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2014年11月28日金曜日

生贄の牛を羊に取り換えるとな

 これは昔々、中国戦国時代のお話です。戦国時代に現在の山東省は斉という国で、この国は「封神演義」でおなじみの太公望を祖とする国でしたが、内紛によって戦国時代には田氏に乗っ取られ、田一族が王となって治めておりました。この田氏斉の四代目は宣王という人物(紀元前4世紀)なのですがこの宣王がある日、宮殿を歩いているとひどくおびえた牛を従者が引いているのを目撃しました。そこでおもむろに宣王はおもむろに、「この牛をどうするの?」と聞いたところ従者は、「はい、煮込んだ鐘に血を塗る儀式に使うので、これから生贄に殺すところです」と答えました。
 この従者の答えに宣王は、「やめなさい。ひどく怖がっているし何の罪もない牛だ。殺すに忍びない」というので、なら血塗りの儀式は中止ですねと従者が確認すると、「いや、儀式はやる必要がある。そうだ、代わりに羊を使えばいい(・∀・)」と閃いたので、その時の儀式は牛の代わりに羊を殺してつつがなく終えたそうです。
 
 私はこの話を大学三回生の頃の中国語の授業で習ったのですが一読して、「これって、羊とばっちりじゃん(;゚Д゚)エエー」と思うのと同時に、牛がかわいそうだからって羊殺してちゃ意味ないんじゃないかと心の中で突っこみました。恐らく、この記事読んでる人たちもみんな同じような感想だと思いますが、出典によると当時の斉の人間ですら「牛をケチって羊を使った」などと揶揄していたと書かれてあります。
 その出典ですがこれは何かというと実は「孟子」からです。「孟子」の説明は省きますが斉の国を訪れていた孟子に対して宣王が民を安んじて治めるにはどうしたらいいかと説いたところ、孟子は「宣王は過去にこんなことやりましたよね」と自分からこのエピソードを切り出します。確かにそんなことがあったと頷く宣王に孟子は、「それこそ仁です」と言わんばかりに激賞し、世間はアホな王やと言っているがこのような心持ちを持つことこそが大事で、王たる資格がある証拠だとまで言います。
 
 正直に白状するとこのくだりまで読んだところで、「孟子もちょっと持ち上げ過ぎじゃないかな?」、「頭のいい人の考えてることはよくわからない」、「もうちょっと単純に事実を見た方がいいのでは」なんていう感想を当時の私は持ちました。しかし牛や羊の肉を食べる時にふとこのエピソードを思い出すことがあり、しかも年数が経つにつれて段々とあの話は含蓄の深い話なのではなどと何故だか熟考することが増えていきました。
 
梁惠王章句上(孟子を読む)
 
 このエピソードについて上記サイトでは原文と共に詳しい解説が載っております。非常に詳しく載っていて、読んでて自分も見入りました。
 直接上記サイトを読んでもらうのが一番なのですが自分の方からここの解説をかみ砕いて説明すると、孟子はこの時宣王に対して、目の前にある生き物に憐憫の感情を持つことが大事だと言いたかったようです。憐憫の心を持つことは仁の心にまで発展させるためのスタートに当たり、結果的には目の前にいない羊を代わりに殺すことになったものの、目の前にいる怯える牛の命を助けたという情けの精神をきちんと実行した宣王の心根は悪くないと孟子は伝えたと解説されています。
 その上で上記サイトの執筆者は補足として、人間は目の前で起こっていることしか関心がなく、目の前にないものにまでは気が回らないのは自然なことであるとして、下記のような例を持ってきています。
 
- どこかの隣国の独裁政治に始終憤激しているのならば、どうして旧ソ連で同様に独裁体制を取っている諸国に激怒しないのか?
- 自分の子には勉強させて高学歴を与えるのに必死なのに、どうして一般論になると「ゆとりある教育を」などといまだにのたまうのか?
 
 どちらも自分の胸にグッときました。実際、日本国内で虐待で子供一人が殺されるというニュースを聞くのとアフリカで今日何百人の子供が死んだというニュースでは、感じ方は後者の方が他人事です。同様に、北朝鮮や中国の政治弾圧の方が中東やアフリカの政治弾圧より気になります。上記のサイト執筆者によるとこうした距離感に伴う感じ方の違いは人間にとって当たり前で、誰にでも平等にだなんて言わずにしかるべき距離のしかるべき対象に愛情や憐憫の情を持ち、発展させていくことが大事だと孟子は人生を通して主張しているそうです。
 
 ここからが私の個人的意見になりますが、解釈にもよりますが上記の孟子の考え方はキリスト教の隣人愛とも通じるように思えました。隣人愛の解釈は人によっても変わりますが、私の解釈だとまずは何よりも身近な人を大事にすることに尽きます。身近な人を大事にすることが出来ればもう一つ先の距離の人も大事にすることが出来るようになり、こうして範囲を徐々に拡大していくことによって良好な共同体を作り上げられるというような具合です。
 こうした考え方のほかにもう一つ最近できてきて、たとえばNGOとかNPOみたいに世界中の人々を助けようとして活動する集団が結構ありますが、そうした集団の方々の活動は確かに尊敬できますが果たしてそれで本当に世界はよくなっていくのだろうかという疑問がよくもたげます。単純な話、日本人が地球の反対側のブラジルで活動するにしてもお金も費用も文化的障壁もあります。それであれば日本人は同じ日本にいる困っている日本人を助けることによって、その助けられた日本人が今度はほかの人を助けていくような状態に持っていく方が結果的には効率がいいのでは、しかもこっちの方が外国語能力とか変なバイタリティが無くてもすぐできるのではなどとも思います。
 
