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2011年8月10日水曜日

天智天皇の謎

 久々に歴史記事、しかもまた古代史ネタ。これまでの古代史ネタは基本的に古事記に沿った解説が多かったですが、今回はやや時代が飛んで大化の改新についてです。
 この大化の改新は中学校はおろか小学校でも自明の史実として教えられますが、私は内心、真実はどうだったのかと教えられている内容について疑問を感じております。基本的に現在教えられている内容は日本書紀に書かれている通りですが、この日本書紀自体が後の天武天皇とその一族の正当性を強く主張するための書物であり、当たり障りのない部分ならともかく天智、天武系が権力を握っていく過程においては鵜呑みにしてはならない部分が多く、事実冷静に見つめると不自然な場面も少なくありません。

 いくつかそういった不自然な場面を上げると、代表的なのは天武天皇と天智天皇の息子である大友皇子の後継争いです。詳しくは語りませんが当初天武天皇は後継争いを避けて岐阜県に流れたにもかかわらず、その後反乱を起こして天皇位を簒奪しております。ただそれ以上に怪しいのが今回の大化の改新、もとい天智天皇の来歴です。

 大化の改新は専横を振るう蘇我氏を打倒して中央集権制(=律令制)へと舵を切るために天智天皇(=中大兄皇子)、そして藤原氏の祖先たる中臣鎌足が起こしたクーデターでありますが、そもそもの話として当時にはすでに亡くなっておりますが蘇我馬子は聖徳太子、推古天皇とともにまさに天智天皇が目指した中央集権制国家樹立に向けあれこれ努力していました。そりゃ確かに息子や孫の代ともなればいろいろ考え方が変わってくるかもしれませんが、本当に蘇我氏が専横を振るっていたのかいまいちパッと来ません。
 またこれは前の陽月秘話時代にもたびたび主張していましたが、「天皇」という言葉は後の天武天皇が最初に使い出したと言い、それ以前の国のトップには「大王」という呼称がつけられていました。この大王という呼称ですが本当に現在にも続く天皇家の一族が世襲で呼ばれたのか、私はむしろ当時の近畿に存在した豪族たちの中で最も力を持っていた人間が就く称号だったのではないかと見ており、必ずしも大王=天皇家とは言い切れないのではないかと考えています。それ故に聖徳太子の時代において当時の最高権力者は推古天皇ではなく、むしろ蘇我馬子だったのではないかという仮説をかねてから主張しています。

 根拠ははっきり言ってないに等しいですが飛鳥寺など大規模建築を行った権力といい、石舞台古墳など臣下の人間にしては妙に大規模な古墳に埋葬された点などを考慮すると、推古天皇よりも名目上でも実質上でも権力が上だったとしかちょっと思えません。この蘇我氏の天下は次代の蘇我蝦夷、入鹿の時期でも変わっておらず、それをひっくり返して天皇家の世襲を確立させたのが天智、天武天皇ではないかというわけです。
 ただこの天智、天武の兄弟は百人一首にも入れられている額田王という女性を取り合ったといわれるなど傍目にも仲がいいとは思えず、それ故に日本書紀における天智天皇の活躍は華々しいもののどか曖昧模糊とした感があります。特に一番謎、というより飛鳥・奈良時代で最大の謎とも言っていいのは孝徳天皇、斉明天皇の死後、天智天皇は最高権力者となるもののしばらくは天皇位を継がず、称制という形で皇太子の中大兄皇子のまま政治を切り盛りしていました。一体何故天智天皇はすぐに天皇につかなかったのか、理由は色々あってはしたないのだと当時から近親相姦はタブーとされながらも実妹と懇ろな仲だったとか、国内事情に配慮してだとかいろいろありますが未だにはっきりしません。

 それだから私は一時期、天智天皇というのは蘇我氏から政権を簒奪するという悪行をおっかぶせるための架空の人物ではないかとも思ったことがありましたが、奈良時代は天武系の一族が代々天皇位に就きましたが末期になって途切れ、そこでピンチヒッターとばかりに天智系の光仁天皇が即位して現在にまで続いていることを考えると、さすがに存在しなかったってのはありえません。となると存在したものの、経歴については謎が残ったままというまたも締まりのないオチとなるわけですが、天智天皇同様に中臣鎌足、そして実質奈良時代の礎をすべて築いたと言っても過言ではないその息子の藤原不比等についても色々疑問があり、ここら辺については今後の研究を心待ちにしていきたいと思います。

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