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2009年5月7日木曜日

在日外国人の地方参政権問題について

 恐らく今日の記事は見る人によっては強く反発されるであろうことが予想されますが、それを知っておきながらも敢えて私は在日朝鮮人を始めとする、日本の地域に居住している外国籍の人たちに地方参政権を与えるべきだと考えております。

 目下この外国人の参政権問題について世論に強く訴えているのは民主党の鳩山由紀夫幹事長が代表的ですが、この人は以前にもそれまでタブーとされてきた憲法改正を90年代後半から主張するなどいろんな方面で批判を恐れない発言をする人で、今回のこの外国人に参政権を与えるべきという講演をしたところあちこちで槍玉に挙げられては批判されているのをよく見ます。しかし私はというと鳩山氏も選挙前にこんなことを世に訴えれば批判が集まるであろうことがわかっているであろうにもかかわらず発言した度胸といい、また私自身も鳩山氏の主張に共感するところがあり、小沢事件以降の対応などを見てこのところ鳩山氏の評価が急上昇しております。

 では何故私が外国人に地方参政権、つまり地方自治体の首長、地方議会議員選挙の投票権を与えることに賛成であるのかという理由を一つ一つ説明していきます。
 まず勘違いしてもらいたくないのは、あくまで私が与えるべきとしているのは住民票を元に振り分けられる地方選挙の投票権であって、国会議員の選挙などという国政選挙の投票権ではありません。国政選挙の投票権の場合は私は国籍を元に投票権を持つか持たないかをはかるべきであって、今回のように住民票は日本国内にあるが国籍は外国である在日外国人の場合は筋から言ってまだ不適当だと考えています。もっとも、この辺の議論は現在二重国籍を認めるか認めないかの議論に絡んでくる話なので、状況によっては今後の私の立場が変わることは大いにあります。

 それではまず一つ目の理由ですが、彼ら在日外国人も住民票を日本においている制度上、所属する地方自治体に税金を納めているからです。
 そりゃ短期の滞在でならば私も細かいことは言いませんが、数年以上の長期滞在で住民票までも日本において地域の税金をしっかりと支払っている人が、いくら国籍が違うからといって自分の住んでいる自治体の選挙権を持たないというのはちょっと筋が違うんじゃないかという気がします。仮にその自治体の首長がとんでもなく変な人間で、彼らが納めた税金をわけのわからないものに使っているとしても、その首長の対抗馬に投票して環境を変えようとするという行為すら出来ないのはあんまりな気がします。

 次に二つ目の理由ですが、そもそも彼ら在日外国人の絶対数が少ないためです。
 さすがに自治体ごとに細かい統計を見て言っているわけではありませんが、2005年度の国勢調査で日本在住の外国籍人口は全体の1.2%(統計局データより)ほどしかなく、多く見積もったとしても一つの自治体で外国籍の住人が一割に達する自治体は全くといってないと言っていいでしょう。先ほどの鳩山氏の発言への批判でよく見かける意見で、「外国人に日本を売り渡す気なのか」という意見がよく目につくのですが、選挙人口からいって仮に彼ら在日外国人が選挙権を持ったとしても地方政治に反映できる範囲は狭く、先ほどの批判をした方の言われる通りに在日外国人が悪意を持って自分らに都合の良い候補を議員や首長にしようとしても投票人数から言って絶対的に多数派を作ることが出来るはずがなく、先ほどの批判は最初から的外れだと思います。さらに選挙権を仮に与えるとしても入管法が変わらない限りは外国籍の住人が増えるわけでないため、少なくとも現在の日本において政治状況が一転することはあまり考えられません。

 そして最後の一番重要な三つ目ですが、上記二つ目の理由で書いてある通りに仮に選挙権を与えたとしても日本の政治に与える影響はほぼ皆無であるのなら、くだらないところで妙な差別化をするべきでないという私個人の、自分でもややおめでた過ぎるかなと思う気持ちからです。
 私自身はこれまで、出身や身体的特徴から周囲や制度から差別を受けたことはただの一度もありませんが、中学高校時代に自分でも取り立てて意識したわけでない過去の発言や行動を延々と引きずられて批判されたりした際、言いようのない悔しさや怒りを何度も覚えたことがあります。さすがに休日に古本屋にいただけで、わざと私に聞こえるように話の肴にされた時は怒りを通り越して呆れましたが。

