このところテンションローな状態が続きあまりいい記事書けてませんが、ちょっと特殊なネタというかよそではまず見られない記事が書けるニュースが出ていたので今日はこれを取り上げます。
・ヤマダ電機、家電量販王者が国内外で苦戦(東洋経済)
上記リンク先の記事によると、国内家電量販大手のヤマダ電機が国内外で不振が続いていると書かれており、ヤマダ電機の中国事業についても触れられております。ヤマダ電機は現在中国に数店舗を出店しているのですが、業績不振などから去年にオープンさせた南京店を今年5月末で占めるとのことです。ちなみに余談ですが、この南京店オープンの話は自分がデイリー向けライターとして仕事入りしたばかりの頃に直接電話取材して記事を書いたことがあるだけに、ちょっとだけ思い入れがあります。記事ソースが現地新聞だけだったから何も教えてくれないかと思ったら、店舗面積とか意外に熱心に教えてくれて助かりました。
話は戻りますが、ヤマダ電機はこのほかにも天津など中国の北方地域に出店しているのですが、はっきり言って業績がいいという話はあまり聞きません。何故業績が良くないのかというとヤマダ電機の販売手法とか経営以前に、地元業者からの妨害が大きな要因になっているといううわさを聞きます。
中国における家電量販店というと蘇寧電器と国美電器というのが二大巨頭で、日本で言えばそれぞれヨドバシカメラ、ビックカメラに当たる存在です。業績的には蘇寧の方が上で最近その差がはっきり出てきましたが、両社とも全国にネットワークを持っていて中国の家電市場を考える上では無視できない存在です。
それでこの二社なのですが、どうも中国にあるヤマダ電機の店舗に商品を卸さないよう、ローカルの家電メーカーにプレッシャーをかけているそうです。そのためヤマダ電機が取り扱えるのは日系など海外メーカー製しかなく、商品ラインアップで他社の店舗に劣るため苦戦が続いているという、あくまで噂ですがそういう話を聞いたことがあります。
一方、蘇寧電器に買収された元日系家電量販企業のラオックスは同じ身内であるからか、蘇寧電器が持つネットワークを存分に生かして「やや高級な家電量販店」というブランドで中国でもある程度の知名度を持つに至っております。あとどうでもいいけどこっちは食品スーパーのマルエツですが、ここも蘇寧電器とタッグ組んで中国進出を行う計画を発表しており、向こうの小売業界に参入するにはローカル企業との提携が重要であるように感じます。
このほか中国の小売業界にはもっとディープなネタも持ってますがさすがにそこまでやると内容が偏るので今日はやめておきます。最後に中国の家電小売業界についてもう少し触れておくと、中国も日本がやったエコポイント制度みたいな優遇策を実施してましたが、それら政策が打ち切られた後は急激に販売量が減って日本と同じような状態になっています。しかも最近はオンラインショッピングサイトで家電を購入する層が増えており、ヤマダ電機に限らなくても中国の家電量販店はそこそこ厳しい状態が続いているような気がします。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2013年4月23日火曜日
2013年4月22日月曜日
暗殺者列伝~文世光
昨日に事件のあらましを記事にしたばかりですが、朴正煕大統領の暗殺が帰途された「文世光事件」の実行犯である文世光について今日は深く掘り下げていこうと思います。
・文世光(Wikipedia)
事件のあらましに関しては昨日私が書いた記事を読んでもらいたいのですが、この事件の実行犯である文世光は1951年生まれの在日朝鮮人で、日本での通名は南条世光といいます。南条という名字に妙な反応が出来る人はきっと、ペルソナ使いか私と同じくペルソナのゲームで遊んだことがある人でしょう。いやね、「Burn My Dread」を聞きながら書いてるもんだから……。
そんなくだらないことは置いといて続けますが、文世光は22歳の時分に日本の朝鮮総連から指示を受け大阪市内の派出所内から拳銃を盗んだ上で韓国に渡り、朴正煕の暗殺を企図します。文世光がどのように朝鮮総連から指示を受けたかについては諸説あるようで、文世光自身が暗殺が必要と申し出たとか万景峰号内で工作員から指示を受けたなど言われておりますが、北朝鮮がこの事件を指示したことに関しては2002年、朴正煕の娘である朴槿恵(現韓国大統領)に対して金正日が認めていることから間違いないでしょう。私自身としても、22歳の血気盛んな若者を北朝鮮の工作員が煽って行動させたような気がします。
昨日の記事では割とさらりと暗殺事件を書きましたがよりその詳細を事細かに書くと、文世光は拳銃を入手した後、知人に成りすまして偽造パスポートなどを作成し、拳銃をトランジスタラジオに忍ばせて韓国へ渡ります。韓国でに渡るとフォードの高級車を借り、正装することによって日本の商社員、または外交官に成りすまして事件現場の国立劇場へと赴きます。本来ならば式典には招待状がなければ入れなかったのですが、文世光が日本語を使っていたことから警備員は外国人VIPと考え、あっさり通してしまったようです。
こうして潜入した文世光は会場に入場する才を狙って朴正煕の暗殺を図りますが、入場の際は周囲に歓迎の子供たちがついていたことからこの機は見逃します。そして朴正煕が式辞を読むため演壇に立ったその瞬間を狙おうと拳銃を引き抜こうとしたのですが、なんと引き金に触れてしまって恐らくポケットに入れたまま銃を発射してしまい、文世光は自らの左足を撃ち抜いてしまったそうです。ただ会場はスピーカーの音が大きく、発射音は誰にも気取られませんでした。
