの意見に私も同感です。先ほど挙げた矛盾点からわかる通り、専門家らの間で甘粕事件の犯人は甘粕ではないだろうと見られているものの、現在も中高の教科書にて凄惨な事件を起こした冷血な犯人として書かれているというのには不憫に思えます。

2009年4月7日火曜日

満州帝国とは~その八、石原莞爾

 大分ブランクが空いての連載再開です。正直に言って私自身もこの連載に少し飽きてきているところがあり先週に展開したインドの旅行記を優先させたくらいです。もっともこれからは時系列的な話から開放されてトピックスを絞って解説できるので、しばらくしたらまたやる気が出てくると自らに期待はしていますが。
 そういうわけで、今回から紀伝体調に人物を絞って解説を行っていきます。その栄えある第一回目はまさに満州帝国の生みの親こと石原莞爾についてです。

 この石原莞爾については有名人ということもあって、私がここで多くを語らなくとも情報が数多く溢れている人物なの今日はちょっと加工した情報を展開してみようと思うのですが、まず生まれは東北の山形県で小さい頃の家は非常に貧乏だったそうです。しかし石原は幼少時より頭脳は明晰で数えで16歳の頃に東京の陸軍幼年学校に進学をするのですが、なんでも上京して初めて図書館という施設があることを知り、「タダで本が好きなだけ読めるのか」と言って貪る様に読書をしたそうで、向学心は幼少より相当に高かったことが伺えます。

 そうして士官学校を卒業後、連隊に務めながらエリート選抜学校でもある陸大にも入学し、その後回り回って満州にある関東軍参謀として駐在中、あの満州事変を板垣征士郎と企図、実行し、短期間であの広大な満州全土を占領してしまうなど戦果的には大きな功績を残すものの、その後戦線が広がった日中戦争には不拡大の姿勢を見せたことによりかねてから仲の悪かった東条英機によって左遷を受けています。
 この東条との関係ですが、同じ陸軍内に在籍しておきながらそれこそ犬猿の仲と言うほどに悪かったそうで、両者のエピソードから伺える性格もまるで正反対なので無理もないことなのですが、なんでも部隊内の訓練時の際も正反対で、東条は前例に倣って一から十まで順序良く規律正しくなぞるように行進を行うよう指導したのに対して石原は、「いつも通りやれ」という一言で済ませていたそうです。

 また石原、東条の両者の元で部下を経験したことのある士官によると、その士官が陸大を受験しようと勉強し始めると石原はその士官の仕事の負担を途端に増やしたそうです。石原に言わせると幹部になればそれだけの仕事量をこなさねばならなくなるので、仕事量が増えたことで勉強時間が取れなくなって合格できないのであれば始めから受験しない方がいいという考えの元で仕向けたそうですが、これに対して東条の場合は逆に仕事の負担を減らして勉強時間を持たせるばかりかよく自ら相談に乗ってきたそうで、その士官によると人間的な温かみで言えば明らかに東条の方が上だったと述べていますが、こんなところまで正反対なんだから仲がいいわけないでしょうね。

 ここで本筋の満州についての話に戻りますが、石原はいわゆる「世界最終戦争論」という独自の理論こと未来予測を立て、将来に日本と覇権を争い必ず戦うであろうアメリカに対抗するために資源のある満州を今のうちに必ず占領しなければならないという目的の元で満州事変を計画したと言われています。この満州への石原の野心自体はいろんなところでも言われている意見なのですが、そうした一般の満州事変の解説において石原の最終戦争論は全く独自のかつ斬新な構想、といった内容の言葉をよく見受けるのですがこれについては私は疑問視しています。

 というのも佐藤優氏によると、一次大戦後は石原の唱えた最終戦争論のようないわゆるハルマゲドン説のような主張が世界各国で展開されており、石原独自の意見というよりは当時の大恐慌下において流行した思想だったそうです。この佐藤氏の話を私も細かく確認こそしていませんが、ちょっと前になくなったサミュエル・ハンチントン氏が出した「文明の衝突」のように、異なる文明同士が最後に大きく衝突することで後の世界が大きく変わるというような意見はそれこそ神話の時代から現在に至るまでよくあることなので、世界最終戦争論は石原独自の意見というより、石原が持った当時あった意見というのが本当のところなんじゃないかと私は思います。別にアメリカと衝突することを予測したのは当時の日本でも石原に限るわけじゃないんだし。

 ついでにもう少し話を進めると、石原が最終戦争論を持ったのは彼の信仰していた日蓮宗系の国柱会の影響があったとよく言われていますが、戦前の新興宗教の系統で日蓮宗の流れを受けて設立されたものはほぼすべてといっていいほど軍国下の日本政府に対して肯定的な態度を取っています。これなんかまた別の記事に細かく書いても面白いと思うのですが、当の日蓮自体は元寇を予言して日本は敗北すると言いまわったせいで流刑にまであっており、元寇での神風を期待した日本政府に対して日蓮宗系の宗派が協力的だったというのはなかなかに皮肉に思います。

 そんな石原ですが戦時中に東条と反目して左遷を受けたことにより、ある意味日本を最も戦争に引き込んだ最大の張本人であるにもかかわらず、東京裁判では訴追されないばかりか東条らの糾弾を行う立場の証人として出廷しています。この石原の東京裁判における去就については昭和天皇も相当に不快感を覚えていたらしく、「何故石原のような者が証人として(東京裁判に)出廷しているのか」とまで不満を口にしたそうですが、私自身同じ思いがします。

