ページ

2016年9月12日月曜日

本名とハンドルネームの狭間で

 先日、リクルートスタッフィングに対して数年ぶりに電話取材を敢行した際、電話口で最初に述べた第一声は、「お忙しいところ失礼いたします。私、フリージャーナリストの花園祐という者です」という口上だったのですが、これを言いながら、「何がフリージャーナリストやねん、っていうか花園祐って誰やねん(笑)」と思えてきて吹き出しそうになりました。
 言うまでもありませんが「花園祐」というのはハンドルネームであって本名ではありません。本名はこのハンドルネームと一文字も被っていないどころか文字数も違うし、高校時代に使っていた筆名もまたこれとは異なるのでこっから私の人物を特定するのはほぼ不可能と言えるのですが、冷静に考えるとこのブログを通して私のハンドルネームを知っている方は恐らくそこそこいて、多分その数は確実に私の本名を知っている人数を上回っていることでしょう。

 なもんだから、果たして自分の名前としてどっちが適当なのかなとふと思う時があります。本名は戸籍にも使われている名前だし法制度的には間違いなくこっちの方に分がありますが、こと人物の識別、伝達においてはハンドルネームの方が圧倒的に優位です。っていうかブログ始めるに当たってパッと思いついた名前だというのにそこそこ浸透してきたなと思えてなんかいろいろと複雑です。
 なお名前の「祐」という字は友人の名前から一字拝領したものですが、その友人からは私のハンドルネームについて「少女漫画家っぽい名前に見える」と言われ軽いショックを受けました。

 そんな名前にこだわりは持っていませんが、今後も外で活動する際はこのハンドルネームを使っていくんだろうなと思うと意外と付き合いが長くなる名前のようにも思います。そういう意味では変に中二病っぽい名前にしなくて正解だったなと思うと共に短いので書きやすい点ではプラスであったでしょう。最近巷では変な名前を子供に名づける親が多いというしかつては忌字であった花の名前(咲いてしおれることから若死にを暗示するため)も平気でつける親も多いですが、伏兵的な意味で平凡な名前にした方が何毎も便利でいいと今のハンドルネーム使ってて思います。
 なお、日本史上で最初のDQNネームを使った名付け親は子供にマリアやフリッツと漢字当て字でつけた森林太郎で間違いないでしょう。

2016年9月11日日曜日

日本の火砲の運用史

 なんか昨晩からずっと記事を書いてるような気がするのですがどうかしたのだろうか。金曜の晩、大学の先輩を始めとしたメンバーと夜中に漫画喫茶で「いただきストリート」をしたのが何か影響したのかもしれません。なおゲームは四人対戦で後半までずっとビリでしたが終盤に脅威の巻き返しを図り二位につけてやりました。
 さてこのところ中国、西欧の火砲というか火薬の軍事運用史を追っかけてきましたが、最終回として「誰も知らない、日本の恐ろしい火薬運用話」を展開します。ぶっちゃけほとんど火縄銃ネタですが、あんまこの辺の解説をする人少ないんだよね。

 日本と火薬のファーストインプレッションはみんな大好き13世紀の元寇です。この戦いでモンゴル軍は日本側からすると「てつはう」と呼ばれる手榴弾兼音響弾を使い、幕府側の資料にも記録されたほど兵器として注目されました。ただ注目されはしたものの深追いは全くなされず、そのため火薬自体の存在は伝わったかもしれませんが日本に定着することはなく、西欧と違って火薬の活用はこの時は全く行われないまま数百年を過ぎることとなりました。

 そして来る16世紀、具体的には1540年代前半に火縄銃が日本に伝来することとなります。この伝来時期と伝来方法については現在議論の真っ最中で、従来の様に1542年に種子島から伝来したという説よりかはほぼ同時期に近畿地方などにも伝わったとする説の方が真実味が感じられるのですがそれは置いといて、とにもかくにも1540年代に伝わって以降、火縄銃は日本で大ヒットすることとなるわけです。
 それから約60年後、1600年の関ヶ原の戦い時点で日本が保有していた火縄銃の数は50万丁を越えていたとされ、これは当時世界にあった銃火器の約三分の二にも達するという研究が出ています。

