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2015年5月10日日曜日

書評「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」

 以前に書いた林原の倒産記事が読者からそこそこ好評だったと友人に伝えたところ、「次は三洋だ!」と言って、紹介されたのがこの「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」という本でした。

 この本はかねてから家電メーカー大手、三洋電機を長期間取材してきた日経記者の大西康之氏による、三洋電機がパナソニックに買収されてからの各関係者の状況を取材してまとめた本です。出版された直後から好調な売り上げだったようで私の周りでも既に読んでいる人間が多かったのですが、私も読んでみた感想としては確かに面白く、文章のリズム感の良さはもとより丹念に取材して書かれているということが読んでてよくわかります。
 中身はどういったことが書かれているのかというと、冒頭では三洋の創業者である井植歳男の息子であり三洋電機の社長、会長職も務めた井植敏氏へのインタビューに始まり、パナソニックによる買収前後の社内状況についての説明を経て、直接取材した元三洋社員たちの現況を紹介しております。

 この点は友人と意見が分かれたのですが、この本で一番面白かったのは冒頭の井植敏氏への取材でした。アポなし取材だったらしくインターホン越しに最初は「話すことなんてない」と断っておきながら家に上げると聞いてもないのに、「最近淡路の玉ねぎ栽培事業に関わってんねん」などと言ったり、部屋にホリエモンの書いた本が転がっていたり(はまって読んでたらしい)と饒舌に話し続けたそうで、読んでていかにもな関西人の姿が目に浮かびました。ただ三洋電機が買収されることとなった経緯に対する質問については一貫して口が重く、著者が何度も質問を繰り返すものの、自らを含めた経営陣の責任だとしか頑として述べずに沈黙を守り続けていました。
 この井植敏氏の態度はどうやら現在も続いているようで、さきほど軽く検索を書けて出てきたインタビュー記事でも、「銀行にだまされたって言わせたいんやろ。だまされていないし、だまされたとしても、だまされた方が悪い」と述べ、やはり自らに経営責任があるという主張を続けています。

 そのインタビュー記事に出ている、「銀行に騙された」という下りですが、これはこの本の主題ともいうべき内容で、著者は三洋電機が買収されるに至る経緯で最も核心的な役割、言い換えるなら経営破綻へと至らせる引き金を引いたのは、2006年の経営改革時にスポンサーとなった大和証券SMBC、ゴールドマン・サックス証券、三井住友銀行の金融三社であるという主張をはっきりと名指しで展開しております。著者がそのように述べる詳しい論拠は是非この本を手に取って確かめてもらいたいのですが、大まかに述べるとパナソニックが不振が続く家電部門に変わる新たな成長部門として目をつけたのが三洋電機のお家芸だった電池部門で、この部門を獲得するために一旦金融三社が入って下ごしらえした上で三洋電機を買収し、ほかの余計な部門は一切切り捨てたという推理がされています。言ってしまえば、パナソニックが三洋電機の電池部門を買収するため仕組まれた破綻劇だったというような話しです。

 この著者の主張に対する私の意見を述べると、さすがにはっきりとした証拠はないので断定こそできませんが、有り得なくはない話だしそのように考えると確かに筋が通るなという風に思います。ただ一つ苦言というかこの本読んで感じたこととして、著者はこの本全体を通して徹頭徹尾にパナソニックを悪者として描いており、ちょっとその書き方が中立を外れてやや感情的に書かれているのではと思う部分もありました。実を言うと私も昔からパナソニックは誉められるような会社ではないと思っててあんまり評価してないのですが、その私の目からしてもちょっと書き過ぎではと思うくらいにパナソニックへの批判が続いており、その後の元三洋電機社員らの現況についても、「パナソニックから出ていって良かった」という話しか載っていません。

