・中学生の「過労死」、中国で問題化 宿題大量、睡眠削り「寝たい…」(with news)
今日たまたま見かけたニュースですが、見出しを見て「なにこれ?」と目を疑いました。詳細はリンク先に書いていますがなんでも、中国人の中学生がある日教室の中で過労死によって亡くなったそうです。これだけ書くとまるで意味が分からないからすっごいニュースでしょう。
何故その中学生は過労死したのか。ってか働いてないだろうというツッコミを抑えつつ記事を読むとその子は深夜遅くまで宿題をし続けており、恐らく勉強のし過ぎによる負担が限界を超えて心不全かなんかを起こしたようらしいです。勉強のし過ぎで死ぬなんてと思いたくなりますが、この事件が起こった背景に中国で過剰ともいえる受験競争があるということも記事中では丁寧に解説されています。
以前に私もこのブログで取り上げたこともありますが、近年の中国における小中高生の勉強ぶりは熱心過ぎるというかもはや過剰な領域にあり、日本人である私だけでなく既に成人した中国人などからも「最近の子供は可哀相だ」などという声がよく聞かれます。学校内では夕方5時や6時くらいまでびっしり授業があり、その後ピアノなどおけいこ事をこなした後は自宅で大量の宿題に忙殺されるというハードスケジュールは当たり前で、記事中にも書かれている通りあまりにも宿題が多いから親が子供の代わりに半分こなすなんて言うのも当たり前です。
何故が続きますが何故これほど勉強を無理強いするのかというと、近年の中国では大学受験競争があまりの過剰になりすぎており、中学や高校でいい成績や内申が採れないと進学すらままならず、また景気はそこまで悪くはないものの一程度の収入を得るには名門校とされる大学を卒業する必要があり、そこへ受かるためには文字通り血反吐を吐くような勉強が必要とされます。
こうした中国の受験戦争は既に主要な社会問題として認知されておりますが、ただでさえじんこうが多いってんのに競争がさらなる競争を呼ぶ悪循環が続いており、私の実感でも十年前と比べると今の方がさらに激しい競争になっているような印象があります。友人にこの話題を振ってみたところ、「昔から科挙がある国なだけに受験戦争は珍しいわけでなく、勉強漬けを悪いと思っていないところがあるんじゃないか」となるほどと感じるコメントをくれました。
それほどまでに激しい勉強を続ける中国の子供たちなだけに以前に実施された国際学力テストでは確か上海の子供が平均で世界一位を記録するなど、さすがという実績を残しています。しかしそういった教育を受けてきた中国の若い世代に何人か話を聞いたりしましたが、彼ら皆口を揃えたかのように「詰め込み教育で発展がない」、「英語とか実践では使えない試験のための受験英語だった」などと、実が伴っているかというやや疑問な所があります。特に想像力を鍛えるような分野に至っては誰もが「改善が必要」と述べており、なんとなくですが日本の昔の詰め込み教育時代を思い出し、今の中国こそゆとり教育が必要なのではと思うところがあります。
あと最後にちょっと話題が発展した内容を盛り込みますと、中国は日本との国交回復直後に日本へ留学生を送ってきましたが、彼らは半年間だけ日本語を勉強した後で東大に留学生として入学しました。何が言いたいのかというと中国というのは先ほど述べた通りに人口が多いだけあって突出したエリートというのはやはりいるのです。彼らは教えれば教えるほど吸収してしまってそれを物にしてしまうのですが、今の中国の教育はそういったエリート向けの教育をエリートではない一般レベルに課してしまっているから問題なのではと思えてなりません。
人気漫画の「暗殺教室」にも似たようなセリフが出てきますが、エリートには耐えられる内容でも普通の人には耐えられない教育というものは存在しており、それらを切り分ける棲み分けなり選抜なりがうまく機能していないがゆえに今の中国の教育システムはやや大きな問題を抱えているのでは、というのが個人的な分析です。
余談
私は自分のことを「特殊な分野の才能を持った凡人」レベルと自己評価してます。無駄に体力あったりこうした文章書くのにストレス感じないといったところが主な理由で、「エリート」ではないとはっきりと認識してます。
というのも過去に何人かそういうほんまもんの「エリート」を見ており、個人的にそういう自分が認識できる上限を大きく引き上げてくれた友人に早くに出会えたことは幸運だったと思います。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2015年12月16日水曜日
2015年12月15日火曜日
虚像が独り歩く歴史人物
昨日の記事で歴史証言者はよく事実とは異なる嘘の証言を突く傾向があるということを紹介しましたが、実際にそのような形で誤った証言が出されたため実態とは異なる虚像が独り歩くようになった歴史人物というのは数多おります。近年はこの方面への研究が進んできてこうした実態とは異なる虚像を正そうとする動きが盛んで以前とは評価が逆転する人物も多く、私も過去に取り上げたように「信長は当時の感覚からすると言われている程残虐ではない」とか、「石田三成はそこまで戦下手ではなかったのでは?」なんていう声も聞こえてくるようになりました。
そんな中、未だに虚像が独り歩きしている人物も少なくありません。私がそう思う人物の筆頭だと思うのはほかならぬ勝海舟で、彼に至ってはほかの人が誤った証言をしたためというよりは自ら自分の業績を誇張する癖があったためで、しかもやたらおしゃべりでいろんな人間に語り聞かせたりしたもんだから収集つかないような状態となっております。
一番有名なのだと咸臨丸でアメリカに渡った際は堂々とした態度でアメリカ人との交渉に臨んだと自ら言ってますが、同乗してた福沢諭吉からすると、「ずっと船酔いでゲーゲー吐いてただけじゃねぇかよ」とツッコまれています。また坂本竜馬は当初は勝を暗殺するため訪れたが勝の話を聞いてその場で弟子入りを志願してきたとも勝自ら話してますが、さすがにそれは出来過ぎというか誇張が入っているのではないかと私にも思います。第一、坂本竜馬自体そんなに暗殺仕掛けてないし。
