随分と久しぶりにこの「新聞メディアを考える」のカテゴリーを用いますが、今日は私が新聞業界において最も問題性があると感じられる「拡張」について、私の知っている内容を紹介しようと思います。
拡張と書くと新聞社が一体何を拡張するのかと感じられるかもしれませんが、これは言うなれば新聞購読の勧誘のことで、よく一人暮らしとかしていると夜中にやってくるあれです。こうした新聞の新規購読を促す営業の事を新聞業界では「拡張」と呼ばれ、この営業を行う人員たちも「拡張員」と周囲から呼ばれております。
こうした拡張が何故行われるのかといえばそれはやはり新規契約を得る事によって購読者数、ひいては新聞の販売収入を増やす事が目的とされているのですが、現在に至ってはそのような目的はほぼ有名無実と化しており、新聞業界のチキンゲームのような様相を為しているのが実態です。
具体的にこの拡張で何が問題なのかといえば、新規購読契約者に対する見返りです。こうした新聞の勧誘を受けた方なら分かると思いますが、大抵どこの新聞社も契約を条件に洗剤やら野球のチケットを新規契約者に見返り品としてくれます。こうした見返り品は通常「拡張材」と呼ばれて拡張員が申請することで新聞社本社やその支部が購入して拡張員へと配布されて使用されるのですが、一体それらの見返り品がどれだけ購入されてどれだけ部数の増加につながっているかという具体的なデータは新聞各社からは公開されておりません。
というのも基本的に拡張員は各新聞販売店の従業員が兼ねる事が多いのですが、そうした拡張員が見返り品を本来の目的である販売拡張には使わずに、そのまま金券ショップなどに持っていって自分の懐に入れてしまうといった問題のあるケースが非常に多いからです。これはこの前に友人に貸してもらった「メディアの支配者」(中川一徳著)にて紹介されている事件ですが、以前にそうした見返り品の申請を拡張員から受けて発注を行っていた支部の責任者が、自らの権限を使用する事で新聞社(産経)に金券を大量に購入させる傍から換金し、なんと数千万円にも及ぶ金額を横領していたという事件もあったそうです。無論それらの経費は新聞社が最終的に引き受けることとなったのですが、そうした経費は経営維持のために周りまわって購読者への新聞販売価格に影響することになります。
このようなとんでもない額とまでいかなくとも、関係者などから話を聞くとみんな多かれ少なかれこのような横領をやっているそうです。またこうした横領に留まらず、見返り品が配られる対象にも大きな問題が潜んでおります。
新聞は基本的にどこも三ヶ月契約から行えるのですが、契約の度に見返り品がもらえるという事もあって中には見返り品をもらう為だけに意図的に契約を三ヶ月ごとに更新する方も少なくありません。それに対して以前からずっと同じ新聞を購読している人間はというと毎月購読料を払っているにもかかわらずそうした見返り品をもらえることは一切なく、この構図は言い換えるとずっと購読している人間の払う購読料によって得た収入で、新聞社はころころと契約を変える人間に対して見返り品を購入してあげているという構図になります。
業種こそ違えど、携帯電話会社の契約争奪合戦が激しかった数年前には「0円携帯」という、新規契約者に対して新型携帯電話機の購入費用を携帯電話会社が実質的に負担することで契約を得るという販売方法をどこも行っていました。しかしこの販売方法だと同じ契約料でも既存の契約者層に対して、携帯電話機目当てに契約を度々変える人間がもらえる電話機代の分だけ得していることになるとして、公正取引委員会からの指摘を受けることによって現在ではすでに廃止されておりますが、現在も続いている新聞の拡張の構図はこれ全く同じと言っていいでしょう。
またこうした費用面の問題に留まらず、確か数年前に拡張員が強引な勧誘を行って暴行を加えたというヤクザまがいの事件も起こっており、夜中に突然押しかけしつこく勧誘するなどといった拡張員のモラルについてもよく取りざたされます。彼ら拡張員からすると取って来た新規購読契約の数だけ報酬が得られるので、報酬目当てにひどいものになると購読料は三ヶ月は無料だなどとありもしないでまかせを言って契約させるという例まであります。またそういった拡張員に対して、三ヶ月ごとにころころ契約を変える購読者は上客になってしまう事実もあります。
このように費用がかかるだけかかってそのくせ購読者が定着しないのに、一体何故新聞社がこのような拡張にお金をかけるのかといえば、一言で言えば目先の部数が目当てだからといわれております。この拡張に負けず劣らず問題性のある「押し紙」についてもそうですが、新聞社は発行している部数が多くあると言えば言うほど広告費を得られる構図となっており、それこそ水増ししてでも部数を多く見せようとします。そのため定着しないとは言え少しでも部数を上積みしてくれるのであれば湯水のようにお金をかけて得ようとするそうです。そうした少ない部数を奪い合う形で、新聞各社はチキンゲームのようにお金をかけて拡張合戦を繰り返しているというのが現在の状況です。
私に言わせると、そもそも紙面を充実させて購読者を得ようとするのではなくこのような拡張に大金をかけること自体が新聞社として間違っているように思え、また営業もするならするで契約を次々と変える人間ばかり相手して既存の購読者を大事にしないというのも非常に卑怯だと感じます。そして広告費の算定についても、何故未だに発行部数ではなく購読契約者数(どこも公表していない)を用いないのか、もっとスポンサーは怒ったっていいでしょう。
なお新聞の集金を行っているうちのお袋のよると、ずっと同じ新聞を購読している人はみんな人当たりがよくて集金に行っても金払いよく払ってくれるのに対して、契約を何度も変える人は金払いも悪いだけでなくあれこれ難癖をつけてくる人が多いそうです。さもありなんな話です。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年11月11日水曜日
2009年11月10日火曜日
読書感想文は必要なのか
以前に見たテレビ番組にて、小中学生への夏休みの宿題である読書感想文をなくせと主張している人を見る事がありました。その人によると読書感想文は大人が本来子供が読みたがらないような本を課題図書にして無理やり読ませるためかえって本嫌いの子供を増やしており、また最近はインターネットの発達によって作品ごとに読書感想文のテンプレートがネット上にあり、横着な子供はそのようなサイトを丸写しするために最早なんの教育にもなっていないという主張でした。
この人の主張を全面的に肯定するわけではありませんが、私も現行の読書感想文というものはやはり問題が多いように思え、やるかやらないかといえば私もやらない方がかえって良いのではないかと考えております。
元々私は読書感想文は本を読まない子供でも一応は活字を読む一つのきっかけになるとこれまでは肯定的に見てきていたのですが、この手の議論を見ている中で注目した意見の一つに、読書感想文は大人の意に沿う形で書かないといけないから問題だ、という意見を見てからは見事に立場がひっくり返りました。
それこそまず課題図書自体が大人の目から選ばれているために子供の本を選ぶ自由を奪っていますし、またそうして決められた課題図書の内容も私の子供時代を思い起こすと、もっと他に選ぶ本はなかったのかと思うくらいにどれもつまらない本にばかりだった気がします。
