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2015年2月19日木曜日

千葉のマッドシティ~松戸駅前編

 まさかのマッドシティシリーズ化です。松戸市に縁もゆかりもない方々からすれば退屈な記事でしょうが、この狂った街の記憶と記録を存在するうちに残しておきたい気持ちもあるのでどうかご容赦ください。

 さて松戸市で市役所の置かれている市政地は言うまでもなく松戸ですが、その市役所の最寄り駅に当たる松戸駅というのはお世辞にも評価は高くありません。交通の便に関しては常磐線と京成線の乗換駅になっており都内にも30分程度で23区の主要な所まで移動できるので悪くはありませんが、問題なのはその駅前の雑然ぶりで、行ったことのある人なら「ああ、あれね」とすぐに合点がいくかと思います。
 具体的にどのような状態なのかというとまるで整備がなっておらず、小さい店舗や中途半端なビルが乱立している上に線路をまたぐ高架歩道は人でごった返しやすく、一言言えばごちゃごちゃし過ぎているということに尽きます。出口は東口と西口があり、西口はまだ整備が進んできてバスターミナル前が一般乗用車とバスと歩行者がちょっと入り乱れて通行に戸惑う点はあるもののまだまともですが、もう片っ方の東口はちょっと目も当てられない状態で、中途半端にイトーヨーカドーが近くにあるせいもあって買い物客やら通勤客やらで普通に歩いてて鬱陶しくなってきます。

 なお東口近くにあって高架歩道とも接続している良文堂という本屋は品揃えもよく、特に受験参考書が充実していて高校時代はよく利用しました。ただこの店、5階建ててセクションごとに回数が別れているのですが、どの階も店舗が狭くゆっくり本を選ぶのには難があり惜しい所です。最近は自分も伊勢丹内にあるジュンク堂の方が潜伏地から遠いのに通う回数が増えてるしな。

 話は松戸駅前に戻りますが、東口にはまずイトーヨーカドーがあり、そのほかドトールコーヒー、漫画喫茶、居酒屋、パチスロ屋、メガネ屋、ミスタードーナツ、ゲームセンター、などとあらゆる種類の店舗が目白押しで、さりげなく小さい個人商店も軒を連ねています。あと地味に厄介なのが小学生を対象とした予備校も近くにあり、金曜の夜とかになると授業を終えて出てくる小学生が大挙して狭い道路を占領することもあるのでもうちょっと送り迎えにやり方あるのではと思えてくるほどです。
 確かに帰宅がてらに飲食店へ寄ったり、買い物したりには便利なのですが、やはり駅利用客がそこそこ多いにもかかわらず歩道があまり整備されてなく、細い路地が入り組んでて飲食店などはそこへ無理矢理運搬の車を通すので混乱に拍車がかかっている状態です。しかも松戸市役所に行くには東口から通るので、市役所勤務の人間も地味に多くて侮れません。

 一体何故松戸駅前がこのような乱雑ぶりを見せるようになったのかというと実は理由があり、実際に細かく検証したわけではありませんがどうも暴力団が一部の土地を保有しているため区画整理が進まなかったと言われています。この噂は私が幼少期だった頃より聞いていたのすが、近くにある喫茶店の店員と話をしたところどうもこの噂は事実らしく、暴力団のせいで駅前の整備が進まず近隣の自治体と比べ開発が遅れていると嘆いていました。
 もっとも暴力団だけが原因というわけでもなく、松戸は1970年代の高度経済成長期に街づくりが進んだ都市でもあり、その影響からかビルや住宅が後進の都市と比べ数世代古いまま残ってしまっているというのも大きいと私は考えています。要するに、ビルトアンドスクラップでスクラップの方が進まず古い建造物が軒並み残ってしまっているということです。

 ただそんな松戸駅前もこのところはようやくというか再開発がいくらか進んでき始め、特に松戸駅東口からやや北に向かった先では古いビルなどが取り壊され、大型マンションの新規建設や分譲が相次いでいます。この点について私が潜伏時代に通っていたカレー屋の店主に、「暴力団もようやく土地を手放しはじめたのか?」と理由を尋ねたところそうではないと否定され、「直接的な原因は東日本大震災です」という思いがけない答えが返ってきました。
 なんでも2011年の東日本大震災でこの地域にあった古いビルでは倒壊こそなかったものの軒並みひび割れが起こり、そのまま使用することが出来なくなったために取り壊しが進んだとのことです。以前からあった人気飲食店もこれらの影響で店舗を改装、または移転が進み、ここ数年で大分風景は変わったという貴重な情報をもたらしてくれました。

