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2011年8月14日日曜日

神様の実証性

 先日、友人とともにかなり久々に宗教関連の話題をして盛り上がりました。ここでいうのもなんですが私は一時期はキリスト教にはまってて真剣に受洗も考えたほどでしたが最近はめっきり信仰心が薄れ、一般的な日本人と同じくらいに距離を置くようになりました。一緒に話をした友人は私と違って徹頭徹尾宗教を批判する人間で、森元首相同様に「宗教は心の阿片」と言ってはばからない友人ではありますが、そこはさすがに私の友人だけあって宗教的価値観や思考法、論理の立て方に対しては単なる宗教批判者にとどまらずじっくりと話し合うことができます。

 そんな友人と昨日話した内容はかなり多岐に渡るのですが、一つの大きなトピックスとして神様の実証性がありました。ここでいう神様とはキリスト教やイスラム教における唯一絶対神を指していますが、私は基本的に信者の方とはいえ無条件で神の存在を肯定する方はあまり信用しません。この辺について猫好きを広言している作家の佐藤優氏の言葉を借りると、キリスト教というのは投資対象としては非常に利回りや確実性の低い宗教であるそうで、このまま現世で生きていくとしても苦難しかないと言い切った上、しかも信仰を保ち続けその苦難に耐え抜き天寿を全うしたとしても天国に上れるかどうかは全くの未知数で、それにもかかわらずただ信じよという宗教だそうで確約というか保証は全くないそうです。それは神様の存在性についても同じで、存在する理由からしている根拠も全くと言っていいほどないのですが、その点についてもただ「信じよ」というだけです。

 もっともこれを言ったら日本で強い仏教においても同じで、仏様からトイレの神様に至るまでそこに存在する理由は皆無に近いです。にもかかわらずどうして人間というのはなにかと神様という霊的存在をどこかしらで信じようとするのか、この辺について解説しようものならとんでもない分量になるので触れませんが非常にもろい基盤の上にあるからこそ存在していると私は考えています。ただこうした議論は何も今に始まるわけじゃなく原始以来繰り返されており、特に近代で実存主義が勃興した時代においては当時のアナーキーな思想とともにいろいろ語られましたが、その実存主義の旗手たるニーチェは下記の有名な言葉を当時に書き残しております。

「神は死んだ ニーチェ」

 これは以前に私が知り合いから聞いた話ですが、上記の言葉がある日どこかの欧州の大学で落書きされていたようです。この事実自体はよくありそうな話で特別おかしなことはないのですが、その落書きがなされた翌日、書かれたニーチェの言葉の横にはこう付け足されていたそうです。

「ニーチェは死んだ 神」

 少なくとも神が死んだかどうかは実証できませんがニーチェが死んだのは明確な歴史的事実ですから、上記の落書きだけにおいては神様のが存在感が溢れてる気がします。

2011年8月12日金曜日

私の好きなゲームBGM

 私はあまり音楽は聞かない生活をしていますが、ゲームはよくする方なのでゲーム中に使われるBGMなんかだと気に入ったものはサントラを買ってたりします。先日も日本に帰った際には昔懐かしいのもあって「女神異聞録ペルソナ(PS版)」のサントラを持って帰ってきましたが、音源で言えば明らかに現代のゲームに劣るものの、やはりメロディのいいものはいつ聞いても悪くないものだという気がします。
 そこで今日は、敢えて古いのに絞って私がひいきにするゲームBGMを紹介しようと思います。最近こういう趣味関係の記事もほとんど書かなくなった、もといネタ切れしているのですが、たまにはこういうの書かないと本当にやってられません。

1、ドラゴンクエストシリーズ
 日本人なら誰もが知る有名なRPG作品ですが、未だにブランド力が圧倒的というだけあってBGMも毎回作りこまれております。各作品のメインテーマは言うに及ばずですが、敢えて一つの作品を上げるとしたら3が最も好きで、フィールド上の音楽とラスボスであるゾーマ戦の曲は傑作もいいところです。

2、ファイナルファンタジーシリーズ
 この作品も有名でみんな知っているでしょうが、個人的な感想としては音源がよくなっていくにつれてどんどん曲は悪くなっていったシリーズのように思えます。単体作品で好きなのは6と7で、7では汎用ボス戦の曲がお気に入りで無駄に文化祭とかで流してました。

