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2009年4月24日金曜日

SMAP草彅剛氏の逮捕について

 あまり書くネタもないので、短く簡単にこのニュースについて書こうと思います。
 さて皆さんも知っての通りだと思いますが、昨日未明にSMAPの草彅氏が公然わいせつ罪で逮捕されました。この件について私の感想はというと、何故こうも警察が強権的な行動を取ったのかいろんな意味で腹が立ちました。

 別に私はSMAPのファンというわけではありませんが、今回の事件は深夜に草彅氏酔っ払って全裸になったところを捕まったという報道がされており、言ってはなんですがこんなことくらい週末になるとたくさんの酔っ払いが年がら年中よくやっていることで、警察が出てきて補導する事はあっても逮捕するということはまずないケースだと思います。しかも今回の草彅氏のケースの場合、逮捕後に草彅氏の自宅を麻薬があるかどうかを調べるために家宅捜査までした上に今日の釈放時の警察発表に至っては「逃亡、証拠隠滅の恐れがない」と、こんな事件に証拠隠滅もクソもないだろうと突っ込んだのはうちのお袋以外にもたくさんいるでしょう。

 多分こんな風に容疑内容に比べて拘束等が厳しすぎるという批判が警察に行くと、「被疑者は非常に有名な人間ゆえ社会的影響を鑑みた」などと言い訳をすると思いますが、それを考慮しても今回の警察の行動は異常なまでに厳しすぎるとしか言いようがありません。そりゃ確かに酔っ払って周囲に迷惑をかけたというのはわかりますが別に何か器物破損をしたわけでもないし、何故か外人がインタビューに答えるくらい目撃者も少なかったのだから逮捕、拘留まで行う理由なんて私にはどこにも見当たりません。一体いつから日本の警察はこうも簡単に一般市民をしょっ引くようになったのか、草彅氏の行動よりも私は今回の事件の警察の対応の方が癇に障りました。
 ついでに言えば逮捕直後に「最低の人間だ」とまで非難した上にファンから「言いすぎだ」と抗議されてあっさり発言を引っ込めた鳩山総務相についても、少なくとも「アルカイダの友達が友達だ」などと責任ある立場でありながら発言した人間よりはまだ草彅氏の方が人間的にも社会的にもマシな気がします。

 最後にもうワイドショーのコメンテーターがあちこちで言っていますが、これが芸人であればここまで騒がれることもなければ大事にならなかったと私も思います。第一、こんなことで毎回逮捕されていたら江頭2:50や小島よしおの立場はどうなるんだということになりますし、草彅氏も今回の件はあまり気にせず「こんなのかんけーねー!」とまた来週からこれまで通りに芸能活動を続けてくれればと思います。

2009年4月23日木曜日

私と鳥取

「今度、わしと鳥取行かへんか?」
「いやおじさん、俺、今度行くんですけど」

 思えば、これが私と鳥取県が関わるはじめの一歩でした。
 ある年の夏、当時京都に住んでいた私に兵庫の叔父から電話が来て、次の連休に鳥取県の海に素潜りに行くから一緒に来ないかと誘われた際のやり取りが上記の会話文です。一体何故叔父の誘いにこんな返し方をしたのかというと実はこの電話が来る約一週間前に、自動車の免許合宿先に鳥取県にある「日本海自動車学校」を選んですでに申し込みをしていたからです。そういうわけで約一ヵ月後に鳥取に行くことが決まっていた矢先の叔父からの誘いで、この時には何かとこの夏は鳥取に行くことが多いなとは思いましたが、まさかそれが今にまで続くとはこの時は全く思いもしませんでした。

 そんなわけで叔父の電話があってからしばらくしてから私は叔父の自慢のベンツ(安く買い叩いたらしいけど)に乗って鳥取に行き、民宿に泊まりながら近くの海で泳いだりサザエを取ったりして楽しく過ごしました。なおこの時スイムウェアを叔父から借りて一応着て潜ったのですが、まだ七月の中ごろだった上に体脂肪率が現在も続く10%強の体ゆえ、海に入ってもすぐに体を冷やしてどっちかって言うと海辺で日に当たっていることのが多かったです。