 これをヨーロッパ側の視点で見ると、流れ着いた島国の原住民が「売ってくれ」というから火縄銃を数丁売ってやった所、翌年にまたやってきたらそっくりそのまんまコピーして(発射機構はやや怪しかったそうだが)火薬の量産まではじめており、それから数十年で世界最大の量産国になっていたりと普通に考えてなんかおかしいです。戦国時代であったことからそれだけ需要があったというのはわかりますが、文明的に当時日本を上回っていた中国より先に量産体制を確保したばかりか三段撃ちを始めとする効果的な運用方法も西欧に先んじて独自に編み出し、朝鮮出兵時の序盤では朝鮮軍と明軍を実際に圧倒しています。
 一体何が日本人をこれほどまでに火縄銃へと駆り立てさせたのかいまいちよくわかりませんが、こと銃火器に限れば当時の日本は間違いなく世界ナンバーワンだったと断言していいでしょう。ただ銃鍵のカテゴリーであれば通常の火縄銃、バレルを延長した火縄銃、口径を大きくしたハンドカノンなどバリエーションを広げましたが、西欧と違って大砲を量産するにまで発展しませんでした。

 大砲自体は木砲を自作したり、ポルトガルから輸入して大阪の陣で運用されたりなどしましたが、日本国内で本格的に量産するまでには至りませんでした。背景としては二つあり、一つは大型の金属製大砲を自作するほど鋳造技術が足りなかった、もう一つは戦国時代が終わって需要が亡くなったためです。特に後者の影響は大きく、江戸時代に入って以降は農民反乱を防ぐためにも所持が制限されて、標準装備する鉄砲隊や狩猟に出る猟師以外には持たされなくなり全体の保有数も減っていき、また改良自体も行われないまま明治維新まで時が経ったわけです。

 それにしても戦国時代の量産量は異常というよりほかなく、別の視点から見ると火縄銃の軍需産業規模は一体どれほどあったのか非常に気になります。これだけの量であったことから輸入量を差っ引いても相当な人間が鉄砲生産に関わっていたとみられ、日本全国単位でのキャッシュフローにも大きな影響を与えていたことでしょう。仮にこの時の水準のまま発展していればとんでもない銃火器も作っていたのでは、下手すればビームライフルやレールガンなども作れていたのではないかと思いつつそりゃないかと我に返る次第です。

2016年9月10日土曜日

続・永田寿康元議員の自殺について

永田寿康元議員の自殺について

 上記記事は2009年に私が書いた記事ですが何故か今現時点でやたらとアクセス数が高くて困惑しています。っていうよりもこの件についてはほかにも書いてる人がたくさんいるというのに何で私の所ばかり来るのかもわからないのですが、書かないよりは書いてあげた方がいいなって気がするので一応「その後」の話を書いておくことにします。
 にしても上の記事書いたの七年前か、この頃は新卒で入った日系企業で文字通り「髀肉の嘆」をかこっていたな。七年前の自分が今の姿になるとはいくら自分でも想像できなかったろう。

ついに逮捕!「偽メール事件」で議員(故・永田寿康氏)騙した“サギの天才西澤孝・40”の手口(FLYDAY)

 結論から言うと、永田元議員が議員辞職してその後に自殺へと至るきっかけとなった偽メール事件でメール文を偽造したとされる西澤孝は、その後も詐欺を繰り返し続けて逮捕立件されていました。

 この西澤孝は偽メール事件を引き起こす前も、元プロ野球選手で先日大麻で捕まった清原容疑者の現役時代に彼の行動について事実とは異なる取材記事を週刊誌に書いたことにより清原容疑者に訴訟を起こされ、その記事を掲載した週刊誌に多大な賠償金支払い命令が下される判決を招いています。なおこの時の裁判結果を受けてどの週刊誌も訴訟リスクを検討するようになり、以前と比べて憶測、というか妄想の類の記事は掲載しない方針となっていったのですが週刊新潮はそうでもなかったようです。

 色々と説が飛び交っているものの、永田元議員は西澤孝の直接の知り合いではなく、別に信頼する人間を仲介して知見を得て例のメールを得たとされ、その仲介した人物を深く信頼していたことからその内容をまるっと信じ込んだと言われています。もっとも、あの内容と文面で信じたこと自体が異常極まりなく、なんの裏付けも行っていなかったことから言っても週刊誌記者と同レベルの判断力だったとしか言いようがないのですが。