3、ロマンシングサガシリーズ
 これは知っている人は多少限られてくるでしょうが、イトケンこと伊藤賢治氏によるBGM群は一度聴いたら二度と耳から離れないほどのインパクトがあり、今でもサントラ買おうかいろいろ迷ってます。個別の曲は挙げだしたら切りがないのですが、初代ロマンシングサガでは「下水道のテーマ」が場面にそぐわずかっこ良すぎると評判でした。またロマンシングサガ3ではやったことがある人ならみんながわかるでしょうが、「四魔貴族バトル2」という曲が異常というか圧巻過ぎて、未だにこれほどテンションの上がる戦闘曲は聞いたことがありません。極め絵付けは「ロマンシングサガ ミンストレルソング」で流れた「熱情の律動(通称:ヘェーラロロォー)」という曲で、これなんかはネット上でも一時取り上げられましたが最初に聞いた時は本当に(;゚Д゚)エエーって顔になり、イトケンは未だここにありというのをはっきりと見せつけられました。

4、ゼルダの伝説
 恐らく総合的なBGM評価だとこの作品が白眉です。長いシリーズ名だけあってメインテーマなんかは定番化していますがいつ聞いても飽きがないというか、むしろ久々に聞くといろんなことが一挙に思いだせて震えてくるような曲です。以前にYoutubeでこのメインテーマのオーケストラバージョンを聞いた際なんか感動して涙が出てきたほどでした。

5、クロノトリガー
 これまた古い作品ではありますが、当時のスクウェアの技術力を結集させた作品だけあって名場面も多く、その場面ごとに流れる曲も秀逸なものばかりでした。個人的に好きなのは「カエルのテーマ」と「時の最果てのテーマ」です。

6、俺の屍を超えてゆけ
 通称オレシカ。今度リメイク版が出るらしいですがすっとんきょんなタイトルの割に世界観は和風のRPGゲームです。和風なだけあってBGMも基本的には和楽器がメインで使われているのですが、地味で渋い曲ながらなかなか耳に残る音が多く、個人的には武術大会での戦闘で使われる太鼓の曲が一番好きでした。

7、ドラゴンボールZ~スーパーサイヤ伝説
 これまた古いゲームを出してきましたが、初期のスーパーファミコンゲームながらBGMは非常に秀逸で、特にラスボスのフリーザ戦の曲は名曲と言っていいと思います。ただBGMがいいゲームはクソゲーが多いというだけあって、ゲームバランスがあまりにもひどいゲームでしたが。

8、アクトレイザー
 いろんな意味でゲームBGMを変えたゲームBGM。なんでもこのゲームの曲を聞いたスクウェアのスタッフは既に作曲済みのFF4の曲を廃棄して全部作り直したほどのショックを受けたそうですが、事実現在に至ってもこのゲームのサントラは高値で取引されていると聞きます。私自身もこのゲームは何度もクリアしたほどで、戦闘シーンから町のシーンまで寸分の隙がないほど名曲の塊でした。ゲームも面白かったのですが、いかんせん続編は悪すぎた。

  

2011年8月11日木曜日

豊臣秀吉の本能寺黒幕説について

 たまにネットで見るので今日は本能寺の変の黒幕が実は豊臣秀吉だったという説を解説するとともに、私の見解を紹介します。
 まず本能寺の変とくれば説明するまでもないですが、ほぼ天下を手中にしつつあった織田信長が京都で明智光秀の謀反によって打たれるという、ある意味戦国最大の逆転劇ともいうべき事件です。この事件に関して謀反を行ったのは一般的に明智光秀単独犯という説が強いですが、これに対し実は豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)も荷担、つまり共謀していたというのが今回の黒幕説ですが、こうした説が唱えられる論拠を書きに挙げていきます。

