見る人が見れば一発で出典がわかるでしょうがある漫画のセリフにこんな物があります。
「人はみんな自分は死なないと思っている。いつか命が尽きることを頭では理解していても、それは今日や明日じゃないと思っている。だけど死ぬ。今日も死ぬし明日も死ぬ。事件で事故で病で偶然で寿命で不注意で裏切りで信条で愚かさで賢さでいつだってみんな死んでいく」
ここだけ引用すると陰気感いっぱいな内容で終わってしまいますが一応この続きには、「そんな中、女の子のために死ねる僕は残念ながら幸せだ」と続いて漫画の中ではいつも通りの少年漫画な展開が続きます。もともとこのセリフをしゃべるキャラクターは名言の多いキャラクターでありますが、背景なしで理解できるセリフとしてはこのセリフが最もよく出来ているのではと個人的に思います。
というのも私自身、このセリフの通りに普通の人はまさか明日死ぬなんてまず考えないどころか、1ヶ月後、1年後、5年後、10年後、100年後に死ぬかもしれないという可能性を全く考えることはなく、直接死が差し迫る病気なり怪我なりしない限りは死を意識しない、と思うからです。その一方で他人が死ぬ可能性については意識というか考えることができ、敢えて表現するとしたら「他人の死は認識できても自分の死は認識できない」、というのが圧倒的大多数の人間に共通する特徴だと思います。
またサブカル媒体からの引用となりますが、ホラー(?)映画の「SAW(ソウ)」という映画なんかまさにこの概念をテーマにした作品と言えます。「超映画批評」の前田有一氏をして「世界一おせっかいな殺人鬼」と呼ばせたこの映画に出てくる殺人鬼「ジグソウ」は、自殺を企図して実行したものの未遂に終わって生き延びるのですが、この自殺未遂によって死を覚悟してから世界の見方や価値観が変わり、かつての自分の中にはなかった生きることへの喜びを知ります。そしてこの生きる喜びをほかの人にもぜひ伝えたいと考え、麻薬使ってたり不倫してたり詐欺してたりなどと生を冒涜するような行為をしている人間を片っ端からとっ捕まえては、制限時間内に腕とか足とかの人体パーツを切断しないと死んでしまうゲームにかけたりします。やり方はどうあれ、死を意識することによって生きることの大切さがよくわかるようになるという考えは理解できないわけではありません。
実際に癌などの不治の病にかかった人たちの証言を聞いても同じように、終わり(=死)を意識してから生きていることそれだけに感謝できるようになった、世界の見方が変わったなどという話が多くあるようにみえます。では何故、死の間際というかおおよその死期がわかってからこのように価値観が変わってくるのか、答えは最初に書いたように普段生きている間は死ぬことなんてまるで考えないからです。死ぬと言ってもそれは自分以外の他人に起こることで、頭では自分もいつかは死ぬとわかっていてもその事実に直接目を向けることはなく、むしろそむけることによって一種、自分が不死であるように考えて普通の人は普段生活をしているのではないかと思います。逆を言えば、差し迫った理由もなく常に死を意識している人間は確実にマイノリティであり言ってしまえば上記の殺人鬼ジグソウ同様に異常者と言ってもいいと思います。
そんな私に言わせるならば、ジグソウほどではないにしろみんなも死というものから目をそむけず、ほんの少しでもいいから意識をした方がただ生きているだけの日常にも張りが出るのではないかと考えています。普段から死を意識するなんて日本社会で公言したら陰気だとか暗いとか言われるでしょうが、私に言わせれば全く目を向けないのは陽気を通り越した能天気ではないかと言い返したいわけです。それほどまでに死を覚悟しているか否かというのは人間性にとって大きな差になると思えます。
私の体験談で話すと、さすがに明日死ぬかもという水準にまでは達しませんでしたが、このブログを見ていればわかるしょうが昔からやたらと攻撃的な性格をしていてケンカも多かっただけに十代の頃は二十歳になる前にくだらないケンカで死ぬだろうと考えて、それまでに積み込めるだけ知識を積み込もうと思って自分が興味を持つ対象をひたすら追っかけました。そしたら予想に反して二十歳を越えちゃって、しょうがないからこれからはボーナスゲームだと思ってとりあえず次の目標を三十に設定した上で、それまでにやりたいと思うことを全部やろうと思って中国行ったり記者になったり会社作ったりしました。そしたらまた予想に反して三十歳越えちゃったので、この頃は早くお迎え来ないかなと思いつつとりあえず支援の必要な友人に出来る限りの支援をしながら、さしたる目標もないまま培った知識の記録をつける日々を送っています。
自分と普通の人を比べるならば、最も特徴的な点として行動力と決断力の違いが確実に挙がって来ると思います。実際に周囲の人からも、「何故手持ちの安全パイを切らない」としょっちゅう言われますが、「どうせミスっても死ぬだけ」というか多少は死んでもいいという妙な覚悟があるからこそこの二点においては図抜けた水準に至ったのではないかと自分も思います。何も自分のような生き方をしろとまでは言うつもりは全く有りませんが、今日と同じような明日が来るとは限らないのだしやりたいと思うことを今すぐやろうとする姿勢があった方が生きてて面白いし、失敗しても何もしなかった時ほど後悔はしないような気がします。
こうした死を意識することの重要性を現代社会で比較的訴えていると思うのは言うまでもなく仏教ですが、宗派によっていろいろ考え方は変わって来るように思えます。さすがに自分の価値観がどの宗派に近いかまではわかりませんが、中国の陰陽論の如く光があるから影があり影があるから光があるように、生があるから死があり死があるから生があるといってもよく、生にばかり固執しても駄目だし死にばかり考えをとらわれても駄目で、両者をバランスよく見るような姿勢こそが一番大事であると高校生くらいの頃からずっと考えてきました。
その私からして現代人は生に対する固執がやや強過ぎるように見え、死に対する意識を喚起する必要があるのではと思えてくることから、こういう一見すると根暗な記事をわざわざ書こうとするわけです。
