・プーチン氏がトルコへの追加制裁表明、撃墜事件は「戦争犯罪」(ロイター)
一言で言って、「よく言うよ……」って思いました。
自分らは散々ウクライナで好き勝手やらかした挙句、供与した武器でマレーシア航空の旅客機が撃ち落とされているというのに、よくこういうこと言えるなって思うあたりがやっぱロシアです。ほんと油断ならんな。
・NATO震撼、トルコが撃墜 なぜロシア機は旧型だったのか(週刊朝日)
でもってこれに関連して興味深い報道がありました。記事内容はリンク先を見てもらえばいいのですが簡単に述べると、今回トルコ軍に撃墜されたロシア機はSu24という30年以上前に開発された旧型機だったそうです。仮に最新鋭機であれば攻撃から逃れていたとした上で、Su24には内臓のGPS装置がないため恐らく外付けで、そのため位置情報を誤って領空侵犯を侵したのではないかという分析がされており素人的になるほどと思わせられました。どちらにしろ、ロシア機が領空侵犯していたのはほぼ間違いなく、それに対してトルコ軍も警告をした上で撃墜しているのでロシアから非難される筋合いはないでしょう。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年12月3日木曜日
2015年12月2日水曜日
私の身近な大阪人
先ほど友人とスカイプでチャットしている最中、「ハリウッド映画に出てくる黒人はおしゃべりでお調子者が多いが、日本映画となるとこの役には間違いなく大阪人が充てられる」と述べました。この意見に反対する日本人はまぁいないでしょう。
現代日本において一番キャラが立っている地方人とくれば大阪人がまず挙がってきて、その特徴となると「明るい」、「うるさい」、「ボケる」の三拍子でしょう。かくいう現在の私にも身近に大阪人がいるというか参加しているサイクリング部には大阪出身者が数多くいて、飲み会の最中にはよく大阪の地名を挙げてはあそこはああだったとか、昔はこうやったなどと盛り上がります。
私自身は関東育ち(マッドシティ近辺)ですが学生時代は京都にいて関西地域に多少は土地勘があるためこういった話にもついて行けるのですが、正直言って話のペースとなると全くついていけません。みんな我先に俺が俺がと話し続けるし、しかも自分と比べてみんな年齢と経験を重ねた大物ばかりでどっちかっていうと聞き役に回ることが多くなります。
なおここだけの話ですが中国には大阪人がいっぱい来てますし、本人らも東京の連中らと比べたらわしらの方が海外は強いんじゃと言って憚りません。私個人の見方としても関西人の方が海外勤務を精力的にこなせる率が高いように思えるし、何よりも未開の領域へ突っこもうというパワーにおいては関西人は関東人より上な気がします。その一方で、学生時代にいた周りの関西人は海外はおろか大阪からも出たくないという人が多く、どうしてこう外へ向かうという意識で両極端なタイプが混在しているのかまだ答えが出せていません。
話は戻りますが周囲の大阪人の方々は誰もが長い海外駐在経験を務めており、人のいうことを聞かないことに定評がある私ですら素直に言う事を聞くぐらいためにもなるし、説得力もあります。先日聞いた話でも、「中国人従業員を辞めさせる時は有無を言わさず即切り、その場で家に帰らせろ」というのがあり、なんでも最後に会社を出ていく際に備品を盗んだり壊したりする例が多いからだと実体験込みで教えてもらえました。「あの工具、ほんま高かったのに盗みおって……」と悔しげでしたが。
そんな身近な大阪人の中でも、ひときわ強烈なのが東大阪出身というコテコテのおじさんです。飲み会ともなるとずっとしゃべるしずっとボケるしで、明らかにほかの大阪の人と一線を画す存在感があります。高校生時代の話となると、「あいつら、ケンカとなるとモノ持ってくるからこっちも武装せなあかんねん」とかきわどい話になれば、ちょっと前の話でも新地のお店でどこそこが昔通ってたとかやたらディープな話も飛んできて、黙って聞いてても本当に面白い人です。
ただ最近残念というかこれまでツッコミ役だった駐在員がこの前帰国してしまって、それからはツッコミ役がいなくて一人でボケとツッコミもやらなくてはならなくなったためか前よりはややペースが落ちました。それでもしゃべり続けることに変わりはなくこの前も、「うちの従業員も最初入った頃は全く日本語しゃべれへんかったけど今やったらほんましっかり話せて見積りも取ってくるわ」と、話してましたが、
(そりゃあんたの傍にいたら嫌でも日本語覚えるよ)
と、密かに思ったことはここだけの内緒です。
現代日本において一番キャラが立っている地方人とくれば大阪人がまず挙がってきて、その特徴となると「明るい」、「うるさい」、「ボケる」の三拍子でしょう。かくいう現在の私にも身近に大阪人がいるというか参加しているサイクリング部には大阪出身者が数多くいて、飲み会の最中にはよく大阪の地名を挙げてはあそこはああだったとか、昔はこうやったなどと盛り上がります。
私自身は関東育ち(マッドシティ近辺)ですが学生時代は京都にいて関西地域に多少は土地勘があるためこういった話にもついて行けるのですが、正直言って話のペースとなると全くついていけません。みんな我先に俺が俺がと話し続けるし、しかも自分と比べてみんな年齢と経験を重ねた大物ばかりでどっちかっていうと聞き役に回ることが多くなります。
なおここだけの話ですが中国には大阪人がいっぱい来てますし、本人らも東京の連中らと比べたらわしらの方が海外は強いんじゃと言って憚りません。私個人の見方としても関西人の方が海外勤務を精力的にこなせる率が高いように思えるし、何よりも未開の領域へ突っこもうというパワーにおいては関西人は関東人より上な気がします。その一方で、学生時代にいた周りの関西人は海外はおろか大阪からも出たくないという人が多く、どうしてこう外へ向かうという意識で両極端なタイプが混在しているのかまだ答えが出せていません。
話は戻りますが周囲の大阪人の方々は誰もが長い海外駐在経験を務めており、人のいうことを聞かないことに定評がある私ですら素直に言う事を聞くぐらいためにもなるし、説得力もあります。先日聞いた話でも、「中国人従業員を辞めさせる時は有無を言わさず即切り、その場で家に帰らせろ」というのがあり、なんでも最後に会社を出ていく際に備品を盗んだり壊したりする例が多いからだと実体験込みで教えてもらえました。「あの工具、ほんま高かったのに盗みおって……」と悔しげでしたが。
そんな身近な大阪人の中でも、ひときわ強烈なのが東大阪出身というコテコテのおじさんです。飲み会ともなるとずっとしゃべるしずっとボケるしで、明らかにほかの大阪の人と一線を画す存在感があります。高校生時代の話となると、「あいつら、ケンカとなるとモノ持ってくるからこっちも武装せなあかんねん」とかきわどい話になれば、ちょっと前の話でも新地のお店でどこそこが昔通ってたとかやたらディープな話も飛んできて、黙って聞いてても本当に面白い人です。
ただ最近残念というかこれまでツッコミ役だった駐在員がこの前帰国してしまって、それからはツッコミ役がいなくて一人でボケとツッコミもやらなくてはならなくなったためか前よりはややペースが落ちました。それでもしゃべり続けることに変わりはなくこの前も、「うちの従業員も最初入った頃は全く日本語しゃべれへんかったけど今やったらほんましっかり話せて見積りも取ってくるわ」と、話してましたが、