 それにしてもカスはカスで余計な毒を社会のあちこちにばらまくだけばらまくのだなと、その後の成り行きを見るにつけ思いにふけます。極端なことを言うと、世の中には弁護のしようがないほど本当にどうしようもない人間は確実に存在しており、下手に野放しにするくらいなら殺害するか隔離した方がその周囲を含めて絶対にプラスだと思える人間がいます。先日、和歌山で起きた発砲事件然り、この西澤孝然り、早めに処分なり追放なりしないからこういうことになるのだと思えてならず、もう出所しているかどうか知りませんが出所したらしたでまた同じようなことをしでかすに違いないと考えています。

 もっとも、永田元議員が惜しまれるような人材だったかとなると自分でも少し疑問符はつくのですが、あれほど頭の回転が速く切り返しの強い政治家は現時点においても私が見る限りおらず、この点に関しては誠に稀有な人間だったと太鼓判を押します。私の知る限りあれほど言い合いが強い人物となると元オウム真理教の上祐史浩氏くらいなもので、私の中ではこの二人が未だにトップツーです。

 紙幅がやや余っているので最近の政局について述べると、社民党が実質的に滅んだ今、民進党はそのまま社民党と同じ崩壊への道をこれから辿ることになると予想しており、蓮舫氏が代表になることはまさにその第一歩になるでしょう。女性に政治が出来ないなんて言うつもりはなく単純に代表としての資質や能力に欠ける上、それを支える人材もいないためですが、一番致命的なのは本人らがそれを自覚していないことで、補完するための努力を明らかに怠っています。現時点で代表たり得る人物は私が見る限り野田元首相しかおらず、彼の名が出てこない一点を通しても組織として民進党は疑問を覚えずにはいられません。

西洋の火砲の運用史

 前回に引き続きまた火薬の軍事利用に関する歴史を追っていきます。前回は火薬の発明国でありながら軍事転用に関しては軽い手榴弾レベルからなかなか発展させることが出来なかった中国を取り上げましたが、今回はある意味本場の西欧世界での運用を取り上げます。

<フス戦争での火器運用>
 西欧に火薬が伝わった時期についてははっきりとわかっていないものの、おおよそ11~12世紀頃であると推測されています。伝来方法はかつて紙がタラス河畔の戦いで中国から中東経由で伝わったように、大陸を席巻したモンゴル軍団の西欧・中東世界への侵略に伴い火薬も伝わったと見られています(異説もあり)。
 火薬が西欧世界へ伝来した後、その軍事転用は早くも行われ英仏百年戦争の時点で簡易的な大砲が出現したとされます。用途としてはやはり攻城戦で使われることが多く、大砲の発射に使ったり城壁の爆破などと補助兵器として使われたそうですが、それが戦争に対して大きく影響を及ぼすようになったのは15世紀前半にチェコで起こったフス戦争からです。

 気に入らない人間を窓から投げ捨てることに定評のあるチェコ人によって起こったこの宗教戦争で一般大衆によって構成されるフス派についた傭兵のヤン・シジュカによって、まだ非常に原始的だったマスケット銃が組織的に運用されたほかこれまた簡易的なハンドカノンなども応用され、戦局に大きな影響を与えました。
 この時使われたマスケット銃はまさにこの15世紀前半に発明されたばかりで、その後ドイツで徐々に量産体制が作られていきヨーロッパ中に広まっていきました。

