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2013年10月6日日曜日

韓国の近現代史~その二十七、まとめ

 唐突ですが、今回を以って長く続いたこの韓国の近現代史に関する連載をいったん終了させようかと思います。前回ではいろいろとダメダメだった盧武鉉政権について書きましたが、次の李明博政権だとまだ評価も定まっていないし、別枠で資料読み込んで書いた方がいいと思うのでそろそろ切りがいいのではと思うに至りました。そこで最終回(また続き書くかもしれないけど)の今回は、これまで折ってきた韓国の近現代史をみて私が感じたことをありのままに書こうかと思いおます。

 まず最初に言いたいことは、これは連載を始める前からも意識しておりましたが韓国人と日本人の絶対的な意識の違いです。これは文化とかそういうのではなく政治弾圧に絡む民主主義意識、ひいては政治意識に対するもので、この辺のギャップが両国間で誤解を生む要因の一つになっているように思います。

 率直に言って韓国人の政治意識は非常に高いと言わざるを得ません。というのも盧泰愚政権までの韓国は実質的な軍事政権下にあり、自由な政治活動はおろか夜間の外出までも厳しく制限されておりました。そして選挙においては政権側の猛烈な弾圧があり、自由主義者の暗殺はおろかデモ隊への発砲すらも日常茶飯事だったこともありました。そんな時期がわずか30年くらい前、つまり1980年代まで韓国は続いております。
 それに対して日本はというと、そのような強烈な政治弾圧は二次大戦の時期までで終戦後はあくまで一応は自由な政治活動が許されてます。この間、1945年からだから約70年で、韓国とは40年くらいのギャップがあります。言ってしまえば、韓国の人はまだ自由を求めて政治闘争をした熱が冷めておらず、それ故に国民全体でまつりごとに対して熱くなりやすいのではないかという気がします。それに対して日本はどこか冷めているという態度を持つのでこの辺の感覚が互いに理解しきれていないのではないかというのが私の意見なのですが、長期的には韓国も今後は冷めてくるように思えるので、徐々にこのギャップは埋まるのではないかという楽観的な見方を立ててます。

 同じく政治に関する意見ですが、やはりこうして韓国の近現代史を追ってみると朴正煕の影響力が未だに強いというか、韓国におけるすべての政治軸になっているのではないかと思います。言うなれば韓国の政治史というのはある時期を境に「朴正煕的」か「非朴正煕的」の二者択一になっており、未だに朴正煕を超えるグランドデザインを示す政治家が出ていないのではないかと思います。
 もうちょっと解説すると朴正煕的なものは親米反北朝鮮、そして国家主導の経済運営であり、反朴正煕的なものはこれらと真逆な方向軸です。もっとも日本もあれこれ言う人がいますが、突き詰めれば親米か反米かで全部峻別できてしまうのですが、国家の具体像に関しては「東洋の経済大国」から脱して「モノづくり大国」、「ポップカルチャーの国」、「反中国」などとそこそこ幅広くなってきた気がします。
 一方、韓国ですが、単に私が不勉強なだけかもしれませんが朴正煕の頃からまだ動いていないというか、「日本の経済に追いつけ」、「米国とは微妙な距離感」、「北朝鮮とは戦争にならないように」で未だにずっと続いている気がします。先程にも書いたように、韓国をどんな国にするのかそういうグランドイメージを作れる政治家が致命的なまでに不足しているのではないかという気がしてなりません。

 最後にもう一点だけ付け加えますが、韓国は恐らく日本よりも民主主義が浸透している国だという気がします。ただ民主主義というのは完全無欠のシステムではなくほかの独裁制や王制に比べてマシだからみんな使うだけのシステムにほかなりません。そのため民主主義が浸透し過ぎているが故の弊害もあり、言ってしまうと盧武鉉政権なんかその典型でしょう。
 今現在は朴槿恵政権ですが、正直に言って私は彼女の言動などを見ていると資質的にいかがなものかとよく思います。特に存命時の金正日と直接会って会談した事実などは看過できない失点のように思え、それでも大統領になれる韓国の民主主義は立派なものだと思うのと同時に、先行きに一抹の不安を覚える次第です。

韓国の近現代史~その二十六、盧武鉉政権

 今回は珍しく間の短いこの連載の更新。そろそろラッシュかけて終わらせないといけないし。

 さて前回ではネットを発端に妙な人気が出たことから棚ぼた的に盧武鉉が大統領に就任したところまで紹介しましたが、今日はそんな盧武鉉政権期(2003年~2008年)についてあれこれ書いてこうと思います。この時期は時代的にも非常に近くよく覚えている方もいらっしゃるかと思いますが、「あんなこともあったね」と思いだすような感じで呼んでくれればいいと思います。それにしても、次の李明博政権よりも盧武鉉政権の話のが印象強いから記憶にも良く残っている気がするな。

 まず盧武鉉政権に対する現代の評価ですが、国内、国外を問わず非常に低いということは間違いないでしょう。これほどまでに悪い評価で一致している国家元首も珍しいんじゃないかな。
 なんでそんなに評価が悪いのかというと言ってしまえば内政、外交ともに混乱を招いたからです。国内ではそれ以前からも進んでいたものの新自由主義へとさらに舵を切って貧富の格差を大きく増大させ、国外では日本はもとより米国とも関係を大きく悪化させた上に中国とも微妙な距離を作ってます。今思えばですが、日韓の国民感情が決定的に悪くなったのはこの時期を境にしているんじゃないかとすら思えます。

 もう本当にどこから書いていいものかといろいろ疲れてくるのですが、まず就任当初に関しては非常に高い支持率からスタートしました。その要因というのも既に書いているようにネット上でなんか人気に火がついたということもありますがそれともう一つ、盧武鉉が反米路線を強く打ち出していたからです。前回の記事でも書きましたが大統領選の最中に在韓米軍が韓国の女子中学生を戦車で轢き殺す事件が発生しており、韓国国内では反米感情が非常に高まっておりました。
 その最中で盧武鉉はいち早くというか、米国に対して強い態度で臨むと言うなど反米路線を明確にだし、勢い余ってというかそれもキャラなのか、「(自分が)反米主義でなにか問題でも?」というような発言をしたそうです。こうした路線は韓国国内では非常に高く評価されたのですが、当の米国としてはもちろん面白くありません。

 その結果というべきか、盧武鉉が大統領に就任して対米外交を始めようとするも米国からはにべない態度を取られ続け、当時のブッシュ米大統領の態度も非常に冷たかったらしいです。もちろん韓国政府にとって米国との外交関係は北朝鮮関係も絡んで非常に重要なだけになんとか関係の修復を図らなければならなければならず、その結果というかイラクに韓国軍を派遣することを盧武鉉もあっさり認めちゃいます。
 その結果というべきか、あれだけ反米を主張していたのにすぐに折れちゃったもんだから韓国国内からは非難轟々。弱腰外交だなどと批判され支持率も見事に急落します。一方、そうやって国内の支持を犠牲にしてでも取り持った米国との関係ですが、その後北朝鮮に対して擁護し、融和政策を採り続けたことによってタカ派のブッシュ政権は気を悪くし、政権末期まであまりいい状態を保つことはできませんでした。

 対日関係についてもまぁ大体似たようなもので、それまでの韓国大統領は国内での支持獲得のため国内向けに反日を主張することはあっても海外向けの情報発信では日本批判をまだ抑えていましたが、これが盧武鉉政権となると全く配慮がなくなります。むしろ海外記者向けの記者会見などで竹島問題、靖国問題でかなり激しく日本批判を行っており、そうした様子を見る日本人もあまりいい感情を持たなかった気がします。

 そのように一応の同盟国との関係は冷やすだけ冷やした一方、敵国であるはずの北朝鮮に対しては今の私から見ても異常なほどに擁護する姿勢を保ち続けました。前任の金大中政権の頃から韓国では太陽政策と言って北朝鮮に対して融和的な態度を取る外交方針を取っておりましたが盧武鉉政権時にはこれがさらに強化され、北朝鮮がミサイルを発射しようが、核実験実施を発表しようが6ヶ国協議などでは一貫して擁護する発言を行い、食料支援などもずっと実施し続けました。しかしこれらの政策は現代の北朝鮮を見るに効果を上げていたとは言えず、いいように使われていただけとしか言えないと私は思います。

 これら盧武鉉政権期の外交を見る限りだと、どうも盧武鉉は自分に正直というか、政治家に必要な本音と建前を分けることが出来ない人間だったのではないかと私は見ています。自分が嫌いな米国や日本に対してはそのまんま嫌いだと言ってのけて、逆に親近感を持つ北朝鮮に対しては利益度外視で援助し続けるといった具合で、国家的利益よりも自身の主義概念を悪い意味で貫いく人物だったように思えてなりません。

 内政においては就任当初から議会では野党が多数派というねじれ国会であったこともあり、任期中に一度、議会で大統領職の弾劾請求通過して一時的に辞職するなど同情すべき状況は見られます。しかし5年の政権期間中に野党対策で打開策を一切見いだせず、また首都をソウルから移転するという計画を発表したものの反対を受けて中止するなどといったところから見るとやはり批判点が多く、特に政権後半では主要閣僚の人事が二転三転するなど完全なレームダックに入っていることからも一国のリーダーとしては向いてなかったのでしょう。終いには金泳三元大統領からも、「(盧武鉉を)政治家にしてしまったのは間違いだった」とまで言われてしまうし。

 なんか悪口ばっかり書いててだんだん自分も申し訳なくなって来るほどなのですが、韓国国内では一時期、何か悪いことがあると「盧武鉉は何かしたのか?」といってなんでもかんでも彼のせいにする言葉遊び、「盧武鉉遊び」というのが流行したほど不人気だったので、大きく間違った分析じゃないんじゃないかと思います。