この勝と同じで自ら嘘をばらまいたというのがマッカーサーでしょう。この人は若い頃から自分を英雄願望強かったためやたら無駄にかっこいい言葉を用意していて「アイシャルリターン」とか「待たせたな、フィリピンの諸君」みたいなことをわざわざ記録させていますが、日本のGHQ統治の際も政治的思惑と共にいろんな嘘つきまくってたもんだから半藤一利氏をして、「こいつのいうことは真に受けてはならない」とまで言わしめています。
マッカーサーがついた嘘の中で最大級だと私が思うものを上げると、まだ確定ではないものの憲法九条の発案者です。私が子供だった頃までは戦争放棄を謳ったこの法案は日本政府側から発案されたと誰も疑っていませんでしたが、当時からつい先日までがちがちの軍国主義だった日本がこんな内容を発案できるのかと疑っていました。そしたら案の定というかこの九条発案は日本側からだと喧伝してたのはマッカーサーだったようで、恐らく日本が平和協調主義に傾こうとしていることをアピールするために言いだしたんだと思いますが実際にはGHQ内部で発案し、盛り込んだものだったと思われ、近年はこうした考えが段々強まってきております。
最後にもう一人上げると、これは先の二人とは違って確実に周囲の証言が独り歩きしてしまったと思える者として白洲次郎が挙がってきます。彼ほど近年になって急激にクローズアップされた人物はいないと思え、5、6年前にはやたら本が出版され「GHQ相手に一歩も引かなかったダンディな男」というイメージが付きましたが、堂々とした態度の人だったとは思うものの世間で言われているものはやや誇張され過ぎではと考えています。
特に一番有名なエピソードとしてあるマッカーサーとの絡みで、昭和天皇からのクリスマスプレゼントを持って行ったらそこに投げといてと言われて、「陛下からの贈り物に失礼なことをするな!」と言い返して無礼を認めさせたというものですが、さすがにこれはどう考えても事実ではないでしょう。Wikipediaにも書かれてますがマッカーサーとの面会者リストに白洲次郎の名前はなく、また届け物を一役人が直接マッカーサーに渡すなんて普通に考えて有り得ず、爆弾ではないかどうかなど必ずセキュリティが一旦受け取って中身をチェックしたであろうと考えるとこれはさすがに虚像じゃないかと思うわけです。
案外この手の虚像というのは「理性的に考えたら有り得ない」というのを発端にして調べていくと実態が明らかになることが多く、やや自画自賛ですが上記の憲法九条絡みの話は子供ながら疑問を持った過去の自分を褒めてやりたいです。なお歴史科目は子供の頃からやたらめったら強く、多分生涯で見ても100点満点中80点以下は一度も取ったことがないような気がします。
そんな中、未だに虚像が独り歩きしている人物も少なくありません。私がそう思う人物の筆頭だと思うのはほかならぬ勝海舟で、彼に至ってはほかの人が誤った証言をしたためというよりは自ら自分の業績を誇張する癖があったためで、しかもやたらおしゃべりでいろんな人間に語り聞かせたりしたもんだから収集つかないような状態となっております。
一番有名なのだと咸臨丸でアメリカに渡った際は堂々とした態度でアメリカ人との交渉に臨んだと自ら言ってますが、同乗してた福沢諭吉からすると、「ずっと船酔いでゲーゲー吐いてただけじゃねぇかよ」とツッコまれています。また坂本竜馬は当初は勝を暗殺するため訪れたが勝の話を聞いてその場で弟子入りを志願してきたとも勝自ら話してますが、さすがにそれは出来過ぎというか誇張が入っているのではないかと私にも思います。第一、坂本竜馬自体そんなに暗殺仕掛けてないし。
この勝と同じで自ら嘘をばらまいたというのがマッカーサーでしょう。この人は若い頃から自分を英雄願望強かったためやたら無駄にかっこいい言葉を用意していて「アイシャルリターン」とか「待たせたな、フィリピンの諸君」みたいなことをわざわざ記録させていますが、日本のGHQ統治の際も政治的思惑と共にいろんな嘘つきまくってたもんだから半藤一利氏をして、「こいつのいうことは真に受けてはならない」とまで言わしめています。
マッカーサーがついた嘘の中で最大級だと私が思うものを上げると、まだ確定ではないものの憲法九条の発案者です。私が子供だった頃までは戦争放棄を謳ったこの法案は日本政府側から発案されたと誰も疑っていませんでしたが、当時からつい先日までがちがちの軍国主義だった日本がこんな内容を発案できるのかと疑っていました。そしたら案の定というかこの九条発案は日本側からだと喧伝してたのはマッカーサーだったようで、恐らく日本が平和協調主義に傾こうとしていることをアピールするために言いだしたんだと思いますが実際にはGHQ内部で発案し、盛り込んだものだったと思われ、近年はこうした考えが段々強まってきております。
最後にもう一人上げると、これは先の二人とは違って確実に周囲の証言が独り歩きしてしまったと思える者として白洲次郎が挙がってきます。彼ほど近年になって急激にクローズアップされた人物はいないと思え、5、6年前にはやたら本が出版され「GHQ相手に一歩も引かなかったダンディな男」というイメージが付きましたが、堂々とした態度の人だったとは思うものの世間で言われているものはやや誇張され過ぎではと考えています。
特に一番有名なエピソードとしてあるマッカーサーとの絡みで、昭和天皇からのクリスマスプレゼントを持って行ったらそこに投げといてと言われて、「陛下からの贈り物に失礼なことをするな!」と言い返して無礼を認めさせたというものですが、さすがにこれはどう考えても事実ではないでしょう。Wikipediaにも書かれてますがマッカーサーとの面会者リストに白洲次郎の名前はなく、また届け物を一役人が直接マッカーサーに渡すなんて普通に考えて有り得ず、爆弾ではないかどうかなど必ずセキュリティが一旦受け取って中身をチェックしたであろうと考えるとこれはさすがに虚像じゃないかと思うわけです。