 この叔父との旅行から数週間後に今度は免許合宿のために鳥取の日本海自動車学校に行ったわけですが、よく教習所というと教官の不遜な態度などでストレスを溜めやすい場所とは言われていますが、この日本海自動車学校は「笑顔日本一」というのを売りにしているだけあって教官らの態度は常に良く、また教え方も非常に上手で一瞬たりとも不快な気持ちになったことはありませんでした。路上教習中も私の教習原簿を見てはよく話しかけてくれ、

「君、関東出身だとしたら鳥取は初めてじゃないの?」
「いや、実は先月に叔父と海に潜りに来てるんですよ。まさかひと夏に二回も来るとは思っていませんでしたけど」
「そうだろうなぁ。一生に一回来るか来ないかだろうな、君だったら」

 というような会話をしたりして、終始なごやかに教習を続けました。なおこの時AT限定で免許を取ったので路上教習ではよく女の子と一緒になったりしたのですが、何度か一緒になった地元の女の子が何故か運転中にカーブを曲がる際、必ず片手を一旦離してなにやら手を動かしているのを見て、

「あのさ、左右の方向をはしを持つ手で必ず確認しているでしょ」
「うるさいっ(`Д´) ムキー!」

 という風に怒られました。教官もえらい笑ってたけど。

 こうしてひと夏に二回も鳥取に行き、さすがにもうこれからはあまり訪れることがないと思っていたらその次の年の二月、ひょんなことから鳥取県出身の人間と突然友人になり、しかも同時期に日本海自動車学校に通っていたと聞いて一挙に意気投合して今でも交流が続いています。しかも当時に師事し始めてこれまた現在も交流が続いているK先生も鳥取出身だとわかり、自分はなにか鳥取と縁があるなとこの頃から意識し始めました。

 そしてそれから中国留学を経て京都に戻った際、新しく借りた下宿の近くの本屋にてついに私が出会ったのが水木しげるでした。
 その本屋は京都の本屋らしく狭いながらも商品が精選されていて当時によく通った本屋だったのですが、何故か漫画本のコーナーにはこれでもかと言うくらいに水木しげる氏の著作が常に置かれていたのを見て、少し高いが手にとってみようと買ったのが「水木しげる伝」こと水木氏の自伝漫画でした。この「水木しげる伝」から猛烈に水木氏の著作にハマりだして、水木氏が幼少の頃に住んでいた鳥取県境港市(生まれたのは実は大阪)にも興味を持ってこれまたある年の夏、今度は親父とレンタカーを借りて山陰地方を回った際に境港にも寄ってあの水木しげるロードも訪れました。

 率直な感想を言うと水木しげるロードは確かに妖怪のブロンズ像が並んでいたりして楽しかったのですが、まだ境港の持つコンテンツを完全に生かしきれていないように思いました。どっちかというと同時期ではひこにゃん擁する彦根城の周辺の方が雅な茶店や庭園があったりして、街全体の雰囲気では上だった気がします。
 とはいえ私の水木氏への情熱はこれだけで満足することはなく、境港も一度立ち寄っただけなので是非いつかは一週間くらいかけてじっくりと滞在してみたいものです。そんな風に思っていたら、何でも来年のNHKの朝ドラの原作が水木氏の奥さんの自伝小説、「ゲゲゲの女房」に決まったそうです。

 私もこの本は発売してすぐに買って書評まで書いていますが、もし境港で撮影などがあるのなら見学を兼ねてまた行ってみようかなと計画中です。私は鹿児島で生まれて物心ついてからずっと千葉で育っていますが、将来的には鳥取県か奈良県で骨をうずめたいとこの頃は思うようになりました。鳥取に埋まれば、なんとなく妖怪になって化けて出れそうだし。
 少なくとも千葉県に関しては、他の千葉県民同様にあまり郷土意識は持てません。なんで郷土意識が持てないのか研究してみたら面白そうだけど。

2009年4月22日水曜日

死の前の平等

 昨日に死刑制度について書いたばかりでSophieさんからもコメントを戴き、ちょっと思い出した面白い話があるのでここで紹介してみようと思います。その話というのも、「死神の名付け親」です。

