今日はちょっと短くこの前考えたことについて書きますが、いつの時代もというか日本ではよく「少年犯罪の凶悪化」や「子供の学力低下」の二つが取り上げられます。しかし少年犯罪は70年代とかと比べると規模も内容も現代の方が圧倒的に小さいですし、ゆとり教育の世代もよくよく調べてみると大学入試の問題は難問化していて実際は二極化の傾向が強かったりして、現代神話ともいえる先程の二つの言葉は実態を表していないどころか、むしろ内容的に間違っている可能性が高いです。では何故内容的に実態を表していない言葉が、現代社会に置いてこれほどまで広く流布されるのでしょうか。
私の考えをスパッと述べると、「そうであってほしい」と願う人間がたくさんいるからこうした現代神話は生まれるのではないかと思います。どちらも子供関連、それも教育に深く影響する内容ですが、現代教育が間違っているということにしたい人間が案外こういう神話をはやらせているのではないかと何の根拠もなく思えてきました。
考えてみると現代に限らず、神話というのはどの時代でも案外そのように「そうあってほしい」という願望が下地となって作られている気がします。天皇降臨節とか天地創造説とか、作った人間に都合のいいように、権威がもたれるようにして作られているのではと思えてきます。現代における神話とも言うべき眉唾な話しなども、基本はこういった願望が根拠を含まずに独り歩きするものが大半でしょう。
なおそういう、「そうであってほしい」ことが一番感じられる神話を敢えて挙げるとすれば私の中だと「マリアの受胎」で、ダヴィンチの師匠に当たるジョットが「聖誕告知」の絵でマリアの夫・ヨセフを何やら不安そうな顔に描いた理由を問われた際、「そりゃそうだろ。妻のお腹にいる子供の父親が誰なのかわからないんだからさ」と答えているだけに、ヨセフからしたら「そうであってほしい」と強く神話を信じたんじゃないかと思います。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年4月21日火曜日
2015年4月19日日曜日
中国雑誌の山口組特集
昨夜は上海に行って友人と一緒に夕食を取った際、昨日に書いたベルリン五輪の日本人選手の記事で「トレーナーにNIPPONって書いてあって時代を感じた」と話したところその友人から、「でも花園さんも夏場はよく、胸にHONGKONGって書いたTシャツ着てるじゃないですか」とツッコまれて苦笑しつつ、「俺、香港好きやねんから……」としか言えませんでした。なお「I♡上海」のTシャツもよく着て徘徊しています。
そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。
余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。
興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。
山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。
それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。
果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。
そうした私のTシャツセンスは置いておいて本題ですが、前日に引き続き上海をうろうろしていたところ売店で気になる表紙の雑誌が売られていたので衝動買いしてきました。
余計な説明は最早不要でしょう。何故だか知りませんが中国の雑誌に日本最大、というより構成員数では世界最大のマフィア組織である「山口組」の特集が組まれていました。なお表紙に書かれている言葉は「アジアで最も有名なマフィアの生存法則(サバイバル技術)」といったところです。
興味津々でページを開いてみたところこの特集記事を書いたのは日本人ライター二人で、中国人から見た山口組とはどんなものかというのが見たかっただけに少し残念でしたが、記事自体は非常によくまとめられており、後述するよう日本では「週間大衆(ヤクザ業界の業界紙と個人的に考えてます)」くらいにしか書けないネタも書かれてあってなかなか興味深い内容でした。
主な内容は神戸港の港湾運搬組織から発祥する山口組の歴史と彼らを取り巻く「暴力団対策法(暴対法)」を中心とした現況、そして日本社会のヤクザに対する見方などでまとめられています。山口組の歴史についてはネットにも詳しい記事がたくさんあるのでここでの説明は省略しますが、この特集記事ではある意味で現代山口組の祖ともいえる三代目・田岡一雄の来歴が詳しく語られており、映画の「三代目襲名」で田岡を演じた俳優の故・高倉健が田岡と並んで2ショットで写ってる写真が何故か添えられています。今だったらこんな写真は撮れんわな。
山口組の歴史について書かれている部分で興味深かったのは、山口組が芸能事業に進出した昭和の初め頃より吉本興業と手を組んでいて、現代においても重要な傘下組織であるということをはっきり書いてある点です。山口組と吉本興業の間となると何人かの芸人が構成員と付き合いをしているという報道は日本でもたまに出てきますが、吉本興業の発足当初から会社ぐるみであるとスパッと書いてあるのは中国雑誌ゆえでしょう。なおこちらはタブーが取れかかっていますが美空ひばりも山口組傘下の芸能事務所で活動していたと触れ、あと現代では芸能事務所のバーニングは今でも付き合いがあってこのバーニングに所属する誰もが知るような有名芸能人の名前もいちいち挙げています。
このほかの記述となると北野武氏のヤクザ映画と彼本人のヤクザに対する意見などを引用して、日本の芸能界とヤクザは関わりが深いことを比較的冷静に紹介しています。実際、否定できないし。
それとなかなか読ませられた部分として、暴対法について書かれてあるところは面白かったです。記事中では日本の暴対法について、「このようにマフィア組織を対象とした規正法はほかの国には存在せず、ある意味でヤクザの存在を法律上で認めているような法律でもある」と指摘しており、私もこの指摘は至極その通りのように見えます。そして1992年の施行以来、この法律による摘発を恐れ庇護主を得るために山口組に参加する規模の小さい暴力団が多かったと述べ、山口組の勢力拡大の一因にもなったとも指摘しています。
ただ規制の威力自体は高く、施行以来ヤクザによる犯罪は減少しており、またヤクザ関係者からも悲鳴にも近い暴対法の見解を引用した上で、「ヤクザをやめるか、警察に捕まるか、どちらにしろ彼らは消えていく存在だ」という警察関係者の言葉でまとめています。
果たして、中国人はこの記事読んでどう思うのだろうな。試しに何人か読ませてみようかね。
2015年4月18日土曜日
ベルリン五輪に出場した日本人レスリング選手
今回はちょっといつもと趣向が異なる記事で、友人から提供いただいたちょっとした記録的写真を紹介します。