 無論、海外に行って救援活動などをされている方は確かに必要とされているし、尊敬もします。しかしみんながみんなそこまで強くはなれないし、それであれば、「貧困の国に井戸を掘るため募金しよう!でもって砒素いっぱいの水飲ませて村の人を病気にしよう」なんて某テレビ番組みたいな主張はほっといて、もっと距離的にも身近な人同士で助け合おうという精神を持つことの方が人間として正しいのではという結論に至りました。マザー・テレサも、「自国の困っている人を無視して他国の人を助けようとするのはちょっと違う」なんて言ってたそうで、この辺は孟子もキリストも一致しているのではなんて思った限りです。
 
  おまけ
 終戦間際の山田風太郎の日記に、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出すのがキリスト、右の頬を叩いたら左の頬も叩いてくるのがキリスト教徒」と書いてあって吹き出しました。あと自分の大学はミッション系だったのに、「キリスト教は虐殺を繰り返して信者を増やしてったような宗教だ」なんて授業中に言い出す講師がいて、フリーダム過ぎるにもほどがあるずこの大学なんて思いました。

2014年11月25日火曜日

どうして成りすましするんですか?

 また我ながら挑発的な見出しですが、案外ほかの人が使ってないのでこんなの浮かぶのってもしかして自分だけってちょっと悦に入っています。この見出しから恐らく連想がつくかと思いますが、NPOをやってるという二十歳の大学生が先日、小学四年生が作ったように見せかけ、「どうして解散するんですか?」と暗に安倍首相を批判するようなサイトを公開していたことがバレ、ネットを中心に批判が起こり炎上しています。しかも安倍首相までフェイスブックで「卑怯な行為だ」として槍玉に挙げたことからさらなる盛り上がりを見せており、逆に攻め過ぎなのではないかという逆批判も起こる等そこそこ議論としてみていて面白い感じになってきました。自分もこの事件では少し気になる点があり、今の所その点を誰も追及してくれていないので議論に参戦する形で、今日はこの事件について言いたいこと書きたいこと書いてきます。
 それにしても非常に驚いたのは、さぁこれから記事を書こうとパソコンに向かった矢先、読者の方からまさにこの事件について意見をとリクエストを受け取ったことです。
 
 結論から書くとこの大学生はしょうもないやっちゃなぁと思うのと同時に、そもそもどうして子供に成りすまそうとしたのかという点が個人的に興味あります。三度の飯より政治論議は好きだけど、やっぱ自分は社会学士だなぁ……。
 
<事件の経緯>
 事の経緯から簡単に追って行きますが、先日の衆議院解散後にどうして解散をするのかと解散理由を問うサイトが公開されました。そのサイトの製作者と名乗る人物は自分が小学四年生で周囲の友人とこのサイトを作った、子供の自分から見ても解散する理由、特に約700億円というやけに具体的な選挙にかかる費用を挙げてこんな無駄遣いをする価値があるのかわからない、自分たちから見てもおかしいなどと、暗にというかあからさまに安倍首相を批判する論調でもって世に訴えるような内容でした。
 しかし公開直後から小学生が作ったというにはやけに凝ったサイトで、年齢を詐称しているのではないのかという疑惑が持たれていました。案の定というか公式ツイッターで、
 
「妖怪ウォッチ真打はもう買いましたか?」
「もちろん買いました」
「まだ発売してないんだなぁ」
 
 というようなやり取りが交わされるなどボロがどんどん出てきて、証拠もほぼほぼ揃って人物の特定も済んだ段階でようやく件の大学生が小学四年生だと詐称した事実を認め謝罪をしました。このサイトについては公開直後から、主に民主党関係者が取り上げては賞賛しており、またサイトを制作した大学生が所属していたNPO団体に民主党関係者の親類が所属しており、マッチポンプだったのでは、民主党は初めからわかっていたのではなどという疑いも出ています。まぁ政治上における疑惑とは事実という言葉と何ら変わりはないのですが。
 
<大学生に対する私の見方>
 余計なことは置いといてこの事件に対する私の意見を述べると、まず名探偵コナンとは逆にサイトを作った大学生の頭が小学四年生以下だということはよくわかりました。どうでもいい冗談やゲームの攻略情報とかならともかく、政治に対する意見というのは主張したが最後、言った本人が責任を持たなくてはなりません。自分はこのブログでもその点を特に注意を払って書いており、具体的には、「誰々さんがこう言ってた」なんて伝聞系で終わらせず、それに対して自分は賛成か反対か立場を必ず明示させるようにしています。
 にもかかわらずこの大学生は、要するに安倍首相の解散の決断が気に食わなかったのでしょうがその不満を自分自身ではなく架空の小学四年生が言ったことにしようとしました。私に言わせるならば自分自身が自身の人格でもって意見を主張できないなど政治議論においては言語道断もいい所で、匿名としての発信ならまだしも子供を装っていう言い方は安倍首相同様に卑怯としか思えず、そんな生半可な覚悟でしか意見を言えないのなら始めから黙ってるか、そもそも発言する資格すらないように感じます。もっともこんな無意味なことしているあたり、政治議論の場はおろか一般社会においてもいなくていい存在に見えますが。
 
 ただここで話題を変えますが、そもそも何故彼は子供に成りすまそうとしたのでしょうか?理由は簡単で、二十歳の大学生が言うよりも小学四年生が言った事にした方が注目されやすいなどメリットが多いからに尽きるでしょう。じゃあなんで子供が言った方が注目されるのか、改めて考えるとここがこの事件の奇妙な所だなと私は思いました。
 
