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2011年10月24日月曜日

1999年を振り返る

 今年は何故だか世界各地で災害のニュースばかり目にします。日本の東日本大震災を皮切りにタイの洪水、そして昨日のトルコの地震と、仮にこれらが起きていたのが12年前の1999年だったらうっかりノストラダムスを信じていたかのような一年です。

 こんな風にちょっと1999年を今日なんだか思い出していましたが、大半の方にとってこの年はあのノストラダムスの終末予言の年で良くも悪くも前後の年より印象が強いかと思います。ただ当時の状況について話しとくと、このノストラダムスの予言が一番盛り上がったのはどちらかと言えば80年代で、90年代に入ってからはどんどんと尻すぼみになっていったような気がします。私が記憶する限りだと確か朝日新聞が同じようなことを当時に取り上げており、当時出ていたドリームキャストで「JUNE」というゲームは出たけど、サブカル業界全体を見回しても終末と絡めたものは全然出てこなかったと言われていました。まぁMMRだけは最後の追い込みとばかりに頑張ってたけど。

 個人的にはちょうどこの年に身の回りで厄介な問題が頻出しており、間違いなく生きてた中で1999年が一番辛かった一年でした。ただそうした問題はもとより、やはり世紀末的な雰囲気というか今とは違う何か浮ついたような空気が当時には流れていたかと思います。
 一つには当時になってようやくインターネットなどIT技術の基本的なものが普及し始め、ハードに対するソフトの比重が強まっていたことがあった気がします。ゲーム産業も花盛りで、まだプレステ2が出るまでしたが各社がCGなりジャンルなりでいろんな工夫をしてわけのわからないゲームや、「ザ・コンビニ」などといったいろんなシミュレーションゲームあっていろいろ楽しめた時代でした。多分この年に一番やっていたのはバイオハザード3でしょうが。

 今回こうした話題を持ってきたのは一つ理由があり、どうして昔流行った終末論が今には流行らないのかという疑問があったからです。というのも先日に同僚から、「中国のブログを見ていると、なんだか終末論みたいな、世界が終っちゃえばいいのにみたいなこと言う人をよく見るようになってきた」という話を聞き、逆に地震など相当な衝撃下の中にある日本で終末論が一切出てこない、見ないのを不思議に感じたのもあります。
 こういうのもなんですが、こうした終末論というのは本当に苦しい時期にはかえって出てこず、バブル期みたいに景気がいい時代にこそ現れる気がします。ノストラダムス然り。今の中国然りというやつですが、1999年に終末論があまり盛り上がらなかったのはもう日本が下降期に入っていたからだと思います。ちなみに一番盛り上がった時代を敢えて私が生きていた中でいえば、エヴァンゲリオンなどがブームになった1995年あたりじゃないでしょうか。

 またさらに付け足すと、90年代当時によく言われたこととして最近の子供はテレビゲームばかりで現実味というかリアルさのない世界で生きているとテレビに出る人間らが言っていましたが、当時小学生で言われる対象だった私からするとなんだか納得のいかない言われ方するなと反感を持って聞いていました。今でもこの反感は根強く残っており、山とか川とかおたくらの言うリアルさを潰してビルなり道路なり立てたのはどいつだよと言いたいですし、今そのツケを自分たち世代が必死で返そうと頑張ってるんだ、空疎なこと言ってるんじゃないと言い返したいです。

2011年10月22日土曜日

教員免許の国家資格化について

 今日はほとんどのチームでプロ野球の日程が終了し、楽天のマー君こと田中選手(日ハムの斎藤選手と違って君付けするのもあれだが)が投手三冠を決めたり、9回裏のビハインドで代打逆転満塁サヨナラホームランを決めた巨人の長野選手、またそれによって最多勝獲得を決めた内海選手など興味深いニュースでいっぱいでした。ただそういったニュースよりも優勝後のビールかけで誰にも相手されず、独りぼっちだった中日球団社長のニュースがほかの何よりもスカッとしました。落合監督解任の経緯も日ハムの梨田監督と違って不透明この上ない上に、中日新聞が世界で一番嫌いなメディアでもあるので高笑いしてみてました。ただ中日が嫌いとはいえあの浅尾選手だけはとんでもない投手だと認めざるを得ません。