 実際に行ってみればわかりますが線路沿いだとコインパーキングがやけに多く、東口前の雑然ぶりと比べるとやけに視界が広がっています。またこれは東日本大震災の大分前に既に潰れておりましたが、以前は土屋家具というお店があった松戸市役所前にある巨大な店舗兼集合住宅も昨年になってようやく取り壊しが行われました。この取り壊し工事は2013年末辺りから始められましたが完全に取り壊されるまでには半年以上の時間がかかっており、「中国だったらこんなの一週間でたたむってのに日本は仕事が遅いな」などという妙な感想を当時に覚えています。

2015年2月18日水曜日

中国の住宅の特徴


 近くのスーパーで何故か美濃焼の特設販売があったので上の丼碗と小皿を速攻で購入しました。どちらも質感といい絵柄といい気に入っています。中国は明日が旧暦の元旦に当たり、大晦日に当たる今日から長期連休となっておりますが、どこの飲食店も正月休みで閉まっているため最近は上の丼でうどんばっかり食っています。

 さて気になる人がいるのかはまだわかりませんが、上の写真はお世辞にもいい構図ではありません。できれば斜め上から碗の中の絵柄と共に撮影したかったのですが、ちょっと止むに止まれぬ事情があって真上から撮る構図となりました。一体何でこうなったのかというと、室内が異常に暗いせいでありました。
 中国に来て長期滞在した人ならわかると思いますが、中国の住宅は日本の住宅と比べて室内が異常なまでに暗いことが多いです。一体なんで暗いのかっていうと室内面積の広さに対して照明」の数が極端に少なく、またその照明器具も光線量が小さく照らし切れていないことが多いです。具体例を挙げると、小さなベッドルームなどでは電球数本しか設置されていないこともざらです。

 第三国と比べたわけでもないので中国の住宅が異常に暗いのか日本の住宅が異常に明るいのかまではわかりませんが、日中で比べるなら中国は圧倒的に部屋の中が暗いことは確かです。そのため夜に室内を撮影しようものなら暗く写ってしまい、かといってフラッシュ焚くと今度は反射がきつかったりしてこの美濃焼を撮影するのにもひと手間かかっています。最終的に電気スタンドのあるパソコンデスクの上で撮影することでまだ見られる写真に仕上げていますが、そもそもパソコンを使用する際に電気スタンドもセットにならざるを得ない環境というのも考えてみれば変なもんです。そういえば以前上海にいた時も電気スタンドを常備していたなぁ。

 照明に関してはこのように日本人の私からするとやや不満の感じるところがありますが、それ以外の面だと意外と中国の住宅の方が勝っている部分も少なくありません。まず第一に言えるのは天井の高さで、こっちへ出稼ぎにやってきた当初は空調の機器が悪くなるなと思ってあまりいい感じがしませんでしたが、慣れてくるとやっぱり部屋が広く感じられ、逆に日本へ帰国した際は天井が低くて狭く感じるとともに圧迫感を覚えました。
 私の目算だと中国の住宅の天井高さは3m程度あり、日本の住宅は2.5m程度ではないかと思います。さっきさくっとググってみましたが日本の住宅はやはり2.4~2.5mが主だそうで、私の見間違いというわけでもないようです。

 天井の高さと並んで中国の住宅で優れていると思うのは壁の厚さです。最近だと日本の住宅はども工費を削り、防音材などを敷き詰めることで壁を薄くしようとあの手この手を講じていますが、そういう先端素材を使う、使わない以上に単純に壁の厚みを厚くする以上に防音性は高める手段はないでしょう。中国の住宅は基本、どこも壁が異常に分厚く、試しにDQ6のハッサンみたいに正拳突きしてみたところ明らかに日本の住宅より分厚い重みというか拳に強い痛みを覚えました。とびひざ蹴りはやめておこう。
 この傾向はこれまで住んだことのあるどの中国の部屋でも共通しており、一種スタンダードになっているのではないかと思えます。壁が分厚いので隣の音はほとんど聞こえず、聞こえるとしてもドア越しに洩れてくる音の方が大きいです。ただ断熱材に関しては恐らくほとんど使ってないものと思われ、冬場においては壁からリアルに冷気を感じるため、この辺は改善点として中国のデベロッパーに考えてもらいたいものです。

 そのほか中国の住宅の特徴を述べると、以前にも書いたように単身用の住宅が少ないということと、トイレの中蓋を締めるネジがほぼ確実に緩んでいることと、北方地域は暖器があることといったところです。
 暖器に関しては後輩も書いていますが、北京を始めとした中国の北方地域の住宅は建物内にスチーム管を張り巡らせて冬季は建物全体を一括して温めています。日本も北の方にはあるかもしれませんがなかなかこれが便利なもので、慣れてくるとこういった暖器のない上海とかの方が北京より寒く感じるようになってきます。

2015年2月16日月曜日

インドでの邦人女性の被害について

日本人女子学生に性的暴行、インド警察が25歳男逮捕 懸賞金かけ追跡(産経新聞)

