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2015年8月11日火曜日

SEALDsに対する印象

 今日女子サッカーの澤選手が結婚したというニュースが流れたのを見て一瞬、「あれ、今日ってエイプリルフールだったっけ?」と思ってしまいました。もちろんこれは冗談で、澤選手結婚おめでとうございます。

 そんな前振りとはまた全く脈絡のない本題ですが、あまりにも時事ネタで解説するものがないのでSEALDsについて私の印象を語ろうと思います。ちなみに「シールズ」って発音を聞くと私の中で思い浮かぶのは米国海軍特殊部隊のネイビー・シールズです。なお「エイリアン2」にも出演したマイケル・ビーンという俳優は何故かこのシールズの隊長役を演じることが多い俳優だったりします。

SEALDs(ニコニコ大百科)

 SEALDs(以下、シールズ)とは正式名称が「自由と民主主義のための学生緊急行動」という学生団体で、やってることは安倍政権の批判です。最初に書きますが私はこの団体と構成員に対して率直に言っていい感情を持っておらず、そもそも話題にあげる価値すらもないと内心では思っています。

 彼らの活動についてはネットなどでいくつか報じられているので知っている方も多いでしょうが、主な主張としては現在安倍内閣が進めている安保関連法案の否定、そして安倍首相の退陣で、逆を言えばこれ以外だと目につく主張なんて皆無でしょう。
 長く語るほどでもない連中なので何故私がこれほど見下しているのかというと彼らの主張をどんなに聞いても、安保関連法案のどこが問題なのか、この法案の可決によって現行とどう変わるのかという解説なり展望が全くありません。むしろ彼らは安保関連法案の中身自体をまともに理解していないのでは、にもかかわらず安倍内閣を批判しているのではと思う節すらあり、政治思想的な動機で行動しているようには見えません。

 では何故彼らは妙な徒党組んで活動しているのか。はっきり言いますが政治とは全く関係のない所、日々の生活なり人間関係なりでストレスや不満を抱えて、それを「政治活動」と称して安倍内閣にうっぷん晴らしの八つ当たりをしていると私は思います。そう思う根拠として彼らの発する主張の大半が法案の中身や日本の将来というよりも、安倍首相個人への人格批判ばかりで、しかもその罵倒の仕方が幼稚極まりないからです。もっともこれは朝日新聞の社説にも言えますが。
 偉そうな口をききますが政治議論で人格批判をするということは、もうその時点で相手を論理的に攻撃する材料を持っていないと自ら明かしてしまうもので、普通の人間ならやりません。しかしシールズはむしろこの人格批判それ自体を目的とするかのように安倍首相の批判を繰り返しており、政治的な動機というよりただ単に憂さ晴らししたいだけの人間が集まっただけではないかというのが私の見立てです。言ってしまえば、反日デモの際のどさくさに紛れて商店破壊した中国の日雇い労働者とどっこいどっこいでしょう。

 ハナからまともに法案の中身を理解できるほどの知恵がないというのはわかってますが、せめて理解しようという努力を見せるならまだ批判活動をしていてもかわいげがありますが、シールズに関してはむしろ理解を拒むような行動も見られます。何故なら何がどう変わるのかが正確になると大袈裟に「これから徴兵制が始まる」なんていう突飛過ぎる意見が主張できなくなる恐れがあり、逆を言えばきちんとした理解が進むと彼らは主張せんとする島を失うことになるのではないかと思います。こういう連中でも大学生になれるあたり、この前の小学四年生に扮した変な慶應の学生といい、ちょっと私も心配になってきます。

 最後にこれは蛇足かもしれませんが、そもそも「SEALDs」という団体名からして私の癇に障ります。なんで無駄に横文字使おうとするのか、普通に日本語でいいじゃんと思うと同時に、最初に述べたように「シールズっつったらネイビー・シールズだろ!」と思え、どうして軍事化を否定しながら軍の特殊部隊と音の被る団体名にするのか理解できません。

  おまけ
 冒頭にあげたマイケル・ビーンは「ターミネーター」で未来からやってくる青年、カイル役も演じていますが、以前に芸能人の眞鍋かをり氏が芸能記者に、「妊娠したのではという噂が出ていますが?」と聞かれた際、