2009年3月28日土曜日

満州帝国とは~その七、建国

 前回の記事にて満州事変を解説したので、本日はいよいよ満州帝国の建国に至る場面を解説します。

 日本は自ら引き起こした満州事変を中国軍との抗争と称して、戦火を一挙に満州全土へ広げることによって実効支配の確立に成功しました。とはいえ第一次大戦後の当時には既に、国際連盟の加盟諸国の間等で「パリ不戦条約」といって、外交の駆引きに戦争という手段を用いないという取り決めが交わされており、満州時返事の日本の関東軍の行動は明らかにこれに違反するものでした。その結果、当事者である中国が日本の侵略行為だとして国連に満州事変を問題に挙げたことにより、事件の責任者を探るためにリットン調査団が国連から派遣されることとなりました。

 このような事態を、日本側も全く気にしていなかったわけではありませんでした。
 そのため半ばこの満州事変を既成事実化して日本の植民地として確立するため、事変を起こす前に関東軍内で様々な対策が練られた結果、欧米からの批判をかわすためにまず清朝の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、満州族、ひいては満州地域に住む日本、朝鮮、蒙古、漢族の五民族による自主独立国家を擬似的に作り上げる方針で計画を実行することに決めたようです。

 こうして日本は秘密裏に当時天津にいた溥儀と会い、計画を互いに持ち合いました。溥儀としても満州、ひいては中国の皇帝として再び即位することを考えていたようで日本の提案は渡りに船とばかりに承諾したようですが、建国後の地位として「満州国皇帝」に就任することに強いこだわりを見せていたようです。とはいえ日本としてはいきなり皇帝だとまずいということで、ひとまず主権者である「執政」という地位についてその後皇帝に就くということで納得してもらうよう説得し、これに溥儀も最終的に承諾しました。

 そして満州事変後、日本が急ピッチで組織や体制を作り上げることで満州帝国は建国されました。ただこの建国の直前、上海において第一次上海事変が起きていますが、この事件自体が欧米の目を満州帝国の建国からそらすために起こされたともいわれており、事実時期を同じくしております。真偽はどうだかわからないけど。

 未だに体調が悪いのでちょっと今日も文章があまりよくないのですが、ひとまず満州帝国の成立までの通史をこれまでやってきて、ようやくひと段落ついた感じです。こっから先は満州帝国が具体的にどんな国だったのか内容面での解説が主になるのですが、前にも少し触れたように満州において影響力のあった人物を取り上げ、彼らを通して解説していこうかと思います。

2009年3月18日水曜日

満州帝国とは~その六、満州事変

 本当は昨日に腹をくくって書こうと思っていたのですが、件のFC2の件(まだ解決していない)で書く時間がなくなり今日になってしまいました。
 そういうわけで、本連載の折り返し地点でありながら前半の最後を飾る、満州帝国の発足に至らせるために起こされた、近代日本史上でも非常に重要な事件である満州事変を今日は解説します。

 既にこれまでの連載で説明しているように、日本は日露戦争後に帝政ロシアが中国から許可を得て経営していた東清鉄道とその鉄道周囲の付属地の権利をそのままを譲り受け、中国東北部において他の列強を排して満州鉄道を大動脈とするほぼ独占的な権益を確保しました。しかし中国東北部こと満州にて大きな権益を握ってはいたもののあくまで保有していた領地は鉄道付属地のみで、世界恐慌の影響を受けて国内でも大きな経済的混乱状態にあった日本政府や日本陸軍はかねてより、この際鉄道付属地だけとは言わずに満州全土を占領するべきという野心を持っていました。

 そうした野心はこの満州事変以前にもあり、日本政府や軍は大陸浪人や清朝の再興を願う旧臣などと同床異夢ではありながら協力して満州全土の支配を画策したり、満州地域で力を持った軍閥を応援することで自身の権益の拡大を図ってきました。そんな中で日本陸軍、というよりも満州鉄道の守備隊として設置され、その後対ソ国境部隊としての役割を持ったことから軍備の増強を受け、当時の日本国内で最強との呼び声の高かった関東軍の中では、より強行的に軍事力で持ってねじ伏せて満州支配を実行に移すべきとの意見が支配的になってゆき、そのような考えが初めて目立つ形で実行されたのが前回に取り上げた張作霖爆殺事件でした。

 これまで応援してきた仲とはいえ、徐々に関東軍の意向に従わなくなってきていた軍閥の長である張作霖を爆殺してより日本に協力的な人間を担ぎ出そうと実行したこの策でしたが、事態は皮肉にも張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対して一層態度を硬化させただけでなく、当時北伐中の蒋介石に降伏したことで混乱の続いてきた中国が徐々に安定していく兆しを見せる事態とまでなりました。

 恐らく当時の関東軍においてはそうして中国が安定を取り戻すことで、日本が満州に進出する機会が徐々に失われていくのではないかという焦燥感があったように私は思えます。そんな状況下で、1928年に満州事変の主役とも言うべき石原莞爾が関東軍に赴任してきたのはある意味皮肉な運命だといえるでしょう。
 かねてより自説である最終戦総論にて将来日本がアメリカと戦うために、中国全土の占領と統治が必要だと考えていた石原は上司である板垣征四郎らと密談を重ね、意図的に満州地域を攻撃、占領する口実を作り出した後に清朝最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、満州を中国から切り離す形で傀儡政権を独立させるという計画を編み出しました。

 その計画は奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖にて、1932年9月についに実行されました。この柳条湖を通る満州鉄道を関東軍が自ら爆破し、これを張学良軍の仕業と断定して自衛行動として張学良軍を攻撃し、そのまま各都市の占領を一挙に推し進めていきました。これらの行動を関東軍は「自衛行為」という主張で行いましたが実際には一方的な攻撃に過ぎず、本来このような軍事行動は政府、ひいては天皇の認可を受けねば実行してはならないために当時としても明らかな法令違反ではありました。
 事実、事件勃発直後に政府は戦線の不拡大方針を取り、後に総理にもなる幣原喜十郎外務大臣も方々に事態の鎮静化を図るも、当時朝鮮に駐屯していた林銑十郎に至っては部隊を勝手に動かして満州へと越境行動を起こすなど、関東軍らは政府らの命令を全く無視したまま軍事行動を拡大していきました。