(そりゃあんたの傍にいたら嫌でも日本語覚えるよ)
と、密かに思ったことはここだけの内緒です。
2015年12月1日火曜日
原節子の逝去と昭和映画界
二日続けて訃報記事となりますが、一回書こうとして見送ったもののちょっと昨日に気になる記事を見つけたので折角だから書くことにします。
・原節子さんの訃報は喪中はがきが“知らせた”?!/芸能ショナイ業務話(サンスポ)
上記のリンク先記事は原節子の訃報が報じられたその当日、サンスポ編集部内での取材と記事出稿を巡る内幕が書かれてあるのですが、喪中葉書が親類に届いたことから電話取材をしたところ入院しただけでもうすぐ元気になると回答されたため、第一稿では「原節子、入院」と書いたそうです。しかしその後で共同通信が「逝去」と報じたため慌てて電話取材をし直すと、さっきのは嘘で実は……という話だったそうで、出稿間際で慌てて記事を書きなおしてヒヤリとしたと書かれてあります。
恐らく遺族の方は悪気はなかったと思いますが、このサンスポのデスクの方には本当に心から同情します。仮に第一稿のまま出していたらほかのメディアが逝去と報じている中で誤った生存を伝えたらシャレにならない大事で、この責任でクビが飛んでもおかしくなかったでしょう。それだけにこの内幕記事は読んでるこっちが冷や汗かきそうで、何はともあれ誤報を出さずに済んで本当によかったですねと言ってあげたいです。
話はその原節子に戻りますが三年前、最近左遷先の名古屋で引っ越した親父に対して「原節子ってまだ生きてるそうらしいね。親父なんか知ってる?」と振ってみたところ、「そんな馬鹿な、昔の人だからとっくに死んでいるだろう」と否定されました。結果から言えば私の方が正しかったのですが親父がこう思ったのも無理はなく、というのも1963年を最後にかれこれ半世紀も公の場に出て来ずついた呼び名が「幻の名女優」と言われたほどで、同時代の人でも彼女が既に亡くなったものと考えていた人は多かったと思います。
私が原節子を見たのは小津安二郎監督の「東京物語」という映画で、これは何も私が映画マニアだからというわけでなくたまたま大学の授業で見させられただけでした。ただその映画の中でも存在感は際立っていたというか、当時としては比較的長身な女性であったこともあるでしょうがそれほど映画に見慣れていない私ですら仕草がきれいな人だと印象に残り、それから数年後に今敏監督のアニメ映画「千年女優」で登場する主人公のモデルがこの原節子だと知り、それから興味をもって経歴を少し調べ始めました。
「千年女優」の主人公もそうですが、原節子は戦中から戦後にかけて第一線で活躍した女優でしたが先ほど述べた通りに1963年を境に女優業を引退し、その後はまるでマスコミを避けるかのように公の場から完全に姿を消しました。このような経緯からよく元アイドルの山口百恵氏と比較されることが多いですが、それにしても半世紀も全く音沙汰なかったにも関わらずその逝去がこれほど大きく報じられるというのは他に例はなく、それだけ多くの人間の記憶に強く刻まれていた証左でもあるでしょう。
なお一番気になる失踪した理由については、一説では信頼していた小津安二郎監督に殉じたためだと言われています。最後に姿を見せたのも小津安二郎の通夜だったとされ、それ故に当時のマスコミから色々と書かれたそうですが本人もなくなった今となっては、何かしらの資料などない限りはもはや確かめる術はないでしょう。
最後にこの方の逝去を受けて私の感じたことをありのまま(れりごー)に述べると、最後の昭和映画人がいなくなったのかなと思いました。この場合の昭和映画というのは言うまでもなく戦前から戦後しばらくの間を指し、昭和後期は含まれていません。
何故こんな区分をするのかというと、この時代はまだテレビが今ほど普及、発達しておらず、庶民が映像を娯楽として楽しむ媒介としては映画が主流だったからです。そのため映画は現代と比べ人々にとっては特別大きな存在で、それを撮影する人、演じる人はまさしく別世界の人間だったのではと思う節があり、その昭和映画を形作っていた象徴的な人物である黒沢明、大島渚、高倉健といった人々に今回の原節子が続き、まさしく最後の大物が亡くなったことによって一つの時代が完全に終わりを遂げたのかなと思えました。
なお昭和の区分の仕方についてもう少し述べると、昭和を二分するのは言うまでもなく1945年の終戦ですが、仮に三等分するなら終戦に加えて1970年の大阪万博だったんじゃないかと密かに考えております。大阪万博は昭和を中期と後期を分ける分水嶺たる象徴的なイベントで、だからこそ当時を生きた人々にとって強く印象に残り、漫画の「20世紀少年」 でも主要なテーマとして扱われてるんじゃないかというのが私個人的な考えです。
・原節子さんの訃報は喪中はがきが“知らせた”?!/芸能ショナイ業務話(サンスポ)
上記のリンク先記事は原節子の訃報が報じられたその当日、サンスポ編集部内での取材と記事出稿を巡る内幕が書かれてあるのですが、喪中葉書が親類に届いたことから電話取材をしたところ入院しただけでもうすぐ元気になると回答されたため、第一稿では「原節子、入院」と書いたそうです。しかしその後で共同通信が「逝去」と報じたため慌てて電話取材をし直すと、さっきのは嘘で実は……という話だったそうで、出稿間際で慌てて記事を書きなおしてヒヤリとしたと書かれてあります。
恐らく遺族の方は悪気はなかったと思いますが、このサンスポのデスクの方には本当に心から同情します。仮に第一稿のまま出していたらほかのメディアが逝去と報じている中で誤った生存を伝えたらシャレにならない大事で、この責任でクビが飛んでもおかしくなかったでしょう。それだけにこの内幕記事は読んでるこっちが冷や汗かきそうで、何はともあれ誤報を出さずに済んで本当によかったですねと言ってあげたいです。
話はその原節子に戻りますが三年前、最近左遷先の名古屋で引っ越した親父に対して「原節子ってまだ生きてるそうらしいね。親父なんか知ってる?」と振ってみたところ、「そんな馬鹿な、昔の人だからとっくに死んでいるだろう」と否定されました。結果から言えば私の方が正しかったのですが親父がこう思ったのも無理はなく、というのも1963年を最後にかれこれ半世紀も公の場に出て来ずついた呼び名が「幻の名女優」と言われたほどで、同時代の人でも彼女が既に亡くなったものと考えていた人は多かったと思います。
私が原節子を見たのは小津安二郎監督の「東京物語」という映画で、これは何も私が映画マニアだからというわけでなくたまたま大学の授業で見させられただけでした。ただその映画の中でも存在感は際立っていたというか、当時としては比較的長身な女性であったこともあるでしょうがそれほど映画に見慣れていない私ですら仕草がきれいな人だと印象に残り、それから数年後に今敏監督のアニメ映画「千年女優」で登場する主人公のモデルがこの原節子だと知り、それから興味をもって経歴を少し調べ始めました。
