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2010年9月14日火曜日

ノーサイドかワンサイドか

 本日すでにニュースで報じられているので大半の方は知っておいででしょうが、現与党民主党の代表選挙にて小沢一郎元幹事長とその座を争っていた菅直人首相が見事当選し、首相続投を決めました。このブログは政治系ブログのくせして今回の代表選挙は私自身が興味が湧かずあまり取り上げてきませんでしたが、最後くらいは今後の展望を含めていくらか分析を紹介しようかと思います。

 まず今回の代表選の結果はなるべくして出た結果だったように私は思います。私は選挙戦最中の世論調査を見て国会議員票で小沢氏が上回ったとしても党員による地域票では恐らく菅氏が大量得票を得、どれほどの差をつけて勝利するかまではわかりませんでしたが最終的には菅氏が勝つのではという予測を立てていました。それで実際の得票数はどうだったかというと、

投票種類 菅氏票数:小沢氏票数
党員・サポーター票 249:51
地方議員表: 60:40
国会議員票: 412:400
合計:721:491


 という結果となり、菅氏が200票以上もの大差をつけて勝利し、国家議員票でも小沢氏を上回ることになったのはちょっと意外でした。しかしこの得票の内訳を見ると意外では会ったもののやはり地方議員、国会議員票では比較的両者が接近しており、事実上大差をつけさせたのは党員・サポーター票だったことでやはり一般有権者が小沢氏の一連の資金疑惑への根強い反感を持っていたのが出たのではないかと思わせられます。

 あと選挙戦の最中で私がすこし気になった点として、この選挙戦に対してどうもメディアの報道が及び腰な態度だったような気がします。このような及び腰な政治報道は今に始まった事ではなく数年くらい前から徐々にこの傾向が現れるようになって来ましたが、そのきっかけとなったのは2005年の郵政選挙で、小泉旋風といわれたあの選挙で大メディアは小泉元首相に利用されるだけ利用されたと感じているらしく政治報道に対して敢えて距離間を置くようになったと言われており、それが今回の代表選にも表れた気がします。
 ただこうしたメディアの及び腰についてはそれぞれの候補に対して突っ込んだ報道が行われずかえって政治が見え難くなったとの批判もあり、私もそのように考えていますが、今回の代表選も「誰が何処そこで演説した」とかどうでもいい内容ばかりで、あまり見ていて面白くありませんでした。

 ここで話は変わって菅首相が続投することとなった今後の展開に移りますが、まず結果論から言えば今回の代表選は菅首相にとって、ないよりもあってよかった選挙になったのは間違いありません。かねてから鳩山前首相と小沢氏が倒れた事で地滑り的、言い方を変えれば運がよくて首相になったと言われていたのがきちんと手続きを踏んだ民主党内の選挙で過半数の信任を得られ、なおかつ一般世論は対抗馬である小沢氏へのアレルギーが強いということがはっきりと数字に表れたことも見逃せません。
 仮に今回の代表選がなければ参議院選挙で大敗して責任論まで出ていた手前、ただでさえねじれ国会でもあるので国会運営はおろか党内運営も覚束ずに自滅する可能性もありましたが、少なくとも今回の選挙で菅首相は党内にある程度発言力を回復する事に成功したでしょう。

 その上で今後の民主党を占う上で重要になってくるのは、今回の記事の題でもある「ノーサイドかワンサイドか」という点です。今回の代表選での勝利演説で菅首相は、「民主党はこれからはノーサイド」と発言し、要するに派閥抗争のない挙党一致体勢でこれから民主党は望んでいくと言い張ったわけですが、代表選挙前ならともかく堂々と選挙で小沢氏と破ったことで人事については小沢氏の意見を仰がず自分である程度自由に決める権利を勝ち得たと言っていいでしょう。

 代表選挙前に鳩山前首相が役にも立たない伝書鳩となって菅首相と小沢氏の仲介を一時行いましたが、この仲介の過程で小沢氏側は菅首相に対して仙石現官房長官を罷免して幹事長職を小沢氏に委ねろと要求したと言われ、それに対して菅首相は小沢氏に対して名誉総裁など肩書きだけの名誉職しか認めないとしたことからこの手打ちは失敗したとされています。このように小沢氏は人事について前政権時より度々口を出していましたが、これで完全になくなるとは思えませんが代表選に勝った菅首相の方が今一分イニシアチブがある状態で、元々距離を起きたがっていたこともあるので場合によっては報復人事とばかりに小沢派議員を冷遇する人事を取る可能性もあります。