そしてそうやって大人によって選ばれた本に対して書く感想文についても、これまた大人の意に沿う形で基本的には本の内容に肯定する形で書かなければならず、たとえ読んでつまらなかったと思ったとしてもどこが面白かったのか、どういったところが印象に残ったのかを無理やりにでも見つけ出して書かなければなりません。まかり間違ってその本を批判しようものなら、たとえどれだけその批判が的を突いた批判だとしても賞を取る事はおろか、場合によっては真面目に書けなどと怒られて書き直させられるかもしれません。
では実際に読書感想文で本の内容を批判的に書くとしたらどんなものになるのか、ちょっと自分で適当に考えて見ました。
「実にくだらない内容の本である。内容は陳腐でお粗末極まりないもので、こんなくだらない本を課題図書に選んだ選者たちは自らは裸の王様であることをすべからく自覚すべきである」
やっぱり書いてみると分かりますが、こんな内容の感想文なんて今までに見た事ないです。
私自身も文章を書くのは割と昔から好きでしたが、この読書感想文はやっぱり書かされているという感じが強くてどうしても好きになれませんでした。言ってしまえば書きたくない感想を無理やり書かされているようなもので、こんなことをしたら子供はますます文章を書きたがらなくなるのではないかと私も思います。
それならばいっそ、子供がまだ書きたくなる本を漫画やジュニア小説でもいいから自由に選ばせて書かせたほうがずっといい気がします。感想文と来たら文豪の小説でないと駄目などといろいろくくりがありますが、それら文豪の小説も二葉亭四迷の時代では、「そんなものばかり読むな!」と大人たちに怒られていたそうで、そう考えると今の漫画も大差ない気もします。
一番大事なのは子供たちの意見を無視して強制的に文章を書かせず、本人らがある程度の自発性を持って書ける文章を書かせることにあると思います。枚数もこの際自由にして、つまらないというのならその理由をきちんと長々と書いたら評価するようにした方がいろいろと幅も広がって面白くなってくる気がします。
最後に、自由に本を選べといってもこれを選んだらいろいろと変な目で見られそうな本をいくつかリストアップしておきます。
・「我が闘争」 ヒトラー著
・「資本論」 マルクス著
・「毛沢東語録」 毛沢東著
・「三島由紀夫全集」 三島由紀夫著
ついでに書いておくと、現在も評価の高い三島由紀夫の作品は例の事件のせいで国語の教科書に載せると検定に落ちてしまうので、学校教育の場で扱われることは今も全くないそうです。
この人の主張を全面的に肯定するわけではありませんが、私も現行の読書感想文というものはやはり問題が多いように思え、やるかやらないかといえば私もやらない方がかえって良いのではないかと考えております。
元々私は読書感想文は本を読まない子供でも一応は活字を読む一つのきっかけになるとこれまでは肯定的に見てきていたのですが、この手の議論を見ている中で注目した意見の一つに、読書感想文は大人の意に沿う形で書かないといけないから問題だ、という意見を見てからは見事に立場がひっくり返りました。
それこそまず課題図書自体が大人の目から選ばれているために子供の本を選ぶ自由を奪っていますし、またそうして決められた課題図書の内容も私の子供時代を思い起こすと、もっと他に選ぶ本はなかったのかと思うくらいにどれもつまらない本にばかりだった気がします。
そしてそうやって大人によって選ばれた本に対して書く感想文についても、これまた大人の意に沿う形で基本的には本の内容に肯定する形で書かなければならず、たとえ読んでつまらなかったと思ったとしてもどこが面白かったのか、どういったところが印象に残ったのかを無理やりにでも見つけ出して書かなければなりません。まかり間違ってその本を批判しようものなら、たとえどれだけその批判が的を突いた批判だとしても賞を取る事はおろか、場合によっては真面目に書けなどと怒られて書き直させられるかもしれません。
では実際に読書感想文で本の内容を批判的に書くとしたらどんなものになるのか、ちょっと自分で適当に考えて見ました。
「実にくだらない内容の本である。内容は陳腐でお粗末極まりないもので、こんなくだらない本を課題図書に選んだ選者たちは自らは裸の王様であることをすべからく自覚すべきである」
やっぱり書いてみると分かりますが、こんな内容の感想文なんて今までに見た事ないです。
私自身も文章を書くのは割と昔から好きでしたが、この読書感想文はやっぱり書かされているという感じが強くてどうしても好きになれませんでした。言ってしまえば書きたくない感想を無理やり書かされているようなもので、こんなことをしたら子供はますます文章を書きたがらなくなるのではないかと私も思います。
それならばいっそ、子供がまだ書きたくなる本を漫画やジュニア小説でもいいから自由に選ばせて書かせたほうがずっといい気がします。感想文と来たら文豪の小説でないと駄目などといろいろくくりがありますが、それら文豪の小説も二葉亭四迷の時代では、「そんなものばかり読むな!」と大人たちに怒られていたそうで、そう考えると今の漫画も大差ない気もします。
一番大事なのは子供たちの意見を無視して強制的に文章を書かせず、本人らがある程度の自発性を持って書ける文章を書かせることにあると思います。枚数もこの際自由にして、つまらないというのならその理由をきちんと長々と書いたら評価するようにした方がいろいろと幅も広がって面白くなってくる気がします。
最後に、自由に本を選べといってもこれを選んだらいろいろと変な目で見られそうな本をいくつかリストアップしておきます。
・「我が闘争」 ヒトラー著
・「資本論」 マルクス著
・「毛沢東語録」 毛沢東著
・「三島由紀夫全集」 三島由紀夫著
ついでに書いておくと、現在も評価の高い三島由紀夫の作品は例の事件のせいで国語の教科書に載せると検定に落ちてしまうので、学校教育の場で扱われることは今も全くないそうです。
2009年11月9日月曜日
西洋列強と東洋を分けたもの
以前に書いた記事で私は資本主義は必ずしも西洋にて16世紀に起こったものではないと主張しました。では19世紀の帝国主義が吹き荒れたあの時代、世界各地に植民地を作った西洋列強諸国に対してことごとく敗退して国土を奪われていった日本を除くアジア諸国、特に眠れる獅子として当初は恐れられた中国はどうしてこれほどまでに遅れを取ったのでしょうか。
結論から先に言えば、私は間違いなく産業革命の差にあると思います。機関銃や大砲に代表される銃火器を始め、風がなくとも進む蒸気船に代表される造船技術など、当時の西洋と東洋では実用的な技術において格段に西洋が東洋を上回っていました。そうした技術はスチーブンソンが発明した蒸気機関を始めとして産業革命期に次々と生まれて実用化されていき、いわばそうした産業革命を先に起こして技術革新を遂げていたがゆえにあの時代に東洋諸国は西洋列強に辛酸をなめる事になったと私は見ております。
しかしさらにさらに話を掘り進めて行くと、どうしてそれら産業革命が東洋ではなく西洋で先に起こったのかという話になってきます。これについてもさっさと結論を言うと、それ以前の16世紀から17世紀にかけての科学に対するそれぞれの文化の姿勢が大きく影響していたのではないかと考えており、今日はそういった科学に対する文化のバックグラウンドについて解説します。