 そんな私が仮に出身や国籍だけで差別や偏見を受けると考えたら、それがどれだけ悔しいかと想像するだけで複雑な思いになります。その上、先ほどの鳩山氏への批判の中には「そんなに投票したければ国籍を変えればいいだけだろ」という意見もよく見ますが、もし自分が在日外国人の立場であればやや都合が良過ぎるかも知れませんが、そんな簡単には国籍を変える決断には至れないと思います。例えば両親がまだ生きている場合や祖国への望郷の意識を持っている場合、日本に対していくら恩やありがたさを感じていてもそう簡単には変える気にはなれない気がします。

 たとえ外国籍でも地域で一緒に暮らしている場合、そこに何の違いがあるのか。そう考えるにつけ、こんな大勢に影響するわけでもないことでくだらない差別化をはかるというのは無駄なように思えて仕方ならないし、差別される側も決して気分のいいものではないと思います。特に先々週から土曜日九時からやっているNHKドラマの「遥かなる絆」という中国残留孤児の体験を元にしたドラマを見るにつけ、そうした思いが強くなってきました。
 これはあくまで私の中の例えばの話ですが、非常に善良で能力も優秀な人物が在日外国人として日本で生まれ育ったとしても、今の制度で日本に対して貢献意欲を持ってもらえるかどうかといったら如何なものだと思え、そうした優秀な人間を日本の味方につけるという意味合いでも、もうこうした差別は止めて彼らに地方参政権与えるべきというのが私の意見です。

2009年5月6日水曜日

教育における体罰の是非

 ちょっと時間が経ってしまいましたが、先週に小学校で行われた体罰の是非について最高裁にて判決が出て、一審と二審では教師が児童に行った体罰は不適当という判決がひっくり返り、教師の行為は教育的指導の範囲内で何も問題がないという判決が下りました。この判決について私の意見はというと、なんでこんなくだらないことで裁判が起こされたのかというそれ自体の事実に呆れました。

 詳しい事件の内容を解説すると、何でも小学二年生の男子児童が女子児童を蹴っていたそうなのでそれを見かけた男性体育教師が注意したところ、その教師がきびすを返すや男子児童は今度は教師の背中を蹴りつけたそうです。蹴られた男性教師は男子児童の胸倉を掴んで壁に押し当て、もう二度と人を蹴るなと再度注意したというのが顛末だそうですが、胸倉を掴んで壁に押し当てたのが不当な体罰だと児童の親が自治体を相手取って裁判を起こしたものだそうです。

 まずもってこの事件で私が感じたのは、随分と生意気なガキがいるものだということと、こんなことで裁判を起こす親も親だし、更にはこの男性教師の行動を以って問題ある行動と認定して自治体に児童の親へ賠償金の支払いを命じた一審、二審の裁判官の気が知れないということでした。どう贔屓目に見たって問題があるのは児童の方ですし、一度教師が口頭で注意したにもかかわらずいうことを聞かないばかりか即座に教師に向かって蹴りつけるなんて、胸倉を掴むだけでなく右ストレートを食らわしてもよかったんじゃないかと思います。この事件の教師の行動は私から見て理にかなったもので体罰とかそういったものとは明らかに程遠く、教育的指導として逆に適切なものだったように見えます。そういう意味で最高裁の判決は当たり前といえば当たり前の判決なのですが、それだけに一審と二審の判断には首を傾げざるを得ません。

 そこで体罰の是非についてですが、私は一応は教師が体罰を行うことに対しては反対の姿勢を取っています。それだとさっきと言うことが違うじゃないかと言われるかもしれませんが、先ほどの事件での教師の行動は私は体罰の範囲とは言えないものだと考えており、やはり過度な体罰は教育指導の目的から外れた体罰が横行することだけは避けたいという思いから名目上は体罰反対を掲げています。
 ではどの区切りから私が否定する体罰に当たるのかですが、いろいろな人があれこれこの境界線についてあれこれ意見を出しては判定が難しいと言いますが私の場合は単純明快に、「誰がどう見たってやりすぎだろ」と思うような行為が体罰に当たると考えています。