 もちろん買収後に三洋電機を出て行った後、元社員らは何をやっているのかという話はどれも面白いのですが、三洋電機を出ていって幸せな感じの人ばかりで、逆にパナからリストラされて非常に苦しいって立場の人が一人も出てこないのは「あれぇ?」って具合で、期待してただけに少し残念でした。ちょっと穿った見方をすると、パナソニックを悪役にするためわざとそのような人ばかり選んだんじゃないかなという気もしないでもありません。
 ただその出て行った社員の話はどれも起伏に富んでおり、異業種の西松屋チェーンに転職して幼児用バギーを設計するようになった下りとか、リストラを手掛けた人事部社員が「人を切るノウハウ」を買われてあちこちからオファーがきたりとか、どれも読んでて引き込まれる話が多いです。

 最後にこの本の中で特に面白いと感じた部分を紹介すると、冒頭の井植敏氏が語る内容の中に日本の一族経営の問題点がなるほどと思わせられました。井植敏氏曰く、日本は相続税率が高いために会社を興して成功した創業一家は自己の財産を所有し続けるため経営能力が無くても会社を経営し続けなければならなくなるとのことで、米国の様にオーナーが会社を所有し、プロの経営者を雇って会社を経営させるという方法が採れないと指摘しています。言うなれば所有と経営が分離せず、そのため非常にいい要素を持つ会社でも無能な創業一家の経営によってむざむざ破綻してしまうこともあると、自戒を込めたような言い方でしんみり語っているところが一番私の胸に刺さりました。

 ちょうど最近、大塚家具の騒動といい一族経営による企業が話題に上がることが増えている気がします。既に記事を書いている林原もそうでしたが、これを日本式経営ととるべきかどうとるべきか、その上で今後どうやっていくべきなのかは案外今考えるべき時期なのかもしれません。


2015年5月9日土曜日

今日の衝突事故

 今日は朝から友人の「ネットでこういうの作れば儲かるんじゃね」という提案に対して、「どうやってアフィリエイトを投稿者に分配すんだよアホ(# ゚Д゚)」というやり取りを終えた後、昼食を取るため自転車に颯爽と乗って毎週通っている日本食屋に向かいました。距離は大体3キロ程度の道のりでいつものように自転車レーンを走っていたら、電動三輪自転車が逆走してきて見事に正面から激突しました。

 激突直前にブレーキをかけ速度は大分落としたもののロードレーサーということもあり急な方向転換が出来ず(つま先が前輪にぶつかったりしてこける可能性大)、ちょうど前輪タイヤと向こうのバンパーがぶつかる感じで当たりました。幸いというかこけるほどの衝撃はなく、自分の体よりも「フレームは!?(;゚ Д゚)」という具合に自転車本体の方が心配でした。でもって逆走してきた相手に対しては、「大丈夫、問題ない?」と聞いたところ、「いや、そっちこそ(;´Д`)」とちょっと不思議そうな感じで聞き返してきました。
 正直な所、「なんで逆走してくるんだよ」と問い詰めたかったものの道の真ん中であーだこーだ言ってもしょうがないし、自転車のフレームも曲がっておらず目に見える亀裂や傷もなかったので、「おっけおっけ、いっていって」と言ってそのまま別れました。結構大きな音だったもんだから、周りの視線は全部自分に向けられてたけど。

 その後日本食屋についたのですが、ぶつかった衝撃で外れたチェーンを付け直したため両手は油で汚れており、お手拭で拭いていたところ右手小指関節付近の皮膚が切れて血がダラダラと流れてました。見かねた店員がバンドエイドくれたので老なく止血できましたが、電動三輪自転車とぶつかっていながらこの程度で済ませる当たり、つくづく我ながら無駄にタフだなぁとちょっと呆れます。
 昼食を終えて帰ろうとしたところ右足膝付近が打ち身のせいか痛みだし、重いギアだとペダルを踏むのがやや辛かったですが、帰途は特に誰とも衝突することなく安全に帰って、その後はダラダラと過ごして右ひざの痛みも時間と共に解消されました。