「千年女優」の主人公もそうですが、原節子は戦中から戦後にかけて第一線で活躍した女優でしたが先ほど述べた通りに1963年を境に女優業を引退し、その後はまるでマスコミを避けるかのように公の場から完全に姿を消しました。このような経緯からよく元アイドルの山口百恵氏と比較されることが多いですが、それにしても半世紀も全く音沙汰なかったにも関わらずその逝去がこれほど大きく報じられるというのは他に例はなく、それだけ多くの人間の記憶に強く刻まれていた証左でもあるでしょう。
なお一番気になる失踪した理由については、一説では信頼していた小津安二郎監督に殉じたためだと言われています。最後に姿を見せたのも小津安二郎の通夜だったとされ、それ故に当時のマスコミから色々と書かれたそうですが本人もなくなった今となっては、何かしらの資料などない限りはもはや確かめる術はないでしょう。
最後にこの方の逝去を受けて私の感じたことをありのまま(れりごー)に述べると、最後の昭和映画人がいなくなったのかなと思いました。この場合の昭和映画というのは言うまでもなく戦前から戦後しばらくの間を指し、昭和後期は含まれていません。
何故こんな区分をするのかというと、この時代はまだテレビが今ほど普及、発達しておらず、庶民が映像を娯楽として楽しむ媒介としては映画が主流だったからです。そのため映画は現代と比べ人々にとっては特別大きな存在で、それを撮影する人、演じる人はまさしく別世界の人間だったのではと思う節があり、その昭和映画を形作っていた象徴的な人物である黒沢明、大島渚、高倉健といった人々に今回の原節子が続き、まさしく最後の大物が亡くなったことによって一つの時代が完全に終わりを遂げたのかなと思えました。
なお昭和の区分の仕方についてもう少し述べると、昭和を二分するのは言うまでもなく1945年の終戦ですが、仮に三等分するなら終戦に加えて1970年の大阪万博だったんじゃないかと密かに考えております。大阪万博は昭和を中期と後期を分ける分水嶺たる象徴的なイベントで、だからこそ当時を生きた人々にとって強く印象に残り、漫画の「20世紀少年」 でも主要なテーマとして扱われてるんじゃないかというのが私個人的な考えです。
2015年11月30日月曜日
そこにゲゲゲがあった日々
今日昼ごろ、ネットニュースに表示された見出しを見て文字通り身体がビクッと一瞬跳ね上がり、いずれ来るとは分かっていながらもとうとうその日が来てしまったのかと深くため息をつかされました。皆さんも知っての通り本日、「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される数多くの人気漫画を生み出しながら妖怪分野の研究において第一人者でもあった水木しげる氏が亡くなりました。
このブログでも私は常々水木氏のファンであるということを書き綴っており、またかつて読んだことのある彼の作品を何度か紹介しております。現時点においても一番好きな本はと聞かれたら「水木しげる伝」と即答するほどで、先日も高校生になったという知り合いの娘さんへ、「これ読んでいい大人になれよ」といって上中下の三巻をプレゼントしており、ガチな水木フリークに比べればまだまだですが私個人としてはかなり熱狂的だといえるほどのファンだと自負しております。
私が何故水木氏とその作品に対してこれほどまで愛好するようになったのかというと話せば長くなりますが、子供の頃にアニメが放映されていた「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」を見ていたことはもとより、成人してから京都大丸でやっていた水木氏の作品展(大・水木しげる展)を訪れ、改めて水木氏が生み出したキャラクターの造形や性格、そして水木氏自身の数奇な人生を単純に「すごい!」と感じたことが大きかったです。ちなみに今でも後悔してるけど、その作品展で売られていた一反木綿の携帯カバーを買っとけばよかった……。
知られている通りに水木氏は少年時代からのんびりし過ぎというか特徴的な子供で、そして成人後に出征して片腕を失くしながらも日本への帰還を果たします。しかし帰還後も苦しい生活は続き、食うや食わずの中で漫画を描き続け40歳を超えて初めてヒット作(「テレビくん」)に恵まれ、その後も本人が子供の頃から好んでいた妖怪をモチーフとした作品群でヒットを続け漫画界のみならず民俗学の分野においても多大な功績と数多くのフォロワーを生み出しました。事実、水木氏と柳田國男なければ妖怪という言葉は現代ほど定着はしなかったと思え、もしそうなっていれば「妖怪ウォッチ」もなければ「トイレの花子さん」もなく、下手すれば「ポケットモンスター」も生まれてなかったかもしれません。
話は戻りますがどうして私が他の漫画家とは一線を画すほどまでに水木氏へ入れ込んだのかというと、単純に作品が面白かったことに加え、水木氏の人生観と死生観に強く惹かれたことが大きかったと思います。元々が特徴的な思考をしているだけに水木氏の価値観は際立っていたというか常人からは見ることのできない視点からの意見が多かったのと、それ以上に激戦地で死線を潜り抜けながら目の前で何人もの戦友を失うという壮絶な体験に根差した死生観にはえもいわぬ迫力がありました。
生前のインタビューでも若者の自殺が近年増えていることについて、「彼らにとってそれが楽だというのであれば死なせてあげなさい」と述べた上で、「戦争の時代、若者は生きたくても生きられなかった」と付け加えていましたが、一見すると前後の文脈が噛み合っていないようであるものの、水木氏の人生を知るにつけて強烈なインパクトを持つ言葉の様に感じられてきました。ただ単に「自殺はよくない」と言う訳ではなく、どのような生が正しいのか悪いのか、そもそも生が正しくて、死は正しくないのかと問い直すような生死の比較対立構造すら揺さぶりかねない視点のようにも思え、自分には辿り着けない領域をこの人は見ているのだなとも覚えました。
確か荒俣宏氏だったと思いますが、「水木氏の最高傑作は水木氏自身だ」と述べており、まさにその通りで水木氏が生み出してきた作品以上に水木氏という人物がとんでもなく凄かったと私にも思えます。この人の作品に出会えたこと、そして同時代を過ごせたことは紛れもなく幸福だと思いますし、この尊敬の念は今後一生変わり続けることもないでしょう。この偉大な水木サンに対して、この場にて改めて哀悼の意を表したいと思います。
このブログでも私は常々水木氏のファンであるということを書き綴っており、またかつて読んだことのある彼の作品を何度か紹介しております。現時点においても一番好きな本はと聞かれたら「水木しげる伝」と即答するほどで、先日も高校生になったという知り合いの娘さんへ、「これ読んでいい大人になれよ」といって上中下の三巻をプレゼントしており、ガチな水木フリークに比べればまだまだですが私個人としてはかなり熱狂的だといえるほどのファンだと自負しております。
私が何故水木氏とその作品に対してこれほどまで愛好するようになったのかというと話せば長くなりますが、子供の頃にアニメが放映されていた「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」を見ていたことはもとより、成人してから京都大丸でやっていた水木氏の作品展(大・水木しげる展)を訪れ、改めて水木氏が生み出したキャラクターの造形や性格、そして水木氏自身の数奇な人生を単純に「すごい!」と感じたことが大きかったです。ちなみに今でも後悔してるけど、その作品展で売られていた一反木綿の携帯カバーを買っとけばよかった……。