 リクエストが来たのと、自分もインドに行ったことがあって多少は自分の体験談を話せると思うので、今日はインドでこのところ起こっている邦人女性の被害について少しだけ述べます。

 事件概要については説明するまでもないでしょうが、このところインドで邦人女性が暴行の被害に遭うという事件が頻発しております。もっとも私の印象だと最近になって急激に増えたというよりは報じられる機会が増えただけで、以前からもインドでこのような事件は数多く起こってたのではないかと見ています。インドではそのような女性の暴行事件は何も邦人女性だけでなく同じインド人の女性に対しても非常に多く、インド国内でもようやくと言ってはなんですが社会問題として広がりを見せてき始めた段階にあるようにも思えます。

 知ってる人には有名ですが、私自身も一度インドには旅行に行ったことがあります。現在の日本での潜伏先は「千葉のマッドシティ」こと松戸市でこのところ激ヤバな犯罪都市であるかのようにこの街が語られますが、松戸市なんて実際はそんなに治安が悪いとは思えません。なんでそう言い切るのかというと実は、インドの首都であるニューデリーは本気でヤバい所だと感じた経験があるからです
 私が旅行で回ったインドの都市はニューデリー、アグラ、バラーナシィーの三都市で、三都市それぞれで治安悪そうだなぁと感じましたがこの中でも格段にヤバそうだと感じたのはニューデリーでした。ただ私の場合は日本で予約した旅行会社のインド人ガイドがずっと付き添ってくれたため特に危険に陥ることは一切ありませんでしたが、それでも観光中にちらちらと見る街の風景はこれでもかと犯罪の臭いがプンプンしており、実際同じツアーで来てた女の子二人組がここで非常に怖い体験をしたと話していました。

 その女の子二人組は確か従弟同士で一緒にインドへ旅行に来たのですが、ガイドを同行せず二人でタクシーに乗り買い物に出かけたところタクシー運転手がやけに暗い路地へ連れて行き、「支払う料金を増やさないとここで降ろすぞ」と脅して来たそうです。この時要求された追加料金は法外なものではなかったそうなので素直に従ってきちんと目的の場所に付けたそうですが、さすがにあの時はちょっと怖かったねと列車での移動中に自分と自分に同行した友人に話してくれました。
 なおそんな怖い思いしてまで女の子が買ったサリーはまがい物で、次の日からつけている最中に色落ちし始めていました。

 このようにインドでは想像もつかないようなところから犯罪に巻き込まれやすく、また昼間でも路地裏は映画に出てくるような暗く怖い場所が多く、「ここからいきなり飛び出されてはどうにもならんだろうな」という印象を覚えました。旅行中に被害らしい被害は一切ありませんでしたが、夜は夕食に出かける以外はずっとホテルに入ったままで、昼間ですらあんな怖いのに出歩くなんて考えは思いつきませんでした。

 それとこのところの邦人女性の被害事件についてもう一つ思い出話を書くと、昨年11月に邦人女性が誘拐されたガヤという町ですが、実はここは旅行中に私も訪れています。ガイドブックなどでは「ブッダーガヤー」などと書かれ、ブッダが悟りを開いた場所として日本人向け観光地としてはそこそこ人気がある場所です。
 訪れたのはもちろん昼間ですがどこ行っても人だかりでごみごみしていてうるさいインドの町でこのガヤという町だけは不思議な静けさがあり、明らかに一線を画す聖域のような印象を当時覚えました。それだけにあのガヤでもこんな事件が起こるのかと事件の一報を知った際は軽いショックのような気持ちを感じると共に、やはりどこ行っても油断ならない国なのかという感想を持ちました。

  おまけ
 インドでは上記の通りに夜中は一切出歩くことはありませんでしたが、私が行ったことのある海外の都市で一番安心して夜中歩けたのは意外でしょうが中国の北京です。北京だと人がいきなり飛び出してきそうな隠れる場所が街中に少ないですし、また警察の人数と力がどちらも半端じゃないため治安に関しては非常にいいです。ほかの中国の沿岸部都市も大体似たりよったりで、総じて治安のいい所ばかりです。
 あとマッドシティの松戸駅前では夜になるとちょっと粋がった格好した若者とかおっさんが歩いたりするものの、なんかやたらと周りを気にするかのように目が泳いでたりするので見てるこっちが不安になってきます。

2015年2月15日日曜日

創業家列伝~島津源蔵(島津製作所)