<何故子供の意見は尊重される?>
 最初に言っておくと、こと政治の話題に関して私は小学生及び中学生、高校生の意見は頭から一切耳を貸しません。一応聞くだけ聞いた後にやんわりと指摘をかけ修正を促したりはしますが、やはり子供の時分だと政治を語るにはまだ周辺知識が絶対的に不足していて狭い了見の中で考えるから、「お金がないならお金を刷ればいい」というような意見になりがちです。また子供の場合、特に注意しなければならないのは「誰かに言わせられているのでは」という点で、周囲の影響を受けやすいこともあって無自覚に、無理解に意見を言うことがあるので場合によってはその意見を操る背後を探る姿勢も必要となります。
 ある意味で今回の事件も「誰かに言わせられている」といった類の事件と言え、上記のような注意点もあるため私は子供の政治や社会に対する意見はそもそも聞くに値しない、取り上げるまでもない、むしろ耳を貸すなと考えているのですが、恐らくこんな価値観の持ち主は日本じゃ少数派でしょう。少なくとも今回の事件の張本人である大学生は子供を装った方がメリットがあると考え、また民主党の関係者らも子供ながら大した意見だなどと持ち上げていました。また日頃の報道を見ている限りだと、40歳のおっさんの意見はあまり取り上げられなくても10歳の子供の意見だったら、しかも政治などといった高尚な話題であれば率先して取り上げられる気がします。
 
<仮説一、毛沢東思想>
 どうしてこのように子供の意見だったらみんな注目しがちなのか、この点が私にとっては凄い不思議です。この理由をいくつか考えてみましたがまず民主党関係者については地味に毛沢東思想が影響してるんじゃないかと最初は冗談っぽく、途中からは割と真剣に考え始めました。毛沢東思想には「余計な知識のない無垢な状態の意見こそが最良」みたいな考え方があり、言ってた毛沢東本人ですら本気で信じてたわけじゃないのに元社会党の系譜を受け継ぐ現代の民主党はまだ毛沢東に踊らされ、子供や女性といった社会的弱者(とみなす存在)の意見ほど貴重で価値があると信じているのではないかと思えてきました。ある意味これは逆差別な気もしますが。
 
<仮説二、子供礼賛なマスコミ>
 では民主党以外の日本人ではどうか。私の目から見ても普通の日本人もやっぱりハゲたおっさんの意見よりは子供の意見を大事にするように見えますが、これは毛沢東思想というよりはマスコミの影響のが強いかなと考えています。マスコミ関係者が上記の毛沢東思想の影響を受けたかどうかはこの際置いておきますが、マスコミは確信犯的に子供や女性、障害者などといった社会的弱者の意見に価値があるかのような報道を行い、彼らを利用しております。何故このように断言するのかというと自分も記者時代に少なからず経験があるからで、記事に書きたい主張したい意見を自分の考えとしてではなく、取材対象に敢えて言わせる、もしくは言ってくれる人間に取材することによってメディアは報道しているからです。
 さすがに自分はこういった社会的弱者をダシに使ったインタビュー記事はさすがに書きませんでしたが、自分の言わせたいように言ってくれる存在として子供なんかは本当に使いやすいような気がします。実際に「あるある発掘大辞典」とかではないですが最近の街頭インタビューなどでは劇団員が多く使われており、市井の生の声というよりはシナリオ上のセリフが現在の報道では主要となりつつあり、こうした報道をやりやすくするため日本のマスメディアは子供の意見は大事で価値があるように見せかけていったのでは、なんて思ったりします。
 
 最後に大まとめに意見をまとめると、そもそも論として政治や社会といったやや小難しい領域において子供の意見なんて始めから聞く耳を持つなと言いたいわけです。内容がやけに通っているとしてもそれは悪い大人が言わせている確率が高く、ちゃんと子供に自分の頭で考えるよう指導してあげるのが大人の役割です。その上で、自分で堂々と意見を言えずに子供をダシに使って言うような人間は間違いなくクズで、そうしたクズを如何にこの社会というかマスコミ業界から追い出していくかが今後の日本の課題なのかもしれません。
 
  おまけ
 政治や社会問題に関しては私は子供の意見を始めから聞きませんが、かといって子供の意見全てを無視する気は毛頭ありません。一つ例を出すと、小学生の女の子二人が並み居る大人たちに対し言い放った、「盲導犬は人間を助けてくれるのに、どうして人間は目の見えない犬を助けてあげないの?」という意見には文字通りドキッとさせられ、自分にはこういう意見を言い出す少年の心はまだありやなどと考えさせられました。

2014年11月23日日曜日

論文盗用での早稲田の准教授解任について

 
 なんか話題にする人も少ないので私の方から一言突っこんでおこうと思います。
 上記リンク先のニュースによると、早稲田大学が商学学術院の准教授が過去に論文を盗用していたとして解雇処分を行ったと発表したそうです。記事によると問題の論文は該当の准教授が2001年と2003年に発表した英文論文で、ほかの記事によると他人の未発表論文をベースにしていて八割方同じ記述となっていましたが、元となった論文が今年公表されたことからばれてしまったようです。解雇処分を受けたその純教授は盗用を認めておりますが、読売新聞の記事によると手続きに対して公正ではないとして不服を申し立てたそうです。
 
 この事件になんで私が注目したのかというと、大体察しが付くでしょうが「小保方氏は?」というのが正直な感想です。説明するまでもないでしょうが小保方氏は早稲田大学の理工学部大学院時代に提出した博士論文で英語サイトの記述を一部コピペした論文を提出していたことが今年明るみになりましたが、これに対して早稲田大学の教授会は悪意があって行ったことではなく参考にした記事を誤って載せてしまったとして、修正した論文を提出することを条件に処分は行わないと発表しています。もっとも一部の早稲田大学の教授からはこの問題に対する処分としては適当ではないと声が上がったそうですが。
 
 まぁ小保方氏の論文は今回の事件の様に「八割方」をパクッたというわけではないものの、片っ方は悪意がないとして不問とされたのに対しもう片っ方は盗用を認めたということで懲戒解雇とするのはなんか温度差があるような気がしないでもありません。というよりその前に、どうして早稲田はこんなに盗用問題が頻繁に起こるのか、理工学部だけじゃなかったのかという点も気になります。
 盗用が問題であることは小学生でも十分に理解できるでしょうし妙な弁解の余地など私はないと思います。それゆえ小保方氏への処分は今でも手ぬるいと思いますし、そうした過程を経ているだけに今回の准教授が処分に対して不服を申し立てたというのも行為としてはどうかと思うものの文句の一つも言いたくなる気持ちは理解できなくもありません。
 
