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2015年5月1日金曜日

原爆と日本の降伏

 言うまでもないことですが日本は世界で唯一の原子爆弾の被爆国であります。二次大戦中に投下された原爆については米国と日本でその正当性について意見が分かれており、米国側はあくまで抵抗を続けようとする日本を降伏に至らせるのに必要だったとしているのに対し、日本側は当時既にソ連へ和睦の仲介を依頼しており原爆が無くても降伏へ動いていたことを米国は知っていた、それにもかかわらず原爆を投下したのは原爆の威力を確かめる実験的要素が大きかったとしてこの原爆投下を不必要な虐殺行為だったと批判する意見が大勢を占めていると思われます。
 現実問題として広島、長崎への原爆は市街地に投下されており一般市民を全く考慮しない虐殺であったことは間違いない事実ですが、こと日本を降伏に追いやる最後の一撃だったのか否かについては、私は米国側の意見の方が正しいのではないかとこの頃思えてきました。今日はこのように考え方が変わった経緯とその理由を書いてみることにします。

 日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受け入れ、連合国側に対して無条件降伏を申し出ます。この降伏へと至る過程で米国側は原爆の威力が大きく影響したとする説が強いと聞くのですが、日本の歴史家などは原爆の威力に日本側も確かに驚いたものの、本当に最後降伏を決断するに至った大きな理由は8月9日のソ連の対日参戦であると主張する人が多いです。何故ソ連の参戦が日本を降伏へと追いやったのかというと、日本はそれ以前からソ連に対して内密に連合国との和睦を仲介するよう依頼していたのですがその依頼相手がこともあろうか不可侵条約を破って逆に日本へと攻めてきたため、無条件降伏以外に戦争終結手段が完全になくなってしまったことが当時の首脳の間で認識されたためとされています。
 上記のような日本側の考えというか定説に対し、私もまさにその通りだとこれまで考えておりました。原爆よりもソ連参戦の方が日本にとってショックが大きく、原爆自体は降伏決断にそれほど影響しなかったがソ連参戦は違って、文字通り止めの一撃とも言うべき状況の変化だったというように考え、このブログでも以前にこの説を展開しております。

 では何故、私の中で降伏する要因となった推測理由がソ連参戦から原爆投下へ変化したのか。変化したきっかけとなったのは半藤一利氏の著書「日本のいちばん長い日」を読んだことからで、この本では原爆投下直前から御前会議、宮城事件を経て玉音放送に至るまでの各関係者のやり取りを丹念な取材の元に細密なスケジュールでもって描かれております。
 この本を読んでみたところ、1945年4月に鈴木貫太郎内閣が成立した時点で政府は降伏への道を探り始めて様々な工作を始めていますが、やはり8月6日の広島への原爆投下直後から官邸内の動きが激しくなり、はっきりと「今すぐにでも降伏しなければならない」という方針が首脳の間で持たれる様子が描かれています。当時の首脳の間でも原爆の威力に対する驚きは非常に大きく、このままずるずると降伏が長引けば長引くほど日本は焼け野原となり再建が難しくなるだけだという認識が持たれていたようで、陸軍の阿南大臣すらも、天皇制が護持されることを前提としながらも降伏はやむなしという見解を示しています。

 先の半藤氏の著書によると6日の投下以降、官邸内ではどのように降伏を受け入れるのか、降伏条件をどうするのか、「Subject to」の解釈問題など連合国側の意向はどうなのかについて本格的な議論が始まるわけですが、そうして議論している間に長崎への原爆投下、そしてソ連の参戦が起こり、当時の状況についてこの本を読んだ感覚としては、「降伏に向けて準備している最中にさらに事態が悪化してきた」ような印象で、こういってはなんですがソ連の参戦が降伏へと至る決定打になったとはあまり思えませんでした。無論、ソ連の参戦は首脳間にも強いショックを与えている様子もしっかり描かれてはいますが。