まず最初に断っておくと、昔の中国は決して遅れた国ではありませんでした。日本では戦国時代に普及した鉄砲もそれ以前から大砲のような形ですでに使われており、15世紀までは間違いなく世界で最も先端的な技術を持つ国でした。しかしそんな中国も大体17世紀に入る辺りから徐々に西洋諸国に技術面で追いつかれていきます。どうして当時の西洋諸国がそれだけ技術の発達が起こったのかといえばレオナルド・ダヴィンチやガリレオ、ニュートンを始めとした天才が続々と出現したのもさることながら、科学の研究に対するタブーの度合いが西洋と東洋の文化では圧倒的に違ったのが大きな原因ではないかと思います。
具体的にどういうことかというと、17世紀以後の中国や日本では国家がその政権を維持するために研究してよい学問分野を規制し、官学というものを作っていきました。日本ではこれが儒学ですが、儒学以外の学問を研究しようとしても本草学や医学以外は大抵弾圧され、また学者として生計を立てることもままなりませんでした。
それに対して西洋では16世紀に起こった宗教革命、そしてイタリアにて起こったルネサンス運動によってそれまで様々な面で人々の行動を規制していた宗教のタブー性が薄まっていきました。特にルネサンスは強烈で、それまで神々や悪魔の仕業とされていた病気などについても実証的な研究が始められるきっかけともなり、また何かを探求する上で大学などが整備されていった事もあって大幅に学問の自由が認められるようになっております。
ちなみにその16世紀に活躍した先ほども挙げたガリレオですが、彼は地動説を唱えたものの教会によって弾圧されたとよく言われておりますが、その一方で当時からすでに西洋では地動説が有力となっており、この裁判の存在(ガリレオへの弾圧)自体がなかったのではないかという説があります。私としてもその後のニュートンやケプラーの時にすんなりと地動説が通った事を考えると、やっぱりこの弾圧話はやや誇張があるのではないかという気がします。
このように科学研究のタブーについて東洋と西洋ではっきりと分かる例は他にもあります。
そうした最も好例ともいえるのは実は杉田玄白が翻訳した「解体新書」で、当時の日本では人体の解剖は倫理的、道徳的なタブーから厳しく禁止されていたのですが、西洋では16世紀にレオナルド・ダヴィンチが行っているのを始め、「解体新書」の原本の「ターヘルアナトミア」みたいに本になって出版までされております。
このように科学研究に対して枠を設けなかった西洋と枠を設けた東洋の差が、19世紀の帝国主義時代に現れたのではないかというのが私の見方です。ただこれらの時代に西洋では戦争が何度も行われていたのに大して中国と日本においては比較的平和が保たれていたのを考えると、どちらが本当によかったのかといえば答えに窮します。このところほとんど続きを書いていませんが、連載中の時間の概念にもこの話はつながってきますが、技術が発達するまでの時間を早めた西洋に対して遅めた東洋、こうして比較するとなかなか面白いのではないかと個人的には思います。
結論から先に言えば、私は間違いなく産業革命の差にあると思います。機関銃や大砲に代表される銃火器を始め、風がなくとも進む蒸気船に代表される造船技術など、当時の西洋と東洋では実用的な技術において格段に西洋が東洋を上回っていました。そうした技術はスチーブンソンが発明した蒸気機関を始めとして産業革命期に次々と生まれて実用化されていき、いわばそうした産業革命を先に起こして技術革新を遂げていたがゆえにあの時代に東洋諸国は西洋列強に辛酸をなめる事になったと私は見ております。
しかしさらにさらに話を掘り進めて行くと、どうしてそれら産業革命が東洋ではなく西洋で先に起こったのかという話になってきます。これについてもさっさと結論を言うと、それ以前の16世紀から17世紀にかけての科学に対するそれぞれの文化の姿勢が大きく影響していたのではないかと考えており、今日はそういった科学に対する文化のバックグラウンドについて解説します。
まず最初に断っておくと、昔の中国は決して遅れた国ではありませんでした。日本では戦国時代に普及した鉄砲もそれ以前から大砲のような形ですでに使われており、15世紀までは間違いなく世界で最も先端的な技術を持つ国でした。しかしそんな中国も大体17世紀に入る辺りから徐々に西洋諸国に技術面で追いつかれていきます。どうして当時の西洋諸国がそれだけ技術の発達が起こったのかといえばレオナルド・ダヴィンチやガリレオ、ニュートンを始めとした天才が続々と出現したのもさることながら、科学の研究に対するタブーの度合いが西洋と東洋の文化では圧倒的に違ったのが大きな原因ではないかと思います。
具体的にどういうことかというと、17世紀以後の中国や日本では国家がその政権を維持するために研究してよい学問分野を規制し、官学というものを作っていきました。日本ではこれが儒学ですが、儒学以外の学問を研究しようとしても本草学や医学以外は大抵弾圧され、また学者として生計を立てることもままなりませんでした。
それに対して西洋では16世紀に起こった宗教革命、そしてイタリアにて起こったルネサンス運動によってそれまで様々な面で人々の行動を規制していた宗教のタブー性が薄まっていきました。特にルネサンスは強烈で、それまで神々や悪魔の仕業とされていた病気などについても実証的な研究が始められるきっかけともなり、また何かを探求する上で大学などが整備されていった事もあって大幅に学問の自由が認められるようになっております。
ちなみにその16世紀に活躍した先ほども挙げたガリレオですが、彼は地動説を唱えたものの教会によって弾圧されたとよく言われておりますが、その一方で当時からすでに西洋では地動説が有力となっており、この裁判の存在(ガリレオへの弾圧)自体がなかったのではないかという説があります。私としてもその後のニュートンやケプラーの時にすんなりと地動説が通った事を考えると、やっぱりこの弾圧話はやや誇張があるのではないかという気がします。
このように科学研究のタブーについて東洋と西洋ではっきりと分かる例は他にもあります。
そうした最も好例ともいえるのは実は杉田玄白が翻訳した「解体新書」で、当時の日本では人体の解剖は倫理的、道徳的なタブーから厳しく禁止されていたのですが、西洋では16世紀にレオナルド・ダヴィンチが行っているのを始め、「解体新書」の原本の「ターヘルアナトミア」みたいに本になって出版までされております。
このように科学研究に対して枠を設けなかった西洋と枠を設けた東洋の差が、19世紀の帝国主義時代に現れたのではないかというのが私の見方です。ただこれらの時代に西洋では戦争が何度も行われていたのに大して中国と日本においては比較的平和が保たれていたのを考えると、どちらが本当によかったのかといえば答えに窮します。このところほとんど続きを書いていませんが、連載中の時間の概念にもこの話はつながってきますが、技術が発達するまでの時間を早めた西洋に対して遅めた東洋、こうして比較するとなかなか面白いのではないかと個人的には思います。
2009年11月8日日曜日
安いからには理由がある
このごろ私がよく思い出す過去の事件の一つに、ミートホープ社による食肉偽装事件があります。食肉偽装事件とくれば日ハム、雪印、ハンナンの行ったBSE対策保証金詐欺事件が有名ですが、こちらのミートホープ社の事件はそれらの政府に対する偽装事件とは違い、消費者(正確には小売店)に対して行われていた偽装不正事件です。