 昔ある夫婦の下に子供が生まれたところ、その父親は公平なことが大好きな父親だったのでこの世で最も平等な人に子供の名前をつけてもらおうと考えました。すると父親の元にまず悪魔が現れて名付け親になろうと申し出たのですが、
「いや、あんたは人によって与える不幸の度合いが違うから平等じゃない」
 といって断ったところ、今度は神様が現れて同じように名付け親になろうと申し出たのですがその父親はまたしても、
「いや、あんたは全ての人間に平等に幸福を与えていないじゃないか」
 といってまたも断ったところ、今度は死神が現れて名付け親になろうと申し出てきました。すると父親は、
「あんたはどの人間にも平等に死を与える。あんたほどの平等な奴はいないから是非名付け親になってもらおう」
 こうして、その子供は死神に名前をもらったそうです。

 こんなお話ですが初めて聞いたときはなかなか含蓄の深い話だと思い、書かれている通りに人間は生きてる限りはいつかは必ず死ぬので、死という行為の前では死に至る過程は別とすると確かに皆平等なように私は思えました。
 そして実際に、このお話のように死という行為が世界に強烈に平等というものを見せ付けた歴史が過去にありました。何を隠そうそれはフランス革命で、恐らく世界で最も有名なシャルル=アンリ・サンソンの死刑執行です。

 詳しくはリンクに貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえばわかりますが、フランスでは死刑執行人は世襲によって決められており、このシャルル=アンリ・サンソンはギロチンの音が鳴り響いたあのフランス革命時の執行人でした。
 彼の最大の不幸はなんといっても、フランス革命によって自身が強く信奉していたルイ16世の処刑を実行しなくてはならなくなったことでしょう。彼自身は熱心な王党派で国王に対しても並々ならぬ感情を持っていたようなのですが、歴史の皮肉というべきかその敬愛していた国王に対して自らの手でギロチンにかけることとなり、また執行人に対する世間の冷たい視線を感じてか死刑の廃止論者でもあったのですが時は折しも死刑の吹き荒れたフランス革命期で、恐怖政治を行ったロベスピエールによって次々と送られてくる被処刑者をサンソンは手にかけねばなりませんでした。

 このサンソンは彼自身の思想と生きた時代ゆえか様々な文物によって取り上げられていますが、私が見た中で絶妙であったのは今も連載中の漫画、「ナポレオン -獅子の時代-」(長谷川哲也)での描かれ方で、国王を処刑してサンソンが後悔の念をにじませるシーンの後、その国王を断頭台に送ったロベスピエールが今度はクーデターを受けて断頭台に送られてきた際に耳元で、
「ロベスピエール、私はあなたを断頭台にかけるのに国王程の憐憫を覚えません」
 と囁くと、顎を打ち抜かれていて声が出せないロベスピエールが心中にて、
「ああサンソンよ、私が夢見た世界というのは私と君とルイが同じテーブルを囲んで談笑する世界だったのに」
 と、声にならないロベスピエールの言葉とサンソンの執行人として立場が、「平等」という軸を間に見事に対称されて描かれていたのには舌を巻きました。

 このサンソンは後世の歴史家から「国王も革命家も皆一緒くたにギロチンにかけた」として、はからずも最初に私が引用したお話のように死の前で人間は平等ということをある意味体現したという評価を受けています。

2009年4月21日火曜日

死刑制度について

 別に狙ってたわけじゃなかったけど、結構タイムリーな時期にこの記事を書くことになりました。
 さて日本は先進国が次々と死刑制度を廃止している中で死刑制度を保持し、また去年には鳩山法務相(当時)が死刑囚の執行を次々と認めたことから朝日新聞が「死神」呼ばわりして物議をかもしました。私はこの死刑制度についてどう思っているかと結論から言えば反対で、未だ迷いはするものの廃止論者だと自認しています。

