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2013年1月7日月曜日

みぞれ交じりの雨の寒い日

 上海は本日、みぞれ交じりの雨が降って非常に寒かったです。これまでにも何度か雪も降りましたが、変に湿気が高い分、体感的には今冬で一番寒かったです。私の感覚ではありますが、日本の東京あたりの天気は上海の天気がちょうど二日くらい遅れてやってくるので、恐らく明後日の東京はシャレにならないくらいに冷え込むのではないかと思います。

 ちなみに知っている人には有名ですが、私は冬になっても一切コートを着ることがありません。極端に寒さに強い体をしていて、さすがに何度か雪の日には着たことがありますが日本にいた頃の出勤時は常にスーツだけしか着なかったために、職場の同僚からはよく不思議がられてました。しかもそのスーツも春用で、冬用は未だに一着も持っておりません。
 現在は仕事の関係上、割と自由な服装が許されているので上半身はYシャツ、パーカー、Gジャンで通っております。何故最後にGジャンが来るのかはよくわかりませんが。あとダウンジャケットに関しては子供の頃はよく着てましたが20歳過ぎてからは決して冗談ではなく一度も着ていないような。友人からは見ているだけで寒いからもう少し厚着してくれとは言われるのですが。

 最後にホント全然関係ないですが、ネタにして悪いと思うもののこのYahoo知恵袋の質問がえらくツボにはまってしまいました。内容は結婚を考えている相手がいるが、その人は卒業から数年経つのに未だに奨学金をほとんど返済しておらず、なおかつ結婚後は専業主婦を希望していてどうもその奨学金の返済を肩代わりされそう。金銭感覚が違ってうまくいけるかどうかという至極真面目なものなのですが、自分の金銭感覚の説明として、「私は大学卒業後から現在の会社にずっと勤めており、年収は500万円ほどで1人暮らしの生活水準を気に入っていて、数百円程度の貯金もできています。」と、書いていたのが目に止まっちゃいました。
 さすがに「数百円→数百万円」の間違いでしょうが、もったいぶった言い方しながら全然貯金できてないじゃんと思わず突っ込んでしまいたくなるほど致命的な誤字といわざるを得ません。こんだけ誤字脱字の多いブログを運営していながら言うのもなんですが。

2013年1月6日日曜日

二世タレントについて

 先日に日本のテレビ番組でダウンタウンの浜田氏が長男と共にラジオに出演したそうです。なんか浜田氏の奥さんの方がブログで「決して親の七光りで出演できたわけじゃありませんから」といっていたそうですが、そんな風に考えてるならわざわざ口にしなくてもいいような。
 今回の浜田氏親子に限らず、芸能界では親も芸能人という二世タレントは昔から多くおります。この二世タレントについて一部ではさっきのように七光りだと揶揄する声もありますが、私個人としては芸能界であれば親が有名人であると名乗ってもいいと思いますし、全く問題ないと思います。というのも芸能界は政界と違ってやはり実力主義が徹底されている世界で、どれだけ親の影響力を持っていても数字が取れない芸能人であれば自然に淘汰されるだけです。確かに親の影響力があれば縁もゆかりもない人と比べてデビューこそ華々しく飾れますが、実力が足りなければ一年もしないうちに画面から消えていくでしょう。

 そういう風に思う一つのケースとして、小泉孝太郎氏が私の中で真っ先に上がってきます。小泉孝太郎氏の父親は名字からもわかる通りに元首相の小泉純一郎氏で、デビュー時からその事実を公表しており在任中でもあったことから大きな話題となりました。あくまで私の印象ですが、父親が現役首相である事実を公表していた小泉孝太郎氏に対して周囲からは批判する声が多かったように覚えます。私が覚えているのだと北野武氏も批判した一人で、売れた後で実は父親が総理だと言えばいいのにまだ売れるかどうかわからないデビュー段階で明かすのはおかしいと言っていました。もっとも、そういう北野氏も娘の北野井子氏が歌手デビューした際には自らプロモーションビデオに出演、監修するなど力が入っており、基本的にこの人は好きですがこの一点に関しては言ってることとやってることが違うよねと前から思ってます。