具体的にどのような不正が為されていたかというと、100%牛肉のミンチ肉として出荷される商品の中に価格の安い豚肉や鶏肉のミンチを混ぜたり、消費期限が過ぎた肉をばれない程度の配合でミンチ肉に混ぜたり、中には見栄えを良くする為だけに牛や豚の血を混ぜて出荷したりなどといった、よくもまぁこれだけ考えられるものかというほどの偽装を幾重にも施し、不正を恒常的に行っていました。
最終的にこのミートホープ社の偽装は幹部社員の朝日新聞への内部告発によって明るみに出ましたが、詳細はウィキペディアにも書かれてように、当初この内部告発者は農水省に直接不正の事実を伝えたものの農水省側はミートホープを指導するどころか調査すら全く行わず、結局すべてが明るみに出るには朝日新聞のスクープを待たなければなりませんでした。
またそのスクープに対して開かれた記者会見にてミートホープの元社長は当初は現場が勝手に行った行為だとして故意の偽装を認めませんでしたが、元社長の息子がカメラが回っているその場にて、「社長、真実を話してください」と翻意を促すことでようやく会社ぐるみの偽装を認めました。この会見といい内部告発といい、事件の問題性はともかくまだ良識のある人間が社内にいたのだと当時に思った事は今でも強く印象に残っています。
ただ私がこの事件で一番強く覚えているのはその後の元社長の発言です。何故このような偽装を行ったのかという記者の質問に対し元社長は、消費者が安い商品を求めるからだ、安いものを求める消費者が悪い、などといった責任を転嫁する発言をその後繰り返して行いました。まさしく盗人猛々しい発言この上もないのですが、当時の私のバイト先の喫茶店のマスターはこうした元社長の発言に対して問題がある発言だとした上で、一部では確かに真理を突いていると評していました。
そのマスターが言うには、その商品が他の同列の商品と安い場合には必ず背後に理由があるとのことで、消費者の側も何も考えずにただ安いから購入するというのはそれはそれで問題があると指摘していました。もちろん消費者はその商品が何故安いのかという理由を容易に知る事はできませんが、安いからには必ず理由があるとしてある程度疑いの目を持つのが当然だとも述べていました。
そのバイト先の喫茶店メニューは京都の店らしく、値段はどれもやや高めだったのですがその分食材に対するマスターのこだわりは強く、コーヒー豆も店でブレンドした上に料理においてもわざわざ指定の八百屋から調達するなどして品質の維持に厳しく努めていました。それまでの私ははっきり言って貧乏性もいいところで、安いものほど価値があるとしてコーヒーなんかドトールでしか外では飲まなかったのですが、このバイト先を経験してからは、「高いものにはそれだけの価値と品質という理由がある」として、最近ではむしろ400円以上のコーヒーを飲む事の方が多い、っていうか安いコーヒーは忌避するようになりました。
こうした商品価格がどのように形成されていくかについてはマルクスの「資本論」が非常に詳細に分析されていて面白いのですが、やっぱりこういうものとかを読んでいたりすると価格というものは必ず現実にある事実を反映するように出来ているものだとつくづく思います。日本では作れないコーヒー豆を使うコーヒーが何故こんなに安価で日本で飲めるのかといえば、日本とは比較にならない低賃金での労働が南米やアフリカで行われているのであって、コーヒー自体の価値や需要が低いというわけではないなど、このミートホープ社の事件での偽装も価格に反映されてそれを消費者も許容していたのだろうと思います。
何故このミートホープ社の事件を最近によく思い起こすかというと、今も日本はデフレ真っ只中ですが、そのデフレを牽引していると言ってはなんですがある衣料品販売会社の激安商品がこのところよく紙面にて取り上げられております。近頃は千円ジーンズなども出てきた事で既存のジーンズ会社のEDWINやBOBSONが悲鳴を挙げているとも聞きますが、私の友人が言うには、急成長する会社というのは意外と脇が甘いということもあり、何かをきっかけにガクっと駄目になるのではとその衣料品販売会社を評していました。
私自身、このところの衣料品の値下がり振りはいくらデフレだからといっても異常にしか見えず、この衣料品販売会社の名前を見るたびに思い出すのが先ほどのミートホープの元社長の発言なのです。
もちろんその会社の黒い噂なんていうものを私は一つも聞いたことはなく、正当な企業努力によってその低価格が作られているのに越した事はないとは思いますが、いくら中国での現地生産が効率的に行われているからといってここまで出来るものかと疑ってしまいます。
仮にその会社が何かしらの不正によってその低価格を実現しているのであれば、その低価格は間違いなく衣料品市場を歪めているのみならず日本全体でデフレを加速させる要因の一つとなっており非常に問題があると言わざるを得ません。
安いからには理由があると、その理由を追うのが経済ジャーナリストなんだけど本当の所はどうなんだろうなぁ。
具体的にどのような不正が為されていたかというと、100%牛肉のミンチ肉として出荷される商品の中に価格の安い豚肉や鶏肉のミンチを混ぜたり、消費期限が過ぎた肉をばれない程度の配合でミンチ肉に混ぜたり、中には見栄えを良くする為だけに牛や豚の血を混ぜて出荷したりなどといった、よくもまぁこれだけ考えられるものかというほどの偽装を幾重にも施し、不正を恒常的に行っていました。
最終的にこのミートホープ社の偽装は幹部社員の朝日新聞への内部告発によって明るみに出ましたが、詳細はウィキペディアにも書かれてように、当初この内部告発者は農水省に直接不正の事実を伝えたものの農水省側はミートホープを指導するどころか調査すら全く行わず、結局すべてが明るみに出るには朝日新聞のスクープを待たなければなりませんでした。
またそのスクープに対して開かれた記者会見にてミートホープの元社長は当初は現場が勝手に行った行為だとして故意の偽装を認めませんでしたが、元社長の息子がカメラが回っているその場にて、「社長、真実を話してください」と翻意を促すことでようやく会社ぐるみの偽装を認めました。この会見といい内部告発といい、事件の問題性はともかくまだ良識のある人間が社内にいたのだと当時に思った事は今でも強く印象に残っています。
ただ私がこの事件で一番強く覚えているのはその後の元社長の発言です。何故このような偽装を行ったのかという記者の質問に対し元社長は、消費者が安い商品を求めるからだ、安いものを求める消費者が悪い、などといった責任を転嫁する発言をその後繰り返して行いました。まさしく盗人猛々しい発言この上もないのですが、当時の私のバイト先の喫茶店のマスターはこうした元社長の発言に対して問題がある発言だとした上で、一部では確かに真理を突いていると評していました。
そのマスターが言うには、その商品が他の同列の商品と安い場合には必ず背後に理由があるとのことで、消費者の側も何も考えずにただ安いから購入するというのはそれはそれで問題があると指摘していました。もちろん消費者はその商品が何故安いのかという理由を容易に知る事はできませんが、安いからには必ず理由があるとしてある程度疑いの目を持つのが当然だとも述べていました。