 私が何故死刑制度に対して反対しているのかというといくつか理由はありますが、まず第一の理由として人間が人間の生死を決めるのはおこがましいからという単純な理由があります。これなんか私の宗教的バックグラウンドが大きく影響していると思うのですが、戦争や諍いによる突発的な殺人ではなく裁判という過程を通じ、その被告の生死を制度として集団が決めるというのは直感的に如何なものかと思っています。言ってしまえば人間の倫理観で絶対的に正しいことや間違っていることを判別できるわけなく、そんな拙い判断力が裁判を通したからといって人間の尊厳に深く関わる生死まで決めるというのは神様への冒涜なのではないかと考えるからです。

 第二の理由は、死刑執行者のあまりにも大きな負担です。これだけ技術が発達した今の世の中でも死刑が決まった死刑囚を自動的に機械が殺してくれるわけではなく、ある段階で刑務官などの執行者がその死刑囚の殺人に関わらなければなりません。昔に聞いた話だと死刑執行に立ち会う、実行する刑務官には執行後に国から手当てが出されるそうですが、果たしてそんなもので彼らの心的負担が補償されるとは思えず、これまた十年以上前に見た執行を行った刑務官の匿名のインタビューでは、家族に対して自分の行ったことは言えず、また自分の仕事と言っても割り切ることの出来ないという話を読んだことがあります。
 この辺なんかを何故もっと死刑を増やさないのだと主張する人たちに強く言いたいのですが、死刑にはどこかで刑を執行する人間が必ずおり、自分は執行に関わりたくないがもっと増やせという意見であればあまりに軽薄すぎるとしか言えません。少なくとも、もし誰もやらないのなら自分が執行してもよいという覚悟を持った人以外はこのような意見を持つべきではないでしょう。

 他にもいくつかありますが、私が死刑制度に反対する大体の理由は以上の通りです。まず勘違いしてもらいたくない点として、私は裁判自体を否定するつもりはありませんし犯罪者を一般社会から隔離する懲役刑も社会の安定性を維持する上で必要であると考えています。
 最初の理由で述べたとおりに、私は人間の倫理観というのをあまり信用していません。それこそ過去には魔女狩りなどと今じゃとうてい理解できない瑣末なことが犯罪とされて社会によって処罰されており、そんな信用のない倫理観に照らして犯罪者かそうでないかをどうして区別するのかといったら、その社会の多数派が持つ認識を一致させてその社会を安定させるということに尽きます。これまた言ってしまえば、我々の社会で犯罪者とされる人だけが住む国が作られたりしたらそこでは盗難も合法となるのかもしれないんだし。

 私だって犯罪を行う人間は憎いと思いますが、刑を行うというのは俯瞰的に言えば多数派が少数派に自分たちのルールを押し付ける行為とも取れると思います。よく死刑を廃止して終身刑を最高刑にすると犯罪者が自然死するまでの食事などに税金を使わなくてはならなって無駄だという意見がありますが、私は懲役刑の受刑者を含めてそれらの税金は自分たちの社会を安定させるためのコストだと割り切るべきだと考えており、我々の社会から少数派を締め出す代わりに彼らに与える最低限の補償だとも思います。
 ここまで言えばわかる通りに、私は死刑を廃止して再審で覆らない代わりはどうあがいても釈放されない終身刑こそが最高刑として相応しいと考えています。

 これはあくまで私のおこがましい一意見ですが、果たして殺人を犯して死刑になった犯罪者を死刑で殺し、それが遺族にとって本当に慰めになるのかという疑問があります。もちろんニュースを見ているとそれでも死刑を執行してほしいと訴える遺族もいるのは知っていますが、報復からは何も生まれてこないのではなかいかと個人的に思います。
 その一方でここまで死刑に反対だといいながらも、池田小事件の宅間守のように死刑以外にどうやって納得すればいいのかと思うような猟奇的な事件がこの頃起きており、何の慰めにもならないかもしれないがこんな犯人らを生かしておくことだけは絶対に許せないと思うことが私の中でも増えてきており、何が何でも死刑は廃止するべきと他人にまで強く主張することはできずにいます。

 こういった理由から、あくまで廃止論者ではあるものの私自身も死刑制度の存続について今も悩んでいるのですがそんな中、ここでいちいち私が言うまでもなく本日また新たな死刑確定囚が生まれました。