 話は小泉孝太郎氏に戻りますが、確かにデビュー時は首相の息子という話題性が独り歩きしていた雰囲気はありましたが、テレビで見る限りだと非常にさわやかそうな外見な上に穏やかな性格していて、デビューこそ父親の影響力を借りたけどきっとこの人は芸能界でやっていけるなと当時に感じました。そんな予想が当たったというべきか、小泉孝太郎氏はその後も着実にキャリアを重ねて既に父親の純一郎氏が政界から引退しているにもかかわらずコンスタントにテレビドラマなどに出演を重ねております。なんかさっき調べてみたら、今日からやってる「八重の桜」にも徳川慶喜役でキャスティングされているし。

 またもう一人、こちらも元首相の血縁者であるDAIGO氏に関しても常々同じようなことを思います。DAIGO氏は小泉孝太郎氏とは違って歌手デビューした際に自分が竹下登の孫だということをひた隠しにしていたそうですが、その期間、確か10年くらい全く日の目を浴びなかったそうです。年齢も二十代後半にさしかかった頃、本人曰く「このままだとさすがにまずい」と思うようになってカミングアウトをするに至ったそうですが、多分「踊るさんま御殿」からだと思いますがこの番組の出演を契機に急に売れ出すようになって、本人も後年に同じ「踊るさんま御殿」に出演した際、「カミングアウトするまでのあの長い期間はなんだったんだろう」とやや複雑な心境を語っておりました。

 仮にDAIGO氏が竹下登の孫でしかなかったら現在に至るまでテレビ番組のレギュラー出演をし続けることは叶わなかったでしょう。以前に読んだあるコラムでは、DAIGO氏がテレビ出演時に話す若者言葉は取りようにとっては相手に対してかなり失礼な言い方であるが彼が言うと全く悪意があるように聞こえず、彼自身の穏やかな性格はもとより育ちの良さがこれを可能にしていると批評しておりましたが、非常に的確な分析だと思います。先の小泉孝太郎氏にも重なりますが、DAIGO氏に関してはこうした育ちの良さから来る雰囲気が視聴者に求められているのだと思うし、だからこそ芸能界で今も活躍し続けられるのだと思います。それだけに初めから無理せずカミングアウトしとけばよかったのにとも思うのですが。

 逆に実力がない故に明らかに淘汰されていると思うのは、名指しして悪いとは思いますが明石家さんま氏と大竹しのぶ氏の娘のIMALU氏です。両親が大物ということもあってデビュー時は大きな話題になっていろんな番組にゲスト出演しましたが、その後は徐々に低迷し、現在に至っては母親の大竹しのぶ氏関連の番組にしか出ておらず明らかに親の影響力だけで命脈保っているような状態です。私も日本にいた頃に何度か出演した番組を見ましたが、声が小さい上にトークの内容も面白くなく、同じ二世タレントでも関根麻理氏とは雲泥の差だなと感じました。父親の明石家さんま氏は娘の芸能活動をあまり快く思っていないとかねがね言っておりますが、その眼はやはり正しかったと思います。

  おまけ
 今日取り上げたDAIGO氏は実は密かに尊敬している人の一人です。なお彼の姉の影木栄貴氏も現役の漫画家ということで有名人ではありますが、以前に彼女の自叙伝的な漫画を読むことがありました。その漫画によるとこの家は三兄弟で影木栄貴氏が一番上で、DAIGO氏は三人目、真ん中に一般人の弟がいるそうです。影木栄貴氏は真ん中の弟とは子供の頃にしょっちゅうケンカするなど関わりはあったものの、DAIGO氏とは7つ違いと年も離れていたことから子供の頃はあまり接触がなかったそうです。また上二人がしょっちゅうケンカする姿を遠くで眺めていたことから、DAIGO氏は今のような穏やかな性格になったのだろうと姉の目線で書かれてありました。
 ただそんなDAIGO氏と一対一で子供の頃に接触したエピソードも一つ載せられており、なんでもゲームのドラクエでDAIGO氏がうっかり影木栄貴氏のデータを消してしまったことがあったらしく、影木栄貴氏がその件で問い詰めるとDAIGO氏は知らないふりをしようとして、「余計に腹が立った」と書いておりました。政治家の家でも案外、同じような問題で兄弟げんかが起こるのだと思わせられたエピソードです。

2013年1月4日金曜日

松岡洋右について

 たまには歴史の話でもと思って何か人物を取り上げようとしばらく考え、当初は甲斐宗雲でもやろうかと思いましたが最後に考え直して題にも掲げた松岡洋右を取り上げることにしました。結論から言うと私はこの人が大嫌いで、後述する議論において私が片方の立場を取る主要な原因となっている人物です。