 この半藤氏の著書と共にこの問題に関して影響を与えたのは、まさにこの当時にいた人間の肉筆とも言うべき、作家の山田風太郎が当時書いた日記でした。山田風太郎は戦前から戦後すぐの期間に自身が書いた日記を出版しているのですが、広島への原爆投下から2日後くらいに疎開先で原爆の報を知り、周辺の人々を含めその威力に対して大きく驚く様子が描かれています。もっとも、当時愛国心の高かった山田風太郎は級友と共に原爆対策として、「山中に地下基地を作るよりほかない」などとちょっと無理なことを当時言ってはおりましたが。
 私はこの日記を読むまで、原爆の威力や事実、被害などは国民には秘匿されていたのではないのかとも考えていましたが、実際には大半の人間が「広島に新型爆弾が使われたようだ」、「一瞬で街が吹っ飛んだ」という事実を知っていたようです。そして、その爆弾に対してまともな対抗手段が当時の日本にはなかったということも。

 以上のような理由から私は、日本が最終的に降伏へと至るきっかけとなったのはやはり原爆ではないかと考えるようになりました。この記事の内容に関しては反感を持たれる人間も多いのではないかと思いますが、それでも敢えてこうして記事に残すのかというと、やはりこの点に関してはもっとオープンにかつ様々な視点で議論すべきではないかと思ったためです。そして当時の状況を知る上ではやはり、きちんと当時の資料に基づいて物を見なければと改めて反省する限りです。


  

2015年4月30日木曜日

安倍首相の米議会演説について

 本日未明、米議会で日本の安倍首相が演説を行い、その内容について日系、海外系を問わず多くのメディアが大きく取り上げています。主な論点は安倍首相の歴史認識、というより二次大戦中におけるアジア諸国へ日本が行った行為の反省と謝罪があったのかなかったのかという点ばかり取り上げられているのですが、良くも悪くも首相演説がここまで大きく注目されるというのは珍しく、私の覚えている限りだとこんなの小泉元首相以来じゃないかと思います。
 ではその安倍首相の演説内容はどうだったのかですが、さすがに全文は確認せず各メディアで報じられている内容でしか確認していませんがその上で私の感想を述べるとするなら、なかなか悪くはない演説だったのではないかと考えています。

 まず一部日系、韓国系メディアが主張しているような従軍慰安婦などに対する言及がなかったことについては、そもそもこれは米議会での演説であって、韓国くらいしか問題視していない従軍慰安婦問題をわざわざここで話題に挙げるのはナンセンスでしょう。二次大戦全体については「痛切な反省」という表現を用いたとのことですが、まだこれなら日本と米国がこの戦争で戦ったことを考えると適当な表現だと思え、現在の日本の大戦に対する歴史認識を表現する上ではおかしくない気がします。米議員を前にしているのだからこそ、日米関係を中心にして演説することこそが筋でしょう。

 その日米間系に関する内容に関しては、なかなか見事だと感じたのはかの有名な硫黄島の戦いを引用したことです。硫黄島の戦いは日本人の間では映画「硫黄島からの手紙」が公開されてからその内容を知る世代が広がりましたがが、米国にとっては太平洋戦争で最も手こずったというか損害が大きく、また海兵隊がその軍としての存在価値を大きく明確化させるに至った戦いともあってその記憶に強く刻み込まれています。
 今回、安倍首相はこの硫黄島の戦いに参加した元マリーンと、硫黄島の戦いで日本軍を指揮した栗林忠道の孫である新藤義孝前総務大臣を招き、あの戦いに関係する両者がこうして同じ場に立てるほど日米の紐帯は強まったというパフォーマンスを行いました。私個人的な見方で述べるとこの演出は見事に感じられ、この一点をとっても今回の演説は非常に効果的だったと思います。

 こうした演出などが効を奏したのか、演説中に安倍首相は何度もスタンディングオベーションを受けるなど現地ではなかなか好評だったそうです。それに対し最初に述べた従軍慰安婦に関するやっかみが来たのはある意味、安倍首相が嫌いな連中からしたら目障りな演説のように見えたからこそではないかと思えます。逆を言えばそういう連中と明確に対立路線を打ち出している安倍首相にとっては一種好都合かもしれませんが。