案外この手の虚像というのは「理性的に考えたら有り得ない」というのを発端にして調べていくと実態が明らかになることが多く、やや自画自賛ですが上記の憲法九条絡みの話は子供ながら疑問を持った過去の自分を褒めてやりたいです。なお歴史科目は子供の頃からやたらめったら強く、多分生涯で見ても100点満点中80点以下は一度も取ったことがないような気がします。
2015年12月14日月曜日
歴史証言者は嘘をつく
今日の晩はすき家に行って、上記のすき焼き鍋定食を食べて帰ってきました。量、味共に納得できるものでこれで38元(760円)はありがたいです。
それにしても湯気がえらい出るからパシッと撮ったけど、いまいち新しい携帯のカメラは前のサムスンのより悪いな。この新しいMEIZU(魅族)の携帯もまた今度取り上げます。
さて話は本題に入りますが、かねてからこのブログでも言っていますが私は歴史研究家である半藤一利氏のファンで、基本的に歴史観はこの人に準じています。もし自分と半藤氏の歴史観で異なる部分があれば半藤氏の見方の方が正しいと見て合わせようとするほどで、世にいろんな論客はいますが彼ほど落ち着いて、なおかつ公平な視点はほかに見当たりません。
その半藤氏の経験談として私が唸らせられた言葉に、「証言者はよく嘘をつく」という言葉があります。半藤氏は戦後間もなかった頃、文政春秋社に入社してすぐ第二次大戦時の日本側キーマンたちへの取材を行っており、巣鴨プリズンにも何度も入り浸っては軍人や官僚、皇居の侍従や職員などへの聞き取りを行っておりますが、その際に上記の言葉を身を以って知ることとなったそうです。
一体証言者らは何故嘘をつくのか。多くの理由は自らの失敗や責任を忌避するためで、また自分の功績を実態以上に大きく見せようという動機が大半ですが、中には親友や上司を庇い立てするため失敗の原因を他者に転嫁しようとしたりするものもあり、一人の証言者から聞いた内容は即真実としては扱えないとして必ず複数の証言を比較し、場合によっては異なる証言を言う者同士を集めて直接確かめ合わせるなどして戦中期における詳細な記録を半藤氏はまとめ上げております。
なお半藤氏の言によると陸軍関係者はお互いに、「あいつのせいだ」、「あいつが悪かった」などと聞いてもないのに悪口を言い出す人が多かったので全体像がすごく掴みやすかったそうです。一方海軍はというと、「サイレントネイビー」という言葉の通りに自分にも他人にも言い訳じみたことを全く言わず黙ってしまう人が多かったので聞き取りにおいて逆に苦労したと述べてます。
話は戻りますがこの半藤氏の言葉はまさに金言で、歴史を研究する人は必ず胸に入れとかなくてはならない言葉と言えるでしょう。歴史学というのは様々な資料を見比べながら何が真実かを確かめる学問ですが、数多ある証言の中から正解を一つだけ引き抜く推理力みたいなものも要求されるのだなとこの言葉を聞くだに思います。
ということを、大学で中国古代史を選考していた友人に話すと、「当たり前じゃないですか」とどや顔で言われた上、「だからこそ陳寿の書いた『三国志』は高く評価されてるんですよ」問ことを逆に教えてくれました。
歴史書の「三国志」は紀伝体という形式で書かれており、これは年表ごとに何があったかを書く編年体とは異なり、登場する人物ごとに歴史事実をまとめるという形式です。劉備なら劉備、曹操なら曹操で独立して完結する内容になっているのですが、子細に各人物伝を比較すると同じ事件に対して内容が異なって書かれている所もあったりします。たとえば「魏延伝」では蜀軍が追撃に成功したと書かれてあるのに「張飛伝」では追撃したものの逆襲されたと書かれるなどといったところです。
これは当時においてもその事件に関する証言や記録が複数あったということを示しており、いわば両論併記のようなものです。二つの伝にしか書かれてない場合は判別し辛いですが、さらに三人目、四人目の伝と見比べるとだんだん真実が見えてくることもあり、そうした比較が一冊の歴史書でできるという点で三国志は高く評価される歴史書だとの事です。
ちなみにもし自分が有名になって後年に知人などへ証言が求められたりすると、「あいつはいろいろとアレな人物だった……」、「悪い人ではないけどいい人では絶対ない」なんて正直に言われそうな気がするので、あんま有名にならない方がいいかもしれません。
2015年12月13日日曜日
南宋末期の襄陽・樊城の戦い
「樊城の戦い」とくれば三国志マニアにとってはお馴染みの名場面で、魏・呉・蜀がそれぞれの思惑で動き、最終的に関羽が敗死したことで三国間のパワーバランスも大きく変化するなど歴史上でも大きな影響を残した重要な戦いです。しかしこの地こと現在の湖北省襄陽市近郊ではその後の時代においても重要な戦いが起こっており、今日はその一つである南総末期に起こった襄陽・樊城の戦いについて紹介します。
・襄陽・樊城の戦い(Wikipedia)
この戦争が起きたのは13世紀の1268年で、この時代の中国は北半分をモンゴル民族が打ちたてた元が治め、南半分を漢民族の亡命政権である宋(区別するため「南宋」と呼ぶ)が治めるという一種の南北朝時代でありました。パワーバランス的には圧倒的に元の方が上でしたが複数の民族の連合政権的な特徴を持っていたことと、当時の中国北方地域は食料や製品などといった物資を南方地域に依存していて交易を続けていたため、南北朝に分かれた後でもなかなか統一実現に動くことはありませんでした。
しかし当時の皇帝であり日本への元寇でもお馴染みなフビライ・ハーンは長年の悲願でもある中華統一をめざし、南宋への遠征軍を仕立てると重要軍事拠点であった襄陽・樊城へと軍を進めました。この元の遠征軍に対し南宋側は、当時南宋国内でも随一の将軍であった呂文徳と、その弟である呂文煥に守備させることにさせ、長期間の籠城にも耐えられるよう膨大な物資を運びこんだ上で元軍を待ち構えました。
こうして準備万端整えていた南宋軍でしたが、フビライはかつてこの地の奪取に動いたものの失敗した遠征に同行しており、力攻めが非常に難しいことを理解しておりました。そこでフビライが採った戦法というのも南宋軍と同じく持久戦に持ち込むというもので、補給地をしっかり確保した上で樊城を丸ごと土塁で囲い込み包囲するというこれまたビッグスケールな作戦でした。