松岡洋右(Wikipedia)

 日本史をやったことのある人間ならまず知っているでしょうが、この人は戦前に活躍した外交官で近衛内閣では外務大臣にも就任しております。この人がやった、というかやらかしたことは以下の通りです。

・国際連盟の脱退
・日ソ中立条約の締結
・日独伊三国軍事同盟の締結
・日米交渉の失敗

 このうち最初の「国際連盟の脱退」は当時の外務省の方針であったために松岡に責任があるわけではないですが、後ろ三つに関しては本人が強力に推し進めていただけでなく、それ以前からも独断で物事を決める人間であっただけに間違いなく彼の責任のなせる業と言い切れます。これら松岡の決断がその後どのように日本を追い込んで行ったのかそれこそ何万字もかけてでもじっくり紹介してやりたいところですが、その前に彼の構想とやらを簡単に紹介します。
 まず松岡の来歴を簡単に説明しますが、彼は若い時期にアメリカに留学して優秀な成績で帰国し、外務省に入省しています。ただ外務省は41歳の頃にに辞めて、その後は伝手のあった満州鉄道に入社して後に首相となる岸信介、日産(というかむしろ日立)創業者の鮎川義介と並んで「満州の三スケ」と呼ばれるほどの実力者となりました。そのまま満州に引きこもっててシベリアにでも連れていかれればよかったものを途中で政治家に転身し、元外交官という立場から外交にあれこれ口出しする議員となりました。

 その後紆余曲折あって一旦議員を辞めて満鉄総裁職を経た後、近衛文麿に請われて外務大臣に就任します。外務大臣に就任するや幹部官僚のクビを一斉に切って独裁大勢を確立するのですが、その後に彼が構想していた四国同盟の結成へと動き出します。この四国同盟というのは日本、ドイツ、イタリアのいわゆるアクシズ三カ国にソ連を加えたもので、この構想の背景には当時も世界最強国であったアメリカ、そしてイギリスに対抗するという狙いがあったのだと思います。先に書いてしまいますが、留学中に嫌な目にでもあったのかどうも松岡の思想や行動というものは「アメリカ憎し」というか反米を基軸にして動いているように思え、それがためにしなくてもいい余計なことをことごとくやってのけてくれたのだと私は考えています。

 話は戻って外務大臣に就任した松岡はまずドイツに向かい、ヒトラーに会います。ドイツに行く前まではあまりドイツにいい感情を持っていなかったようですが、反米以外にバックボーンを持っていないので歓迎されるやコロッと考え方を変え、四国同盟の手始めとばかりに日独伊三国軍事同盟を結びます。
 この交渉の前後で松岡はどうも、ドイツとソ連がお互いの利益が一致したためあくまで一時的として結んだ仮初めの独ソ不可侵条約を、ドイツとソ連は相思相愛の関係だと本気で信じていたようです。そのため実際には既にドイツがソ連との開戦を計画していたにもかかわらず三国軍事同盟を結ぶことによってソ連を味方に引き込めると誤解し、交渉中にソ連との同盟締結の価値をドイツ側にも強く主張していたようです。

 それに対してドイツ側は暗に開戦する可能性があることを示唆して日本はソ連とは同盟を結ばず、ソ連を背後から牽制してくれるようにと注意していたのですが松岡はそのシグナルを全く受け取れず、三国軍事同盟締結後に直接モスクワへ行ってスターリンと交渉し、ドイツの好意を無碍にするかのように日ソ中立条約を結んで帰ってきます。スターリンとしてはこれによって後顧の憂いなくドイツと戦えるので狂喜乱舞し、松岡の帰国時に異例ともいえる見送りを敢行しているくらいです。
 ウィキペディアの記事ではこの時松岡は首相の座を狙っていたと書かれていますが、功を焦っているようにも見えるので非常に頷ける話です。もっとも日ソ中立条約が結ばれた直後に独ソ戦が開戦して面目丸つぶれとなり、時の平沼内閣も「欧州事情は複雑怪奇」という言葉を残して引きずられるように総辞職しています。ただ当時の世界情勢から言って、少なくとも外交の世界では独ソ開戦は確実視されていたようにも思え、ドイツとソ連は仲がいいままだと誤解した松岡、ひいては日本の外務省はいくらなんでもひどすぎると言わざるを得ません。松岡に至っては日ソ中立条約締結前に、チャーチルから独ソ開戦は近いとはっきりとした忠告を受けておりその手紙まで残ってますし。それにしてもイギリス人は抜け目ない。