 例えば私の中学校の教師は授業に教科書を忘れた場合に一発軽く拳骨を男女関係なしに与えていましたが、私はこの拳骨に対して不当だと感じませんでしたし、教科書を忘れれば自分以外の皆も受けるので嫌がってはいたものの誰も文句は言っていませんでした。このように体罰が平等に行われているか、また拳骨一発程度と極端に痛みを与える行為でないこと、そして何よりクラスや学年全体で大きく不当だという声が多数派にならないことがその行為が正当かどうかを決めると考えています。逆を言えば、当事者本人はともかく皆が皆であまり不当だと思わない限りはなにも問題ないんじゃないかと思います。

 ここで話は変わりますが、以前に私がロンドンで会った日本人の方の高校時代の話を紹介します。
 その方は中学校でバトミントンに熱中して進学先の高校もスポーツ的環境のよい学校、つまりは体育会系のある高校へと進学しました。その学校は何もバトミントンだけが強いだけでなく、近年も硬式野球部が甲子園に出場するほどのスポーツ校で集まる生徒も勉強は出来なくとも元気だけは十人前という学校だったらしく、教える教師も教師で皆が凄腕ぞろいだったそうです。まず私が一番驚いたのは、

「うちの高校の教師は皆一人一つは武器を持っていた」

 という事実でした。
 先ほど書いたように私の中学校では教科書を忘れた際には拳骨がありましたが、その学校の確か国語教師は武器が竹刀だったらしく、校内にいるときは常に竹刀を持ち歩き、授業に教科書を忘れた生徒が出てくるや教室の前に呼んで壁に手を付かせてから思い切り太ももを竹刀で叩いていたそうです。何故壁に手を付くかですが、太ももをかばおうと手を出して竹刀に当たると指の骨が折れるそうだからです。
 この竹刀の教師に限らずその方の所属していたバトミントン部の顧問は騎乗用の鞭が武器だったそうで、毎回テスト明けに赤点の数だけ部員の太ももを叩いていたそうですが、一度だけ食らったその方が言うには、

「あれは馬も走るよ」

 だそうで、相当痛かったそうです。にもかかわらずその方の友人で赤点を五つも出した人がいて、当然五回も叩かれるのですがあまりにも痛いもんだから一回、二回、三回、と太ももの裏を叩かれる度に前に跳ねて位置が動くもんだから四回目からその顧問はバトミントンで言うバックハンドで今度は太ももの表を叩いたそうで、さすがバトミントンを教えてるだけあると部員皆で感心したそうです。

 私から見たらこれらの教師の行為はさすがにやりすぎなんじゃないかなぁと思ったりもするのですが、当の本人たちはこれくらいでなければ自分たちも言うことを聞かないだろうし、元から体力が余っているというのもあって誰も不当だと文句を言わなかったそうです。また体育会系の生徒ではなくあまり運動をしない勉強型の生徒に対しては教師らもこうした体罰は行わず、代わりに授業時間中ずっと椅子の上で正座(これもきついだろうが)させることで代替とし、それに対して他の生徒も「あいつだからしょうがないな」と、不平等だとは思わなかったそうです。

 なお先ほどの竹刀の教師ですが、なんでも修学旅行中にも竹刀を持って来ていたそうなのですが、ある生徒が逆切れを起こして教師から竹刀を奪い取るやその場でへし折って、「だからなんなんだよ」とすごんだそうです。さすがに竹刀を折られた日はその教師は元気がなかったそうなのですが、まだ修学旅行中の次の日には早くも別の竹刀を持っており、スペアがあったんだと生徒全員で驚いたそうです。
 ちなみにその修学旅行は九州への旅行だったそうですが、移動手段は関東からバスと、体力自慢のその方にとってもハードな旅行だったそうです。

2009年5月5日火曜日

ホラーゲーム「零~紅い蝶」攻略完了!

 ゴールデンウィーク真っ只中というのに、用意しているネタはたくさんあるのにゲームばかりしてブログの更新をサボっていました。それで更新をサボる位にどのゲームをしていたかというと、テクモが大分以前に出した「零~紅い蝶」という、その筋では有名なホラーゲームをやっていました。
 元々この作品の前作に当たる「零」はもう六年も前に購入してクリアしているのですが、何故か続編の「紅い蝶」は今まで全然手を出さずに時が過ぎ、先週にゴールデンウィークに一気にプレイできる作品として何かないかとゲーム屋で探していたらワゴンにあるのを見つけ、今回一気に貫徹した次第です。