これに動揺というかびっくりしたのは南宋軍で、長距離からの遠征軍だからてっきり力攻めを仕掛けてくると思ったら逆に持久戦を採ってきたので肩すかしを覚えつつも、ただ黙ってみているのではなく包囲の隙を突いて何度か攻撃を仕掛けたりしましたが元軍はほとんど反撃せず守り続けるだけで、仕方なく城内へ引き返すだけという有様でした。
そして、五年間が過ぎましたとさ……。
世界史上ではウィーンやコンスタンティノープルなど数年間にも及ぶ包囲戦というのはままありますが、この時の樊城でも長期間の籠城戦が続きました。この間、1271年には兄貴の呂文徳が病死し、また外部から包囲を解こうとほかの地域から送られてきた南宋の援軍が何度か元軍に挑みましたが悉く返り討ちに遭い、この際十万もの援軍を率いた范文虎という将軍は大敗して後に元軍へ降伏しております。
そんな苦しい逆境にありながらも兄の遺志を継いだ弟の呂文煥は必死の抵抗を続けていましたが、本国へ何度も出す救援要請は以前から折り合いの悪かった宰相の賈似道にあまり相手にされなかった挙句、緊急であるという事実すら皇帝には隠されてしまって文字通り手も足も出ない状態が続きました。そこへきて元軍が新兵器の「回回砲」という原始的な木製大砲を用意して攻撃しはじめ、この兵器によって城壁がもろくも崩れ去っていくのを見て呂文煥もついに降伏を申し出て、足かけ五年にも及んだ籠城戦は1273年に幕を閉じます。
降伏した呂文煥は敵ながら見事な指導力と持久力を持つとフビライに評価されそのまま元軍の将軍に任命されます。そしてそのまま南宋の首都臨安(現在の浙江省杭州市)に至る途中で各都市を時には陥落させ、時には説得によって無血開城させ、大いに大功を立てたそうです。ただこの進軍中には降伏したと見せかけ、呂文煥を暗殺しようとする将兵が待ち伏せしてて命からがら逃げたということもあったと記録されています。
ウィキペディアの記述によると、この呂文煥は国家に背いて降伏したもののその戦いぶりから「反逆者」などと非難されることはあまりなく、むしろ同情の目で見られることが多いと書かれています。果たして本当かなと思い中国のサイトなどを覗いてみましたが、中には「漢民族の奸(漢奸)だ!」と非難する人もいましたが、どっちかっていうと「戦うだけ戦いつくした人物じゃないか」、「降伏しなければ元軍に国土が蹂躙されていた」、「それ以外もう手がなかったのでは」などと、確かに擁護する意見の方が多いように見えました。
私も同意見で、先程見た中国語のサイトだと「五年間籠城していた頃は英雄、降伏してからは反逆者だ」なんていう意見もありますが、死ぬことが必ずしも国への忠かと言ったらそうでもないと考えてますし、またフビライ側も彼を優遇することによって南宋の諸都市に安心感を与え、無血開城させ余計な被害を抑えようとした向きもあり、敢えて言うなら「国破れて山河在り」という言葉を実践するのに大きな役割を果たしたと思える人物です。
なお呂文煥は南宋滅亡後も元に重臣として仕え、日本への遠征に賛成していたそうです。また樊城の救援に来て元軍に降伏した范文虎という先程出てきた将軍も同じように賛成したところこっちは1281年の弘安の役に従軍させられ、台風で船が悉く沈む中で将兵を置いたまま命からがら中国に戻ってきましたがそれが後年になってから敵前逃亡だと告発され、1301年に時の皇帝である成宗によって斬首されましたとさ。
南宋末期のキャラは意外と日本にも関わってくるからこの時代は面白かったりします。
・襄陽・樊城の戦い(Wikipedia)
しかし当時の皇帝であり日本への元寇でもお馴染みなフビライ・ハーンは長年の悲願でもある中華統一をめざし、南宋への遠征軍を仕立てると重要軍事拠点であった襄陽・樊城へと軍を進めました。この元の遠征軍に対し南宋側は、当時南宋国内でも随一の将軍であった呂文徳と、その弟である呂文煥に守備させることにさせ、長期間の籠城にも耐えられるよう膨大な物資を運びこんだ上で元軍を待ち構えました。
こうして準備万端整えていた南宋軍でしたが、フビライはかつてこの地の奪取に動いたものの失敗した遠征に同行しており、力攻めが非常に難しいことを理解しておりました。そこでフビライが採った戦法というのも南宋軍と同じく持久戦に持ち込むというもので、補給地をしっかり確保した上で樊城を丸ごと土塁で囲い込み包囲するというこれまたビッグスケールな作戦でした。
これに動揺というかびっくりしたのは南宋軍で、長距離からの遠征軍だからてっきり力攻めを仕掛けてくると思ったら逆に持久戦を採ってきたので肩すかしを覚えつつも、ただ黙ってみているのではなく包囲の隙を突いて何度か攻撃を仕掛けたりしましたが元軍はほとんど反撃せず守り続けるだけで、仕方なく城内へ引き返すだけという有様でした。
そして、五年間が過ぎましたとさ……。
世界史上ではウィーンやコンスタンティノープルなど数年間にも及ぶ包囲戦というのはままありますが、この時の樊城でも長期間の籠城戦が続きました。この間、1271年には兄貴の呂文徳が病死し、また外部から包囲を解こうとほかの地域から送られてきた南宋の援軍が何度か元軍に挑みましたが悉く返り討ちに遭い、この際十万もの援軍を率いた范文虎という将軍は大敗して後に元軍へ降伏しております。
そんな苦しい逆境にありながらも兄の遺志を継いだ弟の呂文煥は必死の抵抗を続けていましたが、本国へ何度も出す救援要請は以前から折り合いの悪かった宰相の賈似道にあまり相手にされなかった挙句、緊急であるという事実すら皇帝には隠されてしまって文字通り手も足も出ない状態が続きました。そこへきて元軍が新兵器の「回回砲」という原始的な木製大砲を用意して攻撃しはじめ、この兵器によって城壁がもろくも崩れ去っていくのを見て呂文煥もついに降伏を申し出て、足かけ五年にも及んだ籠城戦は1273年に幕を閉じます。