 長らく期間が空いての連載再開です。なんでこんなに期間空けたのかというと昨年末にかけて「企業居点」の編集作業が忙しかったことと、この編集作業を終えた後も先月は派遣マージン率を陰で調べていて下調べのいるこの連載はなるべく後回しへとされてしまっていました。まぁこの連載記事はある意味で、「腐らない記事」のため、ささっと書き溜めておくに越したことはないのですが。
 そういうわけで今日取り上げる人物ですが、精密機械メーカー大手で過去にはノーベル賞受賞者(田中耕一氏)も輩出した島津製作所の創業家、島津源蔵を取り上げます。どうでもいいですが「源蔵」という名前を見ると「SGGK」と呼ばれるあの人物が真っ先に私の中で浮かんできます。

島津源蔵(2代目)(Wikipedia)

 島津製作所の創業者、というよりは立役者の島津源蔵は1869年に京都府木屋町で生まれます。父親も同じ「源蔵」という名前で扱いとしては初代島津源蔵と呼ばれていますが、京都の鍛冶屋で明治8年からは標本を初めとした学校用品の製作を始めて後に法人化し、島津製作所と名乗るようになります。
 なおこの島津という名字についてですが、薩摩藩で有名な島津家に由来すると言われております。ただその由来については諸説あり、手元の「実録創業者列伝」では先祖は黒田家の重臣だったが関ヶ原から敗走してきた島津義弘の九州への引き上げを世話したことから島津姓を賜ったと書かれてありますが、私が以前に聞いた話だと元々は街道沿いの旅籠を経営しており、参勤交代で利用した薩摩藩がそのもてなしぶりを評価して島津姓を許したという逸話でした。このほかにもまだまだあり、あまりにもはっきりしないので内心では薩摩の島津家とは関係ないのではと密かに考えています。

 話は戻りますが島津源蔵(2代目)の幼少期は非常に貧しく、教育熱心なことで有名な京都にいながら小学校には二年間だけ通って退学しています。しかし向学心が高く勉強熱心だったらしく家業を手伝う傍らで独学を続け、19歳の時には京都師範学校に招かれその後5年間教壇に立ち学生を指導しています。1894年に初代島津源蔵が亡くなると会社を引き継ぎ、実質的に現在の島津製作所はこの時にスタートしたと考えてよいでしょう。

 島津製作所のエポックメイキングが起こるのは源蔵が社長を受け継いだ2年後の1896年で、この時に島津製作所はその前年にレントゲンが世界で初めて成功したエックス線による撮影、所謂レントゲン撮影を日本で初めて成功させます。今の様に通信技術が整っていない時代、ましてやまともな研究設備にすら事欠く日本国内の環境で世界最新の技術を再現してみせたというのは私の目から見ても脅威というよりほかなく、また現在にも続く島津製作所の医療検査機器事業はこの時始まったのかと思うとなかなかこみ上げてくるエピソードです。

 この医療機器事業に続き島津製作所が後に主力とする事業はその翌年、1968年にエポックメイキングが起こります。この年、島津製作所は京大から外国製の見本を供与され、蓄電池の製作を依頼されます。見本もあったことからあっという間に依頼に応え製作を行い、それをきっかけに全国からも同じ蓄電池の製作を依頼されるようになったため源蔵は蓄電池生産を本格的に事業化させていきます。
 蓄電池事業は当初でこそ10A時の小さな電池からスタートしましたが研究に研究を重ね、1904年には150A時の据置用蓄電池の開発に成功します。この時開発された電池は軍にも採用され、日露戦争でバルチック艦隊を発見しあの有名な「敵艦見ゆ」の信号を発した信濃丸の通信機に取り付けられていたそうです。

 この日露戦争のエピソードもあって「電池とくれば島津製作所」と呼ばれるまでに評判を上げ、1908年からは電池規格を作り大量生産化に取り掛かります。この時に自社製電池のブランド名として源蔵は自分のイニシャルである「GS(Genzo Shimazu)」という文字を用い、「GS蓄電池」という商標を使い売り出します。
 察しのいい人ならわかるでしょうが、この「GS」という言葉は現代にも受け継がれています。島津製作所は1917年に電池部門を分離独立させ「日本電池」という会社を設立しますが、この日本電池は2004年に同じ電池大手の「ユアサコーポレーション」と合併し、現在の「ジーエス・ユアサコポーレーション」となるわけです。最近保険大手が合併して長ったらしい変な名前になってますが、そういうのと比べるとブランド名を利用したこのGSユアサの命名はなかなか語呂が良くて悪くないと思えます。