 最後にどうでもいい豆知識ですが、「栄光ある失敗」で有名なアポロ13号の乗組員が地球へ帰還した際、この脱出艇を回収したのは「イオージマ強襲揚陸艦」で、この名前の由来は言うまでもなく硫黄島からです。そして映画「アポロ13」でこのイオージマの艦長役を演じたのはアポロ13号の実際の乗組員だったジム・ラヴェル本人で、映画を見る度に、「乗っとったのはお前やんけ」などと毎回心の中でツッコミを入れています。

2015年4月29日水曜日

ブログテンプレートを変更

 今日こちらのサイトを見て、「あれっ?」って思った方は多いのではないかと思います。見てわかる通り、このブログのレイアウトテンプレートを昨日までのシンプルなものから背景付きのテンプレートに変更しました。
 なんで変更したのかというと今日何気なくテンプレートの種類を見ていたらちょっと良さそうなのがあり変更してみたところ、一見して悪くないと感じたからです。元々以前のテンプレートは自分のソウルカラーであるオレンジ色した背景だったため嫌いではありませんでしたが、さすがにシンプルすぎやしないかと少し懸念もありました。

 今回のテンプレート変更に当たって気を付けた点としては、一にも二にもテキストが読みやすいか否かです。通常のブログと異なり私のブログはテキスト量が半端なく多く読む側にも相当な負担がかかっていると思われ、文字は可能な限り読みやすいようシンプルイズベストを心がけています。幸いこのテンプレートだと記事部分は白い背景がつくため文字はフォントサイズにさえ気をつければ割かし読みやすい形態です。あと今度のテンプレートだとリンクの付いたテキストは暗めの赤色で表示されるため、以前の明るみが入ったオレンジ色よりはなんぼか見やすくなっているかと思われます。

 テンプレート自体は既存の物であればすぐに変更できるので、しばらく使ってみて気に入らなければまた変更するかもしれません。今のところは気に入っていますが、こればっかはある程度時間かけてみないとわからないもんですし。

2015年4月28日火曜日

創業家列伝~長瀬富郎(花王)

 今更ながら恥ずかしい話ですが私は2005年に留学のため中国で生活していた際に初めてP&Gが日系企業じゃないということを知りました。ただ同じような間違いをしていた人はほかにも多くおり、何故それほど自国の企業だと誤解する人が多いのかというと単純にP&Gが世界市場で圧倒的なシェアを誇ること、各地域の市場に根差していることが要因ではないかと思われます。
 実際に石鹸やシャンプーといった一般消費財市場は世界規模でP&Gが大半のシェアを持っており、中には同じ業種で対抗する企業がほとんどないという国や地域もあると聞きます。そんなP&Gという巨人に対し、日本国内市場では花王という会社が「調査兵団」みたいな感じで割と頑張って抵抗してたりします。

花王(Wikipedia)

 後に花王を創業することとなる長瀬富郎はまだ江戸時代だった1863年に現在の岐阜県福岡町にある酒造業者の次男として生まれます。富郎は小学校を卒業すると親戚の商家に奉公へ出て下積み時代を過ごし、22歳の頃に自らの独立資金を貯めると奉公を終えて上京し、独立資金を増やそうと米相場の先物取引に手を出します。
 この時投じた金額は150円という明治初期としては非常に大きな金額ですが、案の定というか富郎はこの資金を全てすってしまいます。本人もこれには大分懲りたのか、「もう投機的なことは絶対しない」と言っては自分の信念にしていた節があります。

 独立資金を失った富郎は再び奉公に出てお金を貯め、25歳の時に再び独立して東京の馬喰町に洋小間物を取り扱う自分の店を構えます。この時はいろんな商品を取り扱っていたようですがその中でも富郎が目をつけたのはほかならぬ花王の代名詞ともいえる石鹸で、洗浄用としては幕末に海外から輸入され明治期には一般市民にも大きく普及していたものの当時の国産石鹸は海外性と比べて品質が著しく悪かったそうです。
 富郎本人も客からのクレームを受けながらまともな品質の国産石鹸を探しあぐね、以前の奉公時代に知り合った村田亀太郎という石鹸職人が独立して石鹸作り始めると聞くや富郎は専属契約を結み、村田と一緒に石鹸の品質改善に取り組むことになります。