 少なくとも小沢氏について言えば国務大臣職にさえ就かせなければ、10月頃に出るといわれる検察審査会の二度目の議決がまたも「起訴相当」の場合に小沢氏は強制的に起訴されることとなります。そんな懐具合を見て小沢派で逃げ出しが起こる可能性も十分あり、上手くいけば人事については菅首相のワンサイドとなるのでは、というのが現時点での私の見方です。

2010年9月12日日曜日

偽障害者団体郵便不正事件、村木厚子元局長の無罪判決について

クローズアップ2010:障害者郵便割引不正 村木元局長無罪 暴走した特捜部(毎日新聞)

 一昨日の大阪地裁にて、実態がないにもかかわらず障害者団体を名乗りダイレクトメールの郵便料金割引を不正に受け取っていた「凛の会」の郵便不正事件において、この団体に障害者団体の証明書を偽造、発行したとして容疑がかけられていた厚生労働省所属の村木厚子元局長に対して無罪判決が下りました。この事件の私の感想はというと、首を吊るべき人間は二人、といった所です。

障害者団体向け割引郵便制度悪用事件(Wikipedia)

 ちょっとこの事件はややこしいので、私の理解の範囲で簡単に概要を説明します。
 まず事の起こりは「凛の会」が偽の障害者団体であったにもかかわらず郵便料金の障害者割引を受け取ってダイレクトメールを送っていた事がばれた事からでした。このダイレクトメールには「凛の会」を通してベスト電気など一部の業者が自社広告を混ぜていたことから、斡旋を行っていた広告代理店の博報堂子会社の関係者共々処罰を受けております。なおこの期末に博報堂では本来支払うべきであったにもかかわらず支払っていなかった郵便料金を「特別損失」として計上したことに一部でツッコミを受けてました。

 こうして不正が明らかになった後、そもそもどうして実体がないにもかかわらず「凛の会」が障害者団体として郵便料金の割引が受けられたのかについて検察内で捜査が進められ、その結果、詳細は現在も続けられている厚生労働省元係長の上村勉氏の裁判が終わるまではっきりしませんが、厚生労働省が「凛の会」に対して発行した障害者団体証明書が割引を受ける決め手になったと結論付けられました。
 このため捜査は厚生労働省へ焦点が向けられるようになり、先ほどの証明書発行を行った上村氏が逮捕され、その上村氏に上司として証明書発行の認可権限を持つ村木氏も捜査線上に浮かんだ事から逮捕されました。なお村木氏が逮捕された決め手となったのは発行された証明書が村木氏の名義で発行され、またその決済を行うための稟議書も見つかった事からでした。

 しかし逮捕された村木氏は捜査段階から一貫として容疑を否認し、また先に逮捕された部下の上村氏も捜査段階で村木氏の指示を受けて証明書を発行したと供述したものの村木氏の裁判にて証人として立った上村氏はその供述は検察によって作られたもので、証明書は上村氏一人によって偽造されたもので(村木氏の名前を上村氏が勝手に入れた)村木氏の指示は一切受けていなかったと証言しました。

 この後裁判では検察の杜撰な捜査内容が次々と明らかになり、なんと検察が提出した43通の調査書のうち34通が証拠として不採用となるという前代未聞の事態にまで発展し、下馬評どおりに一昨日に無事無罪判決が下りたというわけです。

 私はこの事件で村木氏への捜査が起こったのが去年の参議院選挙直前で、しかも偽の障害者団体「凛の会」へ障害者団体証明を発行するよう厚生労働省に口利きを行った政治家として当時報道された(検察のリークだろうが)のが民主党の石井一議員だったことから、恐らくこの事件は自民党が選挙戦を考慮して行った国策捜査だろうと見立てて初めから村木氏は冤罪の可能性が高いと見ていました。ただこの公算は一部間違えていたようで、捜査内容の杜撰さを考えると恐らく自民党の人間は誰も糸を引いておらず、大阪地検特捜部が勝手な妄想から捜査を行って村木氏の大切な時間や生活を大いに奪った事件だったようです。