和歌山カレー事件 真須美被告の上告棄却 死刑確定(YAHOOニュース)

 詳しく経緯を調べておらずにこんなことを言うのもおこがましいのですが、私はこの事件は有罪にはしても死刑にするべきではないと前々から考えていました。というのもこの事件は犯人の自白もなくまた確たる証拠もない中で状況証拠のみで裁判にて犯罪が認定されており、「疑わしきは罰せず」、「たとえ百人の犯罪者を逃しても一人の無辜の人間を罰するなかれ」の原則を堅持するために、容疑者が過去の経歴から言っても非常に怪しい人物だからとはいえ死刑にはせず、無期懲役刑に止めるべきだと考えていました。もちろん遺族の方の感情を考えれば自分が部外者でありながらどれだけ愚かなことを述べているのかは重々承知ですが、それでも言わずにはおれないというニュースが本日入ってきました。

足利事件、DNA型一致せず 東京高裁再鑑定、再審の公算(47NEWS)

 この事件は発生当時からも捜査に問題があるといわれつつも容疑者であった男性に無期懲役刑が判決された事件ですが、リンクに貼ったニュース内容にこれまでの捜査を根本から覆す証拠が出てきて再審の公算が高まったのですが、仮にこれが本当に冤罪であったとすればこれまで刑務所につなぎおかれたこの男性の人生はどうしてここまでされなければならなかったのかと、激しい同情と共に怒りを覚えます。
 ちょっと蛇足かもしれませんが、前の小沢氏の秘書逮捕事件の際に、「検察が動いたんだから絶対に小沢はクロだろ」という意見を何度か聞きましたが、どうしてそこまで検察に信頼があるのかが私にとっては不思議でした。この事件といい、私は日本の警察や検察はあながち強権で知られる中国を笑ってられないほど問題があると考えており、そんな組織から一般市民を最低限守るためにも、証拠なしで死刑を判決してはならないし、もし冤罪だったとしても後年にまだ再審の出来る終身刑を最高刑にすえるべきだと思います。

2009年4月20日月曜日

政党交付金制度による世襲議員の促進

 昨日は神宮球場に友人とヤクルトVS広島戦を見に行ったので、金曜に引き続きまたブログを休んでしまいました。それにしてもアウェーでありながら明らかに広島ファンの数のが多かったのは不思議でした。

政党交付金、7党に支給(YAHOOニュース)

 そんなわけで二日ぶりのこのブログですが、今また頭痛を起こしていて今日も休もうかとも思ったのですがさすがにサボりすぎなので短くまとめようと政党交付金について解説します。
 この政党交付金というのは政界汚職が吹き荒れた55年体制末期こと平成初期に、非自民連立内閣の細川政権時に成立し現在まで施行されている制度です。この制度の具体的な内容というのは政治家が日々の活動のために使う政治資金を国から政党へと税金を使ってそのまま交付するという内容で、多分見る人から見たら噴飯ものの制度だと思います。

 何故こんな制度が出来たのかというと、今も昔も政治家が政治活動を行うのに先立つものとしてたくさんのお金が必要ということに変わりはありませんでした。そのため資金力に余裕のある政治家ほど選挙や党内で有利になる傾向が強くなるため、資金力を確保するためにいろんな企業との癒着や汚職行為によって企業献金を集める政治家が後を絶たず、成立当時は佐川急便事件などそれが表に出てきて国民からの批判が一斉に集まった時期でした。こうした企業との癒着をなくすためにはどうすればいいかということで、なら政治活動に必要なお金は国が出そうと、国会内の議員数に応じた分の交付金を政党に交付するこの制度が生まれたのです。
 確かにこの制度を作るにあたり言わんとすることはよくわかり、現役の議員の方などの話を聞いているこの交付金がなければ何も活動することが出来ず、日々の資金を企業からの献金に頼る割合が強くなってしまうという方もたくさんいます。しかし私は現状のこの制度を見ているとやはり順効果に対する逆効果の方が強すぎるため、即刻とまでは言わずとも改正するべきではないかと考えています。