 島津製作所の電池事業は後の第一次世界大戦でドイツとの国交断絶に伴いドイツ製の輸入が止まったことでさらに受注を伸ばしていくのですが、この電池の生産には鉛粉こと鉛酸化物が必要でした。島津製作所は電池の生産では日本国内随一となりましたが生産に必要な鉛粉は日本製だと品質が不均一なため、主に高価な海外製を輸入して使用していたそうですが、どうにかして国産化できないと源蔵は考えていようです。
 鉛粉とはその名前の通りに鉛を粉末化すれば出来るので何とか粉末化させようと源蔵は自らあれこれ実験し、回転容器に鉛球を入れグルグル回すと鉛粉が生産できるところまではこぎつけました。だがこうやってできる鉛粉は品質が相も変わらず不均一で使い物にならず、どうしたもんかと解決策に悩んでいたところ鉛投入孔にやけに良質な鉛の塵こと鉛粉が溜まっていることに気が付き、ここから着想を得て送風させながら回転容器を回すことで非常に質のいい鉛粉、亜酸化鉛を高い効率で生産することに成功します。この製法は当時世界初で、電池製造の分野で一気に島津製作所をスターダムに持っていきました。

 ただこの亜酸化鉛の製法の特許を巡ってはちょっと一悶着があり、英国とフランスではすぐ取れたのに対し何故か本国の日本では、「物理学上の発見であって技術上の発明ではない」として、なかなか特許の認可が得られなかったそうです。日本らしいっちゃ日本らしいけど。
 さらにもう一つエピソードを付け加えると、島津製作所はこの時出来た亜酸化鉛から防錆剤を作りだし、当初は日本電池で売り出してましたが途中でまた分離独立化させ、「鉛粉塗料株式会社」を設立し、この会社はその後他社との合併などを経て現在は大日本塗料株式会社となりました。

 以上が島津源蔵の主な経歴ですが、書いてて感じたこととしては「一体この人、何社の設立に関わってるんだろうか」という底の知れなさです。現代でも認知度の高い大手企業の創業に何らかの形で関わってることが多いし、またどれも自身の発明をとっかかりにしている点で実に恐ろしいまでの才能の持ち主です。経営者のタイプとしては典型的な発明者型ではあるものの、複数の業界大手企業を設立していることからただ技術が高かっただけでなく発明品を事業化させる才能も桁違いに高かったのではと私は評価しています。

 知ってる人には有名ですが京都にある大手企業はどれも知名度、業績はよくても従業員(+取引先)にとってはブラックな会社であることが多いというかほぼ全部そうなのですが、この島津製作所に関しては真面目にそういう悪い噂はほとんど聞かず、私の就活中なんかは「京都企業の良心」などと呼んでいました。実際入社して働いたわけでもないのにこのように言うのもどうかなという気がするし島津のポンプメーカーの人に聞いたら、「実際中はそんなでもないですよ」という証言も得られましたが、先ほど出てきた田中耕一氏の会見を見ている限りだとやはり一線を画す社風だと覚えます。
 というのもノーベル賞受賞の発表があってすぐ社内で開かれた会見で田中氏は、背広ではなく普段通りの作業着で会見に臨んでいました。ただ単に背広を準備する時間がなかったり田中氏の個人的な好みなだけだっただけかもしれませんが、ああした会見にも普段通りの作業着で臨まれるという会社はやっぱり一味違うと思うし、技術というか現場を第一に考える社風なのかなという印象を覚えます。まぁそれ以上に田中氏の人柄が非常に素晴らしかったの一言に尽きますが。

 最後に蛇足ですが、島津製作所製蓄電池が取り付けられ日本海海戦で軍艦三笠に対し重要な通信を送った信濃丸ですが、実はこの船はその後の二次大戦中にも兵員を南方へ運ぶ運搬船に使われ、その時に運ばれた兵員の中にはあの水木しげる氏もおりました。当時としても竣工から30年以上経過しており乗船した水木氏も、「えー、あの信濃丸がまだ動いてんの!?」と驚愕したそうですが、大半の輸送船が途中、米軍の攻撃によって撃破される中で無事に任務を果たし終戦後まで沈没せず生還を果たしました。
 さらに続けると水木氏は終戦後に日本へ復員する際、開戦から終戦に至るまで主要な海戦ほぼすべてに参戦し、他の艦船がほぼ全滅した中で生き残り「不沈艦」とまで号された駆逐艦「雪風」に乗船しております。こうしてみると水木氏は行きも帰りも気違いじみた強運に守られた船に乗っており、彼にはある種、幸運の女神ような何かが始めからついて回っていたのかもしれないとこの記事書きながら思いました。


  参考文献
「実録 創業者列伝」(学習研究社) 2004年発行

2015年2月13日金曜日

中国の空母プラモを見て

 先週末、日本語を教えている中国人労働者を連れて上海に行っていました。なんでこんなことをしたのかというとその中国人労働者が一度も上海に行ったことがないマジモンの田舎者だったので、一つ都会を見せてやる方が良いと思ったからです。
 もっともこの中国人労働者、あらかじめ高速鉄道のチケットを買って駅で待ち合わせだったのに見事に寝坊してきやがって、土曜日は電話口で激しく怒鳴り続けたので非常に疲れました。なんかこう書くと自分が如何にもな性格をしているように見えますが、そいつはその前週に昆山市内の観光地に行く際も寝坊で遅刻しており、またこっちの指示を待たずに長距離バスに乗ったり降りたりを繰り返したりもしたのでかなり全力で怒鳴り続けました。ちなみに私は駅のど真ん中で怒鳴り続けましたが、中国ではよくある風景なのか周りの人は自分に対して全く無関心でした。日本じゃこうもいかんな。