降伏した呂文煥は敵ながら見事な指導力と持久力を持つとフビライに評価されそのまま元軍の将軍に任命されます。そしてそのまま南宋の首都臨安(現在の浙江省杭州市)に至る途中で各都市を時には陥落させ、時には説得によって無血開城させ、大いに大功を立てたそうです。ただこの進軍中には降伏したと見せかけ、呂文煥を暗殺しようとする将兵が待ち伏せしてて命からがら逃げたということもあったと記録されています。
ウィキペディアの記述によると、この呂文煥は国家に背いて降伏したもののその戦いぶりから「反逆者」などと非難されることはあまりなく、むしろ同情の目で見られることが多いと書かれています。果たして本当かなと思い中国のサイトなどを覗いてみましたが、中には「漢民族の奸(漢奸)だ!」と非難する人もいましたが、どっちかっていうと「戦うだけ戦いつくした人物じゃないか」、「降伏しなければ元軍に国土が蹂躙されていた」、「それ以外もう手がなかったのでは」などと、確かに擁護する意見の方が多いように見えました。
私も同意見で、先程見た中国語のサイトだと「五年間籠城していた頃は英雄、降伏してからは反逆者だ」なんていう意見もありますが、死ぬことが必ずしも国への忠かと言ったらそうでもないと考えてますし、またフビライ側も彼を優遇することによって南宋の諸都市に安心感を与え、無血開城させ余計な被害を抑えようとした向きもあり、敢えて言うなら「国破れて山河在り」という言葉を実践するのに大きな役割を果たしたと思える人物です。
なお呂文煥は南宋滅亡後も元に重臣として仕え、日本への遠征に賛成していたそうです。また樊城の救援に来て元軍に降伏した范文虎という先程出てきた将軍も同じように賛成したところこっちは1281年の弘安の役に従軍させられ、台風で船が悉く沈む中で将兵を置いたまま命からがら中国に戻ってきましたがそれが後年になってから敵前逃亡だと告発され、1301年に時の皇帝である成宗によって斬首されましたとさ。
南宋末期のキャラは意外と日本にも関わってくるからこの時代は面白かったりします。
2015年12月12日土曜日
荒れ狂う週末
今日手袋を購入するため立ち寄ったユニクロが入るショッピングモール内で撮影したのが上の写真です。画像が小さいためちょっと見辛いかもしれませんが池の中にいるのは金魚で、見ての通り子供たちが金魚すくいならぬ金魚釣りをやってて、「ほんま釣れるんかいなこんなん」とか思ってたら目の前で一匹釣る人が出てきて、慌てて携帯カメラ出したが間に合いませんでした。
なお、自分もちょっとやってみたいなと興味はありました。
そんな金魚釣りを見てから数分後、同じモール内の広場で会ったのがこの遊具です。また急いで撮影したから左の兄ちゃんが主役っぽいですが真の主役は右から中央にあるクレーン車で、なんとこれ、子供用の遊具でした。
写真の奥の方で子供が乗って動かしてますが、クレーン部分が動いて目の前にある枠の中の砂を掻き出して隣に移し替えるという遊び方のようです。地味にいい動きして、「俺もこれやってみたいんだけど」と思いならシャッター切りました。子供ばっかりずるい。
話は少し戻りますが今日なんでユニクロくんだり手袋買ってきたのかというと、単純にそれまで使っていた手袋失くしたからです。自分のような自転車乗りにとって手袋はマジ必需品でこれまでは自転車メーカーGIANT純正のでっかい手袋つけてましたが、この前バス乗った際に社内で脱いでポケットに入れてたら車内で片方だけ落としてしまい、泣くに泣けない状態で雨の中打ちひしがれながら帰宅しました。
仕方ないので買い直そうと今日午前にGIANTのショップ言ってみてきましたが、まぁどれもこれも高いこと。一番安い夏用みたいな薄いんですら99元(約2000円)だからもうちょい安いのを捜そうとあちこち回って、最後ユニクロにたどり着いてヒートテック仕様の手袋を90元(約1800円)でハンマープライスしました。値段そんな差ないけど、もう探すのが途中でばからしくなってしまったので……。
余談ですがこの手の手袋は自転車屋とかで買うよりも、ホームセンターで工具用手袋を買った方がずっといいです。工具用手袋なら物握った時に滑らないよう滑り止めが手の平部分についてるし、また比較的丈夫で擦り切れないものも多く、私なんかはよく3Mの780円くらいの手袋を買って使ってました。フィット感がたまらなくよかった。
そんなこんだして昼飯食って帰宅後、家で一本の電話を掛けました。一体何で掛けたのかというとこのところネットの調子がおかしく、何故かルーターの電源切ってるのにそのルーターから発信される電波が飛び続けており、しかも電源オンの時も時たまネット接続が切れるなど軽いホラー入った状態が続いていたからです。
あくまで仮説ですが、何者かが同じ電波名でWIFI飛ばしているのかもしれません。なんでそんなことするんのかミステリーですが。
ともかくこうした状態を一回見てもらおうと通信業者から聞いた技術者の電話番号にかけたのですが土曜だから一向に出ず、一回だけ繋がって状況を説明すると、「また後で行く時間とか通知する」と言ったっきり、何も通知してきませんでした。その後何度も電話かけるもやっぱり出て来ず、幸いというか昨日はちょくちょくネット接続切れていたのに今日は安定しているのでもう少し様子見ることにします。ってかそれしかできねぇ……。
それにしても手袋失くしたりネットおかしくなったりと、2011年の「運の尽きの一週間」の時みたく悪いことって重なるものです。これに加え今週はもう一つ、運営している海外拠点サイトのサーバー移転のトラブルでも神経すり減らされて色々参った一週間でした。
2015年12月10日木曜日
朝日新聞の行き過ぎな配慮
今日たまたまですが目に留まった記事に、ニュース内容をぼかすあまりに本来の事件内容を誤解させかねないひどい記事を見かけました。
・居眠り女性を盗撮し投稿 女子生徒を侮辱容疑で書類送検(朝日新聞)