この写真はこのブログによくコメントくれる若生わこさんから提供いただいた写真です。写真に写っている人物は誰かというと若生さんの親戚で、見ての通りというレスリング選手だったそうで1936年のベルリンオリンピックに日本代表として出場した際に撮ったのがこの写真だそうです。
如何にもベルリンって感じがするのはこっちの写真ですね。日本人でありながら体格の大きいドイツ人と並んでいても見劣りしない辺りさすがはレスリング選手だという気持ちを覚えます。ただ、「NIPPON」って刺繍のあるトレーナーはいくらか時代を感じてしまいます。
こちらは日本国内で撮影された写真のようです。このベルリン五輪に日本はレスリング選手を明大から二人、早大から三人を選出して計五人だったとのことですから、一番右の方が監督で他の方々がその五人のレスリング選手だと思われます。
こちらも日本国内で撮影されたものと思しき写真で、郷里の壮行会で撮られたのでしょう。この時代でありながら居並ぶ面々がスーツ姿のきちんとした身なりで、また神主さんもしっかり写っているのが印象的です。一人だけ女性も写っていますが、この人が母親なのかな。
こちらが最後の写真となります。日本の国旗、五輪のマークの入ったバッヂがついている辺りは日本代表らしい姿で、体格ががっちりしている分スーツ姿が堂に入っています。このほか思いつく点としては髪型が比較的現代の見方でもそれほど時代を感じさせない髪型で、現代と時代が続いているんだなという気がします。
戦前の時代の写真はそこそこ残っていますが、オリンピック選手の写真となるとこれまで案外見たことがなかったので今回提供いただいた写真は素直に新鮮な感じを覚えました。改めて写真を提供いただいた若生さんにはここで感謝を述べさせてもらいます。
2015年4月17日金曜日
創業家列伝~樫尾四兄弟(カシオ計算機)
たまに友人から、「あの創業家列伝の連載ってもう終わったの?」って突っ込まれるほど掲載時期に幅のあるこの連載です。書けるネタ、書きたいネタはたくさんあるものの書く前にそこそこ調べものとか準備がいるので、ついつい執筆が後回しになってしまっているのが現状ですが、今の所マッドシティとかほかにもいくつか連載記事を抱えたりしているのでなかなか手が回らないのが本音です。てんかん発症気味の状態だったら無限のエネルギーで延々と書き続けられるんだけどなぁ。
そういうわけで今日の創業家ですが、意外と書かれている評伝が少ないと思われるカシオ計算機の創業家、というよりは創業一家である樫尾四兄弟を取り上げます。
・カシオ計算機(Wikipedia)
往年の世代の方であれば「答え一発カシオミニ!」というこのキャッチコピーを覚えているのではないでしょうか。このコピーと共に一世を風靡し、それまで企業向けにしか需要のなかった電卓を一気に個人用として普及させた電子電卓「カシオミニ」は現代においても「電卓といったらカシオ」と言われるほどの大きな成功を収め、同社を優秀な電子機器メーカーとして名指しめました。そのカシオ計算機を創業したのは現社長の樫尾和雄氏(三男)、現副社長の樫尾幸雄氏(四男)の兄である樫尾忠雄(長兄)とその弟の樫尾俊夫(次男)であり、実質的に四兄弟の団結によって生まれ、繁栄した会社と言っても過言ではありません。
長男の忠雄(以下名字は省略)は1917年に現在の高知県南国市で、農業を営む両親の元で生稀増した。忠雄がまだ幼少だった1923年に一家は関東大震災後の東京に移り住み、その翌年の1924年に次男の俊雄が生まれています。
一家の生活は決して裕福ではなく忠雄は小学校高等科を卒業した十三歳の頃には就職し、巣鴨の榎本製作所で旋盤工として働き始めます。ここの会社の社長をしていた榎本博は忠雄の熱心な仕事ぶりを認め、自ら学費を負担する形で十六歳になった忠雄を早稲田の夜間学校へと通わせ、忠雄もまたその期待に応えギリギリまで仕事こなしつつ勉強もしっかりこなして無事に卒業を果たしました。
しかし善人ほどとでもいうべきか、戦時色が強まっていた1936年に榎本博は軍から召集を受け、そのまま戦地で散る運命となりました。榎本の出征に伴って榎本製作所は閉鎖しましたが、榎本は出征の前に忠雄へ愛用のノギスを託したと言い、このエピソードだけでも両者の強い絆というか忠雄の将来性を深く買っていたということが伺えます。
榎本製作所の閉鎖後、忠雄はいくつかの会社を渡り歩き1942年には間借りの工場で独立を果たします。その後、戦争が終結した翌年の1946年に東京都三鷹へと移り「樫尾製作所」を正式に発起して、この時点を現在のカシオ計算機は創業年として取り扱っています。
ただ独立を果たしたものの当時は敗戦直後で物資は何もなく、工作機械にすら事欠く有様だったようです。どうにか中古の機械を調達する算段が出来たものの売主は長野県諏訪市にいたため、父親の茂がリヤカーを引いて往復300キロを渡り歩いてわざわざ運搬してきたほどだったそうです。それにしてもガッツのある父ちゃんだ。
またこの時、兄同様に優秀で当時逓信省に技術者として勤めていた次男の俊雄が公務員という職を捨てた上で樫尾製作所に入社しています。少しでも兄を手伝いたいという一心からの行動だったということで、創業当初はまさに兄弟二人三脚であれこれ製品を作ってどうにかこうにか会社を回していく状態だったらしく、手元の資料によると兄弟がうどん製造機を作って、それで作るうどんを家族が売り歩くということもあったそうです。
そんなこの兄弟の初のヒット商品は指輪に煙草を差せる突起をつけた「指輪パイプ」で、煙草をスパスパ吸う兄を見た俊雄が発案した作業しながらでもタバコが吸えるという製品でした。これが意外にヒットして1日300個も売れる日もあり、創業当初の経営を大いに支援してくれました。
そしてこの指輪パイプに続いた商品というのが、カシオの代名詞ともいえる電卓こと計算機でした。この時既にスポーツマンで行動的な三男の和雄氏、温和で研究肌な四男の幸雄氏も入社しており、四兄弟が揃い踏んだ上で計算機の開発に心血を注いでついにソレノイド式計算機の自社開発に成功します。なお、このカシオのソレノイド式で初めて採用されたボタン配置というのが現在のテンキー配置だったりもします。
ただこの時のソレノイド式計算機は演算速度は高かった掛け算を連続して行う連乗機能がなく、商社からは欠陥商品としてあまり相手にされなかったようです。その悔しさをばねにしてか四兄弟はソレノイド式から今度はリレー式の計算機開発に手を付け、1956年には「14-A型リレー式計算機」の発明に成功、翌年に内田洋行と販売契約を結び正式に売り出したところ市場からも高く評価され、「電卓のカシオ」という名を始めて轟かせるに至りました。
しかしこの時のカシオの成功を見た同業他社もこぞって電卓の開発に乗り出し、電卓市場の競争は非常に激しくなっていきました。カシオもスタート当初でこそリードしていたもののあっという間に技術的差を詰められ、究極のリレー式計算機として開発していた「81型」は当時普及し始めていたトランジスタ採用の電子式計算機との比較によってほとんど評価されず、ほぼ完成しておきながら結局製品化はせずにお蔵入りになるという憂き目を見ています。