 最後に一つ教訓ですが、海外で生活するに当たって何が重要かって言ったら語学や見識ではなく、一に現金で二に体力だと断言できます。現金は言わずもがなの生命線でカードでキャッシングできるよう準備しておくのがベターですが、体力に関しては精神的な面でも、多少交通事故とかに遭っても這いながら自宅や知り合いの家にたどり着けるくらいはあった方が良いです。
 それと同時に私の様に、勤務先に問題があって現地ですぐに再就職先を捜して行動できるような体力も必要です。決して身体面で恵まれているわけではありませんが、なんかこの方面で最近後輩からはやたらと、「花園さんの体力ってパネェっす」と褒められてます。実際、中国来てから病気らしい病気一度もしてないしなぁ……。

2015年5月8日金曜日

クローズアップ現代のやらせ問題について

 今日は特に書くこともないので適当に時事ネタでかわそうとニュースを検索したら、先日番組でやらせがあったと報道されていたNHKの「クローズアップ現代」がBPOで審議入りするというニュースが出ていました。別に無視してもいいっちゃいいのですが、そろそろ時効だしこのクローズアップ現代のやらせ体質について実体験者でもある私の口から一つの事実を明かそうと思います。

 何人かの友人には明かしておりますが、実は私はかつてこのクローズアップ現代の取材を受けたことがあります。どういう経緯での取材を受けたのかというと、2010年に初めて中国への転職を試みた際、当時使っていた人材派遣会社の方から「中国に転職しにいく若者を取り上げたいとNHKから要請があったので紹介しても構わないか」という連絡が来て、別にかまわないと返事したことから正式に取材を受けることとなりました。
 受けた取材の回数は合計二回で、一回目は渋谷前で待ち合わせNHKの記者と喫茶店でどうして中国で仕事を探すのか、将来をどう考えているのかなどを話し、その後上海に渡って転職活動をしている最中にスカイプで二回目の取材を受けました。一回目と二回目の取材で聞かれた内容にはそれほど大きな差はなく、担当記者が途中で変わったこともあって一から説明するような感じで二回目の取材は行われています。

 二回目の取材を終えた後にNHK側からは、中国で転職を果たすこと(既に現地日系企業の内定を得ていた)について私とこのところ頻出な私の親父で自由に話し合ってもらいその場面をカメラに撮って番組で使いたいという要請があり、撮影日もとんとん拍子で決まりました。過去に梅田駅前でMBSの該当取材を受けた際にテレビデビューは果たしておりますが、NHKの番組でるのはこれが初めてだなと内心ワクワクして撮影日を待っていたところ、当時日本で開かれていたAPECの取材で急遽カメラマンが足りなくなったので撮影日を延期する、また別日程を追って通知するとNHK側から連絡ありました。
 少し残念な気持ちと共に次の撮影日を待っていたところNHK側から今度は、「大変申し訳ありませんが花園様の取材は今回の番組では使用しないことを決定いたしました」という、妙なお祈りメールが送られてきました。一体何故私に対する取材部分を使わなくなった理由はというと、

「花園様は日本で正社員として勤務され、また過去に中国留学をして中国語も始めから話せる状態で今回中国での転職を行っています。番組としては今回、中国語が全く使えないにもかかわらず中国での仕事を求める別の方を取材して番組に使うことを決定しました」

 暗にですが、私の代わりに番組で使われた方は恐らく正社員ではなく派遣やフリーターの立場だったのではないかと思います。要は、日本でまともな仕事が見つからないので中国語もわからないが仕方なく中国に仕事を求めにいくという、如何にも社会に抑圧されているようなステレオタイプな人物を番組に求めたというか使用したかったのでしょう。その点では私の経歴はむしろ順風満帆過ぎて、一言で言えば絵にならないと判断されたのだと思います。

 まぁ向こうのやることなんだから私がどうこう言うのは筋ではないと思うものの、NHKは中国に転職しにいく人間の実態よりも「絵」を取るのかと、皮肉っぽく思ったもんです。周りの反応も似たようなもんで、案外民放と変わらないじゃないかなどという意見が多かったと記憶しています。