 私が言うまでもなく今年は数年に一人でるか出ないかというような世間を騒がせる人物が数多く輩出した異常な一年でありましたが、MVPは誰かというのならば私の中では「号泣議員」かこの小保方氏だと思います。正直言って甲乙つけがたいところがありますがどちらも大きな問題点(政務費の着服と論文盗用)を浮き彫りにして世間に認知を広めたという点では一部の功ありといったところです。

2014年11月22日土曜日

漫画レビュー:惡の華

 このブログ書いてて一番受ける質問ときたら何よりも「どうしてネタが尽きないの?」という質問です。私本人からするとなんでネタが尽きないのかというよりは書きたいと思う内容を思いついてもなかなか全部書き切れないというのが今の状態でして、この数日書いた記事も原案は大体二週間くらい前に思いついた話ばかりです。中には時間が経ち過ぎてネタごと没にすることも多いのですが、今日書く久々の漫画レビューはネタが腐らないということもあって先延ばしにされ続けた上での執筆です。書こうと考えたのは確か9月頃だし。
 
惡の華(Wikipedia)
 
 私がこの漫画を手に取ったのはなんかネットでやたら見るタイトルだったことと、巻数が少ないから漫画喫茶で余った時間を消化するのにちょうどいいからと思ったことからでした。そんな軽い気持ちで手に取ったのですが一読してなかなかに凄い衝撃を受け、過去にこれだけ衝撃を受けた漫画を上げるとしたらパッと思いつく限りですと「エルフェンリート」くらいしか思い浮かびません。
 
 この「惡の華」がどんな漫画なのか簡単にあらすじを書くと、主人公はどこにでもいるような中学生の男子生徒(春日高男)なのですがお年頃もあってか中二病がやや入っており、タイトルにもなっているボードレールの「惡の華」を始めとした海外の文豪の小説を父親に勧められるままに読み耽り、「俺はほかの男子とは違う」などと気弱な性格ながらに考えています。そんな春日君ですがある日、ふとしたきっかけからクラスで密かに憧れていた女子生徒の体操着を盗んでしまうのですが、そこは気弱な春日君のことだからすぐさま後悔し、誰かにばれないうちにどこかへ捨てに行こうとして自転車に乗りながら捨て場所を探している最中、ばったり会ったクラスメートの女子生徒こと仲村佐和に、私見てたんだよ 。春日くんが佐伯さんの体操着盗んだところ」 と、めっちゃいい笑顔で言われてしまいます。
 この仲村佐和こと仲村さんがこの漫画のヒロインに当たるのですが実質こっちが主人公と言ってもよく、「惡の華=仲村さん」みたいな感じで世間にも認知されている気がします。そんな仲村さんですがどんな女の子なのかというと、テストを白紙で出した挙句に教師に咎められると「うっせークソ虫」と吐き捨てるという、非常にエキセントリックな性格しています。ちなみにこのシーンがこの漫画の冒頭です。
 
 話はあらすじに戻りますが、仲村さんは春日君に対して体操服の件を黙っていてあげる代わりに自分の言うことを聞くようにと要求します。さっきも書いたように仲村さんは非常にエキセントリックな性格をしているだけにどんな要求を出すのかというと、一言で言えばドS極まりない要求ばかりで、最初でこそ河原に来いとか面白い話をしろとか大人しいものでしたが、ひょんなことから春日君が盗んだ体操着の持ち主であるクラスのマドンナとデートすることになると、「お前、今着ている服の下に盗んだ体操着着てデートしろ」と命令してきます。しかも何とかばれずにうまいことデート出来ていたら、突然後ろからバケツの水ぶっかけてスケスケにさせてくる始末です。春日君はすぐ逃げ出したので相手にはばれなかったけど。
 
 こんな具合でこの漫画の前半は仲村さんのドSっぷりを楽しむ漫画ですが、中盤からやにわに趣が変わり、徐々に世間体にどうして甘んじなければならないのかというような疑問を投げかけてきます。先程にも書いたように仲村さんは全く周りを気にせず自分の言いたいことを言うしやりたくないことははっきりと拒否しますが、そんな仲村さんがどうして春日君に執着するようになったかというと「もしかしたら自分を理解してくれるのでは」という期待があったからだという風に見えます。作中でも仲村さんは度々、春日君に本心をもっとさらけ出せ、周りのカスどもに同調する必要はないなどということを繰り返し述べ、その上で「春日君は変態の豆野郎だが自分もきっと同じ変態なのだろう」ということを口にします。
 この辺りが自分も凄い共感したのですが、小学生の頃ならまだともかく、中学生くらいから本心ではやりたくなくても周りに合わせて興味がないこともさもあるように話を合わせたり、周りがやってるからという理由で自分も同じ行動を取ったりなどと、本心を押し殺して実体のない空気に身も心を合わせるようになります。それこそ周囲に置いてかれないよう必死になって。
 
 私自身、同じような疑問を中学生頃に持ち始め、周囲と同じ行動を取ることに価値があるのか、それが本当に自分自身の幸福につながるのだろうかと仲村さんほど過激ではないものの疑問を覚えました。その挙句、自分のやりたいこと、なりたいものに対して一直線に進むべきだと思って高校には行かずに小説家目指して修行したい、同時にプロレタリアートみたいに現場で働きながら大検受けて大学行きたいと申し出ましたが、親に拒否されたので親の顔を立てて黙って学校に通い続けました。今現在も中学生の自分が考えた通りに無理して通うほど高校に価値はなかったなと考えてますが、上記の申し出をただの一度しか言ってないにもかかわらず「あの時高校に行きたくないとか抜かしやがって」と、その後ずっと親が自分を責める口実にさせられたことは失敗であったと思うと同時に今でも強い憎悪を覚えます。
 