「身に覚えがある。未来からやってきたという男とアメリカのモーテルで一夜の過ちを……。生まれてくる子供にはジョンと名付けよう」

 と、とっさに答えたことがあり、この一件で眞鍋氏は凄い人だということがよくわかりました。

2015年8月9日日曜日

日本式経営の「婿養子」という世襲方法

 今年5月に私は「書評『会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから』」という記事を書き、かつて存在した日系大手家電メーカー三洋について取り上げました。この記事の中で三洋の二代目社長であった井植敏氏の言葉として、

「日本は相続税率が高いため、会社を興して成功した創業一家は自己の財産を所有し続けるため経営能力が無くても会社を経営し続けなければならなくなる。米国の様にオーナーが会社を所有し、プロの経営者を雇って会社を経営させるという方法が採れない」

 といった内容の言葉を引用しました。この言葉の意味をもう一回かいつまんで説明すると、日本だと会社起ち上げて大成功して財産作っても、いざ子供に相続させようとしても税金で大方取られてしまいます。ではどうすれば円滑に資産を相続できるかというと、起ち上げた会社をそのまま子供に社長職を継がせられれば家族として「会社」という資産を保持できるわけです。
 しかしこれには一つ問題があります。その問題というのも会社を継ぐ子供が必ずしも経営的才能に恵まれているかどうかわからないということです。恵まれていれば別に問題ありませんがいわゆる二代目のボンボンバカ社長だった場合、会社の経営は混乱して破綻し、折角の資産も失ってしまうことになってしまいます。

 こうした日本の現況に対して欧米はどうかというと実は事情が異なります。会社を起ち上げた創業者はそのまま子供に経営を引き継ぐ例もありますが、大方の大企業では株式だけを保有し続け、経営は外部から招へいしたプロ経営者に任せてオーナー一家は配当金を受け取り続ける道を選びます。こうした方法が採れるのも井植氏の言う通りに相続税の税率が低いからやれる方法で、いわゆるセレブと言われる米国の資産家一家はこのようなパターンで使いきれない金を使い続けていることが多いです。

 先ほどの井植氏はこの日本と欧米における相続の違いについて、「日本では会社の所有と経営が分離していない」と述べております。実際に欧米は上記の通りに「所有(株式の保有)」と「経営(社長になる)」がはっきり分かれており、所有するオーナー一家の役割は外部からまともな経営者を持ってくることと、株式を持ち続け独立性を守ることの二点に集約されます。

 こと会社の継続という観点だけで見るならば、この所有と経営は分かれている方が良いに決まっています。既に述べた通りに日本のような相続の仕方では経営センスのないオーナー一家の跡取りが社長になってしまう可能性が高く、どんなに立派な企業でもバカ社長の指先一つでお釈迦になってしまう可能性がなくなりません。
 ではオーナー一家以外から社長を取ってくればいいのかとなると必ずしもそうは言いきれません。というのも日本の場合はオーナー一家以外だと社内から昇進して社長に就くいわゆる「サラリーマン社長」が多いのですが、果たしてそういう内部出身者が優秀かどうかとなるとこちらも必ずしもそうだと言いきれません。少なくとも、会社の内外から広く捜してくる例と比べるなら社内からの昇進だと比較対象数が圧倒的に小さいと言わざるを得ません。

 こうした会社の相続という課題について、実はかつての日本式経営にはちょうどいい解決方法があり、実際に多くの企業で採用されていました。その解決方法というのも、「婿養子」を取るという方法です。

 現代の日系企業でこれを実践して成功している代表格は自動車会社のスズキで、ここは現在の鈴木修会長と先代の会長はどちらも次代の経営者と見込まれたことによって婿養子として創業者一家に入り、実際に同社の事業拡大を見事果たしております。鈴木修会長に至っては、元々銀行屋だったのに先代(二代目)に見込まれて自動車会社に移ってこれだけ会社大きくしたんだから、やっぱ大したもんだと私も評価しています。