上記リンク先がその朝日新聞の記事ですが最初にこれを読んだ際、「電車で居眠りしている女性を無断撮影してネットに上げるのは悪趣味と言えば悪趣味だが、書類送検するほどのものなのか?」と、撮影した女子高生に対してやや大袈裟すぎる対応ではないかと違和感を覚えました。考えられることとしては撮影された側がプライバシーの侵害などで過剰に反応したか、もしくは何かほかに取られてはいけないもの、具体的には下着などが映り込んでいたのかもなどといった考えがいくつかよぎったもののどれも確証は得られず、なんとなく消化不良のような気持ちを抱えたまま一旦は記事を閉じました。
そしたらそうした不満が何かに結び付いたのかもしれませんが、真相をちゃんと伝える記事にすぐ巡り合いました。
・「笑いネタにしたい」障害女性の居眠り姿投稿 侮辱容疑で17歳女子高生を書類送検(産経新聞)
こちらの記事を読んでようやく得心しましたが、書類送検された女子高生は障害を持った方を撮影した上、嘲笑うかのようにしてネットにアップしていたようです。もちろん、事がこうであるのであれば書類送検もやむなしだと私も納得がいきます。
逆を言えばどうして朝日新聞はあんな風に記事を書いたのか、こっちの方が今度は気になってきます。恐らく「障害」という言葉を使いたくなかったためああいう書き方を取ったのだと思いますが、事件内容からするとこの場合は絶対外してはならない、というより外してしまったら事実からむしろ遠ざかる記事になってしまう類のものだったと私には思えます。実際に私も撮影された側が過剰な反応を取ったのではと想像してしまいましたし、こんな風に書くのであればこのニュースに関しては一切記事を書かずノータッチにした方が良かったのではという気すらします。
障害者に対する表現は確かに慎重を期すものでありますが、だからと言って障害という言葉を使ってはならないというわけではありません。そこに存在するものが存在など無いように書くことはかえって失礼に当たるのではないかと私には思え、事実は事実として書いた上で、偏見を産まぬような報道を意識し続けることこそが肝要でしょう。
今回の朝日新聞の記事に関しては明らかに行き過ぎな配慮が見られ、事実を歪めかねない性質を含んでいると思うだけにこの場で強く批判したいと思います。
・居眠り女性を盗撮し投稿 女子生徒を侮辱容疑で書類送検(朝日新聞)
上記リンク先がその朝日新聞の記事ですが最初にこれを読んだ際、「電車で居眠りしている女性を無断撮影してネットに上げるのは悪趣味と言えば悪趣味だが、書類送検するほどのものなのか?」と、撮影した女子高生に対してやや大袈裟すぎる対応ではないかと違和感を覚えました。考えられることとしては撮影された側がプライバシーの侵害などで過剰に反応したか、もしくは何かほかに取られてはいけないもの、具体的には下着などが映り込んでいたのかもなどといった考えがいくつかよぎったもののどれも確証は得られず、なんとなく消化不良のような気持ちを抱えたまま一旦は記事を閉じました。
そしたらそうした不満が何かに結び付いたのかもしれませんが、真相をちゃんと伝える記事にすぐ巡り合いました。
・「笑いネタにしたい」障害女性の居眠り姿投稿 侮辱容疑で17歳女子高生を書類送検(産経新聞)
こちらの記事を読んでようやく得心しましたが、書類送検された女子高生は障害を持った方を撮影した上、嘲笑うかのようにしてネットにアップしていたようです。もちろん、事がこうであるのであれば書類送検もやむなしだと私も納得がいきます。
逆を言えばどうして朝日新聞はあんな風に記事を書いたのか、こっちの方が今度は気になってきます。恐らく「障害」という言葉を使いたくなかったためああいう書き方を取ったのだと思いますが、事件内容からするとこの場合は絶対外してはならない、というより外してしまったら事実からむしろ遠ざかる記事になってしまう類のものだったと私には思えます。実際に私も撮影された側が過剰な反応を取ったのではと想像してしまいましたし、こんな風に書くのであればこのニュースに関しては一切記事を書かずノータッチにした方が良かったのではという気すらします。
障害者に対する表現は確かに慎重を期すものでありますが、だからと言って障害という言葉を使ってはならないというわけではありません。そこに存在するものが存在など無いように書くことはかえって失礼に当たるのではないかと私には思え、事実は事実として書いた上で、偏見を産まぬような報道を意識し続けることこそが肝要でしょう。
今回の朝日新聞の記事に関しては明らかに行き過ぎな配慮が見られ、事実を歪めかねない性質を含んでいると思うだけにこの場で強く批判したいと思います。
2015年12月9日水曜日
危機を切り抜けた名パイロットたち その三
少し間隔が空きましたがまた航空事故の特集です。
7、エアトランサット236便滑空事故(2001年)
事故内容:燃料漏れ 乗客乗員数:306人
カナダのトロントからポルトガルのリスボンへ向け大西洋を横断するルートで離陸した同便は離陸してからしばらくは問題なく飛行し続けましたが、離陸から約4時間後にタンクから燃料が漏れ始めるというトラブルが起こり始めました。燃料漏れの原因はエンジンの整備不良で、旧仕様から新仕様へと切り替わった際に一部の部品が切り替わっていたにもかかわらず、手元に新部品がなかったこととと数ミリ単位の寸法の違いしかないことから旧部品を取り付けたため燃料配管とエンジン本体が接触することとなり、飛行中の振動で配管に亀裂が生じてそこから燃料が漏れることとなりました。
燃料漏れが始まってすぐ機長と副機長は燃料ゲージの異常な現象に気が付いたものの、当初はゲージの誤作動と考え特別な対応をしませんでした。片方のエンジンがとうとう停止したことで事態の急を知ったものの、それからしばらくしてもう片方のエンジンも止まり、燃料切れによって完全なエンジン停止状態で着陸先まで飛行しなければならない事態へと迫られました。
現在の大半の民間航空機にはラムエア・タービンという非常用風力発電機が備えられているため、無線や舵の操縦に使う最低限の電力は確保されていました。ただ動力が完全に使えなくなったため飛行できる距離は制限され、近隣にあった大西洋上にあるテルセイラ島のラジェス空軍基地へ途中で高度を調整しながら向かい、そのまま無事に一人の死亡者も出さずに着陸してのけました。
