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2010年7月6日火曜日

阿久根市のシャッターアートについて

 参議院選投票日まですでに一週間を切っていますが、政治系ブログの癖してこの話題についてはトンと触れておりません。多少なり争点がまだ書く気が湧きますが、今回はそもそもその存在理由すら公然と批判されている参議院の選挙でもあってわざわざ記事にするほどの価値は見出せません。敢えて苦言を呈せば、目立った争点を作る事が出来なかった最大野党の自民党があまりにもだらしなかったのが原因だと思います。

 そんなわけで今日も選挙と全く関係のない話題を取り上げますが、今日ネット上を見回していたら、一つ気になるニュース記事を見つけました。

日本一のシャッター街・阿久根(デイリーポータル)

 リンクに貼った記事は、市長が市役所職員と年がら年中ぶつかってはブログで愚痴を書き綴り、全国ニュースにも取り上げられてすっかり全国区となってしまった鹿児島県阿久根市のシャッター街の取材記事です。シャッター街というと寂れた地方都市について回るネガティブな言葉ですが、阿久根市はこのシャッター街を利用して観光の一つの目玉にしているということで、記者の方が真偽を確かめるために現地を取材したという内容です。

 一体何故シャッター街が観光材料になるのかとクエスチョンマークが浮かんできますが、百聞は一見に如かずで早速記事内容を見てみると、なんと阿久根市では各店舗のシャッターにトリックアートのような絵を街全体で描いている様子が写されておりました。しかもよくよくその絵を見るとそんじょそこらの落書きのレベルではなく、どれもウィットに飛んでいてミレーなどの名画の構図を微妙に現代風にアレンジして描いており、よくもまぁこれだけレベルの高い絵を街全体に作ったなと感心させられる出来栄えです。

 実はここだけの話、この阿久根市というのは酒ばかり飲んでいるうちのお袋の実家で、私も子供の頃は毎年のように訪れていた街です。私自身はこの阿久根市の近くにある同じく鹿児島県出水市の病院で生まれましたが、実質「ぼくの夏休み」的な田舎となると私の中ではこの阿久根市と叔母さんの住んでいた喜入市が浮かんできます。

 そんなわけで早速この記事をお袋に見せると案の定いい反応を示し、
「ここの肉屋は昔からあった」
「ここの家の長男は叔父さんと仲がよかったが早くに死んだ」
 などと、田舎らしく世界の狭い話を延々と話し始めました。

 ただこの取材記事の末尾にて、いろいろと悪い報道の絶えない市長について阿久根市の住民たちは好意的に評価している声が聞こえると書かれていますが、うちのお袋によるとこのシャッターアートというのは市長支持派の店舗にしか施されず、市は反対派の店舗に対しては殆んど行ってくれないそうです。取材内容から察するに恐らく、この記事を書いた記者の方がインタビューしたのはシャッターアートが施された店舗の住人ばかりだったのではないかと思え、そう考えるとお袋の情報も正しいような気がします。

  おまけ
 お袋に許しをもらったから書いてしまいますが、お袋の高校時代に留年して学年が落ちてきた同級生の男子がある日、
「鹿が食いたいなぁ」
 とぼやき、友達を誘って体育倉庫から金属バットを借りて、野生の鹿がたくさんいる阿久根大島へとフェリーで渡ったそうです。でもってそのバットを使って鹿を撲殺し、焚き火で焼いて望み通りに鹿の肉を食べたそうですが、焚き火の火の回りが早くて危うく大火事になりかけたそうで、学生服使って火を必死で消したために上着が大分焦げたというオチまでつけていました。
 その後、この時鹿を殴った人は警察官になったそうですが、火事の現場には誰よりも早く駆けつけることで有名になったそうです。

2010年7月5日月曜日

ロンドン海軍軍縮条約の意味

 私は中学、高校時代はそんなに学校の成績がよくありませんでしたが、こと歴史科目においては一貫して成績上位を難なく取っておりました。そんな歴史が得意な私だから思うだけなのかもしれませんが、やっぱり学校の授業では表面的な事項の説明に終始するため、教師ももっと深く掘り下げてやった方が学んでいる側も覚えやすくなるのにと思うことが数多くありました。一例を挙げると、これは世界史ですが中国で宋朝の後に出来た金朝を作った女真族は、後に清朝を作る満州族と同じだということなど。

ロンドン海軍軍縮会議(Wikipedia)