 日本式経営、というより日本式家族は江戸時代からこのように「優秀な人材を外部から婿養子として入れる」という手段を採っており、あのトヨタも豊田佐吉に続く二代目は婿養子の豊田利三郎であったなど、以前はそれほど珍しくもない手法でした。この婿養子に迎え入れるという手法であればある程度実績なりを収めた優秀な人材を外部から招聘するため経営者のセンスとしては問題なく、また家族にも入ることから会社という資産をオーナー一家は所有し続けられます。
 この「婿養子」という制度は所有と経営を両立できる優れた手段であり、あまり大きく取り上げられたりしませんが私は日本式経営の大きな特徴の一つだったのではないかと考えております。しかしたった今「だった」と述べた通りに、この手法は過去のものとなりつつあり今後も採用するオーナー一家が現れるかとなると疑問符を打たざる得ません。

 第一の理由はイエ意識の変化で、自由な恋愛結婚が一般的となっている今の世の中で、「こいつは経営センスがあるから将来お前はこいつと結婚しろ」と親から言われたって、はいそうですかと素直に従う社長令嬢がいるかとなると……まぁいないでしょう。第二の理由は少子化と晩婚化で、曹操婿養子を取れるほど女の子があまってないという家庭が多いかと思えます。

 私自身は先ほどにも述べた通りに「婿養子」というのは非常に優れた相続手段であると同時に優れた企業の経営手段だと思うのですが、一般的な日本人はカビ臭いやり方だと恐らく否定するでしょう。しかし大塚家具の問題にしろ相続と経営の問題は現代においても頻発しており、実際に実行するかどうかは置いておいてこのような手段もあるということを再認識した方が良いのではと思いこうして記事をしたためました。

  おまけ
 昨夜この記事内容について友人打ち合わせをした際、「スズキの会長以外に代表的な婿養子っているか?」という話になり、結局出てきたのは「マスオさん」だけでした。実際、日本で最も有名な婿養子といったらこの人しかいないでしょうヽ(*゚д゚)ノ<カイバー

このところのジャンルのばらけ方について

 気づいている人は気づいているかもしれませんが、元から一貫性のないブログではあるものの、このところの記事ジャンルのばらけ方は書いてる本人からしてもかなり異常な水準となっております。試しにこの一週間の記事タイトルを並べると、以下の様にと手も同じ人間が書いているブログだとは思えないほどばらけています。

・北条政子の歴史的存在感と人格
・人工筋肉の将来性
・「自由」という言葉が持つ二つの定義
・千葉のマッドシティ~ありがとう早稲田ビル
・「江戸しぐさ」は何故流布されたのか
・現代の僧兵

 なんで僧兵の話をした後に江戸しぐさに移り、その後マッドシティについてどうでもいい記事を書いたかと思ったら今度は自由に関してやけに哲学的な内容。かと思ったら今度はいきなり人工筋肉を話題にあげて、続く記事では北条政子がまた突然現れるなど、自分で書いておきながらですがかなり意味が分かりません。
 一体なんでこんな記事ジャンルがばらけているのかというと理由は単純に時事ネタがあまりにもなく、間に合わせで適当に思いついた内容をぱっぱ書いているためです。本来このブログは時事、政治の話題を取り上げた解説記事がメインのはずなのですが、このところは右も左も安保関連法のどうでもいい議論ばかりで話題にあげるネタが全くなく、仕方がないのでどうでもいい記事を無駄に量産することとなっております。

 ただこのところの記事はコラムとして、空いた時間にちょこっと読んで楽しめるような記事となるようには意識しており、それぞれの記事は単体だと決して悪くない出来ではないかと自負しています(マッドシティを除いて)。しかしこればっかだとブログとして果たしてどうなのか、頼むから何か興味を引く事件なり議論でも起きてくれよと密かに願う次第だったりします。

2015年8月7日金曜日

北条政子の歴史的存在感と人格

 よく「歴史の陰には必ず女あり」なんていう言葉がテレビ番組などで使われたりしますが、私に言わせればそんなのフェミニストのたわごとに過ぎず、少なくとも有史以来の歴史は男性が基本的に動かしてきたものに間違いありません。言ってしまえばさっきの言葉はこじつけで、歴史を動かした女性に関与しただけの女性を無理やり際立たせようとする意図合っての言葉ではないかと私には思えます。
 ただ欧米にはジャンヌ・ダルクやエリザベス一世、ロシアのエカチェリーナ一世など、そして中国にも則天武后や西太后など確かに歴史を大きく動かした女性が出てきており、この点に関しては何も異論がありません。しかし日本の歴史ではどうか、推古天皇や日野富子など確かに歴史に影響を与えた女性はおりますがどちらかというと歴史に関与しただけで、シビアな目で見るなら動かしたとなるとそれは大袈裟ではないかとただ一人を除いて思えます。そう、あの北条政子を除くとするならば。