 松岡の酷いところは明らかに時勢が読めてない点だけでなく、外交の基本姿勢を反米以外に持っていないという点も挙げられます。ソ連との同盟が散々必要だと言いながら独ソ戦が開戦されるや、日ソ中立条約を破棄してソ連に攻め込めと言い出したそうです。この時点で精神病院にでも放り込んでおけばよかったものを、外遊中に外務省が中心となって割と穏便に進めていた日米交渉にも途中から条件面でおかしいとか言って口出ししてややこしい事態に発展させております。これには昭和天皇、ひいては近衛文麿も怒ったようで、現在のように閣僚の交代が認められていない旧憲法下で異例とも言っていい、松岡を外務省から外すためだけに総辞職してすぐに組閣という方法を実践しております。

 こうして野に下った松岡ですが、米国との戦争は避けなければならないと主張し続け、日米開戦時には天皇に申し訳ないと言いながら号泣したと言われております。ただ彼のこれまでの行動を見る限りだとどう見ても反米しか思想がないように思え、私は彼の対米戦回避主張というのは一種のパフォーマンスに過ぎないのではないかと疑っております。実際に開戦直後に徳富蘇峰に送った手紙では、真珠湾の戦果に興奮したと書かれていたそうですし。最終的には終戦まで生き残ってA級戦犯に指名されましたが、公判中に罹患していた結核が悪化して病死しています。

 ざっと来歴をまとめましたが結果論ではあるものの重要な場面でことごとく誤った判断をかましており、決して誇張ではなくこの人一人がいなければ日本はもっとマシな結果になっていたのではないかとすら思え、亡国の臣と呼ぶにふさわしい人物だと心から思えます。同じ亡国の臣でも東条英機と比べて活動期間が長く、また外交という役職からその影響度も半端なく上でしょう。
 その上で言わせてもらいたいのですが、何故こんな男が靖国神社に合祀されたのか、当時の政策決定者は明らかに間違った判断をしたと言わざるを得ません。起こす必要のなかった戦争に巻き込んだ外交官、個人的感情から兵隊を無駄死にさせた指揮官、こんな人間たちが死ねといわれた当事者である兵隊と一緒に祀られるということに一種の不気味さを感じます。

 靖国神社側はA級戦犯の分祀は出来ないと言っています。あまり知識はなく間違ってるかもしれませんが仏教には魂抜きといって、宿った魂を別の位牌とかに移す行為はOKだと聞きます。元々靖国は神社でもなかったのだし、この際だからA級戦犯以外の兵隊の魂を魂抜きして、仏教施設で供養した方がいいじゃないかと、松岡洋右の件を考えるにつけ本気で思います。

 軽い歴史物を書くつもりだったのに、三千文字オーバーの長文になってしまったなぁ(;´Д`)

2013年1月3日木曜日

日系ブランドの驕り

 見る人によっては不快感を覚えるかもしれませんが、何人かの友人に話したところ比較的反応が良く、また愚者も百に一つはいいことを言うと言うので思い切って書くことにします。もっとも、そもそも周囲の意見を気にする自分ではありませんが。

 私はこれまで上海、香港に赴任しておりますが、どちらでもシーズンである10~12月の間はしょっちゅう国際展示会に行かされては出展している日系企業相手に取材活動を行ってきました。行った展示会の業種は自動車や電機はもちろんのこと繊維や食品などかなり幅広い分野に渡るのですが、どの展示会に行っても何を強みに海外市場で売り出すのかという質問するとほぼ必ず、「日本製ならではの高品質性……」という言葉が返ってきます。そのためこの手の展示会の取材記事の見出しは「高品質性をアピール」としか書けず何度も続くもんだからいろいろと突き上げを食らう羽目となっております。
 そういった個人事情は置いといて、敢えてここで疑問を提言するなら「高品質性以外になにか強みはないのか」ということを強く言いたいです。それこそ価格と性能のコストパフォーマンスに優れているとか、デザイン性の面で他国の企業を上回っているとか、他のメーカーにはない独自機能があるとか、マーケティングで競争力があるとか挙げられる項目であればいくらでもあるのに、日系企業関係者は誰一人としてこのようなことを口にしません。皆一様に性能や品質は高いが価格も高くてなかなか買い手と交渉で折り合わないと言うのですが、厳しい言葉を投げかけるのであれば高品質性で競争力があるのであれば買い手はつくのでは、何も強みがないことを「日本製ならではの高品質」と言いつくろっているだけなのでは。さらに言えば、そもそも本当にその商品は他国製と比べて品質面で勝っているのかとすら思え、「日本製」という過去に作られたブランドイメージにしがみついているだけではというように感じる時が何度かありました。