そのバイト先の喫茶店メニューは京都の店らしく、値段はどれもやや高めだったのですがその分食材に対するマスターのこだわりは強く、コーヒー豆も店でブレンドした上に料理においてもわざわざ指定の八百屋から調達するなどして品質の維持に厳しく努めていました。それまでの私ははっきり言って貧乏性もいいところで、安いものほど価値があるとしてコーヒーなんかドトールでしか外では飲まなかったのですが、このバイト先を経験してからは、「高いものにはそれだけの価値と品質という理由がある」として、最近ではむしろ400円以上のコーヒーを飲む事の方が多い、っていうか安いコーヒーは忌避するようになりました。
こうした商品価格がどのように形成されていくかについてはマルクスの「資本論」が非常に詳細に分析されていて面白いのですが、やっぱりこういうものとかを読んでいたりすると価格というものは必ず現実にある事実を反映するように出来ているものだとつくづく思います。日本では作れないコーヒー豆を使うコーヒーが何故こんなに安価で日本で飲めるのかといえば、日本とは比較にならない低賃金での労働が南米やアフリカで行われているのであって、コーヒー自体の価値や需要が低いというわけではないなど、このミートホープ社の事件での偽装も価格に反映されてそれを消費者も許容していたのだろうと思います。
何故このミートホープ社の事件を最近によく思い起こすかというと、今も日本はデフレ真っ只中ですが、そのデフレを牽引していると言ってはなんですがある衣料品販売会社の激安商品がこのところよく紙面にて取り上げられております。近頃は千円ジーンズなども出てきた事で既存のジーンズ会社のEDWINやBOBSONが悲鳴を挙げているとも聞きますが、私の友人が言うには、急成長する会社というのは意外と脇が甘いということもあり、何かをきっかけにガクっと駄目になるのではとその衣料品販売会社を評していました。
私自身、このところの衣料品の値下がり振りはいくらデフレだからといっても異常にしか見えず、この衣料品販売会社の名前を見るたびに思い出すのが先ほどのミートホープの元社長の発言なのです。
もちろんその会社の黒い噂なんていうものを私は一つも聞いたことはなく、正当な企業努力によってその低価格が作られているのに越した事はないとは思いますが、いくら中国での現地生産が効率的に行われているからといってここまで出来るものかと疑ってしまいます。
仮にその会社が何かしらの不正によってその低価格を実現しているのであれば、その低価格は間違いなく衣料品市場を歪めているのみならず日本全体でデフレを加速させる要因の一つとなっており非常に問題があると言わざるを得ません。
安いからには理由があると、その理由を追うのが経済ジャーナリストなんだけど本当の所はどうなんだろうなぁ。
2009年11月7日土曜日
血と涙のバレンタイン事件
テレビアニメの「機動戦士ガンダムSEED」の作中にて、「血のバレンタイン事件」という架空の事件があります。この事件は文字通りバレンタインデーに起こった一般市民を含めた虐殺事件のことで、この事件がきっかけとなってこの作品のメインストーリーである戦争が引き起こされたとされているのですが、実は私もこの事件に負けず劣らずの恐ろしい事件を奇しくも同じバレンタインデーに引き起こしてしまった事があります。今日マンガ喫茶で読んだ「TO LOVEる」の最新刊にてラブコメではスルーする事の出来ないバレンタインデーを舞台にした回があり、それを目にしたことでその事件を今更になって思い出してしまいました。
それは私がまだ中学生の頃でした。適当に気を抜きながら課題をやれる美術の時間にて友人と談笑していると、一週間後に迫ったバレンタインデーについて話題が及びました。今でもそうですが女性ととんと縁のない私からするとバレンタインデーはほとんど関係のイベントなのですが、ちょうどその時の私たちとクラスを別にする友人、仮に増田君とすると、彼はそれほどモテるわけではないのですが年相応に女性への興味をいつも周りにぼやいており、目前に迫ったバレンタインについても誰かチョコをくれないものかと私たちに洩らしていました。
増田君は常に情熱的な友人で、そんな彼に対して何かしてあげられることはないものかとその美術の時間に相談している時、ここは一つ女子生徒の代わりに我々からチョコを送ってあげればいいのではないかという案が出てきました。なおこの時にはその増田君以外にもチョコをあげる候補を出てきたのですが、厳正な審査の結果、もといひっかかってくれそうなのは増田君しかいないということで、彼にターゲットを絞って我々は計画を練る事にしました。作戦名も「オペレーションメテオ」と名づけられ、彼にばれないように秘密裏に計画は進められていきました。
具体的な作戦内容は私がチョコレートを自作し、送り人がわからぬように彼の下駄箱に放り込むという綿密な計画でした。なおこの時に私が自作したチョコレートですが、わざわざハート型にくりぬく力の入れようで、湯煎する際に台所中がチョコレート臭くなったのを未だに覚えています。
そして来る悲劇の日、バレンタインデー。私と仲間たちは昼休みに彼の下駄箱へそっとチョコレートを忍ばせ、放課後が来るのを心して待ち受けていました。さすがに彼が下駄箱を開ける現場に製作者の私がいるといろいろと厄介な目に遭うのは目に見えていたので、増田君には別の友人に張り付いてもらってその時のリアクションを観察するようにお願いしていました。
その友人によると、下駄箱を開けてチョコを見つけた増田君は本当に大喜びして、「やったよ、俺にもチョコ来てたよ!ヽ(゚▽゚*)ノ」と周囲にその喜びをかなり大げさに伝えていたようです。それからしばらくは終始ご機嫌で、見ている方が気の毒になるほどだったそうです。
結局、校門を出た所でその友人がネタばらしをしてそのチョコの製作者は私であることを伝えたのですが、その時の落胆振りは是非この目で見てみたかったものです。明けて次の日には案の定増田君にはこっぴどく怒られてしまいましたが、たとえ一瞬でも彼に希望を与えられたことを私は今でも誇りに思っております。
ただこの事件は後々にまで影響を及ぼし、その後毎年バレンタインデーが来る度に、「あの年の増田君は花園のチョコで大喜びをした」と言われるようになり、その度に情熱的な増田君は私に厳しい視線を送るようになってしまいました。
今現在の私は増田君とは交流がありませんが、今でも彼のその情熱ぶり、っていうか引っかかりやすい性格振りを思い出しては懐かしく思います。私は中学、高校時代にはあまりいい思い出がなく、年相応のスクールライフというものをほとんど経験していませんが、増田君が関わってくる思い出についてのみは本当に宝物と言っていいような思い出ばかりです。
ただ別の友人にこのときのバレンタイン事件を話すと、「それ、普通にイジメちゃうの?」と言われちゃいますが……。
それは私がまだ中学生の頃でした。適当に気を抜きながら課題をやれる美術の時間にて友人と談笑していると、一週間後に迫ったバレンタインデーについて話題が及びました。今でもそうですが女性ととんと縁のない私からするとバレンタインデーはほとんど関係のイベントなのですが、ちょうどその時の私たちとクラスを別にする友人、仮に増田君とすると、彼はそれほどモテるわけではないのですが年相応に女性への興味をいつも周りにぼやいており、目前に迫ったバレンタインについても誰かチョコをくれないものかと私たちに洩らしていました。