 今月の文芸春秋にて村木氏本人が判決前の手記を載せておりますが、読んでみると改めてこの事件がどれだけ杜撰なものか見ていて呆れ返ってきます。
 一から挙げたら切りがないので幾つかだけを紹介しますが、何年も前から村木氏がいつどのような場所で誰と会うのかを詳細につけていた手帳に証明書を手渡した(通常は郵送であるが、これも検察が「手渡した」ことにした)とされる「凛の会」の代表者の名前が載っていなかった事について聴取を担当した國井検事は、代表者がアポなしでやってきたということにしようと村木氏を説得したそうです。

 さらにそもそもの発端である「凛の会」の代表者が石井一議員に口利きを依頼した日についても、当初検察が主張した日(代表者が聴取中に証言した日)に石井議員はゴルフに出かけており、ゴルフ場にもはっきりと記録が残っていて事実上会うことは不可能だったと石井氏本人が承認となって裁判に証言しました。すると検察は何を考えたのかすでに捜査が終わっている代表者に再度聴取を行い、「石井氏に会ったのはその日じゃなかったかもしれない」という証言を得た調書を裁判の途中にもかかわらず提出してきたそうです。さすがにこの調書は裁判所も受理しなかったそうですが、自分らが不利になるや証言を平然と変えるこの検察の行動には私も空いた口が塞がりません。

 今回この村木氏の手記を読むにつけ、やはり村木氏自身が只者ではないと感じました。普通の人間ならば逮捕、拘禁されたら結構弱るものなのですが、検察の聴取に対しても私が見る限りだと村木氏は毅然と対応し、何度となく検察から自ら作り上げた妄想のようなストーリーの調書にサインするよう求められながらもきちんと拒絶してます。さらには拘置所内のラジオで阪神戦が放送される事から阪神の選手名鑑を差し入れてもらい、ちゃっかりイケメンの能美選手にファンになってたりと。

 今回のこの事件で村木氏は実に163日も拘禁されております。拘禁される以前から多忙で知られ当時の桝添厚生労働大臣に「(逮捕が)非常に残念」とまで言わせたほどで、本人も手記で述べていますがやるべき仕事が残されていたにもかかわらずこのような事件に巻き込まれその失望たるや大きなものでしょう。

 それだけに今回の杜撰な捜査内容といい聴取中の態度といい、検察の側からきちんと責任者を処罰する必要があると私はとみに思います。今回の文芸春秋の記事できちんと実名が挙げられているので私からも紹介しますが、まず村木氏を最初に聴取した遠藤裕介検事については村木氏も「常識的な取調べだった」と述べており、また村木氏の要請に応えて調書の訂正に応じるなどまだまともな人だと思えますが、遠藤検事の次に聴取を担当した國井弘樹検事については村木氏の証言が本当だとすれば公職につくべき人間ではないでしょう。

 村木氏によると國井検事は村木氏が述べてもない内容をことごとく調書に盛り込んでは、関係のない会話同士を勝手に繋ぎ合わせて勝手な証言を作るなどしていたそうです。因みに上記の「凛の会」代表者がアポなしで村木氏から証明書を受け取ったという作文を作ったのも國井検事だそうです。

 人間誰しも間違いはあります。しかしこの事件についてはあってはならない間違いを幾重にも起こし、またそれに気づくチャンスがいくつもあったにもかかわらず見逃している事から、私は上記の國井検事、並びに一連の事件の捜査で主任を務めた前田恒彦検事は早々に検察という職から離れるべきではないかと思います。何も辞めることが責任を取ることだというつもりはありませんが、少なくともこんな杜撰な捜査をする人間はこんな職に就いていてはいけないと強く思います。

 最後に同じく国策捜査で巻き添え食った佐藤優氏がこの事件についてコラムを書いていますが村木氏について、無罪となったのは運がよかったからだ、と述べています。私もほぼ同感で、もし上村氏が供述を翻さなかったら、石井氏のスケジュールの確認が出来なければと考えると不安に思う案件でした。
 その上で佐藤氏は、証明書の偽造がどうして行われたかについてまだはっきりしていないと指摘しており、私としても今後の上村氏の裁判での供述をしっかりと見守る必要を感じます。

2010年9月11日土曜日

社会的報復としての死刑の価値

 大分日が空いてしまいましたが、前回「死刑は犯罪抑止につながるか」の記事からの続きで、今回は死刑を社会的報復としての観点から見た場合に価値があるかどうかについて私の意見を紹介しようかと思います。結論をまず申せば、やはり死刑には報復という意味で価値が少なからずあると思います。