 ではこの制度の何が問題なのかということですが、結論から言って政治家に対して政党という組織が強くなり過ぎる傾向があるからです。
 この交付金は政治家一人一人に均等に配られるわけではなく所属する国会議員数に比例して政党に配られるため、政党に属していない無所属の議員と所属議員が五人未満の小会派は一銭たりとももらえず、これだけで政党に属す議員に対して彼らは資金力に差が生じてしまいます。さらには政党所属の議員たちにとっても内心では党幹部の方針を快く思っていなくとも政党を離脱してはこの交付金を得ることが出来なくなるため、心ならずも政党に従わざるを得なくなると言われています。

 そしてこの制度で一番問題なのは、これは全くの私の持論ですが世襲議員を増やしてしまう効果があるのではないかと思っています。
 理屈はこうです。何度も言いますが政治活動、ひいては選挙において政治家はたくさんお金が必要です。そうした選挙にかかる費用をこの政党交付金がまかなっている部分も少なくないのですが、先にも述べたとおりに無所属議員は一銭たりともこの交付金を受けることが出来ず自弁でやるしかなく、必然的に選挙時には交付金のある政党所属議員の方が有利になってしまいます。その政党はというと近年特にこの傾向が強くなってきたのですが各選挙区の候補を決める際、政治家としての資質そっちのけでかつてその選挙区出身の議員の子弟こといわゆる世襲候補を政党の公認候補として指名する傾向が強くなっています。

 世襲議員は自民党では今の少子化大臣の小渕優子議員を始めとして今度の選挙では小泉元首相の子供も立候補するそうですが、対する民主党も私の以前にやった調査では自民党には劣るものの世襲議員が数多くおります。こうなるのも政党が候補者を指名するという関係上、どうしてもOBの子弟を優遇する傾向になってしまうことからですが、この政党交付金制度で政党が組織として選挙に強くなる一方で政党に属さない無所属議員や小会派が資金力に差がつけられて選挙で戦いづらくなり、これが続けばますます世襲議員が増えていくのではないかと私は予想しています。

 ここで言ってしまいますがどんな選挙制度がいい選挙制度なのかといえば、それはやっぱり能力や志の高い人間ほど当選しやすくなるという制度に尽きます。しかし前にも書いたようにここ数年の世襲出身の議員や首相はどれもぱっとせずなんでこんなのが当選してしまうのかと思ってしまうような議員ばかりの一方、政党からの指名を受けられないために自民ではなく民主から当選した議員らの活躍ぶりを見るにつけもっといい選挙制度はないのかと頭を悩ませてしまいます。
 世襲議員というその属性だけでなんでもかんでも良くないとは言うつもりはありませんが、真に実力のある候補者をどう当選させて国会に送り込むか、そうしたことを考える上でこの政党交付金制度はまだ再考の余地があると考えています。

2009年4月18日土曜日

壊し屋の存在意義

 先ほどのニュースにてこの前のSFCGこと事業者金融会社の商工ファンド破綻の特集が組まれていました。この商工ファンドですが過去に貸し剥がしなど度々問題を起こしている会社で私も個人的にはあまり好きでない企業だったのですが、その特集の中でここに内定が決まっていた学生のインタビューがあり、そうした問題について認識はあったのかという質問に全く知らなかったと答え、

「仮にそういう問題があるのなら内部から徐々に変えていけばいいと思うし、自分のような(新しく入るであろう)人間がそういう風に変えていくべき役割だと思う」

 と、話していましたが、まぁ正直随分と虫のいい話だと思います。貸し剥がしの事実も今まで知らないでいてどうやってその体質を変えていくのか、変えた後どうするのかという目算も何もないまま入ったとして、ミイラ取りがミイラになるように逆に組織に染まっていく可能性の方が高い気がします。そして何より、そうやって体質を変えるまで問題な事業の片棒を担ぐことになるのを何とも思わないのかと疑問に感じました。