 ただこう書いていてなんとなくダブるというか、同じようなのがちょうど日本にもいたよなぁってつくづく思います。言うまでもないでしょうがそれは鳩山由紀夫元首相で、盧武鉉政権が5年も続いたのに対してまだこっちは1年で済んだからマシだったのかもと前向きに考えたいものです。

2013年9月30日月曜日

韓国の近現代史~その二十五、ノサモ

 また前回から大分日が立ってしまっての連載再開です。このところ落ち着いて記事書くこと出来ないから思い付きで書くことも増えてるしなぁ。

 なわけで簡単に前回までのあらすじを書くと、前回では金大中政権時にあったということから日韓ワールドカップを取り上げました。このワールドカップがあった2002年、韓国では金大中の後継を巡る大統領選挙が行われ今回お題に挙げた「ノサモ」という、次に大統領となる盧武鉉を応援するネット上のファンクラブの存在が大きく注目されました。

 この年に与党であった韓国民主党は大統領選に向け、党内で候補を一本化するために予備選挙を実施しました。この予備選挙に立候補したのは盧武鉉を含む7人で、この時点で盧武鉉は他の候補者に比べて実績も経験も少なく、泡沫候補と言っても差し支えありませんでした。
 そんな盧武鉉に追い風が吹いたのは数年前から爆発的に利用者の増えていたインターネットがきっかけでした。盧武鉉はそれまで国会議員選挙などで何度か落選を経験していましたが、何度も落選しながらあきらめずに再選を目指し、果たした姿がネット上で評価され始め、「盧武鉉を応援しよう」という主張がネット上で徐々に広まり、そうした支持層のことをいつしかノモサと呼ぶようになってきます。

 ノモサの主な構成員はいわゆる386世代と呼ばれる「30代 の80年代大学卒業60年代生まれ」で、日本風に言えば「団塊の世代」に当たる層です。386世代は学生時代に民主化運動などを経験しており思想的にも民主的、平等主義を掲げる傾向が強いことからあくまで一意見ですが日本の団塊の世代と思想的にも近いように思えます。ともかくこうしたネット上の呼び声が徐々に広まり、泡沫候補から一転して盧武鉉は予備選に勝利し、この一連の盧武鉉ブームのことを韓国では「盧風(ノブン)」等と形容されているそうです。

 こうして民主党の統一候補となった盧武鉉は、本番の大統領選で野党ハンナラ党の李会昌と一騎打ちを迎えます。当時の情勢はどちらかというと盧武鉉側にとって不利な状況だったそうですが、大統領選の直前に韓国で米軍戦車によって女子中学生が踏みつぶされるという痛ましい事故が起こり、またも情勢は一変します。
 この辺でなんとなく日本の沖縄の事件が連想されるのですが、この時の米兵の逮捕や裁判を巡って米韓関係は悪化し、当時のブッシュ大統領も声明を出すなど事態の鎮静化を図りますが韓国の対米感情は良くなるどころかますます悪くなり、こうした状況が親米路線の与党ハンナラ党への支持に陰りを与えます。

 最終的な結果ではわずか約57万票という僅差で盧武鉉が勝利し、次期大統領職の座を射止めます。こうして改めてみると盧武鉉はタイミングがいいというか情勢の空気にうまく乗っかることが出来たという運の良さが目立つ気がします。それだけに、資質面は放っておかれたのかもなっていう事で、次回ではある意味で非常に印象の強かった盧武鉉大統領についてあれこれ語ってこうと思います。

2013年9月14日土曜日

韓国の近現代史~その二十四、日韓ワールドカップ

 先週一週間は左耳が痛かったりするなど神経的にしんどい日々が続きましたが、一昨日にNexus7が届いてからやや元気になりました。もちろんNexus7のおかげというより、ようやく体とか神経が整ってきたからだろうけど。
 さてなんかなかなか終わらないこの韓国の近現代史の連載ですが、前回で金大中政権時における南北首脳会談をやったのでもう一気に盧武鉉政権に移ろうかなとも思いましたが、日本とも関わりがあるし2002年の日韓ワールドカップについてちょっと書いてみようかと思います。ついでに対日関係も追えるわけだし。

 まず金大中政権時における日韓関係ですが、あくまで私の目から見た感じだと比較的穏やかだったと思います。朴正煕以降の軍事政権下の韓国では政府が率先して対日批判を行っていましたが金泳三政権になってからは実を得るというか、日本の音楽やドラマの放送が徐々に解禁されるなど実態はどうあれ政策的には雪解けが進められました。

 こうした対日方針は次の金大中政権にも受け継がれております。また金大中自身が日本でKCIAに拉致られるなど日本とも縁の深い人物であったことから日本人の間でも彼の名をよく覚え親近感を持っていた人が多かったように思え、今でも覚えているものとして現在も放送が続けられている「さんまのからくりTV」における「ファニストイングリッシュ」というセイン・カミュがメインのコーナーでのある床屋さんのコメントがあります。
 その床屋さんは当時、SMAPのキムタクこと木村拓哉氏が人気になってロンゲ(これももはや死語だが)が流行り、床屋に来るお客さんが減っているという事を話して、それを英語で言うように指示されると、「I dislike タムキク!」と言って、「それじゃ『キクタム』になって名前が違うよ」と指摘されると照れ隠しに、「I like キムデジュン!」と言い直しておりました。ほんとよくこんなくだらないことを覚えているもんだ。

 そんな昔話は置いといて話を進めますが、私の目から見ても金大中は国内の突き上げを受けつつも日本に対する配慮はある程度図ってくれたと思います。ただついていないというか彼の在任期間中にちょうど日本も対韓批判が始まり、主だったものを挙げると「つくる会の歴史教科書問題」や小泉首相の靖国参拝などですが、インターネットも発達したことも契機となり私の印象だとこのあたりの頃から明確に韓国を嫌う層が増えていったような気がします。
 ただそのように徐々に両者の感情が悪化していった中、2002年のWカップは日韓による共催で開かれます。目立った絡みこそなかったものの両国間で世界中のスーパースターが集まり、毎日お互いの国の大戦状況など報じられたことから関係改善という意味では一定の効果があったかと思います。逆を言えばこの時を区切りに日韓関係はその後、ずっと悪化していくこととなるわけなのですが。

 ちなみに私はこのWカップの時に高校生でしたが、当時は学校の授業が終わると試合を見ようと急いで帰宅する生徒が周りにもいました。ただそんな中で物凄いサッカー好きの友人は何故か泰然自若として帰宅する様子がなかったのでどうしたのかと聞いてみたところ、「試合は既に録画予約している。僕は国歌斉唱のシーンから見ないと気が済まない」と風格ある発言をかましてきてくれました。なおその友人は小学生の頃に家出した際、唯一家から持っていったのはサッカーボールで、家に帰るまで公園でずっとリフティングしていたという強者です。

2013年8月29日木曜日

韓国の近現代史~その二十三、南北首脳会談

 前回記事から金泳三から金大中政権へと時代が移りましたが、金大中政権で特筆すべきはその外交政策こと太陽政策でしょう。この太陽政策とはなんなのか簡単に説明すると、それまでの韓国にとって不倶戴天の敵と言ってもいい北朝鮮に対して文化交流や経済支援を行っていくことによって融和ムードを作るという、グリム童話の「北風と太陽」に例を採った政策を指します。

 具体的な政策としては北朝鮮内にあるケソン工業団地への韓国企業の進出、資金や食料支援、離散家族の再会事業などがありますが、これらの政策目的は南北統一というよりも極端に広がってしまった南北の経済格差を埋めるということが主目的だったと思います。現状でもそうですが仮に韓国と北朝鮮が統合された場合、極端に遅れた北朝鮮のインフラ整備が大きな経済負担になるのは目に見えており、どうせ北朝鮮はいつか自滅するのだからそれまでに格差を埋めようっていうのが本音でしょう。
 とはいえ太陽政策は北朝鮮にとっても都合がよく、韓国に対する態度は一時期と比べればこの時期は随分と軟化したと私も見ております。その最たる例が今回取り上げる南北首脳会談で、金大中をノーベル賞受賞に導いた一発です。

南北首脳会談(Wikipedia)

 韓国と北朝鮮の首脳同士による初の会談は2000年6月、両国の協議によって実現しました。会談は韓国側の金大中大統領が赴く形で平壌にて行われましたが、あまり表に出ないことで有名だった金正日総書記もメディアの前で笑顔を見せるなどして南北統一に大きな期待感が高まりました。

 当時の状況ですが実はよく覚えていて、確か会談数日前になって突然北朝鮮側が日程延期を申し出ていたはずです。当時の専門家によると会談予定を変更することでイニシアチブを握ろうとする北朝鮮の策略だと指摘されましたが、韓国側もこの延期を了承し、見えるところでは目立った混乱はありませんでした。韓国側メディアも、「歴史的な日が一日延びただけだ」と言ってたし。
 あと印象に残った発言として、平壌を泊まり込みで訪れた金大中大統領に対して金正日が「こっち(平壌)の環境はどうだ」と聞いて、「冷麺がおいしい」と金大中が答えると、「冷麺は一気に食べるとよりおいしく食べれますよ」などと金正日が応答していたのを覚えています。なんでこんなやり取りを覚えているのかが一番不思議ですが。

 会談自体は6月13~15日の間に開かれ、期間中は特に大きな混乱もなく東西ドイツの様に近朝鮮半島も統一されるのではないかという期待感が世界中に現れました。もっとも北朝鮮側としては統一に動く気なぞ全くなく、韓国からの援助を受け取るためにこれらのムードを利用したのが実情であるように思え、この会談の後に米国でブッシュ政権が生まれ「悪の枢軸」に指名されてからはそれ以前より先鋭化していくこととなります。