 話は戻りますが仲村さんはこういった思春期における周囲の同調圧力に対してはっきりとノー、関西弁で言うならええかっこしいと拒否しており、そんな自分を理解してくれるかもしれない存在として春日君に執着したのではないかと自分は解釈しています。もっとも話の途中で仲村さんは春日君はやっぱり普通人間だと述べ一旦は見放しますが、距離を置かれたことで何故仲村さんが自分に執着していたのか気が付いた春日君が逆に歩み寄り、仲村さんを理解するため変態的な行為に手を染めていくことになります。
 以上までが中盤までの内容ですが、後半は中学生から高校生へ年代ジャンプすると共に登場人物が一新して、なんか普通の青春ラブコメのような展開が続きます。作者はこっちの後半こそメインだと考えているようですが他の人のレビュー同様、私も読んでてあまり面白くなかったし印象に残るようなシーンもほとんどありませんでした。唯一、満を持して数年ぶりに春日君と仲村さんが再会するところは読んでてこっちもドキドキしてくるほど面白かったですが。
 
 私の評価としては先ほどにも書いた通り、思春期特有の悩みとともに何故本心を押し殺さなければならないのかという疑問を呈示をする点が良く描けており、一読に値する漫画だと見ております。特に、よくもまぁこれほど暴力的な言葉を次から次へと浮かぶものだと思えるくらいに過激な仲村さんを通してそういったものを描いているので強い印象を残すと共に、思想というのは一種の暴力性を含んでいるのだなと再認識させられました。
 
 しかし漫画としてみる上では見逃せない欠点もあり、レビューを書いているほかの人が誰も指摘していないので今回自分が書こうと思った点なのですが、致命的なまでに主人公の春日君に魅力が感じられません。優柔不断な性格の持ち主として描かれているため情けなく見えることは仕方ないにしても、ほかの人は知りませんが自分はこのキャラに何にも共感できませんでした。優柔不断なキャラでも描き方によってはいくらでも魅力的に描くことはでき、いい例としてはまさに冒頭で挙げた「エルフェンリート」の主人公で、優柔不断であることは共通しながらも中盤で明かされる裏設定によって一気に印象が変わり非常に生き生きとしたキャラクターに化けています。
 作者の押見修造氏に対して苦言を呈すと、私はこれまで押見氏の漫画をほかにも「ぼくは麻里のなか」、「漂流ネットカフェ」の二作を読んでおりますが、「惡の華」を含む三作とも魅力あふれるヒロインにやや優柔不断な男主人公が引っ張り回されるというストーリーで共通しています。しかもどれも男主人公は見ていて全く魅力がなく、ヒロインを引き立てるためとはいえこれだけ傾向が共通するのは後々飽きられるなど致命的になるのではないかと他人事ながら心配しています。まぁ人のやり方にあれこれケチ付けるのはよくはないと思いますが。
 
  おまけ
 「惡の華」の前半部の終わり間際で春日君と仲村さんと体操服盗まれたクラスのマドンナ三人が対峙する場面がありますが、この場面にて仲村さんが言い放った、「春日君はオメーとゴミデートしてたときもカス告白したときも、匂い嗅ぎまくり擦りつけまくりのオメーのクソ体操着体にまとわりつかせてズクンズクンしてたんだよ!」というセリフが個人的に一番お気に入りです。

2014年11月21日金曜日

いかりや長介から志村けんへ最後の手紙、というデマ

 いつも通り本題と関係ありませんが、上記のパワプロの新垣投手の能力値評価はちょっとひどいと思いつつも校としか設定できないというのもちょっと理解できちゃいます。真面目な話、過去最低の能力値なんじゃないかなこれ……。
 
 そういうわけで本題に入りますが最近ネット上で、「いかりや長介さんから志村けんさんへの最後の手紙」という話があることを知りました。これはいわゆるコピペの一つで、ある定型の文章があちこちの記事に引用され回っているのですが該当のテキストをそのまま下記に引用します。(芸名であることを考慮して敬称はこの記事では省略します)
 
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志村へ

この手紙をもって俺のコメディアンとしての最後の仕事とする。
まず、俺がこの世からいなくなるという悲しい事実を笑いへと昇華ために
葬式をコントのネタにするようお願いしたい。
以下に、コントについての愚見を述べる。
コントを考える際、第一選択はあくまで「笑いを取れば勝ち」という考えは今も変わらない。
しかしながら、現実には若手芸人の多くがそうであるように、他人をバカにして笑いを取ったり、
素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる。
その場合には、企画段階から綿密な計算と準備が必要となるが、残念ながら未だ満足のいくコントには至っていない。
これからのコントの復活は、綿密な企画立案、それとライブの復活にかかっている。
俺は、志村がその一翼を担える数少ない芸人であると信じている。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。
志村にはコントの発展に挑んでもらいたい。
遠くない未来に、素人いじりや他人をこき下ろすコメディがこの世からなくなることを信じている。
ひいては、俺の葬式をコントにした後、計算された笑いの一石として役立てて欲しい。
リーダーは活ける師なり。
なお、最後に、 お笑い芸人でありながら、多数の人を泣かせて旅立ったことを、心より恥じる。
 
いかりや長介
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 この文章ですがさすがに晒しちゃうとかわいそうなのでリンクとか貼ったりしませんが、あちこちのブログやFacebook、果てにはYoutubeに動画まで作られていて結構な数の人間が感動話として取り上げています。しかし私はこの文章を一読してすぐ違和感を覚え、果たして本物だろうかと疑問に感じました。
 