 こうした実体験があったので今回のクローズアップ現代のやらせ問題を見て、私はそれほど驚きを感じず、むしろ報道されていないだけでこの手の小細工はほかにもいっぱいあるんじゃないかとも考えています。それにしてもNHKは取材の着眼点がやっぱり違うんじゃないかと今現在になって思えます。そんな中国での就職を希望する若者なんかより現地採用勤務者の実態とか、中国留学経験者がほとんど中国語を使わない仕事についている実態とかの方が私の中ではもっとニュースです。

 最後に紙幅が余ったので余計なことを書くと、NHKのグループ会社で人材派遣業務を行っている「NHKビジネスクリエイト」は派遣のマージン率をインターネット上で公開しておりません。事業所ごとのマージン率公開が義務付けられたもののほとんどの派遣会社が公開に対して消極的であるということを報じるためにも、NHKは身近にいい例があるんだからもっと取材に力を入れるべきではないかとこの分野の第一人者であると自負する私からアドバイスしておきます。

2015年5月7日木曜日

旧日本陸軍四天王

 本題とは関係ありませんが一昨日、自宅内でパソコン使って作業していたら以前に日本語を教えていた中国人労働者が中国版LINEこと微信で連絡してきてそのままチャットへと発展しました。作業中ですが片手間で返信する位ならどうってことないとそのまま続けていたら、今度は大学の後輩がSkypeでチャットしてきて、二人同時にチャットする位ならまぁなんとかなると思ってたら、今度は大学の先輩がSkypeでアニメの「シュタインズゲート」がどれだけ素晴らしいか力説してきて、さすがに三人同時に文字チャットで対応するのは難儀でした。チャットしながらブログ書くってのはよくあるんだけどね。

 そういうわけで本題に入りますが、よく二次大戦中の旧日本陸軍で誰が指揮官として最も強かったのかが議論となります。正直なところどの指揮官も戦った場所や条件が異なるため厳密には誰が最強だったのかを比べるとなると難しいのですが、少なくともトップ4ならばほぼこの人たちで間違いないと確定しているように思えるので、私の目から見て「旧日本陸軍四天王」とも言うべき指揮官四人を今日紹介しようと思います。

1、宮崎繁三郎
 歴史家などからは彼こそが野戦最強の指揮官だと言われる宮崎重三郎はノモンハン事件、インパール作戦など日本軍が大敗した戦いに従軍し、圧倒的に不利で過酷な条件の中で驚嘆するほどの善戦ぶりを見せています。ノモンハン事件では日本軍部隊の中で唯一の局地戦勝利を遂げており、実質全く補給のなかったインパール作戦では敵軍から食料を奪いながら進軍し続けコヒマという地を占領し、撤退となった際も見事な戦術で友軍の撤退を助けています。特筆すべきはこのインパール作戦でどれだけ苦しい戦いにおいても部下の兵士を見捨てず、自ら背負って撤退したという人格者ぶりは後世にまで語り継がれております。

2、山下奉文
 通称「マレーの虎」。太平洋戦争序盤のマレー作戦では文字通りに連戦連勝を傘ね、驚異的な進軍速度でイギリス軍をマレー半島から追い払っております。その後もフィリピンでの防衛戦で善戦するなど戦上手ぶりを発揮し続けましたが二・二六事件での対応を巡って昭和天皇からは強く嫌われていた節があり、戦時中はその功績に比べやや報われない扱いを受けることとなりました。

3、今村均
 太平洋戦争の激戦地の一つであるラバウルを守備していた今村均は、早くからこの地域が米英軍によって孤立させられると読み、戦地で兵士に畑を耕させるなどして持久戦に備えました。その読み通りにラバウルはあらゆる補給船から断絶させられるものの今村の対策もあって陥落はせず、ついには終戦まで持ちこたえることに成功しました。
 こうした戦略眼の卓越ぶりはもとより占領地域で抜群の治政ぶりをみせたほか、わざわざ東京の監獄から部下たちが収監されていた環境の悪いマヌス島の監獄へと移送するよう志願するなど、万事において人格者たらん行動を実行に移している点も見逃せません。