 私は以前(二年も前だが)に「日本で歴史を動かした女性」という記事でも北条政子(+おね)を取り上げていますが、真の意味で日本史を動かした女性となると彼女以外いないのではないかと思います。彼女の実績というか経歴については説明するまでもないですが、鎌倉幕府の開祖たる源頼朝の妻となり実家の北条家ぐるみで彼を応援しただけでなく、頼朝の死後も父と兄にあれこれ指示して実質的に北条家による執権政治の基礎を作ったことは言うに及ばず、承久の乱で鎌倉武士を統率して後鳥羽上皇一派を追いやったことによって明治維新まで続く武家政権を確立したことは、徳川家康などにも劣らない大きな歴史のインパクトだったと私は評価しています。
 無論、北条政子一人の力でないことは間違いありませんが、彼女の死後に編纂された北条家の歴史書(吾妻鏡)によって持ち上げられて記録された可能性もありますが、あの当時の女性対する価値観が低かった時代においてこれほどまで大きく記述が割かれていることを考えると、やはり当時の北条家を引っ張っていた存在であったことは嘘ではないと思います。ここで注目すべきは一体何故、北条政子はそれほど指導力を発揮できたかという点でしょう。

 彼女が強い指導力をそこまで発揮できた理由としてまず浮かび上がるのは、彼女自身の人格というかパーソナリティが頭抜けていたからではないかと私は考えています。というのも彼女の経歴を見ていると当時としては珍しく頼朝とは恋愛結婚で、しかも親に許嫁を押しつけられた際は駆け落ちまでしています。また結婚後は当時としては当たり前だった側室を頼朝が持つことを許さず、浮気には半端じゃなく厳しかったと吾妻鏡がお節介にも既述しており、こう言ってはなんですが価値観が当時というよりは現代に近く、まるで現代からタイムスリップでもして鎌倉時代に現れたのではないかと思える節があります。これは言い換えるなら既存の価値観にとらわれず、自身の価値観でもって物事を見て行動していた人物といえ、織田信長の様な合理性(+わがままな性格)を持ち合わせていたのかもしれません。

 ただそうした革新的な価値観を持っていた一方で、家族に対する意識というか愛情も強く持ち合わせておりました。特筆すべきは娘の大姫に対する様々な気遣いで、大姫自身が病弱だったこともあるでしょうが母親として非常に気に掛ける態度などが良く残されており、このほか義経の妾であった静御前に対する態度も同じ女性として非常に気遣う感情が見て取れます。
 しかしそうした家族愛が強かったものの、家族関連では不幸と言ってもよい人生を歩んでいます。頼家と実朝の息子二人はどちらも若くして暗殺され、大姫と三幡の娘二人は年若くして病死し、北条政子は旦那だけでなく四人の子供全員に先立たれる運命となりました。そうした経緯もあってか甥っ子の北条実時に対しては援助を惜しまないなど、なにか思うところがあったんだろうなと思わせる行動が記録されています。

 改めてまとめるならば、北条政子は開明的な人格を持ち合わせており行動力も抜群であったため女性というハンデを抱えながら強い指導力を発揮出来たのではないかというのが私の見方です。持ち上げてばっかりですがその人物としての歴史的価値はほかの大物と比べても決して劣ることはなく、特に武家政権の確立を完成させたことを考えれば足利義満や徳川家康に並び立つほどの影響力を持っているように思え、現代の評価はやや低すぎるのではと考えています。
 その上で女性の歴史的価値をやたら高めようとするフェミニスト達は、どうもこの北条政子に対しては冷淡というかあまり話題に上げようとしていないのではと思う節があります。勝手ながらこの理由を推理するならば、一つは北条政子の一連の行動が男性的に見えることと、もう一つは幕府存続のために息子の頼家の追放を決めた点などが価値観に合わなかったためではないかと思います。こう言ってはなんだけど、女性からは嫌われそうなタイプに見えるし北条政子は。