 実はこの社会的報復という言葉はまるまんま私の造語なのですがその定義は簡単で、要は加害者に対して被害者が直接報復を行うのではなく、刑罰など法手続きを経て社会(治安機関)が被害者に代わりその犯罪ごとに一律の制裁を与える事で報復とするという意味です。前回の記事でも書きましたが江戸時代では一代限りの仇討ちは認められていましたが、これは被害者が加害者に対して直接報復を行う行為です。これに対して現代では親族が誰かに殺害された場合、犯人が捕まりさえすれば裁判を経た上で国家がその犯罪行為に対して一律の刑罰を与えるようになっております。

 両者の違いはなんといっても報復の実行が直接的か間接的かということで、前者であれば報復の度合いを決めるのは被害者本人ですが(つっても斬り殺すのにかわりないだろうけど)、後者だと被害者はその度合いを勝手に決める事が出来ず裁判などといった代理制裁者の間で自動的に決められます。たとえその犯人を殺したいほど憎んでいたとしてもです。

 すでに何度がこのブログでも書いていますが、私は人間というのは基本的にプラスかマイナスの損得勘定がすべての思考の原点になっていると考えていおり、そのためこの報復についても、被害に見合う制裁が加害者に対して実行されるかどうかに被害者は集中すると思います。法定された刑罰それ自体がその社会に属する被害者の感情を納得させる基準を作っているとも考えられますが、こと死刑に関しては少し話が違ってきます。

 それこそ大切な人間が無慈悲な理由で殺された場合、周囲の人間はなかなか自分の感情に踏ん切りをつける事は叶わないでしょう。あくまで私が耳にする範囲ですが、やはり親類が殺された遺族はそれがすべての救いとならないまでも犯人に対し死刑を強く望む声が大きいような気がします。またもし自分がそのような遺族の立場になったと仮定した場合、ハンムラビ法典ではないですが殺人に対する仕返しとして死刑と、仕返しが何も生まないと分かっているとしてもそれでもないよりはあったほうがいいのではと私も考えるでしょう。

 もちろん死刑にならなくとも殺人の場合はよっぽどの理由がない限りは無期懲役刑が下されますが、これはしばしば議論となっていますが死刑と無期懲役ではあまりにも大きな差があるといわざるを得ません。遺族側が死刑にこだわる理由も無理ではなく、そしてそれは遺族に止まらずその社会の人間全体にも少なからず影響する可能性も見捨てられません。

 現在の日本ではセンセーショナルな事件は必ずと言っていいほどメディアが全国に向かって大々的に報道し、また国民もそのようなゴシップを求めております。それゆえに大きな事件、過去だとオウム事件、最近だと秋葉原連続殺傷事件などはその裁判過程も細かく報道されて早くもその判決に注目されるようになります。
 詳しい統計もなくこれまたあくまで私の印象論ですが、やはりこういった事件内容が大々的に報道された場合、その報道を見る視聴者もいつの間にかその直接の被害者や遺族ほどではないにしろその犯人らに対して怒りを共有し、必要な刑罰を強く望むようになる傾向があるように思えます。

 江戸時代では磔などといった一部の死刑は公開で行われていましたが、これは庶民に対して「悪い事をしたらこうなる」という警告的な意味合いとともに、一種のショーのような具合で娯楽的な意味合いもあったと一説で述べられています。この死刑の娯楽的要素は日本に限らず世界各国で共通しており、恐らく一番華やかだったのはロベスピエールが居た頃のフランスだったでしょうが、一種のガス抜き的な効果は確かにあったと私も思います。
 現在の日本ではもちろん死刑は公開されていませんが、全国に報道された犯罪者が死刑判決を受ける、受けないで国民が持つ感情は変わってくるでしょう。

 最後に蛇足かもしれませんが、私は先ほど、刑罰それ自体が報復感情を納得させる基準を作っている節があると書きましたが、これは言い換えると、その犯罪にはどのような刑罰が課されるのかという基準意識をも作ってもいるとも言えます。
 全国的にも報道されたある有名な事件の犯人は逮捕後、オウム事件を見て犯人らが逮捕後にすぐ死刑とならなかった事を見て影響されたと語っており、また「市川一家4人殺人事件」の犯人は「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の犯人らが死刑にならなかったのを見て自分も死刑になるはずがないと主張していたと報じられています。前回に死刑の犯罪抑止力は低いと書いておきながらですが。