知られている通りに水木氏は少年時代からのんびりし過ぎというか特徴的な子供で、そして成人後に出征して片腕を失くしながらも日本への帰還を果たします。しかし帰還後も苦しい生活は続き、食うや食わずの中で漫画を描き続け40歳を超えて初めてヒット作(「テレビくん」)に恵まれ、その後も本人が子供の頃から好んでいた妖怪をモチーフとした作品群でヒットを続け漫画界のみならず民俗学の分野においても多大な功績と数多くのフォロワーを生み出しました。事実、水木氏と柳田國男なければ妖怪という言葉は現代ほど定着はしなかったと思え、もしそうなっていれば「妖怪ウォッチ」もなければ「トイレの花子さん」もなく、下手すれば「ポケットモンスター」も生まれてなかったかもしれません。
話は戻りますがどうして私が他の漫画家とは一線を画すほどまでに水木氏へ入れ込んだのかというと、単純に作品が面白かったことに加え、水木氏の人生観と死生観に強く惹かれたことが大きかったと思います。元々が特徴的な思考をしているだけに水木氏の価値観は際立っていたというか常人からは見ることのできない視点からの意見が多かったのと、それ以上に激戦地で死線を潜り抜けながら目の前で何人もの戦友を失うという壮絶な体験に根差した死生観にはえもいわぬ迫力がありました。
生前のインタビューでも若者の自殺が近年増えていることについて、「彼らにとってそれが楽だというのであれば死なせてあげなさい」と述べた上で、「戦争の時代、若者は生きたくても生きられなかった」と付け加えていましたが、一見すると前後の文脈が噛み合っていないようであるものの、水木氏の人生を知るにつけて強烈なインパクトを持つ言葉の様に感じられてきました。ただ単に「自殺はよくない」と言う訳ではなく、どのような生が正しいのか悪いのか、そもそも生が正しくて、死は正しくないのかと問い直すような生死の比較対立構造すら揺さぶりかねない視点のようにも思え、自分には辿り着けない領域をこの人は見ているのだなとも覚えました。
確か荒俣宏氏だったと思いますが、「水木氏の最高傑作は水木氏自身だ」と述べており、まさにその通りで水木氏が生み出してきた作品以上に水木氏という人物がとんでもなく凄かったと私にも思えます。この人の作品に出会えたこと、そして同時代を過ごせたことは紛れもなく幸福だと思いますし、この尊敬の念は今後一生変わり続けることもないでしょう。この偉大な水木サンに対して、この場にて改めて哀悼の意を表したいと思います。
2015年11月29日日曜日
真のブラック企業大賞
・「ブラック企業大賞」、2015年はセブン-イレブン・ジャパンに(ねとらぼ)
毎年続けてきた甲斐もあってか段々知名度も高くなってきたこのブラック企業大賞ですが、今年の栄えある大賞にはセブンイレブンが見事入賞されたそうです。私自身はセブンイレブンにそんな思い入れもなく、どっちかっていうと特別賞に入ったアリさんマークの引越社が今年は来るんじゃないかと思ってただけにちょっと意外に感じると共に、そもそも真に糾弾されるべきなのはこうしたブラック企業を放置しながら何も働こうとしない労働基準監督署じゃないのかと思った次第です。そもそも労基は企業じゃないかとツッコまれそうですが、ブラック企業を生み出している真の黒幕って考えならアリじゃないかと個人的に考えています。アリさんマークなだけに(*´∀`)
ついでに書くと、労働者的には別にブラックではないですが今年一番黒かった会社となると私の中では不正経理がばれた東芝と、その監査法人である新日本監査法人が挙がってきます。正しく公開すべきIR情報を意図的に粉飾して投資家をだました両法人ですが、米国であれば責任者は確実に懲役となっていたでしょうが経済犯罪には甘い日本だったため証券市場での上場廃止すら免れています。あとこの事件の内幕は大手マスコミが東芝に対して確実に及び腰となっているためあまり議論されませんが、東芝と新日本監査法人の関係を追っていくといろいろと見えてくるものがあるだけに根は案外深いように感じます。
前提から整理すると、新日本監査法人は東芝という会社から依頼されて一部の部署や役員が実態とは異なる不正な経理を報告していないかをチェックするという仕事を担当したわけです。しかし彼らのチェックが甘く杜撰だったために不正な経理報告書が市場に出てしまったわけですが、東芝は何故か新日本監査法人に対して、
「お前らのチェックがいい加減だったせいでえらい目にあったぞ(# ゚Д゚)カス!!」
などと怒ったりクレームを言うこともなく、改めて仕切り直しとなった財務監査を再び新日本監査法人に依頼しており、恐らく来年以降の監査もここに依頼することでしょう。急いで正しい報告書をまとめるために同じ監査法人を使わざるを得ないという理由はまだ理解できないまでも、普通の感覚なら東芝は新日本監査法人に何かしらクレーム入れてきちっとチェックしきれなかったんだから約10億円(報道によって9億8000万円~11億円と別れている)もの監査報酬の一部返還を求めるのが筋であるような気がしますが、そういうことは一切行わないどころかむしろ同法人をかばうかのように「巧妙な隠蔽」などといった言葉の発言を繰り返しました。
おまけに事件を調査した第三者委員会の報告では全くと言っていいほど同監査法人への批判はなされず、控え目に言っても東芝側の意向が強く働いた委員会だったのではないかと思わざるを得ない内容でした。これは何も私がおかしな感覚で物を言っているわけではなく、この委員会の法告訴を見た弁護士らも、「ふざけてんじゃねぇよてめぇ……(#・∀・)」とばかりに第三者委員会を強く批判しています。まぁ一般の感覚したらこう思うのが普通でしょうが。
・「東芝のためだけに作成」 格付け委、第三者委報告書を低評価(SankeiBiz)
何故東芝はこれほどまでして新日本監査法人を庇うのか。結論を言えば今回の不正経理は両法人が結託して生まれたコラボレーションであって、初めから新日本監査法人は知ってて不正を見逃そうとしていたからとしか思えません。しかも最初に不正が発覚してからもなおばれていない他の不正は隠そうとしていたようで、東芝子会社の米ウェスチングハウスの巨額損失を報告せず見逃しており、ここまでズブズブの関係でよく監査法人を名乗れるなと見ていて呆れるし同法人に対して一切捜査、処分を行わない経産省にも呆れてきます。
逆に、今回ウェスチングハウスの巨額損失の事実を暴いた日経BPの記者は実に見事な仕事を果たしたと思えます。経済部門においてであれば間違いなく今年最大のスクープと言っていいほどの功績でしょう。
話をまとめますがこれらの事実から何が言えるのか。東芝はまだ隠し玉というか報告していないマイナス材料を持っている可能性があるということと、新日本監査法人はほかのクライアントの企業に対しても同様の不正見逃しを行っている可能性があるということです。っていうかそう思わない方がおかしいと思える事件内容ですし。
おっかなびっくりきわどい予想をまたここで書くと、二年か三年後には同法人のクライアントの中から今回と同様の粉飾事件がまた出るんじゃないかというのが私の見方です。マスコミもこれくらい書いたっていいと思うのですが、それくらい同法人の今回の失態は目に余るものがあり投資家は今後の投資に当たっては頭に入れておいた方がいいような気がします。