<豊臣秀吉の狙い>
 明智光秀に織田信長を殺害させ、さらに明智光秀を謀反人として罪を被せて打ち倒すことで織田家の実権を握り天下を掌握する。

<豊臣秀吉黒幕説に挙げられる根拠>
・中国大返しの手際が良すぎる(初めから信長が殺されるのがわかっていて事前準備があった)
・毛利氏に先駆けて乱の事実を知った
・そもそも信長が京都に来たのは秀吉の援軍要請を受けての行動
・明智光秀が反乱を起こした動機がやや不明瞭
・さらに反乱後に光秀の所に味方が思ったより集まってこないなど、計画にずさんさがある
・これら計画のずさんさは秀吉がうまくそそのかしたためでは
・こういうことを計画しそうな奴が秀吉のそばにいる(黒田官兵衛)
・その黒田官兵衛は本能寺の乱を知った直後、「やったじゃん秀吉ぃ(*´∀`)」って声をかけた
・撤退する秀吉軍を毛利が追わなかった(既に話がついていた)

 ざっとまとめるとこんなところです。なんか見てみたら私が地味に話し方の真似をしようとして断念した、「その時、歴史が動いた」の松平定知氏もこの説をよく主張しているそうです。
 それでこの説に対する私の見解ですが、やっぱりいくら何でもこの説には無理があると思え、フィクションのネタとして小説に使うならともかく実際にこうだったと主張するには無理ではないかと思います。というのもかなり昔、具体的には2005年の夏にわざわざカレー作って待っていたのに、「昼にすき屋のハンバーグランチ食べて調子悪くて」と拒否した友人に対して物凄い不機嫌になりながら議論して、この時にある程度結論が出ています。ちなみにその友人曰く、ハンバーグランチはほどなくしてメニューから消えたそうです。

 秀吉黒幕説が無理だと考えられる理由ですが、こちらも箇条書きで書くと以下の通りとなります。

<秀吉黒幕説が無理だと思う根拠>
・秀吉軍は毛利方の追撃を受ければ完全壊滅となるため危険が高すぎる
・毛利は追撃しないという密約があったとするが、高松城戦での和議条件に清水宗治の切腹を出すのはやや不自然
・しかも毛利家は和議後に本能寺の変を知り、実際に追撃を検討している
・本能寺の変の直後に明智光秀は各地に書状を何枚も出しているが、共謀者として秀吉の名前を出していない
・さらに言えば山崎の合戦前後、「一緒に約束したじゃん(つд;)」とは光秀は一言も言っていない
・山崎の合戦後、織田家を始め他家でも誰もこの件の陰謀論を主張していない

 最後に書きましたがこの秀吉黒幕説はやはり陰謀論の域を出ないかと思います。とはいえ「東日本大震災はアメリカ軍の兵器実験だったんだよ!」というようなトンデモ論・陰謀論は人間社会が成り立っていく上で欠かせないエッセンスだと考えているので、この秀吉黒幕説も全否定せずに交換に流布する程度なら「だったら面白いね」という具合で見ていようかなと思っています。
 ついでにトンデモ論だとこの前はマヤ文明の暦か何かで今年の前半に世界が滅亡する予定だったらしいですが、以前どこかのサイトで「世界は既に何度も滅亡していた」という題でこれまでの滅亡論とその年代をまとめてありました。ノストラダムスの1999年を過ぎてからというものこういうトンデモ論が減ってきてさびしい限りですが、「中国バブル崩壊論」もこの十年でいろんな人があの手この手で主張してきているので、なんかこの手の議論に近くなってきている気がします。今度これまでに崩壊論を主張した人をまとめてみようかな。

2011年8月10日水曜日

天智天皇の謎

 久々に歴史記事、しかもまた古代史ネタ。これまでの古代史ネタは基本的に古事記に沿った解説が多かったですが、今回はやや時代が飛んで大化の改新についてです。
 この大化の改新は中学校はおろか小学校でも自明の史実として教えられますが、私は内心、真実はどうだったのかと教えられている内容について疑問を感じております。基本的に現在教えられている内容は日本書紀に書かれている通りですが、この日本書紀自体が後の天武天皇とその一族の正当性を強く主張するための書物であり、当たり障りのない部分ならともかく天智、天武系が権力を握っていく過程においては鵜呑みにしてはならない部分が多く、事実冷静に見つめると不自然な場面も少なくありません。

 いくつかそういった不自然な場面を上げると、代表的なのは天武天皇と天智天皇の息子である大友皇子の後継争いです。詳しくは語りませんが当初天武天皇は後継争いを避けて岐阜県に流れたにもかかわらず、その後反乱を起こして天皇位を簒奪しております。ただそれ以上に怪しいのが今回の大化の改新、もとい天智天皇の来歴です。