この時点で相当な痛みを感じていたでしょうが文世光はそのまま客席から通路へ走り出て、朴正煕目がけて計4発(うち1発は不発)の弾を発射しましたが、軍人出身ということもあって銃弾の音を聞いた朴正煕はすぐさま演壇に隠れ、難を逃れることが出来ました。ただ夫人の陸英修は避けることが出来ずに銃弾が命中し、その後に亡くなっています。
こうして暗殺が失敗した文世光はそのまま韓国警察に捕まり、4ヶ月後に死刑判決を受けてそのまま執行されております。執行される前に文世光は「朝鮮総連に騙された」などと悔悟の念を示していたといいますが、言い方が悪いですが本当なのかちょっと私は疑問に感じます。その疑問に感じる点も、口ではそうはいっていても本心ではどうなのかという意味です。
この暗殺の一連の流れを見ていて私が気になる点を挙げると、どうして文世光は暗殺に失敗したのかという点です。文世光が朴正煕目がけて撃った距離は約20メートルとのことですが、もうちょっと近寄れなかったのか、また実行前に誤射して左足を撃ち抜くというミスをどうして犯したのか、これらは言うまでもなく文世光がちゃんとした訓練を受けた工作員ではないことを示唆しているように思えます。
一応、現在の研究では韓国に渡航する前に文世光は朝鮮総連内で射撃訓練を受けたとされておりますが、それにしたって素人を暗殺者に仕立てようとするのはやや性急な気がします。朝鮮総連が指示したことは間違いないとのことですから、言ってしまえば捨て駒、うまく暗殺してくれたらラッキー、駄目だったとしても日韓関係にくさびを打ち込めるみたいに考えて送り出したのでしょう。
非常に厳しい言い方をすると、何故自分は捨て駒にされていると文世光は自分で気づけなかったのか、若いからというのは言い訳にはできません。最近プライベートで私はやたらと捨て駒という言葉を用いておりますが、自分が捨て駒にされていると思ったら、抵抗しなければそのまま捨てられるんだぞということを真面目にほかの人たちにも言いたいです。中には自分が捨て駒だと信じたがらない人もいますが、現実はそのまま現実です。そうした一つの教訓に、この事件を使ってもらえれば幸いです。
・文世光(Wikipedia)
事件のあらましに関しては昨日私が書いた記事を読んでもらいたいのですが、この事件の実行犯である文世光は1951年生まれの在日朝鮮人で、日本での通名は南条世光といいます。南条という名字に妙な反応が出来る人はきっと、ペルソナ使いか私と同じくペルソナのゲームで遊んだことがある人でしょう。いやね、「Burn My Dread」を聞きながら書いてるもんだから……。
そんなくだらないことは置いといて続けますが、文世光は22歳の時分に日本の朝鮮総連から指示を受け大阪市内の派出所内から拳銃を盗んだ上で韓国に渡り、朴正煕の暗殺を企図します。文世光がどのように朝鮮総連から指示を受けたかについては諸説あるようで、文世光自身が暗殺が必要と申し出たとか万景峰号内で工作員から指示を受けたなど言われておりますが、北朝鮮がこの事件を指示したことに関しては2002年、朴正煕の娘である朴槿恵(現韓国大統領)に対して金正日が認めていることから間違いないでしょう。私自身としても、22歳の血気盛んな若者を北朝鮮の工作員が煽って行動させたような気がします。
昨日の記事では割とさらりと暗殺事件を書きましたがよりその詳細を事細かに書くと、文世光は拳銃を入手した後、知人に成りすまして偽造パスポートなどを作成し、拳銃をトランジスタラジオに忍ばせて韓国へ渡ります。韓国でに渡るとフォードの高級車を借り、正装することによって日本の商社員、または外交官に成りすまして事件現場の国立劇場へと赴きます。本来ならば式典には招待状がなければ入れなかったのですが、文世光が日本語を使っていたことから警備員は外国人VIPと考え、あっさり通してしまったようです。
こうして潜入した文世光は会場に入場する才を狙って朴正煕の暗殺を図りますが、入場の際は周囲に歓迎の子供たちがついていたことからこの機は見逃します。そして朴正煕が式辞を読むため演壇に立ったその瞬間を狙おうと拳銃を引き抜こうとしたのですが、なんと引き金に触れてしまって恐らくポケットに入れたまま銃を発射してしまい、文世光は自らの左足を撃ち抜いてしまったそうです。ただ会場はスピーカーの音が大きく、発射音は誰にも気取られませんでした。
この時点で相当な痛みを感じていたでしょうが文世光はそのまま客席から通路へ走り出て、朴正煕目がけて計4発(うち1発は不発)の弾を発射しましたが、軍人出身ということもあって銃弾の音を聞いた朴正煕はすぐさま演壇に隠れ、難を逃れることが出来ました。ただ夫人の陸英修は避けることが出来ずに銃弾が命中し、その後に亡くなっています。
こうして暗殺が失敗した文世光はそのまま韓国警察に捕まり、4ヶ月後に死刑判決を受けてそのまま執行されております。執行される前に文世光は「朝鮮総連に騙された」などと悔悟の念を示していたといいますが、言い方が悪いですが本当なのかちょっと私は疑問に感じます。その疑問に感じる点も、口ではそうはいっていても本心ではどうなのかという意味です。
この暗殺の一連の流れを見ていて私が気になる点を挙げると、どうして文世光は暗殺に失敗したのかという点です。文世光が朴正煕目がけて撃った距離は約20メートルとのことですが、もうちょっと近寄れなかったのか、また実行前に誤射して左足を撃ち抜くというミスをどうして犯したのか、これらは言うまでもなく文世光がちゃんとした訓練を受けた工作員ではないことを示唆しているように思えます。