 話は戻りますが日曜日にそいつを連れて市内をぶらぶら歩いていると日本の模型メーカー大手のタミヤの看板を掲げたプラモ屋が見つかり、折角だからと入ってみたらこっちの想像以上の品々を集めていてびっくりしました。一番最初に目に入ったのはミニ四駆で、「ダッシュ!四駆郎」に出てきた「エンペラー」というミニ四駆が置いてあり、そのほか大和とか武蔵といった戦艦はないのになぜか空母の瑞鶴、翔鶴のプラモは置いてあって、瑞鶴は日本の軍艦の中で私が一番好きな船なだけに買って帰るか非常に悩みました。なお中国人労働者は以前に私も作ったことのある「インプレッサWRX STI 99ver」を買って帰りました。

 そのような豊富な品々の中でふと隅っこに目を遣ると、なんかやたらと大きなサイズの箱がありました。見てみると「遼寧」と書かれてあり、知る人ぞ知る2012年に就航した中国初の空母のプラモでした。
 ちゃんと自国の艦船のプラモもあるんだなーという具合で感心するとともに、こんだけ大きなサイズ(箱の横幅が1mくらいあった)のプラモしか置いていないってことはもしかしたら小型サイズで作れないってことではとも思え、またそもそも寸法とかちゃんとあってるのかと本体もプラモもどちらもメイドインチャイナなだけに疑いを覚えてきました。もっともこれは中国の模型メーカーがどうこうというよりも、日本の模型メーカーが異常なまでに精密に作ってしまっていると考えるべきなのかもしれません。

 ここでその日本の模型メーカーについて話が移りますが、王者なのは言うまでもなくミニ四駆も作っているタミヤです。私も自動車プラモをいくつか作りましたがほかの日系メーカーと比べてもここは作りや構造がしっかりしていて、よくもこれだけ精密に金型作れるなと感心させられます。軍艦に関しても旧日本軍は本気でアホだから、アメリカは同じ設計の艦船を次々と量産していったのに対し日本は一艦一艦別々に設計をして無駄に多種多様な艦船を造り、あらゆる方面で効率を悪くさせましたが、そうした土壌の下でタミヤは多数ある艦船を次々と模型化していきました。真面目に誇張ではなく、日系模型メーカーの隆盛の陰には旧日本軍の無駄遣いが背景にある気がします。

 そのタミヤですが、知ってる人には有名ですがその製品の正確さ、精密さについて気違いじみたエピソードが多数あります。開発中の車をチラ見しただけで外観から内部構造まできっかり再現してみせたなんて序の口で、海外自動車メーカーがどうしても内部構造を見せてくれないから推定で作って売り出したところそのメーカーから、「お前ら、技術情報を盗んだな」などと言われ、ほぼ実物そのものに作ってしまっていたことからあらぬ誤解を受けたなんて話も多々あります。

 話しを再び中国の初代空母、遼寧に戻しますが、この艦船は元々旧ソ連で建造が始まったものの予算不足で中断され、その建造途中の船を回り回って中国が購入して空母に仕上げたという経緯があります。実に建造開始から二十年近く経っての就航したという曰くつきなのですが、建造に関わった中国人民解放軍関係者は、建造開始当初の設計図は既に紛失されていたことから設計が近いほかのソ連の艦船を元に見よう見真似で作ったことを明かしています。恐らくそれでもきちんと作れたということを自慢しているのだと思いますがこれを聞いて、「中国人の言う見よう見真似ほど恐ろしいものはない」という言葉を私以外、下手すりゃ中国人ですら頭に思い浮かべるのではないかと思います。
 日本のネット上の掲示板でもこの話題が持ち上がり、中国に軍艦の設計なんて危なっかしい、むしろタミヤの方がまともな設計をするのではなんていう意見があって見ていてなかなか楽しめました。ただ「タミヤの方がまともな設計をする」という意見ですが、これはあながち冗談っぽい意見ではなく、本気でそうなのではないかとちょっと思っています。というのもタミヤは旧日本軍の軍艦はもとより世界各国の戦闘機から戦車、銃火器まで模型化しており、下手な軍事専門家よりこの手の構造に詳しいのではないかと思えるからです。