 話は飛びますが、私がこのように考えるようになったきっかけというのはちょっと意外な所というか、北京で去年末に行われたキヤノンの納会みたいなところの話からでした。私はこの話を人伝に話を聞いたのですが、なんでもキヤノンは去年に中国で起きた反日デモを引き合いに出して、「キヤノンはこれからは無国籍ブランドにならなければならない」と重役か何かが言ったそうです。
 無国籍ブランドというのは、敢えて言うならマクドナルドやマイクロソフトのように、その企業の商品なりサービスを受ける際にいちいち「アメリカの会社」というイメージを抱かない、世界中どこにあっても自然で意識することがないと思えるブランドを指すようです。キヤノンとしては日本に籍を置く企業ではあるものの「日系企業のキヤノン」ではなく「キヤノンはキヤノン」というように国籍ではなく企業単体で成立するブランドイメージを今後作る必要があると言ったそうです。

 話すことはいちいちもっともだし、キヤノンが言うのなら説得力があると私も感じます。というのも反日デモ以降、日系メーカーの商品は自動車や家電を中心に中国で大きく売上げが落ちましたが、キヤノンとニコンのデジカメだけはそれ以前と全く変わらずに売れ続けたそうです。その理由は単純で、高性能なデジカメを選ぶとなるとこの二社以外に選択肢がないというものからでした。ちょっとさっきから持ち上げ過ぎな気もするので一つ突っ込んでおくと、どちらも過去、かなり問題な規模で偽装請負をやっていた会社ではありますが。光学機器メーカー同士で性格似てるのかな。
 何が言いたいのかというと、やはり性能や品質が本当に優れているのなら消費者は多少値段が高くても、尖閣諸島の問題で腹立ってもその商品を選ぶのだと思います。逆に性能面で劣っていないにしろ、他のメーカー製とほぼ競合しているのであれば何かの「きっかけ」によって売り上げが大きく落ち込むこともあるのでしょう。

 具体的な業種について話していくと、自動車に関してはトヨタのハイブリッドエンジン、日産のルノーとの提携による国際販売体制などを中心に日系メーカーには確かに他国のメーカーにはない大きな強みがあると思います。ただ残念なことに中国ではこれらの強みがあまり効果を発揮しない(そもそもトヨタ自体が中国でのハイブリッド車販売に乗り気じゃなさそう)場所であり、また暴徒によって車が破壊される映像がテレビで大きく流されたことで去年の一件では大きく販売が落ち込むことになりました。
 ただ家電に関しては文句なしに、もはや大きな競争力はないと思います。確かにまだ性能や品質面で日系家電メーカーは海外メーカーを上回っているのかもしれませんが、たとえば中国メーカーと比べた場合、この品質面での差はこの十年で確実にかつ大きく埋まってきております。ではその埋まった品質面での差の代わりに何か新しい強みを身に着けたかというのであればさに非ず、発表とか見ているとやっぱり「高品質性をアピール」としか言ってないように見えます。

 結局のところ、「高品質な日本製品」というブランドイメージに日系メーカーは依存し過ぎなのではないかと思います。昔は確かにそうだったかもしれませんが、少なくとも現代においてはそれだけではもう商品が売れる時代ではないでしょう。それこそキヤノンの言う通りに、「日本製」ということを隠しても消費者はその商品を選ぶか否か、そんな商品を作れるのか作れないのかではないでしょうか。はっきり言って、今の日本企業は日系ブランドであることに明らかな驕りがあるように見えるだけに、使えるものは何でも使うべきではあるものの、真に競争力を養うためにはもうそうしたことは口にしない方がいいのかもしれません。
 どこぞの誰かともわからない会社だがいい商品を作る、ここの商品しか希望に合わない。ブランドに頼らずそんな商品を作ろうとする気概、さらに言えば消費者に求められていない高品質性以外の強みを追及する姿勢こそが今必要なのだと思う次第であります。