一応、現在の研究では韓国に渡航する前に文世光は朝鮮総連内で射撃訓練を受けたとされておりますが、それにしたって素人を暗殺者に仕立てようとするのはやや性急な気がします。朝鮮総連が指示したことは間違いないとのことですから、言ってしまえば捨て駒、うまく暗殺してくれたらラッキー、駄目だったとしても日韓関係にくさびを打ち込めるみたいに考えて送り出したのでしょう。
非常に厳しい言い方をすると、何故自分は捨て駒にされていると文世光は自分で気づけなかったのか、若いからというのは言い訳にはできません。最近プライベートで私はやたらと捨て駒という言葉を用いておりますが、自分が捨て駒にされていると思ったら、抵抗しなければそのまま捨てられるんだぞということを真面目にほかの人たちにも言いたいです。中には自分が捨て駒だと信じたがらない人もいますが、現実はそのまま現実です。そうした一つの教訓に、この事件を使ってもらえれば幸いです。
2013年4月21日日曜日
韓国の近現代史~その十一、文世光事件
・文世光事件(Wikipedia)
ちょっと間をおいての連載再開ですが、いい加減、朴正煕政権期間中の事件は書いてて飽きてきました。まだあと金大中事件もあるというのに……。そういう愚痴は置いといてちゃっちゃと本題書くと、今日は朴正煕大統領を狙ったものの結局は朴正煕夫人の陸英修が暗殺されることとなった、文世光事件を取り上げます。
事件が起きたのは1974年8月15日。日本の植民地から解放されたこの日を祝う式典に参加するため朴正煕とその夫人の陸英修はソウル国立劇場へと足を運びました。この式典で朴正煕は演壇に立ち祝辞を読み上げたのですが、まさにその瞬間を狙って在日朝鮮人の文世光が拳銃を抜きだし彼目がけて発砲しました。幸いというか弾丸はターゲットである朴正煕は外れたものの傍にいた陸英修に当たり、またたまたまその劇場に居合わせた女子高生に警備が文世光を狙って撃った弾が当たり、二人は病院へと運ばれたもののそのまま息を引き取りました。そして犯人の文世光は現場で取り押さえられ、同年の12月に死刑判決が確定してそのまま執行されております。
この事件で特筆すべきなのは、文世光は日本の朝鮮総連の指示を受けて暗殺を計画し、そしてこの事件で使われた拳銃というのは大阪市高津派出所から盗まれたものだったという点です。はっきり書いてしまえば、盗まれた拳銃が使用されたことや文世光の偽造パスポートによる出国などを見逃した点で日本側の捜査怠慢も背景にあるということです。
こうした点から事件後に朴正煕は日本側に強い不信感を持ち、さらに朝鮮総連の関与が疑われながら日本の警察が捜査に慎重な姿勢というか介入をきらったことから日韓関係は大いに冷え込んだそうです。私の個人的な意見を書かせてもらうと朴正煕の怒るのも無理なく、当時の外交関係者は相当な苦労を以って何とか関係をつないだのではないかとも思えます。
最後にこの事件の帰結というかその後の展開について少し触れると、「在日朝鮮人を日本人に偽装してテロ活動を行う」という方法に北朝鮮が味を占めた感があります。勘のいい人ならわかるでしょうがその後に起きた大韓航空爆破事件などがその典型で、更に言えば第三国をなりふり構わず巻き込むという手法も後のラングーン事件にも通じるように思えます。
歴史に仮定を持つことは私自身はあまり好きではないのですが、もし日本側がこの事件を未然に、文世光の出国を食い止めるなどできたら、北朝鮮の諜報活動もなにか違ったようになったのではという感慨を持ちます。
ちょっと間をおいての連載再開ですが、いい加減、朴正煕政権期間中の事件は書いてて飽きてきました。まだあと金大中事件もあるというのに……。そういう愚痴は置いといてちゃっちゃと本題書くと、今日は朴正煕大統領を狙ったものの結局は朴正煕夫人の陸英修が暗殺されることとなった、文世光事件を取り上げます。
事件が起きたのは1974年8月15日。日本の植民地から解放されたこの日を祝う式典に参加するため朴正煕とその夫人の陸英修はソウル国立劇場へと足を運びました。この式典で朴正煕は演壇に立ち祝辞を読み上げたのですが、まさにその瞬間を狙って在日朝鮮人の文世光が拳銃を抜きだし彼目がけて発砲しました。幸いというか弾丸はターゲットである朴正煕は外れたものの傍にいた陸英修に当たり、またたまたまその劇場に居合わせた女子高生に警備が文世光を狙って撃った弾が当たり、二人は病院へと運ばれたもののそのまま息を引き取りました。そして犯人の文世光は現場で取り押さえられ、同年の12月に死刑判決が確定してそのまま執行されております。
この事件で特筆すべきなのは、文世光は日本の朝鮮総連の指示を受けて暗殺を計画し、そしてこの事件で使われた拳銃というのは大阪市高津派出所から盗まれたものだったという点です。はっきり書いてしまえば、盗まれた拳銃が使用されたことや文世光の偽造パスポートによる出国などを見逃した点で日本側の捜査怠慢も背景にあるということです。
こうした点から事件後に朴正煕は日本側に強い不信感を持ち、さらに朝鮮総連の関与が疑われながら日本の警察が捜査に慎重な姿勢というか介入をきらったことから日韓関係は大いに冷え込んだそうです。私の個人的な意見を書かせてもらうと朴正煕の怒るのも無理なく、当時の外交関係者は相当な苦労を以って何とか関係をつないだのではないかとも思えます。