 上記リンクに貼った事項もその一つで、今日はちょっと政治思想的な内容を含めてこのロンドン海軍軍縮条約について私の意見を書いてみようと思います。

 第一次世界大戦後に二度とあのような世界大戦を引き起こさないため世界各国で軍縮を進めようという目的の下で1922年に結ばれたワシントン海軍軍縮条約に引き続き、1930年にこのワシントン海軍軍縮会議は開かれました。先にこの二つの条約の違いについて説明しておくと、前者のワシントン海軍軍縮条約では保有する戦艦の重量を制限したのですが、戦艦が作れないのであれば巡洋艦を作ればいいじゃないとばかりに、条約締結後に各国では制限対象にない攻撃能力の高い巡洋艦の建造ラッシュが始まってしまいました。
 しかし、これでは全く軍縮にならないじゃないかということになり、1930年に今度はロンドンで巡洋艦の保有数も制限しようとして開かれたのがこのロンドン海軍軍縮会議です。

 結果から言うと、艦の種類によって微妙に比率は異なりますが全体的には米英に対し日本は重量にして約10:6.975の割合で艦を保有を制限する事に決まったのですが、この条約案に対して批准するかどうかについて旧日本海軍内部は真っ二つに分かれました。
 腐っても欧米列強に対して約7割の保有数量を勝ち得たのは大成功だとする「条約派」、片や四方を海に囲まれている日本の海軍防衛力の重要性は米英の比ではないとして条約案を批判した「艦隊派」と海軍首脳部で二つに分かれたのですが、日露戦争の大立者である東郷平八郎はこの時、明確に艦隊派の立場に立って条約派を批判していました。

 最終的には時の政府を率いていた浜口内閣が大恐慌時代の最中ということもあり、余計な歳出を減らしていきたという思惑が条約派と一致して条約に批准はしたものの、海軍内部の艦隊派を含めて一般民衆からも条約批准時には政府に強い批判が起きたそうです。この動きに乗ったのが時の野党政友会で大物代議士であった鳩山一郎で、彼こそ後の軍部独裁時に錦の御旗として使われる事となる「統帥権の干犯」という言葉を使った最初の人間で、海軍内部の反対を押し切って条約を結んだ政府は憲法批判だと強く批判しました。
 よく鳩山一郎はハト派だったと評価する人がいますが、この鳩山一郎も孫同様に時期によって自分の意見や主張を平気で180度転換する事が多々あり、佐野眞一氏の言葉を借りるなら「嫌な人間の一族」の一人であると私も認識しています。

 さてそんなすったもんだがあったロンドン海軍軍縮条約ですが、たまに右翼的とされる評論家がこの条約について、「米英が躍進著しい日本を封じ込めようとして、艦隊の保有数量を制限しようとした策謀であった」という意見を述べる事がありますが、この意見について私は的外れな意見を言うのもいい加減にしろと言いたくなる意見だと考えています。

 名前を忘れましたが当時の条約派の軍人がこの条約に対し、「一見すると日本は米英の約7割に制限されるように見えるが、実際には日本7に対して米英を10に制限する、日本にとってこれ以上ない有利な条約だ」と述べております。これはどういう意味かというと、当時の日本と米英の工業生産力の差は現代とは比べ物にならないほど差があり、先ほどの軍人の意見の続きをそのまま引用すると、「仮にこの条約が撤廃されて建艦競争に入ると、日本が7の二倍の14に増やしている間、米英は20どころではなく30、40まで増やしているだろう」と述べており、実際にこの生産力の差はその後起きた太平洋戦争で実証される事になります。

 一つ例を紹介すると、太平洋戦争が開戦されるやアメリカはその有り余る生産力を存分に使って一気に軍備を拡張し、なんでも一ヶ月に一艦の割合で空母を建造していたそうです。それに対して日本は損傷した艦の修理にも何ヶ月もかかり、新造艦ともなると小さい物でも三ヶ月くらいの工期がかかっていたと思います。ちなみに大艦巨砲主義の申し子である戦艦大和はその運用において、先ほどのアメリカで一ヶ月に一艦の割合で作られた量産型空母一艦しか破壊する事が出来ず沈没しております。