 では何故当時の政府はこうした関東軍の行動を食い止められなかったのかですが、私が一つに考える背景として当時のテロリズムの風潮が政府首脳に二の足を踏ませたからではないかと思います。
 五一五事件や二二六事件はこの後の話ですが、満州事変の一年前には浜口雄幸が銃撃されており、さらには満州事変の約半年前には陸軍の橋本欣五郎が三月事件という事件を未遂には終わりましたが計画していました。この三月事件の概要はウィキペディアをみてもらえばわかりますが、陸軍が各政党本部を始め政治家を襲撃した上で軍主導によるクーデターを起こすという内容で、決行直前に陸軍首脳へと計画が漏れたことで計画者らが説得を受ける形で取りやめとなった事件です。

 しかしこの三月事件の最大の問題点だったのはなんといっても、クーデターを計画していた橋本欣五郎を始めとした人物らが全く処分されなかったことです。そのため彼らは満州事変に呼応する形で日本国内で首相らを暗殺した上でクーデターを起こすという十月事件を、こちらも決行直前に計画が漏れて今度は憲兵隊によって首謀者らが捕まるなどして中止されはしましたが、同じようなクーデター計画を作られる事態を引き起こしてしまいました。

 こうした、政府が意に沿わぬものならテロやクーデターによる強硬手段によって引っくり返してしまえと言わんばかりの強行的な軍の動きが、政府首脳らに満州事変での軍の暴走を抑えるのに二の足を踏ませたのではないかと個人的には思います。どうも十月事件に至っては首謀者たちは元から実行するつもりはさらさらなく、そうした意識を政府首脳に植え付けさせるのが目的だったという説もあったようですし、だとすれば既にこの時点で日本の統治や運営は日本軍に握られかけていたといっても過言ではないでしょう。

 こうした日本の動きに対し中国側はどんな対応を取っていたかですが、当初張学良軍は下手に反撃をすればより日本に侵略する口実を与えると考えて一切の対抗手段を取らずにいました。この時の決断について後に張学良氏は、まさか関東軍がその攻撃を満州全土にまで広げるとは考えていなかったと述懐していますが、張学良氏がこう考えるのも無理ではないと私は思えます。それだけこの時の関東軍の行動は一切の法律、果てには当時の世界情勢を無視した暴挙であったからです。

 またこの満州事変時、かつて歴史の闇に葬られた男が再び歴史の表舞台に現れております。何を隠そうあの甘粕事件の犯人で、後に満州の夜の帝王と呼ばれることとなる甘粕正彦です。
 彼は甘粕事件後に陸軍によって表世界から遠ざけるようにフランスへと留学させられ、事変の前には満州にて陸軍関係者らと関係を作っておりました。そして最初の柳条湖事件が起こるや甘粕正彦は奉天から遠く離れたハルビンにある日本総領事館へ自らの手下を率いて爆弾を投下し、これをまた中国人の仕業として当初南満州のみであった騒動を北満州まで、つまり満州全土に対して関東軍が行動を起こす口実を作っており、日本国内にいた軍人もこの時の甘粕の活躍を高く評価しておりました。
 その甘粕は事変が拡大していく中、満州にある湯崗子という地へと1931年11月に訪れます。そしてこの地にて、既に天津を脱出してきていた清朝最後の皇帝の溥儀を迎えることで、中国の歴史上にも大きく名前を残すこととなりました。

 続きは次回にて、満州国建国へ過程とともに解説します。

2009年3月12日木曜日

満州帝国とは~コラム 張学良

 私が近現代で最も尊敬している人物は今村均氏と水木しげる氏ですが、もし日本人以外でというのならばといのなら私は必ず張学良氏の名前を挙げるようにしております。今日はそういうことで、満州帝国の連載コラムとして張学良氏個人について解説をしようと思います。

 日本史を勉強した方で張学良氏の名前を知らない方はまずいないでしょう。前回の「張作霖爆殺事件」で紹介したように、張学良氏は戦前の中国東北部の軍閥の長であった張作霖の息子として生まれ、張作霖の死後は彼の後を継いで軍閥を率いて蒋介石軍に投降をしました。
 実は前回から「張作霖」の名前には「氏」をつけずに張学良氏にはずっとつけていますが、これは張作霖は時代が大分過ぎていることから歴史上の人物と捉えているからで、張学良氏についてはまだ歴史というほど古い人物ではないと判断しているためです。

 この話をすると驚かれる方が非常に多いのですが、張学良氏はほんの八年前の2001年まで存命しており、この年に満百歳でハワイにて死去しています。この死亡年と年齢から察しのいい人はお分かりでしょうが、張学良氏は二十世紀の始まりの年である1901年に生まれて二十一世紀の始まりの年である2001年に死去し、丸々20世紀という時代を生きて去っていったということになります。さらには1901年という彼の誕生年は、もう一人の20世紀の日中史を代表する人物である昭和天皇と同じ誕生年でもあります。本当に偶然と言えば偶然なのですが。

 さてこの張学良氏が何故日中史において私が重要であるかと考えるかですが、結論から言えば第二次国共合作の立役者であるからです。
 満州帝国の本連載では次回にようやく満州事変を取り上げますが、この満州事変によって中国東北部から張学良氏は強制的に支配地域から追放され、以後しばらくは蒋介石の国民党の下について西安にて共産党の討伐軍を指揮していました。しかし共産党と戦いつつも張学良氏は、今は中国人同士で戦っている場合ではなく一致団結して日本に立ち向かうべきではと考え、極秘裏に共産党の周恩来と会って共闘の道を探り始めていました。そうした中で起きたのが、あの西安事件です。