 最後に、金大中はこの南北首脳会談で先ほども書いた通りにノーベル賞を受賞しますが、そのつけは決して安くはありませんでした。階段から三年後の2003年、会談の直前にヒュンダイグループから北朝鮮に対して5億ドルもの不正送金がなされていたことが明るみに出ます。この送金は韓国政府から会談に応じた北朝鮮への謝礼とみられていましたが、後の盧武鉉政権が捜査を揉み消したことによって真相解明はなされていません。もっとも揉み消したほどだったのだから図星だったのでしょうけど。

2013年8月14日水曜日

韓国の近現代史~その二十二、IMF事態

韓国のIMF救済(Wikipedia)

 前回の予告通り、今回は現代韓国の始まりともいえるIMF事態を紹介します。ただ紹介すると言っても、この項目だけで本一冊かけるくらい肉厚な内容なので、あくまで素人としてわかる範囲をかいつまんで書いてこうかと思います。

 事の起こりは1997年の8月、タイの通貨であるバーツが暴落したことを皮切りに起こったアジア通貨危機がきっかけです。このアジア通貨危機は日本は直接的な影響を受けなかった(間接的には大きい)ために事件当時はあまり報じられてませんでしたが、タイを始めとして韓国やフィリピン、マレーシアなどの国々では通貨価値が大きく下落し、輸出入の面で大きく経済が混乱しました。
 折しも韓国ではそれまで続いていた高い経済成長が終わり、調整期に入ろうとしていた時期でした。そこへこのアジア通貨危機の波が起こり銀行や企業の間では不良債権が一気に焦げ付き、財閥系企業でも倒産に追い込まれるなど、私の目から見ても空気ががらりと変わった印象を覚えます。

 具体的にこの時の韓国で何が起きていたのかというと、最近の例だと国家破綻したギリシャの様な事態に陥っていました。あまりこの辺の話は得意じゃないのですが、当時の韓国はウォンが大幅に下落して外貨がほとんどなくなった上、国内経済も大混乱となったことから、日本やアメリカから借りていた借金(対外債務)を返済期限が間近に迫っているにもかかわらず返せなくなるような状態だったそうです。
 もちろん、返せなかったらそこで試合終了ならぬ国家破綻となるので、韓国政府としても日本やアメリカに返済期限を延ばしてもらうよう交渉するとともに、各国や国際機関へ資金援助を申し出て、最終的にIMF(国際通貨基金)から資金支援を受ける代わりに国内の経済政策をIMFに一任するということとなるわけです。

 私は実際にこの時、どんな状況だったのか知り合いの韓国人留学生に尋ねてみましたが、桁違いの不況で誰もが暗い顔をしており、思い出したくないほど暗い時代だったと話していました。実際、この時期に韓国企業の間ではリストラ、給与カットの嵐が吹き荒れ、失業率なども大幅に上昇していることから社会空気も沈んでいたことでしょう。またそれとともに国の経済政策を自分たちで決められずIMFに一から十まで指導されるという、プライドが高いと言われる韓国人じゃなくても納得できないような気分になると思います。

 なおこの時のIMFの指導によって韓国は徹底的にグローバル化、言い方を変えればアメリカにとって都合のいい経済体制に変えられたという主張をよく見ます。ただ実際に私自身が韓国現地で調べたわけではないし、それ以前の金泳三政権時代にもグローバル化が図られていたとも聞くので、本当にその通りなのかとやや疑問に感じる点はあります。ただ少なくともいえることは、国を挙げて外国人観光客の誘致活動を行ったり、サムスンなど財閥企業に集中支援したりするなど、国民生活を犠牲にしても二度と国家破綻させてはならないというような韓国の覚悟というものはこの時代に作られたような気はします。

 もう少しトピックを絞ってこのIMF事態について述べると、この時期に韓国企業ではリストラが繰り広げられたのですが、その際に真っ先に切られたのは若手社員だったそうです。儒教的な価値観からそうなったなどと言われておりますが、結果的にこの時期から若年層の失業率が異常に高まり、今に至るまで若者の貧困が韓国では社会問題となっております。

 またIMFの救済が決まったのは1997年12月ですが、それから三ヶ月後の1998年2月に大統領が金泳三から金大中に交替しており、政治的にもちょっと荒れていた時期ともいます。金泳三と対立していた金大中が大統領選に勝利した背景にはこのIMF事態を招いた責任として金泳三に批判が集まっていたことも影響したと言われていますが、就任早々に国家破綻のような事態を経験した金大中も大変だったと思えます。

 あと韓国の企業関連で話をすると1997年10月には起亜自動車が経営破綻をしました。それまで韓国の自動車市場は起亜自動車と現代自動車の二社が凌ぎを削っておりましたが、この時の経営破綻を契機に起亜自動車は現代自動車の傘下に収まり現在のように至るわけです。
 起亜自動車以外の大型破たんとなると、サムスングループに継ぐ韓国第2位の財閥であった大宇グループがこの時期に破綻し、解体の憂き目にあっています。大宇グループの会長だった金宇中は破綻の直前に日本円にして5兆円もの資金を持って外国に逃亡し、2005年に帰国した際に逮捕されていますが、自国の人間じゃないから言えるのかもしれますがスケールのでかい人物だなと妙に感じます。

2013年8月4日日曜日

韓国の近現代史~その二十一、金泳三政権時代

 このところテンションが落ちてて更新頻度が落ちておりますが、まだ一応気力は保っております。色々プライベートで立て込んでいるのはもとより、また妙なサイトを作り始めたというのが主な理由です。

 話は本題に入りますが、また韓国の近現代史の連載です。前回ではソウル五輪を目の前にして軍事政権が民主派勢力との妥協を行ったことから大統領の直接選挙制、そして民主化の実現に至るまでの流れを書きましたが、今回はこうした流れを受けて成立した金泳三大統領の時代について紹介します。

金泳三(Wikipedia)

 先に一つだけ書いておくと、韓国の大統領経験者はその誰もが在任中に暗殺されたり亡命したりして、退任後も在任中の不正疑惑について追及を受けて投獄されたりなどとあまりいい晩節を送ることがありません。極めつけは二代前の盧武鉉元大統領で、この人に至っては捜査が進められていた最中に自殺しています。ただそんな韓国大統領の中で今日紹介する金泳三は例外的で、今の所は特別な背任容疑などで捜査を受けることもなく無事に生きております。なんでもないようなことが幸せなんだと思う生き方です。

 そんな昔の歌のフレーズを口ずさみつつ解説を始めますが、彼の来歴を簡単に説明すると軍事政権時代から金大中と共に一貫して民主化を主張し続け活動してきた政治家です。ただ政治スタイルは同じ民主派でありながらライバルでもあった金大中が原理原則を重視する立場であったのに対し、前任の盧泰愚政権時代には連立政権に参加するなどやや現実的な政治スタイルを実行していたように私には思えます。その上で金銭に関しては非常にきれいだったというか、大統領に就任するや余計な経費を大幅に削減し、汚職に対して厳しい捜査で臨み官僚や裁判官、警察官僚を片っ端から辞任させるなど清廉な姿勢をみせております。
 また盧泰愚や全斗煥といった軍事政権下の大統領経験者に対しても厳しい姿勢で臨み、両者ともに在任中の政治弾圧や贈賄といった容疑で逮捕し、全斗煥に対しては死刑判決まで下りております。ただ韓国でよくわからないと私が思うところなのですが、全斗煥は後の金大中政権下で特赦を受けて死刑執行を免れております。他にも特赦を受ける人が韓国ではやけに多いのですが、司法制度として如何なものかと外野にいながらですがよく思います。

 話は戻りますが、こうした過去の清算と政治改革を進めるとともに金泳三政権が手を付けたのは韓国経済のグローバル化推進です。私はてっきりこの後に起きるアジア通貨危機を経て韓国はグローバル化に邁進したかと思っていたのですが、実際には金泳三政権下で米国流に習う形で進められておりました。
 その成果というべきか、今の時代では死語ですが当時は「アジアNIEs」の一角に数えられただけあって下記の通り非常に高いGDP成長率を記録しております。

<韓国の90年代のGDP成長率>(引用元:世界経済のネタ帳
1990年:9.30%
1991年:9.71%
1992年:5.77%
1993年:6.33%
1994年:8.77%
1995年:8.93%
1996年:7.19%
1997年:5.77%
1998年:-5.71%
1999年:10.73%
(金泳三の大統領在任時期は1993年2月から1998年2月まで)

 見てみればわかる通りに、金泳三時代には8%超の成長率も記録しており去年の中国のGDP成長率より高かったりします。ただ退任直後の98年は前年に発生したアジア通貨危機によって一転してマイナス成長を記録しており、この遠因は金泳三が推し進めたグローバル改革が影響しているとの意見も少なくありません。

 こうした経済政策のほかに彼の在任中の大きな出来事を語ると、外交においては北朝鮮で金日成が死去して金正日が正式な指導者に交代し、一時緊張が高まりました。また対日外交に関しては今も続くように、恐らく国内政策のために対日批判を行っておりますが、日本の記者団とは日本語で取材に応じるなど一応表と外は分けてくれていたそうです。
 最後に金泳三の現在の韓国国内の評価ですが、やはりアジア通貨危機を招いた張本人であるとして高くないそうで、これに関しては私も批判されざるを得ない失政だったと思います。ただこの後の民主派大統領の金大中、盧武鉉に比べると時代に恵まれたということもありますが、比較的無難な政治運営だったとして大統領としての能力についてはそこそこまともだったのではないかとも考えています。