 大化の改新は専横を振るう蘇我氏を打倒して中央集権制(=律令制)へと舵を切るために天智天皇(=中大兄皇子)、そして藤原氏の祖先たる中臣鎌足が起こしたクーデターでありますが、そもそもの話として当時にはすでに亡くなっておりますが蘇我馬子は聖徳太子、推古天皇とともにまさに天智天皇が目指した中央集権制国家樹立に向けあれこれ努力していました。そりゃ確かに息子や孫の代ともなればいろいろ考え方が変わってくるかもしれませんが、本当に蘇我氏が専横を振るっていたのかいまいちパッと来ません。
 またこれは前の陽月秘話時代にもたびたび主張していましたが、「天皇」という言葉は後の天武天皇が最初に使い出したと言い、それ以前の国のトップには「大王」という呼称がつけられていました。この大王という呼称ですが本当に現在にも続く天皇家の一族が世襲で呼ばれたのか、私はむしろ当時の近畿に存在した豪族たちの中で最も力を持っていた人間が就く称号だったのではないかと見ており、必ずしも大王=天皇家とは言い切れないのではないかと考えています。それ故に聖徳太子の時代において当時の最高権力者は推古天皇ではなく、むしろ蘇我馬子だったのではないかという仮説をかねてから主張しています。

 根拠ははっきり言ってないに等しいですが飛鳥寺など大規模建築を行った権力といい、石舞台古墳など臣下の人間にしては妙に大規模な古墳に埋葬された点などを考慮すると、推古天皇よりも名目上でも実質上でも権力が上だったとしかちょっと思えません。この蘇我氏の天下は次代の蘇我蝦夷、入鹿の時期でも変わっておらず、それをひっくり返して天皇家の世襲を確立させたのが天智、天武天皇ではないかというわけです。
 ただこの天智、天武の兄弟は百人一首にも入れられている額田王という女性を取り合ったといわれるなど傍目にも仲がいいとは思えず、それ故に日本書紀における天智天皇の活躍は華々しいもののどか曖昧模糊とした感があります。特に一番謎、というより飛鳥・奈良時代で最大の謎とも言っていいのは孝徳天皇、斉明天皇の死後、天智天皇は最高権力者となるもののしばらくは天皇位を継がず、称制という形で皇太子の中大兄皇子のまま政治を切り盛りしていました。一体何故天智天皇はすぐに天皇につかなかったのか、理由は色々あってはしたないのだと当時から近親相姦はタブーとされながらも実妹と懇ろな仲だったとか、国内事情に配慮してだとかいろいろありますが未だにはっきりしません。

 それだから私は一時期、天智天皇というのは蘇我氏から政権を簒奪するという悪行をおっかぶせるための架空の人物ではないかとも思ったことがありましたが、奈良時代は天武系の一族が代々天皇位に就きましたが末期になって途切れ、そこでピンチヒッターとばかりに天智系の光仁天皇が即位して現在にまで続いていることを考えると、さすがに存在しなかったってのはありえません。となると存在したものの、経歴については謎が残ったままというまたも締まりのないオチとなるわけですが、天智天皇同様に中臣鎌足、そして実質奈良時代の礎をすべて築いたと言っても過言ではないその息子の藤原不比等についても色々疑問があり、ここら辺については今後の研究を心待ちにしていきたいと思います。

2011年8月9日火曜日

昨日今日の世界同時株安について

 前置きはもう必要ないでしょうが、米国債の格付けが下がったことをきっかけとして昨日今日で世界同時株安が発生しました。この株安とともに日本円は再び上昇しまた1ドル=76円台が見えてきましたが、恐らくこのまま史上最高値を更新するのではないかと私は見ております。たた言ってしまえばこの流れはある意味必然ですし、先週に日銀が介入したのも日銀の立場からすればやらざるを得ないとわかってはいたものの、多分今日のように円高の流れは食い止められないと予想済みでした。