 西安に視察に来た蒋介石に対して張学良氏は共産党と国民党の共闘を打ち出しますが、当初蒋介石はこれを拒否します。すると張学良はなんと自分の上官である蒋介石を逮捕、監禁し、再度共産党との共闘を脅迫するような形で提案しました。そしてこうした張学良氏の動きに恐らくは示し合わせての行動でしょうが、共産党からも周恩来を始めとした幹部が西安に入って蒋介石との会談を持って合意を作り、蒋介石としては内心忸怩たる思いがあったでしょうがここに第二次国共合作こと、中国において統一された抗日戦線が張られるに至りました。

 私は太平洋戦争はまだしも、日中戦争は紛れもない日本の侵略だったと考えております。そしてこの日中戦争において日本は中国の各主要都市を陥落させはしたものの、もとより占領政策が非常に下手だったこともあり結局大きな勝利を得ることなくアメリカとの戦争に突入して結局は敗北しましたが、もしこの国共合作がなければ、日本は中国に対して最終的に勝利を得ることはなかったでしょうが少なくとも最後まで落とせなかった重慶なども陥落させ、現実の歴史以上に中国の奥深くまで攻め込むことが出来たと思います。そういう意味で、この張学良氏の捨て身の行動は日中戦争における非常に大きなターニングポイントとなったと高く評価しています。

 しかしこの張学良氏の捨て身の行動は彼自身に大きな代償を伴い、上官を捕縛したことから軍法会議にかけられ懲役刑を科せられて軟禁状態にされ、更には日中戦争後、国民党が共産党に破れると張学良氏も台湾に渡りましたが、やはり相当恨みに持たれていたのか蒋介石によって台湾でも軟禁され続けました。蒋介石の死後は徐々に行動の自由も認められていったそうですが、軟禁年数は実に50年以上にも及びました。
 その後台湾の民主化によって1991年(90歳)に軟禁処置が解かれますが、張学良氏にもいろいろと思うところがあったのか、そのまま台湾には残らずハワイに渡って残りの人生を過ごしました。

 この張学良氏の現存する記録としては1990年に行われたNHKの取材が最も代表的ですが、この時の取材にて西安事件の後に自らの身の危険を考えなかったのかという質問に対し張学良氏は、
「あの時に日本と戦うためにはどうしても強い指導者が必要で、その条件に当てはまるのは蒋介石しかいなかった。だから国共合作後も私は彼を担いだのだ」
 と答えています。

 こうした彼の行動や功績から私は張学良氏を深く尊敬しているのですが、台湾ではどうだかわかりませんが本家中国ではどうやらそれほど高い評価を受けているわけではないようです。私も留学中に非常に知識のある中国人の方(何故か西郷隆盛まで知っていた)に話を聞きましたが、特段評判のいい人物でもなく、国共合作自体が張学良氏の功績だとはあまり言われていないようです。
 実際に私も中国に行ってから気づいたのですが、よく日本にいると中国人は一連の反日運動から日本のことを世界で一番嫌っているように思う方が多いかもしれませんが、実際には台湾への憎悪の方が強いように思えます。中国の歴史教育などでも日中戦争以上にその後の国民党との戦争の方がより詳しくかつイデオロギー的に書かれており、結局戦後は台湾に渡ったことを考えると張学良氏のことを大陸の中国人がよく言うはずがないという気がします。

 そのため一番最初にリンクに張った張学良氏のウィキペディアの記事中の最後部にある、「中国では千古の功臣、民族の英雄と呼ばれている」という記述には首を傾げてしまいます。なんか出典を出せというタグが貼られていますが、私もあるのなら是非見てみたいものです。

2009年3月11日水曜日

満州帝国とは~その五、張作霖爆殺事件

 戦前の日本において本格的に軍が国の主導権を握るようになる国内の最大のターニングポイントは二二六事件であることに間違いありませんが、国外における最大のターニングポイントとくればやっぱり満州事変ですが、その満州事変の嚆矢とも言うべき事件こそがこの張作霖爆殺事件だと私は考えております。

 この事件が起こる直前、中国では蒋介石率いる国民党がそれまでバラバラに各地域を支配していた軍閥を次々と打ち破り、清朝崩壊以後の混乱を納めるべく「北伐」を実行していました。こうした中、蒋介石の軍と戦って敗北するなどして北京周辺の軍閥の勢力が弱体化したのを見て、当時満州地域を支配していた軍閥の長である張作霖は中央に進出する好機と見て首都北京を制圧するも、結局北上してきた蒋介石軍によって完膚なきまで叩き潰され、ほうほうの体で自分の支配地である満州へと逃げ帰ろうとしていました。
 しかしその逃亡の途上、奉天郊外の鉄道駅にて張作霖の乗った列車が爆破され、即死こそしなかったものの張作霖は暗殺されてしまいました。この事件の犯人について当時はあれこれ意見が分かれたものの、現在、というより当時からも日本が保持する満鉄の守護部隊こと、関東軍の河本大作が実行したものだと確実視されていました。