 そんなわけで次回はいよいよというか、現代韓国を語る上で切っても切れないアジア通貨危機とIMF事態を紹介します。

2013年7月23日火曜日

韓国の近現代史~その二十、民主化宣言

 前回までに全斗煥政権期における北朝鮮の国際テロ事件を取り上げました。こうしたテロ事件が頻発した中で全斗煥政権はソウル五輪の招致に成功するのですが、全斗煥本人は1988年に大統領任期が切れ、後任に士官学校で動機であった盧泰愚を指名し、院政を敷こうと考えていました。しかし彼が院政を敷く前に韓国では再び大規模な民主化運動が起こり、その結果として朴正煕政権以来(李承晩期も含んでいいが)続いていた軍事政権が崩壊することとなります。

 まず韓国の民主化運動についてですが、はっきり言って非常に長い歴史があります。現代にも伝わる流れとしては朴正煕政権時代に民主化を求めて金泳三、金大中が活発に活動していたのでこの辺りから見るべきかなと考えるのですが、民主化運動というのは言い換えれば政府の政治弾圧の歴史と言ってもよく、光州事件など死傷者が多数出る事件にもしょっちゅう発展しています。しかし死傷者が多数出ながらも韓国ではなかなか民主化へと至らなかったのですが、全斗煥政権期に起きたいくつかの変化が大きく作用して軍事政権は倒れることとなりました。

 その変化というのは主に二つあり、一つは中間層の拡大と、もう一つはソウル五輪です。全斗煥は国内で大衆政策と共に経済振興を実施したので生活に余裕のある中間層が韓国でも増えていきました。これら中間層はそれまで大学生が主体だった民主化運動に加わるようになり、なまじっか経済の担い手でもあるため政府としても対応に苦慮したと言われます。
 次のソウル五輪ですが、度々政治デモが起こっていたことから当時、五輪開催は難しいのではと思われて場合によってはロサンゼルスで代理開催を行うことまで議論されたそうです。政権側としても国家のメンツのかかったイベントであるだけにデモの鎮静化が最優先課題となったわけなのですが、こうした中で妥協案として出てきたのが民主化宣言です。

 朴正煕政権以来、韓国の大統領は軍部の息のかかった人間の投票によって決められる間接選挙制で選ばれていたのですが、盧泰愚はこれを国民の投票による直接選挙制に改めると宣言することで妥協を図りました。結果としては上手く作用してデモは鎮静化し、ソウル五輪も無事開催できたわけなのですが、問題なのは次の大統領選。案の定というか全斗煥の跡目を争う1987年の選挙では民主派の代表格である金泳三と金大中が出馬して来て盧泰愚とぶつかり合ったのですが、皮肉なことに民主派の票が金泳三と金大中の二人に別れてしまい、漁夫の利的に盧泰愚が当選しました。人間やってみるもんだね。

 ただ議会選挙では民主派が保守派に勝利したことから盧泰愚は金泳三陣営と連立を組み、議会においては民主制が先に実現しました。そして1992年の大統領選挙で金泳三が今度は無事に当選し、32年間続いた韓国軍事政権は終わりを告げることとなったわけです。

 私個人の歴史観で言えばここまでが韓国の近代史であって、金泳三政権以降が現代史になると考えております。というのも民主主義大統領が生まれて徐々に国の政策も開放的になり、行ってしまえば他の資本主義国に韓国が明確に近付いたのがこの時期だからではないかと思うからです。
 そういうわけで次回は、退任後も変な不正疑惑が付きまとわない珍しい韓国大統領経験者の金泳三の時代を取り上げます。

2013年7月12日金曜日

韓国の近現代史~その十九、大韓航空機爆破事件

大韓航空機爆破事件(Wikipedia)

 前回取り上げたラングーン事件とは異なり、こちらは日本でも非常に有名な事件なのでほとんどの方は知っていると思います。

 簡単に私の方から事件の概要を説明するとまず事件が起きたのは1987年で、ソウル五輪の開催を控えた前年でした。事件当日、イラクのバグダッド空港を出発した大韓航空所属のボーイング707-320B型機は経由地であるアラブ首長国連邦(UAE)のアブダビに到着。次の経由地であるタイのバンコク空港を通り終点のソウル空港へと向かう予定だったのですが、バンコクへ向かっていたその途中、ミャンマーの海上で突如連絡を絶ち、その後の調査で空中で爆発、分解したことが後の調査で判明しました。

 事故機が連絡を絶った直後、韓国政府は直前に経由したアブダビで降りた乗客15人の中に審な男女2人がいることを突き止めます。この男女2人は日本の旅券を持ってアブダビを降りた後にバーレーンへ向かい、事件翌日には現地のホテルに滞在していました。バーレーンの日本大使館がこの2人の旅券を照会したところそれらの旅券は偽造されたものだとわかり、バーレーンを離れローマへ向かおうとしていた2人を日本の大使館員、 バーレーンの警官が出向直前で押し留めました。
 ここである意味ドラマチックな所ともいえるのですが、出国を阻止された男女2人は煙草を吸う振りをして毒薬のカプセルを含み自殺を図ったのですが、男の方はそのまま中毒死、女の方はカプセルを噛み砕く直前に現場の人間に取り押さえられたことにより自殺に失敗します。

 その後、生き残った女は韓国へと移送され、韓国側の捜査によって二人は北朝鮮の工作員、金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)だったことがわかり、航空機が仕掛けられた爆弾によって爆破されたことがわかります。2人は親娘を装ってハンガリー、オーストリア、ユーゴスラビア、イラクの順番に渡り、途中で旅券を北朝鮮のものから偽造した日本旅券に差し替えた上で搭乗した航空機に爆弾を仕掛けたことを、生き残った金賢姫が証言しております。実際にこれらの行程は経由した国々の記録とも一致しており、北朝鮮と同じ共産圏の旧ソ連などもこの事件を北朝鮮によるテロと断定しております。

 この事件がどういう目的で起こったというか北朝鮮は何故このような航空機爆破テロを起こそうとしたのかというと、やはり翌年に控えていたソウル五輪を中止に追い込む、または他国に参加ボイコットを促すためだったと現在だと言われております。書いてる自分が言うのもなんですが、なんで航空機を爆破することがオリンピックの妨害になるんだという気がしてならないのですが、そこは北朝鮮だからとしか言いようがありません。
 ただこの点について私の勝手な推測をここで書くと、どうも北朝鮮というのは現在を含め、国際世論というか事件などの情報が相手側にどのように影響するのか、そういった感覚に対して極端に疎い気がします。いうまでもなく北朝鮮は中国を除いてほとんどの国と国際交流を行っておらず、しかも国内で厳しい情報統制を行っていることからこちらが思った通りに相手側は思考するという勘違いに似た都合のいい感覚を持ち合わせているのかもしれません。更に言えば、次代の変遷に伴う国際感覚の変化にもついていけてないというべきか。

 多分北朝鮮としては、「航空機が爆破された→韓国は危険→ソウル五輪はボイコットしよう」なんていう風にほかの国は考えると思ったんじゃないでしょうか。しかし結果は全く逆で、むしろこのような国際テロ事件を起こした北朝鮮への批判が高まっただけでなく、それまでソウル五輪への参加を保留していた旧ソ連や中国など共産圏国家がその後、続々と参加を表明するようになります。

 この事件についてもう少し私の方から述べると、前回のラングーン事件といい、第三国を巻き込んだなりふり構わないテロ事件に北朝鮮は1980年代から手を染めはじめます。この時期がどういう意味を持つかというと、やっぱり金正日が徐々に政権内部で実権を握ってきたころと同時期であり、これらのテロ事件や金正日が主導したという話は間違ってないように思えます。
 そしてこの事件がきっかけというか、生き残った金賢姫が田口八重子氏とみられる人物から日本語を教わったという証言を行ったことから、北朝鮮による拉致事件が大きく日の目を浴びるようになります。そういう意味では北朝鮮に対する世界の見方における、ターニングポイントとなった事件だったと言えるでしょう。

 最後にもう一点。事件当時、日本の左翼運動家の間ではこの事件を韓国による自作自演だと主張する団体などもありました。具体的には社会党なのですが、旧ソ連や昔の中国の人間以上に事実を事実だと判別できない連中というのも救いようがないものです。

2013年7月3日水曜日

韓国の近現代史~その十八、ラングーン事件

 ついにやってきましたラングーン事件。前にも書きましたがこの事件こそが今回の連載を始めるきっかけとなったもので、その理由というのも誰に聞いても「そんな事件知らない」という回答が返ってきたからです。年齢がやや上の世代ならわかるかもしれませんが私と同年代の人間はまず知らないでしょうし、それだけに取り上げる価値があると思い、それならば韓国の近現代史をまとめて書いてしまおうと思ったのがこの連載開始のきっかけでした。
 どうでもいいですが、「ラングーン事件」と聞いて「ブラック・ラグーン」を連想した人は多分私と趣味が合うでしょう。

ラングーン事件(Wikipedia)

 ラングーンというのはビルマ(現ミャンマーのヤンゴン)の地名です。
 事件が起きたのは1983年、当時の全斗煥韓国大統領がこの地を訪問した日でした。当時の全斗煥はソウル五輪の誘致活動を活発に行っており、この時の訪問も誘致支援をビルマに取り付ける目的があったのですが、こうした動きに対して苛立ちを覚えていたのはほかでもない北朝鮮でした。
 北朝鮮から見ればソウル五輪などもってのほかで、なおかつ韓国が活発な外交を行うことによって孤立化することを恐れたため妨害工作を準備していました。そしてその舞台となったのがこのラングーンで、多分世界的に見ても稀な第三国でのテロを実行することとなります。

