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2015年4月28日火曜日

創業家列伝~長瀬富郎(花王)

 今更ながら恥ずかしい話ですが私は2005年に留学のため中国で生活していた際に初めてP&Gが日系企業じゃないということを知りました。ただ同じような間違いをしていた人はほかにも多くおり、何故それほど自国の企業だと誤解する人が多いのかというと単純にP&Gが世界市場で圧倒的なシェアを誇ること、各地域の市場に根差していることが要因ではないかと思われます。
 実際に石鹸やシャンプーといった一般消費財市場は世界規模でP&Gが大半のシェアを持っており、中には同じ業種で対抗する企業がほとんどないという国や地域もあると聞きます。そんなP&Gという巨人に対し、日本国内市場では花王という会社が「調査兵団」みたいな感じで割と頑張って抵抗してたりします。

花王(Wikipedia)

 後に花王を創業することとなる長瀬富郎はまだ江戸時代だった1863年に現在の岐阜県福岡町にある酒造業者の次男として生まれます。富郎は小学校を卒業すると親戚の商家に奉公へ出て下積み時代を過ごし、22歳の頃に自らの独立資金を貯めると奉公を終えて上京し、独立資金を増やそうと米相場の先物取引に手を出します。
 この時投じた金額は150円という明治初期としては非常に大きな金額ですが、案の定というか富郎はこの資金を全てすってしまいます。本人もこれには大分懲りたのか、「もう投機的なことは絶対しない」と言っては自分の信念にしていた節があります。

 独立資金を失った富郎は再び奉公に出てお金を貯め、25歳の時に再び独立して東京の馬喰町に洋小間物を取り扱う自分の店を構えます。この時はいろんな商品を取り扱っていたようですがその中でも富郎が目をつけたのはほかならぬ花王の代名詞ともいえる石鹸で、洗浄用としては幕末に海外から輸入され明治期には一般市民にも大きく普及していたものの当時の国産石鹸は海外性と比べて品質が著しく悪かったそうです。
 富郎本人も客からのクレームを受けながらまともな品質の国産石鹸を探しあぐね、以前の奉公時代に知り合った村田亀太郎という石鹸職人が独立して石鹸作り始めると聞くや富郎は専属契約を結み、村田と一緒に石鹸の品質改善に取り組むことになります。

 二人は薬剤師の親戚から石鹸に必要な知識や技術を学ぶと試行錯誤の末に一年半後、ついにこれはと言えるような石鹸を作ることに成功します。この石鹸を売り出すに当たって化粧用石鹸のことを当時は「顔石鹸」と読んでいたことから音を取って「香王」と名付けて商標を登録しますが、売り出し前に思い直し「花王」と改め、こちらの名前で売り出すことにしました。
 こうして売り出された「花王」石鹸は他者と比べて高い値段設定であったものの評判が評判を呼び、売り出しはじめから割とよく売れたそうです。しかし売れ行きが良くなるにつれて模造する業者が続出し、最初に商標登録までした「香王」や「花玉」などと似たような名前の石鹸が次々と売り出されたそうです。あながち昔の日本人も中国人を笑えんな。

 こうした模造品に対して富郎は何度か告訴したりもしましたが終いには「品質では勝ってる。ほっといてもパクリメーカーは潰れる」などと無視する方向に舵を切ります。その一方で自社製品の宣伝には当初より力を入れており、鉄道沿線に宣伝看板を設置するのを始め全国の新聞にも積極的に広告を掲載していきました。
 この間、品質の向上も怠らずに続けており、その甲斐あってか1904年に米国セントルイスで開かれた万国博では花王の石鹸がその品質を評価され名誉銀杯を取得しています。その後もシアトルやロンドンの博覧会でも賞を取り、国内外でその品質への評価は日増しに高まっていきました。

 このように書くと富郎の人生は順風満帆のようにも見えますが途中途中で何度か痛い目にも遭っており、いくつか例を挙げると資金余裕を持って工場の拡張に取り掛かろうとしたところいきなりメインバンクの東西銀行が破綻して多額の出費を迫られ計画を延期しています。ただ最初の米相場の失敗経験から堅実経営は貫いており、この時の出費で会社を致命的な所まで追い込んでいない辺りはさすがというべきでしょう。