<大砲デビュー>
 このフス戦争と共に火薬の軍事利用において大きな契機となったのは、1453年のコンスタンティノープル包囲戦です。この戦争は東ローマ帝国ことビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)がオスマントルコのメフメト二世により攻撃され陥落し、ビザンツ帝国が滅亡した戦いになるのですが、この戦争でメフメト二世はウルバンという名のハンガリー人技術者を雇い巨大な大砲、俗に言う「ウルバンの大砲」を作らせ、これによって城壁の外から攻撃を行いました。
 このウルバンの大砲は青銅で作られたものですがその全長はなんと8メートルにも達し、現代人の目から見てもとてつもなく巨大な大砲でした。発射するのは鋼鉄の砲弾ではなく主に岩石だったそうですがその重さは500kgを越えるとされ、技術が浅かったことから一回の八社ごとに数時間のインターバルが必要であったり、運用開始から6週間程度で壊れて使えなくなったもののその効果と威力は凄まじく、攻城戦における大砲の有意性に対する認識を大いに高めてこれ以降、西欧各地で大砲の生産、装備が進んでいきます。
 なおウルバンは当初、ビザンツ帝国に自分の設計案を売り込んだそうですが拒否されただけでなく逮捕されかけ、逆にオスマントルコへ売り込んで作ったそうです。罪な男ではあるが技術者魂は強く感じる。

<違いは鋳造技術?>
 こうして西欧は中国に先駆け、銃と大砲を兵器として自らの戦術に取り込んでいきます。一体何故、火薬を発明した中国に先駆けて西欧でこれらの火薬兵器を運用するに至ったのかその背景を私なりに述べると、一つは中国がその爆発力と音響力に着目したのに対し西欧では推進力、弾丸を発射する方向で発展せしめたのと、火薬兵器の母体となる銃や大砲といった金属器の鋳造技術が優れていたからではないかと見ています。専門でないため詳しくわかりかねますが一見すると鋳造技術では西欧の方が中国を上回っているようにみられ、食器とかも西欧では金属製だったことも影響しているのかなと勝手に考えています。

 話は戻りますがこうして西欧各地で銃と大砲がバンバンつくられるようになり、大航海時代には標準的な装備兵器として定着していきます。特にスペイン人の南米への侵略においてはこれら火器が威力を発揮してごく少数の部隊で現地住民を屈服せしめるほどで、火器の有用性はますます高まっていきました。特に海戦においてはそれまでは船体を突っこませ、相手の船に乗り込んで白兵戦を行うというスタイルから、銃や大砲で双方打ち合うというスタイルに大きく様変わりし、これはそのまま現代においても変わりありません。

 銃火器単体を取ってしてもイェニチェリドラグーンといった銃を基本装備とする専門の花形部隊も生まれ、列強が形作られるようになってきた三十年戦争等になってくると銃火器武装なしではあり得なくなってきます。なお西欧では火薬の原料となる硝石が貴重だったことから火薬生産は基本的に国家事業で運営され、生産方法が確立された後でもインドからの輸入が多かったそうです。

 最後ですが、火薬というか大砲を使った戦争においてもっとも大砲を効果的に活用したのは間違いなくナポレオンでしょう。彼自身が砲兵隊出身ということもあって砲兵戦術を熟知しており、ヴァンデミエールの反乱において一般大衆目掛けて大砲をぶっ放してその地位を確立させたことといい、大砲とナポレオンは切っても切り離せない関係にあります。もっとも彼の場合は騎兵や歩兵の運用でも神がかっており、三兵戦術を完成させていますが。

2016年9月8日木曜日

中国の火砲の運用史

 ちょっとブログ記事で洩らしたところコメント欄でリクエストを求められたので、中国の火砲の運用史について昨夜の一夜漬けの成果をお見せします。

 まずそもそも火砲の定義とは何なのかですが、現在では一般的に「大砲」と同義とされています。ただ火器全般のことを「砲」とも呼び、また広義的には「火薬を使った兵器」とも言えるので、今回の記事では近代的な大砲はそれほど取り扱わずに火薬の発明からそれを用いたごく初期の火薬兵器についてその発展段階を追います。

<火薬の発明>
 まずそもそもの火薬ですが、これは中国四大発明に加えられるほど画期的なもので中国発祥であることは間違いありません。ただ発明時期とその瞬間については諸説あり、時期に関しては大体6~7世紀頃とされ(その時代の資料に火薬らしい物品の説明が登場する)、どうやって発明されたかについては説がたくさん分かれているものの、薬剤師が自前の薬を練っている最中に偶然発見した、っていうか急にパンって破裂してビビったというエピソードが個人的に好きだしありそうな気がします。

<それは爆竹から始まった>
 発明された直後はまだ生産量も少なく品質も悪かったためか民用はおろか軍用にもほとんど使用されなかったものの、大体10世紀の宋の時代辺りから徐々に軍事用途として活用が広がっていきました。ではこの時代の中国でどのように火薬が兵器として使われたのかというと、結論から言ってしまうと当初は爆竹として用いられたもようです。