増田君は常に情熱的な友人で、そんな彼に対して何かしてあげられることはないものかとその美術の時間に相談している時、ここは一つ女子生徒の代わりに我々からチョコを送ってあげればいいのではないかという案が出てきました。なおこの時にはその増田君以外にもチョコをあげる候補を出てきたのですが、厳正な審査の結果、もといひっかかってくれそうなのは増田君しかいないということで、彼にターゲットを絞って我々は計画を練る事にしました。作戦名も「オペレーションメテオ」と名づけられ、彼にばれないように秘密裏に計画は進められていきました。
具体的な作戦内容は私がチョコレートを自作し、送り人がわからぬように彼の下駄箱に放り込むという綿密な計画でした。なおこの時に私が自作したチョコレートですが、わざわざハート型にくりぬく力の入れようで、湯煎する際に台所中がチョコレート臭くなったのを未だに覚えています。
そして来る悲劇の日、バレンタインデー。私と仲間たちは昼休みに彼の下駄箱へそっとチョコレートを忍ばせ、放課後が来るのを心して待ち受けていました。さすがに彼が下駄箱を開ける現場に製作者の私がいるといろいろと厄介な目に遭うのは目に見えていたので、増田君には別の友人に張り付いてもらってその時のリアクションを観察するようにお願いしていました。
その友人によると、下駄箱を開けてチョコを見つけた増田君は本当に大喜びして、「やったよ、俺にもチョコ来てたよ!ヽ(゚▽゚*)ノ」と周囲にその喜びをかなり大げさに伝えていたようです。それからしばらくは終始ご機嫌で、見ている方が気の毒になるほどだったそうです。
結局、校門を出た所でその友人がネタばらしをしてそのチョコの製作者は私であることを伝えたのですが、その時の落胆振りは是非この目で見てみたかったものです。明けて次の日には案の定増田君にはこっぴどく怒られてしまいましたが、たとえ一瞬でも彼に希望を与えられたことを私は今でも誇りに思っております。
ただこの事件は後々にまで影響を及ぼし、その後毎年バレンタインデーが来る度に、「あの年の増田君は花園のチョコで大喜びをした」と言われるようになり、その度に情熱的な増田君は私に厳しい視線を送るようになってしまいました。
今現在の私は増田君とは交流がありませんが、今でも彼のその情熱ぶり、っていうか引っかかりやすい性格振りを思い出しては懐かしく思います。私は中学、高校時代にはあまりいい思い出がなく、年相応のスクールライフというものをほとんど経験していませんが、増田君が関わってくる思い出についてのみは本当に宝物と言っていいような思い出ばかりです。
ただ別の友人にこのときのバレンタイン事件を話すと、「それ、普通にイジメちゃうの?」と言われちゃいますが……。
2009年11月5日木曜日
自立的であることとはどういう意味?
昨日に書いた記事にて私の専門は国際政治とは言いいましたが、実際にはこの分野で何かしら誰かに指示したこともなければ専門的な教育を受けたわけではなく、あくまで独学の範囲での専門であります。得意なのは間違いはないけど。
じゃあ本当の専門はと言うのであれば、きちんと教育を受けてそこそこ専門的な範囲も取り扱ったのであればプロフィールにも書いてある通りに社会学です。なので周りには自分の専門は一応社会学とは言うのですが、決まって話した人からは、「社会学って何?」と、問い返されてしまう事が非常に多いです。社会学自体はなんか響きがいいのかこの所、各大学の学部受験希望者数が増えているとは聞きますが実態的にどんな学問か理解されているかといえば私はそれほど理解されてはいないかと思います。
ではそんな社会学は一体どういう学問分野なのかといえば、これは私が出た授業の講師も言っていましたが、これが社会学といえばなんでも社会学になってしまうほど非常に分野範囲が曖昧な学問です。はっきり言って社会学も心理学も言った者勝ちな所のある学問なのでよくあるニセ科学に利用されている事の方が多く、イタリア人社会学者のパオロ・マッツァリーノ氏もその著書にて、
「よくテレビに出てくる悪の集団は○○博士のように理系ばかり使うからダメなんですよ。死神社会学者や地獄心理学者のような文系をリクルートすれば、統計操作と深層心理を使う事でどんな理論も思いのままです」
と自らの専門分野を評していましたが、私は未だこれ以上に社会学を端的に言い表した発言は見た事がありません。
しかし私も自分の出身学問分野なだけに全部が全部否定するわけでもなくまだ社会学を肯定的に見ている面もあるので、一つそれを説明するのにある有名な例を紹介します。
学校にて先生が生徒たちに対し、「もっと自立的になりなさい」と、言うのに対して生徒たちは、「わかりました」という場面があるとします。この場合、先生の「自立的になれ」という指示に生徒たちがわかりましたと言うのは「従う」という行為に当たり、皮肉な事に先生の言う事を聞くことが自立的にという指示に逆らうことになります。
だからといって先生の指示に対して、「嫌です」と拒否しても、こちらも自立的にという指示に逆ら一方で生徒らは自立的に行動している事になります。
なんかこう書くと言葉の端々を捉まえて文句を言い合う水掛け論みたいな話に見えますが、社会学というのはこういうことを真剣に考える学問だと私は考えています。具体的にこの話でどこが重要なのかというと、先生の「自立的になれ」という指示にその言葉の意味だけでなく命令という行為も含まれており、いわば一つの行動に複数の意味があることになります。また生徒の側もその先生の指示への返答にはその言葉の中身と返答する行為の二つの意味があり、片方では相手の行為に対応した行為が取られているのに、もう片方では対応しなくなる羽目となるのです。
政治学では権力者と従属者、経済学では雇用者と労働者のように、他の学問では行為者と被行為者というものが初めから割合にはっきりと区別されている事が多いですが、社会学では全般的にこの区別が非常に曖昧な学問です。例えばある企業が自分たちの方針を問うために一般市民にアンケートを取るという行為一つとっても、アンケートを受ける事で市民がその企業へのイメージを変わり、そうしてイメージを変える市民からのアンケートを受ける企業も方針を変えていくなどと、行為者と被行為者の間で常に相互に影響を与え続けて変化し合うことを前提にします。このように社会学というのは、どの行為を行うことでどんな結果が生まれるかを考えるのではなく、その行為が行為者を含め相互の間にどのような変化や効果をもたらすのかを主題にして考えます。いわば行為者と被行為者の中間に焦点を当てる学問といっていいでしょう。
もちろん社会学すべてがこのように言えるわけじゃないのですが、少なくとも何年も社会学を勉強してきた私が社会学はどんな学問かと問われるのならば、国家程大きくなく中規模集団のシステムの中でどのような相互干渉を行う行動ががあるのかを調べる学問だと私は答えるようにしております。
なお先ほどの先生の自立的になれという指示に対する、私の考える模範解答は以下の通りです。
「てめぇの指図は受けねぇ( ゚д゚)、ペッ」