 さすがに主機などの設備を含めた設計となると話は別ですが、アウトラインだけの設計であればタミヤの設計部なら本気でいいの作ってくれるんじゃないかと思います。折角だから日本政府も今後自衛隊で新しいイージス艦とか掃海艇作るんだったらタミヤに外注した方が安くていいのが出来上がるのではなんていう風にも思え、このところ周りの人間にも話しています。タミヤも自社の設計を元にプラモも作れるんだから一石二鳥じゃないかな。

  おまけ
 中国に出稼ぎに来る前、何故かスポーツカーのプラモにはまって何体か作っていました。けど部屋に一台だけ作って置いておくとなかなか洒落ててインテリア的にグッドでしたが、二体、三体と増えていくにつれてなんかよくなくなるというか、部屋がマニアっぽくなって失敗したと思いました(´・ω・`)ガッカリ…

2015年2月12日木曜日

千葉のマッドシティ~映画館編

 昨日の記事でも触れていますが、私の日本潜伏地ことリアル隠れ家的賃貸住宅(マジ冗談になってなくて笑えない)は千葉県の松戸市にあります。知ってる人には早いですがこの街は最近、「千葉のマッドシティ」と呼ばれており、その理由はアニメ「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の中でこの松戸市のことを「マッドシティ」と呼んだことがきっかけだったそうです。恐らくこの作品の制作者は「マツドシティ」と「マッドシティ」の音と文字が近いことからこう呼んだのでしょうが、なかなか語呂がいいのと、どうもいくつか全国区で報じられたことのある殺害事件があった街という印象がぴったりはまり、如何にも犯罪都市っぽい雰囲気を持つこの「マッドシティ」というあだ名が定着したのだと思います。
 なおこのマッドシティという言葉ですが、元々はコナミのアクションゲームのタイトルだそうです。それと松戸市の犯罪率ですが、ネット上では冗談めかして若者の9割超が暴走族だとか内戦状態だとかいろいろ書かれてますが、さすがに毎日死人が出るほどはヤバくはないです。過激派みたいな内容を毎日書いてる私が住んでてていうのもなんですが。

 そんな松戸市ですが私自身が住んでいたのは2013~2014年の一年足らずではあるものの、実家が隣の市にあって実は子供の頃から買い物なり遊びなりサイクリングなりでしょっちゅう訪れてて非常に慣れ親しんだ街だったりします。微妙な裏道とかも大体把握しているし、街がどのように変化していったかも持ち前の記憶力で案外覚えてます。
 特に際立って印象に残っている松戸市の変化として、私の中ではかつて存在した二つの映画館が挙がってきます。どちらも松戸駅近くにあった映画館で、一つは松戸輝竜会館、もう一つは松戸サンリオシアターで、どちらも既に閉館しております。

 輝竜会館の方は1959年に建設されてその後幾度か改装をされた映画館でしたがはっきり言って非常に狭く、ガラガラの時ならともかく人気作なら入り口が人でごった返し、正直言って今思い返すとかなり危険なレベルだったのではと思います。しかし東映アニメフェアなど子供の時分に見たい映画は何故か近くの映画館ではこの輝竜会館でしか公開されず、内心行きたくないと思いつつ小学生だった私は友達とこづかいを片手に見に行き、上映終了後にこれでもかというくらいの子供にもみくちゃにされながら脱出していたことをよく覚えてます。パンフレットを買おうものなら争奪戦みたいになってたし。
 なお松戸市出身の友人にこの映画館のことを話すと、「俺はあの輝竜会館って名前を聞いただけで映画を見に行くのをやめてた」と話しており、友人もあの人でごった返す異常な構造を嫌ってたようです。

 対する松戸サンリオシアターは1980年、当初は「松戸サンリオ劇場」という名前でオープン。1993年になってビルが移り「松戸サンリオシアター」と名前を変えたのですが、私が高校生までの間は映画を見に行くとしたらいつも決まってここに見に行っていました。特に小学校低学年の頃はやたらよく映画を見に行っており、うちの姉貴と二人でこづかいもらって見に行き、帰ろうと松戸駅で切符を買ったら姉貴が間違えてJRではなく京成の切符を買ったりして子供心に「頼りにならねぇなぁ」と思ったりしました。
 このサンリオシアターは周辺の店舗との提携活動をよくしていて、たとえば近くの本屋なら映画料金を割り引いたチケットが買え、近くのマクドナルドの二階店舗内にはよく公開中の映画のポスターが貼られていました。貼られていたのだと「ネバーエンディングストーリ―2」のポスターが何故かよく記憶に残ってる、アトレイユ……。