 まぁこの学生の言うことに対して私も厳しすぎるんじゃないかと自分でも思うのですが、こういう風に考えるのも私が壊す側の人間だからだと思います。世の中に問題のある組織や人間がいる際に私はそうした存在を改善などによって立て直すことよりも、まず完全に破壊してまた一から別の組織や体制を作る方へ物事を持っていこうとします。だからといって、なんでもかんでも壊してしまえばいいと考えるテロリストほどとまでは行きませんが。

 実は政治家にもこの類型は当てはまり、大まかに言って創造型と破壊型の二種類に分かれると言われています。言うなれば制度を作る政治家と制度を壊す政治家で、言い方こそ「壊す」といってあまりいい印象ではなさそうですが、実際には壊す側の政治家ほど歴史には名前が残りやすいのです。
 まず近年の破壊型の政治家の代表格はなんと言っても小泉純一郎元首相です。郵政や道路公団といったそれまで自民党内で聖域とされてきた場所に悉くメスを入れて解体、弱体化させ、果てには彼以上に破壊型的性格の強い田中眞紀子氏を使って外務省も徹底的に破壊しました。その一方で実は小泉元首相はなにかしら新しい制度や法律といったものはあまり作っておらず、そうした面への功績で言うと任期こそ一年でしたが国民投票法等を作った安倍元首相の方が大きい可能性すらあります。

 また近代で言えば織田信長も破壊型の人物で仏教などといった当時の慣習を打ち破って破壊しつくし、その後の秩序は太閤検地や刀狩などで豊臣秀吉が作っているのですが人気で言えばやっぱり信長の方が上です。
 このように見た目の派手さもあることからか、歴史上は破壊型の人間に人気が集まりやすい傾向にあります。だからといって破壊型の政治家が優れているというわけではなく、要は時代時代に合わせてそれぞれが役割をこなすことが大事で、タイプによる差はあれどもそれが能力や功績に直結することはないと考えています。

 そういう意味で吉田茂と岸信介なんか好例だと思うのですが、戦前の体制をGHQの指導の下で引っくり返した人気な吉田に対し、日米安保条約を自らの退陣と引き換えに通すことでその後現在にまで続く外交体制を作った不人気な岸という具合に、私はこの二人の功績は互いに負けないほど大きいと見ていますが人気や評判においては大分解消されてきたけどまだ差が残っています。あとこれは私の私見ですが、このところどうも吉田の人気は下降気味でかわりに岸の人気が上昇中な気がします、二人とも孫が首相になったんだけど。

 そこで話は私に戻りますが、私は典型的な破壊型の人間だと自認しています。今後何を破壊するのか、それともこの性格が何も活躍しないまま終わるのか、少なくともこのブログにおいては何かを攻撃的に批判するものが多いのは今後も変わらないでしょう。

 今日600円も出して喫茶店でクリームみつ豆食べてきたのに、なんか今は疲れてて文章も荒れ気味です。午前中に洗濯(二週間分)、大掃除したのが原因だろうか……。

2009年4月16日木曜日

若者の政治離れの連鎖現象

 このところNHKの番組を引用してばっかで今日もそうなのですが、一昨日のクローズアップ現代にて若者の政治離れが取り上げられていました。私もいちおう若者に属す側なので、他人事ではないということでひとつ黙って見てみました。

 まずその番組でなるほどと思ったのが、ゲストに来ていた片山善博慶応大教授の発言でした。その発言というのも、このところ若者が政治から離れて投票に行かないことで、政治家らも自分の票に結びつかないことから若者対策の政策を打ち出さなくなってきており、さらに若者の側もそうした政治家の行動から政治から何の恩恵も得られないと感じてますます政治から離れるという、まさに一種の負の連鎖現象が起きているという内容でしたが、なかなか言われることごもっともです。

 ちょっと詳しいデータが手元にありませんが、選挙における若者の投票率は毎回壮年層、老年層と比べて非常に低くなる傾向があると言われております。そうした若者らは決まった政治思想を持たない浮動票であることが多いため、これまで得票を期待して若者に対して選挙で強くアピールする政治家もいましたがそのどれもが最終的には敗北しています。私がはっきりとこの目で見てきたそのような例は大分前の大阪府知事選に出馬した江本猛紀氏の例で、江本氏はこれという地盤を持たなかったために浮動票を狙って若者らに強くアピールして街頭でもよく握手とかしていましたが結果は太田房江氏に大敗し、政治評論家たちも若者を中心に支持者を取り込もうとしたことが一つの敗因だったと指摘していました。