ついでにと思って書き始めた内容の方が本題になっちゃいました。当初は本気で労基の事だけ触れようと思ってたのですが……(ヽ´ω`)
毎年続けてきた甲斐もあってか段々知名度も高くなってきたこのブラック企業大賞ですが、今年の栄えある大賞にはセブンイレブンが見事入賞されたそうです。私自身はセブンイレブンにそんな思い入れもなく、どっちかっていうと特別賞に入ったアリさんマークの引越社が今年は来るんじゃないかと思ってただけにちょっと意外に感じると共に、そもそも真に糾弾されるべきなのはこうしたブラック企業を放置しながら何も働こうとしない労働基準監督署じゃないのかと思った次第です。そもそも労基は企業じゃないかとツッコまれそうですが、ブラック企業を生み出している真の黒幕って考えならアリじゃないかと個人的に考えています。アリさんマークなだけに(*´∀`)
ついでに書くと、労働者的には別にブラックではないですが今年一番黒かった会社となると私の中では不正経理がばれた東芝と、その監査法人である新日本監査法人が挙がってきます。正しく公開すべきIR情報を意図的に粉飾して投資家をだました両法人ですが、米国であれば責任者は確実に懲役となっていたでしょうが経済犯罪には甘い日本だったため証券市場での上場廃止すら免れています。あとこの事件の内幕は大手マスコミが東芝に対して確実に及び腰となっているためあまり議論されませんが、東芝と新日本監査法人の関係を追っていくといろいろと見えてくるものがあるだけに根は案外深いように感じます。
前提から整理すると、新日本監査法人は東芝という会社から依頼されて一部の部署や役員が実態とは異なる不正な経理を報告していないかをチェックするという仕事を担当したわけです。しかし彼らのチェックが甘く杜撰だったために不正な経理報告書が市場に出てしまったわけですが、東芝は何故か新日本監査法人に対して、
「お前らのチェックがいい加減だったせいでえらい目にあったぞ(# ゚Д゚)カス!!」
などと怒ったりクレームを言うこともなく、改めて仕切り直しとなった財務監査を再び新日本監査法人に依頼しており、恐らく来年以降の監査もここに依頼することでしょう。急いで正しい報告書をまとめるために同じ監査法人を使わざるを得ないという理由はまだ理解できないまでも、普通の感覚なら東芝は新日本監査法人に何かしらクレーム入れてきちっとチェックしきれなかったんだから約10億円(報道によって9億8000万円~11億円と別れている)もの監査報酬の一部返還を求めるのが筋であるような気がしますが、そういうことは一切行わないどころかむしろ同法人をかばうかのように「巧妙な隠蔽」などといった言葉の発言を繰り返しました。
おまけに事件を調査した第三者委員会の報告では全くと言っていいほど同監査法人への批判はなされず、控え目に言っても東芝側の意向が強く働いた委員会だったのではないかと思わざるを得ない内容でした。これは何も私がおかしな感覚で物を言っているわけではなく、この委員会の法告訴を見た弁護士らも、「ふざけてんじゃねぇよてめぇ……(#・∀・)」とばかりに第三者委員会を強く批判しています。まぁ一般の感覚したらこう思うのが普通でしょうが。
・「東芝のためだけに作成」 格付け委、第三者委報告書を低評価(SankeiBiz)
何故東芝はこれほどまでして新日本監査法人を庇うのか。結論を言えば今回の不正経理は両法人が結託して生まれたコラボレーションであって、初めから新日本監査法人は知ってて不正を見逃そうとしていたからとしか思えません。しかも最初に不正が発覚してからもなおばれていない他の不正は隠そうとしていたようで、東芝子会社の米ウェスチングハウスの巨額損失を報告せず見逃しており、ここまでズブズブの関係でよく監査法人を名乗れるなと見ていて呆れるし同法人に対して一切捜査、処分を行わない経産省にも呆れてきます。
逆に、今回ウェスチングハウスの巨額損失の事実を暴いた日経BPの記者は実に見事な仕事を果たしたと思えます。経済部門においてであれば間違いなく今年最大のスクープと言っていいほどの功績でしょう。
話をまとめますがこれらの事実から何が言えるのか。東芝はまだ隠し玉というか報告していないマイナス材料を持っている可能性があるということと、新日本監査法人はほかのクライアントの企業に対しても同様の不正見逃しを行っている可能性があるということです。っていうかそう思わない方がおかしいと思える事件内容ですし。
おっかなびっくりきわどい予想をまたここで書くと、二年か三年後には同法人のクライアントの中から今回と同様の粉飾事件がまた出るんじゃないかというのが私の見方です。マスコミもこれくらい書いたっていいと思うのですが、それくらい同法人の今回の失態は目に余るものがあり投資家は今後の投資に当たっては頭に入れておいた方がいいような気がします。
ついでにと思って書き始めた内容の方が本題になっちゃいました。当初は本気で労基の事だけ触れようと思ってたのですが……(ヽ´ω`)
危機を切り抜けた名パイロットたち その二
昨日に引き続きまた航空事故もののネタです。微妙に反応ないからどう思われながら読まれているのか気になりますが、昼飯に牛丼食べたしあまり考えないようにしましょう。
4、USエアウェイズ1549便不時着水事故(2009年)
事故内容:ハドソン川の奇跡 乗客乗員数:155人
この事故は有名なので知っている人も多いかと思います。
ニューヨークを飛び立ちシャーロットへ向かった同便は離陸直後に空を飛んでいた鳥がエンジンに吸い込まれ(バードストライク)、一瞬で左右両方のエンジンが停止するという事態に陥りました。突然の事態に機長は元の空港へ戻ろうと即決断しますが何分離陸直後の事ゆえ、戻ろうにも高度も速度も足りない状態でした。そこで機長はどのような行動を取ったのかというと、なんと陸上ではなく近くを流れるハドソン川に緊急着陸をしようと決断し、管制などへ状況や目的を伝えてすぐその着陸を実行しました。
軽く書いていますが水上に、しかもエンジン噴射の調整なしで飛び込むなんて普通なら有り得ない行為ですし、成功させるには超高難度な技です。しかし機長はこの着陸を見事に成功させ、着陸時の衝撃で乗客数人が怪我を負ったものの結果的には誰ひとり死ぬことなく生還を果たしました。しかも着陸時、マイナス数℃という川の水が機内に浸水する中、機長は何度も機内を見て残っている人間がいないか確認するという冷静な周到さを見せています。
5、タカ航空110便緊急着陸事故(1988年)
事故内容:フレームアウトによるエンジン完全停止 乗客乗員数:45人
中央アメリカのベリーズという国から米国のニュー尾綸子へ向けて飛び立ち順調に飛行していた同便は途中、雨雲の中へ入った際にエンジンが雨水や雹を吸いこんだことによってフレームアウトと呼ばれるエンジン停止状態に陥ることとなりました。このフレームアウトは今日ではほとんど発生しないよう対策が施されていますが当時はまだそうでもなかったようで、同便も警戒こそしていたもののこの突然の発生によってすべてのエンジンが完全に停止するという事態に見舞われました。