 私は高校生になった頃からあんま映画見なくなってここに通うこともほとんどなくなってしまったのですが、2006年にはスクリーン数を拡大して「松戸シネマサンシャイン」と再び名前を変えていたようですが、他の全国の映画館同様に客足が伸び悩んだことと、周辺の他の街でもシネマコンプレックスが出来ていったことなどからか羽振りが悪かったようで、2013年1月末にはここも閉館してしまいました。
 多分、私が最後にこの映画館で見たのは2003年の「ロードオブザリング 王の帰還」で、友人と二人で見に行ったのを覚えています。なお「ロードオブザリング 旅の仲間」もこの映画館で見ており、その時は家族と見に行っています。私が2013年に日本へ帰国し、たまたまこの映画館跡の前を通った際に初めて閉館したという事実を知りましたが、子供時代から自分の中の風景に存在していた映画館だっただけに軽いショックを当時受けました。

 ちなみに「松戸シネマサンシャイン」の閉館に伴い、松戸市には現在もなお映画館が一つもない状態が続いています。これだけの人口規模を持ちながら映画館が一つもないというのは全国的にも珍しいのではないかと思いますが、この辺りの人からすると小さい映画館に行くくらいなら都内や幕張に出て行くのであろうと思え、今のところあまり需要がないような気がします。とはいえいくらなんでも寂しくはないかという気がするので、どっかが新しい映画館を松戸市内に作ってくれることを陰ながら期待しております。

 それにしても見出しをそのまま「千葉のマッドシティ~」としちゃったけど、こういった松戸の思い出話をシリーズ化する気か?映画館同様需要があるのかどうかも分からんし、自分で書いておきながらなんかよくわからない状態です。

2015年2月11日水曜日

時計を置きまくる友人

 何度かこのブログで書いていますが私が現在日本で隠れ家に使っている部屋は「千葉のマッドシティ」こと松戸市にあります。隠れ家といいましたがこれは決して誇張な表現ではなく、松戸駅に歩いて10分程度で行ける便のいい場所にありますが行き方を知らないとまず見つからないような変な場所にあり、多分住所とか渡してもGPSとか使わない限りは普通はたどり着けないだろうと言えるようなところにあります。

 現在の私は中国滞在中ということもありこの部屋にいることはほぼないのですが、日本にもある程度私物を置いておきたいのと、ちょうど部屋を借りたがっていた友人がいたので私が中国に行くのと入れ替わりにその友人が住んで現在使用しています。私物の管理はおろか郵便物、電気代諸々の諸費を友人が払ってくれるので私としても大助かりなのですが、去年の9月に一時帰国した際にちょっと驚く光景が広がっていました。
 単刀直入に述べると、部屋中いたるところにこれでもかというくらい無数のアナログ時計が置いてありました。なお私が部屋を出て行く際にはデジタルの置時計が一つだけしかありませんでした。

 実際にどれくらいの時計があるか正確には数えてませんが、友人曰く部屋の中にいてどの方向を向いても時間がわかるような配置にしてあるということで、感覚的には居間内の八方向すべてに何かしらの時計が置いてあり、台所にも複数、そして何故か風呂の中にもハンガーの針金使って無理矢理吊るす形で配置されていました。

 一体なんでこんな時計置くのかついさっき聞いてみたところ、なんでも友人の実家では当たり前の光景だったそうで、風呂の中で読書したりするので長湯となるため時間を把握するのに風呂内に置くのも特別不思議に感じてないそうです。
 また時計の種類も基本はアナログで、正確に何分何秒かを知ることよりも一目で大まかな時間がわかる方が大事とのことで、割とデジタル時計を使う傾向のある自分と対照的な答えをしてきました。

 しかし友人の言うことの中でもどの方向を向いても時計が視界が入るようにするというのはまだ理解でき、先日にふとこの時の友人の話を思い出し、私も文具屋で小さいアナログの置時計を買ってパソコンの隣に置くようにしてみました。パソコンの画面内にも時計表示がもちろんありますがやっぱり置いてみると違うもので、作業中に今何時なのかパッと見る際はついついアナログの方を向いてしまいます。
 それと私のパソコンは設定変えればそれまでですが、現在のところ日本標準時に設定していて中国の時間とは一時間の時差があります。なんでこんな風にしているのかというと作業中とかに日本は今何時当たりなのかと意識させるためなのですが、ぶっちゃけそうした意識よりも現在こっちで何時かを把握する面倒さの方が大きい気がします。

 なお私と友人の二人で以前にインテリア関連に詳しい方と話をする機会がありましたが、その時の会話をきっかけに私もインテリアというか室内の空間をどのようにみせるのか、家具などの配置をどうするのかということに興味を持つようになり、先日にこのブログでも紹介した革椅子の購入など以前に比べこだわりを持つようになってきました。この友人のやたら時計を置く、それもアナログでというスタンスも一つのセンスで、そう考えると部屋には何かしらのコンセプトというかこだわりがあった方が面白いのかなと思えてきます。