 違和感を覚えた点を挙げていくとまず一つ目は、「他人をバカにして笑いを取ったり、素人にツッコミを入れるだけで内輪受けに走っている事例がしばしば見受けられる」と書かれたテキストで、こうした「弄り芸」が流行った時期といかりや長介が逝去した時期は微妙にずれるのではと感じました。次にいかりや長介は医者から家族には余命が宣告されていたものの本人には知らされていなかったようで、そんな状態で果たしてこのような遺書をきちんと書くことが出来たのか。そして何よりも、逝去した2004年当時にこのような手紙があったなどという報道を私本人が全く記憶していないということです。逝去当時は各メディアがこぞって大きく取り上げており、他のドリフメンバーに対してもたくさん取材がされていたにもかかわらずこの手紙について全く記憶にないというのは私に限っては有り得ないのではと考えました。
 
 そんなわけでこの手紙が本物かどうか確かめようとざらっと調べ、まず最初にどこが初出なのかを探りました。初出を探るに当たっては引用しているブログなりの更新日を追って行くのが一番なのですが、調べていくとどうも2014年の今年に入ってから引用される回数が増えていることがわかり、それ以前となると2012年に引用している記事が一件あった後はほぼ皆無であった中、2004年に掲示板の書き込みらしいものを引用しているサイトが見つかりました。
 この時点でうすうす勘付いてきましたが続けて調べていると、あっさり答えが出ました。
 
 
 結論から言うとこの手紙はダウトことデマで、偽物です。上記リンク先を見れば一目瞭然ですがこの手紙は「白い巨塔」のラストシーンで主人公の財前が同僚に送った手紙文を下地に、さもいかりや長介が志村けんに送ったように改編するという言葉遊びの一種だったようです。しかもこの元となった財前の手紙ですが、このサイトを見るとほかにも多種多様に改編されているようでそこそこ有名なベーステキストの様で、面白がって探してみたらマツダ地獄について書かれたこちらの知恵袋がなかなかツボにはまりました。
 恐らく年代などから察するに、こちらの引用しているサイトに書かれている日付の2004年が初出ではないかと思います。書かれた当時はそれほど脚光を浴びなかったものの10年経った2014年にレトリックであることがわからないまま、というより財前先生の手紙文が忘れ去られたため引用され始めたのが今の実体でしょう。確信犯かどうかまでは詮索しませんが……。
 
 こんなわけで自分の予感が当たって一安心。明日は土曜日だしゆっくり眠れると言いたいわけですがもうちょっとだけオチをつけると、2004年に作られたコピペが10年の年月を経てあちこちに引用されるようになるというのはなかなか稀有なことのように見えます。何故このような稀有な事態が起こったのかと推察するにやはりいかりや長介に対して思い入れを持つ人間が、その死から10年経った現代においても数多くいたからだと思えます。無理矢理いい感じに話をまとめるならば、こうしたデマがそこそこ拡散すること一つとっても彼が偉大なコメディアンだったことが偲ばれます。

2014年11月20日木曜日

九州丸ごと特区化の提案

 またどうでもいい内容をほざきますが、女性の忍者は「くのいち」と呼ばれますがオカマの忍者は「くのいち」と呼んでいいのか今日ずっと悩んでいました。ちなみに忍者ゲームだと「忍道2」が一番好きで、遊んでた頃は食べると爆発する寿司を投げつけては拾い食いする敵忍者を見て大笑いしてました。
 話は本題に入りますが、先日Yahooニュースに載った下記ニュースがちょっと目に留まりました。
 
 
 この記事を一読して感じたのは変わった信号があるということではなく、神奈川県内に「さがみロボット産業特区」という特区があったのかという驚きでした。そこそこ経済ニュースは人並み以上に呼んではいると自認しておりますがこの特区の存在は今の今まで知らず、なんで知らなかったのだろうと思うと同時にこの特区の広報は何やってるんだと疑問にも思いました。控え目に言ってもこの特区の存在は一般人は地元民でなければまず知らないでしょう、ましてや外国人は確実に知らないと思います。
 特区というのは定義にもよりますが、基本的には国内外を問わず特定業種の企業を集積し、発展を図る地区を指すと思います。中国などはまさにこの特区方式で世界中から投資金を集めることに成功した代表例ですが、そうした中国にある数多くの特区を見ている私からすると同じ日本人にすらほとんど認知されていないこの神奈川県のロボット産業特区は意味があるのか、そもそも進出企業にはどのような恩恵があるのかとか全く分からず、やるんだったらアトムの信号なんてどうでもいいからもうちょっと真面目にやれよと言いたくなります。
 
 このように私がマジになって怒るのも日本国内の各都市は国内企業はおろか外資系企業の誘致に対してあまりにも不熱心だからです。広報戦略はもとよりどのような業種の企業を集めようとするのか、どんな優遇措置を用意するのかすべてにおいて中途半端で、こういってはなんですが中身を伴わずポーズだけとって「はいやりましたよ」と言い逃れしてるようにしか見えません。構想倒れで終わったものの非常に期待していた最低賃金特区は結局流れちゃうし、同じ神奈川県の川崎市に去年出来た医療機器の産業特区の存在なんて普通の人は知らないでしょうし、やるんだったらもっと本気でやってもらいたいものです。
 
 そうした私の不満をつらつら述べた上で敢えてここで提案しますが、現在のこうした日本国内の特区は結局都市単位の狭い範囲でしか行われていません。そのような狭い範囲こそがすべてにおいて中途半端になってしまう要因を生んでいるように思え、やるんだったらもっとでっかく、大規模に、猿でもわかるような単純な構造にして内外に訴えかけるべきであって、それだったらいっそのこと九州地方を丸ごと経済特区にしてしまってはどうかとこの頃友人と話しています。
 