なおこの時カシオの最大のライバルとして電子式計算機を持って立ちはだかっていたのはあのシャープです。こういういい時代もあったんだなぁ。
この時は最初の電卓の成功でいい気になってゴルフ三昧だった四兄弟も気を入れ直し、1965年には市場の要求に追いつこうと遅ればせながら電子式計算機の開発に取り組みます。元々切り替えの早い会社でもあるようだし社員も優秀な人材がそろっていたこともあって開発開始から一年足らずでカシオ初の電子式計算機「カシオ001」を世に送り出し、一旦開いた技術的な差を一挙に埋めることに成功し、「電卓のカシオ」の名を維持し続けました。
そしてそれから7年後の1972年、ほとんど法人向けにしか売られてこなかった電卓を個人向けに売る道はないかとカシオは動き出します。当時カシオの社員で現在はオプトエレクトロニクス会長の志村則彰氏を中心に、カシオは個人向け販売に当たって最大の障害となる生産コストの削減を様々な方法で探り、キーをリードスイッチからパネルスイッチにしたり、演算処理にLSIを導入したりなどしてついには当時の市場価格の約3分の1程になる12,800円という定価で恐らく世界初の個人向け電卓「カシオミニ」を世に送り出します。なお原価は4,500円程度だったらしく、定価の設定は社長の忠雄がトップダウンで、というか製品発表日に突然決めたそうです。
このカシオミニは発売当初から大きな話題を集め、発売からわずか十ヶ月でで百万台を販売するなどカシオにとってかつてないほどのヒット商品となり、やはり「電卓のカシオ」と当時は言われたことでしょう。しかもこの時の日本ではボウリングがブームで、ボウリングの点数計算に当たってその使い勝手の良さが評価されたことが追い風となり、電卓を販売した競合メーカーを市場から一気に叩き落とすほどの成功を得ています。
その後もカシオは電卓にとどまらず、電子楽器の「カシオトーン」、高耐久性電子腕時計の「G-SHOCK」など独自性の光る商品を次々と発表し、現代においても一芸のある電子機器メーカーとしての地位を保ちながら「電卓のカシオ」という看板を守っています。何気に私もカシオの電卓使ってるし、例の1・3・7・9・AC同時押しの裏技も知ってるしなぁ。
このカシオという企業について私見を述べると、本当に創業当初から四兄弟が一緒になって盛り立てきて現在も社長と副社長が三男と四男という辺り、いい意味で「創業者が一人の会社じゃない」という印象を覚えます。しかも長男と次男は既に逝去していますが、生前もケンカがあったなどというエピソードは聞かず仲が良かったようで、比べては悪いですがどっかの化学品メーカーの兄弟がいやでも頭に思い浮かんできてしまいます。
既に述べていますが、カシオというのは一癖、一工夫ある商品がやはり多いように思え、四兄弟のオーナーシップがその独自性を高めているようにも覚えます。その点ではこの会社も一種の家族経営企業とみても間違いではなく、その数少ない成功例として考えてもいいと私の友人は話していました。
ただなんでもかんでも成功してきたというわけではなく、1995年には「ルーピー」という女の子向けを意識したゲームハードを発売したものの市場から認知されることもなく淘汰されています。それにしても、現代でこの名称聞くとこっちもまたある元首相が浮かんできてしまうな。
おまけ
先週末に自分の所属するサイクリング部のメンバーと共にボウリングをやってきましたが、みんな揃いも揃って下手で誰もスコアが100に届くことがありませんでした。しかしレベルが低い分、みんなして実力が拮抗したため結構熱くなって楽しかったです。なお昼食はサイゼリヤ。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
そういうわけで今日の創業家ですが、意外と書かれている評伝が少ないと思われるカシオ計算機の創業家、というよりは創業一家である樫尾四兄弟を取り上げます。
・カシオ計算機(Wikipedia)
往年の世代の方であれば「答え一発カシオミニ!」というこのキャッチコピーを覚えているのではないでしょうか。このコピーと共に一世を風靡し、それまで企業向けにしか需要のなかった電卓を一気に個人用として普及させた電子電卓「カシオミニ」は現代においても「電卓といったらカシオ」と言われるほどの大きな成功を収め、同社を優秀な電子機器メーカーとして名指しめました。そのカシオ計算機を創業したのは現社長の樫尾和雄氏(三男)、現副社長の樫尾幸雄氏(四男)の兄である樫尾忠雄(長兄)とその弟の樫尾俊夫(次男)であり、実質的に四兄弟の団結によって生まれ、繁栄した会社と言っても過言ではありません。
長男の忠雄(以下名字は省略)は1917年に現在の高知県南国市で、農業を営む両親の元で生稀増した。忠雄がまだ幼少だった1923年に一家は関東大震災後の東京に移り住み、その翌年の1924年に次男の俊雄が生まれています。
一家の生活は決して裕福ではなく忠雄は小学校高等科を卒業した十三歳の頃には就職し、巣鴨の榎本製作所で旋盤工として働き始めます。ここの会社の社長をしていた榎本博は忠雄の熱心な仕事ぶりを認め、自ら学費を負担する形で十六歳になった忠雄を早稲田の夜間学校へと通わせ、忠雄もまたその期待に応えギリギリまで仕事こなしつつ勉強もしっかりこなして無事に卒業を果たしました。
しかし善人ほどとでもいうべきか、戦時色が強まっていた1936年に榎本博は軍から召集を受け、そのまま戦地で散る運命となりました。榎本の出征に伴って榎本製作所は閉鎖しましたが、榎本は出征の前に忠雄へ愛用のノギスを託したと言い、このエピソードだけでも両者の強い絆というか忠雄の将来性を深く買っていたということが伺えます。
榎本製作所の閉鎖後、忠雄はいくつかの会社を渡り歩き1942年には間借りの工場で独立を果たします。その後、戦争が終結した翌年の1946年に東京都三鷹へと移り「樫尾製作所」を正式に発起して、この時点を現在のカシオ計算機は創業年として取り扱っています。
ただ独立を果たしたものの当時は敗戦直後で物資は何もなく、工作機械にすら事欠く有様だったようです。どうにか中古の機械を調達する算段が出来たものの売主は長野県諏訪市にいたため、父親の茂がリヤカーを引いて往復300キロを渡り歩いてわざわざ運搬してきたほどだったそうです。それにしてもガッツのある父ちゃんだ。
またこの時、兄同様に優秀で当時逓信省に技術者として勤めていた次男の俊雄が公務員という職を捨てた上で樫尾製作所に入社しています。少しでも兄を手伝いたいという一心からの行動だったということで、創業当初はまさに兄弟二人三脚であれこれ製品を作ってどうにかこうにか会社を回していく状態だったらしく、手元の資料によると兄弟がうどん製造機を作って、それで作るうどんを家族が売り歩くということもあったそうです。
そんなこの兄弟の初のヒット商品は指輪に煙草を差せる突起をつけた「指輪パイプ」で、煙草をスパスパ吸う兄を見た俊雄が発案した作業しながらでもタバコが吸えるという製品でした。これが意外にヒットして1日300個も売れる日もあり、創業当初の経営を大いに支援してくれました。