 世界各国で石鹸が高く評価され始めた頃に富郎は病にかかり、晩年は割と寝たきりの生活が続いてたと言われます。病床で富郎は自分亡き後の会社について遺言状を下記、当時まだ小学一年生だった三男を後継者に指名した上で弟二人に後見人となるよう指示します。こうした備えを終えてから富郎は1911年、48歳という年齢でこの世を去ります。時代的にちょうど明治期を貫通するような生没年だったりします。

 長瀬富郎に関しては経歴以外はあまり書くネタを持っていないのが実情ですが、特筆すべきはやはりその品質へのこだわりでしょう。当初から高級路線で石鹸の製造を志していたことは間違いなく、それが発売当初から評価され現代に続く日系消費財メーカーの雄として活躍する下地はここにあると言えるでしょう。
 多少国策的なことを言えば、日系企業を応援するという意味ではP&Gよりも私は花王やライオンの消費財を敢えて選ぶようにしています。P&Gが嫌いというわけでもなく品質に疑いを持っているわけではありませんが、一応地元を応援するって意味合いで。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

千葉のマッドシティ~ラーメン屋「兎に角」


 また松戸市民以外には全く需要のないこの連載ですが、今日は一部のラーメン好きにも見てもらえるかのようなラーメン屋紹介記事です。
 上の写真は松戸駅から徒歩数分のところにある「兎に角」というラーメン屋の入り口前の写真です。このラーメン屋は私の松戸潜伏場所からもほど近い所にあり、駅から潜伏場所に帰る際は必ずここの前を通過していたのでそこそこ思い入れのあるお店であったりします。それで通過する際はいつも、「おっ、今日はこのくらいで済んでるんだ」などと店の外まで続く長い行列を見てはよく感想を洩らしてました。

 この「兎に角」というお店ですが、ラーメン通にはそこそこ有名なお店らしく休日ともなるとほぼすべての時間帯でお客が列を成して待っている姿を見ることが出来ます。実際にここの近くにあって私が通っているカレー屋の店主(元ラリースト)も、「この周辺だと兎に角さんが一番ですね」と断言するほど昔から高い集客力を誇り、現在もなお繁盛し続けています。
 私も過去に、たまたま松戸に来ていた大学の先輩と一緒に行列に並んで食べに行ったことがあります。看板に書かれている通りにつけ麺が人気商品なのでこれを注文して食べましたが、口うるさい先輩曰く「まぁまぁうまい」と太鼓判を押し、私も人気店なだけあって確かにおいしいというため息が洩れました。味はやや濃口で、スープも割と濃厚だったと記憶しています。

 味覚は人によって異なるので誰もがおいしいということは恐らくないでしょうが、ひとまずほかの人にもおいしいお店だよと勧められるラーメン店ではあるので、興味のある方は寄ってみるのもいいかもしれません。

2015年4月26日日曜日

教員免許の国家資格化案に対する意見

 政治系ブログなのにゲームやマッドシティばかりこのところ取り上げていますが、今日は久々に政策に対する意見のような考察を書くことにします。

<教員免許>国家資格に 自民提言へ、資質向上図る(毎日新聞)

 上記リンク先の毎日の報道によると、自民党内で教員免許を現在の都道府県ごとの教育委員会による任命方式から、中央政府による一元的な任命方式に切り替える提案を準備しているそうです。切り替えに当たっては統一国家試験を設けるほか、1~2年程度の学校での研修期間も作ることなどが検討されているそうで、「教員の質の向上」をお題目にしてこれらの改革を行うなどと書かれてあります。
 この政策案に対する私の意見を最初に述べると全く以って反対で、現行制度が正しいわけではありませんがこの改革案だと何も改善が期待できず、また別の問題を噴出させる可能性もあると考えております。

 従来制度とこの国家資格化案とで最も大きな違いはなにかとなると、免許取得までの流れです。従来制度であれば大学で必要な単位を取得することで自動的に教員免許が得られますが、国家資格化案では単位を取得して大学を卒業した後に国家試験があり、その試験通過後にも数年の研修が課されることとなります。仮に報道の通りであれば新制度になると正式な教員として教壇に立つまで現行より数年遅くなることなり、そのかわりにしっかり研修なり教育なりを施すことで教員としての質を高められると考えているのでしょう。