火槍(Wikipedia)

 この時代の火薬兵器は決して冗談でもなく紛れもない爆竹で、竹筒の中に紙で撒いた火薬を仕込み槍の先につけ、敵に突き出したところで破裂させるというまさに爆竹そのものでした。目の前で破裂させてどないすんねんとツッコミが来そうですが殺傷目的というよりは音響による威嚇目的としての意味合いが強く、使用場所も城壁を登ってくる兵に向かって使ったりしたほか、北から馬に乗ってやってくる異民族の軍団に対してその乗っている馬を驚かす目的で使うことが多かったそうです。
 一応、中には物を詰めることで爆発共に発射させて殺傷する兵器もあったそうですが、火薬を詰める竹が構造上脆いこともあってそれほど強くなく、また火薬が悪かったことから一斉射撃も行えなかったそうです。多分当時の人も、これなら弓の方がずっとマシだと思ったことでしょう。

<てつはうという手榴弾>
 もっとも殺傷目的での火薬運用も全くなかったわけではなく、陶器でできた玉の中に火薬を仕込み導火線をつけ、火をつけた後で敵に向かって投げつけることで中の火薬が爆発し、外側の陶器が割れてその破片が飛び散ることで攻撃する兵器、日本風に言えば元寇時の「てつはう」もこの時代辺りから登場したそうです。この兵器は爆発力こそ現代とは比較になりませんが手榴弾そのもので、実質的に直接攻撃する用途で火薬を用いた兵器としてはこれが最初なのではないかと思います。
 しかしこのてつはうも手榴弾として使うよりかはやはり音響による威嚇効果目的の方が大きく、使う相手としても異民族がメインだったようです。なお外側の衣には陶器のほか鉄を用いた者もあり鉄球の手榴弾も存在したそうですが鉄球と聞くと無性に、「祖先から受け継いだ鉄球ッ!」と叫びたくなります

<モンゴル軍による火薬運用>
 こうして徐々に火薬の兵器利用が進みましたが、宋の時代はあくまで支援兵器的な役割が大きかったもののその宋を平らげた元ことモンゴル軍は火薬兵器に着目し、先程出てきたてつはうなどをより大規模に活用し始めました。また非常に原始的ではあるものの金属製の筒の中に石とか物を詰めて火薬で発射する、現代でいう「銃」もこの頃に中国で発明されましたが、生憎この銃の形態はそれほど発展せずに終わってしまいます。
 モンゴル軍が火薬兵器を活用したことは日本も元寇で体験済みですが、それ以上に影響が大きかったのは西洋世界です。遥かヨーロッパくんだりまで侵略したモンゴル軍によって中東、西欧にも火薬が伝わったことで(アラビア商人が伝来させたという説もあり)、西欧でも火薬の軍事利用がこの後ドンドン広がっていく、というかあっという間に中国を追い抜いて行ってしまいます。

<西洋に対する周回遅れ>
 明の時代に移ると、火薬の生産量も高まってきたことから軍事用にもたくさん使われるようになってきます。特に明を建国した朱元璋は戦闘で火薬を率先して使ったと言われており、火薬に関する軍事指南資料もこの時代によく書かれています。
 ただ火薬を使うと言っても、その推進力を使って弾丸を発射する銃はほとんど全く使われず、どちらかといえば攻城戦の際に城壁を破壊したりするために爆発力を利用するケースがほとんどだった模様です。一応、宋の時代に木製大砲(木砲)、元の時代に青銅製の大砲が出ており、元末から明初期にはこの木砲が反乱を起こした民兵がこぞって大量に使っていたとありますが、西欧ではこの辺の時代からマスケット銃を量産してアメリカ大陸を侵略したりし始めたのと比べるといまいち進化が遅いように感じます。

 実際、明が成立して戦争が減ると中国の火薬の兵器利用は西洋にますます後れを取り、それどころか火縄銃が伝来した日本にすらも運用面で遅れてしまっていたように見えます。実際、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に明軍も戦っていますが、朝鮮軍ともども日本軍が集中的に運用する火縄銃の前に序盤はずっと苦戦しっぱなしでした。