4、栗林忠道
 二次大戦も終盤に入った硫黄島の戦いにおいて、補給も支援も全くないにもかかわらず米軍を最も苦しめた戦いぶりは桁違いもいい所でしょう。それ以前の戦闘での経験、そして硫黄島の地勢を鑑みて地下要塞を作り、徹底したゲリラ戦を敷いて米軍に日本軍を上回る戦傷者数を出させたという点をみるにつけ戦略、戦術共に頭抜けた実力者の持ち主以外の何物でもありません。
 その激しい戦いぶりに隠れていますが、戦地から家族へ宛てた手紙や辞世の句として有名なあの「散るぞ悲しき」など、もとよりジャーナリスト志望だったという文才も見逃すことはできません。

 あくまで私個人の目線ですが、旧日本陸軍の中で最も優れた指揮官としては上記の四人が確実に上がってくるのではないかと思います。四人のうち、宮崎繁三郎今村均に関してはこのブログを始めた当初に「猛将列伝」の連載記事で取り上げていますが、いま読み返すと非常に拙い文章で「もっと修行しろアホ!」と昔の自分に言いたくなります。
 逆に、山下奉文と栗林忠道の二人について私はまだ評伝を書いていないのですが、栗林に関してはほかの人がたくさん書いているので私から書く必要はないかなと考え、山下に関してはあんまりマレー作戦については知識がなく勉強不足なので書いてないだけで、別に嫌っているというわけではありません。

 むしろこの四人の中で最も凄まじさを感じるのは栗林で、あの絶望的な戦況においてよくぞあれだけ戦い抜いたと尊敬を通り越して畏怖すら覚えます。宮崎繁三郎も同様にその強さには恐れを感じるほどですが、山下に関しては開戦序盤でなおかつ比較的装備や補給の整った状態でマレー作戦を指揮しているため、他の三人と比べると条件面でやや異なっているのではとも考えています。

 あまり他では言われていないことを書くと、この四人のうち山下を除く三人が陸軍幼年学校を卒業しておらず、陸軍士官学校からその軍歴を開始しております。幼年学校を出ずに陸軍幹部となる人物は当時としては非常に少なく、その少ない人物の中からこれだけ多くの名将を輩出していることを考えると、幼少から少年期までとはいえ外の世界を知っているか否かというのは案外大きな要素だったのではないかと思え、歴史家の半藤一利氏や保坂正康氏もその点を指摘しております。
 また四人とも戦地で大きな戦果を挙げていたにもかかわらず何故か中央本部での勤務に付されることはなく、むしろ使い捨てにされるかの如く激しい戦地から戦地へ何度も送られ、逆に失敗を繰り返す将軍ほど中央本部に回されておりました。山下に関しては昭和天皇に嫌われていたことが大きいと思われますが、ほかの三人は幼年学校を出ていなかったためではないかと思える節もあり、昔も今も日本の人事は妙な倫理がまかり通るとつくづく呆れるばかりです。

2015年5月6日水曜日

空飛ぶ霊媒師、ダニエル・ダングラス・ホーム


 上記の画像は以前に「不死身の弁護士」という記事で紹介した滝本太郎弁護士の写真です。滝本弁護士は別に霊感があって空中浮遊をしているわけではなく、地下鉄サリン事件以前のオウム真理教信者の救済活動に携わっていた際、麻原彰晃が空中浮遊できるほど霊力があると信じ込んでいた信者らに対し、「空中浮遊ならやろうと思えば俺だってできる」と言って、自ら体を張って空中浮遊の写真がトリックであると証明するためこの写真を撮影したそうです。詳細はリンク先の過去記事に詳しく書きましたが、この写真といい何度狙われても生還したことといい非常に頼もしい弁護士だと思うと同時に、なんでこんな写真を私もいつまでも保存しているのか少し悩むところです。