8、中華航空006便急降下事故(1985年)
事故内容:5Gの急降下 乗客乗員数:274人
台湾のフラグシップキャリアであるチャイナエアラインの同便は台北からロサンゼルスへと向かっていた同便はロサンゼルスまであと550キロメートルという太平洋上で乱気流に遭い、機体の速度を自動操縦で慎重に調整しつつ飛行していました。しかしこの時に航空機関士の排気バルブの設定ミスにより第四エンジンが停止し、それによって機体が左右に偏るのを防ぐため自動操縦のシステムは飛行速度を落としたのですが、その結果設定速度のマッハ0.85を大きく下回る0.75まで落ちてしまいました。
一方、パイロットらは速度の低下に気付かないまま自動操縦でもなかなか姿勢が回復しないので手動操縦に切り替えたところ、ただでさえ落ちていた速度が一気に落ちてしまってそのまま機体は海面へ向かってまっさかさまにきりもみ状で急降下し始めました。その際、搭乗していた人には5Gもの負荷がかかっていたと言われます。
とてつもない負荷がかかりましたが機体の一部が落下中の衝撃で吹き飛んだため偶然着陸装置が下りたため空気抵抗が増して落下速度が落ち、また機長が元軍用機パイロットで5Gでも操縦できるという強者であったことも幸いし、何とかエンジンを動かして姿勢を戻し、なんと水平飛行を回復してそのまま最寄りのサンフランシスコ空港へとたどり着きました。
急激な落下であったため機内では怪我人が出たものの幸い死者はありませんでしたが、文字通り真っ逆さまに墜落する直前での九死の一生と言える事故でしょう。
9、カンタス航空32便エンジン爆発事故(2010年)
事故内容:エンジンの空中爆発 乗客乗員数:469人
シンガポールからオーストラリアへ向かった同便は離陸からわずか数分後、第二エンジンがいきなり爆発しました。爆発したエンジンの破片は周辺の民家などに落ちたものの幸い衝突した住人などはでなかったのですが、その落下物から当初は同便も墜落したに違いないと情報が出たそうです。
一方、そのころ同便では、パイロットたちが冷静かつ的確に事態へ対応していました。というのも同便には機長に対する定期的な試験のため経験豊富なパイロットが五人も乗っており、爆発を受けてシステムには無数のエラーメッセージが表示されていましたが各自が手分けして対応し、操縦桿を握る機長は操縦にのみ集中することが出来ました。
ただエンジンが爆発した際に破片が期待を突き破り、配線を損傷させたため燃料の廃棄、並びにエンジンの停止といった操作が受け付けられませんでした。そんな中でもパイロットたちは落ち着いて旋回、並びに着陸をやってのけ、どうしても停止しなかった第一エンジンは着陸から数時間後に消防が消化液を吹きかけたことによって止まり、乗客乗員は誰一人怪我することなく生還を果たしました。
なおエンジンが爆発したのはメーカーの製造ミスによるものであったため、同型のエンジンを使用していた世界中の航空機が整備・検査のため飛行を見合わせる事態となりました。
10、エアカナダ143便滑空事故(1983年)
事故内容:燃料切れ 乗客乗員数:469人
なんか今日はやたらと燃料切れ事故ばかり取り上げますがこれもその一つで、カナダ国内のケベックからモントリオールへ飛び立った同便は飛行中、燃料切れが発生して全エンジンが止まってしまいました。
一体何故燃料切れが起こったのかというと、実は根深いヒューマンエラーが絡んでいました。当時、航空会社のエアカナダではそれまで使ってきた度量衡のヤード・ポンド法をメートル法へと移行を進めており、同便は初めてメートル法によって航続距離、必要燃料を測定して給油される便となりました。空港での給油の際、必要燃料量は正しく計算されたものの残余燃料量の単位計算でミスをしてしまい、結果必要な追加燃料量からかなり少ない量で給油されたため途中で燃料切れを起こしてしまったわけです。しかもコンピューターには正しい燃料量でセットしたため、計器上は燃料に余裕があると表示されてたもんだからパイロットとしてはたまったもんじゃないでしょう。
突然エンジンが停止したため機内で多くの電気機器が使用不能になる中、機長らはわずかに動く計器類から降下率(一定の高度を降下する間に移動できる距離)を割出し、現在地から着陸できる滑走路を急いで探しました。その結果、副機長のかつての勤務先であるギムリー空軍基地が一番適当だと考えられそちらへ向かったのですが、副機長は知らなかったのですが当時ギムリー基地は民間空港になっており、しかも当日は自動車レースが行われてて多くの家族客が集まっておりました。
そんな状況もなんのその、元々グライダー飛行が趣味の機長はエンジンなしのまま見事に操縦しつづけ、高度もばっちり合わせて多くの家族客が見守る中で滑走路へ着陸し、無事に停止してのけて見せました。ただ着陸地点からすぐ先には家族客が集まっている場所があり、仮にオーバーランしていれば多くの死傷者が出ていたほどきわどい着陸でした。
なおこの事故にはオチがあり、乗客乗員全員が無事に生還を果たした陰で、不時着に備え近くの空港からギムリー基地へ向かっていた整備士はその途上、車の燃料切れによって基地にたどり着けなかったとさ。
7、エアトランサット236便滑空事故(2001年)
事故内容:燃料漏れ 乗客乗員数:306人
カナダのトロントからポルトガルのリスボンへ向け大西洋を横断するルートで離陸した同便は離陸してからしばらくは問題なく飛行し続けましたが、離陸から約4時間後にタンクから燃料が漏れ始めるというトラブルが起こり始めました。燃料漏れの原因はエンジンの整備不良で、旧仕様から新仕様へと切り替わった際に一部の部品が切り替わっていたにもかかわらず、手元に新部品がなかったこととと数ミリ単位の寸法の違いしかないことから旧部品を取り付けたため燃料配管とエンジン本体が接触することとなり、飛行中の振動で配管に亀裂が生じてそこから燃料が漏れることとなりました。