 さてホラーゲームというとこれまでも私はいくつか遊んできましたが、この「零」シリーズはいろんなところの評論にも書かれている通りに、「しっとりとしたジャパニーズホラー」の代表作として、恐らく日本というよりは海外での評判の方が高いと思います。私が昔に見た評論ではイギリスのゲームジャーナリストが大一作目の「零」をプレイして、

「もう勘弁してほしい。これほど恐いゲームだと評論を書く前にゲーム進められない」

 と書いていたの見たことがあり、事実イギリスやアメリカで高い評価と売り上げを収めたと聞いております。

 そんな「零」ですが、具体的にどんなゲームかというとなかなか凝った設定で、舞台はいかにもな日本家屋で出てくる幽霊も古い格好した日本人ばっか、そしてそんな幽霊を撃退する手段というのがカメラという一風変わった手段の推理アクションゲームです。それにしてもこの幽霊への攻撃手段がカメラというのはよく考えたものだと感心するのですが、見るのもおぞましい幽霊を無理やりにカメラに捉えて見なきゃいけないという作り手の遊び心が感じられます。まぁ慣れて来ると平気でバシバシ写真撮れるんだけどね。

 それでゲーム内容についてですが、正直に言って今回の「紅い蝶」も前作も非常に面白い内容でした。ただ恐怖の演出のために仕方がないとは思いますが画面全体が異様に暗いせいで、プレイしていると目が凄い疲れるのでゲームを止めた後のものすごい疲労感は言語に絶します。目が悪い私だからかもしれませんが。
 そして肝心の恐怖演出についてですが、他の人の批評を見ているとやっぱりすごい恐いという人が多いのですが、私はこのゲームでそれほど恐いと思うことはありませんでした。何で恐くないのかというとやっぱりこのゲームでは敵キャラこと幽霊を撃退する攻撃手段があるからで、逆に反撃手段が一部のシナリオでは全くなく敵から逃げ回ることしか出来なかった「サイレン」はあまりの恐さで毛布被って震えながらやっていました。

 シナリオについてはネタバレになるので詳しくは言及しませんが、日本らしいシナリオでよかったと思います。ただ少し不満を言えば、私がやったPS2版に比べてXbox版ではおまけ要素からエンディングの数でも多く付与されているのを考えるとなんだかPS2版を買った人間が馬鹿を見るような不平等さだと思います。テクモは昔からXbox贔屓だというのは聞いていますが。

 最後に第一作の「零」のレビューを漫画家の柴田亜美氏が以前に「ドキばく」というマンガの中で、ご多分に漏れずあまりの恐怖になかなかゲームが進められなかったことを書いていましたが、そのマンガの中で担当編集者に電話にて、

「ちょっとオザワ君(担当)、なんか今出てきた霊がエルフ(美少女ゲーム会社)の社長にそっくりなんだけど!」

 というセリフと共に、エルフの社長っぽい霊の絵に、「柴田さーん、またすごいの作っちゃいましたよ」というセリフをくっ付けられていたコマで爆笑したことがありました。こうしたレビューが功を奏したのか、「紅い蝶」の中では自縛霊として柴田氏やオザワ氏も出演しています。

2009年5月2日土曜日

日本人の宗教観

 よく日本人は外国人に対して自分たちは無宗教だ、宗教的にはやや特別だなどといって相手に「?」、と思わせることが多いと思います。実際に私もイギリスでそのような現場を見たことがあるし、日本国内においても自分は無宗教で特定の宗教に属していないと思っている日本人が大半だと思います。しかし結論から言わせてもらうと私は、九割以上とも言われる日本人が正月の三日間の間に初詣に行くという現象が起こっていることから、十分に宗教意識はあると思うし少なくとも無宗教だとは言わないと思います。

 例えば先ほどの初詣にしろお盆の墓参りについてもほとんどの日本人はそれが宗教的な行動だとは意識して行っていないと思いますが、神社という神様とつながりのある場所へ正月に赴いたり、死後の霊的な存在に対して線香をたくなどして敬意を表す行動を取るなど、私は外国人の目からすれば十分に宗教的な行動に見えると思います。
 では欧米人のキリスト教やイスラム教に対する行動とと日本人の神道や仏教に対する行動がどのように違うかといえば、一言で言えばそれを宗教的なものと強く意識するかしないかだと思います。日本人は初詣やお墓参りについてそれが宗教的な行動だと考えずむしろ民族的な慣習のように考えて行っていると私は考えますが、宗教も慣習が発展した一つの形態だとするならば、さらに先祖崇拝や霊的存在に対する行為だとするのならば立派な宗教的行動だと言えるのではないでしょうか。