 何故九州地方を丸ごと特区化しようと主張するのかというと大きく分けて三つ理由があります。一つ目は私が記者だった時代、九州地方の数多くの中小企業関係者らが海外進出、海外販路の開拓に向けて非常に熱心な姿勢であったことを見ているからです。やはり距離的な近さもあってか中国や香港、韓国、台湾などといったアジア各国に対する視野は東京の人間より格段に強く、ほとんど人材も資本もないにもかかわらず徒手空拳で挑もうとする姿勢には強く感銘を受けました。何気に長崎県は昔から出島があっただけに現代でもパスポート所持率が全国ナンバーワンな国際的な県民性があり、国際取引を推進する特区としてはうってつけだと考えております。
 知らない人もいると思うので書いておくと、長崎県は自治体自身が独自に動いて上海へ毎日鮮魚を輸送する航路を開拓しています。ほかの九州各県の自治体も、割と自分たちで率先して動いてきます。
 
 二つ目は一つ目の理由にもあげていますがアジア各国との絶対的な距離の近さです。特に中国からだと飛行機での移動時間が短いこともさることながらフェリー便も出ており、商取引などの面で有利な点がいくつもあります。中国に限らなくてもタイやシンガポール、カンボジアなどにも距離的に近い上に、外国人がやけに喜ぶ温泉地も豊富にあることから接待関連でもやりやすい環境にあるのではないかと見ています。
 
 三つ目。これが一番大事なのですが、地元民からしたらそうでもないかもしれませんが私の目から見て九州在住者はまだ「同じ九州人」という共通するアイデンティティを持っているのではないかと感じます。各県によって県民性はもちろんあって考え方にも相違はあるでしょうが、本州とは陸続きでないことに加え文化的な共通性もいくつか見られることから、県の垣根を越えて一地方一丸になってまとまるという方針の下では九州が現状で一番適しているのではないかと思えます。
 こっからがある意味私の真骨頂ですが、私は九州全体で丸ごと経済特区となるついでに、ほかの地方に先駆けて道州制の導入を吸収単独でやってもらいたいという考えを持っております。
 
 道州制の議論はこのところさっぱりで、特に維新の会の橋下市長が大阪都構想を出して以来は明確に後退しつつあります。しかし兵庫県の号泣県議を始めとして日本の地方議会の腐敗は国会の汚職事件など霞んで見えるほど深刻でなおかつ議員になる連中も文字通りカス揃いです。
 こうした現状を打破するにはどうすればいいか。各地方の議会の現況をマスコミが徹底的に報じたとしても有権者がそれに反応できるかと言ったらはっきり言って無理です。ならとばかりに私は一気に粉砕した上で新しいものを作ろうと考えがちなのですが、この際県議会とかは全部廃止した上で、九州議会のように道州制の導入によって範囲の大きい自治体を新設した上で政治浄化を図る方が手っ取り早いと言いたいわけです。仮に九州単独でも道州制を導入できればより大きな予算枠で政策が決められる上、必要な人材も集めやすい上に海外への広報も福岡県などが単独でやるより「九州」という大きな地方名で宣伝した方が進めやすいでしょう。
 
 先程にも言った通りに道州制の議論は現在凍結に近い状態です。しかし私としては導入するに価値ある政策案だと考えているのですが、この道州制がいまいち盛り上がらない理由として大きいのは区割りをどうするかでいっつも揉めてしまい、具体的には中部地方をどこからどこまでを東海、北陸に分けるのか、長野県はどっちなのか、三重県は近畿なのか東海なのかという点で暗礁に乗り上げてしまうからです。
 それに対して九州は本州と陸続きでないこともあって道州制の区割りでは何の問題点もなく、恐らく争おうという人間もいないでしょう。それであればこの際、ほかの地方は置いといて九州だけ先に道州制を導入し、この政策のメリットやデメリット、改善点を測る上での試金石になってもらった方が九州にとってもほかの地方にとってもいいような気がします。こういってはなんだけど、九州の人の方が危機感強いからこうした案に対しても肯定的になって割と賛成してくれるような。
 
 なお仮に九州だけ単独で道州制を導入するとしても、沖縄県は九州には入れず別枠に置いた方が良いと個人的に思います。理由は二つあり、一つは距離的にも文化的にも九州と沖縄では離れており同じ枠内で動いてもあまりメリットが見えないということ。二つ目はさすがにこのブログ上では書けないような内容のため、興味のある方は個人的に私にメール送ってくれれば答えます。
 今日調子悪いからあまりいい文章になりませんでしたね。内容もやや描き辛い内容ですが、かといって短くまとめたらしょうもない完成度になっちゃうしなぁ。

2014年11月18日火曜日

トヨタの燃料電池車とそれに関わる雑多な報道

 今日はラーメン屋で晩飯食べてましたが、店内で猫が座ってたので手招きしたらすぐやってきて、撫でてたらすぐ膝の上に載ってきて、結局ラーメン食べ終わるまでずっと膝の上で寝てました。えらく人懐っこい猫だったなぁ。
 話は本題に入りますが、本日トヨタが新開発した燃料電池車「MIRAI」を正式発表しました。この件について先日、友人に簡単な講義を行ったのと今日出た報道を見ていて物足りなさを覚えるので、素人ながら生意気にも報道関係者にちょこっと苦言を呈そうかと思います。
 
 
 まず燃料電池車とはそもそも何なのかというと、何らかの化学反応を起こすことによって電気を発生させ稼働する充電する電池を搭載し、その電力で走る車を指します。名称を英語にすると「Fuel Cell Vehicle」となり、頭文字を取って「FCV」と表記することがマスコミの間でもう出来上がっており、友人にはこの略称と由来を確実に覚えるようにと伝えています。
 今回トヨタが出したミライは水素を外部燃料としていて空気中の酸素と化学反応を起こすことによって電力を発生させる仕組みで、この過程で二酸化炭素(CO2)は生まれず後に残るのは酸素と水素が結合してできる水だけです。
 なお先に注意しておくと、水素を燃料とする車としては過去にマツダがRX-8をベースに「水素自動車」というものを出しておりますが、これはミライとは異なり水素をそのまま燃やして走るという全く異なる車で、技術的にもエコ的にも何も残らない車だったらしく完全に消え去っています。間違って同系列で語ると恥ずかしいので注意しましょう。
 