2013年1月1日火曜日

ベアテ・シロタ氏の死去について

 本題とは関係ありませんが、中国では昨年末の12月22日がマヤの予言での終末の日だから世界は滅亡すると軽い騒ぎになりました。結局何も起こらないというノストラダムス以来のオチでしたが、こっちで出ているLCCのエアアジアの公告に、「終末の日の後だからこそ旅行はなお楽しい!」っていうキャッチコピーが書かれてあって、中国にもいいコピーライターがいるもんだと感心させられました。

ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去=日本国憲法起草に従事(時事通信)

 今日はごつい記事でも書こうと考えてましたが、ちょっとまた頭痛がするのと、個人的に印象的なニュースが出てきたのでこっちを取り上げます。上記リンク先に書かれている通り、日本国憲法の起草に関わったベアテ・シロタ氏が12月31日に亡くなっていたそうです。ベアテ・シロタ氏、というよりその父親のレオ・シロタ氏については以前にも記事を書いておりますが、新憲法起草を通して日本の戦後史に非常に強い影響を与えた人物と言っても過言ではなく、このニュースを見て一つの歴史が終わったと強く感じました。
 彼女の死が直接何か、新しいことにつながるというわけではないのですが、歴史というのは他の物事と同じように基本的に始まりがあれば終わりがあります。何か一つの事件が始まれば、その直接の影響を及ぼす期間なり時期というものには終わりがあります。それこそ民族や国家も例にもれず、繁栄を誇ったローマ帝国ですら滅び、今あるアメリカや日本という国家もいつの日か終わりを迎えるという方が自然です。

 ちょっと自分でもわけのわからないことのたまっている気がしますが、終わりを連想させるような一つの区切りとなる事件があるからこそ歴史というものは認識しやすくなる気がします。今回のこのニュースもそういうものを連想させるものとして、一応記念に書き残そうと思った次第です。

2012年12月31日月曜日

今年、そして来年

 この記事を書き始めた段階で既に2012年が終わるまで1時間を切りました。当初はこのまま更新せずに寝てしまおうかとも思ったのですが、ふと2012年に一体自分は何本記事をアップしたのか気になったので軽く調べてみたところ、この記事を含まずに291本も書いていました。自分で言うのもなんですが、更新し過ぎでしょう。

 あと同様に去年末は何を書いたのかも気になったので同じく調べてみたところ、「世界の2011年を振り返る」という記事を書いてました。内容としてはビンラディンを筆頭にアメリカの敵が一斉に死んだということと、2012年は世界中で首脳を決める選挙が重なることなどに触れられており、日本も変わるかもしれないとか言ってたら本当に今月変わっちゃいました。あと書いている記述としては、「欧州債務危機も多分来年に本格的に火を噴く可能性が高く、今年も色々死んだせいでそれなりに騒がれはしましたが、後年になって2011年は嵐の前の静けさだったと評されるかもしれません。」という文言もあります。こちらは心配していたほど大きく火を噴くことはなく日本の景気も復興需要があったせいか割と穏健さを保ちましたが、後半に至っては経常収支(国全体の収支バランス)が赤字を記録するなどやや曇り模様が見えてきました。この経常収支についてちょっと一言付け加えておくと、国家財政がどれだけ赤字であっても経常収支が黒字な間は問題ないと主張する人が散々このブログのコメント欄に書いていましたが、経常収支も赤字になったけどどう考えてるのとちょっと意地悪く聞いてみたいです。

 私個人のこの一年は全く以って穏健というか、2011年が引越しが三回、勤務地が三回変わるわで激動だったことを考慮すると、今年は引っ越しは一回あったものの上海から全く動かず静かな一年だったように思えます。ちなみに、日本への一時帰国回数は二回です。ただ来年は今年よりは確実に変動を持つことが既に確定しており、年明けはまだのんびりできますが春先からは結構笑ってられない状態に陥ることになります。もっともそれは自分が望んだ事態であるため、楽しみであることには間違いないのですが。

 ちなみにこの時期が来ると毎年思い出すのはあの日こと、2009年の1月2日です。知ってる人には早いですがこの日に私は自転車での房総半島一周を突然思いつき、即日実行してえらいことになりました。こんな目に遭っていながらもまた機会があれば、今度は二日かけるとかもうちょっとスケジュールに余裕を持たせてチャレンジしてみたい、というか9月に帰ってから自転車に一度も乗っていないので早く乗りたいとか考える当たり、つくづく自分は反省のない男だと思えます。

2012年12月30日日曜日

日本人は侍か?忍者か?

