2015年4月13日月曜日

劉備の「髀肉の嘆」は演技かガチか?

 先週書いた「髀肉の嘆」という私の愚痴記事についてよくコメント暮れる若生わこさんに、「あの記事は若生さん向けのダイレクトパスだったのにコメントくれなかったね」と振ってみたところ、「いえ、コメントしようとしたんですけど劉備が劉表の前で髀肉の嘆をしたのは計算ずくの演技だったのか、それともガチだったのかという疑問を書こうとしたらえらく長くなりそうだったのでやめました」という素敵な返事をくれたので、彼の問いにこたえる形でここで私の考えを書いておくことにします。

 まず「髀肉の嘆」とは何かですが前にも書いた説明をそのまま引用すると、

「荊州の劉表の元に亡命中で不自由ない生活をしていた劉備がある宴会の最中に厠へ立った際、知らないうちに太ももの肉(=髀肉)が付いていたことに気が付き、『かつては馬上でずっと過ごしていて太ももの肉なんてつくことはなかったのに、今はなんて無為な生活をしているんだろう』と思って泣きながら宴会に帰ってきてそのまま劉表の前で自身の現在の境遇を嘆いてみせた」

 というエピソードに端を発し、不安定であったり実力がいまいち発揮できず鬱屈した現状にあることを例える言葉となっています。私にとっては2010年前後がまさにこの状況で、今のままじゃよくないと思いつつも変えようとする努力を怠っていて気分的にも嫌な時代だったことをこの言葉を使って前の記事では説明しています。

 さてこの髀肉の嘆ですが、この時の劉備の行動は若生さんの言う通りに確かに疑問符がつく行動です。劉備は自分を亡命者として受け入れてくれた劉表に対し宴会の最中、「昔は戦場を駆け回っていたのに今はこんな惨めな生活だなんて……」と愚痴っているわけですが、これを聞いて恐らく劉表じゃなくても、「戦場で活躍できてないとかいうなんてこいつ、俺の寝首でも掻こうってのか?」と誰もが想像することでしょう。
 劉備からしたら当時面倒見てくれる劉表に警戒されるなんて百害あって一利もありません。場合によっては揉め事起こしそうだから追放、下手すりゃ暗殺にもつながるかもしれず、内心では現状に不満を覚えてもそれを口にする、それも面倒役に対して言うなんてのは迂闊としか言いようの行為です。

 仮に劉備がこれ以前からも迂闊な行動を取る人間であれば、ただ単に発言が迂闊な人間の妄言の一種として片づけられるのですが、これが劉備となると案外そうもいきません。三国志に詳しい人間ならわかるでしょうが劉備はどの場面でも非常に計算高い人間で、事ある毎に「仁徳」をPRもすれば、自分に警戒心を抱きつつあった曹操の前で雷の音に驚いてみせたり(これは創作ではあるものの、史実でも野心のない振りを曹操に見せている)、袁紹の命令を聞くふりしながらそっと戦線を離脱したりと非常に隙がなく、抜け目のない人物です。
 そんな慎重な性格の劉備がわざわざ、それこそ無用なくらいに劉表を警戒させるような「髀肉の嘆」をどうして述べたのか。むしろ劉表に自分をいくらか警戒させるつもりで言った、または一回転して警戒心を解くことを計算して言い放ったのではないかなどと、ついつい深読みしがちになってしまいます。

 しかしこうした事情を踏まえた上で私の意見を述べると、やっぱりこの時の「髀肉の嘆」はガチだったのでは、つまり本気で自身の現況を嘆いてついうっかり本音を洩らしちゃったというのが真実ではないかと思います。根拠としては劉備自身が逆境にあってもあまり弱音を洩らさない人間であることと、そこそこ年齢もいってきて天下を狙うのにもうチャンスがほとんどないと自覚し始める状況だったと思えるからです。もっともそんな強固な根拠ではなく、どちらかというと当時の劉備の気持ちになるならこうも言いたくなる、というのがこの説を取る一番大きな理由ですが。

 ただ計算ずくの発言という説もまだ捨てきれず、というのもこの後劉備は劉表に請われて荊州の北にある新野という街に手勢を率いて駐屯、支配することとなるからです。この地で劉備は三国志最大のバランスブレイカーとも言うべき軍師の諸葛亮を得て、また何度かやってきた曹操軍を撃退するなど独自の軍事活動を始め、後の躍進の礎を築いています。
 つまり劉備は敢えて劉表を警戒させることで、「近くに置いておくよりもどこか離れた土地を任せるなどして遠ざけた方がいい」と思わせたかったのかもしれません。劉備としては小さくともいいからどこかに根拠地を作り、人材発掘から軍勢の編成などをマイプランでやりたかったのかもしれません。正直、こっちの説の方がその後の状況とも符合するから根拠あるような気もするけど。

 ただどちらにしろ、流浪の傭兵軍団と言ってもいい劉備がこの数年後に荊州全土を支配し、その上蜀も併呑するに至るなど当時は誰も想像すらしなかったでしょう。2013年に会社起こして潰して再就職活動始めるもなかなか決まらず浪人中で非常にボロボロだった時代の私に対し、ある人がまさにこの時の劉備の例を持ち出してまた再起を期す日があるはずだ励ましてくれたことがありましたが、そろそろ自分も荊州とまでは言わないけどマッドシティくらいは支配したいなぁ。

4 件のコメント:

  1. この一件はなかなか難しい問題ですね。
    私個人としてはやはり劉備なりに考えがあっての発言ではないだろうかと思います。

    劉備はこの時期はまだ天下取りを諦めていなかっただろうと想像しています。
    彼は曹操が袁紹の息子及びその残党の相手をしていて完全に中原を掌握しきれていない内に攻撃して、もうひと波乱起こしてやろうと画策していたのでは?
    それなのに劉表が外征しようという気がない君主なので、一種の当てこすりとしてこういう発言をしたのではないかというのが私の推測ですね。
    その後に曹操が烏丸討伐の為に遼東へ遠征した際にも劉備はそこを衝くように進言していますし(見事はねられましたが)。

    とにかく劉備はこの時期「中原に出て暴れたいんだよ!軍貸せ!」と言いたかったけどそうも言えないので精いっぱいの抵抗として生まれたのが「髀肉の嘆」ではないか…。
    なんて考えるのが私にとっては一番腑に落ちますね。

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    1.  せやせや、曹操の烏丸征伐の頃の後背を突こうとした話をすっかり忘れてました。そう考えると当てこすり説も十分真実味を帯びてきますね。
       ただ劉備が後背を突くと提案した場合、袁紹の時の汝南からの攻撃や、徐州での呂布討伐などみんな失敗しているような気がします。劉表も案外、「こいつに後ろから攻撃させると失敗するしなぁ」と考えて断ったのかもしれません。

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  2. 劉備はホンマに存在していましたか?

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    1.  さすがにおったやろ。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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