 話は戻りますがトヨタのミライは走行中、排出するのは理論上は水だけです。その水から再び水素を取り出せれば完璧なエコ循環が出来て素晴らしい車だ、なんて書く記者もいますが、そんなうまい話有るわけねぇだろと突っこむ記者は私が見る限り少ないようです。
 まず現時点で言えることとしては、燃料電池車のコストは非常に高いです。原因は燃料電池を作るのにレアメタルが結構いるためで、今回トヨタが出すミライの車両価格は税込で約720万円、購入に際して国から200万円の補助金が出ますがそれでも500万円以上で、これだけあればプリウスは二台買えます。コストが高いのは販売価格だけではなく、環境負荷も決して低くありません。
 
 私が今日いくつかの記事を見ていて非常に気になった点として、どこも燃料となる水素の生産方法を熟知していない点があります。水素というのは空気にも含まれているためメジャーな作り方としては空気を極低温にまで下げる過程で蒸留するというやり方なのですが、これだと温度を下げる過程で電力をバンバン使うため、最終的なCO2排出量で見たらFCVは間違いなく電気自動車はおろかハイブリッド自動車にすら劣ると見られています。一応、水素を作るにはほかにもやり方があって重油などといった化石燃料の精製過程に発生する水素を集めるというやり方だとコストも比較的抑えられますが、これだと実質化石燃料の量によって取れる量が決まるため、完全循環型とは言い切れないのかあまりトヨタも紹介してません。
 
 あと肝心なこととして、事故った時はどうなるのかという不安が私の中にはあります。水素というのは言うまでもなく簡単に爆発するアセチレンに次ぐくらい危険な気体でもしも車体に搭載する容器から洩れたりしたらどうなるのか、そういった事故対策についての言及が今日までの発表に少ないのは残念です。
 それとともに、今回ミライに搭載される水素貯蔵容器には700気圧分の水素を入れられるのですが、参考までに日本で使われる一般的なガスボンベの貯蔵容量を述べると、こちらは大体500気圧です。500気圧のガスボンベでもほんの少し穴が空いたら百キロくらいあるボンベは内部気体の噴出で確実に吹っ飛び、数十メートル先にまで飛ぶことがあります。もし走行中にミライの貯蔵容器に穴でも開いたら、確実に車両ごと宙に舞うでしょう。もっとも、ミライの貯蔵容器はマグネシウム合金使ってるかと思ったらFRPなので穴空くことは確かに少なく丈夫ってことは間違いありません。
 
 以上まではミライの悪口ばかり書いてきましたがフォローポイントを書くと、航続距離などの面においては先行の電気自動車を確実に凌駕する性能を持っております。以下に簡単にまとめたのでご覧ください。
 
  車種/航続距離/充電(充填)時間
トヨタ・ミライ/650km/約3分
日産・リーフ/228km/約8時間(200Vで)
三菱・i-MIEV/120~180km/4.5~7時間(200Vで)
 
 この表をどっかのメディアは作ってくるかなと思ったらどこも作ってないので自分でまとめました。これで見ると新型エネルギー車の中でミライは利便性が頭一段抜けていることがわかります。もっとも電気自動車も急速充電器使えば数十分程度で満タンにできますが、そういう設備が街中では少ないことに加え、ユーザーのレビューを見ていると航続距離は上記のカタログスペックの約半分くらいが実情だというのであまりフォローになりません。
 
 今後の展望として述べると、恐らくFCVは流行らないと思います。トヨタも国に要請されて一応やってるような態度に見えますし、環境負荷や生産コストと見比べると現行のエコカーに対して不利な点が多すぎる気がします。何気に新型デミオが燃費でアクアに肉薄する上、燃料が軽油だから距離当たりの燃料費ではアクアを上回るという事実をもっとメディアは取り上げるべきだと思います。
 
 
 最後に気になった記事として、上記のニュースがいろいろとツッコみたくなります。今日日の内容から言ってトヨタの話かと思ったらホンダのFCVの取組についてまとめた記事で、
 
「『ホンダはFCVのリーディングカンパニー。水素社会の一翼を担う技術開発にチャレンジし続ける』。伊東孝紳社長は15年度発売予定のコンセプトカーを前に力強く語った。」
 
 というホンダの発言に対して、トヨタが今日から販売を開始するというのに何を以って「FCVのリーディングカンパニー」などとほざくと、どうして記者はツッコミを入れないのか不思議に感じます。更におかしな点を突くと、
 
「FCV普及のハードルは価格だ。高価なプラチナを使う燃料電池の製造にコストがかかり、販売価格は700万円程度。政府は約200万円の補助金を出す方針だが、それでも消費者には手が届きにくい。」
 
 この引用に出ている700万円という販売価格についてなのですが、ホンダは現時点で来年発売するとしている(どうせ延期するだろう)FCVの予定価格を一切明らかにしていません。にもかかわらずどうして700万円という具体的な数字を出せるのか、ってかこれトヨタの販売価格だよねと言いたくなりますがこの記事ではトヨタの名前は一切出てきません。折角FCVの特集なのにホンダより先行しているトヨタの現況について何故触れないのか、触れないくせに参考価格だけは黙って引っ張ってくるのはどういう心境なのかと問い詰めたくなります。
 仮に自分が前の会社でこんな記事書いて出してしまったら、確実に上司から「この数字の根拠はどこだ、てめぇぶっ殺すぞ!」と怒鳴られていたと思いますし、怒鳴られても仕方ない記事だと私には思えます。第一、ホンダはこういう提灯記事を書かせる暇あったらリコール減らせという気になります。ハイブリッド技術でもプリウスが出る直前まで、「うちがリーディングカンパニー」とか抜かしてたけど。