 まず何故張作霖が関東軍に殺される羽目となったかですが、これは単純に日本と張作霖の仲が割れたことによります。日本としては張作霖を満州地域で様々な援助を行って彼を操ることで満州における日本の権益を確保しようと意図したもの、当の張作霖は援助を受けはするものの必ずしもそうした日本の意図どおりに積極的に動いてはきませんでした。
 こうした張作霖の態度に日本の外務省や関東軍は次第に苛立ちを覚え、あまつさえ日本の勧告を受け入れずに北京などの中央地域にまで支配を拡大しようとしたことから、この際張作霖を殺してほかの実力者を操るべきだと言う声が彼の生前から各所から上がっていたようです。またこの頃から関東軍内では後の満州帝国の建国計画が持ち上がっており、その計画を実行するに当たり張作霖が障害になると目されたのも、彼が暗殺される事となる大きな理由となりました。

 このような日本の謀略の元、張作霖の暗殺は実行に移されました。
 ただこの暗殺実行について主犯が関東軍の河本大作大佐によるものとは当時の証言からもはっきりしているものの、日本政府が指示したかどうかまでははっきりしていません。まぁ私の見るところ、この後の関東軍の行動を見ても河本大作を始めとした関東軍内で独自に実行されたと見るべきだと思います。
 またこの事件は日本国内には「満州某重大事件」という名前で報じられましたが、この事件の処理をめぐって当時の総理大臣であった田中義一は関係者の処分をしようとすれば陸軍から強い反対を受け、その後の中国との外交方針も二転三転したことから昭和天皇に厳しく叱責されるまで混乱したのを見ると、日本政府の関与はやはり少なかったと思えます。

 なおこの時、若くして即位した昭和天皇はこの事件について報告が二転三転したことから田中義一首相を強く叱責、それこそ怒鳴ったとまで一部でも言われているほどで、この叱責を受ける形で任務をもう続けられないと田中首相は辞任し、その三ヵ月後には既往の狭心症によって亡くなっています。
 昭和天皇は既に当時に一般化していた美濃部達吉の天皇機関説に反し国政に天皇である自分が強く意見を主張して、挙句には田中首相を遠まわしに死へと追いやってしまったことを非常に後悔し、以後は自分の意思というものを全く表に出さなくなったと言われています。唯一の例外として終戦直前の御前会議がありますが、この前読んだ雑誌記事によると、死の直前に病院内にて水あめをとてもおいしそうに食べているのを見て医師がもう一つ如何でしょうかと薦めたら、「いいのかい?」とうれしそうに返事をして食べたエピソードが紹介されていました。思うに戦後の昭和天皇は、食事をおかわりしたいという意志すらも出していなかったのではないかと思えるエピソードです。

 話は戻りますがその後主犯の河本大作は責任を取る形で辞任し、満鉄に再就職し、結構不気味なのですが満州帝国が崩壊した戦後も中国に残り続けて国民党に協力し、最後は共産党に捕縛されて中国国内の収容所で死去しています。これまた私の意見ですが、恐らくこの人は日本に戻ったところで居場所がないと考えていたのではないかと思います。甘粕正彦もそんなところがあるし。
 そして張作霖死後の彼の軍閥はと言うと、鉄道爆破によって重傷を負った張作霖は部下たちによって秘密裏に自宅へと運ばれそのまますぐに息絶えましたが、彼の第五夫人は彼の死を隠し、自分の息子ではない張学良氏が後を継げるよう様々に根回しをして実現させた後にようやく事実を公表しました。そうして張作霖の跡を継いだ張学良氏は父親を殺された怒りから日本の予想とは打って変わり(張作霖より日本の言うことを聞くだろうと見ていた)、早々に蒋介石に降伏して彼の配下となることで満州の支配権を認められ、日本に対して敵対的な政策をその後次々と実行していきました。

 この張学良氏の降伏を受けて蒋介石の北伐は完了し、毛沢東率いる中国共産党のゲリラ活動を除けばひとまず中国は統一されて、これで安定した秩序が生まれるのではないかという期待が徐々に膨らんできていました。しかしこの統一を快く思わなかったは日本と関東軍(ついでに中国共産党)で、これまで混乱状況にあったからこそちまちまとした工作をしてきたものの、このままではまずいという危機感から徐々に過激な、そして強引に自らの計画を実行していくことになります。そういうわけで次回は前半のハイライト、満州事変を取り上げます。
 にしても、まだ前半かよ……。

2009年3月5日木曜日

満州帝国とは~その四、満蒙独立運動~

 日露戦争後に日本は満州鉄道とその周辺の付属地を手には入れたものの、満州全土は依然と中国のままで、1931年の満州事変が起こるまでは日本はその地域を完全掌握するには至りませんでした。しかし満州地域の権益の独占と支配の画策は満州事変の直前までなかったかというと実際にはそうではなく、日本は満鉄を手に入れた時点から混乱の続く中国に対して隙あらば付け入ろうと目を光らせており、実際に数多くの謀略を仕掛けては独立工作を何度も実行していました。
 そのような謀略を行っていたのは言うまでもなく陸軍をはじめとした日本の軍部らと、また中国大陸で一旗あげようとしていたいわゆる大陸浪人と呼ばれる人たちで、そうした日本人らにかつての清王朝の再考を夢見る元皇族の中国人こと満州人らたち組むことで行われ、そうした彼らの工作は俗に満蒙独立運動と呼ばれています。

 満蒙独立運動の活動家として最も代表的な人物は、大陸浪人の第一人者である川島浪速です。川島は中国語を学んでいた関係から若い頃から通訳などの仕事を通して中国と深く関わるようになり、その過程で川島の生涯の盟友となる粛親王善耆こと、清王朝の皇族らとも親交を深めていきました。その粛親王をはじめとした清朝の皇族たちは凋落著しい清朝を再興するために、日本の力を借りることで先祖伝来の満州の地にて蜂起、独立する計画を持っており、日本政府としても彼らを支援することで満州と蒙古地域(現在の内蒙古自治区)を中国政府から切り離して独立させることで、より中国大陸へと進出するという野心があり、いわば双方の思惑が一致する線の上で川島を始めとした大陸浪人らが日本と元皇族を結びつけたことから満蒙独立運動が始まりました。