 話題は本題に移りますが、ちょっと古いニュースですが先週に教員資格を国家資格化しようかという案が出ていることが報じられました。結論から言うと私はこれには反対で、それよりももっと先にすることがあるだろうと文部科学省の無策ぶりに怒りを覚えます。

 まず国家資格化の狙いですが近年に頻発している教師の不祥事事件を受けて教員の質の向上が目的で、現在のように大学で必要単位を取得した上で教育実習を受けた人間に免許を与える方法では指導力などが測れないというのが理由だそうです。具体的な方法としては司法試験のように国家試験をしっかり設けるなどということが挙げられていましたが、そんな国家試験を作ったからと言って教員の質が上がるのかと言えば私には疑問です。
 その上で苦言を呈すと、以前にも一回取り上げましたが今の教育現場は地方自治体が財政赤字であることから新たな教員採用を異常なまでに絞っている現状があり、教師の平均年齢が40歳を超えている上に教員志望の若者たちは収入も少なく雇用が不安定な講師職に甘んじています。雇用が不安定なことについては不幸自慢をしてもしょうがないですが月給10万円で1年契約のため場合によっては来年三月で解雇となる可能性もある自分からするとだからどうしたという気もありますが、教師という子供らと長い時間付き合う職業性を考えると非正規雇用ではやはり子供への教育上も良くないんじゃないかという気がします。しょっちゅう担任が変わってもなんですし。

 こうしたポイントに加え、自分が主張したいのは教育大学の質です。古い事件を掘り返すのもなんですが過去に起きた京都教育大学生の集団強姦事件はその事件内容はもとより京都教育大側の対応も真面目に神経を疑う発言ばかりで、こんな連中が教員を養成しているかと思うと当時非常に不安に感じたほどでした。

 あと指導レベルについても、予備校と比較するといろいろ思うところがあります。私がやったころはクラスに4人だけだった中学受験もなんか最近はかなり一般化して日曜の朝に予備校前をうろつくと送迎の車が次々に泊まるのを見ていろいろ驚いたことがありましたが、突き詰めたところを言うと学校の授業は全くと言っていいほど当時の受験に役に立ちませんでした。また私が受けた予備校教師はみんな指導力があって教える内容もわかりやすく、休み時間などもいろいろ子供の相手してくれて親しみやすい人が多かったです。
 これは真面目な話で、学校と予備校関係者はどうも商売敵と認識していて非常に仲が悪いと聞き、実際に吐き気を催そう様な嫌がらせを学校側が予備校側に行っていた話も聞いたことがあります。しかし現状で私は明らかに予備校関係者の方が教育に熱心な人が多いように思え、子供は学校には行かなくていいから予備校には行った方がいいとすら思います。

 学校側関係者も中にはこうした現状をしっかりと認識している人もいるようで東京都のある小学校なんかは予備校と提携し、放課後の補修事業に予備校教師を呼ぶなどといった取り組みを始めていますが、開始当初はやはり学校関係者から猛烈な批判があったように思えます。教員免許を国家資格化するとかどうとか言っている暇あるなら、もっとこうした予備校を見習うような対策をして学校教員の質向上を図るのが先じゃないかというのが今日の私の意見です。

2011年10月20日木曜日

テルマエ・ロマエの映画化について

 日本にいた頃(といっても去年だが)に読んでいた「テルマエ・ロマエ」という漫画が今度映画化するそうです。この漫画はなんか賞を取って人気とのことで一応チェックしておこうと購入して読み始めたのですが非常に面白く、2巻を買った際に1巻を貸した友人にまた貸してあげようと申し出たら「もう買った」と返答されたのはいい思い出です。
 内容について簡単に概要を説明すると、歴史的にも風呂好きで有名なローマ人が日本の銭湯にしょっちゅうタイムスリップしてはローマに戻り、その度にローマにも日本式銭湯を作っていくというギャグ漫画です。作者がイタリアで生活していることもあってやけに歴史背景やら細かい上に日本の銭湯システムのオリジナリティがよく観察されていて自信を持って太鼓判を押せる漫画です。