最後にこの事件の帰結というかその後の展開について少し触れると、「在日朝鮮人を日本人に偽装してテロ活動を行う」という方法に北朝鮮が味を占めた感があります。勘のいい人ならわかるでしょうがその後に起きた大韓航空爆破事件などがその典型で、更に言えば第三国をなりふり構わず巻き込むという手法も後のラングーン事件にも通じるように思えます。
歴史に仮定を持つことは私自身はあまり好きではないのですが、もし日本側がこの事件を未然に、文世光の出国を食い止めるなどできたら、北朝鮮の諜報活動もなにか違ったようになったのではという感慨を持ちます。
2013年4月20日土曜日
四川省の大地震について
本日朝早く、四川省雅安市付近でM7.0という非常に大きい地震が起きました。被害状況などはまだはっきりしておりませんが、新華社などのニュースによると李国強首相などは早速現地に赴き救援現場で陣頭指揮に当たっていると報じられております。
四川省では2008年にも雅安市よりやや北にある汶川県でもM8.0の地震が起こっておりますが、今回の地震は当時の地震ほど規模や被害では大きくはないようです。またこちらも中国の報道によると今回の地震は2008年の地震の余震などではなく、独立した地震だそうです。主要都市への影響ですが、四川省の省都である成都市では震度4.3の地震が観測されたものの、インフラ等が大規模に破壊されるほどの被害は出ておらず、道路寸断などもないとされています。
それにしても今回の地震を見て、改めて四川省は地震が多い地域だと認識させられます。前回の大地震でもたくさんの被害者が出て、また使途不明の義捐金も大量に出て中国政府も激しい批判を受けることとなりましたが、習近平体制となって間もない時期なだけに過去の経験をどう生かせられるかが問われるでしょう。
あとこれは中国の経済的な話しになりますが、ややタイミングが悪いというか今日から上海モーターショーが開催です。メディアの目もどうしても地震に向いてしまいますし、株式市場も影響を受けざるを得ないだけに、ちょっと痛い時期だったのではというのが私の分析です。
何はともあれ、被災地で迅速な救援活動が展開されることを陰ながら祈ります。
四川省では2008年にも雅安市よりやや北にある汶川県でもM8.0の地震が起こっておりますが、今回の地震は当時の地震ほど規模や被害では大きくはないようです。またこちらも中国の報道によると今回の地震は2008年の地震の余震などではなく、独立した地震だそうです。主要都市への影響ですが、四川省の省都である成都市では震度4.3の地震が観測されたものの、インフラ等が大規模に破壊されるほどの被害は出ておらず、道路寸断などもないとされています。
それにしても今回の地震を見て、改めて四川省は地震が多い地域だと認識させられます。前回の大地震でもたくさんの被害者が出て、また使途不明の義捐金も大量に出て中国政府も激しい批判を受けることとなりましたが、習近平体制となって間もない時期なだけに過去の経験をどう生かせられるかが問われるでしょう。
あとこれは中国の経済的な話しになりますが、ややタイミングが悪いというか今日から上海モーターショーが開催です。メディアの目もどうしても地震に向いてしまいますし、株式市場も影響を受けざるを得ないだけに、ちょっと痛い時期だったのではというのが私の分析です。
何はともあれ、被災地で迅速な救援活動が展開されることを陰ながら祈ります。
ボストン爆破事件について
先日米国のボストン市のマラソン大会中に起きた爆破事件ですが、先ほど犯人が逮捕されたそうです。捕まった犯人の兄で同じく事件を起こしたとみられる人物は警官との銃撃戦の末、既に逮捕されているそうですが、今後はどのような動機でこんな事件を起こしたかに捜査が集中していくことでしょう。
さすがに予想を外したらカッコ悪いなと思っていたので後出しじゃんけん気味に話しますが、事件が起きた当初からこの事件はイスラム系テロリストグループの犯行だとは私には思えませんでした。その理由というのも複数あって、箇条書きにするとこの二つです。
・犯行声明が行われなかった
・凶器が圧力鍋
イスラム系テロリストからすれば犯行によってなんらかの主張をしなければ行動に全く意味がなく、犯行声明が事件前も事件後も起こらないというのは奇妙というかありえないと言ってもいいと思います。そして次というか二番目の理由、これが今日一番に言いたい内容なのですが、あくまで私の個人的な意見としてテロリストというのはやたら「武器」を神格化する傾向があるように思えるのです。イスラム系テロリストであればカラシニコフ銃ことAK-47 や爆弾などで、古くは左翼系過激派団体も強奪した猟銃を神棚に置くといった行為をしており、何かそういう信仰めいた行動が見えるような気がします。
それに対して今回の爆発事件はベアリングボールを入れた圧力鍋で、殺傷力に関しては紛れもなく高く凶器として劣ることは全くありませんが、神格化するべき対象としてはやや不適格な面が否めません。なら何故使用するのかと考えると、明確な思想を持ったテロリストではなく何かしら社会に不満があってそれを爆発させたい人間が使ったのでは、こんな風に考えてました。二度目になりますが外れていたらカッコ悪いけど。
ついでに書いてしまうと、私に言わせれば爆弾なんて使ってテロ事件、または無差別殺傷事件を起こすのはややナンセンスだと思います。こういうこと書くからいろんな人に引かれるのでしょうが、単純な威力で言えば硫化水素の方が致死性などで高くてかつ非常にお手頃簡単に作れるという利点があります。