2015年8月6日木曜日

人工筋肉の将来性

 昨夜、前から待ち望んでいた漫画の「監獄学園」の最新巻である18巻が発売され、あらかじめ予約していたので電子書籍にダウンロードされるや一目散に読みました。読んだ感想はというと想像を大きく超えていたというか、「こんな内容を書いちゃっていいのかよ……」と思うくらい凄く、こちらの期待以上に楽しまされました。画力、ストーリー、ギャグの切れ、どれをとっても隙のない作品で、多分現在のギャグ漫画でこの作品に伍すものはないでしょう。

 話は本題に入りますが、実は最近気になっているものとして人工筋肉があります。っていうかこんなものに何で突然興味持ち出すのか自分でも意味不明です。

人工筋肉(Wikipedia)

 なんでこんなものに興味を持ち出したのかというと、昨今の研究の発達に伴って人体の義体化が段々と視野に入ってきたものの、俄然かけているピースに当たるものがこれじゃないかと思えてきたからです。
 私が人工筋肉に興味を持ったのはそう(村上春樹風)、大体三週間くらい前です。なんか欧米で視力を失った男性に外科手術を施し、一部視力を回復させることに成功したというニュースが報じられてて、神経系統の仕組みが大分改名されたこともあってこの方面、、要するに人口の神経は大分現実化してきたと思うと同時に、その神経で動かす身体はどう作るんだと疑問に感じたからです。

 基本的に人間の体は張り巡らされた神経を電気信号が通り、その電気を受けて筋肉が反応し、収縮することで動きます。この神経系は一般的な電線で代替することはかなり以前から実現されており、簡単な実験だと軽い電流を流すことによって肘や膝を意思に反して曲げることが出来ます。
 先ほどの視力回復の例はカメラと脳をケーブルで繋げて成功したそうなのですが、日本が誇る山中教授のIPS細胞を利用すればこのケーブルはもっといい材料、具体的に言えばそれ以前から本人が持っていた神経細胞で繋げられる可能性も出てきています。

 しかし神経は繋げられるとしても、その神経から流す電気信号で動かす身体はどうすればいいのか。言ってしまえば人工筋肉のようなものがないと完全なる義体化はまだ実現できません。人間のような肉体にこだわらないならネジ丸だしな機械義手とかにすることでクリアできますが、機械の体の場合は可動力などに気をつけないと、たとえば肘から下に義手をつける場合だと極端に義手の握力が大きいと生身の肩が持たず、骨折したり脱臼したりという不具合が起きる可能性があります。また同時にメンテナンスも必要だし、水に触れたらよろしくないというデメリットも存在します。

 人工筋肉の場合はどうか。もちろん機械の体同様にメンテナンスはいるでしょうが、耐久性があればそこそこ面白い動きが出来るのでは、何よりも素の人間の体に近い分、機械の体より親和性は高いような気がします。
 それで今の研究はどこまで言ってるのかですが、やはり収縮回数こと耐久性とコストが大きな課題になっているそうです。逆を言えば画期的なものが生まれればグッと利用範囲が広がる可能性もあるだけに、今後この分野を機会あれば自分も勉強してみようかなと画策しています。

2015年8月5日水曜日

「自由」という言葉が持つ二つの定義

 先日、ある友人から「自由」という言葉は福沢諭吉が初めて「Freedom」という言葉を翻訳して作った言葉だということを教えてもらいました。なお福沢はこの言葉を最初は「下剋上」と翻訳したそうですが、「なんか違うよなぁ」と思って翻訳し直したそうです。この判断は正しかったんじゃないかなぁと私は思います。
 ただこの自由という言葉ですが、内包する意味としては大きく分けて二つあるのではないかと私は考えております。もったいぶらずに述べると一つは「どんな選択肢でも好きに選べる状態」で、もう一つは、「束縛が全くない状態」です。どちらも似たような印象を覚え実際に両方とも兼ね備えた状態も決して珍しくはありませんが、必要十分条件の関係ではないと断言できます。

 具体例を挙げると、誰かの監視なり保護下に入ることによって行動の選択肢が増えるというのが一番わかりやすく、これだと束縛は増えるものの自分単独では実行することが出来ない行動が選択肢に入ってくるわけで、一種の社会契約論と考えても問題ありません。
 逆のパターンもまた然りで、親の庇護下から離れることで束縛は減るものの成人していなかった場合は経済面から行動が縛られてしまいます。まぁ経済面の縛りを束縛ととるならまた解釈も変わってきますが。