<西洋伝来の大砲で>
 極めつけは明末期、満州族が中原に侵略し始めた際に山海関の防衛戦で袁崇煥という元文官の武将がポルトガルから大砲を取り寄せ防衛を行い、敵軍を散々に蹴散らすという大活躍を収めています。なお満州族を束ね後の清王朝の太祖とされるヌルハチはこの戦闘で負った傷が元でそのすぐ後に亡くなっています。
 この戦闘が示す事実としては、大砲の製造、そして運用面で中国は西洋に対しこの時点で大きく劣っていたということです。自前で作れるのなら輸入なんてしないし、また敵軍である清軍も対抗策がなかったということは中国本土でこのような火砲がほとんど運用されていなかったとも考えることが出来ます。

 非常に残念な話ですが火薬の発明こそ中国であるものの、その火薬の軍事利用においては伝来先の西欧の方が格段に早く進んでしまいました。この理由についてはまた次の記事で書こうかと思いますが、百年戦争を始め軍事的需要が高かったことと、大砲を作る鋳造技術が上回っていたことが大きいのではと思います。
 その後、清によって中国が統一されて平和な時代が訪れるとますます火薬を使った軍事研究が西洋に比べて遅れ、後のアヘン戦争時にはどうにもならないほどの大きな差をつけられることとなったわけです。

2016年9月6日火曜日

遼寧省のGDPマイナス成長要因について

 最近現場から離れてめっきり中国経済をチェックしなかったのを反省して少し本腰入れてこれまでに出ている経済指標を細かくチェックし直しておりましたが、ほんと今まで全く気づいていなかったのですが私の知らないところで遼寧省のGDPがマイナス成長していました。

一季度GDP排行出炉:东三省仍垫底 辽宁首现负增长(中国経済網)
辽宁经济增速连续第二个季度负增长 短期转正无望(鳳凰網財経)

 リンク先はどちらも中国語のニュース記事ですがその内容はというと、遼寧省の第1四半期GDP成長率が-1.3%、上半期も-1%というマイナス成長を記録したことが報じられています。なお地方別GDP成長率でマイナスを記録したのは遼寧省だけで、このニュースはメディアの反応を見る限りだとかなり衝撃的に受け止められているようです。

 一体何故、遼寧省だけがマイナス成長となったのか。いくつか出ている報道の中には中央政府から派遣された査察官が厳しくチェックしたことによりこれまでのように成長率を水増しすることが出来ず、逆に今まで水増ししていた分が足かせとなってマイナスとなったという指摘が出ている辺りは中国らしいです。
 ついでなので解説しておきますが、中国の全国GDP成長率は北京の中央政府によって測定されるのに対し、地方別のGDP成長率は各地方の統計局が測定して出されており、地方政府は自分たちの功績を高めるためにこの値を水増ししていることはほぼ間違いありません。根拠としては発表された地方別のGDPの合計を出すと全国のGDPを毎年上回っているためで、「これは俺が初めて指摘してやったんだぞ!」と、新聞社時代の上司が自慢げに言ってたのを「はいはい」って聞き流していました。逆を言えば、全国のGDPはある程度の誤差はもちろん存在するかもしれませんがそれほど大きくは弄られてはいない一方、地方別のGDPは弄られている可能性が高いと言え、よく中国の統計発表は信用できないと言われますが全国GDPはそこまで疑わなくてもいいのではと私は考えています。外資系シンクタンクも一応予測してるんだし。

 話は本題に戻りますが、遼寧省がこれまで数字を弄っていたのがばれたから今回マイナス成長に陥ったと見ることもできますが、実態としても遼寧省を含む中国東北地方の経済状況は悪化しているように見えます。
 その理由はいくつかの記事でも指摘されていますが、遼寧省は石炭や鉄鋼といった重厚長大な大規模重工業産業が中心の地域で、現在世界を覆っている製造業全体の不況の直撃を受けていることは疑いようもない事実です。特に、もはや「中国経済の癌」といってもいい鉄鋼業の業績悪化は大きく、中国国内でも屈指の鉄鋼メーカーである鞍山鉄鋼を始め財務諸表を見るだに胃が痛くなるような惨憺たる真っ赤な業績を各社揃って叩き出しています。