にもかかわらず硫化水素、並びにバイオテロが自爆テロに比べて少ないのは、上記の武器に対する信仰なり神格化が影響しているんじゃないかなと勝手に考えてます。ガスだと形がないせいで偶像になり得ないところがあり、そういうところが影響しているんじゃないか、暇なせいかこういう妙なことをよく考えてしまいます。
さすがに予想を外したらカッコ悪いなと思っていたので後出しじゃんけん気味に話しますが、事件が起きた当初からこの事件はイスラム系テロリストグループの犯行だとは私には思えませんでした。その理由というのも複数あって、箇条書きにするとこの二つです。
・犯行声明が行われなかった
・凶器が圧力鍋
イスラム系テロリストからすれば犯行によってなんらかの主張をしなければ行動に全く意味がなく、犯行声明が事件前も事件後も起こらないというのは奇妙というかありえないと言ってもいいと思います。そして次というか二番目の理由、これが今日一番に言いたい内容なのですが、あくまで私の個人的な意見としてテロリストというのはやたら「武器」を神格化する傾向があるように思えるのです。イスラム系テロリストであればカラシニコフ銃ことAK-47 や爆弾などで、古くは左翼系過激派団体も強奪した猟銃を神棚に置くといった行為をしており、何かそういう信仰めいた行動が見えるような気がします。
それに対して今回の爆発事件はベアリングボールを入れた圧力鍋で、殺傷力に関しては紛れもなく高く凶器として劣ることは全くありませんが、神格化するべき対象としてはやや不適格な面が否めません。なら何故使用するのかと考えると、明確な思想を持ったテロリストではなく何かしら社会に不満があってそれを爆発させたい人間が使ったのでは、こんな風に考えてました。二度目になりますが外れていたらカッコ悪いけど。
ついでに書いてしまうと、私に言わせれば爆弾なんて使ってテロ事件、または無差別殺傷事件を起こすのはややナンセンスだと思います。こういうこと書くからいろんな人に引かれるのでしょうが、単純な威力で言えば硫化水素の方が致死性などで高くてかつ非常にお手頃簡単に作れるという利点があります。
にもかかわらず硫化水素、並びにバイオテロが自爆テロに比べて少ないのは、上記の武器に対する信仰なり神格化が影響しているんじゃないかなと勝手に考えてます。ガスだと形がないせいで偶像になり得ないところがあり、そういうところが影響しているんじゃないか、暇なせいかこういう妙なことをよく考えてしまいます。
2013年4月19日金曜日
奇を好む
昨日は李陵を取り上げる傍らで司馬遼太郎がそのペンネームに引用した司馬遷についても少し書きました。この司馬遷という人物に対して「漢書」という歴史書を書いた班固という人は「奇を好む」と評しているのですが、この意味は「ヤクザ物とかアウトロー系が好みだった」というものらしいです。実際に司馬遷は「侠客列伝」みたいな話もたくさん史記に入れていますから、きっと現代に生まれていれば「仁義なき戦いシリーズ」に入れ込んでいたことでしょう。ヤクザ映画にはまる司馬遷、なんかちょっとやだな。
それはともかくとして、私も司馬遷に負けず劣らず妙なものに興味を持ちやすいです。私を直接知っている人ならいざ知らずこのブログを見ていてもわかるでしょうが、はっきり言って興味のないものの方がきっと少ないです。この前もスピリチュアリストに言われましたがほかの人が興味を示さないものに何故かはまったりすることが多く、多分そういう性格しているから知識量が本人ですら「ちょっとシャレになってないよね……」と思うくらいに膨れ上がっていったのでしょう。なお実感として、知識の絶対量では大学でお世話になった講師一人を除いて今まで誰かに劣っていると感じたことは今までありません。上には上がいるもんです。
この知識量が多いですが、言葉のきれいな人なんか「花園さんは教養がありますね」という風に言ってくれます。この教養という言葉ですが敢えて私なりに定義を付けると、「一見するとつまらないものですら面白いと感じれる能力」だと私は思います。たとえば能とか歌舞伎がありますが、あれもあらかじめ予備知識というか話のあらすじなり山場なりを把握しているとより楽しめるようになっていますが、なにも知らずに見たらちょっと面白くなく感じてしまうかもしれない代物です。そんな面白くなさそうなものに対しても「面白そう」と感じる、要するに興味を示せるかどうかが非常に試されるんじゃないかと思うわけです。
翻ってまた私のケースに移りますが、やはりこの点で非凡であったように自分の人生を振り返って感じます。言ってしまえばつまらなくて人気のないギャグ漫画とかもきちんとチェックするような具合で、手に取るものすべてを何かしらの興味の対象につなげて自分の土俵にしてきたように思えます。その一方で、このところとみに感じますがこのような自分の領域の圧倒的な広さ自体が自分の得体の知れなさにも繋がってしまい、初対面の人間からすると誇張ではなく「何なのこの人?」という具合でリアルに警戒される事態を招いてしまったと考えております。言ってしまえば類型に組み込みづらいパーソナリティを持っており、自分も気難しい性格をしていて付き合う人間をかなり選ぶ方ですが向こう側にも同じようにされるということになんだか気づいてきました。
もっとも気づいたところで私自身を改める気は全くなく、たとえ身を滅ぼすことになってもこのまま「奇を好む」ことを続けていくでしょう。ただ自分ほど極端に走らなくてもいいので一つだけ言いたいことは、一見するとつまらない対象に対しても興味を示すことは人格の幅を広げる上で非常に重要です。高杉晋作の辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」でしたが、つまらなさを日々感じる日常だからこそ面白く感じようとする心、面白いと感じる度量を持つべきではないかと言いたいわけです。