 では一般的な日本人は普段どちらの自由を重視しているのか。私の意見を述べるならば圧倒的に前者で、選択の幅を広げるのであれば社会や組織の束縛を受けることにほとんど抵抗しない人が多いように思います。こうした日本人の傾向について特段批判するような点はなく、いつも手厳しい日本人論を語る私としても変だとは思いません。そもそもどちらの自由を優先するのかは本当に考え方次第であるため、どっちが正しいとか理想形は何なのかを考えるのは野暮でしょう。もっとも、どっちの自由も放棄するってのは問題である気はしますが。

 ここまで書けば薄々勘付かれるでしょうが、私個人としては圧倒的に後者の「束縛からの自由」を重視しています。逆を言えば束縛から離れられるのであれば選択肢が狭まっても構わないというか、実際にそのような行動をこれまで取ってきました。
 あくまで私見ですがこっちの「束縛からの自由」を重視するのはやっぱり欧米系国家の人たちに多いような気がします。組織や家族のために個人を殺すといった行動意識は日本人と比べると小さく見え、単純に個人主義が強いだけかもしれませんが社会全体でもそうした意識が垣間見え、慣習やら社会的影響をなるべく排除しようとしているのではないかと思います。
 こちらでも具体例を挙げると自由の本場と日本人が言っているフランスで、以前に騒がれた学校にイスラム教徒であってもブーケを被って来てはならないというルールを設ける当たり、宗教的影響を可能な限り教育現場から排除しようとしたのではないかと見えました。

 繰り返しになりますが「選択の自由」、「束縛からの自由」のどちらを重視するかは人それぞれであって、どちらの自由が絶対的に正しいと言い切ることはできないでしょう。ただ私からの助言としては、二つの自由をどんな按配で重視するのか、これをおぼろげながらも意識すると物事の見え方が良くなるように思えるのでお勧めです。
 たとえば普段は行動の自由を重視しながらも束縛からの自由を完全放棄しない、割合的には8:2ぐらいに自己設定して、一体どこのタイミングで自分は束縛に対して抵抗するのかを考えてみるのも面白いかもしれません。上司から叱責を喰らう、上司からビンタを喰らう、上司からフランケンシュタイナーを喰らう、この三段階のどこまで我慢するのかを考えるだけでも自分の立ち位置なり根本的な考え方が以前より確固と固まるのではないかと思えます。まぁ三つ目はこんな技決められる上司に巡り合えるかどうかをまず考えた方が良いかもしれませんが。

2015年8月4日火曜日

千葉のマッドシティ~ありがとう早稲田ビル

 我ながら書いていて意味がよくわからない見出しですが結論から言うとマジでこんな名前したビルが松戸市にあって、しかもビル屋上には本当にでっかく「ありがとう」と書かれてたりします。


 手元に写真がないのでこのビルに入居しているサロンのサイトから上記画像は引用してきましたが、松戸駅からやや北東に行った松戸市役所近くにこのビルは確かに存在します。地図検索でも「ありがとう早稲田ビル」と検索したら本当にそのまんま地図上に書かれてあって、なんていうか「何がありがとうやねん」と見ていて思わせられます。

 恐らくこのビルは名前からして松戸市内の不動産会社である早稲田ハウスの所有物件なのではないかと思いますが、それにしたってこのネーミングセンスとそれをマジでビルの屋上に書いてしまう実行力はどこから来たのかいろいろと興味を掻き立てられます。折角だからメールで取材しようかなとも考えましたが、岡山県民はリアルに「もんげー」という事実と比べるとなんかどうでもいいように思ったので結局取材はしませんでした。

 ちなみにこの「ありがとう早稲田ビル」は私の潜伏地に近い所にあり、日本潜伏時代はほぼ毎日一回はこの前を通過しておりました。でもって通過する度に、「何がありがとうやねん」とつぶやいており、この周辺の夜道でこういうことを呟いている人物がいたらほぼ確実に私でしょう。
 にしても大阪だったらこういうビルがあっても驚かないけど松戸市に何故かあるってのがやっぱポイントだと思います。ほんとどういう経緯でこのビルおったてたんだろうな。