じゃあ本当の専門はと言うのであれば、きちんと教育を受けてそこそこ専門的な範囲も取り扱ったのであればプロフィールにも書いてある通りに社会学です。なので周りには自分の専門は一応社会学とは言うのですが、決まって話した人からは、「社会学って何?」と、問い返されてしまう事が非常に多いです。社会学自体はなんか響きがいいのかこの所、各大学の学部受験希望者数が増えているとは聞きますが実態的にどんな学問か理解されているかといえば私はそれほど理解されてはいないかと思います。
ではそんな社会学は一体どういう学問分野なのかといえば、これは私が出た授業の講師も言っていましたが、これが社会学といえばなんでも社会学になってしまうほど非常に分野範囲が曖昧な学問です。はっきり言って社会学も心理学も言った者勝ちな所のある学問なのでよくあるニセ科学に利用されている事の方が多く、イタリア人社会学者のパオロ・マッツァリーノ氏もその著書にて、
「よくテレビに出てくる悪の集団は○○博士のように理系ばかり使うからダメなんですよ。死神社会学者や地獄心理学者のような文系をリクルートすれば、統計操作と深層心理を使う事でどんな理論も思いのままです」
と自らの専門分野を評していましたが、私は未だこれ以上に社会学を端的に言い表した発言は見た事がありません。
しかし私も自分の出身学問分野なだけに全部が全部否定するわけでもなくまだ社会学を肯定的に見ている面もあるので、一つそれを説明するのにある有名な例を紹介します。
学校にて先生が生徒たちに対し、「もっと自立的になりなさい」と、言うのに対して生徒たちは、「わかりました」という場面があるとします。この場合、先生の「自立的になれ」という指示に生徒たちがわかりましたと言うのは「従う」という行為に当たり、皮肉な事に先生の言う事を聞くことが自立的にという指示に逆らうことになります。
だからといって先生の指示に対して、「嫌です」と拒否しても、こちらも自立的にという指示に逆ら一方で生徒らは自立的に行動している事になります。
なんかこう書くと言葉の端々を捉まえて文句を言い合う水掛け論みたいな話に見えますが、社会学というのはこういうことを真剣に考える学問だと私は考えています。具体的にこの話でどこが重要なのかというと、先生の「自立的になれ」という指示にその言葉の意味だけでなく命令という行為も含まれており、いわば一つの行動に複数の意味があることになります。また生徒の側もその先生の指示への返答にはその言葉の中身と返答する行為の二つの意味があり、片方では相手の行為に対応した行為が取られているのに、もう片方では対応しなくなる羽目となるのです。
政治学では権力者と従属者、経済学では雇用者と労働者のように、他の学問では行為者と被行為者というものが初めから割合にはっきりと区別されている事が多いですが、社会学では全般的にこの区別が非常に曖昧な学問です。例えばある企業が自分たちの方針を問うために一般市民にアンケートを取るという行為一つとっても、アンケートを受ける事で市民がその企業へのイメージを変わり、そうしてイメージを変える市民からのアンケートを受ける企業も方針を変えていくなどと、行為者と被行為者の間で常に相互に影響を与え続けて変化し合うことを前提にします。このように社会学というのは、どの行為を行うことでどんな結果が生まれるかを考えるのではなく、その行為が行為者を含め相互の間にどのような変化や効果をもたらすのかを主題にして考えます。いわば行為者と被行為者の中間に焦点を当てる学問といっていいでしょう。
もちろん社会学すべてがこのように言えるわけじゃないのですが、少なくとも何年も社会学を勉強してきた私が社会学はどんな学問かと問われるのならば、国家程大きくなく中規模集団のシステムの中でどのような相互干渉を行う行動ががあるのかを調べる学問だと私は答えるようにしております。
なお先ほどの先生の自立的になれという指示に対する、私の考える模範解答は以下の通りです。
「てめぇの指図は受けねぇ( ゚д゚)、ペッ」
2009年11月4日水曜日
現在の国際状況について
久々に自分の専門の国際政治の話でも書こうと思います。本題を書く前にまず、私が2004年ごろに抱いていた国際状況を簡単に説明しましょう。
2004年当時の国際情勢において何が一番重要な政治軸であったかといえば、それはやはりイラク戦争とその後のアメリカの孤立主義です。アフガニスタンについてはまだ苦しい言い訳が成り立ったもののイラク戦争においてアメリカはフランス、ドイツ、ロシアを初めとしたイギリスを除く各ヨーロッパ諸国より激しく批判されただけでなく、中東世界からも断絶に近い形で関係を一挙に冷やしてしまいました。
そんなアメリカについた国はというとどれも経済面でもアメリカに追従して新自由主義を取り入れた国ばかりで、筆頭たるは同じくアングロサクソンのイギリス、そして地続きの南米北米諸国、最後にアジアからは日本や韓国といった以前からアメリカ依存の強かった国でした。
私は当時、このように各国が持つ国際社会への立場や経済体制の違いから今後は本格的に親アメリカVS反アメリカという構図で、両者の対立がどんどんと大きくなっていくだろうと考えていました。先進国で言えばアメリカとイギリスのタッグに対し、フランス、ドイツが引っ張るEUに当時猛接近していたロシアというヨーロッパ諸国が挑むというような具合です。
ただもちろんこの二派ですべて完結するわけでなくこのいずれにも属さぬ第三勢力も出てくるだろうと見ており、そんな第三勢力の代表には言うまでもなく米欧両者に距離を置きながら自らこそが世界の覇者だとして本当に信じて疑わない中国が来るであろうとして、三国志で言うなら呉のように状況次第でどっちつかずな勢力となっていくだろうと考えていました。それに対して我らが日本はどうするかといえば文字通り選択肢は三つで、このままアメリカに追従するか、ヨーロッパと組むことで彼らのアジアの橋頭堡として頑張るか、中国に従って一発逆転を図るかという風にシミュレーションしていました。
そんな風に気の早い予想をしてすでに五年経ち、現在の状況をみるといくつか想定と違ってきた部分が見えてきました。まずその後の日本ですが、今の沖縄の基地問題を初めとして民主党政権に変わった事によってアメリカに対して少しだけ反抗を行うようにはなりましたが、基本的にはアメリカ追従路線を未だ継続しているといっていいでしょう。この点はまぁ予想通りだったのですが、この五年間における国際状況の最大の変化とくればやはりその当事者たるアメリカの大変貌でしょう。
政治面ではオバマ大統領に代わったことによりこれまでの中東への強圧政策はまだ続いているもののややブレーキがかかり、なおかつ全く歩み寄りを見せなかった国際環境問題でもEU諸国に妥協する姿勢も見せ、そしてなにより非核化を強く訴える事で形だけとはいえ平和路線を内外にアピールするようになりました。
また経済面でも、去年のリーマンショックの影響によって、もう大分戻っちゃったけど新自由主義が一時大きく後退することになりました。言っちゃなんだけど一番かわいそうなのはイギリスで、これまでアメリカにべったりとくっついてきたのにアメリカ自体が大きく転換し始めるようになり、掛けたはしごを外されるかのように政治面でも経済面でも不安定なままです。
またイギリスに限らずアメリカと対立してるように見えたEUを初めとしたヨーロッパ諸国も、あれだけ新自由主義を批判していたくせに自分たちも結局は同じ穴のムジナであったためにリーマンショックの影響を強く受け、本当に皮肉な話ですが現在はアメリカに批判するだけの力すら無くなったように見えます。