機長はエンジンの再始動を何度も試みるも上手くいかなかったため、到達できる範囲内にあったNASA組立工場敷地内の草地へと飛行し、なんとそのまま滑走路のない草地へ向けて不時着を敢行してしまいました。でもって、無事に着陸してのけた上に火災も発生させず、乗客乗員を誰一人危険にさらすことなくミッションを達成してのけてしまい、地味にすごい腕を持ったパイロットだったと思える事故例です。
6、アロハ航空243便事故(1988年)
事故内容:金属疲労による機体外壁損傷 乗客乗員数:94人(1人死亡)
ハワイ島内の空港を結ぶ定期便を飛んでいた同機はその日もいつも通りに離陸して安定飛行へと入ろうとしたその時、突然轟音と共に前方部の機体外壁がめくれ上がり、引きはがしたかのように大きな穴が開きました。乗客はシートベルトを締めていたため吸い込まれることはなかったものの、たまたま穴周辺に立っていた乗務員一人が一瞬で空へと放り出され、そのまま行方不明となる事態となりました。
原因は高温多湿という厳しい環境下での金属疲労で、ハワイの海上を飛び続けたこの機体には目にははっきりと見えなかったもののダメージが蓄積されており、金属内部で亀裂が走りまわり、それがこの時の飛行で限界に達して機体が破れ、またそのまま与圧洩れに伴う強力な衝撃が続けて襲ったことによって一挙に剥がれたのだと考えられています。
先ほど述べた通りに乗客は座席でシートベルトを締めていたため飛ばされなかったとは書きましたが、開いた穴からは気流によって生まれる豪風が吹きすさび、いつ吹き飛んでもおかしくない状況だったそうです。また吸い込まれなかった一部の乗務員はたまたま体が機内設備に引っかかり命をつなぎとめましたが、飛行中ずっと強烈な風を受け続け重傷を負いました。
機体も穴が空いた影響でバランスを崩したもののすぐに墜落するほどの物でなかったため、姿勢を復元すると機長はすぐに最寄りの空港へと運び、そのまま無事に着陸を成功させました。
この事故は現地のテレビ番組で再現ドラマが作られ、日本でも放送されたことがあります。たまたまですが私が子供だった頃にその番組を見ており、機内から雲が見える状態のまま飛び続け、乗客は物凄い風を受け続け息も絶え絶え、機長もすぐ後ろでぽっかりと大きな穴が飛ぶ中で必死で操縦し続けるという壮絶な状況を再現しており、見終わった後はしばらく飛行機がトラウマになりました。今は全然平気だけど。
4、USエアウェイズ1549便不時着水事故(2009年)
事故内容:ハドソン川の奇跡 乗客乗員数:155人
この事故は有名なので知っている人も多いかと思います。
ニューヨークを飛び立ちシャーロットへ向かった同便は離陸直後に空を飛んでいた鳥がエンジンに吸い込まれ(バードストライク)、一瞬で左右両方のエンジンが停止するという事態に陥りました。突然の事態に機長は元の空港へ戻ろうと即決断しますが何分離陸直後の事ゆえ、戻ろうにも高度も速度も足りない状態でした。そこで機長はどのような行動を取ったのかというと、なんと陸上ではなく近くを流れるハドソン川に緊急着陸をしようと決断し、管制などへ状況や目的を伝えてすぐその着陸を実行しました。
軽く書いていますが水上に、しかもエンジン噴射の調整なしで飛び込むなんて普通なら有り得ない行為ですし、成功させるには超高難度な技です。しかし機長はこの着陸を見事に成功させ、着陸時の衝撃で乗客数人が怪我を負ったものの結果的には誰ひとり死ぬことなく生還を果たしました。しかも着陸時、マイナス数℃という川の水が機内に浸水する中、機長は何度も機内を見て残っている人間がいないか確認するという冷静な周到さを見せています。
5、タカ航空110便緊急着陸事故(1988年)
事故内容:フレームアウトによるエンジン完全停止 乗客乗員数:45人
中央アメリカのベリーズという国から米国のニュー尾綸子へ向けて飛び立ち順調に飛行していた同便は途中、雨雲の中へ入った際にエンジンが雨水や雹を吸いこんだことによってフレームアウトと呼ばれるエンジン停止状態に陥ることとなりました。このフレームアウトは今日ではほとんど発生しないよう対策が施されていますが当時はまだそうでもなかったようで、同便も警戒こそしていたもののこの突然の発生によってすべてのエンジンが完全に停止するという事態に見舞われました。
機長はエンジンの再始動を何度も試みるも上手くいかなかったため、到達できる範囲内にあったNASA組立工場敷地内の草地へと飛行し、なんとそのまま滑走路のない草地へ向けて不時着を敢行してしまいました。でもって、無事に着陸してのけた上に火災も発生させず、乗客乗員を誰一人危険にさらすことなくミッションを達成してのけてしまい、地味にすごい腕を持ったパイロットだったと思える事故例です。
6、アロハ航空243便事故(1988年)
事故内容:金属疲労による機体外壁損傷 乗客乗員数:94人(1人死亡)
事故機写真(Wikipediaから引用)
ハワイ島内の空港を結ぶ定期便を飛んでいた同機はその日もいつも通りに離陸して安定飛行へと入ろうとしたその時、突然轟音と共に前方部の機体外壁がめくれ上がり、引きはがしたかのように大きな穴が開きました。乗客はシートベルトを締めていたため吸い込まれることはなかったものの、たまたま穴周辺に立っていた乗務員一人が一瞬で空へと放り出され、そのまま行方不明となる事態となりました。
原因は高温多湿という厳しい環境下での金属疲労で、ハワイの海上を飛び続けたこの機体には目にははっきりと見えなかったもののダメージが蓄積されており、金属内部で亀裂が走りまわり、それがこの時の飛行で限界に達して機体が破れ、またそのまま与圧洩れに伴う強力な衝撃が続けて襲ったことによって一挙に剥がれたのだと考えられています。
先ほど述べた通りに乗客は座席でシートベルトを締めていたため飛ばされなかったとは書きましたが、開いた穴からは気流によって生まれる豪風が吹きすさび、いつ吹き飛んでもおかしくない状況だったそうです。また吸い込まれなかった一部の乗務員はたまたま体が機内設備に引っかかり命をつなぎとめましたが、飛行中ずっと強烈な風を受け続け重傷を負いました。
機体も穴が空いた影響でバランスを崩したもののすぐに墜落するほどの物でなかったため、姿勢を復元すると機長はすぐに最寄りの空港へと運び、そのまま無事に着陸を成功させました。
この事故は現地のテレビ番組で再現ドラマが作られ、日本でも放送されたことがあります。たまたまですが私が子供だった頃にその番組を見ており、機内から雲が見える状態のまま飛び続け、乗客は物凄い風を受け続け息も絶え絶え、機長もすぐ後ろでぽっかりと大きな穴が飛ぶ中で必死で操縦し続けるという壮絶な状況を再現しており、見終わった後はしばらく飛行機がトラウマになりました。今は全然平気だけど。
2015年11月28日土曜日
危機を切り抜けた名パイロットたち その一
先日、ネットのまとめ掲示板にて過去に起きた様々な航空事故を取り上げた記事があり、興味深く読む機会がありました。日本で航空事故というと御巣鷹山墜落事故がよく取り上げられますが世界中にはこれに負けず劣らず十分注目に値する大きな事故例がたくさんあり、それらの事故例から何を学び次への教訓へと生かすかというのがこの業界においてどれだけ大事なのかと読んでてつくづく学ばせられる記事でした。