 ここで少し話が変わるというか本題に移りますが、いわゆる霊能力や超能力があるということを証明するのによく使われるパフォーマンスと言ったらスプーン曲げや予知と並び、先ほど出てきた空中浮遊も挙がってくるでしょう。しかし先の二つと比べ空中浮遊ができるという人はそれほど多くはなく、また誰もが「あいつはマジで浮かんでた!」と証言するような見事な空中浮遊を見せる人物となるとほぼ全くいないどころか、浮遊するシーンを撮影した動画なんてものもこれだけネットが発達した時代でも出回っていません。何故そうなのかというと単純に空中浮遊はトリックとして難しく、超能力があるように種や仕掛けを用いてやろうとしてもあっさりばれてしまうことが多いため、スプーン曲げなどと比べるとややレアになっているのだと推察します。

 しかし、やや時代は古いですが「あいつ、マジで浮かんでたよ!」と言われた超能力者がかつて存在していました。驚くべきことにこの超能力者というか霊媒師は生前、ただの一度として彼の見せる奇跡がトリックだと見破られることもなく現代においても彼が見せた不思議な現象を説明できておらず、彼は本物だったのか否かは今でも大きな議論のネタとなっています。

ダニエル・ダングラス・ホーム(Wikipedia)

 その霊媒師の名前はダニエル・ダングラス・ホーム(ヒューム)といって、19世紀にスコットランドで生まれました。ホームは生まれてすぐ子供のいなかった叔母夫婦に引き取られますが子供の頃から彼の周囲ではラップ音やポルターガイスト現象が起こっており、ホームが17歳だった頃に生みの母が死去するとそうした心霊現象は以前にも増して増えていったそうです。またホーム自身も心霊現象を見せることができ、イギリスを始め欧州各国で多くの人間が彼が起こす超常現象を目の当たりにしてその名声も存命当時からも論争になるほど大きなものでした。

 ホームが見せた超常現象はどんなものだったのかというと、一言で言って桁外れに説明のつかないものが多いです。冒頭に書いた空中浮遊はもちろんのこと、その場で手足を数十センチ伸ばしたり、燃える石炭で顔を洗う、触るだけで楽器を鳴らす、空中から誰のものでもない霊の手を出現させ列席者と握手させるなど、並み居る列席者の目の前で常識では考えられない現象を実に多くの人間に見せています。

 しかもホームがほかの超能力者と大きく異なっている点は、これらの心霊現象でお金を稼ぐようなことはほとんどせず、それどころか時間さえあれば一般市民にも無料で見せていた点です。さらに列席者に対しては、「部屋が暗くちゃ見え辛いよね(´・ω・`)」などと言っては自ら照明を明るくするなど、トリックを隠そうとすような素振りを見せるどころか逆にオープンすぎる姿勢を貫いていたそうです。それだけオープンだったにもかかわらず彼の存命中、誰一人として彼が見せる心霊現象をトリックだと証明できるものはおらず、ハーバード大学の研究者だけでなく「クルックス管」の発明で有名なウィリアム・クルックスすらも「疑わしい点はない」と彼の力を認める発言を残しています。

 彼の心霊現象を見た人間は著名人にも多く、時のローマ教皇であったピウス9世、フランス皇帝のナポレオン3世、ロシア皇帝のアレクサンドル2世などもわざわざホームを呼び寄せています。もっともホームを詐欺師呼ばわりする人間も当時からたくさんいたようで、そうした声に巻き込まれる形で生活が困窮するような事態にもなんどか陥っています。しかし彼を糾弾する人間からは誰一人として彼が起こす不思議な現象を説明出来るものは出て来ず、そうこうしていたらホーム本人が48歳ごろに引退宣言をして表舞台から姿を消してしまいます。といっても、親しい人には「今回だけだからね(´・ω・`)」といってちょくちょく見せてたそうですが。