そしてこの指輪パイプに続いた商品というのが、カシオの代名詞ともいえる電卓こと計算機でした。この時既にスポーツマンで行動的な三男の和雄氏、温和で研究肌な四男の幸雄氏も入社しており、四兄弟が揃い踏んだ上で計算機の開発に心血を注いでついにソレノイド式計算機の自社開発に成功します。なお、このカシオのソレノイド式で初めて採用されたボタン配置というのが現在のテンキー配置だったりもします。
ただこの時のソレノイド式計算機は演算速度は高かった掛け算を連続して行う連乗機能がなく、商社からは欠陥商品としてあまり相手にされなかったようです。その悔しさをばねにしてか四兄弟はソレノイド式から今度はリレー式の計算機開発に手を付け、1956年には「14-A型リレー式計算機」の発明に成功、翌年に内田洋行と販売契約を結び正式に売り出したところ市場からも高く評価され、「電卓のカシオ」という名を始めて轟かせるに至りました。
しかしこの時のカシオの成功を見た同業他社もこぞって電卓の開発に乗り出し、電卓市場の競争は非常に激しくなっていきました。カシオもスタート当初でこそリードしていたもののあっという間に技術的差を詰められ、究極のリレー式計算機として開発していた「81型」は当時普及し始めていたトランジスタ採用の電子式計算機との比較によってほとんど評価されず、ほぼ完成しておきながら結局製品化はせずにお蔵入りになるという憂き目を見ています。
なおこの時カシオの最大のライバルとして電子式計算機を持って立ちはだかっていたのはあのシャープです。こういういい時代もあったんだなぁ。
この時は最初の電卓の成功でいい気になってゴルフ三昧だった四兄弟も気を入れ直し、1965年には市場の要求に追いつこうと遅ればせながら電子式計算機の開発に取り組みます。元々切り替えの早い会社でもあるようだし社員も優秀な人材がそろっていたこともあって開発開始から一年足らずでカシオ初の電子式計算機「カシオ001」を世に送り出し、一旦開いた技術的な差を一挙に埋めることに成功し、「電卓のカシオ」の名を維持し続けました。
そしてそれから7年後の1972年、ほとんど法人向けにしか売られてこなかった電卓を個人向けに売る道はないかとカシオは動き出します。当時カシオの社員で現在はオプトエレクトロニクス会長の志村則彰氏を中心に、カシオは個人向け販売に当たって最大の障害となる生産コストの削減を様々な方法で探り、キーをリードスイッチからパネルスイッチにしたり、演算処理にLSIを導入したりなどしてついには当時の市場価格の約3分の1程になる12,800円という定価で恐らく世界初の個人向け電卓「カシオミニ」を世に送り出します。なお原価は4,500円程度だったらしく、定価の設定は社長の忠雄がトップダウンで、というか製品発表日に突然決めたそうです。
このカシオミニは発売当初から大きな話題を集め、発売からわずか十ヶ月でで百万台を販売するなどカシオにとってかつてないほどのヒット商品となり、やはり「電卓のカシオ」と当時は言われたことでしょう。しかもこの時の日本ではボウリングがブームで、ボウリングの点数計算に当たってその使い勝手の良さが評価されたことが追い風となり、電卓を販売した競合メーカーを市場から一気に叩き落とすほどの成功を得ています。
その後もカシオは電卓にとどまらず、電子楽器の「カシオトーン」、高耐久性電子腕時計の「G-SHOCK」など独自性の光る商品を次々と発表し、現代においても一芸のある電子機器メーカーとしての地位を保ちながら「電卓のカシオ」という看板を守っています。何気に私もカシオの電卓使ってるし、例の1・3・7・9・AC同時押しの裏技も知ってるしなぁ。
このカシオという企業について私見を述べると、本当に創業当初から四兄弟が一緒になって盛り立てきて現在も社長と副社長が三男と四男という辺り、いい意味で「創業者が一人の会社じゃない」という印象を覚えます。しかも長男と次男は既に逝去していますが、生前もケンカがあったなどというエピソードは聞かず仲が良かったようで、比べては悪いですがどっかの化学品メーカーの兄弟がいやでも頭に思い浮かんできてしまいます。
既に述べていますが、カシオというのは一癖、一工夫ある商品がやはり多いように思え、四兄弟のオーナーシップがその独自性を高めているようにも覚えます。その点ではこの会社も一種の家族経営企業とみても間違いではなく、その数少ない成功例として考えてもいいと私の友人は話していました。
ただなんでもかんでも成功してきたというわけではなく、1995年には「ルーピー」という女の子向けを意識したゲームハードを発売したものの市場から認知されることもなく淘汰されています。それにしても、現代でこの名称聞くとこっちもまたある元首相が浮かんできてしまうな。
おまけ
先週末に自分の所属するサイクリング部のメンバーと共にボウリングをやってきましたが、みんな揃いも揃って下手で誰もスコアが100に届くことがありませんでした。しかしレベルが低い分、みんなして実力が拮抗したため結構熱くなって楽しかったです。なお昼食はサイゼリヤ。
参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行
2015年4月16日木曜日
中身を見ようとしない日本社会
先日、例の上海人の友人から、「日系企業にいるなら間違っていると思っても上司の言うことを黙って聞かないと駄目だよ」と諭されました。実際、相手が誰であろうと文句があればすぐ言う性格なので間違っているわけではないのですが、まさか中国人に日本の雇用慣行を諭されるとは夢にも思わなかった……。
そんな日本の雇用慣行について今日は書くつもりなのですが、ちょうど去年の今頃というか4月頃は例の小保方騒動が一番ヒートアップしていた頃だと思います。この騒動においては理研の研究審査体制や体質、女性研究者であることを理由に過剰なまで持ち上げたメディア、コピペ問題などいろいろな問題点が挙げられてましたが、私が内心一番大きな問題だったと思うのはどうして小保方氏が理研に研究員として採用されたのか、その選考方法にあるのではないかと考えています。
報道によると小保方氏はハーバード大留学という経歴を引っ提げて理研に入ったとのことですが、この際に通常の選考で課される英語でのプレゼンは免除されていたそうで、万能細胞という魅力的な研究テーマでもってほぼ一本釣りみたいな形で採用されたと聞きます。しかしその実態はすでに報道されている通り、博士号論文をコピペして出すわ、研究ノートもまともにつけられないは、自然発光かどうかも疑わなかったなど研究者としては全く実力がなく、はっきり言えば中身が全くない人物だったと言っても過言ではありません。ただそんな小保方氏ですが去年の釈明会見を見て私は、「ああ、この人ならどんな採用面接でも受かるだろうな」という印象を覚えました。