 それが今回映画化するとのことですが、ローマが舞台(半分は日本の風呂だが)のマンガを日本で映画化とちょっと疑問に感じたところはあったのですが、このほど公開された写真を見てみて一気にそういった心配はぶっ飛びました。

【映画】「テルマエ・ロマエ」 人気の顔濃い俳優がローマ人に 似合い過ぎワロタwwwww(アルファルファモザイク)

 上記リンク先を見てもらえば早いですが主演は阿部寛氏で、脇を固める俳優陣も市村正親氏、北村一輝氏、宍戸開氏とよくもまぁこれだけ顔の濃い俳優を集めたものだと感心させられる配役です。公開されている撮影風景を見る限りですと、確かにこれだけ顔の濃い連中ならローマ人と言い張っても日本人相手ならそれなりに納得させられるんじゃないかと思うくらいの出来栄えです。
 それにしてもスレッド上でも言及されていますが、ほかの俳優陣があまりにも顔が濃いもんだから阿部寛氏ですらいささか薄いように見えてきます。惜しいというか残念なのは、これに照英氏とハンマー投げの室伏選手が加わっていれば濃い顔のジャパンオールスターになったのに……。

 なお濃い顔とくればうちの親父も負けておらず、中東人っぽい顔していることで周りには有名です。親父から話を聞く限りだと会社では「ビンラディン」というあだ名がつけられ、昔に上野を歩いていたらイラン人に声をかけられたことがあるなどエピソードには事欠きません。
 息子の自分は父親に似ず母親似の顔なので中国人にしょっちゅう道聞かれる程度ですが、何故だか声についてはよくきれいな声していると誉められ、大学時代には「学科内で一番渋い声してる」と妙に範囲の狭い中でほめられたりしてました。また今日も新しい部署の同僚から、「昔に幽遊白書のエンディングテーマを歌っていた高橋ひろに似ている」と、えらくピンポイントに誉められました。高橋ひろ氏は数年前に夭折していましすが、何気に生前はかなり好きなアーティストの一人だったのでうれしいやら、「えっ、あの高橋ひろと?」というような複雑な気持ちを覚えました。

平野達男復興相の「馬鹿」発言について

 昨日一昨日と妙に帰りが遅くなって更新がまた空きました。最近多いなこういうの。
 別に凄い忙しいというわけでもありませんが、ちょうど香港に着任した頃に新しい上司が風邪を引き、しかもそれをオフィスの全員に感染させたことから私も体調が悪くなり、昨日まで咳が止まりませんでした。今日になってようやく咳が止まったかと思ったら今度は頭痛が起こりましたが、頭痛薬飲んだらやけに調子良くなって今日に至ります。あと穏当にどうでもいいですが、今使っているNECのLAVIE S LS550ですが、「Kキー」がむやみに反応が敏感で大半の打ち間違いはここから端を発しててイライラします。このパソコンの唯一の不満点はそこかな。

 話は本題に入りますが、当初は記事にするかどうか悩んだものの二日経って情勢が少し見えてきたので書いておくことにします。

「逃げなかったバカなやつ」…復興相が友人を(読売新聞)

 内容は既に報じられているかと思いますが簡単に説明すると、平野達男復興相が研修会で東日本大震災によって起きた津波に言及した際、「私の高校の同級生のように、逃げなかったバカなやつがいる。彼は亡くなりましたけど、バカなやつって言ってもしょうがないですけどね」という発言をしました。この発言を巡って上記リンク先の読売新聞のように「被災者を馬鹿にしている」という論調を取る新聞もあれば、「この発言はそこまで問題視する内容なのか」、「マスコミの揚げ足取りでは」という意見がネット上などでいくつか見られました。
 ちなみに上記の読売新聞はどちらかと言えば非難する論調で書かれていますが、比較対象先として朝日新聞を除いてみたところストレートニュースではこの発言は取り上げておらず、「平野復興相、津波被害への発言で謝罪」という記事で初めて取り上げていることから、読売よりかは問題視していないのではと私は感じました。民主党に批判的な産経新聞は本日、「輿石氏「マスコミが世の中悪くしている」」という記事を載せておりますが、私はこれを見て産経はヒートダウンし始めたのかなという気を覚えました。あくまで個人的な所感ですが。