 ビルマを訪れた全斗煥大統領一行は10月9日、現在も活躍されている民主活動家のアウンサン・スーチー氏の父親でありビルマ建国の父である、アウンサンを祀ったアウンサン廟への訪問を日程に入れておりました。このアウンサン廟への訪問はビルマを訪れる外国VIPにとっては定例といってもいいイベントで、それがためかえってテロの標的にされてしまったのでしょう。

 事件の経過を語ると、その日のアウンサン廟では迎え入れの準備が進められており、韓国やビルマの閣僚などは先に入って全斗煥大統領の訪問を待っておりました。そして午前十時半ごろ、全斗煥が乗っていると思われた車が廟に入ったその瞬間、廟の天井で突如爆発が起こり、韓国の外務大臣や副首相を含む21人が爆死、47人が負傷するという大惨事となりました。ただ最大の標的と言ってもいい全斗煥は到着がわずか2分ほど遅れたために難を逃れ、全斗煥が乗っていたと思われた車も韓国の駐ビルマ大使のものでした。

 事件後、ビルマ政府はすぐさまテロ実行犯の追跡に取り掛かり、捜査の過程で北朝鮮の工作員3人が犯人として浮上します。この工作員をビルマ警察はすぐに追い詰め、銃撃戦の末に1人を射殺、2人の逮捕に成功します。
 逮捕された北朝鮮の工作員のうち1人は事件の全容を自白し、事件前日にクレイモア地雷を仕掛けたことや北朝鮮当局からの指令だったことなどを明かします。北朝鮮の仕業だとわかったビルマ政府は断固たる措置を取り、それまで中立を保って韓国、北朝鮮のそれぞれの大使館設置を認めていたものの、北朝鮮大使館に対しては国外退去を命じるとともに国交も完全に断絶しました。
 なお北朝鮮側はこの事件に対し、韓国側の自作自演だと発表していました。

 この事件ではアウンサン廟がテロの舞台として使われていますが、これを敢えて日本に例えるなら、明治天皇のお墓に当たる桃山御陵を爆破するようなテロで、ビルマ政府が激怒するのも深く理解できる話です。なおかつビルマ政府が事件後に北朝鮮に対して断固たる措置を取ったことは見事な対応で、逆に未だに朝鮮総連の活動を認めている日本は何をやっているんだという気持ちにもさせられます。
 それとこの事件で真に着目すべきは、北朝鮮がなりふり構わず第三国においても韓国に対するテロ活動を実行に移してきたことです。というのもこの後に北朝鮮はあの大韓航空機爆破事件を起こしているだけでなく日本人拉致事件も起こしており、なんていうか見境のないテロ行為に手を染めていきます。そしてこの時期に金正日が実権を握りつつあったということを考えると、もうあれやこれやと考えが出てきます。

 そういうわけで次回はいよいよというか、大韓航空機爆破事件を取り上げます。

2013年6月30日日曜日

韓国の近現代史~その十七、全斗煥の大衆政策

 真面目に不人気で仕方がないこの連載ですが、たとえ読む人間がいなくても最後までは貫徹しようという意気込みです。もっとも今回辺りから割と時代が近くなるので、自分も書いてて解説とかしやすくなる分、前よりは面白くなってくるんじゃないかという気がします。
 さて誰も覚えていないであろう前回では光州事件を取り上げ、全斗煥が大統領になるまでの道のりを簡単に紹介いたしました。光州事件に代表される政治弾圧によって見事大統領になった全斗煥ですが、彼は軍人出身でありながらこれまでの朴正煕とは一線を画す政策によって国内経済紙の振興、そして自身の支持率維持に努めました。

 最も代表的な政策と呼べるのが夜間外出禁止令の廃止です。朴正煕以来の韓国では一般市民の夜間外出を禁止していたのですが、全斗煥はこれを緩和して市民の自由な外出を認めます。それとともに市民の興味を政治に向かわせないために実行したとされますが、それまでほとんど認めていなかった大衆娯楽も解放しております。
 これら一連の政策は3S(スクリーン、スポーツ、セックス)政策とも呼ばれていますが、結果的には国内での消費が活況化することによって一時はGDPがマイナス成長に陥っていた韓国経済を再興させるのに影響させたのではないかと私は睨んでいます。

 こうした政策のほかにも全斗煥は、外交でも緊張融和路線を取ります。韓国の大統領としては初めて日本に公式訪問、昭和天皇との会見も行って経済支援を取り付けるだけでなく、1988年開催のソウル五輪招致にも成功しており、こうした「開かれた政策」に関してはなかなかの手腕の様に思えます。
 一方で国内の政治弾圧は一切手を緩めず、先に結末を話すと大統領職の退任後、全斗煥は一連の政治弾圧と汚職から死刑判決(後に恩赦で釈放)を受けることとなります。ただ皮肉な話というか、全斗煥に恩赦を与えたのは政敵でもあり後に同じく大統領となる金大中ですが、彼も大統領退任後に不正蓄財で捜査を受けて晩年はパッとしないところがありました。そして金大中は既に死去していますが、全斗煥はまだ存命というのもいろいろ思うところがあります。

 ちょっと早い気がしますが全斗煥に対する人物評を述べると、粛軍クーデターの際の手際といい大統領在任中の政策といい、その手腕は政治家としても軍人としてもなかなか見事なものだという印象を覚えます。韓国国内でも政治弾圧に関しては批判されるべきとされながらも評価すべき点もあるのではないかと再評価が進んでいると聞きますが、時代が時代とはいえ、政治弾圧がもしなければ名大統領として名を残せたのではないかという気がします。

 次回以降もまだしばらく全斗煥時代について書きますが、次回はいよいよというかこの連載を始めようと思うきっかけとなったラングーン事件を取り上げます。

2013年6月20日木曜日

韓国の近現代史~その十六、光州事件

 まだなかなか終着点の見えないこの連載ですが、前回は朴正煕の死後、軍部内での権力争い(粛軍クーデター)で機先を制することによって全斗煥が実権を握ったところまで紹介しました。軍部内で実権を握ったことによって取り立てて政権基盤を持たない当時の崔圭夏大統領に対する全斗煥の影響力は強まり、この時点でほぼ傀儡政権化しておりましたがそれでも飽き足らず、全斗煥は本命の大統領就任に向けて行動を開始します。この過程で起きた民衆運動こそが1980年の光州事件で、今日はこれを紹介します。

5.18光州民主化運動(Wikipedia)

 事件の発端となったのは軍部を握った全斗煥が新たに施行した戒厳令がきっかけでした。朴正煕政権時代も夜間の外出を禁止するなど厳しい戒厳令が敷かれておりましたが、朴正煕の死後に大統領に就任した崔圭夏はそれまで行動を制限していた金泳三や金大中など民主派活動家の行動制限を緩めたことにより、韓国では一時民主化ムードが立ち込め「ソウルの春」という時代がありました。しかしこうした流れを止めたのは全斗煥でした。彼は自分が立候補する大統領選に際して敵となると見た金泳三、金大中らをこの戒厳令によって逮捕・拘束し、政治活動を著しく制限しました。

 これに怒ったのは金大中の出身地域に当たる全羅南道にある光州市の市民。現在はどうだかわかりませんが当時の韓国は地域意識が非常に高く、政治も地元出身の議員が熱烈に応援される状況だったらしく、一連の金大中への制裁に激しく起こり、反対運動デモが頻繁に実施されました。こうした動きに全斗煥も黙っていません。早速軍隊を光州市に差し向けてデモ鎮圧に動いたのですが、これに対して光州市民側も態度を強行化させ、大きな暴動へと発展していくこととなりました。

 ウィキペディアの記述を引用すると、当時人口75万人だった光州市に投入された総兵力は2万人と、非常に大規模と言ってもいい数字です。鎮圧部隊は群衆に向かって一斉射撃を行ったほか、光州市をぐるりと包囲して情報を完全にシャットアウトし、市民側代表者と武装解除に向けた交渉を行ったと言われております。この間、韓国国内では光州市で何が起こっているのかが全く報じられず、この時の事実はそれからしばらく中国における天安門事件よろしく口伝てでしか伝わら中たようです。

 むしろ逆にというべきか、海外では重大な政治弾圧事件だとして大きく報じられ、アメリカの当局関係者も関心を持ったと言われております。私自身は今回の連載開始に向けた勉強でこの事件を始めて知ったのですが、名古屋・広島に十年以上も左遷され続けてとうとう東京本社に戻ることなく会社を退社したうちの親父は事件を覚えており、一定の年齢層以上は多かれ少なかれ日本での報道を見聞きしていたようです。

 最終的に武装した市民の指導者らが射殺されるなどして、包囲は約10日間を以って終わりを告げます。事件の死亡・負傷者については未だはっきりしておらず今後の研究が待たれるのですが、ウィキペディアが引用している「518記念財団ホームページ(リンク切れ)」の発表によると死者数は240人、行方不明者数は409人、負傷者数は5019人と、どれも大衆運動の鎮圧事件とみるには大人数です。

 こうした政治弾圧を行いつつ全斗煥は崔圭夏に大統領を辞任するよう圧力をかけ、彼を引き摺り下ろします。そして行われた大統領選挙で当選したことにより念願の大統領職に就任することとなるわけですが、その際の施政はソウル五輪の招致などなかなか見るべき点が多いので、次回でまたゆっくり解説します。