 そうした中で行われたのが、辛亥革命直後に計画された第一次満蒙独立運動でした。1911年の辛亥革命にて清朝が完全に滅ぶや川島らは粛親王らを北京から脱出させ、満州内で兵を集めて挙兵する準備を進めつつ日本陸軍へも協力を打診しました。実際にこの時には参謀本部や外務省などから川島らを支援する目的で多額の資金や武器弾薬が拠出されたのですが、欧米各国がこのような日本の動きに対して懸念の声が挙がったことで、外交問題に発展することを恐れた日本政府より挙兵を中止するべしとの命令が出されたことで最終的には実行には移されませんでした。

 しかしこうした連中がちょっとやそっとで計画を断念することはなく、計画中止から三年後の1914年に欧州で第一次世界大戦が起こっている最中、中国では袁世凱が突然皇帝に即位するという破天荒な行動を起こしたことから中国国内で打倒袁世凱を掲げる「第三革命」が起こりました。この間に日本の大隈重信内閣は中国に対して対華二十一カ条要求という中国に対して屈辱的な外交要求を行うだけでなく、さらにはこの第三革命に乗る形で強気に内政干渉を行っていき、その一貫として再び清朝の元皇族を再び支援することで満州地域の独立を促す第二次満蒙独立工作が行われました。

 この時の計画はかなりの所まで準備が進められ、挙兵の際に障害となるであろう満州地域の軍閥である張作霖の爆殺未遂など実際に実行に移されたのも少なくありませんでした。しかしそうした工作の最中に袁世凱が急死したとことにより、遠政権の打倒という大義名分を失ったことから日本政府はまたも作戦を中止し、満州の独立はあきらめ中国において親日的な政権を応援するという方策に変えました。
 こうした方針の変更に困ったのは、実際にもう挙兵してしまった各地の部隊たちでした。一応日本政府も責任を感じてか部隊の解散費用などが川島らの支援者へ支払われはしましたが、支援のなくなった独立主義者のパプチャックの軍などは張作霖の猛烈な反撃を受けて敗退し、パプチャック自身も戦死しています。

 私などは大学受験時代に毎回相当な高得点を日本史の試験でたたき出していましたがこうした満蒙独立運動については何一つ習ったことはなく、以前に満州史を勉強した際に今回の記事の内容を知った際には、やっぱり日本は当時の中国にいろいろとちょっかいを出していたんだなと、あまり驚きはなくむしろ納得するような感じで事実を受け取りました。
 これは今回資料としている学研から出ている「歴史群像シリーズ 満州帝国」に書かれている評論ですが、特筆すべきはこれらの満蒙独立工作は公然と日本政府や軍部が中国に対して工作を仕掛けていたという点です。よく靖国問題についてあれこれ内政干渉だなんだなどという議論がありますが、当時はこれほどおおっぴらにやらかしていたのかと、今の時代にいるからこそ思うのかもしれませんが当時の日本のあまりの露骨さには時代格差を感じてしまいます。

 ただこうした工作が当時の軍部や政府の主導的な関与があったという事実は、この後に行われる張作霖の爆殺、それに続く満州事変といった一連の軍部の行動も、このような流れに沿ったものだったと考えると突拍子もない軍部の暴走だったとは受けきれないとも私は思います。

2009年3月4日水曜日

満州帝国とは~その三、満鉄の設立~

 満州帝国の歴史を語る上で欠かすことの出来ないものは数ありますが、今日紹介する満鉄はその中で最も代表的なもので、事実上満鉄=満州といえるような面も歴史にはあります。
 実はこの満鉄の記事を書くに当たり対象とする範囲が一気に膨大になってくるので、この際この連載を紀伝体風にやってこうかなとも考えたのですが、多少変則的になりますがこの記事では設立時の状況を説明する導入にとどめ、今後の記事は紀伝体調を強くしてやっていこうかと計画中です。甘粕正彦とか石原莞爾なんて、散逸的に書いてもしょうがないし。

 それでは早速解説を始めますが、この満鉄こと満州鉄道会社は日露戦争後、当時のロシアから満州での鉄道経営権を譲り渡されるのを受けて、その管理を目的に半官半民の組織で設立されました。この満鉄の設立に当たり、前回でも説明したようにロシア側から鉄道のみならず鉄道の付属地を譲り受けることから当地の行政もある程度管理する目的で、日露戦争勝利の立役者である児玉源太郎は占領統治を熟知している旧知の部下こと、台湾の民生局長時代に台湾の衛生環境を劇的に改善させた後藤新平を満鉄の初代総裁に据えようとしました。しかし後藤本人は当初は総裁就任を固辞していたのですが、そうこうしているうちに児玉が病死してしまい、医師だけにその意志を受け継ぐ形で後藤も最終的には総裁就任を承諾しました。

 とはいっても、満鉄は活動開始期から華やかにやってこれたわけではなかったそうです。後藤の腹心で後に二代目総裁となる中村是公はこの時期に東大時代からの親友である夏目漱石を満州に招待していますが、その旅において漱石は急速に近代化が進む付属地の状況を記す一方、ちょっと付属地の中心部を外れると荒涼とした荒地が依然と広がっているとも書いており、日本にいる人間たちからすると満州は遠く離れた僻地という印象が強かったようで、実際に日本以上に寒さの厳しい土地ゆえ鉄道の管理運営もしばしば支障をきたし、また馬賊などの襲撃が度々あっては満鉄社員らも士気が上がらず不祥事もよく起こっていたそうです。
 