燃料漏れが始まってすぐ機長と副機長は燃料ゲージの異常な現象に気が付いたものの、当初はゲージの誤作動と考え特別な対応をしませんでした。片方のエンジンがとうとう停止したことで事態の急を知ったものの、それからしばらくしてもう片方のエンジンも止まり、燃料切れによって完全なエンジン停止状態で着陸先まで飛行しなければならない事態へと迫られました。
現在の大半の民間航空機にはラムエア・タービンという非常用風力発電機が備えられているため、無線や舵の操縦に使う最低限の電力は確保されていました。ただ動力が完全に使えなくなったため飛行できる距離は制限され、近隣にあった大西洋上にあるテルセイラ島のラジェス空軍基地へ途中で高度を調整しながら向かい、そのまま無事に一人の死亡者も出さずに着陸してのけました。
8、中華航空006便急降下事故(1985年)
事故内容:5Gの急降下 乗客乗員数:274人
台湾のフラグシップキャリアであるチャイナエアラインの同便は台北からロサンゼルスへと向かっていた同便はロサンゼルスまであと550キロメートルという太平洋上で乱気流に遭い、機体の速度を自動操縦で慎重に調整しつつ飛行していました。しかしこの時に航空機関士の排気バルブの設定ミスにより第四エンジンが停止し、それによって機体が左右に偏るのを防ぐため自動操縦のシステムは飛行速度を落としたのですが、その結果設定速度のマッハ0.85を大きく下回る0.75まで落ちてしまいました。
一方、パイロットらは速度の低下に気付かないまま自動操縦でもなかなか姿勢が回復しないので手動操縦に切り替えたところ、ただでさえ落ちていた速度が一気に落ちてしまってそのまま機体は海面へ向かってまっさかさまにきりもみ状で急降下し始めました。その際、搭乗していた人には5Gもの負荷がかかっていたと言われます。
とてつもない負荷がかかりましたが機体の一部が落下中の衝撃で吹き飛んだため偶然着陸装置が下りたため空気抵抗が増して落下速度が落ち、また機長が元軍用機パイロットで5Gでも操縦できるという強者であったことも幸いし、何とかエンジンを動かして姿勢を戻し、なんと水平飛行を回復してそのまま最寄りのサンフランシスコ空港へとたどり着きました。
急激な落下であったため機内では怪我人が出たものの幸い死者はありませんでしたが、文字通り真っ逆さまに墜落する直前での九死の一生と言える事故でしょう。
9、カンタス航空32便エンジン爆発事故(2010年)
事故内容:エンジンの空中爆発 乗客乗員数:469人
シンガポールからオーストラリアへ向かった同便は離陸からわずか数分後、第二エンジンがいきなり爆発しました。爆発したエンジンの破片は周辺の民家などに落ちたものの幸い衝突した住人などはでなかったのですが、その落下物から当初は同便も墜落したに違いないと情報が出たそうです。
一方、そのころ同便では、パイロットたちが冷静かつ的確に事態へ対応していました。というのも同便には機長に対する定期的な試験のため経験豊富なパイロットが五人も乗っており、爆発を受けてシステムには無数のエラーメッセージが表示されていましたが各自が手分けして対応し、操縦桿を握る機長は操縦にのみ集中することが出来ました。
ただエンジンが爆発した際に破片が期待を突き破り、配線を損傷させたため燃料の廃棄、並びにエンジンの停止といった操作が受け付けられませんでした。そんな中でもパイロットたちは落ち着いて旋回、並びに着陸をやってのけ、どうしても停止しなかった第一エンジンは着陸から数時間後に消防が消化液を吹きかけたことによって止まり、乗客乗員は誰一人怪我することなく生還を果たしました。
なおエンジンが爆発したのはメーカーの製造ミスによるものであったため、同型のエンジンを使用していた世界中の航空機が整備・検査のため飛行を見合わせる事態となりました。
10、エアカナダ143便滑空事故(1983年)
事故内容:燃料切れ 乗客乗員数:469人
なんか今日はやたらと燃料切れ事故ばかり取り上げますがこれもその一つで、カナダ国内のケベックからモントリオールへ飛び立った同便は飛行中、燃料切れが発生して全エンジンが止まってしまいました。
一体何故燃料切れが起こったのかというと、実は根深いヒューマンエラーが絡んでいました。当時、航空会社のエアカナダではそれまで使ってきた度量衡のヤード・ポンド法をメートル法へと移行を進めており、同便は初めてメートル法によって航続距離、必要燃料を測定して給油される便となりました。空港での給油の際、必要燃料量は正しく計算されたものの残余燃料量の単位計算でミスをしてしまい、結果必要な追加燃料量からかなり少ない量で給油されたため途中で燃料切れを起こしてしまったわけです。しかもコンピューターには正しい燃料量でセットしたため、計器上は燃料に余裕があると表示されてたもんだからパイロットとしてはたまったもんじゃないでしょう。
突然エンジンが停止したため機内で多くの電気機器が使用不能になる中、機長らはわずかに動く計器類から降下率(一定の高度を降下する間に移動できる距離)を割出し、現在地から着陸できる滑走路を急いで探しました。その結果、副機長のかつての勤務先であるギムリー空軍基地が一番適当だと考えられそちらへ向かったのですが、副機長は知らなかったのですが当時ギムリー基地は民間空港になっており、しかも当日は自動車レースが行われてて多くの家族客が集まっておりました。
そんな状況もなんのその、元々グライダー飛行が趣味の機長はエンジンなしのまま見事に操縦しつづけ、高度もばっちり合わせて多くの家族客が見守る中で滑走路へ着陸し、無事に停止してのけて見せました。ただ着陸地点からすぐ先には家族客が集まっている場所があり、仮にオーバーランしていれば多くの死傷者が出ていたほどきわどい着陸でした。
なおこの事故にはオチがあり、乗客乗員全員が無事に生還を果たした陰で、不時着に備え近くの空港からギムリー基地へ向かっていた整備士はその途上、車の燃料切れによって基地にたどり着けなかったとさ。
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