 それでは今回の株安が今後どこまで発展するかですが、すでに出ているように「リーマンショックの二番底」という表現が適当ですし、下手すればリーマンショック以上の歴史的な経済後退になる可能性もあると思います。その根拠を上げるとリーマンショックは金融界が大打撃を受けたものの、製造業など実業メーカーらはそれまでの好景気などによって内部留保を蓄えているなど比較的余裕を持っていました。然るに現在の企業は日系企業をはじめとしてリーマンショック以後の不景気にさい悩まされてきているため余裕が少なく、今回の株安をきっかけとした再度の景気落ち込みによっては大型倒産が相次ぐかもしれず、それによって失業者が今以上に、大幅に増えることもあり得ます。

 また今回の株安のそもそものきっかけは米国債の信用不安に端を発していますが、ドルに限らず現在ユーロも非常に不安定な状態が続いており、またその煽りを食って日本円は円高となっておりますがこれが日系企業を苦しめているなど、どこから手を付けたらいいのかわからないような状態が続いています。これら現象はちょっと自分でもいい過ぎな気もしますがいわばドル体制の不安で、今後ますます続くようであれば世界中で通貨危機みたいな状態になるかもしれません。また実際に通貨危機とならずともその混乱で財政破たんする国家も続出するでしょうし、現実に懲りないギリシャのみならずイタリアやスペインなどといった大国でも財政危機が叫ばれています。

 ではこれから日本は、ひいては世界はどうするべきなのでしょうか。まず喫緊の課題はリーマンショックを引き起こしておきながらもアメリカが延命させた世界大手の金融企業を今度こそ息の根を止める、というのは言い過ぎですが、やはり厳しい規制をかける必要があるでしょう。その上で日本はできるだけ明るく派手に騒いで、変な話ですが今のうちに潰せる企業は潰してしまい、産業再編を進める以外は何も打つ手がないと思います。もちろんこうしたって事態が開けるわけではありませんが、将来につなぐという意味ではしないよりした方がいい気がします。
 恐らく明日からも株価は下落していき、一呼吸おいてまた下落するという循環が続いていくと思います。はっきり言えば希望なんてないです。無論これらは一素人の私自身の意見であって大はずれして笑いものになるのかもしれませんが、昨日今日の株安を市場の一時的な動きというよりは地震のように積もり積もったエネルギーがついに動いたもののように思えたことだけは今日のブログに残しておこうと、キーボードをたたいた次第です。

2011年8月8日月曜日

京都にある大学

 このところ固い記事ばかりで、なおかつあまり文章が乗れていないのでやわらかい内容で今日は行こうかと思います。

 さて私はこのブログですでに何度も書いていますが京都の私立大学の社会学部出身です。この学生時代を京都で過ごしたという経歴は誇りに思得るほどなのですが唯一難点があり、
「京都の大学出身です」
「え、京大?」
 と、ほぼ八割くらいの確率で京大出身と間違われるという一点だけはなかなかにいただけません。別に京大にコンプレックスを持っているわけじゃありませんが、京都はただでさえ大学が多いのになんでもかんでも京大でひとくくりにしてほしくないという気持ちがあります。では京都にはどれくらい大学があるのかですが、ちょっと他サイトから引用して持ってくるとこれほどあります。

・京都大学
・京都教育大学
・京都工芸繊維大学
・京都市立芸術大学
・京都府立大学
・京都府立医科大学
・大谷大学
・京都外国語大学
・京都学園大学
・京都光華女子大学
・京都嵯峨芸術大学
・京都産業大学
・京都女子大学
・京都精華大学
・京都創成大学
・京都造形芸術大学
・京都橘大学
・京都ノートルダム女子大学
・京都文教大学
・京都薬科大学
・種智院大学
・成安造形大学
・同志社大学
・同志社女子大学
・花園大学
・佛教大学
・平安女学院大学
・明治鍼灸大学
・立命館大学 
・龍谷大学
・大阪成蹊大学芸術学部
・大阪医科大学
京都大辞典様より引用)

 改めてリストにしてみるとあるわあるわ。もちろんこの中には私の出身大学も混ざっていますが、一部は京都市外にキャンパスを構えるものの大半の大学hsあの狭い京都市内に林立していることを考えると京都はとんでもない学術都市だという気がします。