 では何故若者は上の世代と比べて投票に行かないのでしょうか。これは私の例ですが、実は私は現在20代の半ばですが今年になって初めて地方選挙の投票に行ってきました。別にこの一年で急激に政治に目覚めたわけでなければ(14歳の頃から政治に興味はあった)投票にもこれまで何度も早く行きたいと考えていたものの、これまでは大学に通うために住民票がある実家から離れて下宿で生活していたので、学期間中に選挙が行われる際には投票することが出来ずにいました。そんでもって夏休みに選挙があるからこれで投票できると思っていたら、選挙日の前に中国留学へ出発したし……。
 都市部ならともかく、地方出身の学生はこういうパターンの人がそれなりにいるでしょう。

 ただこうした物理的な面より周りの同年代の人間を見ていると、やっぱり候補者の履歴や打ち出している政策が全くわからないという、政治的無関心というよりは政治的無知によるものが投票に行かない一番大きな理由だと思います。これなんか何度かこのブログで書いているのですが、やっぱり後輩などの話を聞いていると政治がどんな風に行われ今何が必要で何が議論されているのかがわからず、興味はあるもののどのように投票したり行動すればいいのかがわからないというのが非常に多いです。
 実際に政治はある程度基礎的な知識を身につけなければ入り込みづらい領域であるため、こうした若者が出てくるのはある程度仕方が無いとは思います。そんな若者たちに一定の知識や解説を行うという目的を含んでこのブログと全然更新していない「陽月旦」私は立ち上げたのですが、やはり文字だけで教えるよりはマンツーマンであれこれ細かく教えた方が効率がいいのかもと思う時もあります。

 とはいえ現在の若者が置かれている現状は不安定な雇用や多大な社会保障負担などと、ここ数十年で最もといっていい位に厳しい状況下にある世代だと言えます。この状況下で若者が投票に行かず上の世代だけが投票に行くとしたら、ますます若者へと負担が押し付けられる政策が通りやすくなるのは予想に難くありません。まぁ私としたら投票に行かない人間よりは投票に行く人間が政治的に厚遇されて然るべきだと思っているのでそれはそれでありだと思いますが、不平不満を言ったりヤケ起こして犯罪を行うくらいであればもっと若者らも投票行動を起こし、強く自分らの主張を訴えるべきでしょう。
 しかし投票に行くにしてもどの政治家が自分らの味方になるのか、どんな政策を支持すれば自分たちにも日が当たるのかがわからないと、下手をすれば自分たちの敵となる人間を議場へ送ってしまうこともあるやもしれません。

 そうしたことを考慮して私は差し当たり、若者内である程度の投票集団を組織することが手っ取り早くて効果が見込めると考えています。これは思想信条が合う者同士で集まってその中から政治について学んでいたりある程度知識のある人をリーダーに決め、選挙時にそのリーダーの指示する政党や候補者に投票する一種の組織票集団を作ることにより、組織票として政治家達にも強い主張を行えるようになるし集団内で政治について教えあうことで知識の向上を図ることがねらいですが、大体100人ほどの集団になればそれなりにいろいろなことができると思います。ま、自分で言うのなんだけど自分らの世代ってまとまりが無いからむずかしいだろうけどね。

  おまけ
 仮に若者が投票に行くようになっても世代別人口では上の世代の方が多いから政策に結びつかないのではとこれまで私は考えていたのですが、総務省の平成17年のデータで調べてみたら以下のような人口比でした。

・20~39歳:34,121,285人
・40~59歳:34,858,120人
・60~80歳:27,877,537人


 という結果で、確かに40~80歳と比べると若者層と私が見ている20~39歳層は人数で見劣りしますが、思ったよりは少なくありませんでした。これだったらきちんと投票行動を行えばいろいろ反映できるとは思うのですが。