 それでも後藤や中村の努力もあって徐々に鉄道網や付属地の経営やインフラの整備は進んでいき、明治末期に満州を訪れた矢内原忠雄も決して満州は僻地でないと、漱石が訪れた時代より大きく発展したことを記録しています。そんな中、満鉄が大きく飛躍するきっかけが外部よりやってきたのです。何を隠そう、第一次世界大戦です。
 この一次大戦にて満鉄にとどまらず日本中でも好景気をもたらせましたが、満鉄にとってなにが一番大きかったというと操業開始より経営の柱としていた鉱山発掘でした。満鉄の設立前にあらかじめ行われた中国との交渉によって日本は付属地近くの鉱山の経営権を獲得しており、この鉄道と鉱山経営は満鉄の設立開始から終末期まで経営の二本柱であり続けました。この鉱山経営が一次大戦の勃発によって重工業製品の需要が伸びたことからこの利益が膨れ上がり、この頃から経営が安定してきたことから名実ともに満鉄は日本を代表する会社となり、東大卒の社員もこの頃から入社するようになります。

 ただこうした一次大戦による経済的地位の上昇以上に、満鉄がその影響力を強めたのはロシア革命によるところが大きいとされます。というのもロシア革命によって世界初の(パリコミューンはもちろん除く)社会主義国家のソ連が誕生したことにより、ソ連と国境を接する満州にある満鉄と関東軍は次第に対ソ最前線の国防上でも重要な地位を帯びるようになっていき、ソ連に対する謀略、諜報の基地的な役割が強まっていきました。こうした流れを受け、付属地の経営や行政を研究する目的で満鉄の設立当初よりあった日本初のシンクタンク……というのはやや大げさな気がして私はあまり信じていませんが、戦前を代表するシンクタンクの満鉄調査部は徐々にソ連や社会主義陣営の偵察、研究、ひいては植民地政策などあらゆる方面を研究する組織へと変貌を遂げていくようになりました。

2009年2月26日木曜日

満州帝国とは~その二、二次大戦前の中国~

 日露戦争後、満鉄の経営権を握った日本が後に満州を完全に占領しようとしたのは植民地獲得の野心があったのは言うまでもありませんが、当時の言語に絶するような中国の混乱した状況がその野心を強くさせたというのは間違いありません。今日はそれこそ普通にやっていればまず受験生はまず勉強しないであろう、一次大戦から二次大戦に至るまでの激しい中国の歴史を紹介しようと思います。

 日清、日露戦争の後、中国は今でもトラウマに持つくらいに列強諸国から次々と無茶な要求を出されては領土を割譲されるなど、文字通り国際社会の食い物とされていました。清朝としても内心は穏やかではなかったものの外国に対抗できるだけの力もなく、また国内すらも徐々に抑えきれなくなっていたために要求を受け入れざるを得なかったそうです。
 そうした清朝の態度にタダでさえプライドの高い中国人は納得するまでもなく、こうなれば日本の明治維新を見習い、清朝を倒して強固な体制を新たに作るべきだという主張が徐々に強まっていき、各地で反動勢力が次々と反乱を起こすようになっていきました。

 そんな反動勢力の中で、ひときわ抜きん出た存在となったのが辛亥革命で有名なあの孫文でした。
 彼は外国や軍閥などから文字通り手段を選ばずに支援を仰いで支持者を増やし、最終的には孫文らを討伐しに来た清朝の将軍であった袁世凱との間で、袁世凱を臨時大総統こと革命後のリーダーに仰ぐことで取りこんで清朝を崩壊させるに至りました。
 なお余談ですが、孫文は中国では一般的に「孫中山」と呼ばれていますが、この「中山」という文字は彼が日本にいた頃に中山さんちの表札を見て気に入って自分の名前にしたことが由来で、ひいては彼が着ていたことで後に定着した中国の国民服も「中山式」と呼ばれています。

 こうして清朝が滅んだことにより新体制を作るぞと息巻いたものの、残念ながら中国ではその後全体をまとめる強固な政権がなかなか生まれず、袁世凱のスタンドプレーや孫文の死によってますます統合が緩んだことが拍車となって結局は各地で軍閥が台頭し、あっちこっちで勝手に自分の領地を統治しては縄張り争いをするという、それこそ日本の戦国時代のような群雄割拠の世界が広がっていきました。
 これは首都である北京でも同じことで、ある軍閥が占拠していたかと思ったらすぐに負け、また新たな軍閥が占拠しては新たな統治をするというようなことが全国各地で起こり、それ以前の中国よりずっとこの時代に混乱が増すこととなってしまいました。なおこの時代より少し前の革命期になりますが、魯迅の「阿Q正伝」では清軍と革命軍が交互に地域を占拠するたびに辮髪があるかどうか大問題になるという、当時の不安定で反復常ならぬ世情が描かれています。

 こうした中で日本にとって一番関心の強かった満州において強い勢力を持ったのが、こちらは中学生でも習う馬賊出身の張作霖でした。
 先に馬賊の定義について説明しておきますが、正直なところこの馬賊という名称は誤解を生む恐れがあるためにあまり良くない名前で、日本語の意味合いから言うなら「傭兵団」と呼んだ方が適当だと思われます。既に述べたように当時の中国は果てしなく混乱し、北斗の拳じゃないけど暴力による強圧的な支配から略奪まで日々横行していました。そんな環境ゆえにお金のある地主などは腕に自信のある人間を夜盗であろうと構わず集めては、広大な満州の平原で必須となる馬を援助するなどして自警団を各地で組織するようになっていき、そのようにして生まれた独立した自警団こそがこの当時に馬賊と呼ばれた集団でした。