2013年6月10日月曜日

韓国の近現代史~その十五、全斗煥の台頭

 そろそろラッシュを決めてかないといけないと思っている韓国史の連載です。まだ随分と期間が空いてしまったなぁ。

 前回では独裁者であった朴正煕の死後、代わりに大統領になった崔圭夏が戒厳令を緩めるなどして民主化の機運が高まった「ソウルの春」を紹介しました。この時期の韓国は朴正煕時代は夜間外出すらも禁じられるほど統制の厳しかった時代の反動もあって自由に対する意識が高く、政権側もそれに応じるような姿勢を見せていたのですが、結果論を述べるとその希望は見事に打ち砕かれます。というのも、この後に政治の実権を握ったのは朴正煕の後輩ともいえる全斗煥による軍事政権だったからです。

 全斗煥は士官学校出身の根っからの軍人で、朴正煕が軍事クーデターを起こした際は士官学校生徒を率いて真っ先に支持に回り、朴正煕からの信頼を勝ち得て昇進していきました。天気が起こったのはいうまでもなく朴正煕の暗殺事件後で、当時は保安司令官だった全斗煥は同じ軍部の重鎮である鄭昇和陸軍参謀総長と主導権を争い対立します。
 両者の争いは派閥抗争へと発展していくのですが、全斗煥と士官学校時代に同期で後にこちらも大統領となる盧泰愚は1979年12月、電撃的に鄭昇和を朴正煕暗殺時の対応に問題があるとして逮捕し、鄭昇和の息のかかった部隊へ攻撃を仕掛けました。

 この時の一連の行動は「粛軍クーデター」と呼ばれ、韓国大統領府はおろか米軍にすら何の連絡や通達がないままソウルは内戦状態に陥ります。全斗煥は大統領府を制圧すると崔圭夏大統領など文民政治家に対して鄭昇和の逮捕を認めるよう迫り、崔圭夏も当初は抵抗しましたが、軍部に味方がおらず孤立した状況の中で最終的には要求を呑むよりほかがありませんでした。
 こうして全斗煥はライバルを追い落とし軍部の実権を完全に握り、政府に対しても半ば脅迫的に意見を言える立場を確立するに至ります。ここに至って全斗煥は自らの大統領就任も視野に入れて行動を開始し、1980年5月に金泳三や金大中といった民主派活動家の行動を大きく制限する非常戒厳令を出します。この措置に対して韓国国内では反対運動が起こったのですが、こうした動きに対して全斗煥は断固たる措置を取り、後の自身の大統領就任へとつなげるわけです。

 そういうわけで次回は、この時の政治弾圧で有名な光州事件を解説します。

2013年5月28日火曜日

韓国の近現代史~その十四、ソウルの春

 また時間が空いてしまいましたが、韓国の近現代史の連載再開です。前回では朴正煕暗殺事件を取り上げましたが、なんか一つの区切りってことで続きがやけに書き辛いです。当初は一気に進めようかなと思いましたがちょっとそこまで気力持たないので、ゆっくりやってくために今日は「ソウルの春」について書いてきます。

 絶対的な独裁者であった朴正煕が突然の暗殺によって亡くなった後、韓国では鄭昇和陸軍参謀総長が戒厳司令官となり軍部が実権を握り続けました。ただ朴正煕の後任となる大統領には朴正煕政権下で首相を務めていた崔圭夏が就き、それまでの戒厳令による政治弾圧が幾分かは緩められることとなります。

 ここで少し話を脱線させますが朴正煕政権、そしてこの後もしばらく続く軍事政権下では戒厳令といって、北朝鮮との軍事的緊張を口実に韓国国民の日常生活を非常に厳しく制限しておりました。ちょうど最近読んだ本にそのあたりのことが書いてあったのですが、当時のソウル市内ではサイレンが鳴ると公共バスを含むすべての乗用車は運転を止め、窓に覆いをして次のサイレンが鳴るまで待たなければいけなかったそうです。また大統領府に向いた建物の窓は常時閉め切った上にこちらもまた覆いをする必要があり、夜間も市民は外出が一切禁止されるなど息苦しい社会だったと言われております。密告もあったろうし。

 話は戻りますが、荒谷大統領となった崔圭夏は文民出身だったからかもしれませんが、これら戒厳令の政策を一部緩めるようになります。具体的には先程書いた大統領府へ向いている窓の覆いを取っ払ったほか、民主派政治家の一部活動も認めるようになります。これを受けて後に大統領となる金泳三とか金大中も動きを活発化させたそうです。

 このように開放的なムードが一時的に表れ、大学における学内デモや労働争議も増えていき民主化への機運も高まったわけなのですが、「プラハの春」みたいな言い方をしているだけにそうは問屋が卸すわけではありません。文民の政治活動が活発化していくことによって実権を失うのではないと警戒した軍部はすぐさま行動を開始し、戒厳令の権限を強化するなど露骨な政治関与を始めます。その一方で、軍部内での対立も徐々に強まり内部抗争も始まるわけですが、そこは次回の「粛軍クーデター」で詳しく解説します。

2013年5月12日日曜日

韓国の近現代史~その十三、朴正煕暗殺事件

朴正煕暗殺事件(Wikipedia)

 だいぶ長い間書いてきた朴正煕ともこれでおさらばです。そういうわけで久々の連載再開記事は、朴正煕大統領の暗殺事件を取り上げます。

 事件が起こったのは1979年10月。朴正煕は1963年から韓国の最高権力者の座に就いてから16年間もの月日が経ち、この間には暗殺未遂事件も何度か起きておりますが国内の選挙干渉や学生デモを弾圧し続けることによってこの座を維持してきました。また暗殺される直前には憲法を改正して自身が終身制の大統領に就くことを明記しており、当時は朴正煕自身が辞任するか暗殺されるか、はたまた革命が起こるかでしか彼を大統領から引き摺り下ろすことが出来ない状態でありました。

 それで実際に暗殺されることとなったわけですが、朴正煕を暗殺した人物は彼の腹心でもありKCIAの金載圭でした。金載圭は暗殺を実行する前に学生デモなどへの弾圧が手ぬるいとして朴正煕から叱責を受けていたことに不満を持っていたそうですが、これが直接の動機だったかについては後に詳しく書きますがちょっと微妙なところがあります。

 暗殺の状況について詳しく書くと、当日はソウル市内にあるKCIAの秘密宴会場で朴正煕、金載圭、車智澈・大統領府警護室長、そして何故かこの宴会にお呼ばれされていた女性歌手の沈守峰と女子大生モデルの申才順の五人で晩餐会が行われておりました。この晩餐会の最中にも朴正煕から叱責を受けると金載圭は一旦中座し、部下にいくらかの指示を与えた後に拳銃を持って会場に戻り、そのまま朴正煕と車智澈の二人へ発砲。二発発射した後に拳銃が故障したことからまた部屋を出て、部下から拳銃を借りて戻るとまた朴正煕と車智澈に一発ずつ発砲して止めを刺しました。残った歌手と女子大生に金載圭は「慌てないで。安心するように」と言い、近くにある別の宴会場にいた陸軍参謀総長の鄭昇和を訪ねて、自分が射殺犯であることを隠した上で朴正煕の死を伝えた後、非常戒厳令を布告するよう迫ったそうです。

 恐らく金載圭は暗殺を北朝鮮とか別の人物によるものに仕立て上げた上で自分の犯行をうやむやにしたかったのか、ほかに何らかの思惑がったのかもしれませんが、密室でこれだけ露骨な暗殺をしておいてばれないはずがありません。戒厳令の布告を渋っていた鄭昇和は「暗殺犯は金載圭だ」という報告を受けるや金載圭を逮捕し、その上で戒厳令を出して自らが戒厳司令官に就任しました。その後、国内にはしばらく大統領が死亡した事実は伏せられておりましたが日本を含む国外ではすぐに報じられ、外国に親戚や知人がいる人たちから国内にも情報が伝わっていきました。

 逮捕された金載圭は動機について当初、終身独裁制を築いた朴正煕を大統領の座から下ろすにはこれしか方法がなかった、民主主義を守るためだったという、KCIA長官らしからぬ理由を話したとされますが、現代では単純に自らの地位が危うく保全を図ったものという説が強いです。もっとも未だにその理由についてははっきりしておらず、翌年には死刑判決を受けてすぐ執行されていることから、なんというか口封じされたような気もしないでもありません。

 ざっと上記までが一連の流れですが、太字にしちゃいますが一体どこから突っ込んでいいのかちょっと悩みます。しょうがないのでひとまず疑問点を箇条書きにします。

1、なんで秘密の宴会場なんて言うものがあるのか?
2、しかもなんで女性歌手と女子大生モデルが同席していたのか?
3、しかもなんでなんで二人とも暗殺現場に居合わせたのに射殺されなかったのか?
4、金載圭もどうして陸軍参謀総長に掛け合ったのか?