 はっきり言って、当時のアメリカの工業力と日本の工業力を比較すれば先程の軍人が述べたようなロンドン海軍軍縮条約の価値は誰でも分かる話です。それにもかかわらず妙な精神論やら党利党略に走ってこの条約を批判し、挙句の果てには米英の妙な陰謀論まででっち上げるなんて馬鹿馬鹿しいにも程があるでしょう。

 昭和史研究家の半藤一利氏はこの時代の陸海軍首脳について、調べれば調べるほどにその要所要所の無責任さに呆れてくると述べていますが、このロンドン海軍軍縮条約一つ取ってもその言わんとする事が私にも分かります。この後に開戦される太平洋戦争の直前においても海軍は図上演習こと開戦した場合のシミュレーションを行っているのですが、なんでも十回以上やって全部アメリカの勝利に終わるという結果が出ても、「勝負はやって見なきゃわからないよ」と言って、最終的には政府の開戦提案にOKを出してしまいます。

 ちょっと前に日本人の無責任さについて長々記事を書きましたが、これは何も今始まった事ではないというのが今日の私の意見です。あともう一つ書いとくと、日本人はやたらと陰謀論を好みますが、実際にはそんなに込み入った陰謀と言うのは世の中少ないということも覚えておいてください。

2010年7月4日日曜日

長い文章を書けるようになるには

 よく人から毎日のように更新されるこのブログについて、「どうしてああも長い文章を毎日書けるの?」と聞かれます。実際に自分でもブログを始めた当初に想定していた以上に現在のこのブログは更新数も多ければ一回の記事辺りの文章も長く、まさかここまで書くことになるとは思ってもいませんでしたが、ブログを始める以前からも長い文章は比較的よく書いておりました。
 一番代表的なのはこのブログでも公開した「北京留学記」で、これは留学から帰国して半年後くらいにまとめて書いて中国語の恩師などへ報告書の形で贈りました。この留学記のように旅行などから帰ってくると備忘録の意味を込め、あらかじめ人に見せる事を前提にしてまとまった文章を書いてました。

 それで一体どうすればこれだけ長々と文章書けるようになるのかですが、結論から言えば練習あるのみで、それまでにどれだけの量の文章を書いてきたのかで全部決まると思います。

 私の場合、中学生の頃から小説を書くようになりましたが、お世辞にも当時は文章が上手いとは言えず、確か400字詰め原稿用紙を20枚くらい書いた所で一つの話を書き終えていたと思います。しかし人間書き続けていればなんとやらで、各回数を重ねるごとにこの枚数は飛躍的に増えて行き、確か15歳の頃には一本の小説で原稿用紙100枚はざらで、新人賞に投稿したのになると300枚は行っていました。やっぱり自分でも一本で100枚を超える小説を作った時にはなにか壁みたいなのを破ったような気がして、それ以前とそれ以後で表現の技術やら段落の運び方などで大きな差が出来たように思います。

 その後高校進学後も小説は書いておりましたが、その頃になると小説より現在このブログでやっているような社会批評など、何かしら題材を取って解説したり意見を述べるルポのような文章を書くことの方が好きになっていき、ただ長い文章量の小説を書いていた頃と比べて短くとも内容にこだわる文章を心がけるようになって行きました。今思うと、いい時期に目指すべき文章の方向性を変えた気がします。

 そして大学進学後、この頃はそれまでと打って変わって文章を書く機会がめっきり減りました。最初でこそ一人同人誌(雑誌名は確か「出来心」)を作るなどしてやる気十分だったのですが、一人で活動する寂しさに加え、何かを発信しようとするよりもまずは発信する中身を鍛え上げねばと大学で勉強していて感じるようになったのが原因で、確か一人同人誌は三回出して終わりました。見せていたのも、近所の友人だけだったし。

 そんなわけで代学在学中は文章をあまり書かず、このブログを始めてからまたどえらい量の文章を書くようになったのですが、最初に書いたように自分でも思っていた以上に書き続けてきており、ブランクとかそういった物は感じた事はありません。大学受験での国語の能力は数学と違って落ちにくいと予備校の講師から聞かされておりましたが、文章を書く技術と言うのも案外その類に洩れず、それこそ一度鍛えたらずっと身についてくれる物なのかもしれません。

 たまにどうすれば文章が上手くなれる、長く書けるようになれるかといった質問を受けることがありますが、多分人から教わるよりも自分で小説でも日記でも何でもいいから書き続ける事が一番早道だと思います。ちなみにきれいな文章を書くためには文豪の小説なんかはたくさん読めばいいという人もいますが、少なくとも私に限れば人に言うのも恥ずかしいくらいこの手の読書量は少ないです。決して文豪の小説を読むのが悪いというわけではありませんが、書くんだったら読むよりも書いているほうがいいんじゃないかと、いい訳がましく考えております。