私がこの国家資格案に対して反対する理由はいくつかありますがまず第一に大きいものとして、そもそも数年の研修でそこまで教員の質が上がるのかという疑問です。現在でも40代や50代といった教員として長い経験を持った教師ですら指導能力が著しく低くて問題となるケースを聞きますし、一年やそこらの研修で指導力が上がるかと言ってもそれ以前の問題のような気がしないでもありません。
 そもそも同じ「質の向上」というお題目で始まったものに弁護士資格のロースクール制度がありますが、少なくとも私が効く限りだとロースクール制度が始まってから弁護士の質が向上したなんていう話は一度として効いたことがありません。むしろこの制度で弁護士が量産された末に資格は取得したものの仕事がなく食っていけない弁護士が増え、行きつく先はグレーゾーン金利の取り立てばかりでむしろ前より質が低下していないかと思える状態です。

 話しは戻って国家資格化案に反対する二つ目の理由ですが、これもロースクール制度と被りますが、教員になるまでの期間を延ばすことによって教員志望者の懐というかお金の負担も大きくなる懸念があります。
 知ってる人には有名ですが現在、司法試験合格者は平均で数百万円の借金を背負っているという塔系が出ています。ロースクールに通って試験に合格するまでは全くの無収入で、そこからさらに司法修習生として研修を矯正されるため弁護士として独り立ちする頃には身動き取れないくらいの借金漬けな人が多いそうです。
 仮に教員試験も研修期間を設けるとしたら、その期間の収入はどうするのか。政府が出すのか出さないのか、出さないとしたら奨学金で借金を背負わせるのかという疑問があります。だったらあまり効果があると思えない研修なんてやめてとっとと現場に送る方が社会全体で効率がいいように思えます。

 最初にも書いた通りに現行制度も果たしてどうなのか、教員免許を取る人には効率のいい指導方法を学ぶ機会がちゃんとあるのかという疑問もありますが、少なくとも今回出てきた国家資格化案は何も改善がなく新たな問題を作る懸念が大きいとして今の状態であれば私は反対です。そもそも国家資格として定めることで資格取得者が保護できるか、質を上げられるかとは全く別問題でしょう。
 そもそも近年の日本の士業は先ほどの弁護士、公認会計士、行政書士など、どの資格も取得はしたもののほとんど仕事が出来ない、収入アップにつながらないなど権威の失墜が激しく進んでおります。そういう意味では教員免許だけとは言わず、日本の資格制度を根本から考え直すべき時に来ているのかもしれません。

2015年4月25日土曜日

国家への依存を高める傾向

 知ってる人には有名ですが故ケネディ大統領は生前、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるのか」という言葉を含む有名な演説を行っております。この言葉自体がアメリカのマッチョイズムを強く体現している言葉ですが、私は敢えてこの言葉を現代の日本人にぶつけてみたらどんなもんだろうとこの頃よく考えます。
 結論から言うと、現代の日本人は少なくとも戦後以降としては過去最高と言ってもいいくらいに国家(=政府)に対して強く依存していると私は考えています。

 国家に依存するとはどういうことですが、先ほどのケネディ大統領の言葉を借りるならば、「国が自分に何かをしてくれることを期待する」ような状態の事で、具体的に言えば日々の生活や将来の社会保障などにおいて政府の支援を期待する意識が強い状態を指します。断言してもいいですが今の日本人の8割超は老後の年金を政府はきちんとしてもらわないと困ると考えていて、年金なんて当てにしないから自分自身の力で死ぬまで生きてやると割り切っているのは確実に少数派になるでしょう。ましてや、国家の年金を支えるために自分が頑張らないとと思う人間となると皆無になります。

 つまり国家への依存とは「国に何とかしてもらう」という意識の事で、私見ながら現代日本人はかつてないほどのこの依存心を今高めているのではと密かに考えているわけです。こうなった最大のきっかけとして思い浮かぶのは2011年の東日本大震災で、今思うとどうもあの後から風向きが変わったというか復興を始めとして社会保障、経済問題などで国の支援を強く当てにする声がそれ以前と比べて強まってきているように思えます。
 もちろん被災地の復興や経済対策などにおいて国家の役割は最も重要です。しかしその国家を当てにせず独力でも頑張ろうとする人たち、もしくはそうした対策を行おうとする国家を支えようとする動きや声はどうもそれ以前と比べると小さくなっているというか、「俺が国を引っ張ってやるぜ!」というようなちょいちょいウザいと思える熱い人間が実は減ってきているのではないかと思えてなりません。それどころかむしろ、少々乱暴な言い方かもしれませんが国家の支援がなくなると困ってしょうがない、頼むから何とかしてほしいというような請願のような態度すら見える時もある気がします。