 にもかかわらず日本人は何故最初に挙げたように自分たちは無宗教だと考えるのかというと、これまたやや単純過ぎる気もしますが、恐らく欧米人のような姿を想像しては、特定の宗教に属すからにはそれ相応の決まった規則などを履行したり信心などをしっかり持たないといけないと考えているからだと思います。
 この辺について以前に佐藤優氏の「自壊する帝国」の中で、佐藤氏があったロシア人が、

「日本人の神道に対する態度のように、ロシア人にギリシャ正教を国民宗教として持たせたい」

 と言った記述を読み、私の中で合点が行きました。

 そのロシア人は同国内の住人が皆同じロシア人だと共通意識を持つ統合の象徴としてギリシャ正教を国民宗教にしたいと考えたのですが、その言わんとする国民宗教というのはその当該国民の間ではっきりと意識しないまでも当たり前のように持つ共通認識というような意味合いです。つまり日本の神道、ひいては仏教というのは日本人の間で表立って意識しないまでも共通認識となっており、国民として統合させている一つのキーだというのです。言い方を変えれば、当たり前になりすぎていてもはや宗教だとは感じなくなっているとも言えるかもしれません。

 そういった意味で日本人は意識しないまでも、私は神道と仏教の合いの子みたいな宗教に属していると考えています。少なくともどの日本人も、「この世には、神も仏もいねぇっ!」と、常日頃からパンクロックに言っている人は少ないだろうし、また神社やお墓が何者かに破壊された際に、「なんて罰当たりな……」と思わない人も少ないとでしょう。何も欧米人のような信仰の形が決まった宗教の姿というわけではないのですから、意識しないのが自分たちの宗教観だと日本人は考えてもいいと思いますし、また最初に言ったように少なくとも無宗教じゃないというのが今日の私の意見です。

2009年5月1日金曜日

年次改革要望書について

要建て替えマンションが146万戸!全国で実質“野ざらし”の深刻(YAHOOニュース)

 上記にリンクを貼ったニュースはこのところ不況が報じられるマンション業界について、新築の着工や販売よりも建替えや補強の必要な「要建替え住宅」の対策がほとんど進んでいない現状を伝えるニュースなのですが、この記事を読んでちょっと疑問に感じたことがあるので今日はその点について書こうと思います。

 自分でもやや穿ち過ぎた見方をしているかもと思うのですが、記事中にてかつての耐震基準で建てられたマンションや建築物では阪神大震災クラスの地震が来た際に倒壊の恐れがあるものの、費用などの関係でこうした対策が現在進んでいないと報じているのですが、専門家ではないので断言こそできないものの、私の記憶では日本の建築基準法の耐震基準は阪神大震災以後、それ以前の基準より確か緩和されていたと思います。もしこれが仮に今でもその通りであれば記事中の、

「先の阪神・淡路大震災で倒壊したマンションの多くが旧耐震だったこともあり、早急な耐震補強や建て替えが求められている。」

 という記述は旧耐震基準の建物の方が頑丈なのだし、なんだかおかしな内容になってきます。まぁ本当のところはどうなのかは私では確認できないのですが。

 ところで何で文系のくせに私がこんな耐震基準について細かいことを知っているかですが、これはかつて読んだ関岡英之氏の書いた記事を読んだことから知りました。
 関岡氏はリンクに貼ったウィキペディアの記事でも書いてある通りに一旦は就職して企業で働いていたものの一度退社し、建築家になろうと大学に入りなおして建築の勉強をしていました。その勉強の途中、関岡氏は前述したように阪神大震災以後に日本の耐震基準が何故か緩和されていることに気が付き、震災によってたくさんの建物が倒壊した後にもかかわらず何故逆に耐震性の基準が緩められたのかを追っていったところ、あの悪名高き日米の年次改革要望書に行き着いたわけです。