 いつごろかは忘れましたがかなり昔に海外の人にとって日本人は侍というイメージを強く持たれており、それがいい方向に作用しているということをブログで書いたかと思います。日本人がどうして侍というイメージを持たれるようになったかは新渡戸稲造の著書「武士道」のほかに、黒沢映画などの影響によるところが多いと予想されますが、北京での留学中に相部屋だったルーマニア人ですら、「日本人はどんなことにも黙って我慢する忍耐強い民族だと親父に教えられた( ゚∀゚)」と言っていたくらいなので、その浸透度は計り知れないでしょう。
 ただ日本人のイメージとくれば侍のほかにも、こちらはショー・コスギ氏らが出演した映画による影響か忍者というイメージも海外で負けじと強いです。侍と忍者、どちらも大多数の現代日本人からすれば直接関わりはないものではあるものの(あったら怖い)こうしたイメージを保持することは明らかにプラスに働くために大事にすべきとは思うのですが、それでも敢えて一言いうのであれば、私は侍というイメージより忍者というイメージを強く意識して押し出すべきだと主張します。

 一体何故忍者を押し出すのか。別に私は甲賀忍軍の末裔というわけでもなく親戚に忍者がいるというわけでもないのですが(いたら怖い)、こう考える理由として一つには外人の考える忍者のイメージがぶっ飛んでて好感を持たれるのに侍より好都合であることに加え、忍者のイメージの方が日本人の思想に割合マッチしやすいと思うからです。
 忍者のイメージ云々は省略して後者の思想にマッチしやすいという点に絞り解説しますが、あくまで私の主観ですが日本人というのは基本的に目立つことを嫌います(大阪人を除いて、それにしても今日は括弧づけが多い)。この目立つ行為を避けるということが忍者の持つスパイ性に近いというか、究極的には周辺環境に溶け込もうとする日本の文化様式に重なるのではないかと勝手ににらんでます。

 これは以前、といっても自分が記憶する限りだと確か小学5~6年生の頃に通った予備校での国語の授業で使用されたテキストに書かれていた内容ですが、噴水という建築物は西洋世界では風景にマッチするのに対し日本だとどうにもマッチしないと書かれてありました。その理由はというと西洋の建築思想というのは「自然を改造する」ことにあって如何に人工的な作為を建築に見せようとするのに対し、日本の建築思想は自然そのものの姿を可能な限り残そうとする、いわば真逆にあると論じてありました。
 この話は子供心にやけに記憶に残ったのですが、その後学生時代に京都に行ってからはなおさら納得感を深めました。知ってる人には早いですが京都は「借景」といって、住宅など建築物を建てる際に背景にどんな光景を入れるか、京都の場合ですと具体的には山々ですがそうしたものを考慮して建てます。建築というものは同じ東洋人でも日本、中国、韓国で明らかに様式が異なり、割かし民族ごとの思想が反映されやすいものだとかねてから考えており、この借景という概念一つとっても日本人の究極的な思想形態というものはここにある、つまり自然に如何に溶け込むかにあるのではないかと考えてるわけです。

 そうしたことを考えるにつけ、侍の持つ「寡黙」、「忠義」といった要素よりも忍者の持つ「隠密」、というか「ステルス」という要素の方が日本人と相性がいいのではないかという結論に至りました。以前にも書きましたが日本政府は今、「クールジャパン(゚∀゚)」という用語を使って日本のコンテンツを海外向けに打ち出しておりますが、海外に住んでいる自分の身からしてこの用語はあまり見かけることはなく、そもそも「クール」と「日本人」では連想しづらいと感があります。それならむしろ標語を「シュールジャパン(・ω・)」に変えて、ありのまま、自然なままの日本人の姿を打ち出す方が日本人の思想にマッチした上で、海外の人にとっても連想したイメージが作りやすいのではないかと常日頃から考えてるわけです。
 その「シュール」という言葉と「自然(=周囲)に溶け込む」という思想を訴える上で忍者というのは非常に恰好の材料であり、また既に持たれている既存イメージを流用することも可能であることから、提案をするという意味で今回このような記事を書くことにしました。最後に蛇足となるでしょうが新渡戸稲造は「武士道」なんて書かずに「忍道」って本を書くべきだったんじゃないかとも思っており、「忍道とは、隠れることと見つけたり」みたいな感じで海外に紹介した方が色々面白かったのではとも思ってたりします。