ただそうした経済面以上に私が注目しているのは、イラク戦争直後にはあれだけ協調路線を取っていたロシアが、どうもこのところまたヨーロッパと距離を置き始めたように見える点です。そもそも当時のプーチン大統領はドイツ駐在が長かったためにかねてよりヨーロッパ贔屓だという話を聞いていただけに理解できたのですが、プーチンに変わったメドベージェフ現大統領は手の平を返すほどではありませんが、どうもプーチンよりはヨーロッパに対して冷淡な気がします。さらにこれは今年の夏にちょこっと聞いた話ですが、最初はそれこそ両刀、じゃなくて両頭体制といわれたプーチンとメドベージェフですが、なにやら少しずつ両者の間に隙間風が吹き始めているという話を耳にしました。だとするとメドベージェフ現大統領はヨーロッパを嫌っているのではないかという話になってきますが。
そうした欧米対立の変化に対してアジアでは、日本が首相がころころ変わる政治的混乱によって国際社会で権威を落としている中、依然と中国が強い存在感を保っております。ただ中国は北京五輪を終えて一挙に先進国入りかと思いきや終わってみると案外静かなもので、経済は未だ好調を保っているものの五輪直前ほどの圧倒的な存在感は感じられないように思えます。実態的にはGDPで日本を抜き、また外貨準備高で世界一位になるなど成長を止めてはいないのですが、前ほどの勢いがさすがに無いという事でなんとなく見劣りしてしまう感じです。
最後に私が今後の注目株として目している国はどこかというと、2016年にオリンピック開催を決めたブラジルです。元々BRICS諸国の一つでその高成長は注目されていたものの、リーマンショックで一旦ブレーキがかかってやはりダメだったかと思われたブラジルですが、かえってアメリカのプレゼンスが弱まり今後は南米の雄として存在感が強くなっていくのではないかと考えております。あくまで、私の予想ですが。
2004年当時の国際情勢において何が一番重要な政治軸であったかといえば、それはやはりイラク戦争とその後のアメリカの孤立主義です。アフガニスタンについてはまだ苦しい言い訳が成り立ったもののイラク戦争においてアメリカはフランス、ドイツ、ロシアを初めとしたイギリスを除く各ヨーロッパ諸国より激しく批判されただけでなく、中東世界からも断絶に近い形で関係を一挙に冷やしてしまいました。
そんなアメリカについた国はというとどれも経済面でもアメリカに追従して新自由主義を取り入れた国ばかりで、筆頭たるは同じくアングロサクソンのイギリス、そして地続きの南米北米諸国、最後にアジアからは日本や韓国といった以前からアメリカ依存の強かった国でした。
私は当時、このように各国が持つ国際社会への立場や経済体制の違いから今後は本格的に親アメリカVS反アメリカという構図で、両者の対立がどんどんと大きくなっていくだろうと考えていました。先進国で言えばアメリカとイギリスのタッグに対し、フランス、ドイツが引っ張るEUに当時猛接近していたロシアというヨーロッパ諸国が挑むというような具合です。
ただもちろんこの二派ですべて完結するわけでなくこのいずれにも属さぬ第三勢力も出てくるだろうと見ており、そんな第三勢力の代表には言うまでもなく米欧両者に距離を置きながら自らこそが世界の覇者だとして本当に信じて疑わない中国が来るであろうとして、三国志で言うなら呉のように状況次第でどっちつかずな勢力となっていくだろうと考えていました。それに対して我らが日本はどうするかといえば文字通り選択肢は三つで、このままアメリカに追従するか、ヨーロッパと組むことで彼らのアジアの橋頭堡として頑張るか、中国に従って一発逆転を図るかという風にシミュレーションしていました。
そんな風に気の早い予想をしてすでに五年経ち、現在の状況をみるといくつか想定と違ってきた部分が見えてきました。まずその後の日本ですが、今の沖縄の基地問題を初めとして民主党政権に変わった事によってアメリカに対して少しだけ反抗を行うようにはなりましたが、基本的にはアメリカ追従路線を未だ継続しているといっていいでしょう。この点はまぁ予想通りだったのですが、この五年間における国際状況の最大の変化とくればやはりその当事者たるアメリカの大変貌でしょう。
政治面ではオバマ大統領に代わったことによりこれまでの中東への強圧政策はまだ続いているもののややブレーキがかかり、なおかつ全く歩み寄りを見せなかった国際環境問題でもEU諸国に妥協する姿勢も見せ、そしてなにより非核化を強く訴える事で形だけとはいえ平和路線を内外にアピールするようになりました。
また経済面でも、去年のリーマンショックの影響によって、もう大分戻っちゃったけど新自由主義が一時大きく後退することになりました。言っちゃなんだけど一番かわいそうなのはイギリスで、これまでアメリカにべったりとくっついてきたのにアメリカ自体が大きく転換し始めるようになり、掛けたはしごを外されるかのように政治面でも経済面でも不安定なままです。
またイギリスに限らずアメリカと対立してるように見えたEUを初めとしたヨーロッパ諸国も、あれだけ新自由主義を批判していたくせに自分たちも結局は同じ穴のムジナであったためにリーマンショックの影響を強く受け、本当に皮肉な話ですが現在はアメリカに批判するだけの力すら無くなったように見えます。
ただそうした経済面以上に私が注目しているのは、イラク戦争直後にはあれだけ協調路線を取っていたロシアが、どうもこのところまたヨーロッパと距離を置き始めたように見える点です。そもそも当時のプーチン大統領はドイツ駐在が長かったためにかねてよりヨーロッパ贔屓だという話を聞いていただけに理解できたのですが、プーチンに変わったメドベージェフ現大統領は手の平を返すほどではありませんが、どうもプーチンよりはヨーロッパに対して冷淡な気がします。さらにこれは今年の夏にちょこっと聞いた話ですが、最初はそれこそ両刀、じゃなくて両頭体制といわれたプーチンとメドベージェフですが、なにやら少しずつ両者の間に隙間風が吹き始めているという話を耳にしました。だとするとメドベージェフ現大統領はヨーロッパを嫌っているのではないかという話になってきますが。
そうした欧米対立の変化に対してアジアでは、日本が首相がころころ変わる政治的混乱によって国際社会で権威を落としている中、依然と中国が強い存在感を保っております。ただ中国は北京五輪を終えて一挙に先進国入りかと思いきや終わってみると案外静かなもので、経済は未だ好調を保っているものの五輪直前ほどの圧倒的な存在感は感じられないように思えます。実態的にはGDPで日本を抜き、また外貨準備高で世界一位になるなど成長を止めてはいないのですが、前ほどの勢いがさすがに無いという事でなんとなく見劣りしてしまう感じです。
最後に私が今後の注目株として目している国はどこかというと、2016年にオリンピック開催を決めたブラジルです。元々BRICS諸国の一つでその高成長は注目されていたものの、リーマンショックで一旦ブレーキがかかってやはりダメだったかと思われたブラジルですが、かえってアメリカのプレゼンスが弱まり今後は南米の雄として存在感が強くなっていくのではないかと考えております。あくまで、私の予想ですが。
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