2010年7月2日金曜日

続、こんにゃくゼリーの報道について

こんにゃくゼリーの窒息、重症率85% 消費者庁分析(朝日新聞)

 リンクに貼ったニュース内容を簡単に説明すると、消費者庁がこんにゃくゼリーは危ないよという統計結果を発表したという内容なのですが、内実を見てみるとわかりますがこの発表した統計というのが実にひどい内容で、もはやここまで来たらマンナンライフへの国家的弾圧じゃないかとすら思います。

 具体的な内容を説明すると、まず人目を惹くように「こんにゃくゼリーの窒息、重症率は85%」と発表しておりますが、この85%という数字の根拠をよくよく見ると、

「窒息事故4137件のうち原因食品がはっきりしている2414件を分析。その結果、同ゼリーによる事故は7件と件数は少ないものの、うち2件が「重症」、4件が命の危険が切迫している「重篤」だった。」

 見てもらえばわかる通り、この85%という数字はこんにゃくゼリーを起因として起きた窒息事故の中で重症となった場合の割合であって、こんにゃくゼリーが原因で起こった窒息事故の割合ではありません。では実際にこのデータからこんにゃくゼリーを起因として起こる食品による窒息事故の確率を計算すると、

 7÷2414=0.0029

 という、実に0.3%程度というごく微小な確率です。
 しかも呆れる事にこの朝日新聞の記事では同じく餅が起因とする窒息事故で重症となった割合と比較し、

「406件あった餅は重症・重篤・死亡の重症以上の事故が54%、アメ(256件)は1%だった。」

 これも意図的に騙すようにうまく記述をはぐらかせていますが、きちんとそれぞれの窒息事故件数と重症となった件数を改めて書くと

・こんにゃくゼリー:6/7件(85%)
・餅:219/406(54%)
・アメ:2/256(1%)


 このように重症件数で見ればこんにゃくゼリーは高いですが、そもそも窒息する確率自体が少ないのに何を以って、「政府の食品安全委員会が「アメと同程度の事故頻度」としたリスク評価とは異なる実態が浮かび上がった。」とまで書くのか私には理解できません。

 このニュースについて議論されている掲示板で上手い比較があり、このデータを野球のエラーにたとえてこのように書かれておりました。

「2414回守備機会があって。
こんにゃく君は 7エラー中6回は失点につながるエラー
もち君は 460エラー中230回は失点につながるエラー」

暇人\(^o^)/速報様より引用)

 非常にわかりやすい比較で助かるのですが、こんにゃくゼリーはまさにこの通りの危険性で、これで餅やアメより危険だと消費者庁から言われるなんてマンナンライフは風評被害だと訴えても私はいいと思います。第一、元となったデータ自体がどこからどこまでが重症として扱うのかその範囲を書いておらず、窒息件数についても病院に運び込まれた件数でしかデータを取っていないので代表性についてもまだ疑わしいところがあります。百歩譲ってこのデータで仮に私が分析するとしたら、病院に運び込まれる時点で相当なんだから重症か軽症かなんかで分けたりする事なんてしません。

 最後に、ちょっと名指しで批判させてもらいますがこのような記事を書いた河村克兵氏という記者についてはその神経を疑います。仮にメーカーがこのような誤解を起こしかねない発表をしたらそれこそ賠償請求物で、こんな頭の悪い記事書いて金もらえるなんて仕事を舐めているんじゃないかと声を大にして言いたいです。普段は政府批判ばかりの癖して、こういう時には国のお先棒を担ぐなんて下衆もいい所でしょう。

2010年7月1日木曜日

先月の投稿数について

 今日になって月が明けて七月となりましたが、改めて先月のこのブログの投稿記事数を見てみるとなんと23本と、体調悪くて休みがちだったのは自覚していましたがこのブログを始めてから過去最低の更新速度であったというのは自分でも驚きです。もっとも記事一本辺りの文字数は比較的多いので決して手を抜いているわけではないのですが、それでもここまで落ち込むものかとややショックな事実です。