 これら馬賊は地主などのスポンサーから援助を受けている間は担当地域の治安を守り、支援が打ち切られるや別の地域で活動するかそのまま元の夜盗へと成り下がるかし、言うなれば半兵半盗のような存在でした。
 張作霖などはこうした馬賊のリーダーとして徐々に活動地域を広げていき、支配地域のスポンサーや満鉄を所有する日本も混乱が続くぐらいならまだ力のある人間によって統治されることを望んで彼を多方面で援助したことにより、張作霖の勢力はいつしか現地の行政も担当するようになって軍閥へと発展していったのです。

 とはいえ所詮は軍閥で、他の軍閥との抗争に敗れたり援助が打ち切られたりするとあっという間に勢力を失うので、中国全体で一応の秩序が生まれるには蒋介石による全国統一作戦こと「北伐」が行われるまで待たなければなりませんでした。その北伐を行う蒋介石に敗北した上に日本からも援助を打ち切られた張作霖の最後はまさに落ち目の軍閥党首の典型で、1928年に河本大作によって奉天へと鉄道で逃げ帰る途中で爆殺されてしまいます。
 皮肉なことに、それまでの混乱期ではなく蒋介石の下でようやく統一が行われそうになった段階に至り、日本は本格的に満州へと謀略を仕掛けるようになり、三年後の満州事変によって行動に移されることとなるのです。

2009年2月25日水曜日

満州帝国とは~その一、満州への進出

 今日から満州帝国についての歴史と私見を紹介する連載を始めます。ある程度勉強は終えているのですが、この連載に備えて小林英夫氏の「満州の歴史」(講談社現代新書)を先月に買っていたのですが、まだ他に読む本があったために先にうちの親父に貸したらまだ返してもらえず読むことが出来なかったのが唯一の誤算でした。
 それではまず第一回目として、いつ、どのように日本は満州と関わりを持つようになったのかを今回説明します。

 まず満州とされる地域ですが、これは現在の中国で言う遼寧、吉林、黒龍江の東北三省を一般的に指しています。何故これらの地域が満州と呼ばれるようになったのかですが、日本が戦国時代だった頃、当時のこの地域ではかつて中国において「金」という帝国を作った女真族が各部族ごとに集住、抗争していたところ、ヌルハチというある部族の長が女真族内で次第に統一をはかり、最終的には一つの軍閥として纏め上げ、その際にそれまで「女真族」としていた民族名を「満州族」という名称に改めたことがきっかけで、そのまま民族名が地域名として定着したのが由来だそうです。

 ヌルハチの死後、満州族は混乱の続く中国中心部へと進撃してついには統一を行い、現時点において中国の最後の王朝に当たる「清」を設立することになります。その清の時代も満州地域では漢族の流入が抑えられ、満州族の伝統が守られていたそうなのですが、近代に入るとロシアと国境の接する地帯として紛争が続くようになり戦略上の重要度が時を経るに従い増していきました。
 そんな中、明治維新を断行し日の出の勢いで国力を増していた日本は当初は同じアジア国として朝鮮、中国を支援して欧米の列強の進出を防ごうとしていたようですが、福沢諭吉らなどの脱亜論などのようにこの際アジアよりも欧米のように植民地を切り取っていくような政策に変えるべきという国論も強くなっていき、その目標として日本に定められたのも朝鮮と満州でした。

 そうして国論が次第に変容する中で朝鮮内の甲午農民戦争をきっかけに日中間で日清戦争が起こり、この段階に至って日本ははっきりと中国に対して侵略を行う立場へと変わり、戦後の講和条約にて台湾をはじめとした領土の領有権を中国に認めさえ、その中に満州地域に含まれる遼東半島も含まれ、この時を以って日本は満州と関わりを持つに至ります。

 もっともこの時はその後ドイツ、フランス、ロシアによる三国干渉を受け、遼東半島の日本の領有は当該地域の安全に好ましくないといちゃもんをつけられ中国へ返上することになりましたが、日本には返上を迫る一方で満州内の鉄道敷設権を得るなどどんどんと進出してくるロシアに対して日本は、「俺たちには適当なことを言いやがって!」とばかりに日本は国民感情上でも相当怒り、特に支配権を握りつつあった朝鮮と国境の近いことからも非常に危機感を募らせていくようになりました。
 その後この地域の安全を図る策として「満韓交換論」等が練られますが交渉としてはどれも失敗し、最終的には維新後日本において最大の試練となった日露戦争へと突入し、辛くも勝利を得たことによって日本はこの地域へと本格的な進出を行うに至るようになります。

 具体的にどの程度進出したかですが、まずロシアが中国より租借していた遼東半島の先端に当たる関東州、そしてこれまたロシアが中国に認めさせて敷設していた東清鉄道こと、後の満州鉄道の経営権と付属地が日本に譲渡されることとなりました。
 ちょっとこの辺が自分も今まであまりよくわかっていなかったところなので詳しく解説しますが、この時点で日本は満州の大半の地域を獲得したわけではなく、あくまで満州鉄道とその周辺地域の支配権だけを得たに過ぎませんでした。というのも日露戦争前にロシアは中国より満州内に鉄道を敷設する権利を受けてその鉄道の管理権、及び線路を中心にした幅六十二メートルの付属地の支配権を握っていたので、それがそのまま日本のものとなったわけです。とはいっても当時の物流はすべて鉄道によるものなので、満州における鉄道の経営権を握ることはその地域の経済源をすべて握るといっても過言ではなく、この時に日本が得たものは決して少なくはありませんでした。

 そういうわけで、日露戦争後に日本が満州に得た領土は遼東半島の一部と、満州に敷設されている鉄道線路を中心にした幅六十二メートルの付属地でした。その後付属地は日本側によって「関東州」と称され、この地域を防衛、守備するために作られた部隊が「満州駐箚軍」こと、後の「関東軍」となるのです。