 ホームの特徴を一言で述べるなら、非常に多くの人間を前に心霊現象を披露しながら存命中に足を見せることが一度としてなかったということに尽きます。だからと言って彼が本物の霊媒師だったと言い切れるわけではありませんが、彼自身が見せていたオープンな姿勢といい、ほかの超能力者たちとは明らかに一線を隠す人物であったことだけは間違いありません。
 私自身はそれほどスピリチュアルに傾倒しているわけでもなく超能力や例現象に関してもやや懐疑的な立場を取ることが多いですが、このホームの話は聞いてて素直に「なんじゃこりゃ」と思う話が多く、スウェーデンボルグ並に聞いてて面白いと思ったのでここでも紹介することにしました。

 このブログは一応政治系ブログを標榜していますが、意外とこの手の記事の方が人気あるんだよなぁ……。

2015年5月5日火曜日

昭和天皇崩御時の社会の反応

 今でこそ「激動の昭和」というフレーズは世の中に定着しておりますが、この言葉が出来上がったのは昭和が終わり平成となった直後で、昭和天皇の崩御に合わせて放映された昭和を振り返る番組の中で何とも連呼されて定着したと聞きます。
 昭和天皇とくれば日本人なら誰もが知っており、また誰もが歴代天皇の中でも特別な存在だと認識している天皇だと思います。その崩御当時はメディアなどが発達していたこともありますが全国で大きく取り扱わられたと言われているものの、私自身は当時まだ幼児だったため全く記憶がないというのが本音のところです。
 つい最近、この昭和天皇崩御時の社会の様子についてある証言者から詳しく話を聞く機会があり、なかなかに興味深かったので今日はこの話を紹介することとします。

 昭和天皇の崩御時についてこれまでに私が伝聞で聞いた内容としては、追悼番組が延々と流れ続けたためレンタルビデオ店が繁盛したとか、崩御翌日の新聞朝刊どれも一面で崩御を伝える中で東スポだけが「ブッチャー流血」を一面見出しにしていたなど、どちらかといえばマクロな話ばかりで当時の人たちはどのような反応をしていたのかミクロな視点での話しはほとんど聞いたことがありませんでした。特に気になっていたのは当時の一般社会はどうだったのか、企業などはどのような反応をしていたのか、こういった点について実は前から話を聞いてみたいと考えていたわけです。

 その証言者は崩御当時、というより前日から仕事が忙しく、会社に泊まり込んで仕事を続けていたそうです。夜が明けた早朝に仕事がひと段落したので社内で仮眠を取ろうとしていたところ、会社ビルの警備員から昭和天皇が崩御したとここで第一報を受け取ったそうです。
 崩御の第一報を受け取った証言者が何をしたのかというと、まずは同じ会社の人間へ崩御の事実を電話で伝え回ったそうです。証言者は昔も今も広告業界で働いており、あらかじめ崩御した際には各スポンサーのテレビCMを自粛する方針で決まっており、関係する人間同士でテレビ局やスポンサーに対して連絡する手筈となっていたとのことです。なお崩御の日については内々に「Xデー」と呼んでおり、CM放送自粛も既に段取りが決まっていたため感覚的には、「用意されたボタンを押すようなもので大きな混乱というものはほとんどなかった」と話しています。

 では証言者の周り以外ではどんな反応だったかと聞いたところ、よそも大体似たようなもので、そもそも崩御した1月7日の一ヶ月前に当たる年末からXデーは近いと目されており、どこも準備を万端にして整えていたため企業業務では大きな混乱はどこもなかったという見解を示しました。ただXデーがあらかじめ予想されていたためか、この年の正月は例年と違って非常に淡白な正月で、テレビ番組なども殊更におめでたいとは言わずバカ騒ぎするような番組もなかったそうです。

 そのほかに何かエピソードはないのかと続けて尋ねたところ、証言者が当時担当していたスポンサー企業からお悔やみ文をもらったことがあったという話が飛び出してきました。そのお悔やみ文は非常に体裁の整った古文のようなお悔やみ文だったそうで、来るXデーの際にはプレスリリースのような形で発表するよう指示を受けていたそうですが、その際にXデーの前にはお悔やみ文の存在を絶対に外に洩らさないよう要求されていたそうです。というのも、まだ崩御していない段階でこのような文章を作っていたとなると体裁が悪く、批判を受けかねないと考えたためだったそうですが、結局このお悔やみ文は日程の都合から使われることはなかったそうです。