 本筋の議論から大分外れた話になってしまいましたが、死刑があるかどうか、そして判決が下りるかで被害者の意識、並びに社会の規範意識に与える効果という意味においては死刑は存在価値があると私は考えているわけです。

2010年9月8日水曜日

日本ひげヅラ興亡史

市役所が男性職員のひげ禁止 群馬・伊勢崎、「市民に不快感」(産経新聞)
「ひげ」で手当減額…郵便事業会社員が勝訴(スポニチ)

 どちらもちょっと古いニュースですが、閲覧した時からなんとなく気になっていたニュースです。
 内容を簡単に説明すると、最初のニュースはヒゲを生やしていると市民に不快感を与えるという事から、群馬県伊勢崎市にて男性職員にヒゲを生やす事を禁止したというニュースで、もう一つは郵便事業会社にてひげを生やし続けてきた職員に対して手当てを減額したことに対しその職員が裁判で抗議を起こしたところ、結局郵便事業会社が勝訴したというニュースです。

 どちらのニュースを見ても近年の日本社会がひげ面に対して徐々に厳しい目を持ってきたという事をうかがわせる内容なのですが、ここで私が気になったのは一体いつ頃から日本はひげ面に対して厳しくなってきたのかということでした。改めて考えてみるとどうも日本社会ではひげ面に対して流行期と衰退期がちょくちょく起こっているような気がして、その辺をちょっと調べてみたので一つ今日は紹介しようと思います。

 まず日本の歴史スタート地点として飛鳥時代から考えてみたのですが、この時代の人物の肖像画で残っているもので代表的なものとなるとまず聖徳太子が挙がってきます。その一万円札にもなった聖徳太子の肖像画ではまるで中世の中国人貴族かのように鼻下と顎にそこそこのひげを蓄えた姿で描かれていますが、この肖像画自体がいつ頃に描かれたのかはっきりせず、私見ですが絵の特徴から言っても奈良時代っぽい感じなのでどちらかといえば奈良時代の風俗が影響しているかと思われます。

 ではその奈良時代はどうなのかというとこの頃は中国の影響が非常に強かったために、僧を除くとこの時代の人物の肖像画は(大抵がその後の時代に描かれているものの)やっぱり中国人貴族風なひげが目立ちます。平安時代も概ねこの流れの延長にあって藤原道長を始めとした貴族たちはそのままなひげで描かれていますが、平安時代から出現した武士によって初めてこの流れにストップがかかります。

 武士の中でも棟梁とされる平清盛を始めとした出自の者達はやっぱりまだ貴族風のひげで描かれていますが、生粋の武士とも言うべき地方豪族たちは見かけにも顎ひげが徐々に濃く描かれるようになり、鎌倉時代を通して武士らは貴族たちと比べて荒々しさを感じさせるひげになり、鎌倉時代末期ともなるとついにはこの流れが貴族にまで影響したのか後醍醐天皇は長くて濃い顎ひげを蓄えた姿で描かれております。まぁこの人は例外扱いすべきなのだろうが。

 この後時代は室町、そして戦国時代へと移り変わっていきますがこの頃になると風俗史などについても史料上でも言及されるようになり、武将たる者ひげがなくてどうする的な風潮が流行っていたとはっきりと言及され、元々ひげが薄かった豊臣秀吉は熊の毛で作った付け髭を付けていたという記述まで出てくるようになります。

 そんな男のステイタスと一時なったひげですが、不思議な事に次の江戸時代になると途端に肖像画から消えてしまいます。この突然のひげの消失についてはあるエピソードがあり、余りの出世の速さから徳川家康のご落胤ではないかと噂された初期徳川幕府ブレーンの土井利勝がある日突然ひげを剃って登城してきたのを周りが見て、「あの土井様が剃ったのだから……」と、いかにも日本人的右に倣え思考で一斉にひげが剃られるようになったと「落穂集」に記されております。
 これが本当かどうかまではわかりませんが、徳川将軍も三代家光まではひげがあるのに四代家綱からはこれがすっかりなくなり、暴れん坊将軍と言われた吉宗ですらつるっとした顔で描かれてます。ただこれにはもう一つきっかけがあったとして、四代家綱がある年に「大ひげ禁止令」といってひげを生やしすぎると処罰するという法令を出しているようです。実際にどれほど取り締まられたかまでは分かりませんが。