 記事で取り上げた内容自体は大原騒動など前から書きたかった物ばかりでそこそこ納得はしているのですが、なんていうか文章が荒れていて自分でもなんだか読み辛い物ばかりになっております。実際に先月は記事を書いている最中に表現が浮かんでこなくて指が止まったり、1000文字くらい書いた記事を丸々消して書き直したりする回数が非常に多くて、何か壁に当たっているのだろうかと思うくらい調子が悪かったです。これまでの私は書こうと思う内容を頭に入れてから一気に書き始めるタイプなので、書き初めから書き終わりまで聴いている音楽CDを入れ替える時以外はほぼ止まらずに書いていたりするのですが、先月は本当にこれが出来ずに途中でソリティアまで始めてしょっちゅう中断していました。

 こういう風に不調になった原因として兼ねてから抱えている頭痛がひどくなったのと、単純に睡眠時間が大幅に減ったのが理由と今は見ています。あまり私生活のことを書いても仕方がないですが実は四月から勤務しているところで異動があり、住所はこれまでと変わりはないのですが通勤がそれまでの一時間から二時間へと二倍に膨れ上がり、しかも時間がラッシュアワーにぶつかるようになり、正直に通勤がしんどい物だと痛感するようになりました。
 それでも四月の間はそれほど気にならなかったのですが、五月に入った辺りから徐々に体力というか気力が萎えていき、このブログも一時間で書けていた内容が二時間位も所要するようになって行くにつれて通勤が原因なのではないかと思うようになってきました。そもそも頭痛もこの通勤苦が原因で悪化している可能性も高いのだし。

 同じく私生活の話をすると、先月は関西時代の友人が私の住んでいる関東にやってきてうちに一泊するというので楽しみにしていたら、なんかいろいろあってその友人が到着したのは夜の十二時でした。さすがにこの時間帯だとそれほど話せないだろうなと思っていたら結局その日は二時半まで話し続け、次の日にまた朝六時に起きて出勤したのはいい思い出です。
 因みにその友人と夜中まで話した実績で一番すごいのとなると、もう一人共通の友人を加えて夜八時から次の日の六時まで延々と、しかもメインの話題が「スーパーファミコン時代の傑作RPGゲーム」だったというのがありました。結局その時の議論は「クロノトリガーが恐らくRPGとしては完成形だったのだろう」で落ち着きました。

 久々にブログらしいどうでもいい話でまとめられた気がします。

2010年6月30日水曜日

消費税増税で庶民は本当に困るのか?

 去年の衆議院選挙の選挙期間が一ヶ月以上もあったこともあるかもしれませんが、投票まで二週間を切っているにもかかわらず今度の参議院選挙は全く盛り上がりがありません。ワールドカップのおかげと言うかせいと言うべきか。

 ただそんな次回参議院選挙において、最大の争点と言うか議論の中心になっているのは菅首相がぶちあげた消費税増税議論でしょう。
 この消費税増税議論については賛否両論というより批判する声ばかりが大きく、出した本人の菅首相ですら身内の民主党からも反発食らって最近はこの件に触れなくなってきております。ただ私の意見を言わせてもらうと何も今度の参議院選挙が終わったらすぐに消費税を導入するとは言っておらず、将来的な財政を考える上で消費税を増税した場合はどうなるか、どのような増税の仕方がいいのかを議論するのであれば早いに越した事はないと考えており、むしろこの議論は本来ならば十年前にやっていなければならなかった物なので遅すぎるとすら感じております。そういう意味で、自民党案に乗っかっただけとはいえ選挙前に消費税増税を打ち出した菅首相を私は評価しております。

 さてこの消費税についてですが、野党を中心としてやっぱり批判が多いです。その批判の内容はというと大半は消費税の逆累進性といって、要するに所得の少ない人ほど税の負担が大きくなる傾向があるため、ただでさえ不況で苦しいのに庶民を更にいじめるのかという物ばかり、ってかそれしか見ないような気がします。
 私はあくまで一社会学士、下手すりゃただのリーマンで税法なり会計においては全くの素人もいい所です。ただそんな私がおこがましくも意見を言わせてもらうと、消費税は庶民をより苦しめる税かと言われたら必ずしもそうじゃないんじゃないかと思います。確かに庶民の負担も増えることは増えますが、それ以上に普段税金をほとんど払っていない事業主、言い換えるなら個人企業のオーナーなり社長に与えるインパクトの方が確実にでかいと思います。