 その次に、崩御後の日本経済はどうだったのかと尋ねました。東日本大震災では震災後に自粛ムードが広がり国内はおろか上海の日本食店すらも売り上げが落ちるほどだったので、それほどの自粛ムードなら陰りが見えたのではと想像したのですが、これに関して証言者は「影響はほとんどなかった」と否定しました。当時は末期とはいえまだバブルの最中で、また各企業で電子システムを導入するなどIT化の波が広がるなど投資も盛んで、テレビ番組では自粛が広がったものの実体経済自体は好調のまま推移していたとのことです。

 大体ここまでくればわかると思いますがこの証言者というのはうちの親父です。案外こういう小さな個人の視点での現代史記録は残されていないもので、1995年以降であれば私も多少は世の中わかるようになって自分の記憶で書けますが、それ以前となると年齢が上の人間に頼らざるを得ず、思わぬところで親父の話が聞いてて参考になりました。
 私は昭和59年(鼠年)の生まれですが、昭和という時代には全くと言って記憶がありません。たまに自分らの世代のことを「昭和ラストエイジ」と呼んだりすることもありますが、実質的には私は平成の時代の人間です。だからこそってわけじゃないですが、なるべく昭和から平成にかけてのこう言った証言は自分の生きてる間に後世へ残せるような証言を残しておきたいとも思えます。

2015年5月4日月曜日

我が一族と猫



 上記の動画は以前に見つけた猫動画ですが、やけに二本足で立つのが得意で妙な踊り方を見せる「桃太郎」という名前の猫が紹介されています。ほかにもこの猫にはいくつか動画がアップされていますが、どれもなんか猫らしくないというか、独特な表情と相まってやけに印象に残ります。
 知ってる人には早いですが私自身が猫を見るのが好きで、このような猫動画を暇さえあればよく検索して見ております。なんで猫が好きなのかというと単純に子供の頃から実家で飼われていた影響が何よりも大きいのですが、それ以前にうちの一族は猫と因縁があるというかちょっとしたエピソードがあります。

 これはうちの親父が生まれる以前の私の祖父の話ですが、祖父は戦時中に努めていた会社に派遣される形で上海に滞在しておりました。本国を離れての生活ながらも戦時中の上海は物資が豊富だったそうで、食料が不足していた内地とは対照的に祖父は毎日ステーキ食って毎日中国人と麻雀を打ったりして楽しく過ごしていたと話していました。しかし敗戦と共に祖父は日本へ帰国したのですが敗戦後の日本は全国どこでも物資が不足しており、戦時中の上海での生活とは打って変わってその日の食事にすら事欠くほど困窮していたそうです。

 日本帰国後のある日、いつものように祖父一家では食料がなく腹を空かせていたところ、当時飼っていた猫がなにやら袋包みを口にくわえて家に帰ってきました。一体何を持って帰ってきたのかと包みを開いてみると、中身は当時としては有り得ないくらいに貴重だった牛肉だったそうで、しかもきちんと切り分けられた状態で包装されていました。何故猫が牛肉を、しかもどっから持ってきたのかなどといろいろ突っ込みどころが満載ではあるものの、祖父一家は食べるものが無かったということもあって猫が持ち帰ってきた牛肉を、食中毒とかそういったことはあんま考えずに鍋かなんかで煮て食べちゃったそうです。後年この時のことを語るにつけ、「ほんまあの時は助かった、あの猫はええ猫やった」と述懐していたと聞きます。

 こうした縁(?)もあってか、うちの一族は基本みんな猫好きです。恐らく祖父の代に牛肉を持ち帰る代わりに将来に渡って敬い続けるよう契約めいたものを結んだんじゃないかと勝手に想像してます。この自分の推理にうちの親父も、「せやったんか」とやけに納得しておりました。