 この年次改革要望書は事実上、関岡氏の活動によって初めて大きく取り上げられたといっていいでしょう。私も確か文芸春秋に載った関岡氏の記事で初めて知りましたが、これは宮澤喜一が無能だった割には首相だった頃、当時のアメリカの大統領のビル・クリントンとの間で日米双方で互いに要望する政策意見を交換し合おうという名目の下に始まった制度で、現在も毎年日米間でこの要望書が交換され続けています。
 もしこれが本当にただお互いの意見を交換するだけなら何も害はないのですが、よくよくこの要望書の中身を見てみるとそれ以後の日本の政策にアメリカ側からの要望が色濃く反映されているのに対し、日本からアメリカへの要望書の内容は全く実現されない、というより無視されているのに近く、実態的にはアメリカが日本に対してアメリカにとって都合のいい政策を押し付けている内政干渉なのではないかと、関岡氏が自著の「拒否できない日本」において発表したことによって日の目を浴びました。

 私はこの年次改革要望書を読んだことはないのですが(外務省のHP上で公開されているらしい)、過去の内容では郵政民営化、ホワイトカラーエグゼンプション、三角合併、法科大学院の設置などが盛り込まれていて、これを読めば日本の未来がわかるとまで皮肉っぽく言われています。
 差し当たって目下この年次改革要望書が強く影響したと思われる日本の政策変更を私から一つ挙げると、開始まで一ヶ月を切った「裁判員制度」が挙がってきます。この制度も数年前の年次改革要望書の中に入っていたそうですが、何故この制度が日本で行われるのかといえば単純にアメリカの司法制度に近づけるためだと言われています。アメリカの司法制度に近づけることでどうしてアメリカが得をするのかというと、ゆくゆくはまるまんまアメリカと同じ司法制度にしてしまい、アメリカの弁護士免許を持っている弁護士が日本でも働けるようにと、常に供給過剰と言われるアメリカ人弁護士の救済のために盛り込まれたと言われていますし、私もまさにその通りだと思います。

 郵政民営化についてはアメリカの策謀というよりは小泉元首相の私怨によって実現したと私は考えていますが、建築法、ひいては現行の司法改革については関岡氏の言う通りにアメリカの影響によるものでしょう。それにしてもくだらないニュース一つから年次改革要望書を持ってくる辺り、自分らしい書き方だなぁと思います。

2009年4月30日木曜日

何がいいマンガなのか

 今もCDを流して作中で使用された「Crazy for your love」という曲を聴いていますが、私はしげの秀一氏の「頭文字D」というマンガが大好きで単行本も集めて持っております。このマンガにハマった理由を話せばいろいろと笑えるのですが、中国の留学中にやけにあちこちでこのマンガのアニメDVDが正規版、海賊版を問わずどこでも売られているのを見て、なんで中国人がこのマンガにハマるのかと試しに日本に帰ってきてから読んでみたところ中国的な要素が強い私もすっかりハマってしまったというわけです。

 その後うちの親父にもこのマンガを薦めてみたところ一緒になってハマり、二人で買うんだったらランエボかコペンかとまで話し合うくらいになったのですが、親父はこの「頭文字D」よりも同じ作者のこれ以前の作品である「バリバリ伝説」を若い頃読んでいて、今回「頭文字D」を読んであの時の興奮を思い出し、お袋に内緒で(すぐにばれたけど)オートバイクを購入して現在も広島で乗り回しているそうです。もっともちょっと前にバイクからすっ転んで鎖骨を折り、ソニー損保が思ってた以上に保険金くれたからお袋は「もう一本折って来い」と親父は言われてたけど。

 しかし改めて考えてみると自分と親父で年齢差は三十年以上あるのに、同じマンガにハマるというのもなかなか珍しいものです。ただ「頭文字D」は舞台設定がスタート時は90年代中盤だったということから読者層は比較的年齢が高い層が主らしいですが、自分の周りの同年代の友人も読んでいる奴は読んでいるのでストライクゾーンが広いマンガといえばそんな気がします。ちなみに友人と私はエボⅢを操る須藤京一が一番好きです。

 実はこの読者の年齢層ですが、私はこれがマンガの良し悪しを見極めるのに非常に大きな指標だと前から感じています。よく何がいいマンガかどうかを決めるのかという議論があり、作品の内容だとか面白さ、もしくは画力だとかいろいろと挙げられますが、私は一言で言えば、「どれだけの範囲の読者を引き込んだか」というのが単純で最も重要だと思います。
 例えば誰もが高く評価してやまないマンガの神様である手塚治虫のマンガ郡ですが、「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」といった作品は私が子供だった頃に読んでも面白かったですが、成人した今になって読み返してみると子供だった頃とは違った読み方が出来て、あの時とは別の感覚での面白さを覚えました。