 またこれは私の視点ですが、遼寧省を含む東北地方には政府が所有権を持つ国有企業が多いことも要因として大きいのではないかと思います。国有企業は現在、日本語で言えば親方日の丸体質が影響して非効率な経営や設備の老朽化によってどこも経営がおかしくなっており、中国政府も民営化を含めた国有企業改革が喫緊の課題だと述べ対策に乗り出していますが、今のところ大きな効果はまだ出ていません。

经济负增长,东北人幸福感并不低(新京報)

 上は今回調べている最中に見つけたニュースですが、マイナス成長ではあったものの東北地方居住者の平均収入、消費額は落ちるどころか上昇を続けており、幸福感も低くないということを報じています。この記事を見てどう思うかは人それぞれでしょうが私としては「あかんなぁ」と思える記事内容で、その理由はというと企業業績が落ちているにも関わらずリストラが全く行われていないのではと思えるからで、日本の「失われた十年」こと1990年代が頭をよぎったからです。
 これらの報道を総合するに、遼寧省では経済の構造転換が進んでおらず国有企業改革もうまくいっていないからマイナス成長となったのではと私はみています。構造転換の必要性は中国メディアも厳しく指摘しており取り組むべき課題はしっかりと認識できているものの実行にはまだ至れておらず、端的に言えば非常によくない状況だという気がしてなりません。

 一応、遼寧省大連市なんかはソフトウェアパークを作ってIT産業を盛り上げようと頑張ってはいますが、日本もかつて同じ失敗してますが二次産業の売上高を三次産業で埋めようったって規模が違うためそうは簡単にはいきません。なおそのソフトウェアパークには日系企業も数多く進出しており、旧満州に含まれる遼寧省全体は日本にとっても非常に重要な中国の進出先であるためこのGDPマイナス成長のニュースはもっと日本でも報じられてもいいと思うのですがあんまり報じられてなかったのか私もチェックしきれていませんでした。なんで報じひんねん。

 なもんだから自戒を込めてこうして記事書いて紹介しようと思ったのですが、最後に中国の今の景況感について述べると実は掴み辛い環境に自分は置かれているなとこのところ思います。というのも今、サービス業界に身を置いていて製造業を始めとした不況の影響を全く受けない立場にあり、社内においてもそうした景況感が反映され辛くいまいちピンと来なかったりします。
 一方で、自分のセンサーというか社会に対する感覚は年々その鋭さが増しており、内心やばいんじゃないかと思うくらい細かい核心的な情報をかっさらうかのように拾ってくる回数は増えています。なのでちょっと中国経済ニュースに対して勘は鈍っているもののすぐに追いつくだろうという妙な確信を持っており、今日書いたニュースもそういった方面の何かのきっかけだろうなと考えています。

  補足
 ふと疑問に感じて調べてみましたが、日本って都道府県別GDP成長率の四半期ごとの統計を出していないようですね。よく中国のデータが捏造だなんだいいますが、自分もデータ出してから言えよってちょっと思いました。アジア人は総じて統計に弱いとはいえ、頑張る努力位は見せてもらいたいものです。

2016年9月5日月曜日

西郷隆盛を取り扱う難しさ

 歴史記事を最近書いてないなと思って何か書くネタはないかと今日の昼間くらいから思案に暮れていましたが、最近だとどの程度のレベルが普通の人に歴史ネタとして受け入れられるのかちょっと自分でも境界がわからなくなっており、東北地方の貨幣流通時期とか中国の火砲の運用史とかやろうかなと思う度にマニアック過ぎるだろうと思い直して書くのをやめるというのをこのところ繰り返しています。
 そんなわけで、2018年の大河ドラマにも堤真一氏主演で決まったわけなので西郷隆盛についてその歴史上の立ち位置に関する話を今日はすることにしました。