 ここでちょっと私の家系の話をするとうちの家は四代続けてリーマンという由緒ある雇われ人の家なのですが、うちの親父が中学生だった頃、クラスメートにはサラリーマンの家よりも独立して生計を立てている家の方が多かったそうです。それで互いに、

「サラリーマンの家は気楽でいいよなぁ」
「そういうお前の家は税金払ってないだろ」

 と、日ごろから言い合っていたそうです。
 わかる人ならもうここで話は切っちゃってもいいのですがそれだと私の出る幕ないのでまたくどくどと説明させてもらうと、日本の個人企業なり中小企業の事業主であれば所得税に関しては八割方は脱税できるとかねてから言われております。

 サラリーマンの家ですと所得税は基本的に給与から天引きされるので脱税をすることなんてほぼ不可能なのですが、事業主であれば自らの法人から個人である自分への所得をコントロールしつつ、個人の分の支出も法人の経費として処理する事でこの辺の課税を逃れる事が出来ます。

 簡単な例を作ると、ある個人企業の社長が自分専用に200万円の車を買うとします。しかしその購入費用の200万円はその社長の個人のお金ではなく自分の会社の経費から出し、購入した車も社有車として登録するとします。そうして購入した車は実質社長個人しか使われませんが名目上は社有車で、社長が購入するのに使用した200万円も本来ならば社長への所得として所得税が課せられるのですが、法人として購入したことになるので所得税は一切課税される事はありません。

 このように中小企業の事業主であれば会社の財布を自分の財布のように扱うことで、本来ならば個人の消費として処理されるべき項目、それこそ家族との外食代や愛人へのプレゼント代ももっともらしく交際費などといった経費として計上する事で所得税やその他諸々の税金から逃れる事が出来ます。
 さらにこういった処理を意図的に行って企業決算を敢えて赤字にする事により、法人税の支払いからも完全に逃れる事が出来ます。法人税というのは企業がその年度内に出した利益額にかけられる税金であるため赤字の企業には一切かからず、そういったことを反映してか日本の企業の八割は中小企業と言われていますが、少なく見積もっても全体で過半数の日本の企業は常に赤字経営で法人税を払っていないそうです。それでも世の中回ったりするのだからいろいろ面白い。

 ここで話は消費税に戻ります。
 さきほどの200万円の車を購入した社長の例ですと、仮に所得税や法人税をいくら挙げた所でこの社長から徴税できる金額にそれほど変化はありませんが、消費税を上げると確実にこの社長からこれまでよりも多くの税金を得る事が出来ます。また車に限らず、経費として処理されてきていた不適切な処理項目、さらには本来表に出てこないヤクザの持つ資金なども実生活上で使われた際には確実に徴収できます。

 こういう風に考えると消費税というのは税率が上がれば確かに庶民にとっても増税ですが、それ以上にこれまで事実上の脱税を行ってきている不心得な事業主らから徴収できる金額の方が大きいのではないかと素人的に思います。それこそ消費税を増税する代わりに所得税を一部下げたりすれば、実質増税になるのはそういった不心得な事業主らだけになりますし。

 私としては政府が増税する事については今の財政状況を考えるとごく自然な成り行きだと思うのですが、今の政府だとそうして集めた税金をまともに運用するのが不安です。財投債も事実上復活しますし。
 ですがもし消費税を増税して集めた予算の使途を完全に限定する、それこそ介護などといった社会保障にしか使わないのであれば、必然的に集められたお金は社会的弱者の庶民へと配られる事になるので、これまで脱税して来た事業主から金をふんだくれて一石二鳥になるかもと思うので、これなら私も増税に納得できます。

  補足
 昨日に書いた「何故日本人は無責任になったのか」の記事で一つ書き忘れていましたが、無責任な日本人が増えた理由の大きな物としてもう一つ、サラリーマン世帯が増えた事も挙げられます。個人で店なり企業なりを経営している人はその人個人に企業行動におけるすべての責任が付きまといますが、サラリーマンであればある程度は法人こと会社が責任を受け持つので、こうした意識が希薄化していくのではと友人が言っていました。本来ならば会社の責任は経営者こと役員が持つはずなのですが、日本とアメリカの企業役員はあんまり責任持たないので、こうした傾向に更に拍車を駆けているのかもしれません。