 それで肝心なこの平野復興相の発言に対する私の感想ですが、そもそも取り上げる程の発言なのか、もっと他に報じる内容があるのではないかという考え方から、非難に値しないと見ています。そういう意味では喜び勇んで報じたメディアは揚げ足取りと批判されて然るべきで、本人らも少し意識し始めたのか管内閣時の松本復興相や鉢呂前経産相の失言騒動の時と比べるとトーンダウンし始めているように今日のニュースを見ていて感じました。

 いちいち語るほどではありませんが平野復興相の発言は会話の前後を見る限りだ亡くなった同級生を冒涜するようなものとは思えず、また一部で逃げたくとも逃げれなかった被災者もいるという批判も見受けられますがそれとこの発言を結びつけるのは如何なものかと思います。
 ちなみに今回のこの発言を私はネット上の掲示板で最初に知りましたが、複数の掲示板を回ってみたところそれぞれで論調が全く違っており、これは報道したメディアでもそうでしたが一部のサイトでは明確な意図を以って前後の会話部を弄り、どちらかと言えば平野復興相をわざと悪者にしようとしているサイトも見受けられました。そういったところは続報を載っけているのかな、今日の輿石氏の発言を「悪人が悪人をかばった」みたいに。まぁ輿石氏が悪人かどうかと言われたらそうかもと私も言ってしまいますが。

 あと非常にくだらないことですが、関東と関西では「バカ」と「アホ」の比重が逆(少なくとも私はそう感じる)で、関東ではアホと相手に言うとマジギレされますが関西だと「アホちゃうわ」と軽く返してもらえます。しかし逆に関西でバカと相手に言うと真面目に睨まれるくらい相手は怒る一方、関東だとへました相手に「バカだなぁ」というのはごくごくありふれてます。それで平野復興相はどっち側かと調べてみたら岩手出身とのことで、「馬鹿」という言葉を使ったのもやはり東側だからかと妙に納得しました。

 最後にさすがに今回は気になるのでこの件でのYahooの「みんなの政治」における投票ページを覗いてみましたが、現在この記事を書いている段階で回答割合は「問題ある」が56%、「問題ない」が33%、「どちらでもない」が11%でした。毎度のことながら少数派に属したわけです。

2011年10月17日月曜日

世界同時格差デモについて

 日本のニュースでも報じられているかと思いますが、昨日の日曜日はニューヨークのウォール街で起きたデモをきっかけに世界各都市で格差反対を訴えるデモが実施されたそうです。デモの中心となったのは若者たちとのことで、就業機会や親の世代と比べた収入の少ない現状を訴えたとのことですが、日本でもこれに触発されて一部でデモがあったようですが、個人的に今回のデモについてはなんだかあまり共感が出来ませんでした。
 私は常々このブログで日本における若者の現状と問題性を挙げては是正を訴えてはいますが、恐らく東日本大震災があったからだと思いますが今そんなことを言っている場合かと思うのと同時に、具体的な改善策や改革案の議論が見当たらないから今回共感が出来なかったんだと思います。

 まずそもそもの前提の話として、20世紀にどうして資本主義国はあれほど繁栄できたのかという理由を説明します。これは堺屋太一氏の主張ですがきわめて単純明快に、当時は石油というエネルギーがほぼタダ同然に無制限に西側諸国で使えたからこそ繁栄できたので、石油資源の枯渇や環境問題が持ち上がってきた現代においてあの時代を再現することは完全に不可能と堺屋氏は言っています。よく経済学者はもっともらしくあれこれ理由を付けて20世紀の世界経済を語りますが私はこの堺屋氏の話が最も正解に近いと考えており、それ故にあの繁栄の時代はよっぽど劇的な発明がされない限りは来ないと考えており、日本もみんなが大学出て就職してマイホームを買うようなことはもうありえないと割り切っています。さらに言えば、今の日本はあの20世紀という繁栄の時代に作った貯金を切り崩して生きているような状態で、既にヨーロッパ各国ではその貯金すらも使い果たして破綻し始める国が出てきていますが日本も年金制度や社会保障制度をドラスティックに切らない限りは対岸の火ではないでしょう。