 西郷隆盛といえば鹿児島県民からすれば神に匹敵するほど崇められている存在で、真面目な話、鹿児島のキリスト教徒は神、イエス、マリア、西郷の四位一体説を唱えてるんじゃないかと思うくらい地元で崇拝されています。もっとも鹿児島県民に限らなくても歴史の教科書では重要人物扱いされてて普通に教育受けていればまずその名前は聞き覚えがあるほど有名な人物であることは間違いありません。
 実際、明治維新において西郷は最重要人物の一人として扱われており、これは戊辰戦争後に行われた論功行賞(賞典録)で藩士としては最高となる2000石を得ていることから、当時としても維新の最高功績者として見なされていました。また現在においてアンケートを取れば最も人気のある歴史人物としては恐らく織田信長となるでしょうが、戦前においては西郷隆盛が常にトップだったそうです。

 そんな西郷ですが、彼を日本史においてどのような立ち位置の人物として捉えるかは非常に難しかったりします。というのも単純に彼の行動や思考、目的が生前の行動からだと掴み辛いということに加え、人気が高いゆえか虚実入り混じったエピソードが枚挙に暇がないからです。恐らく私以外でこんな話を引っ張って来れる人間はまずいないでしょうが、文豪の芥川龍之介もこうした西郷を取り扱う難しさを「西郷隆盛」という短編小説に書いており、大正期においても根強く生存説が唱えられていたほか歴史学として扱うには非常に難しい人物であることを紹介しています。

 あくまで私個人の実感で述べると、世間に伝わっている西郷に関するエピソードのうち約半数は尾ひれがついたもの、言い換えれば伝説とか神話のように事実に基づいたものではないと考えています。西郷のエピソードは探せばいくらでも出てきますが、それらに対する出典等の裏付けはよくよく見てみるとどれもはっきりしないものばかりに見え、ついでに言えば断片的な話ばかりです。
 また確実に西郷が行ったという発言や行動を取ってみても、どうもはっきりしないというか本当はどっちの立場にいたのかよく見えない不気味さがあります。いくつか例を出すと山形有朋を支援して徴兵制を推し進めておきながら士族救済のために私学校を設立したり、征韓論においても急進派を抑えるためだったのか本気で朝鮮に乗りこむつもりだったのか、研究者の間でも未だに意見が割れています。もっとも、大久保利通は江華島事件を見るだに初めから征韓論は実行に移す気であり、慎重論を唱えたのは西郷を含む一部政府メンバーの追放が本来の目的とみて間違いないでしょうが。

 こうした西郷の一種の不気味さは取り上げる題材にも現れており、大半の小説や漫画では許容力のある人格者として描かれるものの一部作品では暗殺を含む非合法手段も冷徹に実行する参謀として描かれることがあり(大河ドラマ「新撰組!」など)、本当は一体どんな人物像だったのか、出会った人間は皆、「どっしりとした大人物」と述べていますがそれすらも仮面であったのではないかと疑ってかかるべきでしょう。

 現時点で私の西郷評を述べると、薩摩人というよりは京都人のようなイメージで、本音を一切表に出さず腹の底が見えないタイプだったのではないかと見ています。征韓論に関しても交渉が決裂して自分が朝鮮側に斬られればそれで戦争の口実にできると述べていますが、いくら当時の情勢であっても外国の使者を朝鮮王朝が殺害するとはとても思えないだけに何故このような発言をしたのか、一種のブラフではないかと思う節があり、本当の狙いというか目的を絶対に見せないしそれを平気で覆い隠してしまうようなものを西郷には感じます。もっともそれを言ったら明治維新も尊王攘夷を旗頭に徳川を倒しておきながら、維新後は開国政策を採って徳川のみならず廃藩置県で全士族を滅ぼしていますが。
 最後の西南戦争においても、初めから政府軍に負けることがわかっていながら大将に担がれたと言われていましたが近年の研究では少なくとも大阪までは進軍する気満々だったとも言われ、これまた本音はどっちだったのか全く見えてきません。やはり人気が高すぎる故、踏み込んだ検証や批判を行い辛い面があり下手に歴史学で取り扱えば火傷する対象であることには間違いないでしょう。

 最後にここまで記事を書いて本音が見えない人物だと何度も書いてたら、「メタルギアソリッド」というゲームに出てくるリボルバー・オセロットみたいな人物だったのかなと変な想像をするに至りました。結構しんどそうで書くのを一旦あきらめたんですが、こっちのメタルギア関連でこの前浮かんだテーマ記事もまた今度書こうかなぁ。