 こんな風に思うのも私自身が極端に国家の保護を当てにしないどころか、「てめぇの助けはいらねぇ」とばかりにやたら反発したがる性格だからというのが大きいでしょうが、それにしたって今の日本人は政府の支援を少し盲目的に信じ過ぎなのではと危惧を覚えるほどです。歴史的な視点で述べるとするならば国家の前で個人なんて言うのはほんの小さなチリのようなもので、国家によって簡単に翻弄されることもあればあっさり見捨てられることも珍しくはありません。国家に抗うのは決して楽なことではありませんが、何もそこまで距離を縮めることはなく、適度に距離を置くだけでもそうした荒波から避けるのにいい手段ではないかと個人的に思います。

 この記事で私は国家に逆らえとまで言うつもりはなく、また同時に国家に尽くせと言うつもりもありません。ただ「国家がきっと何とかしてくれる」なんていう期待に関しては非常に危険な考え方であり、そうした思想を日本は全体で深めつつあるのではという危惧を誰かに共感してもらえれば幸いです。

2015年4月24日金曜日

「ファイナルファンタジー零式」をクリア!

 先月、プレイステーション4などでHD版が発売されたスクウェア・エニックスの「ファイナルファンタジー零式」というゲームですが、私は何故か最初に発売されたPSP版を自慢のPSVita(ソニー製なのに丈夫で有名)にダウンロード購入して遊んでいます。このゲームはタイトルからわかるように日本、嫌恐らく世界で一番有名なRPGゲームシリーズの「ファイナルファンタジーシリーズ」の一つで、携帯機向けタイトルとしてオリジナルのPSP版は2011年に発売されております。

 ゲーム内容を簡単に紹介すればアクションRPGといったところで、アクションが異なる各キャラクターを場面ごとに使い分けながら敵を薙ぎ倒していくゲームで、FFらしくレベルアップもあればブリザドやブリザガもあり、また戦闘シーン以外にもRPGらしくアドベンチャーシーンも多くてゲームのボリュームとしてはそこそこの量がありました。

 それでこのゲームですが、つい先日にようやく一週目を終えてクリアすることが出来ました。その上で感想を述べると世間の評判通りに傑作と言ってもいい作品で、遊んでいて結構楽しかったです。
 ストーリーは割とガチな戦争が舞台となっており、オープニングからして人がバタバタと撃ち殺される上にこのシリーズのマスコットキャラであるチョコボまで容赦なく撃たれるシーンは、「自分の知ってるファイナルファンタジーとちゃう」などと、一発目から度肝を抜かれました。元々FFシリーズ自体が人間の死をやたらクローズアップしたストーリーが多いのですが、このFF零式においては死ぬシーンがやたらとハードに描かれている上に最終的に名前付きで生き残る人間の方が少ない、というよりほぼ全員が皆殺しに遭うという「冨野版ファイナルファンタジー」みたいな結末になるので、合わない人にはこのストーリーは合わないと言われてもしょうがないでしょう。

 しかし私個人の印象で述べると全体的にストーリー展開は悪くなく、特にエヴァンゲリオン並に賛否両論が相次いでいるあのエンディング直前に関しては私は高く評価しております。詳細はネタバレになるので敢えて語りませんが、ラストバトルに至るまで展開はそれまでの世界観が一挙に崩れて進むほどかなりアップテンポな展開になっており、この展開が急すぎるという声をいくつか見る一方、私自身はストーリー中にそれとなく「そうなる」暗示めいたヒントが結構転がっていたので、急展開であることには間違いありませんがまたく意味不明でああした展開になるわけではないので内心アリだという風に考えております。あくまで個人的意見ですが。

 ただし、全体のストーリーでやや気になった点も少なくありません。一番気になった点を挙げると、このゲーム全体で「責任感のある大人」が誰ひとりとして登場していないことに強い違和感を覚えます。主人公たちを始め出てくるキャラクターはほぼ全員がやたら若いイケメン&美少女キャラばっかで、敵側には1人だけ混ざっていますが威厳があって渋さを覚えるような大人なキャラクターが全く出て来ず、こういってはなんですが「子供だけのピーターパンの世界かよ」という印象を覚えました。
 一応味方にもおっさんキャラが少しは出てきますが、どいつもこいつも嫌味しか言わないハゲばっかで大人の威厳なんてありゃせず、そのくせやたら若いイケメンが活躍したりとキャラを美化するのは勝手だけど年齢層的に少々薄っぺらくはないかこの世界はとやっててつくづく思いました。主人公たちが全員高校生くらいの年齢にするのは別にいいんだけど、こういうのをちゃんと引っ張る大人の姿ももう少し描けばよかったのではと苦言を呈しておきます。