 ちょっと本筋から外れますが前から言いたかったこととして、現行法の社会保障制度は小泉時代に大分切り捨てましたがそれでも制度の骨格はバブル前に作られており、当時の税収を元に支出額などが決められています。すでに述べているようにあのバブルの時代なんてもう逆立ちしたって来ないんだから、制度を維持出来るなんてありえないのです。むしろ維持すれば維持するほど借金が増えるだけでしょう。

 話は戻しますが、もうあの繁栄の時代は来ないというのは前提としてでは今は何をすればいいのかですが、これまたごく単純に社会を維持するためにどれだけ基準を切り下げればいいのかということだと私は考えています。言ってしまえば生活レベルを含め裕福さをどれだけ切ればいいかということで、最低防衛ラインを設置することが急務だと考えています。
 最低防衛ラインと言えば聞こえはいいですが、実質は要するに何年から何年生まれには死んでもらうということです。かなり極端な表現を使いますが、これくらい言わないと真面目に意識されないんじゃないかと昨日のデモとか見ていて思いました。

 ちなみに私が設定している防衛ラインは、社会保障支出が史上最も最大となる期間を団塊の世代(1946~1948年)が年金を受け取り初めて大半が死ぬまでの期間と設定し、仮に平均寿命を80歳とすると2028年までが最も日本が財政的に苦しい時期ということになります。この2028年、前後期間を考えて2030年とするとこの間に現役世代となる自分を含めた日本人は後の世代のための捨て石とばかりに、必死で国を支える必要があると思います。具体的な細かい中身までは言いませんが。
 そんなことをしてまで国を維持する必要があるのかとかつては自分も疑問に感じたことがありますが、ソ連崩壊後の混乱の話やイランやアフガニスタンの現状を見るにつけ、いくらか国民を不幸にさせるとしても国家を維持することの方が相対的には国民は幸福だという考え方が自分にはあります。

 今現在でこそ海外で働いて暮らしている自分ですが、幼少時に一応まだすこし余裕のある頃の日本を体験させてもらったこともあるので、いつかは日本に帰らなきゃなと思っています。さらに言えば海外に出ることが日本のためだという人がいますが、決してそうでもないんじゃないか、日本に残り続けることも大事なんじゃないかと今日この頃思います。こういった話が、昨日のデモとかで出てくれば面白かったんですが。

2011年10月16日日曜日

見た目と中身のギャップについて

 昨日の記事でも軽く触れていますが、私の見かけは周りから聞く限り、かなり大人しそうに見えるそうです。そのように見られることについて私は特段抱く感情はないのですがこの手の奴でちょっと面倒だと思うこととして、外見に抱くイメージと中身が一致していなければ怒り出す人間が一部にいることです。

 まず大きな前提として、私は外見と中身(=性格)が一致しないというのはままあると考えています。あまりにも老け顔過ぎて並んで歩いてたら「何、君の先輩?」と別の知り合いに言われた私の後輩なんか下手したら私より大人しそうな外見していますが、権力に対する反発心とかそういうものは自分以上にやけに強いですし、また別のある友人なんか病弱そうに見えて長友選手もびっくりなタフネスを持ってたりします。
 こういう風に外見と中身は一致する人もいれば一致しないと私は考えているのですが、私が見る限り世の中そういう風に考えている人間に占められるわけじゃなく、むしろ外見と中身が一致していなければおかしいと思う人間も少なからずいると思います。

 具体的にそのような人間はどんな感じかというと、たとえば私の場合は普段が大人しそうに見えるためにそういった「大人しそうな」身振りや行動をするものだと考えている節があり、たとえばこのブログでやっているように何がしらかで意見を言ったり反発することもあれば、「なんでお前がそんなことを言うんだ」などと、意見の内容以前に意見を発言したことをとがめられるという経験がこれまでに何度もあります。
 私としては見た目でなんでもかんでも人間を判断しようとする時点であまりそういった相手とは関わりたくないと考えるため、無駄に接触を続けるくらいならとそのままイメージに抱かれるステレオタイプな行動を演じることもあります。いわば期待されている役割を演じるような具合で、過激な行動や発言は可能な限り控えるようにします。