 そんな江戸時代が過ぎて明治時代に入ると、戦国時代さながらにまたも濃いひげの連中が続出するようになります。これの発端はほぼ間違いなく大久保利通を始めとした明治初期に欧米を視察した政府要人らで、ドイツでプロイセン宰相のビスマルクに心酔した彼らが西洋人に倣ってこぞってひげを生やすようになったことがきっかけでしょう。ただ確か榎本武明も早くからひげを蓄えていたと聞きますし、昔も今も西洋人のファッションに合わせようとするのは日本人の性なのかもしれません。

 この明治以降の濃いひげはその後も主に軍人らの間で続き、おそらく日本海海戦を指揮した東郷平八郎の影響もあって海軍ではいわゆるカイゼルひげを生やす人物が、私も以前に取り上げた木村昌福を始めとして昭和期にも見受けられます。
 その濃いひげからの転換期はやはり太平洋戦争での敗戦で、戦後は建前上は軍人がいなくなった上に先ほども言った通りに政治家もめっきりひげを生やさなくなり、平成に入った今では中には「不潔」とまで言われる始末です。

 私としてはここで書いていったように、ひげとか髪型なんていうものは長い目で見るとちょくちょく流行り廃りがあって生やすか生やさないかにこだわる事自体が馬鹿馬鹿しいと考えております。なもんだからさすがに全く手入れせず、感染症を起こしかねないくらいに不衛生に伸ばしっぱなしであれば話は別ですが、私はひげが濃い人に対しても特に悪い印象を覚える事はありません。むしろ最初のニュースでの群馬県伊勢崎市の例などを見ると帝政ロシア時代のひげ税のような印象を覚え、職員のひげをいちいち管理する前にもっとほかにやることあるんじゃないのという気を覚えます。
 ただもし住民票を取りにでも市役所に行ったら三国志の関羽みたいな立派なひげを生やした職員が窓口に座っていて、突然「ジャーンジャーン」って放送が鳴ったら「げえっ」とか言ってしまうかもしれませんが。それはそれで楽しそうだけど。

 最後に近年の日本人でベストオブひげ面を挙げるとしたら、すでに剃ってしまいましたが巨人の小笠原道大選手の日ハム時代のひげ面が一番かっこよかったと思います。小笠原選手は余りにもひげの印象が強かったもんだから、巨人移籍時にひげを剃ったら「誰?」って思ってしまったくらいだし。

2010年9月6日月曜日

私の保有するHard Rock CafeのTシャツ



 以前に書いた「かつて呼ばれた私の異名」の記事の中で、「ミスターHard Rock」と呼ばれていたということを書きました。この異名は私が全世界に展開している「Hard Rock Cafe」というレストランが販売しているTシャツを夏場はそれこそ毎日着ていることから呼ばれるようになった異名なのですが、では実際にどれだけ私がこのHard Rock CafeのTシャツを持っているか、具体的に調べてみました。その結果は以下の通りです。

上野(日本)
バンコク(タイ)×2枚
バリ(インドネシア)×2枚
マルタ(マルタ)
コペンハーゲン(デンマーク)
コナ(ハワイ)
ドバイ(ドバイ)
バルセロナ(スペイン)
アテネ(ギリシャ)
エジンバラ(イギリス)
カイロ(エジプト)
ミュンヘン(ドイツ)
ハイデルベルグ(ドイツ)
ザルツブルグ(ドイツ)
リスボン(ポルトガル)
メルボルン(オーストラリア)……これだけTシャツではなくセーター

  パチ物
イスタンブール(トルコ)
上海(中国)

 以上のように、正規品で18枚、パチ物を含めると20枚になります。
 確かイタリアのローマと韓国ソウルのもあったような気がしますけど、あまりにも量が多いせいか今回の調査(タンスの捜索)では見つかりませんでした。

 パチ物については結構世界各地で作られているようで、元々シンプルなデザインのために上記の上海、イスタンブールのTシャツも本物だと言い張れば見た人は信じると思います。ちなみに中国では北京に正規店が一軒あり、留学中に私も中心部からえらく外れた場所だったのでバスを何度も乗り継いで行って二着買って来たのですが、二着とも友人へのお土産に使用したために現在私の手元には残っていません。あと日本は上野駅以外にも大坂にもHard Rock Caféがあると聞きますが、こちらは京都時代には何故か行きませんでした。上野のも去年にようやく買ったばかりだし。