 このほか近年の作品だと「ドラゴンボール」や「クレヨンしんちゃん」(こっちは特に映画版が)など、子供から大人まで幅広く愛されるマンガは間違いなく名作だとして高く評価されます。この読者を選ばない魅力というのが、私はマンガの作品としての質を測る上で最も重要だと考えています。逆を言えばどれだけ一部の層から熱烈に評価されても、非常に限られた狭い層にしか評価されないというマンガはやっぱり全体的な評価としては低く見積もるしかないんじゃないかと思います。実際、そうしたマンガというのは忘れ去られるのも早い気がするし。
 でもそれを言ったら、「究極、変体仮面」は今もアスキーアートが作られるくらいだけどなぁ。

大衆消費社会の復権はあるのか

 もうすでにこのブログも解説から一年半くらい経ち、検索ヒットワードを調べてみるとそれこそいろんな言葉が入っていて自分で見ていてもそこそこ楽しいのですが、中には自分が全く意図していなかった言葉が検索数で上位に入っていてしばしば驚かされます。そうした検索ワードの中の一つに、「トリクルダウン」という言葉が入っており、これはそのままの題となっている「トリクルダウン」の記事がヒットするのだと思うのですが、自分としてはこの記事はそれほど意識して書いた記事ではなく、ほかでもこの経済学用語をもっと詳しく解説しているサイトも多いのになんでもって自分のサイトに来るのかといろいろと不思議に感じています。

 そんなトリクルダウン、意味は件の記事でも書いている通りに今は亡きミルトン・フリードマンが生前に唱えた経済論で、要は金持ちをもっと金持ちにすれば経済全体のパイが大きくなって所得の低い人もその恩恵を受けることでみんなで所得が増えていくという主張ですが、この政策を強烈に推し進めてきたブッシュ政権が終わった挙句にこの時のしわ寄せで今大不況となってしまったことから、このところ一挙に死語と化しつつあります。

 その一方で、かつての高度経済成長期に金科玉条とされた経済政策の「大衆消費社会論」は復権するのかといったら、経済誌やテレビでの言論を見ている限りまだあまり大きな動きにはなっていないように私見には感じます。この大衆消費社会論というのは変な横文字のトリクルダウンと違ってわかりやすく、文字通り所得の低い層にお金を使って消費力を高めて中間層を増やすことにより、経済全体のパイを大きくなるという経済原論のことです。
 敢えて比較するとしたら、トリクルダウンは積み上げていって大きくするのに対し、大衆消費社会論は底上げをして経済規模を大きくするというような具合です。

 前回の記事でも書きましたがトリクルダウンは主に南米諸国で政策的に誘導が行われたものの、現象としては実体を伴った経済成長は一度も起こったことはありませんでした。それに対して大衆消費社会論は高度成長期の日本を始め、今現在のお隣の中国を含めて世界各国で経済成長を達成しております。
 もっともこの大衆消費社会による経済成長には限界があるとしてトリクルダウンが提唱された背景があるだけに、これが万能な経済政策だとは私は思いません。しかし現在の日本を見ると若者の失業率が依然と高いままで、また最低限度の生活も保障されずに派遣労働をして食いつないでいる姿を見ると、今であればこの大衆消費社会を誘導するような政策は効果を出せるのではないかと考えております。

 では具体的にどんな政策をすればいいの、かつての高度経済成長期のように政府が税金をばら撒けばいいの、それだったら今度の麻生政権の補正予算は税金使って大盤振る舞いだからいいんじゃないの、という風に考える方もいるかもしれませんが、私は今度の補正予算案は高度経済成長期とは全然逆の志向を持つ、むしろトリクルダウン的な要素の方が強い内容だと思います。というのもハイブリッド車を購入すれば最大二十万円還付されるとか、ETCをつければ高速道路が千円で乗り放題とか、エコ家電を買えばエコポイントが付くなど、どれもそうした自動車や家電を購入できる層にしか恩恵が来ない内容だからです。そうしたものを消費する余裕がない層や、本格的に費用がかかりだしてくる中学生、高校生の子供を持つ世帯ではなく三~五歳の子供を持つ世帯に三万六千円を配るなど、どこかピントがずれた内容にしか思えません。

 格差がどうのこうのと言うつもりはありませんが、一体どんな社会を目指してどんな政策を取るのか、そうした姿が見えてこない今の法案については私は徹底的に反対です。