何故そのように思ったのかというと、とにもかくにも見せ方というかプレゼンが非常に上手かったからです。大学もAO入試で入ったというだけあって恐らく昔からその手のセンスが鋭かったのだと伺えますが、今の日本だとこのように、中身が全くなくても面接時などの見せ方、しゃべり方が上手かったらそれだけで評価されて通してしまうことが多いように思えます。換言するならば外見と比べて中身はほとんど評価されない傾向にあり、真面目系な大学生ほど就活では苦戦するという話をよく聴くし、私のある後輩なんかまさにそうでした。
何故がさっきから続きますが何故日本社会は中身を評価しようとしないのか。多分一番多いであろう言い訳としては「コミュニケーション能力が求められているからだ」という回答でしょう。確かに私もそれを否定しませんがでは何故(またか)コミュニケーション能力が求められるのか、その理由について考えている人は今の今まで私は出会ったことがありません。
私的な意見を述べると、比較的年齢の高い現役世代があまりにもコミュニケーション能力が低くて意思疎通がほとんど図れないためか、若手の世代が同じように低いか、中身のない人間が多すぎてコミュニケーションする内容がないのか、この三択じゃないかと思います。私が考える原因はこの三つともで、特に理解してもらうよう説明することに努力を払わない人間が多すぎることが大きいと考えています。
中身のない人間が何故評価されるかについて話を戻しますが、基本、中身がある人間と比べてない人間の方が口は軽いに決まっています。物がわかっている人間なら軽々に、「ハイできます」なんて言えるわけないですし、慎重にならざるを得ませんが、小保方氏の様に初めからあるかどうかすらも認識できないなら、「STAP細胞はあります」と堂々と言えちゃうわけで、選考過程ではそりゃ後者の方がいい方に見えることでしょう。
その上で中身をきちんと審査しようとなると、審査する人間の中身も求められますし、また中身を審査すること自体も外見だけを見るのに比べて多大な労力が必要です。この後は言わないけど、こういう点も今の日本で中身が評価されない時代ゆえなのかもしれません。
私は二年くらい前からたびたび、「黙って手を動かす奴が一番強くて偉いんだ」というセリフを言う機会が増えています。何故こんなことを言うとどれだけ実力があっても、力量があっても、外見ばかりが評価される現代ではそのような人間はまずほとんど評価されていないきらいがあるのではと思うからです。もちろん周りを楽しませられる才能があるに越したことはありませんが、人間はやっぱり中身で、そういう点をおろそかにしているから昭和期と比べて今の日本はパッとしないんじゃないかと常々感じるわけです。
そんな日本の雇用慣行について今日は書くつもりなのですが、ちょうど去年の今頃というか4月頃は例の小保方騒動が一番ヒートアップしていた頃だと思います。この騒動においては理研の研究審査体制や体質、女性研究者であることを理由に過剰なまで持ち上げたメディア、コピペ問題などいろいろな問題点が挙げられてましたが、私が内心一番大きな問題だったと思うのはどうして小保方氏が理研に研究員として採用されたのか、その選考方法にあるのではないかと考えています。
報道によると小保方氏はハーバード大留学という経歴を引っ提げて理研に入ったとのことですが、この際に通常の選考で課される英語でのプレゼンは免除されていたそうで、万能細胞という魅力的な研究テーマでもってほぼ一本釣りみたいな形で採用されたと聞きます。しかしその実態はすでに報道されている通り、博士号論文をコピペして出すわ、研究ノートもまともにつけられないは、自然発光かどうかも疑わなかったなど研究者としては全く実力がなく、はっきり言えば中身が全くない人物だったと言っても過言ではありません。ただそんな小保方氏ですが去年の釈明会見を見て私は、「ああ、この人ならどんな採用面接でも受かるだろうな」という印象を覚えました。
何故そのように思ったのかというと、とにもかくにも見せ方というかプレゼンが非常に上手かったからです。大学もAO入試で入ったというだけあって恐らく昔からその手のセンスが鋭かったのだと伺えますが、今の日本だとこのように、中身が全くなくても面接時などの見せ方、しゃべり方が上手かったらそれだけで評価されて通してしまうことが多いように思えます。換言するならば外見と比べて中身はほとんど評価されない傾向にあり、真面目系な大学生ほど就活では苦戦するという話をよく聴くし、私のある後輩なんかまさにそうでした。
何故がさっきから続きますが何故日本社会は中身を評価しようとしないのか。多分一番多いであろう言い訳としては「コミュニケーション能力が求められているからだ」という回答でしょう。確かに私もそれを否定しませんがでは何故(またか)コミュニケーション能力が求められるのか、その理由について考えている人は今の今まで私は出会ったことがありません。
私的な意見を述べると、比較的年齢の高い現役世代があまりにもコミュニケーション能力が低くて意思疎通がほとんど図れないためか、若手の世代が同じように低いか、中身のない人間が多すぎてコミュニケーションする内容がないのか、この三択じゃないかと思います。私が考える原因はこの三つともで、特に理解してもらうよう説明することに努力を払わない人間が多すぎることが大きいと考えています。
中身のない人間が何故評価されるかについて話を戻しますが、基本、中身がある人間と比べてない人間の方が口は軽いに決まっています。物がわかっている人間なら軽々に、「ハイできます」なんて言えるわけないですし、慎重にならざるを得ませんが、小保方氏の様に初めからあるかどうかすらも認識できないなら、「STAP細胞はあります」と堂々と言えちゃうわけで、選考過程ではそりゃ後者の方がいい方に見えることでしょう。
その上で中身をきちんと審査しようとなると、審査する人間の中身も求められますし、また中身を審査すること自体も外見だけを見るのに比べて多大な労力が必要です。この後は言わないけど、こういう点も今の日本で中身が評価されない時代ゆえなのかもしれません。
私は二年くらい前からたびたび、「黙って手を動かす奴が一番強くて偉いんだ」というセリフを言う機会が増えています。何故こんなことを言うとどれだけ実力があっても、力量があっても、外見ばかりが評価される現代ではそのような人間はまずほとんど評価されていないきらいがあるのではと思うからです。もちろん周りを楽しませられる才能があるに越したことはありませんが、人間はやっぱり中身で、そういう点をおろそかにしているから昭和期と比べて今の日本はパッとしないんじゃないかと常々感じるわけです。
2015年4月14日火曜日
日本文学の現状
昨夜遅くまで「ファイナルファンタジー零式」で遊んでいたためジバニャン並に「だるんですけどー」と言いたくなるような状態なので、二分で考えたネタで今日は間に合わせようと思います。