 1番に関しては妻が暗殺されて以降、朴正煕は若い女性と一緒に夕食を取ることが多かったためにそれほど不自然ではないという説明を見かけますが、はっきり書いてしまえば性接待があったのかと勘ぐってしまいます。そしてスルー出来ない2番と3番についてですが、普通の感覚してるなら射殺する現場を見た人間を生かしておくはずないのに金載圭は何故か見逃しております。ちなみにこの二人、確かまだ存命中です。
 でもって4番目ですが、仮に金載圭は怨恨目的で暗殺したというのなら普通は海外逃亡するか、偽の犯人を仕立てあげた上で、「大統領は暗殺されたが犯人は我々が逮捕(または射殺)してやったぞ!」というシナリオを組むんじゃないかという気がしてなりません。なのにわざわざ陸軍参謀総長に出向いて戒厳令を求める、やはり腑に落ちませんというか行動が明らかに奇妙です。

 それこそ、金載圭が叱責を受けたことによって何の準備もなしに発作的に暗殺を実行してしまうような底の浅い人物だったというのであればそれまでですが、なんていうか逃げ道を約束されていたから同席した二人の女性には手を掛けなかったんじゃないかとも考えてしまいます。じゃあその逃げ道とは何か、こちらもやや安直ですがアメリカです。
 ウィキペディアにも書かれていますが当時、朴正煕とアメリカ政府(カーター政権)は韓国の核開発計画を巡って冷え込んでいたとされており、それが原因ではないかという声も出ています。でもってアメリカも前科があるというかベトナムでは実際にCIAによって南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領を暗殺してるんで、朴正煕もやっぱやられたんじゃないかなぁって気がしないでもないです。

 となるとシナリオというのはCIAがやや不満を持っていた金載圭を唆して、「朴正煕を暗殺してきたら後の面倒は全部こっちで見るよ、鄭昇和も仲間だから終わったら彼に報告してね」的なことを伝えて、韓国人同士で処理完結させたような感じでしょうかね。あまりこういう陰謀論というかなんでもかんでも悪いことをアメリカのせいにするのも良くないとは思いますが、一つの仮説としてはもっておいた方がいいので書いておくことにしましたが、真実の検証が済むのはあと50年くらい先で、同席した女性二人が回顧録とか出す頃かなと思います。

2013年5月1日水曜日

韓国の近現代史~その十二、金大中事件

 また時間をおいての連載再開です。朴正煕政権下の話も今回を入れてあと二回ですが、今日は日本とも関係が深いというか、日本もその当事者となった金大中事件について解説します。

金大中事件(Wikipedia)

 この事件は1973年、後に韓国大統領となる金大中が日本国内で拉致され、危うく暗殺されかけたというかなり前代未聞な事件です。逆にこの時に金大中が暗殺されていれば後の彼の大統領就任は有り得なかっただけに、将来に与えた影響は少なくないでしょう。

 まず事件前後の背景を説明しますが、1971年に韓国では大統領選が行われ、当時大統領だった朴正煕の対抗馬に立ったのは民主派の若いリーダーだった金大中でした。軍配は朴正煕に上がったもののその差は僅差だったことから金大中に対する政権の警戒心は高まり、隙あらば今のうちに暗殺しておこうという機運が高まったと言われております。
 こうした中、Wikipedia中ではKCIAの李厚洛部長はちょっとしたことからヘマをしてしまって朴正煕からの評価を下げてしまい、海外に半ば亡命していた金大中を暗殺することで汚名返上をしようと画策したと書いております。ただ私自身はこの事件は朴正煕自身が主導し、李厚洛が指揮したと考えています。

 事件当時、金大中は韓国国内に戒厳令が敷かれたことから帰国すれば暗殺されると考え、日本やアメリカなどへ講演しながら移動するという亡命しているような状態でした。事件直前も自民党グループに呼ばれ、講演を行うために東京へ訪れていましたが、日本国内にも朴正煕政権下の手のものが放たれて暗殺される可能性があるという危険性が伝えられており、偽名でホテルにチェックインするなどして対策を行っていました。

 事件当日、金大中が講演を終えてホテルを出ようとしたところ何者かによって襲われ、麻酔をかがされ気を失います。そのまま荷物に無理やり押し込まれた状態で東京から神戸へ運ばれ、停泊していた工作船に運び込まれました。金大中を拉致したグループはそのまま彼を海上で始末する予定でしたが、金大中が行方不明になったことに気が付いた日米関係者はすぐに捜索を開始したことによって問題の工作船をも海上で発見しました。この時に工作船を追跡したのはなんだったのか、船なのか飛行機なのかもちょっとはっきりしないところがありますが、現在伝えられている内容だと自衛隊の戦闘機であるという説が強いです。

 工作船では一次、金大中を甲板に立たせて海に突き落とする準備までしていたそうですが、自衛隊の追跡を受けて拉致団は殺害を断念。そのまま韓国へと渡り、金大中を彼の自宅近くで解放したことによって事件は終わりを迎えます。

 この事件でまず考えねばならないのは、金大中の拉致を指揮したのはKCIAでほぼ間違いないものの、実行したのは誰だったのかです。KCIAの手がかかっている在日韓国人、または日本に渡ったKCIA工作員などという説もありますが、私が思うにKCIAから依頼を受けた日本の暴力団組員である可能性が高いように思えます。というのも日本国内で暗殺せずにわざわざ海上で殺そうとするあたり、何かやり方が下手というか回りくどい印象を受けるからです。KCIA工作員であれば、殺害した後で韓国に戻ればそれで済むだけなのだし。

 この事件後、日韓関係は前回取り上げた文世光事件と相まって一時悪化しますが、これで悪化しない関係なんて普通はないでしょう。よく朴正煕大統領は親日家だったと言われておりますが、この辺りの歴史を見ていると話してそうだったのか、内心、感情的にはもつものがあったんじゃないかと私は睨んでいます。
 そういうわけで次回は朴正煕編最終回こと、彼自身の暗殺事件を取り上げます。

2013年4月21日日曜日

韓国の近現代史~その十一、文世光事件

文世光事件(Wikipedia)

 ちょっと間をおいての連載再開ですが、いい加減、朴正煕政権期間中の事件は書いてて飽きてきました。まだあと金大中事件もあるというのに……。そういう愚痴は置いといてちゃっちゃと本題書くと、今日は朴正煕大統領を狙ったものの結局は朴正煕夫人の陸英修が暗殺されることとなった、文世光事件を取り上げます。

 事件が起きたのは1974年8月15日。日本の植民地から解放されたこの日を祝う式典に参加するため朴正煕とその夫人の陸英修はソウル国立劇場へと足を運びました。この式典で朴正煕は演壇に立ち祝辞を読み上げたのですが、まさにその瞬間を狙って在日朝鮮人の文世光が拳銃を抜きだし彼目がけて発砲しました。幸いというか弾丸はターゲットである朴正煕は外れたものの傍にいた陸英修に当たり、またたまたまその劇場に居合わせた女子高生に警備が文世光を狙って撃った弾が当たり、二人は病院へと運ばれたもののそのまま息を引き取りました。そして犯人の文世光は現場で取り押さえられ、同年の12月に死刑判決が確定してそのまま執行されております。

 この事件で特筆すべきなのは、文世光は日本の朝鮮総連の指示を受けて暗殺を計画し、そしてこの事件で使われた拳銃というのは大阪市高津派出所から盗まれたものだったという点です。はっきり書いてしまえば、盗まれた拳銃が使用されたことや文世光の偽造パスポートによる出国などを見逃した点で日本側の捜査怠慢も背景にあるということです。
 こうした点から事件後に朴正煕は日本側に強い不信感を持ち、さらに朝鮮総連の関与が疑われながら日本の警察が捜査に慎重な姿勢というか介入をきらったことから日韓関係は大いに冷え込んだそうです。私の個人的な意見を書かせてもらうと朴正煕の怒るのも無理なく、当時の外交関係者は相当な苦労を以って何とか関係をつないだのではないかとも思えます。

 最後にこの事件の帰結というかその後の展開について少し触れると、「在日朝鮮人を日本人に偽装してテロ活動を行う」という方法に北朝鮮が味を占めた感があります。勘のいい人ならわかるでしょうがその後に起きた大韓航空爆破事件などがその典型で、更に言えば第三国をなりふり構わず巻き込むという手法も後のラングーン事件にも通じるように思えます。
 歴史に仮定を持つことは私自身はあまり好きではないのですが、もし日本側がこの事件を未然に、文世光の出国を食い止めるなどできたら、北朝鮮の諜報活動もなにか違ったようになったのではという感慨を持ちます。

2013年4月8日月曜日

韓国の近現代史~その九、青瓦台襲撃未遂事件

 前回は韓国軍のベトナム戦争への派兵を取り上げましたが、今日はその派兵を行った朴正煕大統領に対する北朝鮮の暗殺計画、青瓦台襲撃未遂事件を取り上げます。それにしてもこれから数回は全部「暗殺」が主題の記事を書き続けることになるんだろうなぁ。

青瓦台襲撃未遂事件(Wikipedia)

 先に用語を説明すると青瓦台というのは韓国大統領官邸を指します。ここを襲撃すること即ち、大統領暗殺を行うという意味になります。
 この事件は朴正煕が実権を握ってから7年後の1968年に起こったもので、北朝鮮は朴正煕大統領の暗殺を図り暗殺部隊を組織しました。暗殺部隊は31名(実際は40名ほどか)によって組織され、北緯38度の休戦ラインを突破して韓国の領域内に侵入します。しかし侵入してからすぐ、ドジと言ってはなんですが地元に住む韓国市民に偶然見つかってしまい、通報しないように脅迫した後でその韓国市民を放してしまいます。もちろんこの韓国市民は解放後、当局へ北朝鮮軍の侵入を通報しました。

 北朝鮮の暗殺部隊はその後、ソウル市内に侵入して青瓦台を目指しますが、市民の通報を受けて警戒中だった韓国軍に見つかり、市内で銃撃戦を開始します。暗殺部隊は最終的に29人が射殺、1人が自爆、1人が逮捕され、このほかにも数名が北朝鮮へ逃げ帰ったと推測されています。なお逮捕された1人は計画の全貌を放した後で恩赦を受け、その後はソウル市内の教会で牧師となったと言われています。

 この事件では銃撃戦となったことから警官や民間人の間でも死傷者が出てしまい、標的だった朴正煕大統領は北朝鮮の行動に激怒したそうです。そして報復として金日成暗殺計画を作り、後の「シルミド事件」に連なる暗殺部隊を創設することとなります。そんなわけで今回は非常に短く終わりましたが、次回は映画にもなったシルミド事件を取り上げます。