 二人は薬剤師の親戚から石鹸に必要な知識や技術を学ぶと試行錯誤の末に一年半後、ついにこれはと言えるような石鹸を作ることに成功します。この石鹸を売り出すに当たって化粧用石鹸のことを当時は「顔石鹸」と読んでいたことから音を取って「香王」と名付けて商標を登録しますが、売り出し前に思い直し「花王」と改め、こちらの名前で売り出すことにしました。
 こうして売り出された「花王」石鹸は他者と比べて高い値段設定であったものの評判が評判を呼び、売り出しはじめから割とよく売れたそうです。しかし売れ行きが良くなるにつれて模造する業者が続出し、最初に商標登録までした「香王」や「花玉」などと似たような名前の石鹸が次々と売り出されたそうです。あながち昔の日本人も中国人を笑えんな。

 こうした模造品に対して富郎は何度か告訴したりもしましたが終いには「品質では勝ってる。ほっといてもパクリメーカーは潰れる」などと無視する方向に舵を切ります。その一方で自社製品の宣伝には当初より力を入れており、鉄道沿線に宣伝看板を設置するのを始め全国の新聞にも積極的に広告を掲載していきました。
 この間、品質の向上も怠らずに続けており、その甲斐あってか1904年に米国セントルイスで開かれた万国博では花王の石鹸がその品質を評価され名誉銀杯を取得しています。その後もシアトルやロンドンの博覧会でも賞を取り、国内外でその品質への評価は日増しに高まっていきました。

 このように書くと富郎の人生は順風満帆のようにも見えますが途中途中で何度か痛い目にも遭っており、いくつか例を挙げると資金余裕を持って工場の拡張に取り掛かろうとしたところいきなりメインバンクの東西銀行が破綻して多額の出費を迫られ計画を延期しています。ただ最初の米相場の失敗経験から堅実経営は貫いており、この時の出費で会社を致命的な所まで追い込んでいない辺りはさすがというべきでしょう。

 世界各国で石鹸が高く評価され始めた頃に富郎は病にかかり、晩年は割と寝たきりの生活が続いてたと言われます。病床で富郎は自分亡き後の会社について遺言状を下記、当時まだ小学一年生だった三男を後継者に指名した上で弟二人に後見人となるよう指示します。こうした備えを終えてから富郎は1911年、48歳という年齢でこの世を去ります。時代的にちょうど明治期を貫通するような生没年だったりします。

 長瀬富郎に関しては経歴以外はあまり書くネタを持っていないのが実情ですが、特筆すべきはやはりその品質へのこだわりでしょう。当初から高級路線で石鹸の製造を志していたことは間違いなく、それが発売当初から評価され現代に続く日系消費財メーカーの雄として活躍する下地はここにあると言えるでしょう。
 多少国策的なことを言えば、日系企業を応援するという意味ではP&Gよりも私は花王やライオンの消費財を敢えて選ぶようにしています。P&Gが嫌いというわけでもなく品質に疑いを持っているわけではありませんが、一応地元を応援するって意味合いで。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

千葉のマッドシティ~ラーメン屋「兎に角」


 また松戸市民以外には全く需要のないこの連載ですが、今日は一部のラーメン好きにも見てもらえるかのようなラーメン屋紹介記事です。
 上の写真は松戸駅から徒歩数分のところにある「兎に角」というラーメン屋の入り口前の写真です。このラーメン屋は私の松戸潜伏場所からもほど近い所にあり、駅から潜伏場所に帰る際は必ずここの前を通過していたのでそこそこ思い入れのあるお店であったりします。それで通過する際はいつも、「おっ、今日はこのくらいで済んでるんだ」などと店の外まで続く長い行列を見てはよく感想を洩らしてました。