 ゲーム性については言わずもがなですが、ほかのレビュアー同様に個性がしっかりと別れたキャラクターのアクションは使っているだけで楽しいし、敵キャラとのゲームバランスも非常に良好で、また各戦闘も難しすぎず優しすぎずで、それでいて戦略性を持って臨めば楽にクリアできたりといい仕上がり具合です。

 最後、これはこのゲームを遊んだ人間すべてに共通する意見だと思いますが、エンディングで流れるテーマソングが素晴らしくよかったです。そのテーマソングはBUMP OF CHIKENの「ゼロ」という曲でこのゲームのために書き下ろされた曲だそうで、ゲーム製作者もこの曲があって初めて完成したと言うだけあってゲームのストーリーと歌詞がよく噛み合っており、それでいて歌い方というか耳に入る言葉一つ一つがこのゲームにおけるたくさんのシーンを思い起こさせる歌い方になっています。このテーマソングだけでなくゲーム中に流れるBGMはどれも情景に合ってて格段に優れていますが、最後のあのエンディングでこのテーマソングは卑怯だよと言いたくなるくらいに心に響きました(ノД`)

Wordpressでのテキストエディタの切り替え不良問題

 今日は勤務している工場のある一帯が停電のため臨時休業となり自宅で過ごしてましたが、折角だから姉妹サイトの「企業居点」でポチポチと更新していました。そしたら作業中、突然記事投稿画面でビジュアルエディタとテキストエディタの切り替えが出来なくなるという妙な問題が起こって「こは如何に」と妙な古語が口から出てきました。

 そもそもビジュアルエディタとテキストエディタとはなんなのかですが、大抵のブログソフトの記事編集画面には実際にホームページで公開された状態、言い換えるとHTMLが反映された状態で編集する画面と、HTMLを直接打ち込んで編集する画面の二種類を自由に切り替えられるようになっており、Wordpressの場合は前者がビジュアルエディタ、後者がテキストエディタだと呼ばれます。
 私が記事を編集するさいは両画面を切り替えながらリンク貼ったり改行弄ったりするのですが、それだけに切り替えが出来なくなると記事編集自体が出来なくなるので非常に困ります。思い当たった原因としては最近、ベースとなるWordpressのソフトが新バージョンに更新されたのでその影響で追加ソフトに当たる「プラグイン」と呼ばれるソフトの中で新バージョンに対応していないのもあり、それが悪さをしているのではないかと推測しました。

 なわけで早速プラグインをしらみつぶしに一つ一つ無効化させて不具合が直るか直らないか試した見たところ、意外とあっさり犯人は見つかりました。今回の私の場合、「Jetpack」という、閲覧数の統計やスパムコメントのブロックなどWordpressに様々な機能をまとめて追加してくれるプラグインでした。これ一つを止めたところ先程の問題はピタリとなくなり、こちらが驚くほど万事丸く収まってしまいました。
 しょうがないのでこの「Jetpack」はしばらく封印せざるを得ないですが、なくてもいいといえばそれまでなのでもしかしたらこのまま削除することになるかもしれません。

 ちなみに今日はまた150件ほど海外拠点データを打ち込んだ後、このブログで連載している「創業家列伝」をそのまま向こうのサイトにもコラムとしてアップロードしました。同じ経済系のネタだから相性いいだろうという判断からですが、アップロードに当たって以前に書いた安藤百福に関する記事を読み返し、「俺もええこと書いとるやないけ」と自分で書いた記事を自分で読んで感動してました。