その記事に影響されたこともあり読後に自分でも調べ始めたのですが、航空事故というのはどれもほんの些細な不具合、ミス、整備不良から大きなトラブルへと発展し、乗り合わせたパイロットたちはそれらの原因を突き止める手段すらないまま事故機の操縦を迫られるケースが多いです。状況的には圧倒的逆境ともいえ、後に判明した事故原因を見るだに事故死した乗客、並びにパイロットたちにはその不憫さをつくづく思い知らされます。
しかしそうした圧倒的逆境下において、パイロットの見事な判断や操縦によって奇跡的に死傷者の発生を食い止めた事例も少なからず存在します。折角調べたこともあるので、ちょっとしばらくはこうした危機を切り抜けた名パイロットたちが登場する航空事故例を紹介していこうと思います。
1、リーブ・アリューシャン航空8便緊急着陸事故(1983年)
事故内容:プロペラのぶっ飛び 乗客乗員数:15人
アラスカ州とワシントン州の定期路線を結ぶ同便はその日もいつものように離陸していつものように空路を飛んでいましたが、離陸から間もなくどこから異音が聞こえたため機長は機関士に客室の窓からエンジンの様子を確かめるよう指示しました。機関士と客室乗務員がエンジンを見ようとしたまさにその時、第四エンジンのプロペラが吹っ飛び、あろうことかそのまま飛行機本体に直撃して客室通路に50cmもの穴が空くという事態に陥りました。機内に穴が空いたことによって機内では空気が洩れると共にあっという間に霧が立ち込め、また機体も受けたダメージによって操作系統に障害が起こり、機体が右に傾きだすも操縦桿が反応せず姿勢すら維持できない状態に陥りました。
この際、機長は咄嗟に自動操縦へと切り替えたことによって姿勢はなんとか復元し、エンジン制御すらままならない中で管制と連絡を取り合って近くの空港へと飛行し、着陸アプローチまでどうにか持っていきました。着陸に入る際、それまで反応しなかった操縦桿が奇跡的に復元し、一度目は降下角度が作れず断念したものの、二度目の着陸は非常ブレーキなどを活用して見事に着地してのけ乗員乗客全員が無事に生還することとなりました。
事故原因はわからずじまいだったものの最後に操縦桿が復元した理由については判明しており、プロペラ直撃によってひしゃげたフレームが操縦桿とつながるケーブルを挟み込んだため反応しなくなったものの、飛行中にパイロットらが押したり引いたりしているうちにケーブルが隙間に動いたことによって復元したとのことです。
2、アメリカン航空96便貨物ドア破損事故(1972年)
事故内容:貨物ドアぶっ飛び 乗客乗員数:67人
デトロイトからバッファローへ向かって飛び立った同便も離陸からしばらくはいつも通り特に問題なく飛行していたものの、突然機体後方で大きな音が鳴ったかと思うや着座していたパイロットたちも大きな衝撃を感じるほど機体は大きく揺れました。客室では後方に設けられた床が陥没して穴が空き、数人の客室乗務員がその穴に落ちたものの救出されましたが、この際に通常なら見えるはずのない夕焼けの光を目撃しています。
原因は貨物ドアが空中で吹っ飛んだことにありました。この機体の貨物ドアには欠陥があり完全にロックされていないにもかかわらずロックされたように見えてしまう要因があり、半ドア状態のまま離陸してしまっため空中での衝撃に耐えられなくなり吹っ飛んだわけでした。なおメーカーのマグドネル・ダグラスは事故後もこの欠陥に対する対策を怠り、二年後にロッキード事件で購入がキャンセルされた機体でトルコ航空DC-10パリ墜落事故を起こしております。
話は戻しますが事故発生によって機体は右に大きく傾き、また操作系統にも異常が発生して方向、エンジン制御もままならない状態となりました。このような状況下で機長は補助翼とエンジン推力を駆使して機体を維持し、出発したデトロイト空港へと戻ると滑走路から少しはみ出したものの無事着陸にも成功して乗員乗客全員が無事に生還を果たしました。
3、ブリティッシュ・エアウェイズ5390便不時着事故(1990年)
事故内容:窓ガラスぶっ飛び、機長頭出し 乗客乗員数:81人
イギリスからスペインへ向かうため飛び立った同便ですが離陸から十数分後、飛行も安定してきてやれ一安心と思ったその瞬間、突然の爆発音とともにコックピットの窓ガラスが吹き飛びました。高空での空気が機内へ一気に入り込み一瞬で深い霧が発生するとともにコックピットでは激しい風が吹き込みだすのですが、なんとこの際にティム・ランカスター機長が空いた穴に吸い込まれ機体の外へと引っ張り出されてしまいました。
幸いというかなんというか膝が操縦桿に引っかかって上半身が飛び出たところで踏ん張ったものの、機体の外はマイナス何十度もの低温かつ機体の飛行に伴う凄まじい風圧が襲う上、呼吸すらままならないほど薄い空気という最悪の条件でした。このコックピットの異変に対し客室乗務員のナイジェル・オクデンは咄嗟にランカスター機長のベルトを掴んで彼の全身が吸い出されないよう抑え、その間に副機長が操縦を自動操縦に切り替え姿勢を復元し、風によって管制との通信がほとんど聞き取れない中で緊急着陸先のサウサンプトン空港へと目指しました。
機体は不安定ながらもなんとか操縦はできたものの、窓の外へと吸い出されたランカスター機長を引っ張り込むことはできずにいました。しかも吸い出す力が強い上に凍傷になるほど極寒の風が吹きすさぶため機長を掴んでいたオクデンの負担も大きく、途中でとうとうその手を放してしまいました。そのまま全身が吸い出されるかと思われたランカスター機長でしたが窓を挟み込むように体をくの字に曲げたことによって何とか持ちこたえ、その間に別の客室乗務員二人が再びその体を抑えつけました。もちろんこの間も機長の上半身はずっと外に出たままで、しかも気流を受けて窓ガラスにバンバンと音を鳴らしながら何度も頭を打ち就けづ受け、生きてるのか死んでるのかもよくわからない状態だったそうです。
このような壮絶な状況下にも拘らず副機長は空港へと機体を持っていき、事故発生から約20分後にサウサンプトン空港滑走路へ無事に着陸を果たしました。着陸完了後、乗客らが空港へ降ろされる中でランカスター機長もレスキュー隊に救出され、凍傷や複数個所の骨折をしていたもの命はあり、彼も奇跡的な生還を果たしました。
事故の原因はコックピット内の窓ガラスを締めるボルトにあり、事故直前に交換された窓ガラスに対して規格とは異なるボルトが多数使われていたことで強度不足となり、吹っ飛んだそうです。しかも整備の際にこのボルト種類などがきちんと確認されておらず、不適切な状態のまま飛んだことによって大きな事故となりました。
この事故で何がすごいかって、言うまでもないですがランカスター機長でしょう。物凄い高空をこれまた物凄い速度で飛ぶ飛行機の上で上半身を晒したまま約20分間飛び続けて生還するなんて、なんかのギネスレコードになるんじゃないかとすら思える水準です。しかも更にすごいのがこの機長、この事故から半年も経たないうちに職場復帰し、そのまま定年まで空を飛び続けたって言う点です。ダイハードもびっくりなタフネスぶりですが、その辺の過程は以下の記事にも書かれているので興味ある方は是非一読ください。
・コックピットの窓が吹き飛び、機長の半身は機体の外に...でも、全員生還!(ギズモード・ジャパン)
