・福田みどりさんが死去 司馬遼太郎氏の夫人(産経新聞)
上記のニュースは先月、作家の司馬遼太郎の夫人にあたる福田みどり氏が亡くなったことを報じたニュースです。このニュースを一目見た時にパッと私の頭に思いついたことは、「そういえば『司馬史観』という言葉もすっかり聞かれなくなったな」という思いでした。
司馬遼太郎について説明する必要はないでしょうが昭和を代表する人気歴史作家で、河合継之助など彼が小説に書いた影響で一躍人気となった歴史上の人物が数多くいるなど現代においても計り知れない影響を与えた人物です。先に白状すると私は彼の小説だと「太閤記」しか読んでおらず、中学生時代に名古屋に左遷されたうちの親父からこれ読めあれ読めと勧められつつもなんかはまることが出来ず現在においてもほとんど全く手に取っておりません。もっともよく人に驚かれるくらいに普段から本を読まない性質であるのですが……。
そんな大作家、司馬遼太郎の影響力を示す言葉として上記の「司馬史観」という言葉があります。この言葉は司馬遼太郎の小説で語られる歴史の見方でもって各歴史的事件や人物を評価しよう、分析しようとするような見方で、どちらかと言えば影響を受けた読者たちが持った歴史観として使われます。この言葉自体はさすがに昭和期を一桁しか生きていないためどのように発生したのかライブで見ていないためわかりかねますが、少なくとも私が子供だった頃は社会に定着して、この司馬史観に則って実際の歴史を評価しようという動きは確かにあったように思われます。
具体的に述べると一番大きく取り上げられていたのは日露戦争以前と以後の日本に対する評価で、「坂の上の雲」で日本は日露戦争まではまだまともだったがそれ以降は列強になったという驕りを持ってしまいその後の二次大戦に至るまでの暴走を始めたという考え方を描いた、とするのが司馬史観を代表する歴史観だとして、90年代末期なんかは戦前の日本の行動を肯定的に見る右翼などから批判されていたのを一緒になって批判していた右系少年だった自分が見ています。まぁ今となったら「日比谷焼打ち事件」が確かにターニングポイントだったと思えてきたが。
ただこうした司馬史観は司馬遼太郎本人を置き去りにして広まっていったというのが本当の所のようで、ウィキペディアの記述を信用するなら本人は特に明確な思想でもって小説を書いて行ったわけでもないそうです。また自分の記憶する限りだと本人がこの司馬史観について言及したり歴史観をインタビューで披露するようなことはそんな多くなかったことから独り歩きすることにあまりいい気はしてなかったんじゃないかなと勝手に考えています。まぁ思想というのは一人歩きするから思想と呼べるのですが。
あと司馬史観からちょっと意味が離れるもしれませんが、彼が小説で面白くするために書いたフィクション部分がその影響度の高さからさも歴史事実のように世間で受け止められてしまうということも非常に多かったです。一例をあげると「国盗り物語」で、現代においては一介の油売りから美濃を乗っ取った斎藤道三とされる人物は実は一人ではなく、実際には親子二代の乗っ取り劇だったということがほぼ確実視されていますが、当時の研究のせいもあるでしょうがこれを小説では一代記にして書かかれたために現代においても斎藤道三は一人と見ている人が多数であると思えます。
ある意味で人気作家であったために起こった弊害と言えますが、彼の小説は歴史事実に対して基本的には即しておりフィクションとノンフィクションがわかり辛いことは確かです。また今のようにインターネットがなく最新の史料研究を知る術がないことを考えると、「司馬遼太郎の小説に書かれているから事実だ」とかんがえるような、一つの司馬史観が流行るのも無理ない気がします。
そろそろ話を戻しますが、現代において司馬史観がどうだこうだという論争はおろか、彼の小説に書かれていたから実際の歴史はこうだ、なんていう主張はここ数年全く見ることはありませんでした。それどころか彼の小説タイトルが話題に挙がることもほとんどなく、逝去からそこそこの時間が経っているとはいえ90年代の頃にあった隆盛ぶりと比較すると隔世の感があります。それこそ90年代ならば、「司馬遼太郎を読まずして歴史ファンとは言えない」というような風潮も感じられ、周囲から何度も薦められていただけにちょっと変わり過ぎではとまで思えてきます。
その上で現代について述べると出版不況を象徴するかのようですが、世の中を動かすくらいの大ヒットする誰もが読むような歴史小説はとんとなくなりました。強いて挙げれば塩野七生氏の「ローマ人の物語」とかくらいで、歴史小説自体がやっぱいろいろ厳しい時代になってきているのかもしれないとともに、ある意味そういうのに盛り上がれる時代だったのかなと振り返りながら思います。