2010年6月29日火曜日

何故日本人は無責任になったのか

 この所文章が荒れていて、今に始まった事ではありませんがいまいち表現したい事を文章に表現できていません。今日の記事は前回前々回の記事の続きなので、初めにこれまでの記事のプロットから紹介します。両記事の大体の論法、意図したかった内容は以下の通りです。

 最近の日本文化は幼稚さ、幼さを売りにしている物が多いような
→改めて考えてみると、最近の若者は大人になりたがらない幼稚な人が多いような
→何で若者は大人になりたくないのか?
→大人になって責任を持つのを嫌がっているような気がする
→現に社会人も責任を抱えるのを忌避しているような気がする
→そういや首相や主要財界人でも無責任な奴が多いような気がする
→なんだかんだいって、日本社会全体で幼稚化してんじゃないのか


 ざっくばらんにまとめるとこんな感じです。ここで私の言う「幼稚化」というのは、そのまま「無責任になった」と読み替えても結構です。何だかんだ言って、責任感が強いか弱いかというのが大人らしいか子供らしいかを決める上で非常に重要な要素ですし。

 前回の記事で私は現に無責任な日本人が増えてきた例として、批判に耐え切れず一年前後で辞めていく首相達、社員は宝だと言うわりにはやけに離職率の高い会社の会長などを例に挙げましたが、今現在ですとただ力士から話を聞いただけで協会としてはやれるだけの内部調査をしたと言い張る相撲協会の理事長もこの類に属すでしょう。
 また個人でなくとも、社会的にも厚顔無恥だと言いたくなるような事件をこのところよく見ます。恐らくこの手の事件を起こす人は前からそういう人間でそういった人間が目に入るようになっただけかもしれませんが、モンスターペアレンツを始めとして、生活保護費を大量の携帯電話使用料につぎ込む人などと、義務を果たさずにおいてやたら権利を主張する人が堂々と公然に出てくるというのは私からすると理解が出来ません。

 このように日本社会が全体で無責任になってきたのが近年の日本の元気のなさ、希望のなさにつながっている一つの原因かもしれないと思って今日に至るまで長々と書いているわけなのですが、今日はどうしてこんなに日本の社会、ひいては日本人は無責任になっていったのかを幾つか仮説を挙げて考えてみようと思います。それでは早速最初の仮説から、

仮説一、大人になるメリットがない
 これは若者限定の仮説ですが、前の記事でも書いたように近年の若者は大人になるよりは子供のままでいたいと言う人が傍目にも多いような気がします。私自身の周りでもこのような事をいう人間は多く、先日も友人と一緒に「そこがわからねぇ」とお互いに言い合いました。ちなみに私なんかは結構ちっちゃい頃から早く大人になりたいと思っていて、大学を卒業した今でも学生生活にそれほど未練は感じていません。

 どうして現代の若者はそれほど大人(社会人)になりたがらないのか、一言で言って目に見えるメリットがなくてデメリットしか感じられないのが原因だと思います。現在不況の真っ只中という事もあって普通に正社員に就職できるかも怪しく、また正社員になった所で給料の伸び率は明らかに以前より小さく、学生生活と比べて制約される時間が多い割には得る物も少ないともきています。またサラリーマン特有のサービス残業や飲み会と言う訳の分からない付き合いを嫌う人間も増えており、それだったら時間分きっちり給料をくれるフリーターでいる方がいいのではという声を実際に私もよく耳にします。

仮説二、社会的責任の重大化
 自分なんか世代の影響もあると思いますが、やっぱり昔の話を聞いているとどんだけ無茶が許されたんだとよく思います。
 一番この仮説で代表的な例は交通事故を起こした際の刑罰で、以前は長くとも数年の懲役だったものが危険運転致死傷罪の導入によってかつてでは考えられないほどの厳罰が交通事故で下りるようになってきました。この危険運転致死傷罪を始めとして近年の日本の刑事罰は厳罰化の一途を辿っており、その上補償を求める民事裁判も大分一般化してきたのもあって以前と比べて意識するしないにしろ社会的責任は重大化しているように思えます。