 これらHard Rock CaféのTシャツはすべて旅行狂いのうちのお袋が仕入れてきたものですが、改めて国名を見てみると本当にいろんな所に行っているんだなと思うと共に、この世代は本当に体力余ってるなという気がします。また明日から台湾に行くそうだし。

2010年9月5日日曜日

小売業での主役交代について

 この頃市井で気になっている事として、電器販売店のデパート化があります。一番デパート化が激しいのはヨドバシカメラを始めとした都市圏の巨大電器販売店で、全国規模でも石丸電気やヤマダ電機などもこの類に属します。このデパート化というのはどういう意味かというと、単純に専門とする営業品目以外にも幅広く商品を扱うようになってくるという事です。

 近年、大丸や三越、伊勢丹といった老舗のデパートらはどこも営業が苦しくて店舗の閉店が相次いでおり、私も一時期、といっても入って買い物をした事はそんなに多くないですが、京都の真ん中にあって街の大きなベンチマークとしてあった阪急デパート四条河原町店が先日に閉店したというニュースは正直にショックを覚えました。ちなみに京都市内でいえばそれ以前に京都駅前の近鉄百貨店も閉店しており、私が始めて京都に居を構えた頃と比べると随分と姿を変えているような気がします。さすがに大丸は居続けていますが。

 話は戻って電器店のデパート化についてですが、具体的な例を挙げるとヨドバシカメラ秋葉原店が一番分かりやすいです。秋葉原という場所はそれまで電気街口方面の賑わいに対して駅の反対側にある中欧改札口方面は控えめな場所であったのですが、こっち側にヨドバシカメラが新たな店舗を作ってから人の移動も徐々に変わり、現在に至っては電気街口に勝るとも劣らない人の入りとなっています。
 ではそれだけ人の流れを変えたヨドバシカメラ秋葉原店の中身はどうなっているかというと、ほとんどの階には通常通りのパソコンや家電といった商品が置かれているのですが上位階に行くと本屋や飲食店のテナントが入っており、そのほかの階にも旅行者向けのスーツケースやスポーツ用自転車などと、何で電器店にこんなものがと思わせられる商品が数多く置かれております。

 これはなにも秋葉原に限らず同じヨドバシカメラでは大坂の梅田店もほぼ同じような感じでしたし、また同じく都市圏に主に進出しているビックカメラでもいろんな物が売られています。さらにヨドバシカメラもビックカメラもこのところ店舗進出が相次いでいますから、今後もこの傾向に拍車がかかるだろうと予想できます。
 これに対して全国の主に郊外に店舗を出しているヤマダ電機や石丸電気はどうかというと、こちらもおおよそ電器店には似つかわしくない商品が置かれているのがこのところ目立ち、試しにヤマダ電機の通販用ホームページを見てみたら「ブランド時計」、「花、酒」といった商品分類がされています。

 ここでそもそものデパートの定義とその成り立ちについて考えてみましょう。
 デパートは「そこに行けば何でも買える物がある」と言われた様に、分野にとらわれない多品種の商品を扱っている販売店を指していると一般的には言われております。そんなデパートの成り立ちはというと大正期に先ほど挙げた老舗デパート店が出来始めたのが日本での成り立ちと言われ、これら老舗デパート店の本業は大丸や伊勢丹、三越など元々は呉服屋でした。その後阪急や阪神、近鉄など鉄道会社もデパート業に参入して大体ここまでが老舗デパートと呼ばれる区切りですが、その後バブル期にはダイエー、イオン、イトーヨーカドーといった企業が現れ彼らは老舗デパートと分けるために大型スーパーと呼ばれましたが、衣料品、食料品、雑貨など幅広く商品を扱っている事から広義では大型スーパーも十分にデパートと呼べるかと私は思います。

 一気に流しましたが、こういったデパートの変遷というのはそのまま小売業における主役の変遷ではないかと私は考えており、近年は電器販売店が徐々に主役になりつつあるのではないかというのが私の考えです。簡単にその変遷をまとめると、

  高級衣料品販売業→食料品、日常衣料品販売業→家電販売業
 =老舗デパート店→大型スーパー店→電器販売店

 ではこれから電器販売業の企業が大きくなっていくのかと問われるならば、私は必ずしもそうだとは思いません。元々小売業自体が競争の激しい分野であっていくらでも下克上が起こる業種でありますし、元来薄給激務と言われる職場が近年のワーキングプア問題さながらに飲食業と並んで何かと勤務待遇に問題が多いとよく聞きます。実際に風の噂で小学校時代の同級生がこんな不況期にもかかわらず、四年目でビックカメラを辞めるそうです。