 実際に京都で学生生活をしたことのある人なら話が早いですが、どの大学もそれぞれ個性があり、校風というかカラーは今でも色濃く残っております。京都大学は実は京都出身の学生は少ないとか、京都で「こうせん」とくれば京都工芸繊維大学だとかいろいろありますが、この大学リストの中で敢えて一校を取り上げるとしたら今だったらやっぱり京都産業大学がなかなか注目に値します。
 この「きょうさん」こと京都産業大学は鶴瓶師匠が通っていた頃はこういうのもなんですがバカ大学として有名だったそうですが、近年は大学自体が非常に改革に努力した結果偏差値等が急上昇し、「京産はえろう努力したもんや」と京都の人たちはよく口にしてます。2008年には理学部の益川敏英教授がノーベル賞を受賞したこともあって関東にも名前が知られるようになりましたが、入学難度の割には非常にいい大学ではないかと思います。と言ってもキャンパスが市内の割にはかなり僻地なんだけど、私はあのあたりうろつくの好きで良く自転車で通っていましたが。

 ちなみに私が京都市内で居を構えた場所は紫野という場所で、かつて清少納言が枕草子にて「丘は船岡」と書いた、織田信長が祭られている建勲神社のある船岡山の真ん前のアパートを借りていました。このエリアは言ってしまえば立命館エリアで私の通う大学の学生はほとんどいませんでしたが、アパートを出てすぐ傍には「日本最強の銭湯」との呼び声の高い「船岡温泉」があり、夜は針の落ちる音すら聞き取れそうなくらい静かな環境で楽しく生活していました。唯一の難点は地下鉄の駅まで徒歩20分という点でしたが。

 最後ですが実は前から気になっている点として、京都というだけあって市内にはたくさんの仏教系大学があるのですが、やっぱりそれぞれの仏教系大学同士は仲が悪いのかを前から知りたがってます。傍目には龍谷大学と大谷大学なんかがものすごく仲が悪そうに見えるのですが。

2011年8月7日日曜日

野中広務氏への評価

 まず本題と関係ありませんが、毎日新聞のウェブサイトにどれだけ広告が戻っているかを確認した際に贔屓にしている浜矩子氏の評論が乗っていたので紹介しときます。内容は数年前から言われていたしもっと自覚しなきゃいけないことですが、未だに浜氏が言わなきゃいけないほど認知が進んでいないのかと思わせられる内容です。

時代の風:ファウスト化する日本=同志社大教授・浜矩子(毎日新聞)

 それで本題ですが、数年前に友人と田原総一郎氏の講演会に行った際、「これまで見てきた政治家の中で特筆すべき人物は?」という質問に対して田原氏は、「田中角栄と小泉純一郎」を挙げていました。小泉氏について言えば自民党を延命させたこと、日本の政治手法を変えたということでおおむね一般にも出回っている評価で恐らくその影響力を考慮して取り上げたのでしょうが、田中角栄については、

「はっきり言って彼が在任中は金権政治家などと私も批判していましたが、今思うと大した政治家だったと思い返します」

 詳しくは前ブログの「陽月秘話」内の「田原総一郎氏に凝視された日」を閲覧してほしいのですが、最近この田原氏の評価ではないですが改めて振り返ると大した政治家だったと私が思う人物に、今回表題に挙げている野中広務氏がおります。

野中広務(Wikipedia)

 野中氏の経歴についてここでは詳しく語りませんが、彼が部落出身というのは知っている人の間では有名な話です。しかもその出身ゆえに「野中だけは首相にするわけにはいかんなぁ」と麻生太郎元首相が広言していたことも有名で、この一言で自分の友人なんか激怒していました。まぁこんな妙ちきりんな思想を持つだけあって麻生元首相は大した政治家ではありませんでしたし、すでに過去の人ですが。

 野中氏が自民党国会議員として主に活躍したの90代後半から00年代初頭で、小渕政権と森政権にて官房長長官を務めていましたが当時の政権を完全実質に切り盛りしていたのは先の二人の首相ではなく野中氏であったことは間違いありません。それ故にこの時代は野中政権と言っても差し支えないものだったのですが、当時からつい最近までこの時代の野中氏の政治運営を私は嫌っていました。いくつか具体的な点を挙げると小渕政権での積極財政、森政権での混乱、そして極めつけが加藤の乱における野中氏の猛烈な相手陣営切り崩しで、その実力は認めるもののあまりのダーティさにいけ好かない政治家だと感じ続けておりました。
 その評価は次代の小泉政権時も同様で、特にこれは今でも評価しない点ですが北朝鮮外交においては融和的なスタンスから小泉外交を批判し、これが私にはあまり面白くなく彼が引退を発表した時は、「これで日本の政治はまた一つ良くなる」と友人に触れ回ったほどでした。