さて日本文学と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が真っ先に思い浮かべるのは個人的に一番好きな森鴎外の名前が来てその次に彼の傑作の一つである「高瀬舟」が続くのですが、ふと振り返ると近年に「高瀬舟」とまではいかないまでも時代を代表するような、誰もが読んでいるような文学作品が日本に生まれたのかという疑問がもたげてきます。はっきり言いますがそんな時代を代表するかのような作品は近年、下手すりゃここ20年くらい何も生まれて来ず、未来の日本の教科書には平成期の文学作品など皆無だとして取り扱われるかもしれません。
一体何故、近年の日本で誰もが知るような文学作品が生まれてこないのか。理由はいくつかあって比較的大きいと思われるものをここでいくつか挙げます。
1、新人作家が生まれてこない
これは単純に小説の新人賞が激減しており、純文学作品向けともなるとこちらも皆無に近いと言っていいでしょう。昔は「海燕」という雑誌の「海燕新人賞」が登竜門として有名でしたが、これしか純文学分野の新人賞がなかったものだから雑誌の廃刊直前には「読者よりも新人賞の応募者の方が多い」とまで言われていて、実際に私が昔読んだ小説家志望者向けの本には「おすすめの応募先」にきちんと入ってました。
2、誰も買わないし売れない
一言で文学作品と言ってどのジャンルがこれに属するのかはいくつか意見があるでしょうが、一般的に文学作品と呼ばれる作品ははっきり言って現代では誰も買おうとしないし全く売れません。出版社などの方がこの辺の事情をよく分かっており、かつて新人賞を取ったり一世を風靡した作家の本を「文化事業のため」などと称して大手出版社は頑張って出版し続けたりしていますが出せば出すほど赤字を垂れ流す状態で、本音では手を引きたいなどという業界の話をよく聞きます。
なお友人によると、現代の日本の出版業界は漫画でしかほとんど利益が生まれず、漫画作品しか出版していない秋田書店の経営状態はほかの大手と比べても地味に健全だそうです。さもありなん。
3、芥川賞の陳腐化
かつては新人作家最大の登竜門として君臨した芥川賞ですが、一応毎回受賞者がニュースにはなるものの果たして受賞した作品や受賞作家がその後描いた作品がどれだけ世の中に影響を与えたかとなると非常に微妙な所です。さらに近年は選者が作品の質以前にその作家が世間受けするか否かを基準に選んでいると思える節もあり、こういってはなんですが目立ちそうな風貌や経歴のある作家ばかりが選ばれている気がします。でもって作品はどれを読んでも「だから何?」って思える代物ばかりだし。
4、文壇が文学作品として認めない
何気に一番大きな要因じゃないかと思っているはこれです。文壇についての説明は省きますがこの連中が売れている小説に対してよく、「大衆娯楽的要素が強い」などと批判しては文学ではないとあからさまに否定することが明らかに多いように思えます。一例をあげると私が愛読していた「氷点」や「塩狩峠」に代表される三浦綾子の小説などはまさに格好のターゲットで、現代においても文学作品としてみなす人間は少ないだろうし今後もフェードアウトしていくのではないかという懸念があります。
私個人の意見を述べると、文学とはどこまでが理性でどこまでが狂気か、どこまでがモラルとして許されどこまでがモラルとして許されないのか、いわば価値概念の限界や境界を架空の物語でもって探るということが最大の学術的義務ではないかと思います。最初に挙げた「高瀬舟」などは自殺幇助という現代でも確固とした意見の出ていない問題を俎上に載せており、文体の美しさや登場人物の心象表現の素晴らしさはもとより「人に考えさせる」テーマが何よりも重くていいと思えるだけに私が好きな作品の一つです。
それ故に、私は一時期に論争を起こした「バトル・ロワイアル」なんかはかえって文学的な作品だったと実は評価しています。銃を渡され殺せと言われたから殺すのか、殺されるから殺してもいいのか、ただ黙って殺されるのが正しいのか、以上の問いが中学生に向けられたら……など、この小説はいろんな点でタブーに近い問いかけを数多くなしており世間で「文学的だ」などと言われている作品よりずっと文学的だったと私は見ています。もっともこんな風に言うのは私くらいなもんで、「やや下品な娯楽小説」という評価のが大半な気がしますが。
最後に少し真面目な話をすると、文字単体ではもはや物語は成立しない時代なのかもしれません。ライトノベルも挿絵があってナンボな所もあり、何らかのイメージがなければ今や物語として触れられることはほとんどなく、文字だけで成立した時代はとうに過ぎているのではないかと少し思います。
そういう意味で話作りが好きな人、そういうことを仕事にしたい人は小説というジャンルよりもシナリオライターという職を目指した方が無難だと以前から思っています。映画でもドラマでもゲームでもいいので、少なくとも小説だけで書いててやって蹴るとは思えないので他のメディアをうまく取り込みつつ自分のセンスを発揮するよりほかがないでしょう。ちなみにゲームのシナリオで言うと、下記の三作品が私の中で素晴らしいシナリオだったと感動した作品です。
1、ヘラクレスの栄光3:終盤のあのどんでん返しは本気で息を飲んだ。
2、リンダキューブアゲイン:狂気をテーマにした作品は数多くあれど、一つの妄執が生む狂気であればこの作品が白眉。
3:幻想水滸伝2:戦争、平和、友情の複数のテーマが見事にかみ合っている。
おまけ
中学生時代に学校で三浦綾子の「銃口」を読んでいたら国語の先生に、「花園君、何を読んでいるのですか?」と聞かれ三浦綾子の「銃口」だと答えたところ、「やはり、あなたはつくづくいいセンスをお持ちですね」とニュータイプっぽいことを言われたのが私の一つの自慢です。
さて、また「ファイナルファンタジー零式」やろっと。
さて日本文学と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が真っ先に思い浮かべるのは個人的に一番好きな森鴎外の名前が来てその次に彼の傑作の一つである「高瀬舟」が続くのですが、ふと振り返ると近年に「高瀬舟」とまではいかないまでも時代を代表するような、誰もが読んでいるような文学作品が日本に生まれたのかという疑問がもたげてきます。はっきり言いますがそんな時代を代表するかのような作品は近年、下手すりゃここ20年くらい何も生まれて来ず、未来の日本の教科書には平成期の文学作品など皆無だとして取り扱われるかもしれません。
一体何故、近年の日本で誰もが知るような文学作品が生まれてこないのか。理由はいくつかあって比較的大きいと思われるものをここでいくつか挙げます。
1、新人作家が生まれてこない
これは単純に小説の新人賞が激減しており、純文学作品向けともなるとこちらも皆無に近いと言っていいでしょう。昔は「海燕」という雑誌の「海燕新人賞」が登竜門として有名でしたが、これしか純文学分野の新人賞がなかったものだから雑誌の廃刊直前には「読者よりも新人賞の応募者の方が多い」とまで言われていて、実際に私が昔読んだ小説家志望者向けの本には「おすすめの応募先」にきちんと入ってました。
2、誰も買わないし売れない