最近解説ものの記事ばかり書いてたから、なんかこういうひねった文章書きたくなるもんだね。
それはともかくとして、私も司馬遷に負けず劣らず妙なものに興味を持ちやすいです。私を直接知っている人ならいざ知らずこのブログを見ていてもわかるでしょうが、はっきり言って興味のないものの方がきっと少ないです。この前もスピリチュアリストに言われましたがほかの人が興味を示さないものに何故かはまったりすることが多く、多分そういう性格しているから知識量が本人ですら「ちょっとシャレになってないよね……」と思うくらいに膨れ上がっていったのでしょう。なお実感として、知識の絶対量では大学でお世話になった講師一人を除いて今まで誰かに劣っていると感じたことは今までありません。上には上がいるもんです。
この知識量が多いですが、言葉のきれいな人なんか「花園さんは教養がありますね」という風に言ってくれます。この教養という言葉ですが敢えて私なりに定義を付けると、「一見するとつまらないものですら面白いと感じれる能力」だと私は思います。たとえば能とか歌舞伎がありますが、あれもあらかじめ予備知識というか話のあらすじなり山場なりを把握しているとより楽しめるようになっていますが、なにも知らずに見たらちょっと面白くなく感じてしまうかもしれない代物です。そんな面白くなさそうなものに対しても「面白そう」と感じる、要するに興味を示せるかどうかが非常に試されるんじゃないかと思うわけです。
翻ってまた私のケースに移りますが、やはりこの点で非凡であったように自分の人生を振り返って感じます。言ってしまえばつまらなくて人気のないギャグ漫画とかもきちんとチェックするような具合で、手に取るものすべてを何かしらの興味の対象につなげて自分の土俵にしてきたように思えます。その一方で、このところとみに感じますがこのような自分の領域の圧倒的な広さ自体が自分の得体の知れなさにも繋がってしまい、初対面の人間からすると誇張ではなく「何なのこの人?」という具合でリアルに警戒される事態を招いてしまったと考えております。言ってしまえば類型に組み込みづらいパーソナリティを持っており、自分も気難しい性格をしていて付き合う人間をかなり選ぶ方ですが向こう側にも同じようにされるということになんだか気づいてきました。
もっとも気づいたところで私自身を改める気は全くなく、たとえ身を滅ぼすことになってもこのまま「奇を好む」ことを続けていくでしょう。ただ自分ほど極端に走らなくてもいいので一つだけ言いたいことは、一見するとつまらない対象に対しても興味を示すことは人格の幅を広げる上で非常に重要です。高杉晋作の辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」でしたが、つまらなさを日々感じる日常だからこそ面白く感じようとする心、面白いと感じる度量を持つべきではないかと言いたいわけです。
最近解説ものの記事ばかり書いてたから、なんかこういうひねった文章書きたくなるもんだね。
2013年4月18日木曜日
猛将列伝~李陵
この連載では既に数多くのややマイナー気味な戦争指揮官を取り上げておりますが、今日ふとしたことから前漢の李陵という人物について書いていないことに気が付いたので、反省を込めて早速書くことにします。ちなみにその「ふとしたこと」というのは横山光輝の漫画「史記」を読み返したことなんだけど。
・李陵(Wikipedia)
中国史に興味を持って調べたことのある人、または相当な日本文学好きならきっとこの人のことを知っているでしょうが、それ以外の人はきっと誰も知らない人物でしょう。
この李陵という人は項羽を倒した劉邦が打ち立てた前漢の後期に出た人で、ちょうど紀元前1世紀頃に活躍した武将です。彼が活躍した時代の前漢の皇帝は武帝という人物で、それまで控えめともいえる外交方針をひっくり返しシルクロードに当たる西域や朝鮮半島などへ遠征軍を派遣し領土拡張を積極的に図った皇帝でした。その数ある遠征の中で最も大規模だったのは北方の異民族、匈奴に対するもので、前漢は成立当初に劉邦自身が匈奴討伐に出たものの逆に散々に打ち負かされたことから、贈り物を送って友好関係を保つ融和策を採っていたのですが、この武帝はこうした関係に我慢ならず、匈奴内で内紛が起きていたこともあり一挙に討伐して制圧しようと考えたわけです。
匈奴に対する遠征は何度も行われ戦果も上々だったことから、最終的に匈奴は前漢に対して服従するようになるわけなのですが、今回取り上げる李陵はその数ある遠征のうちの一つに参加して軍功を上げております。彼が参加した遠征は当初、李広利という将軍が総大将となり李陵は後方支援こと補給に従事するように指示されたのですが、妹が武帝の妃となったことから将軍になった李広利の下に就くことを代々軍人出身の李陵は嫌ったのか、わずかな兵でもいいから別働隊を率いさせてほしいと願い出ます。この願い出は叶えられ、李広利は3万、李陵は5千の兵隊をそれぞれ率いて匈奴討伐に出発します。
