まず本題と関係ありませんが、毎日新聞のウェブサイトにどれだけ広告が戻っているかを確認した際に贔屓にしている浜矩子氏の評論が乗っていたので紹介しときます。内容は数年前から言われていたしもっと自覚しなきゃいけないことですが、未だに浜氏が言わなきゃいけないほど認知が進んでいないのかと思わせられる内容です。
・時代の風:ファウスト化する日本=同志社大教授・浜矩子(毎日新聞)
それで本題ですが、数年前に友人と田原総一郎氏の講演会に行った際、「これまで見てきた政治家の中で特筆すべき人物は?」という質問に対して田原氏は、「田中角栄と小泉純一郎」を挙げていました。小泉氏について言えば自民党を延命させたこと、日本の政治手法を変えたということでおおむね一般にも出回っている評価で恐らくその影響力を考慮して取り上げたのでしょうが、田中角栄については、
「はっきり言って彼が在任中は金権政治家などと私も批判していましたが、今思うと大した政治家だったと思い返します」
詳しくは前ブログの「陽月秘話」内の「田原総一郎氏に凝視された日」を閲覧してほしいのですが、最近この田原氏の評価ではないですが改めて振り返ると大した政治家だったと私が思う人物に、今回表題に挙げている野中広務氏がおります。
・野中広務(Wikipedia)
野中氏の経歴についてここでは詳しく語りませんが、彼が部落出身というのは知っている人の間では有名な話です。しかもその出身ゆえに「野中だけは首相にするわけにはいかんなぁ」と麻生太郎元首相が広言していたことも有名で、この一言で自分の友人なんか激怒していました。まぁこんな妙ちきりんな思想を持つだけあって麻生元首相は大した政治家ではありませんでしたし、すでに過去の人ですが。
野中氏が自民党国会議員として主に活躍したの90代後半から00年代初頭で、小渕政権と森政権にて官房長長官を務めていましたが当時の政権を完全実質に切り盛りしていたのは先の二人の首相ではなく野中氏であったことは間違いありません。それ故にこの時代は野中政権と言っても差し支えないものだったのですが、当時からつい最近までこの時代の野中氏の政治運営を私は嫌っていました。いくつか具体的な点を挙げると小渕政権での積極財政、森政権での混乱、そして極めつけが加藤の乱における野中氏の猛烈な相手陣営切り崩しで、その実力は認めるもののあまりのダーティさにいけ好かない政治家だと感じ続けておりました。
その評価は次代の小泉政権時も同様で、特にこれは今でも評価しない点ですが北朝鮮外交においては融和的なスタンスから小泉外交を批判し、これが私にはあまり面白くなく彼が引退を発表した時は、「これで日本の政治はまた一つ良くなる」と友人に触れ回ったほどでした。
実は最近野中氏について妙な一件から調べなおすきっかけがありました。そのきっかけというのはこの前に集中して書いた部落団体の利権についての記事で、あの記事を書きながら私はどうして被差別者たちの団体が戦後にこれほどまでに影響力を持つようになったのか、その原動力はなんだったのかといろいろ考え、戦後の比較的早くから放送禁止用語などが作られるなど放送界から影響力を広げていったのではないか、ではどうして放送界で力を持ったのかというとバックに放送業界ににらみを利かせる政治家がいたのではないかと勝手に推論を組み立てていきました。そして当時部落団体を助長させた政治家というのは、被差別部落出身でもあり各業界団体に強い影響力を持っていた野中氏ではないかという結論に至ったのですが、後になってこれは完全な的外れな推論で間違っていたということがわかりました。
まず野中氏が部落出身というのは本人も常日頃から言っていることで間違いありませんが、彼はその出身にもかかわらず解放同盟などといった利権団体と距離を置くばかりか、同和対策事業が新たな差別を生むとして普段から手厳しい批判を行っています。これは複数ソースからも確認できる情報ですし解放同盟関係の話題でも野中氏の名前は一切出てこず、意外と言えば非常に意外なのですがどうやら間違いなさそうです。
この一件から野中氏について再評価すべくまたいろいろ調べなおしたのですが、改めて考え直してみるとその政治方針はともかくとして実行力、決断力は近年稀に見るほど図抜けた政治家だったと肯定的な見方が芽生えてきました。特に危機対応能力は今思うと神がかっていると言っても過言ではなく、一つそのエピソードをウィキペディア中から引用すると、
「1999年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には内閣官房長官として事故対応の指揮を執った。内閣総理大臣官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか! 現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と一喝し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。」
東日本大震災の対策で、大変だというのはわかりますが右往左往している管政権と比べるとその違いがはっきり出ております。これ以外でも先ほど挙げた加藤の乱の際の切り崩し工作や政権運営の抜かりのなさから言っても、「実行型」の政治家としてはかねてから実力を評価してましたが改めて素晴らしい人材だったのではないかと思うようになってきました。さらに言えばこれまで批判の対象としてきた森政権時の野中氏の活動についても、当時自民党幹事長という立場からすれば政権を守ろうと行動するのは当たり前の行動ですし、逆の行動をとりようものならそれはそれで批判の対象となります。あとこれは蛇足かもしれませんが、加藤の乱の後に野中氏は森元首相に対して突然幹事長職の辞意を伝え、政権運営を野中氏に頼り切っていた森政権はこれがきっかけとなって崩壊しました。ちゃんとごみを片づけて出ていく態度は立派なものです。
元々今回の記事は前から準備していていつ書こうかと考えていた内容なのですが、いつも閲覧させてもらっている「黙爺日録」さんのところで野中氏の対談本が取り上げられていたので今日書くことにしました。
・野中広務・辛淑玉「差別と日本人」を読む(黙爺日録)
この記事で紹介されている本の内容を読んでみると、慎重な上に刃物を突き通すような細心さを野中氏に感じます。興味があるので是非うちの親父も買っておいて、帰国した時に自分に譲ってくれると助かります。
最後に多分ネット上にない野中氏のエピソードで、恥ずかしいことに番組名を忘れてしまったのですが昔日曜の朝にやっていた有名人が出演して人生を振り返る番組で野中氏が出演した際に、終戦後に故郷に帰ったものの生きて帰ってきたことが恥ずかしく、実家には直接戻らずしばらく友人宅などを転々としていたそうなのですが、最後にようやく決断ついて実家を訪れたところ、
「あんた前からこの辺うろうろしとったそうね。なんで早く帰ってこなかったの?」
と、息子の帰宅に野中氏の母親には全く驚かなかったそうです。案外お茶目な時代もあったんだなと、やけに記憶に残るエピソードでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