 そもそもあの創業家列伝自体、安藤百福について記事を書きたいと思ったことがきっかけで作った連載であって、正直な心境を話すとほかの人物については小倉昌男を除いてやはり熱意が一段低くなっております。この辺は佐野眞一氏も書いておりますが、経歴が怪しかったり物凄い決断をするような人間的魅了に溢れた人物はルポ記事を書く側にとっても魅力的で、書き手からしても「この人物を書きたい」という気持ちにさせられます。安藤百福然り、中国史の猛将然り、紹介したいと思う人物に対しては全力疾走で記事が書けますがそうでもない人となると引き上げられる熱意にも限界があります。
 もちろん、この連載で取り上げている人物はどれも面白い人たちだし、そこそこ熱意を盛って書いてはいるつもりです。しかし安藤百福と同程度にまではモチベーションを上げ切れず、多分記事を読んでいる方にしてもそういう温度差が感じられるのではと推測しています。この前書いた樫尾四兄弟の記事なんかいい記事にしようと執筆前に集中しながら音楽聞くなどしてややトランス入った状態にしてから書きましたが、悪くはない仕上がりだけど他を圧倒するかのような記事にはとうとうできませんでした。好き嫌いで仕上がりに差がつくというのはよくないんだけどなぁ。

2015年4月22日水曜日

創業家列伝~鈴木道雄(スズキ)

 軽自動車大手であるスズキの経営者ときたら現会長の鈴木修氏が非常に有名ですが、その創業者となるとトヨタの豊田喜一郎やホンダの本田総一郎と比べると印象が薄い気がします。案外ほかで紹介されていることが少ないような気がするので、いい機会なので今日はそのスズキ創業者である鈴木道雄を紹介しようと思います。

 スズキの創業者となる鈴木道雄は1887年に静岡県浜松市にある農家の次男として生まれます。知ってる人には有名ですが浜松市は豊田佐吉や本田総一郎など著名な日本人発明家が数多く生まれており、知る人ぞ知るパワースポットだったりします。なんでここに発明家が集中しているのかいくつか仮説はありますが、一番大きいのは恐らく繊維産業の中心地だったということに尽きるでしょう。

 話は戻りますが道雄の家は貧しかったために道雄も14歳から大工へ奉公に出ております。道雄を雇った大工は当初は通常通りに普請を手掛けていたそうですがある時期から木製の足踏み織機の製造販売を始め、弟子でいた道雄も一緒になって織機を作り始めたそうです。
 奉公に出てから7年後、21歳となった道雄は大工の親方から独立して織機職人として活動を始めます。道雄は自ら設計した織機第一号「鈴木式織機」を自分の母親へプレゼントするのですが、この織機が他の織機と比べて能率が格段に優れていると評判になり道雄の元にはたくさんの受注依頼が舞い込むようになります。こうした追い風を受けた道雄は従業員を雇い入れるなど事業を拡大し、1920年には「鈴木式織機株式会社」を設立して経営者としてのスタートを切ります。

 道雄の会社は大正の大戦景気後の不景気にも揺さぶられることなく順調に拡大していき、昭和に入ると娘婿で後に二代目社長となる鈴木俊三がアジア各国を回って織機を売り歩き、インドネシアに至っては約2万5000台の織機を出荷するにまで至ったそうです。こうして織機メーカーとしてその名をとどろかせる一方、道雄は日本にも欧米のようなモータリゼーションの時代が来ると考え、そもそもの発明家としての気概からか戦前の時代から自動車の開発を手掛け始めます。
 道雄はこれまた別の娘婿でありエンジニアでもあった鈴木三郎にまずオートバイエンジンの試作を行わせ、これに成功してから四輪自動車の試作車開発にこぎつけます。ただその後、二次大戦の本格化に伴って自動車開発は一時ストップし、会社も軍部から指定を受けて軍需品の生産を引き受けることとなります。

 終戦後、軍需工場がたくさんあったことから浜松は戦火に焼かれて道雄の会社も大半の工場が消失する憂き目に遭いました。しかし比較的被害の少なかった工場で鍋釜などの生産から再開したところ政府から大量の織機の注文を受けたことで再び息を吹き返し、新規開発にも取り組めるだけの体力を戻すに至りました。
 この時に先程出てきた娘婿の俊三(後の二代目社長)から提案されたのが、自転車に原動機を付けた製品、ってかそのまんま原動機付自転車こと原付でした。待望のスズキ製原付第一号は「バイク・パワーフリー号」という名前でこれが大いに評判となり、道雄たちはこの後も続々と二輪車の新製品を市場へと売り出していきます。