こうして遠征に出たところ本隊の李広利の軍にではなく李陵の軍がいきなり数万もの匈奴の本軍と遭遇するのですが、圧倒的な兵力差がある中で李陵は見事な采配を示し、数に勝る匈奴を散々に打ち負かして撃退します。この時の大勝利は陳歩楽という武将が首都、長安に伝令して宮中は大いに盛り上がったのですが、手ごわい相手と見た匈奴はさらに兵力を増強して李陵軍に襲い掛かってきました。さしもの名将李陵でも数倍の敵軍相手に永遠と戦うことも出来ず、途中で矢玉も尽き、散々抵抗を行った上で匈奴に降伏しました。
これに怒ったのは短気で有名な武帝で、別に責任ないのに最初に勝利の伝令に帰ってきた陳歩楽を散々に責めて自殺に追い込み、あれほど善戦したのだから降伏したのも苦渋の上での決断だろうと、群臣全員が非難する中でただ一人だけ李陵を弁護した天文官も気に入らずに投獄しております。ただ本当の悲劇はそれからというべきか、李陵をして悲運の名将と呼ばれる出来事はその後も続きます。
李陵は降伏後、匈奴のボスに当たる単于に気に入られ部下として匈奴の軍隊を率いるように何度も誘いを受けますが、これを固辞していました。ただ李陵より先に匈奴に降伏していた李緒という人物がおり、漢軍に降伏した匈奴の兵が「李将軍の指揮で戦った」と証言したことから、李陵は降伏したばかりか裏切って漢軍に攻撃を加えていると誤解されてしまいます。これに怒ったのは短気で有名な武帝で、この報告を聞くや国内にいる李陵の一族を全員皆殺しにし、先に投獄した天文官に対しても追加とばかりに死刑を与えております。
よく三国志の曹操は三族皆殺しをしているけど、量といい回数といい、武帝など前漢の権力者の方がえぐい気がします。
この事実は後に誤報、つまり匈奴兵の言う「李将軍」というのは李陵ではなく李緒だということが長安にいる武帝たちにもわかるわけですが時既に遅く、刑はすべて執行されておりました。そして北方の地にいた李陵もこの事実を知り、事の原因となった李緒を殺害しております。ちょっと八つ当たりな気もしないでもないが。
その後、李陵も踏ん切りがついたというべきか失うものが何もなくなったからか匈奴の娘を娶り、匈奴の武将として活躍し右校王という地位にまで昇り、そのまま北方で亡くなったと言われます。
この李陵の悲運な運命は「山月記」で有名な中島敦が「李陵」という小説に書いておりますが、李陵と同時期に匈奴に囚われていた蘇武という外交官が最後まで従属せず、10年以上も厳しい環境に抑留された上で長安に帰国したエピソードと対比させ、文学的に言うならその運命の翻弄さを際立たせております。なお李陵と蘇武は匈奴の地で何度も会っており、李陵は蘇武に降伏を進めたものの頷かなかったことから陰ながら食料を送るなどして援助していたようです。
もう一人この李陵を語る上で外せない人物として、勘のいい歴史好きならもう気づいていることでしょうが、武帝に怒られて死刑判決を受けた例の天文官がおります。この天文官こそ江戸時代までの日本で使われていた「太陽太陰暦」という暦を作り、「史記」という歴史書を編んだ司馬遷その人です。
彼はどんだけ短気なんだよと問い詰めたくなる武帝の怒りを買って投獄、そして死刑まで受けますが、宮刑という屈辱的な刑罰を受けて宦官となることで死刑を免れています。当時の貴族こと士大夫層の間では宦官になるくらいなら死刑を受けた方がみんなマシだと思っていたようですが、司馬遷は父親の遺言である歴史書を完成させる使命を果たすため、恥を覚悟で宦官となる道を選んだと言われます。なお司馬遷の刑の執行後、さすがの武帝も自分の短気ぶりを反省してかわざわざ中書令という新たなポストを作って司馬遷を官界に復帰させております。本当に豆知識ですが、この中書令は日本で言うと関白みたいな仕事で、隋や唐の時代には実質的な宰相職になっています。
司馬遷は史記の中でもきちんと李陵について触れておりますが、李陵に関わる一連の事件は司馬遷のパーソナリティに大きな影響を与えたということは想像に難くありません。そもそも武帝に向かって敢然と李陵の弁護を行ったという事実からも司馬遷は直言居士というか我の強い人物だったと思われますが、やはりこの事件を受け、自分の力が及ばぬ運命に翻弄された人物に対して非常に同情的な目を持つに至ったと思えます。
詳しい人なら説明するまでもありませんが、史記というのは高い才能を持ちながらその力を発揮せずに没した人物が多数載せられており、それらに対して司馬遷は「時代に恵まれなかった」などと非常に同情的な批評を与えており、自身を投影した素振りがあります。敢えて言うなら史記は「敗者版プロジェクトX」、ガンダムで言うなら「MS IGLOO」の様な歴史書で、多分そんなんだから自分も大好きなんだと思います。自分もよく才能を発揮できていないと不遇をかこってますが、李陵や司馬遷に比べたら不平言ってる場合かよと毎回反省する次第です。
・李陵(Wikipedia)
中国史に興味を持って調べたことのある人、または相当な日本文学好きならきっとこの人のことを知っているでしょうが、それ以外の人はきっと誰も知らない人物でしょう。
この李陵という人は項羽を倒した劉邦が打ち立てた前漢の後期に出た人で、ちょうど紀元前1世紀頃に活躍した武将です。彼が活躍した時代の前漢の皇帝は武帝という人物で、それまで控えめともいえる外交方針をひっくり返しシルクロードに当たる西域や朝鮮半島などへ遠征軍を派遣し領土拡張を積極的に図った皇帝でした。その数ある遠征の中で最も大規模だったのは北方の異民族、匈奴に対するもので、前漢は成立当初に劉邦自身が匈奴討伐に出たものの逆に散々に打ち負かされたことから、贈り物を送って友好関係を保つ融和策を採っていたのですが、この武帝はこうした関係に我慢ならず、匈奴内で内紛が起きていたこともあり一挙に討伐して制圧しようと考えたわけです。