 前もって言っておきますが私は上記の刑罰の厳罰化や民事裁判の一般化はいい傾向だと思っております。ただこれまで泣き寝入りするしかなかった人が救われる一方で、なにか事故が一件でも起きたら即社会から追放というような風潮も一緒に流れ始めているのはあまり歓迎しません。一例を挙げると私も過去に取り上げたマンナンライフの蒟蒻ゼリーなど、あれだけ幼児にあげるなと記載しているにもかかわらず与えて子供を殺した親の非難がセンセーショナルに報道され、野田聖子が自信の陰謀から攻撃を与えるなど、一失即死とも言う様な近頃の風潮はあまり住み心地がいいと思えません。ま、船場吉兆は潰れて当然でしたが。
 なお前回の記事で本来セットであるはずの権限と責任が一致していないのがよくないと書きましたが、何故一致しなくなったのかと言えばこの仮説で書いたように責任が以前と比べてあまりにも肥大化していったのも一つの原因と見ています。

仮説三、責任者が責任をとらない
 これは言わずもがなで、とかげの尻尾切りよろしく最高責任者ほど自身が責任を取らずに何かあれば下に責任を擦り付けることが実際に起こっているということです。一番いい例は民主党鳩山前首相と小沢氏の資金問題の際、どちらも責任を自分の元秘書にすべて擦り付けて逃げ切りを図り、検察もそれで納得しちゃったという例です。私を含めた国民の側からすると、一番上の人間はいくらでも逃げ切れるが下の人間はそのかわりに責任を擦り付けられるのだと見えたでしょうし、真面目にやる事に対して馬鹿馬鹿しさを感じた人も多かったのではないでしょうか。

 これとは逆の例ですが、郵便料金の障害者団体向け特別割引を不正に認定したとして逮捕、起訴された元厚生省局長の村木厚子氏の事件では、検察側証人がみんな村木氏は無罪だ、検察に脅されて村木氏が関わったと言ってしまったと証言している辺り、民主党の資金問題を見逃した近年の検察組織は戦後以降で最低レベルの集団だと言わざるを得ません。少なくとも村木氏を捜査、起訴したクズみたいな検事は顔と名前を出した上で辞職しなきゃ筋が立たないでしょう。

仮説四、責任感が強い事自体がデメリット
 皮肉な話ですが今の時代、道路の速度制限を忠実に守ろうとすることのように、ルールを真面目に守ろうとする正直者自体が馬鹿だという風潮がある気がします。一部の経営者を始めとして、「法律に書かれていないから」という理由で常識的な価値観からは大きく逸脱した行為を実行に移す人間が増え、また若者の側も就職活動の面接で確認がとれないことをいい事に嘘八百を並び立てて、どこか正直でいるよりも多少ずるしてでも利益を得る方が正しいというのが主流派になってきたと思います。

 何故そうなったのかと言えば、恐らく大半の方がアメリカ型の弱肉強食の価値観が入ってきたからだと言うと思いますが、上記のような意見を私は十年くらい前から見ており、だとすれば少なくともアメリカ型の思想が流入してすでに十年は経っている事になります。私はそのような価値観を追放できずにすでにそれだけの年月を経ているのであれば、日本人はたとえ嫌がっていようとももはやその価値観を是認してしまっていると言うべきだと思います。アメリカが悪いと言うのは簡単ですが、問題があるといいつつもその価値観を十年間も追放できなかったのは日本人の責任だと考え、批判ばかりしてないでどうそれを正すかを議論し、行動する方が建設的な気がします。


 ざっとまぁこんな具合ですが、今の日本はいわば責任からお互いに逃げようと日本人全員で延々とババ抜きをしているような状態で、一向にゲームが進まない状態にあるのではないかと言いたいわけです。ではどうすればこの状態を脱する事が出来るのか、一言で言えばごく単純に信賞必罰を徹底することだけで、過去に過ちを犯した者はその過ちの分だけ降格させ、功績を作った者はその功績の分だけ昇進させるだけです。
 やっぱり今の日本を見ているとこの辺が非常に曖昧で、責任から逃れ続けて傷が少ないだけの人しか昇進していないように見え、野球にたとえるなら、ストライクを多く取る投手よりもフォアボールを出さない投手が、取ったアウトの数に関係なく昇進するといった感じです。

 今年になってゆとり教育は有効性が認められず、ほぼ完全に方針転換することになりましたが、当初から批判が少なくなかったにもかかわらず導入した文部科学省の当時の責任者は何も罰されません。かつてノーベル賞を受賞した島津製作所の田中耕一氏はノーベル賞を受賞するまでは日本国内でほぼ無名で、ノーベル賞を受賞した途端にあちこちから表彰されました。
 責任を取るという事について、もうすこし日本人は考えるべきだと言うのが私の結論です。