 恐らく今後しばらくは家電販売店の力が増していきどんどんとデパート化していくことでしょうが近年は驚くくらいの早さで勢力図がどんどんと塗り替えられていくので、十年後にはまた別分野の小売店が主導権を握っているかもしれません。
 ただ老舗デパートについて言えば、個人的な体験から言っても今後日本での展開は辛さを増していくだけだと思います。何故そう思うのかというと、私は北京、上海の繁華街(王府井と南京路)をそれぞれ見てきましたが、はっきり言って日本の繁華街と比べても欧米などのブランド店の進出が多く、客層の高級品嗜好も日本とは比べ物にならないと感じました。これは見方を変えると、一時期にあった日本人のブランド狂いも落ち着きを見せて実用嗜好が高まったともいえるので、あながち悪いことではないでしょう。

  おまけ
 郊外系家電屋は親子連れがよく訪れることからこの頃はゲームやおもちゃをどこもよく取り揃えているように感じます。実際に私も先月買った「ランサーエボリューションⅤ」のプラモは石丸電器で購入しましたが、模型屋自体が少なくなってきているこの世の中なのでこれはこれでありかと……。

  おまけ2
 京都時代に私が一番通ったのはアルバイト先に近い近鉄百貨店で、よくバイト帰りにテナントで入っている本屋に寄っていました。ただ四条にある大丸について言うと私の通っていた大学によく短期バイト募集をしていたので、何度か応募して物産展の補助スタッフをやってました。物産展があるたびによく出入りはしていましたが、まさか中国に一年間留学して帰ってきてからまた応募した際、大丸の担当の人が電話口で私のことを覚えていたのはちょっと驚きました(;´Д`)

2010年9月4日土曜日

阿波踊りに人生を賭した家老

 阿波踊りと言えば徳島県の名物として全国的にも有名な踊りですが、その起源については確証がないものの江戸時代初期、豊臣秀吉の片腕であった蜂須賀正勝の息子、蜂須賀家政が開いた徳島藩の時代に成立したと言われております。阿波踊りは成立した当初から徳島藩内で大いに親しまれたものの、年を追って熱狂さを帯びてきたために暴動につながらないように徳島藩では藩内の武士に対しては外に出ず、屋敷内で踊るようにと布令を出していました。
 しかし十九世紀のある年、この禁令を破ってまで阿波踊りを踊った武士がいました。その武士の名は蜂須賀直孝といって、名前からも分かるとおりに藩主蜂須賀一族に連なる家老職にある人物でした。

 この蜂須賀直孝は家老という要職にありながら藩の命令を無視して群衆に混じり、阿波踊りに興じたのですが、家老であったゆえに顔がすぐに割れて連行されてしまってそのまま座敷牢へと入れられることとなりました。しかし直孝はこれに全く懲りてなかったのか、なんとその一年後の阿波踊りシーズンに入るや座敷牢を抜け出し、再び群集に混じって阿波踊りに興じたそうです。
 この直孝の二度の重大な法令違反には藩主もさすがに激怒し、参勤交代から戻るや直孝を追放したうえで改易(後に養子による相続は認めている)という厳罰で以って処分しています。

 この話は実業之日本社から出ている、大石慎三郎氏監修の「江戸大名 知れば知るほど」に載せられている話ですが、数ある載せられている話の中でも特に印象に残ったエピソードです。徳島の人にとって阿波踊りはなくてはならないものとよく聞きますが、わざわざ家老職を捨ててまでも踊りたいと思った人がいたとは驚くと共に非常に面白いです。

 ちなみに以前に私は阿波踊りのある徳島県出身の友人、よさこい踊りのある高知県出身の友人がいましたが、彼らに双方の踊りについて感想を求めると、

徳島「(よさこい踊りは)あんなん、ただ動きまわっとるだけの下品な踊りやろが (#゚Д゚)」
高知「(阿波踊りは)あんなん、スローすぎて止まっとるやろが(#゚Д゚)」

 やはりというかなんとなくそういう気がしてましたが、お互いに自分の踊りにプライドがあるらしくてあまり徳島の人と高知の人は引き合わせない方がいいとこの時実感しました。なお高知の友人によると、高知ではよさこい踊りからちょうど一ヵ月に中絶手術が集中するそうです(/ω\)