匈奴に対する遠征は何度も行われ戦果も上々だったことから、最終的に匈奴は前漢に対して服従するようになるわけなのですが、今回取り上げる李陵はその数ある遠征のうちの一つに参加して軍功を上げております。彼が参加した遠征は当初、李広利という将軍が総大将となり李陵は後方支援こと補給に従事するように指示されたのですが、妹が武帝の妃となったことから将軍になった李広利の下に就くことを代々軍人出身の李陵は嫌ったのか、わずかな兵でもいいから別働隊を率いさせてほしいと願い出ます。この願い出は叶えられ、李広利は3万、李陵は5千の兵隊をそれぞれ率いて匈奴討伐に出発します。
こうして遠征に出たところ本隊の李広利の軍にではなく李陵の軍がいきなり数万もの匈奴の本軍と遭遇するのですが、圧倒的な兵力差がある中で李陵は見事な采配を示し、数に勝る匈奴を散々に打ち負かして撃退します。この時の大勝利は陳歩楽という武将が首都、長安に伝令して宮中は大いに盛り上がったのですが、手ごわい相手と見た匈奴はさらに兵力を増強して李陵軍に襲い掛かってきました。さしもの名将李陵でも数倍の敵軍相手に永遠と戦うことも出来ず、途中で矢玉も尽き、散々抵抗を行った上で匈奴に降伏しました。
これに怒ったのは短気で有名な武帝で、別に責任ないのに最初に勝利の伝令に帰ってきた陳歩楽を散々に責めて自殺に追い込み、あれほど善戦したのだから降伏したのも苦渋の上での決断だろうと、群臣全員が非難する中でただ一人だけ李陵を弁護した天文官も気に入らずに投獄しております。ただ本当の悲劇はそれからというべきか、李陵をして悲運の名将と呼ばれる出来事はその後も続きます。
李陵は降伏後、匈奴のボスに当たる単于に気に入られ部下として匈奴の軍隊を率いるように何度も誘いを受けますが、これを固辞していました。ただ李陵より先に匈奴に降伏していた李緒という人物がおり、漢軍に降伏した匈奴の兵が「李将軍の指揮で戦った」と証言したことから、李陵は降伏したばかりか裏切って漢軍に攻撃を加えていると誤解されてしまいます。これに怒ったのは短気で有名な武帝で、この報告を聞くや国内にいる李陵の一族を全員皆殺しにし、先に投獄した天文官に対しても追加とばかりに死刑を与えております。
よく三国志の曹操は三族皆殺しをしているけど、量といい回数といい、武帝など前漢の権力者の方がえぐい気がします。
この事実は後に誤報、つまり匈奴兵の言う「李将軍」というのは李陵ではなく李緒だということが長安にいる武帝たちにもわかるわけですが時既に遅く、刑はすべて執行されておりました。そして北方の地にいた李陵もこの事実を知り、事の原因となった李緒を殺害しております。ちょっと八つ当たりな気もしないでもないが。
その後、李陵も踏ん切りがついたというべきか失うものが何もなくなったからか匈奴の娘を娶り、匈奴の武将として活躍し右校王という地位にまで昇り、そのまま北方で亡くなったと言われます。
この李陵の悲運な運命は「山月記」で有名な中島敦が「李陵」という小説に書いておりますが、李陵と同時期に匈奴に囚われていた蘇武という外交官が最後まで従属せず、10年以上も厳しい環境に抑留された上で長安に帰国したエピソードと対比させ、文学的に言うならその運命の翻弄さを際立たせております。なお李陵と蘇武は匈奴の地で何度も会っており、李陵は蘇武に降伏を進めたものの頷かなかったことから陰ながら食料を送るなどして援助していたようです。
もう一人この李陵を語る上で外せない人物として、勘のいい歴史好きならもう気づいていることでしょうが、武帝に怒られて死刑判決を受けた例の天文官がおります。この天文官こそ江戸時代までの日本で使われていた「太陽太陰暦」という暦を作り、「史記」という歴史書を編んだ司馬遷その人です。
彼はどんだけ短気なんだよと問い詰めたくなる武帝の怒りを買って投獄、そして死刑まで受けますが、宮刑という屈辱的な刑罰を受けて宦官となることで死刑を免れています。当時の貴族こと士大夫層の間では宦官になるくらいなら死刑を受けた方がみんなマシだと思っていたようですが、司馬遷は父親の遺言である歴史書を完成させる使命を果たすため、恥を覚悟で宦官となる道を選んだと言われます。なお司馬遷の刑の執行後、さすがの武帝も自分の短気ぶりを反省してかわざわざ中書令という新たなポストを作って司馬遷を官界に復帰させております。本当に豆知識ですが、この中書令は日本で言うと関白みたいな仕事で、隋や唐の時代には実質的な宰相職になっています。
司馬遷は史記の中でもきちんと李陵について触れておりますが、李陵に関わる一連の事件は司馬遷のパーソナリティに大きな影響を与えたということは想像に難くありません。そもそも武帝に向かって敢然と李陵の弁護を行ったという事実からも司馬遷は直言居士というか我の強い人物だったと思われますが、やはりこの事件を受け、自分の力が及ばぬ運命に翻弄された人物に対して非常に同情的な目を持つに至ったと思えます。
詳しい人なら説明するまでもありませんが、史記というのは高い才能を持ちながらその力を発揮せずに没した人物が多数載せられており、それらに対して司馬遷は「時代に恵まれなかった」などと非常に同情的な批評を与えており、自身を投影した素振りがあります。敢えて言うなら史記は「敗者版プロジェクトX」、ガンダムで言うなら「MS IGLOO」の様な歴史書で、多分そんなんだから自分も大好きなんだと思います。自分もよく才能を発揮できていないと不遇をかこってますが、李陵や司馬遷に比べたら不平言ってる場合かよと毎回反省する次第です。
登録:
投稿 (Atom)