その記事に影響されたこともあり読後に自分でも調べ始めたのですが、航空事故というのはどれもほんの些細な不具合、ミス、整備不良から大きなトラブルへと発展し、乗り合わせたパイロットたちはそれらの原因を突き止める手段すらないまま事故機の操縦を迫られるケースが多いです。状況的には圧倒的逆境ともいえ、後に判明した事故原因を見るだに事故死した乗客、並びにパイロットたちにはその不憫さをつくづく思い知らされます。
しかしそうした圧倒的逆境下において、パイロットの見事な判断や操縦によって奇跡的に死傷者の発生を食い止めた事例も少なからず存在します。折角調べたこともあるので、ちょっとしばらくはこうした危機を切り抜けた名パイロットたちが登場する航空事故例を紹介していこうと思います。
1、リーブ・アリューシャン航空8便緊急着陸事故(1983年)
事故内容:プロペラのぶっ飛び 乗客乗員数:15人
アラスカ州とワシントン州の定期路線を結ぶ同便はその日もいつものように離陸していつものように空路を飛んでいましたが、離陸から間もなくどこから異音が聞こえたため機長は機関士に客室の窓からエンジンの様子を確かめるよう指示しました。機関士と客室乗務員がエンジンを見ようとしたまさにその時、第四エンジンのプロペラが吹っ飛び、あろうことかそのまま飛行機本体に直撃して客室通路に50cmもの穴が空くという事態に陥りました。機内に穴が空いたことによって機内では空気が洩れると共にあっという間に霧が立ち込め、また機体も受けたダメージによって操作系統に障害が起こり、機体が右に傾きだすも操縦桿が反応せず姿勢すら維持できない状態に陥りました。
この際、機長は咄嗟に自動操縦へと切り替えたことによって姿勢はなんとか復元し、エンジン制御すらままならない中で管制と連絡を取り合って近くの空港へと飛行し、着陸アプローチまでどうにか持っていきました。着陸に入る際、それまで反応しなかった操縦桿が奇跡的に復元し、一度目は降下角度が作れず断念したものの、二度目の着陸は非常ブレーキなどを活用して見事に着地してのけ乗員乗客全員が無事に生還することとなりました。
事故原因はわからずじまいだったものの最後に操縦桿が復元した理由については判明しており、プロペラ直撃によってひしゃげたフレームが操縦桿とつながるケーブルを挟み込んだため反応しなくなったものの、飛行中にパイロットらが押したり引いたりしているうちにケーブルが隙間に動いたことによって復元したとのことです。
2、アメリカン航空96便貨物ドア破損事故(1972年)
事故内容:貨物ドアぶっ飛び 乗客乗員数:67人
デトロイトからバッファローへ向かって飛び立った同便も離陸からしばらくはいつも通り特に問題なく飛行していたものの、突然機体後方で大きな音が鳴ったかと思うや着座していたパイロットたちも大きな衝撃を感じるほど機体は大きく揺れました。客室では後方に設けられた床が陥没して穴が空き、数人の客室乗務員がその穴に落ちたものの救出されましたが、この際に通常なら見えるはずのない夕焼けの光を目撃しています。
原因は貨物ドアが空中で吹っ飛んだことにありました。この機体の貨物ドアには欠陥があり完全にロックされていないにもかかわらずロックされたように見えてしまう要因があり、半ドア状態のまま離陸してしまっため空中での衝撃に耐えられなくなり吹っ飛んだわけでした。なおメーカーのマグドネル・ダグラスは事故後もこの欠陥に対する対策を怠り、二年後にロッキード事件で購入がキャンセルされた機体でトルコ航空DC-10パリ墜落事故を起こしております。
話は戻しますが事故発生によって機体は右に大きく傾き、また操作系統にも異常が発生して方向、エンジン制御もままならない状態となりました。このような状況下で機長は補助翼とエンジン推力を駆使して機体を維持し、出発したデトロイト空港へと戻ると滑走路から少しはみ出したものの無事着陸にも成功して乗員乗客全員が無事に生還を果たしました。
3、ブリティッシュ・エアウェイズ5390便不時着事故(1990年)
事故内容:窓ガラスぶっ飛び、機長頭出し 乗客乗員数:81人
イギリスからスペインへ向かうため飛び立った同便ですが離陸から十数分後、飛行も安定してきてやれ一安心と思ったその瞬間、突然の爆発音とともにコックピットの窓ガラスが吹き飛びました。高空での空気が機内へ一気に入り込み一瞬で深い霧が発生するとともにコックピットでは激しい風が吹き込みだすのですが、なんとこの際にティム・ランカスター機長が空いた穴に吸い込まれ機体の外へと引っ張り出されてしまいました。
幸いというかなんというか膝が操縦桿に引っかかって上半身が飛び出たところで踏ん張ったものの、機体の外はマイナス何十度もの低温かつ機体の飛行に伴う凄まじい風圧が襲う上、呼吸すらままならないほど薄い空気という最悪の条件でした。このコックピットの異変に対し客室乗務員のナイジェル・オクデンは咄嗟にランカスター機長のベルトを掴んで彼の全身が吸い出されないよう抑え、その間に副機長が操縦を自動操縦に切り替え姿勢を復元し、風によって管制との通信がほとんど聞き取れない中で緊急着陸先のサウサンプトン空港へと目指しました。
機体は不安定ながらもなんとか操縦はできたものの、窓の外へと吸い出されたランカスター機長を引っ張り込むことはできずにいました。しかも吸い出す力が強い上に凍傷になるほど極寒の風が吹きすさぶため機長を掴んでいたオクデンの負担も大きく、途中でとうとうその手を放してしまいました。そのまま全身が吸い出されるかと思われたランカスター機長でしたが窓を挟み込むように体をくの字に曲げたことによって何とか持ちこたえ、その間に別の客室乗務員二人が再びその体を抑えつけました。もちろんこの間も機長の上半身はずっと外に出たままで、しかも気流を受けて窓ガラスにバンバンと音を鳴らしながら何度も頭を打ち就けづ受け、生きてるのか死んでるのかもよくわからない状態だったそうです。
このような壮絶な状況下にも拘らず副機長は空港へと機体を持っていき、事故発生から約20分後にサウサンプトン空港滑走路へ無事に着陸を果たしました。着陸完了後、乗客らが空港へ降ろされる中でランカスター機長もレスキュー隊に救出され、凍傷や複数個所の骨折をしていたもの命はあり、彼も奇跡的な生還を果たしました。
事故の原因はコックピット内の窓ガラスを締めるボルトにあり、事故直前に交換された窓ガラスに対して規格とは異なるボルトが多数使われていたことで強度不足となり、吹っ飛んだそうです。しかも整備の際にこのボルト種類などがきちんと確認されておらず、不適切な状態のまま飛んだことによって大きな事故となりました。
この事故で何がすごいかって、言うまでもないですがランカスター機長でしょう。物凄い高空をこれまた物凄い速度で飛ぶ飛行機の上で上半身を晒したまま約20分間飛び続けて生還するなんて、なんかのギネスレコードになるんじゃないかとすら思える水準です。しかも更にすごいのがこの機長、この事故から半年も経たないうちに職場復帰し、そのまま定年まで空を飛び続けたって言う点です。ダイハードもびっくりなタフネスぶりですが、その辺の過程は以下の記事にも書かれているので興味ある方は是非一読ください。
・コックピットの窓が吹き飛び、機長の半身は機体の外に...でも、全員生還!(ギズモード・ジャパン)
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