 こうした私の体験談などはどうでもいいのですが、ここで私が言いたいことは多かれ少なかれこういうことは世の中にあるのではということです。外見で抱かれるイメージに対し周囲が期待する行動を本人も実行する、中にはそれが定着して外見と中身が一致していくという。社会学はこういう相互作用的な話を好む傾向があって私もそういう背景があってこういう考え方をするのですが、別に「本当の自分はこんなんじゃないっ」なんてマンガみたいなセリフを言うつもりはなく、中にはそうしたイメージを逆手にとってくる食わせ物もいるわけで、よくよく外見にこだわらず相手を見極めることは大事だというのが今日の私の意見です。

2011年10月15日土曜日

香港で気になる点

 香港に来てからそれなりの日数が経ちましたが、このところ街中を歩いていて気になる点が一つあります。その点というのも、非常に高齢者が多いということです。

 香港の話をする前にまず北京や上海といった中国本土の説明をしますが、この二都市ははっきり言って非常に若者が多い都市。中国は一人当たりGDPがまだ他の先進国の水準にまで達していないながらもなかなか平均寿命の高い国でもちろん老人も見かけますが、それにしたって繁華街を眺めていると日本の主要都市と比べて非常に多くの若者がたむろし活況を呈しております。
 それに対し香港ですが、大抵どこ行っても街中を歩いているのは中年以上の人ばかり、また60歳以上の高齢者の姿も非常によく目立ちます。逆に十代や二十代くらいの若者の姿はもちろん存在するものの、あくまで私の実感ですが歩行者より小売店で働いている姿の方が多いんじゃないかという気すらします。

 そこで早速、明治大学が便利なものを作ってくれていたのでこのサイトで調べてみましたが、2010年における65歳以上の高齢者の人口割合は日本が22.7%で世界1位であるのに対し、香港は12.7%で44位と比較的高い数字ながらも思ったより差がありました。どうも私の実感とずれたデータではありますがこのずれの理由に敢えて考察すると、日本の高齢者は地方に多い存在するため東京や大阪といった主要都市では平均値より若者の割合が多くなる傾向があるのに対し、香港の場合は狭い土地なだけに実数地が直接街中に出ている可能性があります。少なくとも私の感覚では東京の姿以上に香港は年寄りの数が多いように見えます。

 ちょっと話が変わりますが以前に日本のテレビか何かであった気功整体師のインタビューにて、気功を行う上で若いエネルギーというのは非常に重要なため、その先生は週に数回必ず渋谷など若者が集まる場所で散歩すると語っていました。この話が本当かどうかまでは科学的にどうこう言いませんが、実感としては私もその通りだという意見を持っています。
 やはり上海の街中を歩いていて日本と違うと感じるのは若者が多い点と、街全体がどこか明るいというところです。無論景気状態が違うというのもありますが日本にいたころは何か目には見えない圧迫感というか倦怠感が常に付きまといましたが、上海での生活ではそういったものはあまり感じられません。

 昔に誰かが言っていましたが、金銭的に苦しいからと言って必ずしも気分を暗くする必要があるわけでもないにも関わらず、何故だか日本は全体的に非常に後ろ向きになっているという話がありました。このブログでも何度も書いていますが一般的な中国の若者の収入は日本の物価格差を考慮しても低水準なままですが、それでもその表情は日本の若者と比べて非常に明るさが感じられます。
 ただ今回香港に来てみて、そうした表情の明るさが香港の若者にはないのではというように思いました。それでも日本の若者に比べればまだどことなく楽しそうではあるものの、なにかどこかで深く考えているような、何も悩むことなくて楽しそうな上海の若者と比べると明らかな違いを感じます。

 もっともこんなことを言いながらですが、周りからは私の表情が明らかに最も暗そうな感じだとよく言われ、「てめぇの辛気臭い表情が嫌いなんだよ」とこれまでに実際に何度も罵倒されたことがあります。その一方で親しい友人らからはごくたまに、「自分の周りで一番学生っぽさが抜けていない、理想を捨ててない顔してるね」と言われることがあります。この辺については機会も機会なのでまた次回あたりにでも書こうと思いますが、社会的な空気はやっぱり明るいに越したことはなく、なんか香港は歩いてて妙に疲れるからまた猫カフェにでも行こうかなと思案中です。