 この「兎に角」というお店ですが、ラーメン通にはそこそこ有名なお店らしく休日ともなるとほぼすべての時間帯でお客が列を成して待っている姿を見ることが出来ます。実際にここの近くにあって私が通っているカレー屋の店主(元ラリースト)も、「この周辺だと兎に角さんが一番ですね」と断言するほど昔から高い集客力を誇り、現在もなお繁盛し続けています。
 私も過去に、たまたま松戸に来ていた大学の先輩と一緒に行列に並んで食べに行ったことがあります。看板に書かれている通りにつけ麺が人気商品なのでこれを注文して食べましたが、口うるさい先輩曰く「まぁまぁうまい」と太鼓判を押し、私も人気店なだけあって確かにおいしいというため息が洩れました。味はやや濃口で、スープも割と濃厚だったと記憶しています。

 味覚は人によって異なるので誰もがおいしいということは恐らくないでしょうが、ひとまずほかの人にもおいしいお店だよと勧められるラーメン店ではあるので、興味のある方は寄ってみるのもいいかもしれません。

2015年4月26日日曜日

教員免許の国家資格化案に対する意見

 政治系ブログなのにゲームやマッドシティばかりこのところ取り上げていますが、今日は久々に政策に対する意見のような考察を書くことにします。

<教員免許>国家資格に 自民提言へ、資質向上図る(毎日新聞)

 上記リンク先の毎日の報道によると、自民党内で教員免許を現在の都道府県ごとの教育委員会による任命方式から、中央政府による一元的な任命方式に切り替える提案を準備しているそうです。切り替えに当たっては統一国家試験を設けるほか、1~2年程度の学校での研修期間も作ることなどが検討されているそうで、「教員の質の向上」をお題目にしてこれらの改革を行うなどと書かれてあります。
 この政策案に対する私の意見を最初に述べると全く以って反対で、現行制度が正しいわけではありませんがこの改革案だと何も改善が期待できず、また別の問題を噴出させる可能性もあると考えております。

 従来制度とこの国家資格化案とで最も大きな違いはなにかとなると、免許取得までの流れです。従来制度であれば大学で必要な単位を取得することで自動的に教員免許が得られますが、国家資格化案では単位を取得して大学を卒業した後に国家試験があり、その試験通過後にも数年の研修が課されることとなります。仮に報道の通りであれば新制度になると正式な教員として教壇に立つまで現行より数年遅くなることなり、そのかわりにしっかり研修なり教育なりを施すことで教員としての質を高められると考えているのでしょう。

私がこの国家資格案に対して反対する理由はいくつかありますがまず第一に大きいものとして、そもそも数年の研修でそこまで教員の質が上がるのかという疑問です。現在でも40代や50代といった教員として長い経験を持った教師ですら指導能力が著しく低くて問題となるケースを聞きますし、一年やそこらの研修で指導力が上がるかと言ってもそれ以前の問題のような気がしないでもありません。
 そもそも同じ「質の向上」というお題目で始まったものに弁護士資格のロースクール制度がありますが、少なくとも私が効く限りだとロースクール制度が始まってから弁護士の質が向上したなんていう話は一度として効いたことがありません。むしろこの制度で弁護士が量産された末に資格は取得したものの仕事がなく食っていけない弁護士が増え、行きつく先はグレーゾーン金利の取り立てばかりでむしろ前より質が低下していないかと思える状態です。

 話しは戻って国家資格化案に反対する二つ目の理由ですが、これもロースクール制度と被りますが、教員になるまでの期間を延ばすことによって教員志望者の懐というかお金の負担も大きくなる懸念があります。
 知ってる人には有名ですが現在、司法試験合格者は平均で数百万円の借金を背負っているという塔系が出ています。ロースクールに通って試験に合格するまでは全くの無収入で、そこからさらに司法修習生として研修を矯正されるため弁護士として独り立ちする頃には身動き取れないくらいの借金漬けな人が多いそうです。
 仮に教員試験も研修期間を設けるとしたら、その期間の収入はどうするのか。政府が出すのか出さないのか、出さないとしたら奨学金で借金を背負わせるのかという疑問があります。だったらあまり効果があると思えない研修なんてやめてとっとと現場に送る方が社会全体で効率がいいように思えます。