2013年4月6日土曜日

韓国の近現代史~その八、韓国軍のベトナム戦争派兵

 前回では朴正煕政権の行った経済政策、いわゆる「漢江の奇跡」を取り上げましたが、この経済政策では日本を含む海外からの経済支援が非常に重要な要素となりました。朴正煕はこれらの経済支援を受けるため様々な外交を執り行いましたが、その中の一つとして米国向けに、泥沼化していたベトナム戦争へ韓国軍を派兵するという施策があり、この点についてちょっといろいろ言いたいこともあるので解説します。

 朴正煕はクーデターによって実権を掌握した後、1961年に米国へ赴きケネディ大統領と会っております。通説ではこの時の時点で韓国軍をベトナムへ派兵しようかと提案したとされますが、実際に派兵されたのはジョンソン大統領に変わった後の1964年でした。韓国側としてはベトナムに韓国軍を派兵する代わりに米国から資金援助を得ることが目的で、米国側としては戦力というよりも、同盟国から派兵を受けることによって戦争の正当性を高めるということが目的だったと考えられます。

 このような背景で派兵された韓国軍でしたが、ベトナムに到着するやその兵力に比して多大な活躍ぶりをみせたことにより「猛虎部隊」などと呼ばれベトナム軍側からも恐れられたそうです。派兵人数は30万人以上とされ、この兵力規模は米国に次ぐ大兵力であったことから実質主力の一翼をになったと言っても過言ではないでしょう。派兵された韓国軍兵士に対する給与は米国は支払い、また戦争に必要な軍需物資の需要が跳ね上がったことからサムスンは大宇などの韓国財閥もこの時期に急成長を果たしております。

 さてここからが本題になりますが、皆さんはライダイハンという言葉をご存知でしょうか。これはこの時に派兵された韓国軍兵士と現地ベトナム人との混血児のことを指しており、日本の中国における残留孤児問題同様に韓国への帰国、戸籍取得を認めるべきかで現在議論となっております。
 韓国に限るわけではありませんがベトナム戦争中は現地人との混血時出産が相次いだほか、兵士による暴行、強姦事件が相次いでおりました。そして、虐殺事件も同様に相次いでおりました。米軍もソンミ村虐殺事件という有名な虐殺事件を起こしておりますが、韓国軍も下記に列挙する虐殺事件を起こしております。

タイビン村虐殺事件
ゴダイの虐殺
ハミの虐殺
フォンニィ・フォンニャットの虐殺
(すべてWikipediaより、一部にグロテスクな写真が貼られているため閲覧時は注意)

 上記の虐殺事件はどれも無抵抗の村民を韓国軍が一方的に虐殺した事件とされております。これらの行為は米軍の調査によって明るみとなりましたが韓国軍側はゲリラ掃討のための正当な行為であるとして正当化し、当時の韓国軍司令官は現代においても同様の主張を続けていると聞きます。こうした虐殺行為の繰り返しに対し米軍も韓国軍を後方に移す措置などを、実行したかどうかはわかりませんが検討したとされます。

 これらの韓国軍の虐殺行為は長い間知られておりませんでしたが、1999年に韓国の新聞「ハンギョレ」が大きく報道したことによって韓国国内にも知られるようになりました。ハンギョレの特集記事は現地で虐殺事件の生存者に対しても取材が行われるなど精力的な報道でしたが、韓国国内では報道に反発する動きもあり、退役軍人らがハンギョレの事務所に乱入し備品を壊すという事件も起きています。なお、あまり言う必要もないでしょうがこれら虐殺の事実が長きにわたって韓国で隠蔽されていたのは朴正煕以降も、韓国では軍事政権が続いていたからです。

 非常に機微な内容なので詳しく述懐しますが、私個人としてはこれらの歴史事実を採り並べて韓国を批判するつもりは毛頭ありません。主張の仕方によっては「韓国は自国の虐殺事件を棚上げしておきながら日本に対して従軍慰安婦問題を主張するなんておかしい」などと言うことも出来るでしょうが、果たしてそういう逆批判をすることによって何か意味があるのかと考えたらあまりないように思います。そして何より、これらベトナム戦争中の虐殺事件について当事者であるベトナムが何か主張するならともかく、第三国である日本が余計な口を突っ込むべきではないでしょう。

 では何故この連載でわざわざ取り上げたのか。それは本当にたった一つの理由からで、もし日本がベトナム戦争中に自衛隊を派兵していたらどうなっていたのかを読者の方にも考えてもらいたかったからです。韓国以外にもオーストラリアやフィリピンなど米国の同盟国はベトナム戦争へ派兵しており、状況によっては日本も派兵していておかしくなかったと私は思います。ではなんで日本は派兵しなかったのかですが、これはなんといっても憲法9条の存在が大きかったからでしょう。
 ただ当時に日本は兵員こそ派兵しなかったものの、沖縄の米軍基地から飛び立った爆撃機はベトナムを何度も空襲しております。そのことに対して日本人は責任感を持てと言うつもりはありませんが、事実として知っておいてもらいたいというのが私の本音です。

2013年4月1日月曜日

韓国の近現代史~その七、漢江の奇跡

 前回ではクーデターを起こした朴正煕が権力を握る過程を解説しました。そこで今回は実際の朴正煕の施政とばかりに、彼の時代に「漢江の奇跡」と呼ばれるほど急成長した韓国経済を取り上げます。

 まず初めに朴正煕についてもう少し説明します。彼は日本統治下の1917年に非常に貧しい家庭で生まれ、長じてからは3年間の教師生活を経てから新京(現在の吉林省長春市)に渡り、そこで満州国の陸軍士官学校に入りました。たまに朴正煕は「旧日本陸軍の軍人だった」と書かれていることがありますが、正確には「満州国軍人」であって自分が歴史テストの教官ならここでひっかけ問題を作ることでしょう。
 第二次大戦終了後は母国の韓国に戻り、そこでも軍人として任官を受けます。ただ一時期に南朝鮮労働党(共産党)に参加していたことがあり、軍にばれて死刑まで宣告されておりますが、当局に情報を提供することによって執行を免れております。

 こうした来歴を持つ朴正煕ですが、その私生活は清廉潔白であったことはどの研究者の間でも一致しております。死後に残された財産はほとんどなく、また変に疑われないようにと親戚関係者をソウルに一切近寄らせなかったというエピソードまであります。そうした姿勢はクーデター直後にも見られ、最高権力者に上るや反社会勢力の大規模摘発にすぐ乗り出しております。

 そろそろ本題に入りますが、最高権力者(国家再建最高会議の議長、1963年からは大統領)となった朴正煕の最大の政治課題は国内の経済問題でした。以前にも書きましたが当時の韓国は世界の最貧国の一つで、国民の生活は非常に苦しかったそうです。かといって当時の韓国には産業と呼べるものはほとんどなく、米国の通商代表団も砂糖などといった作物以外にはなにも輸出するものはないと断じております。

 このような状況下で朴正煕が取った行動というのは、海外からの経済援助をばねに投資を行うという戦略でした。クーデター直後の1961年に訪米してケネディ大統領と会い、自ら韓国軍のベトナム派兵を申し出たと言われております。実際の派兵はケネディが暗殺されジョンソンに大統領職が移った3年後の1964年ですが、この派兵によって韓国は膨大な金額の経済支援を米国から受けることとなります。
 また米国からの帰途では日本に立ち寄り、当時の池田隼人首相と会って国交正常化の交渉を始めることで同意しております。日本とは国内の反対運動を押し切り最終的に1965年、日韓基本条約を結び国交を回復しますが、この時に日本が約束した韓国への経済支援額は当時の韓国の国家予算の約3倍にも迫る金額でした。朴正煕自身は日本に対してそれほど敵愾心を持っておらず、リアリストに徹した外交を展開したと研究者の間では言われております。

 こうして得た膨大な資金を元に浦項製鉄所(現ポスコ)を創立したほか道路といった国内インフラを整備し、民間企業なども振興するなど、日本や中国と同じように国内建設によって主導する経済政策を実行しました。こうした政策の成果がわかるデータを引用すると、1961年の韓国人1人当たりの所得は80米ドルでしたが、1979年には1620米ドルと実に20倍もの成長を果たしております。また当時の経済成長は国家主導ではありましたが、この頃に韓国を代表するサムスン、そして今は亡きダエウーといった財閥も急伸し、書いてるこっちの身としても現代にようやく近づいてきたなという感じがします。

 以上のように朴正煕は国内の経済回復という大きな問題の解決には見事成功しました。にもかかわらず彼への評価は今でも大きく二分しており、というのも国内では徹底的な情報統制、政治弾圧を行っていたからです。その弾圧、検閲ぶりは徹底されており、韓国版CIAことKCIAを創設し、無実の罪で投獄、処刑された人間は数え切れるものではありません。Wikipediaにも書かれてありますが朴正煕の政治姿勢は社会主義的な要素が非常に強く、彼のバックグラウンドを見るとあながち遠い話ではない気がします。

 なお戦後直後の日本も同じように社会主義の色の強い経済政策(統制経済)を採っており、ソ連も5ヶ年計画で躍進したりお隣中国も改革・開放政策で一気に伸びてますが、案外どん底の経済状態から立て直すには社会主義経済政策に分があるのかもしれません。ある程度伸びたら使えなくなるでしょうが。

 ざっと彼の経済政策を眺めてきましたが、この朴正煕政権期のどこが面白いのかというとこうしたマクロな話ではなく、ミクロなところです。なもんだから次回はより焦点を絞り、韓国軍のベトナム戦争派兵について取り上げます。