一言で文学作品と言ってどのジャンルがこれに属するのかはいくつか意見があるでしょうが、一般的に文学作品と呼ばれる作品ははっきり言って現代では誰も買おうとしないし全く売れません。出版社などの方がこの辺の事情をよく分かっており、かつて新人賞を取ったり一世を風靡した作家の本を「文化事業のため」などと称して大手出版社は頑張って出版し続けたりしていますが出せば出すほど赤字を垂れ流す状態で、本音では手を引きたいなどという業界の話をよく聞きます。
なお友人によると、現代の日本の出版業界は漫画でしかほとんど利益が生まれず、漫画作品しか出版していない秋田書店の経営状態はほかの大手と比べても地味に健全だそうです。さもありなん。
3、芥川賞の陳腐化
かつては新人作家最大の登竜門として君臨した芥川賞ですが、一応毎回受賞者がニュースにはなるものの果たして受賞した作品や受賞作家がその後描いた作品がどれだけ世の中に影響を与えたかとなると非常に微妙な所です。さらに近年は選者が作品の質以前にその作家が世間受けするか否かを基準に選んでいると思える節もあり、こういってはなんですが目立ちそうな風貌や経歴のある作家ばかりが選ばれている気がします。でもって作品はどれを読んでも「だから何?」って思える代物ばかりだし。
4、文壇が文学作品として認めない
何気に一番大きな要因じゃないかと思っているはこれです。文壇についての説明は省きますがこの連中が売れている小説に対してよく、「大衆娯楽的要素が強い」などと批判しては文学ではないとあからさまに否定することが明らかに多いように思えます。一例をあげると私が愛読していた「氷点」や「塩狩峠」に代表される三浦綾子の小説などはまさに格好のターゲットで、現代においても文学作品としてみなす人間は少ないだろうし今後もフェードアウトしていくのではないかという懸念があります。
私個人の意見を述べると、文学とはどこまでが理性でどこまでが狂気か、どこまでがモラルとして許されどこまでがモラルとして許されないのか、いわば価値概念の限界や境界を架空の物語でもって探るということが最大の学術的義務ではないかと思います。最初に挙げた「高瀬舟」などは自殺幇助という現代でも確固とした意見の出ていない問題を俎上に載せており、文体の美しさや登場人物の心象表現の素晴らしさはもとより「人に考えさせる」テーマが何よりも重くていいと思えるだけに私が好きな作品の一つです。
それ故に、私は一時期に論争を起こした「バトル・ロワイアル」なんかはかえって文学的な作品だったと実は評価しています。銃を渡され殺せと言われたから殺すのか、殺されるから殺してもいいのか、ただ黙って殺されるのが正しいのか、以上の問いが中学生に向けられたら……など、この小説はいろんな点でタブーに近い問いかけを数多くなしており世間で「文学的だ」などと言われている作品よりずっと文学的だったと私は見ています。もっともこんな風に言うのは私くらいなもんで、「やや下品な娯楽小説」という評価のが大半な気がしますが。
最後に少し真面目な話をすると、文字単体ではもはや物語は成立しない時代なのかもしれません。ライトノベルも挿絵があってナンボな所もあり、何らかのイメージがなければ今や物語として触れられることはほとんどなく、文字だけで成立した時代はとうに過ぎているのではないかと少し思います。
そういう意味で話作りが好きな人、そういうことを仕事にしたい人は小説というジャンルよりもシナリオライターという職を目指した方が無難だと以前から思っています。映画でもドラマでもゲームでもいいので、少なくとも小説だけで書いててやって蹴るとは思えないので他のメディアをうまく取り込みつつ自分のセンスを発揮するよりほかがないでしょう。ちなみにゲームのシナリオで言うと、下記の三作品が私の中で素晴らしいシナリオだったと感動した作品です。
1、ヘラクレスの栄光3:終盤のあのどんでん返しは本気で息を飲んだ。
2、リンダキューブアゲイン:狂気をテーマにした作品は数多くあれど、一つの妄執が生む狂気であればこの作品が白眉。
3:幻想水滸伝2:戦争、平和、友情の複数のテーマが見事にかみ合っている。
おまけ
中学生時代に学校で三浦綾子の「銃口」を読んでいたら国語の先生に、「花園君、何を読んでいるのですか?」と聞かれ三浦綾子の「銃口」だと答えたところ、「やはり、あなたはつくづくいいセンスをお持ちですね」とニュータイプっぽいことを言われたのが私の一つの自慢です。
さて、また「ファイナルファンタジー零式」やろっと。
2015年4月13日月曜日
劉備の「髀肉の嘆」は演技かガチか?
先週書いた「髀肉の嘆」という私の愚痴記事についてよくコメント暮れる若生わこさんに、「あの記事は若生さん向けのダイレクトパスだったのにコメントくれなかったね」と振ってみたところ、「いえ、コメントしようとしたんですけど劉備が劉表の前で髀肉の嘆をしたのは計算ずくの演技だったのか、それともガチだったのかという疑問を書こうとしたらえらく長くなりそうだったのでやめました」という素敵な返事をくれたので、彼の問いにこたえる形でここで私の考えを書いておくことにします。
まず「髀肉の嘆」とは何かですが前にも書いた説明をそのまま引用すると、
「荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠へ立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、『かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう』と思って泣きながら宴会に帰ってきてそのまま劉表の前で自身の現在の境遇を嘆いてみせた」
というエピソードに端を発し、不安定であったり実力がいまいち発揮できず鬱屈した現状にあることを例える言葉となっています。私にとっては2010年前後がまさにこの状況で、今のままじゃよくないと思いつつも変えようとする努力を怠っていて気分的にも嫌な時代だったことをこの言葉を使って前の記事では説明しています。
さてこの髀肉の嘆ですが、この時の劉備の行動は若生さんの言う通りに確かに疑問符がつく行動です。劉備は自分を亡命者として受け入れてくれた劉表に対し宴会の最中、「昔は戦場を駆け回っていたのに今はこんな惨めな生活だなんて……」と愚痴っているわけですが、これを聞いて恐らく劉表じゃなくても、「戦場で活躍できてないとかいうなんてこいつ、俺の寝首でも掻こうってのか?」と誰もが想像することでしょう。
劉備からしたら当時面倒見てくれる劉表に警戒されるなんて百害あって一利もありません。場合によっては揉め事起こしそうだから追放、下手すりゃ暗殺にもつながるかもしれず、内心では現状に不満を覚えてもそれを口にする、それも面倒役に対して言うなんてのは迂闊としか言いようの行為です。
仮に劉備がこれ以前からも迂闊な行動を取る人間であれば、ただ単に発言が迂闊な人間の妄言の一種として片づけられるのですが、これが劉備となると案外そうもいきません。三国志に詳しい人間ならわかるでしょうが劉備はどの場面でも非常に計算高い人間で、事ある毎に「仁徳」をPRもすれば、自分に警戒心を抱きつつあった曹操の前で雷の音に驚いてみせたり(これは創作ではあるものの、史実でも野心のない振りを曹操に見せている)、袁紹の命令を聞くふりしながらそっと戦線を離脱したりと非常に隙がなく、抜け目のない人物です。