 最初にも書いた通りに現行制度も果たしてどうなのか、教員免許を取る人には効率のいい指導方法を学ぶ機会がちゃんとあるのかという疑問もありますが、少なくとも今回出てきた国家資格化案は何も改善がなく新たな問題を作る懸念が大きいとして今の状態であれば私は反対です。そもそも国家資格として定めることで資格取得者が保護できるか、質を上げられるかとは全く別問題でしょう。
 そもそも近年の日本の士業は先ほどの弁護士、公認会計士、行政書士など、どの資格も取得はしたもののほとんど仕事が出来ない、収入アップにつながらないなど権威の失墜が激しく進んでおります。そういう意味では教員免許だけとは言わず、日本の資格制度を根本から考え直すべき時に来ているのかもしれません。

2015年4月25日土曜日

国家への依存を高める傾向

 知ってる人には有名ですが故ケネディ大統領は生前、「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるのか」という言葉を含む有名な演説を行っております。この言葉自体がアメリカのマッチョイズムを強く体現している言葉ですが、私は敢えてこの言葉を現代の日本人にぶつけてみたらどんなもんだろうとこの頃よく考えます。
 結論から言うと、現代の日本人は少なくとも戦後以降としては過去最高と言ってもいいくらいに国家(=政府)に対して強く依存していると私は考えています。

 国家に依存するとはどういうことですが、先ほどのケネディ大統領の言葉を借りるならば、「国が自分に何かをしてくれることを期待する」ような状態の事で、具体的に言えば日々の生活や将来の社会保障などにおいて政府の支援を期待する意識が強い状態を指します。断言してもいいですが今の日本人の8割超は老後の年金を政府はきちんとしてもらわないと困ると考えていて、年金なんて当てにしないから自分自身の力で死ぬまで生きてやると割り切っているのは確実に少数派になるでしょう。ましてや、国家の年金を支えるために自分が頑張らないとと思う人間となると皆無になります。

 つまり国家への依存とは「国に何とかしてもらう」という意識の事で、私見ながら現代日本人はかつてないほどのこの依存心を今高めているのではと密かに考えているわけです。こうなった最大のきっかけとして思い浮かぶのは2011年の東日本大震災で、今思うとどうもあの後から風向きが変わったというか復興を始めとして社会保障、経済問題などで国の支援を強く当てにする声がそれ以前と比べて強まってきているように思えます。
 もちろん被災地の復興や経済対策などにおいて国家の役割は最も重要です。しかしその国家を当てにせず独力でも頑張ろうとする人たち、もしくはそうした対策を行おうとする国家を支えようとする動きや声はどうもそれ以前と比べると小さくなっているというか、「俺が国を引っ張ってやるぜ!」というようなちょいちょいウザいと思える熱い人間が実は減ってきているのではないかと思えてなりません。それどころかむしろ、少々乱暴な言い方かもしれませんが国家の支援がなくなると困ってしょうがない、頼むから何とかしてほしいというような請願のような態度すら見える時もある気がします。

 こんな風に思うのも私自身が極端に国家の保護を当てにしないどころか、「てめぇの助けはいらねぇ」とばかりにやたら反発したがる性格だからというのが大きいでしょうが、それにしたって今の日本人は政府の支援を少し盲目的に信じ過ぎなのではと危惧を覚えるほどです。歴史的な視点で述べるとするならば国家の前で個人なんて言うのはほんの小さなチリのようなもので、国家によって簡単に翻弄されることもあればあっさり見捨てられることも珍しくはありません。国家に抗うのは決して楽なことではありませんが、何もそこまで距離を縮めることはなく、適度に距離を置くだけでもそうした荒波から避けるのにいい手段ではないかと個人的に思います。

 この記事で私は国家に逆らえとまで言うつもりはなく、また同時に国家に尽くせと言うつもりもありません。ただ「国家がきっと何とかしてくれる」なんていう期待に関しては非常に危険な考え方であり、そうした思想を日本は全体で深めつつあるのではという危惧を誰かに共感してもらえれば幸いです。