 道雄自身はこの時代からかねてから夢だった四輪の開発に従事したかったもののまた時期尚早と考え、この時期は二輪の開発に従事し続けたそうです。その甲斐あってか1954年には4サイクルエンジン二輪車の「コレダ号CO型」が富士登山レースで優勝し、「二輪のスズキ」という名を全国に轟かせ、それに合わせてか同年には会社名を「鈴木自動車工業株式会社」に変更しています。

 会社名の変更とともに道雄はいよいよ四輪車の開発を社内に指示します。しかし社内からはまだ四輪について何のノウハウもなくまだ時期尚早だという声が強かったそうですがそこは道雄が押切り、社内から設計が出来る人間を選抜して開発チームを組織します。もっともこの時に選抜されたメンバーは3人とも運転免許すら持っておらず、運転免許を持っているという理由だけで途中から静岡大を出たばかりの新人2人を追加するという状態だったそうです。勢いだけはよく感じる。
 開発チームはまず既に発売されている他社の自動車を購入し、分解するところからはじめ、比較的構造が簡単で模倣がしやすいという理由からロイトLP400をベースに試作車の開発を始めます。この開発の間、道雄は多忙にもかかわらず朝早くから研究室に入って開発メンバーを激励し続けたと言われており、やはりというか自動車に対する並々ならぬ情熱があった模様です。

 試作車開発に当たって様々な困難はあったものの今も動き出したら結構早い鈴木なだけに、開発開始からわずか8ヶ月で試作車は完成しました。出来上がった試作車2台は輸入自動車販売大手のヤナセの二代目社長である柳瀬次郎に実車を評価してもらうため浜松から東京へと試運転を行いましたが、最大の難所である箱根越えで1台がトラブルを起こし、仕方なくマフラー外して無理矢理運転することでどうにかこうにか東京へと持っていくことが出来ました。
 到着時刻は既に夜11時を過ぎていたものの柳瀬次郎はスタッフ一同共に工場前で出迎え、持ってこられた試作車を夜中ずっと乗り回してその性能を確かめたと言います。その上で道雄に対し、「認めてやろう。いい車だ」と、「頭文字D」の須藤京一のようなセリフを言ったかどうかは定かではありませんがとりあえず高評価を下し、道雄も俄然自信をつけたと言われます。それにしてもこの柳瀬次郎も面白い人だな。

 この後もありとあらゆる改良がくわえられ、翌1955年に満を持してスズキ初の自動車、そして世界初の軽自動車である「スズライト」が発売されることとなります。なおWikipediaの記述によるとスズライトの初代ユーザーは女医で、当時は軽自動車なら二輪免許だけで運転できるということで往診の足として購入したそうです。

 このスズライトが発売された2年後の1957年に道雄は社長職を引き、1982年まで長生きした上で往生を遂げています。彼について私の評価を述べると、戦前の代から自動車開発に強い情熱を持ちつづけスズライトの開発を主導した経緯を考えると、非常に粘り強い精神の持ち主だなという印象を覚えます。特にスズライト開発に当たっては本当に何もノウハウがない所から、日産やトヨタの様に資本にも余裕がない状態にもかかわらずかなり体当り的に作り始めたことを考えると今も昔もスズキはワンマントップのバイタリティが半端なく高い会社と言えそうです。

 そんなスズキの代表的な特徴といったらなんといっても代々の経営トップがその前のトップの娘婿が就くという点にあります。道雄→俊三→修と、俊三と修氏はどちらも娘婿として鈴木家に入っていますがどちらもスズキの成長に大きく貢献しており、特に現在の修氏は金融業界から入ってきたにもかかわらず現在の日系自動車メーカートップとしては最も高い評価を受けている人物です。前にも書きましたが修氏がスズキに入社して間もなく、周囲から「銀行屋風情が」と言われながらもジムニーのライセンスを購入したという話は「慧眼まさに恐るべし」と感じるほどのセンスの良さを覚えます。

 そういう意味ではスズキもオーナー色が濃くリーダーシップが強い会社と言えるのかもしれませんが、直接の血縁者ではなく優秀な外部の人間をオーナー一家に代々取りこんでいるという点ではかなり特徴的な日系企業と言えるような気がします。まぁこの辺はほかの人もたくさん書いているので詳しく書きませんが、「葵徳川三代」みたいに「Sの字鈴木三代」ってドラマとか作ったりしたら案外面白いんじゃないのとくだらないこと言ってまとめにしたいと思います。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行