そんな慎重な性格の劉備がわざわざ、それこそ無用なくらいに劉表を警戒させるような「髀肉の嘆」をどうして述べたのか。むしろ劉表に自分をいくらか警戒させるつもりで言った、または一回転して警戒心を解くことを計算して言い放ったのではないかなどと、ついつい深読みしがちになってしまいます。
しかしこうした事情を踏まえた上で私の意見を述べると、やっぱりこの時の「髀肉の嘆」はガチだったのでは、つまり本気で自身の現況を嘆いてついうっかり本音を洩らしちゃったというのが真実ではないかと思います。根拠としては劉備自身が逆境にあってもあまり弱音を洩らさない人間であることと、そこそこ年齢もいってきて天下を狙うのにもうチャンスがほとんどないと自覚し始める状況だったと思えるからです。もっともそんな強固な根拠ではなく、どちらかというと当時の劉備の気持ちになるならこうも言いたくなる、というのがこの説を取る一番大きな理由ですが。
ただ計算ずくの発言という説もまだ捨てきれず、というのもこの後劉備は劉表に請われて荊州の北にある新野という街に手勢を率いて駐屯、支配することとなるからです。この地で劉備は三国志最大のバランスブレイカーとも言うべき軍師の諸葛亮を得て、また何度かやってきた曹操軍を撃退するなど独自の軍事活動を始め、後の躍進の礎を築いています。
つまり劉備は敢えて劉表を警戒させることで、「近くに置いておくよりもどこか離れた土地を任せるなどして遠ざけた方がいい」と思わせたかったのかもしれません。劉備としては小さくともいいからどこかに根拠地を作り、人材発掘から軍勢の編成などをマイプランでやりたかったのかもしれません。正直、こっちの説の方がその後の状況とも符合するから根拠あるような気もするけど。
ただどちらにしろ、流浪の傭兵軍団と言ってもいい劉備がこの数年後に荊州全土を支配し、その上蜀も併呑するに至るなど当時は誰も想像すらしなかったでしょう。2013年に会社起こして潰して再就職活動始めるもなかなか決まらず浪人中で非常にボロボロだった時代の私に対し、ある人がまさにこの時の劉備の例を持ち出してまた再起を期す日があるはずだ励ましてくれたことがありましたが、そろそろ自分も荊州とまでは言わないけどマッドシティくらいは支配したいなぁ。
まず「髀肉の嘆」とは何かですが前にも書いた説明をそのまま引用すると、
「荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠へ立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、『かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう』と思って泣きながら宴会に帰ってきてそのまま劉表の前で自身の現在の境遇を嘆いてみせた」
というエピソードに端を発し、不安定であったり実力がいまいち発揮できず鬱屈した現状にあることを例える言葉となっています。私にとっては2010年前後がまさにこの状況で、今のままじゃよくないと思いつつも変えようとする努力を怠っていて気分的にも嫌な時代だったことをこの言葉を使って前の記事では説明しています。
さてこの髀肉の嘆ですが、この時の劉備の行動は若生さんの言う通りに確かに疑問符がつく行動です。劉備は自分を亡命者として受け入れてくれた劉表に対し宴会の最中、「昔は戦場を駆け回っていたのに今はこんな惨めな生活だなんて……」と愚痴っているわけですが、これを聞いて恐らく劉表じゃなくても、「戦場で活躍できてないとかいうなんてこいつ、俺の寝首でも掻こうってのか?」と誰もが想像することでしょう。
劉備からしたら当時面倒見てくれる劉表に警戒されるなんて百害あって一利もありません。場合によっては揉め事起こしそうだから追放、下手すりゃ暗殺にもつながるかもしれず、内心では現状に不満を覚えてもそれを口にする、それも面倒役に対して言うなんてのは迂闊としか言いようの行為です。
仮に劉備がこれ以前からも迂闊な行動を取る人間であれば、ただ単に発言が迂闊な人間の妄言の一種として片づけられるのですが、これが劉備となると案外そうもいきません。三国志に詳しい人間ならわかるでしょうが劉備はどの場面でも非常に計算高い人間で、事ある毎に「仁徳」をPRもすれば、自分に警戒心を抱きつつあった曹操の前で雷の音に驚いてみせたり(これは創作ではあるものの、史実でも野心のない振りを曹操に見せている)、袁紹の命令を聞くふりしながらそっと戦線を離脱したりと非常に隙がなく、抜け目のない人物です。
そんな慎重な性格の劉備がわざわざ、それこそ無用なくらいに劉表を警戒させるような「髀肉の嘆」をどうして述べたのか。むしろ劉表に自分をいくらか警戒させるつもりで言った、または一回転して警戒心を解くことを計算して言い放ったのではないかなどと、ついつい深読みしがちになってしまいます。
しかしこうした事情を踏まえた上で私の意見を述べると、やっぱりこの時の「髀肉の嘆」はガチだったのでは、つまり本気で自身の現況を嘆いてついうっかり本音を洩らしちゃったというのが真実ではないかと思います。根拠としては劉備自身が逆境にあってもあまり弱音を洩らさない人間であることと、そこそこ年齢もいってきて天下を狙うのにもうチャンスがほとんどないと自覚し始める状況だったと思えるからです。もっともそんな強固な根拠ではなく、どちらかというと当時の劉備の気持ちになるならこうも言いたくなる、というのがこの説を取る一番大きな理由ですが。
ただ計算ずくの発言という説もまだ捨てきれず、というのもこの後劉備は劉表に請われて荊州の北にある新野という街に手勢を率いて駐屯、支配することとなるからです。この地で劉備は三国志最大のバランスブレイカーとも言うべき軍師の諸葛亮を得て、また何度かやってきた曹操軍を撃退するなど独自の軍事活動を始め、後の躍進の礎を築いています。
つまり劉備は敢えて劉表を警戒させることで、「近くに置いておくよりもどこか離れた土地を任せるなどして遠ざけた方がいい」と思わせたかったのかもしれません。劉備としては小さくともいいからどこかに根拠地を作り、人材発掘から軍勢の編成などをマイプランでやりたかったのかもしれません。正直、こっちの説の方がその後の状況とも符合するから根拠あるような気もするけど。
ただどちらにしろ、流浪の傭兵軍団と言ってもいい劉備がこの数年後に荊州全土を支配し、その上蜀も併呑するに至るなど当時は誰も想像すらしなかったでしょう。2013年に会社起こして潰して再就職活動始めるもなかなか決まらず浪人中で非常にボロボロだった時代の私に対し、ある人がまさにこの時の劉備の例を持ち出してまた再起を期す日があるはずだ励ましてくれたことがありましたが、そろそろ自分も荊州とまでは言わないけどマッドシティくらいは支配したいなぁ。
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