 実は最近野中氏について妙な一件から調べなおすきっかけがありました。そのきっかけというのはこの前に集中して書いた部落団体の利権についての記事で、あの記事を書きながら私はどうして被差別者たちの団体が戦後にこれほどまでに影響力を持つようになったのか、その原動力はなんだったのかといろいろ考え、戦後の比較的早くから放送禁止用語などが作られるなど放送界から影響力を広げていったのではないか、ではどうして放送界で力を持ったのかというとバックに放送業界ににらみを利かせる政治家がいたのではないかと勝手に推論を組み立てていきました。そして当時部落団体を助長させた政治家というのは、被差別部落出身でもあり各業界団体に強い影響力を持っていた野中氏ではないかという結論に至ったのですが、後になってこれは完全な的外れな推論で間違っていたということがわかりました。

 まず野中氏が部落出身というのは本人も常日頃から言っていることで間違いありませんが、彼はその出身にもかかわらず解放同盟などといった利権団体と距離を置くばかりか、同和対策事業が新たな差別を生むとして普段から手厳しい批判を行っています。これは複数ソースからも確認できる情報ですし解放同盟関係の話題でも野中氏の名前は一切出てこず、意外と言えば非常に意外なのですがどうやら間違いなさそうです。

 この一件から野中氏について再評価すべくまたいろいろ調べなおしたのですが、改めて考え直してみるとその政治方針はともかくとして実行力、決断力は近年稀に見るほど図抜けた政治家だったと肯定的な見方が芽生えてきました。特に危機対応能力は今思うと神がかっていると言っても過言ではなく、一つそのエピソードをウィキペディア中から引用すると、

「1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には内閣官房長官として事故対応の指揮を執った。内閣総理大臣官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか! 現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と一喝し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。」

 東日本大震災の対策で、大変だというのはわかりますが右往左往している管政権と比べるとその違いがはっきり出ております。これ以外でも先ほど挙げた加藤の乱の際の切り崩し工作や政権運営の抜かりのなさから言っても、「実行型」の政治家としてはかねてから実力を評価してましたが改めて素晴らしい人材だったのではないかと思うようになってきました。さらに言えばこれまで批判の対象としてきた森政権時の野中氏の活動についても、当時自民党幹事長という立場からすれば政権を守ろうと行動するのは当たり前の行動ですし、逆の行動をとりようものならそれはそれで批判の対象となります。あとこれは蛇足かもしれませんが、加藤の乱の後に野中氏は森元首相に対して突然幹事長職の辞意を伝え、政権運営を野中氏に頼り切っていた森政権はこれがきっかけとなって崩壊しました。ちゃんとごみを片づけて出ていく態度は立派なものです。

 元々今回の記事は前から準備していていつ書こうかと考えていた内容なのですが、いつも閲覧させてもらっている「黙爺日録」さんのところで野中氏の対談本が取り上げられていたので今日書くことにしました。

野中広務・辛淑玉「差別と日本人」を読む(黙爺日録)

 この記事で紹介されている本の内容を読んでみると、慎重な上に刃物を突き通すような細心さを野中氏に感じます。興味があるので是非うちの親父も買っておいて、帰国した時に自分に譲ってくれると助かります。

 最後に多分ネット上にない野中氏のエピソードで、恥ずかしいことに番組名を忘れてしまったのですが昔日曜の朝にやっていた有名人が出演して人生を振り返る番組で野中氏が出演した際に、終戦後に故郷に帰ったものの生きて帰ってきたことが恥ずかしく、実家には直接戻らずしばらく友人宅などを転々としていたそうなのですが、最後にようやく決断ついて実家を訪れたところ、

「あんた前からこの辺うろうろしとったそうね。なんで早く帰ってこなかったの?」

 と、息子の帰宅に野中氏の母親には全く驚かなかったそうです。案外お茶目な時代もあったんだなと、やけに記憶に残るエピソードでした。